誰にでも思春期に夢中で聴いた音楽がある。
ミュージシャンやシンガーにもルーツとなる特別な音楽があるものだ。
彼らの音楽性は広がり進化し続ける。しかしある日ふと原点に戻りたくなる。
自己の音楽性に影響を与えた偉大なる先人たちへの愛情あふれる、ある意味では
恩返し的なカヴァー・アルバムを作ろう、と思うのだ。
それは自分の立脚点の確認であり、自分の手の内を明かすことにもなる。
単なる模倣に終わらずカヴァーでありながらも自分ならではの解釈、味付けをし
てオリジナルを凌駕するくらいの出来に仕上げることが求められれる。
そのアーティストの力量が試される、かなりハードルの高い作業になるはずだ。
エリック・クラプトンはこれまで4枚のブルース・アルバム(1)を発表している。
ザ・バンドはオールディーズのカヴァー・アルバムを作った。(2)
ジョン・レノンとポール・マッカートニーもソロに成ってから、それぞれロック
ンロール・アルバムを出している(3)。
ビートルズは1950年代のロックンロールを多数カヴァーしているが、そのクオリ
ティはオリジナルを超えるくらいレベルが高い。
4人はカントリーミュージックについてもかなりマニアックなファンであった。
「I’ve Just Seen A Face」「 Rocky Raccoon」はポール流のカントリーだ。
リンゴはバック・オウエンス(4)の「Act Naturaly」をカヴァーしている。
この曲ではジョージの素晴らしいカントリー・ギターが聴ける。
同時代に多くのギタリストたちがブルースを志向する中で、ジョージはロカビリ
ーやカントリーにこだわりビートルズに独自のサウンドをもたらした。
エルヴィス・プレスリーのルーツはカントリーとゴスペルであった。
イタリア系移民のエルヴィスが少年期に住んでいた家は黒人居住区に隣接してい
て、彼は黒人が集う教会でゴスペルに親しみ、ラジオから流れるカントリー・ミ
ュージックを毎日聴いていたのだ。
そんなエルヴィスのカントリーへの思い入れは、ナッシュヴィル録音のカントリ
ーソング集「Elvis Country (I'm 10,000 Years Old)」(1971)で聴ける。
ジャケットに使われているのはエルヴィスが2歳の頃の写真だ。
前回取り上げたナンシー・シナトラもカントリーの本場ナッシュビルで録音した
「Country,My Way」(1967)というアルバムをリリースしている。
アメリカのシンガーやバンドは多かれ少なかれカントリーの影響を受けている。
なぜならカントリーもブルースやゴスペルと同じく労働者階級から生まれたルー
ツ・ミュージックであり、今日のロックの源流だからだ。
特に1970年代前後に台頭したカントリーロック、フォークロック、そしてその
後に続くウエストコースト・ロック系のシンガー&ソングライターやバンドは
カントリー直系と言ってもいい。
今回紹介するロギンス&メッシーナの「So Fine」(1975)は彼らの6枚目となる
アルバムで、二人のルーツであるカントリーとリズム&ブルースのカヴァー作品
集であるが、彼らのオリジナルと言っても過言でないくらいの出色の出来である。
むしろ個人的にはロギンス&メッシーナでは一番好きなアルバムだ。
大げさな言い方かもしれないが、1970年代のウエストコースト・ロックのルーツ
を示した重要な作品でもあるのではないかと思う。
まずジャケットを見ていただきたい。
アルバムに貼られた古いモノクロの写真には、ガレージの前で手作りの木製の自
動車を組み立てている二人の少年が写っている。
一人はオーヴァーオールを履き、ゴールデンレトリバーの仔犬を抱えている。
裏ジャケットでは10年後に同じ場所で撮ったと思わせるようなカラー写真を誰か
が手にしている。
ガレージも木製の自動車も朽ちて、周囲は草ぼうぼうになってしまった。
そこにロギンス&メッシーナの二人がいる。
あの小さかったゴールデンレトリバーは立派に大きくなっている。
(と言うか、もう老犬だろう)
二人の少年も今や大人だ。
仔犬を抱えていたオーヴァーオールの少年はどうやらメッシーナだったらしい。
ジャケットを眺めているだけでなんだか嬉しくなってしまう。
「このアルバムは僕たちが少年時代によく聴いた音楽で、大人になった今も大好
きなんだよ」という二人のメッセージが伝わる素敵な演出だ。
1曲目の「Oh, Lonesome Me」はカントリー・シンガー、ドン・ギブソン(5)
が1958年にヒットさせたナンバー。
続く「My Baby Left Me」はエルヴィスの1956年のヒット曲。
バッファロー・スプリングフィールド、ポコのギタリストだったジム・メッシー
ナがご機嫌なパキパキのテレキャスター・サウンドを聴かせてくれる。
あまり挙げられることがないが、僕はジム・メッシーナは巧みなテレキャス使い
だと思う。
3曲目の「Wake Up Little Susie」は1957年にヒットしたエヴァリー・ブラザ
ーズ(6)の代表作の一つ。
オリジナルと同じく二人はクロース・ハーモニー(ずっと3度)で歌っている。
4曲目の「I’m Movin' On」はハンク・スノウ(7)の1950年のヒット・ナンバー。
列車の走る音を連想させる、いわゆるトレイン・ソングだ。
最後はテンポアップし、ギター、ハーモニカ、フィドルの掛け合いで盛り上がる。
メッシーナのヴォーカル
5曲目「Hello Mary Lou」は1961年にリッキー・ネルソン(8)がヒットさせた。
二人のハーモニーと小気味良いメッシーナのテレキャスターが印象的だ。
この曲はバンドでやったので思い入れがある。
僕はこのアルバムでリッキー・ネルソンがオリジナルであることを知るまでは、
CCRの曲だと思っていた(恥)
6曲目、LP盤ではA面ラストの曲は元祖シンガー&ソングライター、ハンク・ウィ
リアムズ(9)の1951年のヒット作「Hey, Good Lookin’」。
この曲も二人の相性のいいハモリが楽しめる。
フィドルからペダル・スティールに回すソロがいい。
後半(LP盤ではB面)はロックンロール、R&B色が濃くなる。
「Splish Splash」はボビー・ダーリン(10)の1958年のヒット・ナンバー。
脂ギッシュなテナー・サックスにメッシーナのテレキャスターが絡む。
クライド・マクファター(11)(ドリフターズ)の1958年のヒット「A Lover's
Question」はドゥワップ調の軽快な曲。
ケニー・ロギンスの声質はこういう曲によく合う。
「You Never Can Tell」(1964)はチャック・ベリーのニューオリンズ調の曲。
二人のハモリが効いている。この曲もメッシーナのテレキャス・サウンドがいい。
余談だが映画「パルプ・フィクション」(12)ではユマ・サーマンとジョン・トラ
ボルタがツイスト・コンテストでこの曲に合わせて踊るシーンが印象的だった。
「I Like It Like That」はR&Bのシンガー&ソングライター、クリス・ケナー
(13)とアラン・トゥーサン(14)の共作で、ケナーが1961年に歌ってヒット。
後にザ・デイヴ・クラーク・ファイヴ(15)もカヴァーしている。
ソルフルなヴォーカルはケニー・ロギンスの面目躍如だ。
アルバム・タイトル曲「So Fine」はジョニー・オーティス(16)の作品で、ドゥ
ワップのコーラス・グループ、ザ・フィエスタス(17)の1959年のデビュー曲。
アルバムの最後を飾るのはR&B系ピアニスト、オルガン奏者ビル・ドゲット(18)
が1956年にヒットさせたインストゥルメンタル曲「Honky Tonk Part II」。
↑写真をクリックするとAmazonで試聴できます。
全編を通して曲の構成とアレンジはジム・メッシーナのセンスが光っている。
A面のカントリーとB面のR&B。その両方がロギンス&メッシーナのルーツなのだ。
メッシーナはR&Bナンバーにおいても、カントリーのアプローチで演奏している。
こうしたカントリーとR&Bの融合はグラム・パーソンズ(19)がバーズで試みたこと
でもあった。
いや、そもそもエルヴィスやチャック・ベリーから生まれたロックンロール自体が、
それまでの白人のカントリーと黒人のR&Bを融合させたものだったのだ。
ロギンス&メッシーナはこのアルバムで、そうした先人たちの視線を自分たちで
辿ってみようとしたのかもしれない。
<脚注>
あの日のあの曲。お気に入りのアルバム。いろいろな音楽にまつわるエピソードや思い出を、ジャンルを問わず徒然なるままに書きつづります。(ブログのタイトルは故大瀧詠一氏へのトリビュートの意味をこめてつけました)
2016年8月31日水曜日
2016年8月24日水曜日
フルーツ=キュート♡はヒットの方程式?<後編>
復刻CD「レモンのキッス」(なんか書くだけでも気恥ずかしいタイトルだな)の
収録曲について(自分で調べた範囲だけど)ざっと説明しておこう。
「Cuff Links And A Tie Clip/Not Just Your Friend」はアメリカで1961
年にリリースされたナンシーの記念すべきデビュー・シングル。
2曲とも彼女のために書かれた新曲らしい。日本では発売されなかったと思う。
アメリカでの2枚目のシングルA面は「To Know Him Is To Love Him」。
フィル・スペクター(1)の曲でテディベアーズ(2)が1958年にヒットさせた。
日本ではB面の「Like I Do」の方が受けると判断され「レモンのキッス」の邦題
でA面とB面を入れ替え1962年9月に発売。ヒットした。
日本語版はザ・ピーナッツが歌いヒットさせた。(森山加代子との競作)(3)
作曲クレジットはディック・マニングであるが、原曲はイタリアのポンキエッリ
のクラシック。オペラ内のバレエ音楽をアレンジして詞を付けたもの。
歌詞は「あの子はあなたにキスするのね、ハグするよね、あたしみたいに、でも
でもぜーったいあたしの方があなたを好きなんだから」という内容で、ボーイフ
レンドに二股をかけられた女の子の気持ちを歌っている。
レモンのレの字も出てこない。
前回書いたように「フルーツの邦題をつければ売れる」という勘違いと「初恋は
レモンの味」というこじつけから付けられたタイトルではないかと思う。
ナンシーはこの歌を嫌っていたらしい。
そりゃ、そうだ。どっちかと言えば二股かけちゃう方だもんね(笑)
But she’ll never♪で声がひっくり返る所がバカっぽくていい。
↑ジャケット写真をクリックすると「レモンのキッス」が聴けます。
シングル3枚目は「Think Of Me/June, July And August」。
同じく日本ではA面とB面を入れ替えて発売された。
A面扱いの「Think Of Me」は後のナンシーに通じる曲。
前作にあやかってぜんぜん関係ない「リンゴのためいき」という邦題になった。
「夜なかなか寝付けない時はあなたを抱きしめる人が必要でしょ。私を思って。
私はあなたとどこまでも一緒に行くわ。忠実で献身的、すべて本当よ」とまるで
ナンシーとは正反対の謙虚な(笑)乙女心を歌っている。
リンゴのリの字も出てこない。ため息つくリンゴってうまく想像できないな。
「June, July And August」の当時の邦題は「たのしいバカンス」。
ラスティ・ドレイパーが歌っていた同名曲と内容を取り違えたのではないかと思
われる。
ナンシーのこの曲はしっとりしたバラードで、恋に落ちるロマンチックで素敵な
季節について歌っている。A面はちょっと厳しいかも。
アメリカでのシングル第4弾A面(1962年)はジュリアナが1961年に歌った「
You Can Have Any Boy」で、B面は「Tonight You Belong To Me」。
B面の方が売れると踏んだ日本ビクターはまたしてもA面とB面を入れ替える。
ここで前例に倣い、柳の下のドジョウ狙いで「イチゴの片想い」という邦題を無
理やりくっつけて発売した。
原題は「今夜はあなたは私のもの」で、新しい女性の元へ行ってしまう恋人にせ
めて夜が明けるまで私と一緒にいて、と歌っている。イチゴは出てこない。
日本語版は中尾ミエが「甘い〜イチゴ〜なの〜♪」と歌いヒットした。
歌詞はなんと!ミュージックライフの編集長だった星加ルミ子さんである。
ベニ・シスターズという女性コーラス・グループもカヴァーしていた。(4)
原曲は1927年にジーン・オースティンがヒットさせている。
1956年にフランク・シナトラと仕事をしていたオーケストラ・リーダーのマーク
・マッキンタイアは自分の娘、11歳のプルーデンスと14歳のぺイシェンスをLAの
スタジオに連れて行きこの曲を録音し発売したところ英米で大ヒットした。
ナンシーの歌はこのプルーデンス&ぺイシェンス版を元にアレンジされている。
↑ジャケット写真をクリックすると「イチゴの片想い」が聴けます。
能天気なイントロに続き、やや調子っぱずれなアイノウ〜ユビロぉぉぉぉントゥ、
サぁぁぁぁンバディ、エぇぇぇルス♪、2番のアンノウ〜ウィアパぁぁぁぁ、ヨゥ
パぁぁぁぁぁ、オブマハぁぁぁぁ〜♪
なんか身体中のネジがゆるんでバラバラになりそうな脱力感。たまんない(笑)
「I See The Moon」は1953年にアメリカでマリナーズ(5)、イギリスではスタ
ーゲイザーズ(6)が歌ってヒットした。
B面の「Put Your Head on My Shoulder」はポール・アンカの代表曲で19
53年に本人が歌いヒットさせた他、1968年にレターメン(7)もヒットさせている。
日本でも「フルーツ・カラーのお月さま/肩にもたれて」という邦題で1963年に
発売された。フルーツ路線はまだ続く(笑)
「フルーツ・カラーのお月さま」は梅木マリという女性歌手がカヴァーしていた
みたいだけど、僕はこの人を知らなかった。
あ、「トムとジェリー」の主題歌を歌ってた人なんだ!
6枚目の「One Way」は作曲クレジットがナンシー・シナトラになっているが、
たぶんゴーストライターがいるんだろう。
日本では「青い片道きっぷ」の邦題が付けられた。何で青いのかよくわからん。
B面の「The Cruel War」はアメリカに古くから伝わるフォークソングで、戦地
に兵士として送られるジョニーに恋人の女性が自分も一緒に行くと訴える、静かな
反戦歌である。
邦題は「戦場に消えたジョニー」。
↑ジャケット写真をクリックすると「戦場に消えたジョニー」が聴けます。
ピーター・ポール&マリーが1962年のデビュー・アルバムで3声ハーモニーにアレ
ンジして歌った。この時の邦題は「悲惨な戦争」とほぼ直訳。
PP&Mは1966年に再録音しシングル・リリースしている。
ベトナム戦争への反戦感情が広がっていた時期に支持された。いい曲だと思う。
1963年の時点でナンシーが歌っているのが興味深い。
ベトナム戦争の反戦集会が始まったのが1965年、全米に広がったのは1967年。
PP&Mが最初に歌った時もナンシーが歌った時も、そういう意味合いはなかった
んじゃないかと思われる。
1967年にナンシーの「シュガータウンは恋の町」がシングルリリースされる時に
「The Cruel War」は改めて「悲惨な戦争」という邦題でB面になった。(8)
日本でもベトナム戦争の反戦運動が注目されていたからだろうか。
邦題を変えたのはPP&M版が浸透していことを考慮してのことだと思う。
「Thanks To You」の原曲は名曲「薔薇のタンゴ(Tango Delle Rose)」。
そこから「バラのほほえみ」という邦題になったのだろう。
「タミー(Tammy)」は1957年のデビー・レイノルズ(9)の全米No.1ヒット。
彼女が主演した映画「タミーと独身者」の主題だった。
それにしてもここまで同じ写真を使い回ししてるのは手抜きもいいとこ。
恥ずかしくないのかなー。他に宣材がなかったんだろうか。
1964年のシングルA面「涙はどこへ行ったの(Where Do the Lonely Go?)」
は彼女のための書き下ろしのようだ。素敵なバラードである。(10)
この頃になるとナンシーの歌もだいぶこなれてきて情感も艶もある。
↑ジャケット写真をクリックすると「涙はどこへ行ったの」が聴けます。
B面「Just Think About the Good Times」は初期に通じるポップソング。
これも書き下ろしらしい。
「レモンの思い出」とまたまたレモンを引っ張り出してきた(笑)
この辺で果物ネタは尽きたらしい。
どうせなら「スイカの横恋慕」「スモモの恥じらい」「柿の悪あがき」「マンゴ
ーの甘い罠」とか延々と続ければよかったのに。(あれ、スイカは野菜だっけ?)
「別れのウェディング・ベル (There Goes The Bride) 」は男性コーラスの
ドゥビドゥ〜ダンドゥビドゥビ〜アイアイユ〜♪が和む。
父フランクとのデュエット「恋のひとこと (Somethin' Stupid)」(1967年)を
彷彿させる。
「心の中の恋 (This Love Of Mine) 」は1941年にフランク・シナトラがトミ
ー・ドーシー・オーケストラをバックで歌い、翌年に24週連続でチャートインし
たヒット曲。
フランクは1955年にネルソン・リドル・オーケストラをバックに再録音した。
流れるような美しいストリングスをバックに歌い上げるゆったりしたバラード
だったが、ナンシーのは16ビートのダンス・ヴァージョンで軽薄な感じ。
「The Answer To Everything」はバート・バカラックの曲。
1961年にデル・シャノン(11)がシングル・リリースしている。
「いろいろ訊かないで、いろいろ文句を言うのはやめて、私が好き?本当に?
じゃあそれが答えよ」という内容。
「ピンクのキッス」という邦題がどこから降って湧いたのか不明(笑)
「トゥルー・ラブ (True Love)」(12)はコール・ポーター(13)生涯最後の曲。
1956年のミュージカル映画「上流社会」でビング・クロスビーとグレイス・ケ
リーが船上で歌う美しい曲。
以上、悪女路線前のナンシーもなかなかいいですよ〜。
<脚注>
収録曲について(自分で調べた範囲だけど)ざっと説明しておこう。
「Cuff Links And A Tie Clip/Not Just Your Friend」はアメリカで1961
年にリリースされたナンシーの記念すべきデビュー・シングル。
2曲とも彼女のために書かれた新曲らしい。日本では発売されなかったと思う。
アメリカでの2枚目のシングルA面は「To Know Him Is To Love Him」。
フィル・スペクター(1)の曲でテディベアーズ(2)が1958年にヒットさせた。
日本ではB面の「Like I Do」の方が受けると判断され「レモンのキッス」の邦題
でA面とB面を入れ替え1962年9月に発売。ヒットした。
日本語版はザ・ピーナッツが歌いヒットさせた。(森山加代子との競作)(3)
作曲クレジットはディック・マニングであるが、原曲はイタリアのポンキエッリ
のクラシック。オペラ内のバレエ音楽をアレンジして詞を付けたもの。
歌詞は「あの子はあなたにキスするのね、ハグするよね、あたしみたいに、でも
でもぜーったいあたしの方があなたを好きなんだから」という内容で、ボーイフ
レンドに二股をかけられた女の子の気持ちを歌っている。
レモンのレの字も出てこない。
前回書いたように「フルーツの邦題をつければ売れる」という勘違いと「初恋は
レモンの味」というこじつけから付けられたタイトルではないかと思う。
ナンシーはこの歌を嫌っていたらしい。
そりゃ、そうだ。どっちかと言えば二股かけちゃう方だもんね(笑)
But she’ll never♪で声がひっくり返る所がバカっぽくていい。
↑ジャケット写真をクリックすると「レモンのキッス」が聴けます。
シングル3枚目は「Think Of Me/June, July And August」。
同じく日本ではA面とB面を入れ替えて発売された。
A面扱いの「Think Of Me」は後のナンシーに通じる曲。
前作にあやかってぜんぜん関係ない「リンゴのためいき」という邦題になった。
「夜なかなか寝付けない時はあなたを抱きしめる人が必要でしょ。私を思って。
私はあなたとどこまでも一緒に行くわ。忠実で献身的、すべて本当よ」とまるで
ナンシーとは正反対の謙虚な(笑)乙女心を歌っている。
リンゴのリの字も出てこない。ため息つくリンゴってうまく想像できないな。
「June, July And August」の当時の邦題は「たのしいバカンス」。
ラスティ・ドレイパーが歌っていた同名曲と内容を取り違えたのではないかと思
われる。
ナンシーのこの曲はしっとりしたバラードで、恋に落ちるロマンチックで素敵な
季節について歌っている。A面はちょっと厳しいかも。
アメリカでのシングル第4弾A面(1962年)はジュリアナが1961年に歌った「
You Can Have Any Boy」で、B面は「Tonight You Belong To Me」。
B面の方が売れると踏んだ日本ビクターはまたしてもA面とB面を入れ替える。
ここで前例に倣い、柳の下のドジョウ狙いで「イチゴの片想い」という邦題を無
理やりくっつけて発売した。
原題は「今夜はあなたは私のもの」で、新しい女性の元へ行ってしまう恋人にせ
めて夜が明けるまで私と一緒にいて、と歌っている。イチゴは出てこない。
日本語版は中尾ミエが「甘い〜イチゴ〜なの〜♪」と歌いヒットした。
歌詞はなんと!ミュージックライフの編集長だった星加ルミ子さんである。
ベニ・シスターズという女性コーラス・グループもカヴァーしていた。(4)
原曲は1927年にジーン・オースティンがヒットさせている。
1956年にフランク・シナトラと仕事をしていたオーケストラ・リーダーのマーク
・マッキンタイアは自分の娘、11歳のプルーデンスと14歳のぺイシェンスをLAの
スタジオに連れて行きこの曲を録音し発売したところ英米で大ヒットした。
ナンシーの歌はこのプルーデンス&ぺイシェンス版を元にアレンジされている。
↑ジャケット写真をクリックすると「イチゴの片想い」が聴けます。
能天気なイントロに続き、やや調子っぱずれなアイノウ〜ユビロぉぉぉぉントゥ、
サぁぁぁぁンバディ、エぇぇぇルス♪、2番のアンノウ〜ウィアパぁぁぁぁ、ヨゥ
パぁぁぁぁぁ、オブマハぁぁぁぁ〜♪
なんか身体中のネジがゆるんでバラバラになりそうな脱力感。たまんない(笑)
「I See The Moon」は1953年にアメリカでマリナーズ(5)、イギリスではスタ
ーゲイザーズ(6)が歌ってヒットした。
B面の「Put Your Head on My Shoulder」はポール・アンカの代表曲で19
53年に本人が歌いヒットさせた他、1968年にレターメン(7)もヒットさせている。
日本でも「フルーツ・カラーのお月さま/肩にもたれて」という邦題で1963年に
発売された。フルーツ路線はまだ続く(笑)
「フルーツ・カラーのお月さま」は梅木マリという女性歌手がカヴァーしていた
みたいだけど、僕はこの人を知らなかった。
あ、「トムとジェリー」の主題歌を歌ってた人なんだ!
6枚目の「One Way」は作曲クレジットがナンシー・シナトラになっているが、
たぶんゴーストライターがいるんだろう。
日本では「青い片道きっぷ」の邦題が付けられた。何で青いのかよくわからん。
B面の「The Cruel War」はアメリカに古くから伝わるフォークソングで、戦地
に兵士として送られるジョニーに恋人の女性が自分も一緒に行くと訴える、静かな
反戦歌である。
邦題は「戦場に消えたジョニー」。
↑ジャケット写真をクリックすると「戦場に消えたジョニー」が聴けます。
ピーター・ポール&マリーが1962年のデビュー・アルバムで3声ハーモニーにアレ
ンジして歌った。この時の邦題は「悲惨な戦争」とほぼ直訳。
PP&Mは1966年に再録音しシングル・リリースしている。
ベトナム戦争への反戦感情が広がっていた時期に支持された。いい曲だと思う。
1963年の時点でナンシーが歌っているのが興味深い。
ベトナム戦争の反戦集会が始まったのが1965年、全米に広がったのは1967年。
PP&Mが最初に歌った時もナンシーが歌った時も、そういう意味合いはなかった
んじゃないかと思われる。
1967年にナンシーの「シュガータウンは恋の町」がシングルリリースされる時に
「The Cruel War」は改めて「悲惨な戦争」という邦題でB面になった。(8)
日本でもベトナム戦争の反戦運動が注目されていたからだろうか。
邦題を変えたのはPP&M版が浸透していことを考慮してのことだと思う。
「Thanks To You」の原曲は名曲「薔薇のタンゴ(Tango Delle Rose)」。
そこから「バラのほほえみ」という邦題になったのだろう。
「タミー(Tammy)」は1957年のデビー・レイノルズ(9)の全米No.1ヒット。
彼女が主演した映画「タミーと独身者」の主題だった。
それにしてもここまで同じ写真を使い回ししてるのは手抜きもいいとこ。
恥ずかしくないのかなー。他に宣材がなかったんだろうか。
は彼女のための書き下ろしのようだ。素敵なバラードである。(10)
この頃になるとナンシーの歌もだいぶこなれてきて情感も艶もある。
↑ジャケット写真をクリックすると「涙はどこへ行ったの」が聴けます。
B面「Just Think About the Good Times」は初期に通じるポップソング。
これも書き下ろしらしい。
「レモンの思い出」とまたまたレモンを引っ張り出してきた(笑)
この辺で果物ネタは尽きたらしい。
どうせなら「スイカの横恋慕」「スモモの恥じらい」「柿の悪あがき」「マンゴ
ーの甘い罠」とか延々と続ければよかったのに。(あれ、スイカは野菜だっけ?)
「別れのウェディング・ベル (There Goes The Bride) 」は男性コーラスの
ドゥビドゥ〜ダンドゥビドゥビ〜アイアイユ〜♪が和む。
父フランクとのデュエット「恋のひとこと (Somethin' Stupid)」(1967年)を
彷彿させる。
「心の中の恋 (This Love Of Mine) 」は1941年にフランク・シナトラがトミ
ー・ドーシー・オーケストラをバックで歌い、翌年に24週連続でチャートインし
たヒット曲。
フランクは1955年にネルソン・リドル・オーケストラをバックに再録音した。
流れるような美しいストリングスをバックに歌い上げるゆったりしたバラード
だったが、ナンシーのは16ビートのダンス・ヴァージョンで軽薄な感じ。
「The Answer To Everything」はバート・バカラックの曲。
1961年にデル・シャノン(11)がシングル・リリースしている。
「いろいろ訊かないで、いろいろ文句を言うのはやめて、私が好き?本当に?
じゃあそれが答えよ」という内容。
「ピンクのキッス」という邦題がどこから降って湧いたのか不明(笑)
「トゥルー・ラブ (True Love)」(12)はコール・ポーター(13)生涯最後の曲。
1956年のミュージカル映画「上流社会」でビング・クロスビーとグレイス・ケ
リーが船上で歌う美しい曲。
以上、悪女路線前のナンシーもなかなかいいですよ〜。
<脚注>
2016年8月17日水曜日
フルーツ=キュート♡はヒットの方程式?<前編>
ナンシー・シナトラといえば「にくい貴方」のヒット(1966年)や「シュ
ガータウンは恋の町」「バンバン」「007は二度死ぬのテーマ」。
ケバくてちょっとエロい姉御キャラ、そしてトレードマークのブーツ。
でもブレイクする5年前にナンシーは一度歌手デビューしているのだ。
フランクは娘のナンシーを溺愛していて、彼女のショービジネス界デビューに
も協力的だったらしい。
1960年3月ナンシーは父の代わりに、除隊しドイツから帰国するエルヴィスを
ニュージャージーのマクガイア空港に出迎え、父からの贈りもの(レースフロ
ント・シャツ)と手紙を届けた。
エルヴィスの除隊後の最初の仕事はABCテレビの「フランク・シナトラ・タイ
メックス・ショー」(1)への出演であった。
「Welcome Home Elvis」というサブタイトルで5月12日に放映されたのこの
特番にはナンシーも出演し、フランクとデュエットし軽妙なトークとダンスも
披露している。
翌1961年フランクが設立したリプリーズレコード(2)から歌手デビュー。
アイドル路線で1965年までにシングル盤を9枚リリースしたが売れなかった。
ちょっとオバサンっぽいし(ナンシーはこの時既に結婚していた)そもそもア
イドルという顔立ちじゃないし、どう見ても純情そうじゃないし(笑)
それはともかく、コニー・フランシス(3)やジョニー・ソマーズ(4)の路線を狙っ
たのだろうが、歌唱力の点でもアメリカ市場では受け入れられなかったようだ。
1965年に離婚したナンシーが歌手として再デビューするにあたって、プロデュ
ーサーのリー・ヘイズルウッドは「今さら純情ぶってもしょうがないだろう」
と思い切ってセクシーな悪女路線で売ることにする。
これが当たった。
猫をかぶっていい子のふりをする必要もなく、本来の性悪ぶりを地で行けばい
いわけだから本人もやりやすいし(笑)周囲もホッとしたことだろう。
「にくい貴方」(1966年)から「ドラマーマン」(1968年)までナンシーは
全米ヒットチャートの常連で、’60sガールのアイコン的存在となった。
1965年以前のアイドル路線の頃のナンシーはアメリカではほとんど記憶されて
いないのか、「なかったことにしようね」的な過去として扱われている。
CD化されたのも1965年の再デビュー以降のアルバムだけだ。
本国ではさっぱりだった初期のナンシーだが日本とイタリアでは売れている。
イタリアでの人気はシナトラ家がイタリア系だったせいかもしれない。
一方、日本ではレコード会社の独自の仕掛けがヒットに貢献していたのだ。
その日本ではヒットしたナンシーの初期のシングル曲集がCD化された。
この6月に発売されたばかりだが、7月に気づいた時にはAmazonもHMVも在庫
なしで入荷の見込みがないため受注できない、となっていた。何で?
発売元はオールデイズ・レコードというオールディーズ復刻を専門にしている
インディペンデント・レーベルらしい。
つまり原盤権(5)の保護期限が切れた音源をCD化しているわけだ。
ナンシーの初期作品はアメリカではCD化されておらず数年前からデジタル配信
でのみ販売されている。
その販売元がBoots Enterprises, Inc。おそらく彼女のエージェントだろう。
音源を使用する場合は楽曲の著作権とは別に、その音源マスター(原盤)の所
有者=レコード会社と実演者(アーティスト)に別途許諾を得る必要がある。
ライノ、ワンウェイ、ベアファミリーなど欧米の復刻専門レーベルはレコード
会社の許諾を得て、ジャケットやディスクに元のレーベルも提示している。
だが、このCDにはリプリーズのロゴもBoots Enterprises, Incの記載もない。
日本の法律上問題ないと許諾なしに発売したところクレームが入り一時出荷停
止になっているのではないだろうか。
幸い山野楽器本店に在庫があったので、僕は買うことができた。
もし入手できるチャンスがあるなら早めに抑えておくことをお薦めする。
さて、そのナンシーのシングル曲集CD「レモンのキッス」の内容だが。
まず曲目を見ていただきたい。
1. カフス・ボタンとネクタイ・ピン (Cuff Links And A Tie Clip)
2. お友だちじゃイヤ (Not Just Your Friend)
3. レモンのキッス (Like I Do)
4. 逢ったとたんに一目ぼれ (To Know Him Is To Love Him)
5. ジューン、ジュライ・アンド・オーガスト (June, July And August)
6. シンク・オブ・ミー (Think Of Me)
7. イチゴの片想い (Tonight You Belong To Me)
8. かわいいボーイ・キラー (You Can Have Any Boy)
9. フルーツ・カラーのお月さま (I See The Moon)
10. 肩にもたれて (Put Your Head On My Shoulder)
11. 青い片道切符 (One Way)
12. 戦場に消えたジョニー (Cruel War)
13. バラのほほえみ (Thanks To You)
14. タミー (Tammy)
15. 涙はどこへ行ったの (Where Do The Lonely Go)
16. レモンの思い出 (Just Think About The Good Times)
17. 別れのウェディング・ベル (There Goes The Bride)
18. 心の中の恋 (This Love Of Mine)
19. ピンクのキッス (The Answer To Everything)
20. トルー・ラブ (True Love)
レモンのキッス、イチゴの片想い、レモンの思い出、フルーツ・カラーのお月さ
ま。。。とやたらフルーツがらみの邦題が多いことにお気づきだろうか。
「シンク・オブ・ミー」もシングル発売時は「リンゴのためいき」だった。
リンゴのためいきって。。。何だ?(笑)
いずれも英題にも歌詞にも果物は一切出てこない。
ナンシーを売り出すにあたって日本ビクターは、日本人受けしそうな曲をA面に
持って来て(それは正しい選択)、乙女チックなフルーツの邦題をつけたのだ。
それはただの思いつきではなく、それなりの理由があった。
1958年にスペインでグロリア・ラッソ(6)の「Corazon De Melon」がヒットし、
アメリカでもローズマリー・クルーニー(7)がカバーしてヒットした。
日本では1960年に「メロンの気持ち」という邦題で森山加代子が歌いヒット。
デメロン、デメロンメロンメロン・・・♪の連呼を覚えてる人も多いだろう。
この曲は原曲にもちゃんとメロンが出てくる。
次に1960年にアメリカでアネット(8)が歌う「パイナップル・プリンセス」がヒ
ットし、日本では翌1961年に田代みどりのカヴァーが大ヒット。
これも原曲はまんまパイナップル・プリンセスである。
深く考えるのが苦手な日本のレコード会社はヒットの方程式をここに見出した。
洋楽の女性歌手の歌はフルーツのタイトルをつければ売れる、と短絡的に思って
しまったのである。
まさに柳の下の3匹目のドジョウを狙う発想に至ったわけだが、まだそれほど浸
透していな洋楽を売るためには何でもアリの時代だったのだ。
復刻CD「レモンのキッス」の収録曲については次回。
<脚注>
ガータウンは恋の町」「バンバン」「007は二度死ぬのテーマ」。
ケバくてちょっとエロい姉御キャラ、そしてトレードマークのブーツ。
でもブレイクする5年前にナンシーは一度歌手デビューしているのだ。
フランクは娘のナンシーを溺愛していて、彼女のショービジネス界デビューに
も協力的だったらしい。
1960年3月ナンシーは父の代わりに、除隊しドイツから帰国するエルヴィスを
ニュージャージーのマクガイア空港に出迎え、父からの贈りもの(レースフロ
ント・シャツ)と手紙を届けた。
エルヴィスの除隊後の最初の仕事はABCテレビの「フランク・シナトラ・タイ
メックス・ショー」(1)への出演であった。
「Welcome Home Elvis」というサブタイトルで5月12日に放映されたのこの
特番にはナンシーも出演し、フランクとデュエットし軽妙なトークとダンスも
披露している。
翌1961年フランクが設立したリプリーズレコード(2)から歌手デビュー。
アイドル路線で1965年までにシングル盤を9枚リリースしたが売れなかった。
ちょっとオバサンっぽいし(ナンシーはこの時既に結婚していた)そもそもア
イドルという顔立ちじゃないし、どう見ても純情そうじゃないし(笑)
それはともかく、コニー・フランシス(3)やジョニー・ソマーズ(4)の路線を狙っ
たのだろうが、歌唱力の点でもアメリカ市場では受け入れられなかったようだ。
1965年に離婚したナンシーが歌手として再デビューするにあたって、プロデュ
ーサーのリー・ヘイズルウッドは「今さら純情ぶってもしょうがないだろう」
と思い切ってセクシーな悪女路線で売ることにする。
これが当たった。
猫をかぶっていい子のふりをする必要もなく、本来の性悪ぶりを地で行けばい
いわけだから本人もやりやすいし(笑)周囲もホッとしたことだろう。
「にくい貴方」(1966年)から「ドラマーマン」(1968年)までナンシーは
全米ヒットチャートの常連で、’60sガールのアイコン的存在となった。
1965年以前のアイドル路線の頃のナンシーはアメリカではほとんど記憶されて
いないのか、「なかったことにしようね」的な過去として扱われている。
CD化されたのも1965年の再デビュー以降のアルバムだけだ。
本国ではさっぱりだった初期のナンシーだが日本とイタリアでは売れている。
イタリアでの人気はシナトラ家がイタリア系だったせいかもしれない。
一方、日本ではレコード会社の独自の仕掛けがヒットに貢献していたのだ。
その日本ではヒットしたナンシーの初期のシングル曲集がCD化された。
この6月に発売されたばかりだが、7月に気づいた時にはAmazonもHMVも在庫
なしで入荷の見込みがないため受注できない、となっていた。何で?
発売元はオールデイズ・レコードというオールディーズ復刻を専門にしている
インディペンデント・レーベルらしい。
つまり原盤権(5)の保護期限が切れた音源をCD化しているわけだ。
ナンシーの初期作品はアメリカではCD化されておらず数年前からデジタル配信
でのみ販売されている。
その販売元がBoots Enterprises, Inc。おそらく彼女のエージェントだろう。
音源を使用する場合は楽曲の著作権とは別に、その音源マスター(原盤)の所
有者=レコード会社と実演者(アーティスト)に別途許諾を得る必要がある。
ライノ、ワンウェイ、ベアファミリーなど欧米の復刻専門レーベルはレコード
会社の許諾を得て、ジャケットやディスクに元のレーベルも提示している。
だが、このCDにはリプリーズのロゴもBoots Enterprises, Incの記載もない。
日本の法律上問題ないと許諾なしに発売したところクレームが入り一時出荷停
止になっているのではないだろうか。
幸い山野楽器本店に在庫があったので、僕は買うことができた。
もし入手できるチャンスがあるなら早めに抑えておくことをお薦めする。
さて、そのナンシーのシングル曲集CD「レモンのキッス」の内容だが。
まず曲目を見ていただきたい。
1. カフス・ボタンとネクタイ・ピン (Cuff Links And A Tie Clip)
2. お友だちじゃイヤ (Not Just Your Friend)
3. レモンのキッス (Like I Do)
4. 逢ったとたんに一目ぼれ (To Know Him Is To Love Him)
5. ジューン、ジュライ・アンド・オーガスト (June, July And August)
6. シンク・オブ・ミー (Think Of Me)
7. イチゴの片想い (Tonight You Belong To Me)
8. かわいいボーイ・キラー (You Can Have Any Boy)
9. フルーツ・カラーのお月さま (I See The Moon)
10. 肩にもたれて (Put Your Head On My Shoulder)
11. 青い片道切符 (One Way)
12. 戦場に消えたジョニー (Cruel War)
13. バラのほほえみ (Thanks To You)
14. タミー (Tammy)
15. 涙はどこへ行ったの (Where Do The Lonely Go)
16. レモンの思い出 (Just Think About The Good Times)
17. 別れのウェディング・ベル (There Goes The Bride)
18. 心の中の恋 (This Love Of Mine)
19. ピンクのキッス (The Answer To Everything)
20. トルー・ラブ (True Love)
レモンのキッス、イチゴの片想い、レモンの思い出、フルーツ・カラーのお月さ
ま。。。とやたらフルーツがらみの邦題が多いことにお気づきだろうか。
「シンク・オブ・ミー」もシングル発売時は「リンゴのためいき」だった。
リンゴのためいきって。。。何だ?(笑)
いずれも英題にも歌詞にも果物は一切出てこない。
ナンシーを売り出すにあたって日本ビクターは、日本人受けしそうな曲をA面に
持って来て(それは正しい選択)、乙女チックなフルーツの邦題をつけたのだ。
それはただの思いつきではなく、それなりの理由があった。
1958年にスペインでグロリア・ラッソ(6)の「Corazon De Melon」がヒットし、
アメリカでもローズマリー・クルーニー(7)がカバーしてヒットした。
日本では1960年に「メロンの気持ち」という邦題で森山加代子が歌いヒット。
デメロン、デメロンメロンメロン・・・♪の連呼を覚えてる人も多いだろう。
この曲は原曲にもちゃんとメロンが出てくる。
次に1960年にアメリカでアネット(8)が歌う「パイナップル・プリンセス」がヒ
ットし、日本では翌1961年に田代みどりのカヴァーが大ヒット。
これも原曲はまんまパイナップル・プリンセスである。
深く考えるのが苦手な日本のレコード会社はヒットの方程式をここに見出した。
洋楽の女性歌手の歌はフルーツのタイトルをつければ売れる、と短絡的に思って
しまったのである。
まさに柳の下の3匹目のドジョウを狙う発想に至ったわけだが、まだそれほど浸
透していな洋楽を売るためには何でもアリの時代だったのだ。
復刻CD「レモンのキッス」の収録曲については次回。
<脚注>
2016年8月10日水曜日
「卒業」の準主役はサイモン&ガーファンクルかもしれない。
もちろん「卒業」の成功は原作と脚本、マイク・ニコルズ監督の手腕、ダスティン
・ホフマンを始めとする出演者たちの魅力に尽きるが、サイモン&ガーファンクル
の歌も準主役と言っていいくらい印象的だった。
前回も書いたがこの映画が一年遅れて制作されていたら、音楽がCSN&Yだったら、
主役が当初キャスティングされていたロバート・レッドフォードだったら・・・・
ぜんぜん別な作品になっていただろう。
「卒業」がアメリカン・ニューシネマ(1)の先駆け、かつ代表作となったこと。
そして従来とは一線を画す映画音楽であったことの意義は大きい。
1966年まではヘンリー・マンシーニ、ジョン・バリー、モーリス・ジャールなど、
いわゆる映画音楽かミュージカル、ロックであればプレスリーなどの青春モノでこ
こぞという時に一曲ご披露、というのがハリウッド映画の定石だった。
「卒業」はシンガー&ソングライターの曲が映画の重要な一役を担った、言葉を変
えるならフォークロックと映画が違和感なく融合した初めての作品だと思う。
これ以降、「イージーライダー」「真夜中のカーボーイ」「いちご白書」とロック
はアメリカン・ニューシネマの一つの特徴になった。
「卒業」のテーマ曲として使われた「サウンド・オブ・サイレンス」はもともとサ
イモン&ガーファンクルの1964年のデビュー・アルバム、「水曜の朝、午前3時」
に収録されていた曲で、伴奏はアコースティック・ギターのみだった。
↑写真をクリックすると「サウンド・オブ・サイレンス」の弾き語りヴァージョン
(スタジオ・ライヴ)が視聴できます。
翌年6月プロデューサーのトム・ウィルソンはボブ・ディランの「ライク・ア・ロ
ーリングストーン」のレコーディングを終え時間が余ったミュージシャンたち(2)
を使って、この曲にエレクトリック・ギター、ベース、ドラムなどを独断でオーヴ
ァーダブした。
そしてサイモン&ガーファンクルに何の断りも無くシングル発売した。
ポール・サイモンは激怒したが、エレクトリック・ヴァージョンの「サウンド・
オブ・サイレンス」は1966年初頭に全米ヒットチャートの1位に輝いた。
1965年はバーズの「ミスター・タンブリンマン」が全米1位のヒットを記録し、
その作曲者のディランもフォークロックへの転身を宣言したくらいだった。
「サウンド・オブ・サイレンス」にその味付けを断行したトム・ウィルソンは
先見の明があった、と言える。
そのエレクトリック・ヴァージョンが「卒業」で使われたわけである。
サイモン&ガーファンクルはニューヨークの都会的かつ知的な色合いが強いフ
ォーク・デュオだが、バーズに通ずるフォークロックの味付けがされたことで、
「卒業」にはうってつけの曲となった。
ダスティン・ホフマン演じるベンジャミンは東部のコロンビア大学の優等生だ
が卒業後、ロサンジェルスの実家に戻り上流階級の停滞した空気の中でミセス
・ロビンソンと情事を重ねる。
東部の引きしまった空気感と知性。西海岸の眩い太陽。
その両方が「サウンド・オブ・サイレンス」から伝わるのだ。
歌詞は知的だが難解だ。
「沈黙の音」は「コミュニケーション不足の社会」「何も見ようとせず、知ろ
うとせず生きていく人々」を表している、とも言われる。
もう一つの印象的な美しい曲「スカボロー・フェア」はイギリス民謡である。
スカーバラの市(中世末期ヨークシャー地方の北海沿岸にあった重要な交易拠
点)に行くなら、そこに住むかつての恋人によろしく伝えてくれと歌っている
が、内容は不可解である。
繰り返される「パセリ、セージ、ローズマリー、タイム」はいずれもハーブ。
魔除けの効果があるとされる香草が歌に織り込まれたとも取れるし、別れた恋
人との間の苦味を取り除き傷を癒すためとも取れる。
ポール・サイモンがイギリスで活動していた時に発表した「ポール・サイモン・
ソングブック」(3)に収録されていた「ザ・サイド・オブ・ア・ヒル」の一部が
主旋律と対をなすように織り込まれ、反戦的な意味合いを持たせてある。
「4月になれば彼女は」も無垢で素敵な曲だ。
伴奏はポール・サイモンの特徴的なスリーフィンガーだけという潔さ。
倒置法と韻を含ませた歌詞の美しさはポール・サイモンならではである。
春に芽生えた恋が相手の女性の死で終わり、秋には懐かしく思い出す・・・・
という内容に思えるが、恋の始まりから終わりを命と捉え、季節の移り変わり
にかけて書かれた曲とも解釈できる。
July, she will fly and give no warning of her flight は「飛ぶだろう」では
なく、「何の予告もなしに彼女はいなくなってしまうだろう」という意味。
August, die she must は「死んでしまうはず」ではなく、恋の終わりが迫っ
てきたことの比喩と解釈できる。
アメリカでは学年の区切りが9月に始まり8月に終わるため、学生時代の恋が
終ることもよくあるらしい。
そんな季節的な感傷も歌の背景にあるのだろう。
September, I'll remember A love once new has now grown old の
grow oldは「年をとる」の他に「成長して大人になる」という意味がある。
「愛が生まれて成長し今、終わりを迎えたことを忘れない」ということだ。
「ミセス・ロビンソン」は「卒業」のために書かれた曲である。
翌1968年2月に録音された新ヴァージョンがアルバム「ブックエンド」に収
録されたが、映画用に録音されたのはポール・サイモンのギター一本でコー
ラス部のみが歌われるややスローなショート・ヴァージョンだった。
アルファロメオ・スパイダーがガス欠で止まるシーンでは、アコースティック
ギターのカッティングが遅くなって行くのが効果的に使われている。
ョンが聴けます。
この曲は当初はミセス・ロビンソンの曲ではなかった。
古きよき時代を懐かしむ内容で、ミセス・ルーズベルトとジョー・ディマジオ
(4)について歌われている。
ポール・サイモンが「映画用ではないけれど」とマイク・ニコルズ監督に聴か
せたところ気に入られ、ミセス・ロビンソンの歌に流用することになった。
映画で使われたショート・ヴァージョンにはないが、後に再録音されて「ブッ
クエンド」に収録されたヴァージョンでは、歌詞にジョー・ディマジオが登場
する箇所(5)がある。
Where have you gone, Joe DiMaggio A nation turns its lonely eyes to you
What's that you say, Mrs. Robinson Joltin' Joe has left and gone away
ジョー・ディマジオ どこへ行ってしまったんだい? 国中が寂しがってるよ
何てすか?ミセス・ロビンソン ジョルティン・ジョー(6)はもういないんですよ
また2番目のヴァースの歌詞は意味深な内容になっている。
Hide it in a hiding place where no one ever goes
Put it in your pantry with your cupcakes
It's a little secret, just the Robinsons' affair
Most of all, you've got to hide it from the kids
誰にも分らないところに隠しておきなさい
カップケーキと一緒に食品棚にしまっておくんです
ちょっとした秘密ですね ロビンソン家の裏事情ってところかな
子供達には見つからないようにしなくては それが一番大事
ミセス・ロビンソンはドラッグ(コカインかヘロイン)でもやってるのだろう。
(映画ではそういう話は出てこないが)
あるいは秘めごとを隠しておくべきドラッグに例えてるのかもしれない。
「卒業」のサウンドトラックを依頼された際、ポール・サイモンが提供しよう
としたのは「オーバース」と「パンキーのジレンマ」だったが、マイク・ニコ
ルズ監督の判断で使われなかったそうだ。
両方ともいい曲だが、地味であまりキャッチーではない。
もし「サウンド・オブ・サイレンス」と「スカボロー・フェア」でなかったら、
この映画はぜんぜん別物になっていたのではないかと思う。
<脚注>
2016年8月4日木曜日
「卒業」のダスティン・ホフマンに学ぶ服飾術。
久しぶりで映画「卒業」(1)を見た。
リバイバル上映で僕が見たのは15歳の時だった。初めての女の子とのデート。
前日の雪がまだ残っていて、僕はヴァンジャケットのオリーブ色のランチコート、
彼女はグレーフランネルのコートを着ていた。
彼女は手編みのマフラーをプレゼントしてくれた。
グレーと白の縞のローゲージニットでその日僕が着ていたランチコートには不釣
り合いだったが、僕はお礼を言ってすぐに首に巻いた。
当時スクリーンを見つめている時はぜんぜん分らなかったけど今見ると、ああ、
そういうことだったのか、なるほど、と思うことも多い。
まずダスティン・ホフマンが演じるベンジャミンのアイビー・スタイル(2)のカ
ッコよさ、着こなしの上手さに改めて感服した。
ストーリー中の季節の流れやベンジャミンの変化が服を見ているとよく分かる。
冒頭の空港のシーンではミディアムグレーのスーツに白シャツ、ブラックにホワ
イトのラインが入ったタイ、とモノトーンで決めている。
彼はニューヨークのコロンビア大学で優秀な成績で卒業し(陸上選手、新聞部長
でもあった)ロサンジェルスの実家に帰るところだ。
アメリカの大学はふつう6月卒業だからその頃だろう。西海岸の初夏。
将来を嘱望される若者は歓迎されたが何か違和感を感じる。そして虚無感も。
ミセス・ロビンソンに誘惑されるシーンは、ネイビーのジャケットにミディアム
グレーのパンツ、クリームイエローのBDシャツにブラック、ゴールド、シルヴァ
ーのレジメンタルストライプのタイ。(すべて僕も持っていたアイテムだ!)
ベンジャミンのジャケットはナチュラルショルダーでフックドベント(3)のよう
に見えるので、J.プレスではないかと思われる。
パンツはノープリーツの程よいパイプドステム・シルエットだ。
靴はジョンストン&マーフィーかコールハーン辺り(4)ではないだろうか。
初めての情事の時はヘリンボーンのジャケットにチャコールグレーのパンツ。
つまりベンジャミンは誘惑されてから5か月も悶々と悩み、意を決してミセス・
ロビンソンをホテルに誘ったのは12月頃、ということだ。
彼女も高価そうな豹柄の毛皮を羽織っている。
ミセス・ロビンソンと不毛な情事を重ね、無為に時を過ごすベンジャミン。
レコードのジャケ写にも使われた彼女がストッキングを履くシーンでは、キャメ
ル色のコーデュロイ・ジャケットにダークグレーのパンツの合わせ方も完璧だ。
図らずもミセス・ロビンソンの娘エレーンとデートすることになってしまう。
エレインは夏休みで帰省している。ということは6月だろう。
ベンジャミンはシアサッカーのジャケット、シャンブレーのシャツにブラック
のニットタイ、グレーのパンツ。(僕も持ってたがこんなに爽やかじゃない)
そして真っ赤なアルファロメオ・スパイダー。(持ってなかった→笑)
エレーンを真剣に愛し始めたベンジャミンは彼女に事実を告白する。
ショックを受けた彼女はカリフォルニア大学バークレー校に戻り、ベンジャミン
もバークレーに下宿し彼女に付きまとう(今ならストーカー)。
アメリカの大学の夏休みが終わるが9月。だから秋めいてきた10月なのだろう。
バークレーはサンフランシスコの対岸に位置し、同じカリフォルニアでもロサン
ジェルスよりはだいぶ冷える。
そのちょっと頬に冷たい空気が感じられるのだ。
動物園のシーンではベンジャミンは前述のキャメル色のコーデュロイ・ジャケッ
トにに黒のポロシャツ、ジーンズ(たぶんリーバイス)を履いている。
カチッとした格好のベンジャミンがだんだんラフになって行くのがおもしろい。
エレーンが退学したことを知ったベンジャミンはバークレーから彼女の家がある
ロザンジェルスまでアルファロメオ・スパイダーを飛ばす。
その距離は605km。東京からだと神戸まで、北なら秋田くらいだろうか。
ひたすら5号線を走るのだが、ずーっと変わり映えしない風景が続く。
単調で飽きる。アクセルを踏む右足が疲れて、横着して左足で踏んだりする。
それでもたまに大型トラックとすれ違うくらいだから問題ない。
とにかく5〜6時間かけて一人で運転するにはかなりしんどい道のりである。
それをベンジャミンは何と!ぶっ続けで1往復半してるのだ。
ミセス・ロビンソンからエレーンが結婚することを知らされたベンジャミンは、
その足でバークレーまでとんぼ返り。
結婚相手の友人からサンタバーバラで式を挙げることを聞きまた車に飛び乗る。
サンタバーバラはロサンジェルスに近い高級リゾート地だ。観光客も多い。
スペイン調の町並みが美しく誰もが心を奪われるだろう。
バークレーからの距離は520km。
サンタバーバラ市内でガス欠したスパイダーを乗り捨ててベンジャミンは走る。
想像できるだろうか。
東京→神戸→東京→神戸と運転した後、ボロボロの状態で走ることを。
しかもベンジャミンが履いていたジャックパーセル(5)はバドミントン・シュー
ズでベタッとしたラバーソール。ランニングにはまったく不向きだ。
いかに彼が陸上選手であったとしても、かなり走りにくかったに違いない。
それでもベンジャミンは走り続けた。そんなことも今なら見て分かる。
有名な花嫁奪還のラストシーンはオフホワイトのボートパーカー(6)(マイティ
ーマック辺りだろう)とホワイトジーンズ(リーバイス?)を着ている。
足元はジャックパーセルのキャンバス、白。もう完璧である。
余談だが、ベンジャミンが下宿を借りる際に大家から「演説屋じゃないか?」と
疑われるシーンがある。
カリフォルニア大学バークレー校は初めて学生のアジテーターが登場した学校で
、学生学生運動の発祥の地なのだ。
1964年にバークレー校の学生の間で始まったティーチ・インと言われる反戦集会
は、大学の官僚的体制の改革を求める運動にまで発展し、1968年にはコロンビア
大学やハーヴァード大学で学生が校舎を占拠するなど過激な運動(7)が展開された。
バークレー、サンフランシスコは音楽、ドラッグ、フリーセックス、表現、政治
的意思表示、ヒッピー革命の中心地(8)である。
しかし「卒業」を見る限り、カリフォルニア大学バークレー校のキャンパスはい
たってノーマルでヒッピーカルチャーに染まった若者たちの姿も見られない。
この映画が制作された1967年前半はまさにサマー・オブ・ラブ(9)の夜明け前だ
ったのだろう。それは極めて重要なポイントである。
もし一年後に制作されていたら、バークレー校の様相は違っていただろう。
ベンジャミンはアイビーではなくベルボトムジーンズを履いていたかもしれない。
音楽もドアーズかCSN&Yかグレイトフルデッドになっていたもしれないのだ。
ということで次回は(やっと)「卒業」の音楽の話。
<脚注>
リバイバル上映で僕が見たのは15歳の時だった。初めての女の子とのデート。
前日の雪がまだ残っていて、僕はヴァンジャケットのオリーブ色のランチコート、
彼女はグレーフランネルのコートを着ていた。
彼女は手編みのマフラーをプレゼントしてくれた。
グレーと白の縞のローゲージニットでその日僕が着ていたランチコートには不釣
り合いだったが、僕はお礼を言ってすぐに首に巻いた。
当時スクリーンを見つめている時はぜんぜん分らなかったけど今見ると、ああ、
そういうことだったのか、なるほど、と思うことも多い。
まずダスティン・ホフマンが演じるベンジャミンのアイビー・スタイル(2)のカ
ッコよさ、着こなしの上手さに改めて感服した。
ストーリー中の季節の流れやベンジャミンの変化が服を見ているとよく分かる。
冒頭の空港のシーンではミディアムグレーのスーツに白シャツ、ブラックにホワ
イトのラインが入ったタイ、とモノトーンで決めている。
彼はニューヨークのコロンビア大学で優秀な成績で卒業し(陸上選手、新聞部長
でもあった)ロサンジェルスの実家に帰るところだ。
アメリカの大学はふつう6月卒業だからその頃だろう。西海岸の初夏。
将来を嘱望される若者は歓迎されたが何か違和感を感じる。そして虚無感も。
ミセス・ロビンソンに誘惑されるシーンは、ネイビーのジャケットにミディアム
グレーのパンツ、クリームイエローのBDシャツにブラック、ゴールド、シルヴァ
ーのレジメンタルストライプのタイ。(すべて僕も持っていたアイテムだ!)
ベンジャミンのジャケットはナチュラルショルダーでフックドベント(3)のよう
に見えるので、J.プレスではないかと思われる。
パンツはノープリーツの程よいパイプドステム・シルエットだ。
靴はジョンストン&マーフィーかコールハーン辺り(4)ではないだろうか。
初めての情事の時はヘリンボーンのジャケットにチャコールグレーのパンツ。
つまりベンジャミンは誘惑されてから5か月も悶々と悩み、意を決してミセス・
ロビンソンをホテルに誘ったのは12月頃、ということだ。
彼女も高価そうな豹柄の毛皮を羽織っている。
ミセス・ロビンソンと不毛な情事を重ね、無為に時を過ごすベンジャミン。
レコードのジャケ写にも使われた彼女がストッキングを履くシーンでは、キャメ
ル色のコーデュロイ・ジャケットにダークグレーのパンツの合わせ方も完璧だ。
図らずもミセス・ロビンソンの娘エレーンとデートすることになってしまう。
エレインは夏休みで帰省している。ということは6月だろう。
ベンジャミンはシアサッカーのジャケット、シャンブレーのシャツにブラック
のニットタイ、グレーのパンツ。(僕も持ってたがこんなに爽やかじゃない)
そして真っ赤なアルファロメオ・スパイダー。(持ってなかった→笑)
エレーンを真剣に愛し始めたベンジャミンは彼女に事実を告白する。
ショックを受けた彼女はカリフォルニア大学バークレー校に戻り、ベンジャミン
もバークレーに下宿し彼女に付きまとう(今ならストーカー)。
アメリカの大学の夏休みが終わるが9月。だから秋めいてきた10月なのだろう。
バークレーはサンフランシスコの対岸に位置し、同じカリフォルニアでもロサン
ジェルスよりはだいぶ冷える。
そのちょっと頬に冷たい空気が感じられるのだ。
動物園のシーンではベンジャミンは前述のキャメル色のコーデュロイ・ジャケッ
トにに黒のポロシャツ、ジーンズ(たぶんリーバイス)を履いている。
カチッとした格好のベンジャミンがだんだんラフになって行くのがおもしろい。
エレーンが退学したことを知ったベンジャミンはバークレーから彼女の家がある
ロザンジェルスまでアルファロメオ・スパイダーを飛ばす。
その距離は605km。東京からだと神戸まで、北なら秋田くらいだろうか。
ひたすら5号線を走るのだが、ずーっと変わり映えしない風景が続く。
単調で飽きる。アクセルを踏む右足が疲れて、横着して左足で踏んだりする。
それでもたまに大型トラックとすれ違うくらいだから問題ない。
とにかく5〜6時間かけて一人で運転するにはかなりしんどい道のりである。
それをベンジャミンは何と!ぶっ続けで1往復半してるのだ。
ミセス・ロビンソンからエレーンが結婚することを知らされたベンジャミンは、
その足でバークレーまでとんぼ返り。
結婚相手の友人からサンタバーバラで式を挙げることを聞きまた車に飛び乗る。
サンタバーバラはロサンジェルスに近い高級リゾート地だ。観光客も多い。
スペイン調の町並みが美しく誰もが心を奪われるだろう。
バークレーからの距離は520km。
サンタバーバラ市内でガス欠したスパイダーを乗り捨ててベンジャミンは走る。
想像できるだろうか。
東京→神戸→東京→神戸と運転した後、ボロボロの状態で走ることを。
しかもベンジャミンが履いていたジャックパーセル(5)はバドミントン・シュー
ズでベタッとしたラバーソール。ランニングにはまったく不向きだ。
いかに彼が陸上選手であったとしても、かなり走りにくかったに違いない。
それでもベンジャミンは走り続けた。そんなことも今なら見て分かる。
有名な花嫁奪還のラストシーンはオフホワイトのボートパーカー(6)(マイティ
ーマック辺りだろう)とホワイトジーンズ(リーバイス?)を着ている。
足元はジャックパーセルのキャンバス、白。もう完璧である。
余談だが、ベンジャミンが下宿を借りる際に大家から「演説屋じゃないか?」と
疑われるシーンがある。
カリフォルニア大学バークレー校は初めて学生のアジテーターが登場した学校で
、学生学生運動の発祥の地なのだ。
1964年にバークレー校の学生の間で始まったティーチ・インと言われる反戦集会
は、大学の官僚的体制の改革を求める運動にまで発展し、1968年にはコロンビア
大学やハーヴァード大学で学生が校舎を占拠するなど過激な運動(7)が展開された。
バークレー、サンフランシスコは音楽、ドラッグ、フリーセックス、表現、政治
的意思表示、ヒッピー革命の中心地(8)である。
しかし「卒業」を見る限り、カリフォルニア大学バークレー校のキャンパスはい
たってノーマルでヒッピーカルチャーに染まった若者たちの姿も見られない。
この映画が制作された1967年前半はまさにサマー・オブ・ラブ(9)の夜明け前だ
ったのだろう。それは極めて重要なポイントである。
もし一年後に制作されていたら、バークレー校の様相は違っていただろう。
ベンジャミンはアイビーではなくベルボトムジーンズを履いていたかもしれない。
音楽もドアーズかCSN&Yかグレイトフルデッドになっていたもしれないのだ。
ということで次回は(やっと)「卒業」の音楽の話。
<脚注>