2015年8月29日土曜日

哀しみの深淵へと誘う低く美しい歌声。

スコット・ウォーカーはQ誌(英国の音楽誌)が選ぶ「偉大な100人のシンガー」
で第39位とされている。
MOJO誌(英国の音楽誌)は彼を「ポップ界のサリンジャー」と呼んだ。
スコットは多くのアーティストたちにもリスペクトされている。

彼の曲は絵を描くように音楽で主張している。­─デヴィッド・ボウイ
彼の音楽に衝撃を受けた。ポップス­の枠組みにありながらそこから遠く離れてる。
これを聴くのは屈辱的だ。今でもこれを超­えられない。―ブライアン・イーノ
常に彼の音楽が原点だ。―レディオヘッド

(「スコット・ウォーカー 30世紀の男」予告編より)


英国人と思っている人が多いがスコットはオハイオ州の出身である。
父の仕事で各地を転々とし両親離婚後は母親に育てられる。彼は孤独だった。

1964年にゲイリー、ジョンと共にウォーカー・ブラザーズ(偽兄弟)でデビュー。
ビートルズがアメリカを制覇した頃だ。
その後、英国に渡り再デビューしてから人気が出始める。

1966年には人気絶頂期を迎え「ダンス天国(Land Of A Thousand Dances)」
「太陽はもう輝かない(The Sun Ain't Gonna Shine Anymore )」「孤独の太陽
(In My Room)」など立て続けにヒットを飛ばす。






日本でもミュージックライフではビートルズと二分するほどの人気であった。
1968年の来日時に撮影された不二家ルック・チョコレートのCMでウォーカー・
ブラザーズを知った人も多いと思う。




 ↑GSブームの王子様キャラとおサイケ感覚を無理に合わせたトホホなCM(笑)



グループは1967年に解散。方向性の違い。名声と熱狂的ファンへの嫌悪感。
スコットは修道院で1週間を過ごし翌年には自殺未遂を起こした。


1967年にソロアルバム「Scott」を発表したスコットは、アイドルから逸脱し、
ジャック・ジョーンズ(1)風のバラードを歌うポップシンガーになっていた。

「Scott2」ではシャンソン歌手ジャック・ブレル(2)に傾倒。
ブレルの作品「Jacky」はスコットのソロ時代の代表作の一つとなった。
「Scott3」からは自作の曲中心になる。


張り詰めたような美しいメロディー。暗く深く内省的な詩。
哀しみの深淵へと誘うような低く響き渡る美しい歌声。

スコットの音楽は時代の流れから隔絶していた。
しかし唯一無二の魅力があった。






ラジオから次々流れる洋楽に夢中だった中学一年の頃、ドアーズやサイモンと
ガーファンクルやステッペンウルフやビートルズの合間に聴いたスコット・
ウォーカーの「行かないで(If You Go Away」は強烈なくらい心に沁みた。


この曲が入っている「Scott3」は全編ストリングスと控えめなアコースティック
・ギターだけでアレンジされている。
でも、スコット・ウォーカーはロックなのだと思う。

彼の歌を聴いてると、ロックとは8ビートであるとか、ドライブ感があるかとか、
エレキギターが鳴ってるとか、そういう問題じゃないような気がして来る。
うまく言えないけど。

2015年8月23日日曜日

元祖カントリー・ロック、渋いぞ!マイク。

モンキーズの話も3回目。今回はマイケル・ネスミスについて書きたい。


モンキーズのヒット曲の大半はハスキーボイスでインパクトがあるミッキー・ドレンツ
と甘くハリのある声で女の子をノックアウトするデイヴィー・ジョーンズが歌っている。

一方でマイケル・ネスミスの持ち歌は地味ながら渋く大人っぽかった。
アルバムの中で彼の歌う曲はいい味付けになっていたと思う。


そして今改めてモンキーズを聴いてみると、マイクの歌が実に味わい深く心地よい。
自作の曲はもちろん、他の作曲家たちの作品もみごとにマイク流に料理している。

その「マイク流」というのは「カントリー・テイスト」である。
彼がモンキーズにカントリー色を持ち込んだおかげで、単なるヒット曲を歌うアイドル・
グループとは一線を画していた。


マイクはミュージシャンとしての実績もあった。
ドラマの中の演奏シーンを見てもマイクがちゃんと弾いている、しかもしっかりした
テクニックを持っていることが分かる。
グレッチのギターもカントリー志向の強いマイクのこだわりじゃないだろうか。


    ↓「What Am I Doing Hangin' Round」(Murphey-Castleman)1967



デビュー時から彼はレコーディングには主体的に関わって行きたい意向を主張。

1st.アルバムはスナッフ・ギャレット&レオン・ラッセルのプロデュースがうまく行かず、
レコーディングが頓挫しマイクにチャンスが巡ってきた。
次のプロデューサーが決まるまで抑えてあったスタジオとミュージシャンを使ってもいい
という許可が降りたのだ。

彼は自作の「Papa Gene's Blues」とゴフィン&キングとの共作「Sweet Young Thing」
を自らのプロデュースで録音した。
レコード会社としても、マイクの2作品をアルバムに採用することで「メンバーに作曲の
才能がある」ことをアピールできると踏んだのだろう。


新しいプロデューサーに抜擢されメインの作曲チームでもあったボイス&ハートとの関係
も良好だったようで、この後モンキーズのアルバムにマイクの曲はコンスタントに収録さ
れるようになる。

そしてその実績はモンキーズ解散後のファースト・ナショナル・バンドでの活動につなが
り、アメリカ西海岸のカントリー・ロック・シーンの先駆けになった。


↓ピーター脱退後の3 人がジョニー・キャッシュ・ショーに出演した時のパフォーマンス。
 マイクの楽曲「Nine Times Blue」も3 声のハーモニーもすばらしい!(1969)

 ※モンキーズとしてのレコーディングはボツになり(後年発表)マイクはファースト・
 ナショナル・バンドで再録している。

2015年8月16日日曜日

猿まねでは終わらない猿たちの反乱。

モンキーズは1965年にアメリカのNBC主催のオーディション(1)で選ばれた4人による
「作られた」バンドだ。

架空のアイドル・バンドをテーマにした音楽とコメディを織り交ぜたTV番組。
キャッチーな曲をTVで聴かせレコードのヒットにつなげるという新しい方程式(それまで
はヒット曲はラジオで作られていた)は、ビートルズの「A Hard Day’s Night」の成功を
研究し入念に仕掛けられたアメリカのショービジネス界らしい発想である。


         ↓モンキーズのスクリーン・テスト時の4人(若い!)


キャラクター重視で選ばれた4人にビートルズのような音楽性は求められていなかった。
マイク・ネスミス以外の3人は演奏力が低く、ハル・ブレイン、ジェイムズ・バートン、
グレン・キャンベル、ビル・ピットマンといった売れっ子ミュージシャンたちがサポート
していた。(2)

楽曲はトミー・ボイス&&ボビー・ハート、キャロル・キング&ゲリー・ゴフィン、ニー
ル・ダイアモンド、バリー・マン&シンシア・ウェイル、ニール・セダカ、ハリー・ニル
ソン、ジェフ・バリー、キャロル・ベイヤー・セイガーなどそうそうたる顔ぶれが提供し
ている。

つまりアメリカの音楽界きっての一流どころが結集したプロジェクトなのである。
悪かろうはずがない。
しかもデイヴィー、ミッキー、マイク、ピーターの4人は個性的で魅力的な歌声だった。


デビュー曲の「Last Train To Clarksville(恋の終列車)」は大ヒット。
同曲を収めたアルバム「The Monkees(邦題:恋の終列車)」(1966)も売れた。

しかし2枚目のアルバム「More Of The Monkees」(1967)の頃からメンバーたちに
自我が芽生え、自主性を要求し始める。





当初は2作目以降メンバーもアルバム制作に関われるという話だったが、プロデューサー
ドン・カーシュナー(3)は約束を反故にし既に収録済の音源(自分の音楽出版社所有
の楽曲)を集めメンバーが知らないうちにアルバムとして発売してしまった。

さらにカーシュナーは3枚目のシングル「A Little Bit me, A little Bit you」のB面を
マイク作曲の「The Girl I Knew Somewhere」という約束を反故にし、ジェフ・バリー
の「She Hangs Out」に無断で差し替えて発表する。

これにマイクが激怒し当初予定されていたカップリングのシングル盤を自主制作して「
これが本物の3rd.シングル」と記者会見を開き、クーデターを決行。
レコード会社もボイス&ハートもモンキーズ側につきカーシュナーは更迭される。



           ↑モンキーズとドン・カーシュナー


こうして初めてメンバーが自主的に関わった作品が前回紹介した「Headquarters」だ。
しかし「Pisces, Aquarius, Capricorn & Jones LTD. (邦題:スターコレクター)」
(1967)と「The Birds, The Bees & The Monkees(邦題:小鳥と蜂とモンキーズ)
」(1968)はツアーやTV収録で時間が取れず外部サポート依存に戻ってしまう。


そしてモンキーズは新たな局面に挑む。映画「HEAD」(1968)である。
ベトナム戦争を背景とした実験的な風刺劇はファンからは受け入れられなかった。
(日本では公開もされていない)

サントラ盤「HEAD」も難解であった。(当時周りは誰も買わなかったっけ)
この後ピーター・トークが脱退しモンキーズは急激に失速して行く。



    ↑「HEAD」のアルバム・ジャケット。当時は銀箔?のような紙だった。



2001年の映画「バニラ・スカイ」(監督:キャメロン・クロウ、主演:トム・クルーズ)
「HEAD」のテーマ曲「Porpose Song」(キング&ゴフィン)が使用されると、モン
キーズ再評価の気運が高まった。

この曲もいいが、同じく「HEAD」に収録されている「As We Go Along」(キング&
スターン)も味わい深い大好きな曲である。
聴いていてとても心地よい。それまでのモンキーズ・サウンドとは一線を画している。





クレジットを見ると、楽曲提供のキャロル・キングの他ライ・クーダー、ニール・ヤン
グ、ダニー・コーチマー、ラス・タイトルマンと’70年代のアメリカの音楽を担うミュー
ジシャンたちが参加しているではないか!

1968年のモンキーズの実験的なアルバムで次世代の音楽が始まっていたんだなあ、と
実に感慨深かった。

<脚注>

2015年8月9日日曜日

ハジレコはモンキーズの「灰色の影」だった。

僕のハジレコ(初めて買ったレコード)はモンキーズの「灰色の影」のEP盤だ。
中学一年の時だった。
テレビの「ザ・モンキーズ」で聴いてこの曲が好きになった。




放課後に学校の近くの小さなレコード店でモンキーズのコーナーを探したが、
当然のことながらヒット曲じゃない「灰色の影」は置いてなかった。

店番のお姉さんに訊いたら「取り寄せましょうか」と言われ僕は「はい」と答えた。
さっさとヤマハにでも行けばよかったのだろうが、中学一年生の僕はまだそういう
事情に疎かったのだ。


昼前に入ると言われた土曜日、僕は授業が終わってからその店に行ってみたが、
レコードはまだ届いていなかった。
近所の本屋でCOM(「火の鳥」が目当てだった)を立ち読みして時間をつぶす。
冬の寒い日だった。

午後2時頃もう一度行くと、店番の子は申し訳なさそうにまだ届いてないと言った。
僕は店内でもう少し待つことにした。


意味もなくムードミュージックのちょっと色っぽいジャケットを眺めながらボーッ
していると、「何かかけましょうか」と言われた。
彼女は取っ替え引っ替えレコードをかけていたがその時何を聴いたか覚えていない。

4時頃やっと問屋らしき営業の男の人がレコードを持って来て何度も詫びていた。
僕はワクワクしながら「灰色の影」を持って家路についた。



「灰色の影」(Shades Of Gray)は地味ながら美しい作品であった。
モンキーズの3枚目のアルバム「Headquarters」(1967年)  に収録されてたが、
アメリカ本国ではシングルカットもされていない。

ベスト盤の選曲からも漏れることが多いが、なぜか日本では受けが良かったらしく
アルバム「Headquarters」の邦題も「ヘッドクォーターズ~灰色の影」になっている。




「Headquarters」はモンキーズが作られたアイドルであることから脱却しようと
自主的に創作に関わった初のアルバムであった。

プロジェクトの中心でありレーベルの社長でもあったドン・カーシュナーの独裁に異を
唱え自治権を得るべく主張し続け、ついにカーシュナーを更迭したモンキーズは新たに
チップ・ダグラスをプロデューサーに迎え入れた。


これまで自作曲を提供していたのはマイケル・ネスミスだけだったが、本作ではマイク
の3曲に加え、ピーター・トーク、ミッキー・ドレンツも1曲ずつ提供。
演奏もセッション・ミュージシャンに委ねるのではなく極力自分たちで演奏し、ホーン
やストリングスのアレンジも自分たちで行っている。


そのため前2作と比べるとポップスとしての完成度が低い点は否めない。
が、逆にガレージ・バンド的な雑な雰囲気が楽しめるアルバムとも言える。

今までヒット作をモンキーズに提供していたトミー・ボイス&ボビー・ハート、バリー
・マン&シンシア・ウェイルの作品も網羅しているので楽曲の質も維持できている。


「灰色の影」(Shades Of Gray)はそのマン&ウェイルの楽曲の一つ。
(イーディ・ゴーメの「恋はボサノヴァ(Blame It On The Boss Nova)」、
ドリフターズの「On Broadway」、ロネッツの「Walking In The Rain」など
ヒット曲を送り出してきたソングライティング・チームだ)

美しいメロディーと対局を成すように社会の不明確さ、不明瞭さを訴えている。
善悪、真実と嘘、強さと弱さ。。。。
ベトナム戦争が長期化しアメリカの価値観が混迷して行く中で、公平であろうとする
ことはとても難しい

「今は昼も夜もない、暗いも明るいもない、黒も白もない、灰色の影があるだけ」


曲をより壮麗にしているチェロとフレンチ・ホルンのアレンジはマイケル・ネスミスが
考え、ピーター・トークが譜面にしている。
哀愁のあるペダルスチールはマイクならではのカントリー趣味が活きている。


このアルバムを録音してる頃のモンキーズはきっと充実してて楽しかったんだろうな。

2015年8月4日火曜日

レイドバックとはどういうことか?


「レイドバック(laid-back)」がどういうことなのか説明するのは難しい。
直訳すると「後によりかかった」という意味だが「のんびりした、気が張って
いない、リラックスした状態」を表わしていることが多い。
マリファナでもやってボーッとするのがレイドバックだという人もいる。

以前あるサイトでレイドバックについてこんな記述を見たことがある。

「あなたはビーチでチェアに深々と座って目を閉じている。日射しがじりじり
心地よい。目を開けると水平線に小さく白い船が見える。それはさっきよりも
進んでいるようにも見えるし動いていないようにも見える。午後に何か約束が
あったはずだが忘れてしまった。まあ、いいや。また目を閉じる。ラム・オレ
ンジが溶けて氷がカランと音をたてた。。。。」





音楽用語で使われる「レイドバック」もやはりそんなニュアンスがある。
曲調がスローという意味ではない。
テンポが遅くても緊張感がある演奏はレイドバックとは呼べない。

全体的なリズムのテンポではなく リズムに対してゆったり大きいグルーヴ感
(ノリ)を作るのがレイドバックだ。
やや遅れ気味に演奏したりタメ(モタツキと紙一重だが)を作ることも多い。

スティーブ・ガッドは「レイドバックは自覚の問題だ」と言っていた。
みうらじゅん氏は「ロックのレイドバックは仏教でいう悟りだ」と言っている。
要は自分がレイドバックしていないとそういう演奏はできないということだ。



レイドバックというと頭に浮かぶのがエリック・クラプトンの3部作だ。


461 Ocean Boulevard(1974年)
There's One in Every Crowd(1975年)
No Reason To Cry(1976年)







実は「461 Ocean Boulevard」を初めて聴いた時は正直ついて行けなかった。
これがクラプトンか?と惑った。

クリーム時代の攻撃的なギターをどこかで期待していたのかもしれない。
僕はデラニー&ボニーも名盤の誉れ高いデレク・アンド・ザ・ドミノスの「Layla」
(1970年)も聴いていなかったのだ。

当時の中学生のお小遣い事情としては致し方ない。
「Eric Clapton」(1970年)だけ友人に聴かせてもらったがピンと来なかった。


そんなわけで僕はクリームから一気に「461 Ocean Boulevard」に飛んでしまい
その落差に唖然としたわけだ。
しかし聴いてるうちにクラプトンのレイドバックが心地いいと思えた。

よく「どの時代のクラプトンが好きか?」という質問があるが、僕は「ギタリ
ストとしてはクリーム時代、音楽としてはレイドバックしたクラプトンが一番
好き」という答えになる。



レイドバックしたクラプトンが久々に戻って来たのが、敬愛する故J.J. ケイルと
の共演盤「The Road To Escondido」(2006年)だ。
J.J. ケイルのスワンプのグルーヴに乗ってクラプトン節のソロがうねる。
故ビリー・プレストンのハモンドオルガンもシブい。

ドラムは万能選手かつ盤石のスティーブ・ガッド。
こんなノリでも安心して聴ける。

個人的にはこの30年間のクラプトンのアルバムではベストだと思っている。



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