1966年のビートルズ来日は「ビートルズ台風」と呼ばれ社会現象にもなった。
東京公演だけだったが、日本中の人々がその騒動を見聞きしたはずだ。
警察は3万人の警官を動員し首都高速を閉鎖。武道館に3000人の警官を配備。
異常なくらい厳重な警備体制を敷いていた。
その様子はTVニュース、新聞、雑誌でも大々的に取り上げられた。
公演を観た人たちは(音楽的にはともかく)その体験自体が貴重だった。
初日に記者席で見た内田裕也、尾藤イサオはすごい音を出していたと証言。
客席で観た音楽関係者にとっても得るものは大きかったに違いない。
しかしビートルズは既にライブに熱意を失い、演奏は雑になっていた。
なにしろ悲鳴にかき消され、本人たちでさえ聴こえてないのだから。
(日本は思いの他、客席が静かで、4人は演奏力の低下を思い知らされる)
ビートルズ台風は昭和史に残るセンセーショナルな事件だったのは確かだ。
が、日本の若者の心を熱くし、エレキギター・ブームを巻き起こし、ロック
への扉を開いたのは、むしろ前年1965年のベンチャーズ来日ではないか。
<ベンチャーズの初来日1962年はドンとボブの2人だけだった>
実はベンチャーズの初来日は1965年ではない。1962年に一度日本に来ていた。
ドン・ウィルソンとボブ・ボーグルの出会いから二人はセッションを重ね、シ
1960年ノーキー・エドワーズがベーシストとして参加。(ドラムは流動的)(1)
↑ドンがリズムギター、ボブがリードギター、ノーキーがベースを担当。
ドラムはホーウィー・ジョンソン。
ドンはチェット・アトキンスのウォーク・ドント・ラン(オリジナルはジョニ
ー・スミス・トリオ)を簡略化し、軽快な8ビートにして1960年に発売。(2)
これがシアトルKJR局のニュース番組のテーマ曲に採用され注目を集める。
8月にウォーク・ドント・ランは全米チャート第2位、ミリオンセラーを獲得。
全英チャートでも第8位を記録。
11月に日本でもビクターからシングル発売(邦題:急がば廻れ)される。
1962年日本初のアルバム、カラフル・ベンチャーズ(米国で4枚目)が発売。
そのプロモーションのためドンとボブの2人はオーストラリア、ニュージー
ランド、アメリカ、香港、フィリピンのツアー後に初来日。(3)
5月18日~5月29日に4回の公演を行なっている。
↑1961年頃のドン・ウィルソンとボブ・ボーグル。(gettyimages)
持っているのはフェンダーのジャズマスターとストラトキャスター。
東芝音楽工業のイベント「リバティ・レコード日本発売記念 /日米ロック・
ツイスト合戦」に出演。(合戦ですよ!)
同じリバティ所属のボビー・ヴィー、ジョー・アン・キャンベル、東芝所属の
弘田三枝子、スリーファンキーズと共演している。
新宿コマ劇場で2日間3回公演を行う。司会は湯川れい子であった。
初日の5月18日は立川基地米軍キャンプで慰問コンサートを行っている。(4)
↑クリックすると1962年5月18日、米空軍立川基地での演奏が聴けます。
(これは海賊盤CDらしい。客席で録ったのか?音は悪いが貴重な記録だ)
赤坂の高級クラブ、コパカバーナにも出演したという記録も残っている。
NTVの「あなたとよしえ」(水谷良重司会)にも出演した。(5月30日放送)
ウッドベースとドラムは日本のハワイアン・バンドのメンバーが担当した。
「別に悪いミュージシャンではなかったが、ビートの感覚が違っていた」と後
にボブは回想している。
この「ビートの感覚が違っていた」という感想は核心をついている。
当時の日本の生演奏はダンスパーティーの伴奏が一般であり、しかも演奏される
のは主にマンボなどのラテン、ハワイアン、ロカビリー、シャンソンであった。
やっとツイストが流行りだしたころでる。
↑1962年3月、日本にもツイスト・ブームがやってきた。(産経フォト)
1962年に日本でヒットした洋楽は、可愛いベイビー/コニー・フランシス、
サン・トワ・マミー/アダモ、素敵な16才/ニール・セダカ、ジョニー・エン
ジェル/シェリー・フェブレ、ブルー・ハワイ/エルヴィス、 レモンのキッス
/ナンシー・シナトラ、など。
また弘田三枝子、伊東ゆかり、金井克子、中尾ミエ、ザ・ピーナッツがこうした
洋楽を日本語でカバーしていた時代である。ポップス創世記だった。
1962年に来日した歌手は、フォークソング・グループのブラザース・フォア、
日比谷野音で子供たちを助ける慈善コンサートを行ったフランク・シナトラ、
TBSでワンマンショーを収録したイヴ・モンタンくらいではないか。
アメリカで新しいムーヴメントになりつつあったベンチャーズ、ビーチボーイズ
など、エレキギターを中心としたスピード感のあるサーフ・ミュージックは1962
年の日本では時期尚早で、ミュージシャンもそのビート感を消化できなかったの
ではないかと思う。
<ベンチャーズの黄金期の4人が揃う>
1962年ドンとボブ来日直後メル・テイラーがドラムで加入。全盛期の4人が揃う。
メルに落ち着くまでベンチャーズのドラマーは何度か入れ替わっている。
メル加入までハル・ブレインが代役を務めたレコーディングも多かった。(後述)
メル・テイラーは海軍航空部隊でマーチングドラムを演奏し、除隊後はLAのナイト
クラブや色々なセッションに参加し、腕を上げプロとしてのキャリアを重ねて行く。
メルはジャズ・ドラマーのジーン・クルーパに心酔していた。
セッティングは完全にジャズドラマーである。
左手はレギュラーグリップ。スネアを前方に傾けている。椅子はかなり高い。
グレッチ製の20インチのバスドラのドラムセット。12〜13インチのタム、14〜16
インチのフロアタム、トップシンバル1枚とハイハットだけのシンプルなセットだ。
それで、よくあんなに力強いビートを叩き出せるものだと感心する。
腕を大きく振り上げて叩く、バネの効いたスネアサウンド。
トップシンバルとハイハットだけでクラッシュを兼ねている。
圧巻のスピード、攻撃的なグルーブ感。鉄壁の安定感。ベンチャーズの土台だ。
ベンチャーズの典型的なドラミングはドンタタ・ドンタッだろう。(下図)
マーチングバンド出身だけにスネアのルーディメンツはお手の物で、ショートロ
ールやダブルストローク、パラディドルでのフィルインも巧い。
しかしベンチャーズに加入しサーフロックのリズムを叩くことになった際、
スティック・コントロールは得意でも四肢の分解に苦労したようである。
ハル・ブレインは「俺がメル・テイラーに叩き方を教えた」と主張している。
レッキング・クルーのリーダーで多くのアーティストのレコーディングに参加
していた名ドラマーのハル・ブレインは「ベンチャーズの初期のレコーディング
は自分がドラムを叩いた」と言っている。
↑ハル・ブレインとメル・テイラー。
メルの加入前にリードギターはボブからノーキーに交代している。
元バック・オウエンスのバックを務め、ギター・テクニックに長けたノーキーに
任せた方がバンドの将来にいい、というボブの判断によるものである。
ボブ自身もベースの楽しさ、自由さに開眼したことも理由に挙げていた。
ノーキーの音楽的バックグラウンドはカントリーやブルーグラスである。
自身にとってギターヒーローはレス・ポールとチェット・アトキンスだという。
ベンチャーズではフラットピック主体だが、演奏中に入れるフィンガーピッキング
や高度なリック(フレーズ)からその影響が伺える。
<ベンチャーズのレコーディングと参加したミュージシャンたち>
1961年末〜1963年ベンチャーズの録音には多くセッションマンが参加している。
ベンチャーズはツアーで忙しくレコーディングに時間を割けないこともあった。
不在メンバーの穴埋め(5)、丸ごとレッキング・クルーが代役を務めた時もある。
(当時アメリカではツアーとレコーディングの分業制が慣例的に行われていた)
ワイプ・アウトのレコーディングはハル・ブレイン(ds)、ビリー・ストレンジ(gt)、
トミー・テデスコ(gt)、レイ・ポールマン(bs)が演奏しているとか。
(この曲はライブ演奏との違いに違和感を持ってたと言うファンもいる)
レオン・ラッセルもテルスターと朝日のあたる家でオルガンを演奏している。(6)
↑真ん中でテレキャスターを弾いてるのがトミー・テデスコ。
右隣はベース奏者のキャロル・ケイ。珍しくギルドのセミアコを弾いている。
ではベンチャーズのレコードほとんど本人たちが演奏していないかというと、そう
いうわけではないからややこしい。
この時期のアルバムでも、ノーキーに違いないというリードギター、メルならで
はの力強い演奏がたっぷり聴かれる。(7)
ベンチャーズ名義の音源(特に1961-1963年)には以下のバリエーションがある。
1. 正式なフル・メンバー4人による演奏
2. 4人のメンバーに外部ミュージシャンが加わったもの
3. 創設時の2人、ドン&ボブにセッション・ミュージシャンが加わったもの
4. ノーキー&メルの途中加入組にセッション・ミュージシャンが参加したもの
5. メンバーが誰も参加していないレコーディング・セッション
レコーディングに限っては、こうした複雑というか柔軟な体制によって作られる
音楽の総体がベンチャーズと解釈した方がいいかもしれない。
レコードより荒削りで豪快な、本来のベンチャーズ・サウンドが聴ける。
そして彼らの絶頂期のライブ音源は1965年の来日公演しか残されていない。
しかも当時のライブ収録としては非常にレベルが高いのである。
<フェンダー時代からモズライトへ>
1965年1月、7月の公演を生で聴いた日本のファンたちはモズライトのサウンド、
演奏技術の高さ、スピード感、グルーヴ感に圧倒されたことであろう。
ベンチャーズ=モズライトのイメージ(1965年の日本公演、ノック・ミー・アウ
トなどのジャケットのせいか)が強いが、ベンチャーズがモズライトとエンドース
メント契約をし使用していたのは1963〜1967年の5年間だけである。
1960年のデビューからノーキーがベースを担当していた1963年初頭までは、3人
ともフェンダーを使用していた。
(ジャズマスター、ストラトキャスター、プレシジョンベース)
ベンチャーズといえばモズライトの野太い音だが、フェンダー時代の方が好きと
いう人もいる。
鈴木茂は「当時ストラトキャスターはあまり評判のいいギターではなかった。
ジミ・ヘンドリックスが現れるまでは。むしろ初期のベンチャーズが使ってた
ジャガーとかジャズマスターの方が人気があった」と言っている。
1963年春から使用し始めたモズライトはシングルコイル・ピックアップながら
コイルの巻き数が多く、ハムバッカーにもまさる音量、そして太く甘いサウンド
が得られた。
アンプの設定をクリーンにすると音像が際立ち、メロディー弾きに適していた。
ベンチャーズが1965年の来日時に使用していたのは1963年製モデルらしい。
ロシアより愛をこめて、ブーベの恋人(映画音楽)、ラスベガス万才/エルヴィス
、夢みる想い/ジリオラ・チンクェッティ、花はどこへ行った/キングストン・
トリオ、アイドルを探せ/シルヴィ・バルタン、などのポップス。
ロックでは、太陽の彼方に/アストロノウツ、朝日のあたる家/アニマルズ、
プリーズ・プリーズ・ミー、抱きしめたい、恋する二人 、ビートルズがやって来る
、プリーズ・ミスター・ポストマンとビートルズが一気にヒットし始めた。
急がば回れ/ベンチャーズも41位に入っている。(ミュージックマンスリー)
アストロノウツは典型的なサーフロック・インストゥルメンタルで、リバーブの
効いたビンビン唸るギター(9)と、駆り立てるようなビートが特徴である。
Movin'は太陽の彼方にという邦題で、ノッテケノッテケの後付け歌詞でヒット。
ベンチャーズの急がば回れ、ダイアモンドヘッドと共に人気を博した。
同じサーフロックでも、軽快なサウンドとハーモニーが売りのビーチボーイズより
エレキギターのインストゥルメンタル・サーフの方が日本では売れたのだ。
ベンチャーズの人気が日本で沸騰し、長く親しまれた理由はなぜか?
1. 歌詞がない→英語が分からなくても楽しめる
2. ビートが強烈でツイスト、ゴーゴー、モンキーダンスが踊りやすい
3. 頭拍(1拍目と3拍目)でリズムを取ることもでき日本人でもノリやすい
(ダイヤモンド・ヘッドのサビは民謡に通じるものがある)
4. ペンタトニック、ハーモニックマイナー・スケールで日本人に親しみやすい
6. 生で聴くモズライトのギターの音圧、太く豪快なサウンドが強烈だった
7. 日本にはないグルーヴ感、スピード感、優れた演奏テクニックに圧倒された
8. 俺たちもエレキをやれるかもしれない、と当時の若者たちに夢を抱かせた
9. (1965年7月来日時は)全国28都市で全58回の公演を行い17万人動員した
10. メンバーたちが紳士的かつ親日的で、日本の文化や日本人との交流を楽しんだ
(1965年1月一緒に来日したアストロノウツは素行の悪さから評判を落とした)
こんなところだろうか。
↑1968年7月の新宿厚生年金ホールでのライブ盤。(12月発売)
リードギターがノーキーからジェリー・マギーに変わり、女性キーボード奏者の
サンデー・リーが参加。ベンチャーズのイメージを一新した。
ステージにミニスカートのお姉さんがいるので当時のファンは驚いたそうだ。
ベンチャーズは1965年以降1984年までほぼ毎年(1969、1983年以外)来日。
本国アメリカで人気が衰えても、日本では根強いファンに支持され続ける。
メンバーの移り変わりはあったが、2019年まで通算73回の来日公演を果たした。
日本のミュージシャンも加山雄三、寺内タケシ、加瀬邦彦、成毛滋、高中正義、
鈴木茂、Char、渡辺香津美、山下達郎、高見沢俊彦、南こうせつ、などベンチ
団塊世代、ポスト団塊世代のアマチュア・ギタリストのほとんどがそうだろう。
すべて1965年のベンチャーズ来日から始まったのだ。