2021年10月24日日曜日

ロックにおけるPAの歴史。



<PAとは何か>

そもそもPA(ピーエー)って何なん?

ライブ、クラブでPAという言葉を耳にしたことはありますよね。
音楽イベントで音を出すためには不可欠なものというのは漠然と分かる。
が、いまいちPAが何なのかよく分からないというという人もいるのでは?


ざっくり言うと、PAとは。。。
楽器や歌などの音を増幅させたりバランスをとり会場全体に充分な音量の
H-Fi音を届ける(言い換えるとどの席でも迫力のあるいい音が聴ける)ため
の音響システムのことである。

武道館やドームなどの大会場や野外音楽フェス、ライブハウス、モールでの
ミニコンサートや特撮ヒーローショー、さまざまな場所で使われている。


PAエンジニアはアーティストが使用する楽器や機材、彼らが出したい音、
会場の音響特性(客の入り状態でも変わる)、不測の事態への対応などを
考慮しながらベストな音を出せるようシステムを構築する。

よく客席の真ん中くらいでミキシングコンソールを操作しているスタッフを
見かけますよね。あの人たちがPAエンジニアです。




複数の楽器、ボーカル、コーラス隊、客席の声などを個別に拾い(エレキギタ
ーはアンプの音をマイクで拾うことが多いが、ダイレクトにコンソールにイン
する場合もある)、マルチトラックで音量や音質、ステレオ定位のバランス
をとった上で、アンプで増幅した音を会場のモニタースピーカーから流す。
(ライブ収録の場合はマルチトラックの音源を後日スタジオでミックスする)
近年はPCでミキシングが行われることも多い。



では、どこからどこまでがPAなのか?

ステージ上で使用している楽器やアンプ、エフェクターはミュージシャンの
機材であり、PAシステムの領域に入らない。
マイク、ケーブル、ミキシングコンソール、アンプ、大型モニタースピーカー
(ステージ両脇に積まれた黒いスピーカー群を見た事がある方も多いだろう)
がPAシステムである。※現在はラインアレイスピーカーが主流。




演奏者や歌手が全体の音を確認するための足元にあるモニタースピーカ
(返し、はね返りと呼ばれていた)もPAに入る。
歌手や演奏者がイヤホンでモニターしている光景もよく見られる。




<PAの起源>

PAとは電気的な音響拡声装置の総称を意味するPublic Addressのこと。
語源であるPublic AddressのAddressには「演説」という意味がある。

1919年に米国のウィルソン大統領が庁舎前の広場で演説する際、マグナヴォ
ックス社の電気拡声装置(ホーン型スピーカー)を使用したのが始まりらしい。

1923年から1938年にかけてヒトラーもナチス党大会でプロパガンダを行う際
に拡声装置を重要視し、より遠くまで音声の届く平面型スピーカーを使用した。

こうした拡声装置はトーキー映画が始まってから広く普及し、野球場、学校、
デパートでのアナウンス、選挙カーなどで用された。

この場合、音声メッセージを一定の音圧で(他の騒音に負けない充分な音量で)
死角を生まずに聞かせることが重要である。Hi-Fi(音質)は要求されない。



<音楽とPAの発展>

音楽では1940年代にジャズのビッグバンドにおいてボーカルやエレキギター
を他の楽器の大音量に負けないよう拡声するために使用されるようになった
といっても現在のように全体の楽器のバランスを取るPAシステムではなく、
ボーカルアンプ、ギターアンプで増幅した音を出していただけである。


1960年代のロック・ムーヴメントにおいて全ての楽器をスピーカーで拡声する
ようになったが、ステージ上のギターアンプ、ベースアンプから出る音、ドラム
の前や上にセットしたマイク、ボーカルマイクを増幅した音を一斉に出していた
だけで、統合的にバランスをとって音量をコントロールしていたわけではない



<ビートルズの時代はPAがなかった>

ビートルズが現役でツアーを行っていた頃は現在のようなPAは存在しなかった。

1965年のシェイ・スタジアムでは客席の至る所にスピーカーを設置していたが、
ファンの金切り声にかき消されて、焼け石に水であった。
なにしろ演奏してる本人たちが聴こえていなかったと証言しているくらいだ。
(PAがないから当然ステージ上に返り用のモニターもない)





↑バックヤードではこんな感じで調整していたようだが。。。なんか無線機器みたい。



武道館のコンサートは前年に設立された東京音研(東京音響通信研究所)がPA
を担当したという記録があるが、まだPA専用のシステムがなかった時代である。

VOXのアンプAC-100とSHUREのマイクSM-58はビートルズ側の指定で、招聘元
の協同企画(キョードー東京)が手配した。
(日本で用意したAC-100は不調のため本国から空輸で代替品が翌日届けられた)


100WのVOXアンプからの出音はそのままであり、マイクとドラムは国産の貧弱
なボーカルアンプのスピーカーを数本でしのいでいたと思われる。

ステージ前のプレス席で聴いた尾藤イサオと内田裕也は「凄い音」と驚いたが、
1〜2Fの客席では(観客が比較的静かだったにもかかわらず)よく聴こえなかっ
たと証言している人が多い。



↑武道館の初日、および翌日の昼の部(2回目)の写真を見るとアンプの前に立ち
マイクが置かれているのが確認できる。
これはTV収録のための集音用であってPAではない。




ビートルズ来日の前年1965年、2回来日して公演を行ったベンチャーズは大きい
会場でも東京厚生年金会館大ホール(収容席数は2,062席)であった。
観客も拍手くらいでおとなしく聴いていた(リキ・スポーツパレスの追加公演=
ダンスパーティーでは騒いだでたようだが)ので演奏は会場全体に響いた。

出力50Wのフェンダー・バンドマスター・ピギーバッグ(会場によってグヤトー
ンが使用された)でも、充分に後ろまで音が届いたはずだ。
生で聴いた人の多くがダイナミックで迫力のある音だったと証言している。


<追記> THE M VENTURES さんからご指摘をいただきました。
東京公演は全てグヤトーンだった(グヤトーンとの契約があった)だそうです。
7月公演を収めたALL ABOUT THE VENTURES、CD化されたコンプリート・
ライヴ・イン・ジャパン'65に写っているにはグヤトーンのGA1200だそうです。
1月公演のVENTURES IN JAPAN」の裏ジャケットの写真では、ノーキーは
フェンダー・ツインリバーブ(パイプ椅子の上)、ドンはフェンダーのバンド
マスター、映画BELOVED INVADERSではドンとノーキーはフェンダーの
ショウマンを使用しているのが確認できるそうです。
THE M VENTURES さん、丁寧に教えていただいてありがとうございました。


厚生年金会館での1月、7月の公演は東芝音楽工業が収録しライブ盤を発売した。
その場でバランスを取りながら2トラックレコーダーにミックスダウンしている。

写真を見るとライブ収録が行われた日のステージはアンプ、ドラムの前に立ち
マイクが置かれているが、それ以外の公演ではマイクがない。
録音のためのマイクであり、客席に聴こえていたのはステージ上のギターアン
プからダイレクトに出ていた音だったということになる。




1969年1月アップル本社ビル屋上でのビートルズ最後のコンサートはミキサーで
8トラックレコーダーに録音されているが、現場での出音はPAを通してではなく
生音だったのではないかと思われる
屋上にはPAらしき機材は確認できないし、足元にモニターも見当たらない。
(1968年に英国でステージモニターが始まったという記載もあるが)

仮に既にPAシステムがあったとしても、屋上でゲリラライブをやるのは直前に
決まった話で、PA機材の調達、またエンジニアがそれを使いこなすことは難しか
ったのではないだろうか。




複数のカメラにシンクロしているナグラテープの音源を聴くと、ジョージの近く
のカメラではやけにジョージの声が大きく入ってる、他のカメラ側ではポールの
ベースが大きい、と音量がバラバラ。
屋上で鳴っていたのはPAで整えられた均一な音ではなかったと推察できる。

屋上や近隣のビル、下の街中の人たちはギター/ベースアンプやボーカルアンプ、
ドラムをアンプで増幅した音を聴いてたのだろう。


ビートルズが現役だった時代は音響的には前世紀である。彼らが退場する頃やっと
PAシステムや16トラック・レコーダーがロックに導入され始めたのだ。


★追記:上記の訂正(12/1)
11/25-27ディズニー・プラスで配信された「ゲット・バック」を見たら1969
年1月のゲット・バック・セッションではPAを使用してました
トゥウイケナム映画スタジオ、アップル・スタジオ、屋上すべてPAが映ってるし、
PAについて会話でも出てきます。PAスピーカーはフェンダーとVOXでした。


1968年10〜11月のクリーム解散コンサートもマーシャル2段積みで大音量を出して
おり、まだPAがなかったようだ。WEMのスピーカーはドラムかボーカル用だろう。
(アンプやドラムにセットされたマイクはライブ収録用と思われる)





<ロックのPA創世期>

ではロック・コンサートにいつ頃からPAが導入されたのか?

1970年にフリートウッド・マックがコンサートで客席内でのミキシングを始めた
という記録がある。



同年8月、60万人を動員した英国ワイト島フェスではザ・フーが伝説的なステージ
で観客を熱狂させたが、この時はPAを使っていたはずだ。
ハイワットのアンプを2段積みしているが、それでもPAで増幅しないと60万人には
届かないだろう。

ステージ上に見えるWEMのモニタースピーカーがPA用だったのではないか。
後ろの観客にも聴こえるように会場の何箇所かに設置されていたのだろう。




このコンサートには前年のウッドストックにも出演したジミ・ヘンドリックス、
スライ&ザ・ファミリー・ストーン、テン・イヤーズ・アフターの他、ドアーズ、
シカゴ、ELP、フリー、ムーディー・ブルース、プロコルハルム、など多くの
ミュージシャンが参加しており、音響はフェスの成否を担っていたといえる。

おそらく1969年8月に40万人を動員した初の大規模野外フェス、ウッドストック・
コンサートで既にPAが実用化されていたと推測される。





ステージ袖にはギターアンプより大型のモニターが設置されているし、客席にも
ヤグラを組んで大型モニターが置かれている。
また客席の中にヤグラを立てて機材を調整しているのが確認できる。
エンジニアがここでミキシングを行なっていたのだろう。

40万人の観客に音が届くようにPAシステムが組まれていたのだ。
電気系統が雨に弱く何度か中断という野外フェスの泣き所も明らかになった。





1969〜1970年のロック・コンサートでPAが急速に発展したことは間違いない
大規模なコンサートが可能になり、サウンド面での質を大きく向上させた



またミュージシャンたちもよりよい音響を求め、独自のPAを追求するようになる。
グレイトフル・デッドはコンサート会場の音質を極限までハイファイ化しようと
モンスター級のPAシステム、ウォール・オブ・サウンズに経費が掛かり過ぎ、
1974年にはライブ活動の停止を余儀なくされた。(他にも理由があったが)





ピンクフロイドもまたレコードの音をコンサートで完璧に再現するために、PA、
照明、舞台装置は常に最新の技術を投入し、進化を続けていた。
1973年のThe Dark Side of the Moonのライブ盤を聴くと、スタジオ盤を凌駕する
ほどのクオリティーの高さに驚く。




↑1973年アールズコートで行われたピンクフロイドのコンサートPA。
マーチンオーディオ(1971年創業の英国製PAスピーカー)が山積みされている。
このPAはELPも使用していた。



1970年代はいろいろなバンドが全米ツアーを行い、より良い音を求めてPAも年々
進化し大型化していった。照明もステージの設営も独自の演出が求められる。
それに伴いスタッフも増える。機材は本国から専用ジェットで運搬。
1976年のウイングス全米ツアーでは天板にWings Over Americaと書かれた大型
トレイラー数台に機材を積み移動する様子が見られた。


<日本でのPAの歴史>

日本で最初にPAを導入したのは加藤和彦だと言われている。
1972年サディスティック・ミカ・バンドの活動を開始した頃である。
ロンドンで最先端のロックやファッションを体験した加藤和彦はこれからのライブ
にPAは欠かせないと確信。

300万枚近くの大ヒットとなった「帰ってきたヨッパライ」の印税の大半を惜しげも
なく使い、英国でPAシステムを購入。翌1973年にPA会社「ギンガム」を設立
これで(来日アーティスト以外でも)日本で大音量のステージが可能になった




ウッドストックを体験した成毛滋も同年4月にロンドンからWEMのPAを購入
その後、渡英するため大半を加藤和彦が譲り受けたという。

ステージ脇に積まれた二人分の黒いモニタースピーカー群を仰ぎ見ながら、二人は
「ピンクフロイドみたいだなー」と語り合ったとか。
ミュージシャン自らインフラも手がけないと欧米並みのロックが出来なかったのだ。



ヒビノ音響(現HIBINO)の社史によると、1971年にPA事業部を立ち上げ、シルヴィ
・バルタンの日本ツアーでSHUREのボーカルアンプを使用した、という記述がある。



↑当初はこんな感じだったのだろう。


海外の一流アーティストの中には音に徹底したこだわりを持ち、世界中のどの会場
でも満足のいく音が出せるように、PA機材をわざわざ本国から持ち込んだり、専属
のPAスタッフをツアーに帯同させるケースも少なくなかった。
日本で輸入音響機材を持つ業者は少なく、ヒビノは招聘元に重宝されたそうだ。

1971年8月に箱根芦ノ湖畔にある成蹊学園所有の広大な土地に特設ステージが作られ、
日本初の野外フェス、箱根アフロディーテ開催され2日間で4万人を動員した。
ヒビノは音響を受注し、SHUREのトーンゾイレ型スピーカーを40台用意した。



↑箱根アフロディーテのステージ。演奏してるのは日本のグループ。
ステージ脇にPA用のSHUREトーンゾイレ型スピーカーが映っている。


このコンサートには国内のフォーク、ロック、ジャズのグループや歌手が出演。
海外からは1910フルーツガム・カンパニー、バフィー・セントメリー、そして大トリ
を務めたのは、初来日のピンクフロイドであった。


ピンクフロイドは本国からWEMのスピーカーシステムを持ち込んでいたが、野外
ライブで十分な音を出すには本数が足りず、ヒビノが用意したSHUREのスピーカー
も併せて使うことになった



↑ステージ両サイドに設置したSHUREのトーンゾイレ型スピーカー。


Atom Heart Motherが始まると、他の出演バンドとはまったく違う音の迫力、圧倒的
な音量と重低音に、多くの観客は驚嘆したという。



↑箱根アフロディーテのスタッフTシャツを着たロジャー・ウォーターズ。
ちょっと南沙良に似てる気がするのは私だけでしょうか(笑)



翌1972年3月ピンクフロイド2回目の来日公演において、ヒビノ音響が客席中央で
24chミキサーを使ったミキシングを行なったという記録もある。
前年末にはJBLのプロ用スピーカーシステムとの代理店契約を結び、ウドーなど大手
招聘元からの受注が増える。

1970年代、コンサート会場のPA機材はヒビノ音響かギンガムのどちらかだった



<1970年代の来日公演でPAは発展する>

折しも1971年以降、海外アーティストの初来日ラッシュが続く。

1971年にはBST、フリー、シカゴツェッペリングランドファンク(雨の後楽園)、
エルトン・ジョン、前述のピンクフロイド(箱根アフロディーテ)。



↑観光中のZep。日本での狼藉ぶりは語り草になっている(笑)


1972年はディープパープルELP、カーペンターズ、ビージーズ、チェイス、CCR、
Tレックス、、スリー・ドッグ・ナイト、ジェームス・テイラー、プロコル・ハルム。
そしてツェッペリンピンクフロイド、エルトン・ジョンの2度目の来日。

1973年はイエス、ユーライアヒープ、サンタナ、デヴィッド・ボウイ、マウンテン、
BBA、ハンブル・パイ。
2度目の来日となったCCR、ジェームス・テイラー、シカゴ、Tレックス。
NHKホール、中野サンプラザホールがオープンしコンサート会場の定番となる。

1974年はムーディブルース、フェイセズ、クラプトン、シュープリームス、ウォー
が初来日。カーペンターズ、エルトン・ジョンもまた来ている。



↑1974年エリック・クラプトン初来日。武道館でのサウンドチェック。



↑積まれた大型スピーカーはJBLだろう。16chミキサーを2台使用していた。


この年、日本初の本格的PAミキサーYAMAHA PM1000が発売された。


1975年はウィッシュボーン・アッシュ、バッド・カンパニークイーンが初来日。
ディープパープル、グランドファンク、クラプトンも公演を行なっている。



↑東京タワーをバックに芝公園を歩くクイーン。レアなショット。


1976年にはドゥービーイーグルス、ニール・ヤングの西海岸勢が初見参。
ベイシティ・ローラーズ、オリヴィア・ニュートン・ジョン。レインボー、BTO、
フランク・ザッパ、トッド・ラングレン、アメリカも初来日。
サンタナ、カーペンターズ、クイーン、ウィッシュボーン・アッシュも再来日。

1977年はレーナード・スキナード、エアロ・スミス、キッス、デイヴ・メイソン、
ブライアン・フェリー、イアン・ギラン・バンド、10CC、フリートウッド・マック
と新しい顔ぶれが来日。
ジャクソン・ブラウン、ジャニス・イアンといったシンガー&ソングライター、
この後のフュージョン・ブームの先駆けとなるリー・リトナーも初来日している。

海外アーティストの来日、および国内アーティストの音へのこだわりを受けて、
日本のPAシステムは1970年代には海外に引けを取らないくらい進化して行った


<参考資料:disicovermusic.jp、RollingStone、R.E.P. PAとは、明け方の更新、 
プロが答えるサウンド&レコーディングQ&A百問百答+20 リットーミュージック、
NDIGO DESIGN STUDIO INC.日本のロック創成期のおはなし、PAの歴史、
来日公演年表1965-1984、DTMforU簡易PAシステムのススメ、YAMAHA、HIBINO、
よいこのPA講座、初心者のためのPA情報サイト、ロック・コンサートの変遷、
Wikipedia、他>

2021年10月13日水曜日

斉藤和義「 ずっと好きだった 」アコースティック・ヴァージョン。



この曲がテレビから流れてくるのを耳にしたのは11年前、2010年の春だった。
資生堂IN&ON「よみがえれ、私。」のCM用に斉藤和義が書き下ろした曲だ。


CMは石川秀美など1980年代のアイドル4人が40代の今もあの頃のようにきれい、
という内容である。

個人的には石川秀美は仕事で間近で見たこともあり、かわいいと思ってたが、
43歳になってもやはりきれいだ。CM曲の「まるであの日みたいだ」と同じ。



↑薬丸(石川)秀美の資生堂IN&ON「よみがえれ、私。」のCMが観れます。


CMのテーマに沿って「ずっと好きだった」「君は今も綺麗だ」「相変わらず
綺麗だな」と同窓会で再会した初恋の人への想いが歌われている。

曲はストレートなロックンロールで覚えやすさを念頭において作ったという。
ビートと歌いたくなるメロディーの両立はビートルズ好きの斉藤和義らしい
I Want to Hold Your Hand、 All I've Got To Do、 You Won't See Me、
Get Backを彷彿させる。


この曲はシングルCDとして発売されたが、ジャケットにはジョン・レノンが
愛用したことで知られる塗装を剥がしたエピフォン・カジノが写っている。
テレビ番組出演での弾き語りでもこのギターを使用していた。

プロモーション・ビデオではビートルズが1969年1月にアップル本社の屋上
で行なったGet Back演奏シーンを忠実に再現している。



↑「ずっと好きだった」のPV、屋上コンサート篇が観れます





斉藤和義はポール役でヘフナーのベースを左利きで演奏している。
ジョン役にリリー・フランキー、ジョージ役に2丁拳銃の小堀裕之、リンゴ役
は濱田岳で、それぞれ髪型も衣装も楽器もあの日の4人と同じだ。



↑特にジョージ役の小堀が表情や動き方がジョージそっくりで笑える。


さらに機材の置き方、周辺のビルの見物客まで忠実に真似している。
凝ってるなあ。いんちきビートルズごっこを真剣にやってるのが楽しい。
斉藤和義の故郷、宇都宮市のオリオン通りにあるビルの屋上で撮影された。





この曲をライブで斉藤和義がギター一本で歌っているヴァージョンがある。
リリース時のバンド・アレンジとほぼ同じだが、アコースティックギターを
がっつり弾きながら歌い上げ、観客を魅了してしまう実力はさすがだ。



↑「ずっと好きだった」弾き語りヴァージョンが観れます。


オールブラックのギブソンJ-160Eは斉藤和義シグネチャーモデル。
サウンドホール上のP-90と L.R.Baggs Lyricをブレンドできるらしい。
ジョンのJ-160Eのようなアジャスタブル・サドルではない。
合板ではなくオール単板と思われる。コントロールノブもブラック。




このコンサートでは立ちマイクで生音だけを拾っている。
写真と違ってチューナーはアイボリーのスモールビーン型である。



この曲をギターで弾けたら、できれば歌えたらカッコいいだろう。
・・・・ということで耳コピーしてみた。


ビートルズもカヴァーしたチャック・ベリーのRoll Over Beethoven
を彷彿させるようなイントロで始まる。

バッキングのギターはブルースロックの典型
人差し指でバレーするパワーコード(7th)で小指を伸ばし5度⇄6度を
繰り返す。(マイナーコードの場合は5度⇄♭6度)
押さえにくい、小指が届かない、という人も多いかもしれない。


↓幸いTAB譜を見つけたのでイントロ〜ヴァースの参考にしてください。

                     (出典:Easy- Guitar-Net)


↓曲全体はコード譜を作りました。弾き語りの参考に。



ヴァースのコード進行
B♭7→Gm→B♭7→F7→ E♭7→Gm→F7→A♭7→A7→B♭7。

同じコードでも押さえるポジションを変えている。例えばF7。
♪16才〜のF7は8フレットでバレーのハイポジション。

♪ギターの絵と〜のF7は1フレットでバレー。ここが一番キツい。
次の♪キミの顔〜のA♭7への移行はパワーコードのままグリッサンド。

♪青い春〜の後のF7はローコードのC7を5フレット上げたフォーム。
この場合、6弦は親指で、1弦は人指でミュートして殺す。


コーラスの♪ずっと好きだったんだぜ〜のコード進行
B♭→D(sus4)→Gm7(9)→C9→F9。C9→F9はグギリッサンド。
Gm(9)の9thの音は小指で1弦5フレットを押さえる。

次の♪ずっと好きだったんだぜ〜もB♭→D(sus4)→Gm7(9)と途中まで同じ。
♪気づいてたろう〜はE♭→D→Cm→D→Gm→Cm→F→B♭/E♭/B♭/E♭。

このコード進行もカッコいい。
Gm7(9)は6弦を親指、4〜1弦は人差し指で押さえ5弦は殺す。
Cm→D→Gm→Cm→Fはハイポジション。
映像で斉藤和義の手元を見てコードの押さえ方も習得して欲しい。


♪キスの意味〜の後に入る8小節の間奏はヴァースと違うコード進行
ここもビートルズっぽい。All My Lovingとか。
弾き語りではコード+経過音で聴かせる、という裏技を使っている。


2回目以降のサビの後半はコードが変わる
最後の♪ホント好きだったんだぜ〜はE♭→E♭m→F7。

やってみると分かるがリズムをキープするのが難しい。
叩きつけるように強くコードを刻むのがコツかもしれない。
近所から苦情が出ない程度に(笑)

<参考資料:Easy- Guitar-Net、CM bb、Wikipedia、YouTube、他>


2021年10月5日火曜日

斉藤和義「 一緒なふたり 」を弾き語りしてみよう。



以前ブログで紹介した盲導犬協会のCM曲、斉藤和義の「きみと一緒だから」。
https://b-side-medley.blogspot.com/2020/04/cm.html

いい曲だから発売されるかな・・・と思ってたら、昨年8月にデジタルシングル
として配信リリースされていた。


曲名は「 一緒なふたり 」になり、CM時は弾き語りのショート・ヴァージョン
ったが、サビも加えられたフル・コーラスでバンド・アレンジになった。
斉藤和義が1人ですべての楽器を多重録音したそうである。




プロモーション・ビデオもオリジナルのアニメーションになった。
個人的には盲導犬協会のCMのアニメーションの方が好きだ。
アレンジもギター1本の方が素朴でいい。

配信リリースされたヴァージョンとは別にWOWOWでのスタジオライブが公開
されていて、こちらの方が同じバンド・アレンジでもライブ感がある。
斉藤和義のアコースティックギター(J-200)の弾き語りを中心にラップスティ
ール、ベース、ドラムというミニマムな編成でなかなかよい。



↑クリックすると 「一緒なふたり」スタジオ・ライブ2020が観れます。


以前もブログにコード譜を載せたのだが、今回は曲のフルコーラスが分かった
ので改めてコード譜を作ってみました。
映像で斉藤和義の手元も確認しながらコードを拾ったので完コピに近いと思う。


↓JPEG画像としてダウンロード可です。2枚をPDFにまとめることもできますよ。



曲調はカントリーブルース。

ギターはシャッフル(♩=🎶)気味でツンチャカ、ツカチャカのストラミング。
2フレットにカポをしてCを弾く、つまりキーはD。
高音部が苦しい場合はカポーなしのCでいいでしょう。

寒い日でも〜の後、F7→F7(13)→F7、F7→F7(13)→F7のカッティングがブルー
ジーで、いいアクセントになっている。(コード譜では省略し←repeat→の表記)
ここが難しい人は単純にF7を2小節弾く、でもオッケーです。


このF7の抑え方は小指で2弦の4フレットを押弦することで、7thの音を強調。
ジョンが好んで使ったコードフォームで、ビートルズ好きの斉藤和義らしい、う
まい入れ方です。

E→E on G#、Am→Am on Gのベース経過音は小指を駆使。
ヴァースの最後のG7は1弦を解放のG7(13)にして独特の響きを出している。

サビのコード、ハイポジションのF→Em→D#はIf I Fellの出だしを彷彿させる。
次にミドルポジションのF→Dm7→E7、2回目はA7→D9→G7(13)と絶妙な
コード使いで、シンプルなヴァースとは対極的な魅力を醸し出している。




歌もブルース色を出せるかどうかが肝になると思う。
出だしの「どこへ行くのも」は1/3拍遅れて入る
つまり「ン・どこへ行くのも」と少し間を取って歌い出すところがミソ。

「一緒なふたり」は「一緒な」で3度と短3度を繰り返してからしゃくり上げ。
「寒い日でも」の「も」も短3度。ブルーノートの音になる。
ここで締めてるから、適度な骨太感が出るわけだ。

斉藤和義氏ならではのブルースっぽい節回しを耳から体に覚え込ませよう。