2022年2月28日月曜日

ビートルズ、エド・サリヴァン・ショー初出演の1曲目は?


 
<1964年2月エド・サリヴァン・ショーで演奏された曲>


1回目の出演 1964年2月9日夜、ニューヨークCBSスタジオ 生中継

1. オール・マイ・ラヴィング
2. ティル・ゼア・ウォズ・ユー
3. シー・ラヴズ・ユー
4. アイ・ソウ・ハー・スタンディング・ゼア
5. アイ・ウォント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド(抱きしめたい)


2回目の出演 1964年2月16日夜、マイアミ・ドーヴィルホテル 生中

1. シー・ラヴズ・ユー
2. ディス・ボーイ
3. オール・マイ・ラヴィング
4. アイ・ソウ・ハー・スタンディング・ゼア
5. フロム・ミー・トゥ・ユー
6. アイ・ウォント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド(抱きしめたい)


3回目の出演 1964年2月23日録画放送(2月9日、CBSスタジオで収録)

1. ツイスト・アンド・シャウト
2. プリーズ・プリーズ・ミー
3. アイ・ウォント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド(抱きしめたい)




<1回目の出演の1曲目がオール・マイ・ラヴィング」だった理由>

「街がこんなに興奮しているのは初めて」というエド・サリヴァンの紹介に続き、
1曲目に演奏したのはポールが歌う「オール・マイ・ラヴィング」だった。





ちょっと意外であった。
景気づけに一発目は(1964-1965ツアーのオープニング曲の)ツイスト・アンド・
シャウトをかますか、この後のワシントンDCのオープニングでジョージが歌った
ロール・オーヴァー・ベートーヴェン、といったノリのいいロックンロールで行き
そうなものだが。


以前読んだ記事で(たぶんレコード・コレクターズではないかと思うが)どなたか
音楽評論家の方が「ブライアン・エプスタインの判断で好印象を与えるために優等
生のポールの曲を最初に持ってきたのでは」と書いていた。

それは違うと思う。
デッカのオーディションに落ちた後、エプスタインはジョンから「あんたは選曲
に口出しするな。俺たちが決める」ときつく言われている。
エプスタインが言えたのは「できるだけヒット曲を」とか「間奏はアドリブにしな
いように」「ステージでガムを噛まないように」くらいであった。





初めてアメリカの大衆の前で披露するのに「オール・マイ・ラヴィング」を選んだ
理由は、この曲があらゆる面で高度な自信作だったからではないだろうか。


小気味好い、弾むようなテンポに乗せて歌われる、きれいで明るいメロディ。
この曲はもともとコーラス部のAll My Loving〜から歌われていたが、ジョージ・
マーティンのアドヴァイスで、ヴァースからスタートするように変えた。
しかもイントロなし出だしのClose your〜の2拍は演奏もなしの歌のみ
Eyesから一気にスピード感のある演奏が始まる。これだけでもインパクト充分。

マーティン卿は最初に耳に入る音でリスナーをノックアウトするのに長けていた。
(「キャント・バイ・ミー・ラヴ」では逆にヴァースから歌っていたのを、Can't
 buy me loveから始めてみてはどうか、と的確な提案をしている)




↑1回目の出演の1曲目、オール・マイ・ラヴィングの冒頭部分が観れます。
(デジタル処理でカラー化されています)



「オール・マイ・ラヴィング」は演奏もキレがよくアイディアが詰まっている
ジョンによるヴァースでの歯切れのいい3連の早弾きコードカッティング
All my loving〜ではアフタービートのカッティングを強調したクリシェ。

ポールは4ビートのウォーキングベース。しかも歌いながらカウンターメロディー
のようなベースラインを正確に弾いている。歌のピッチも正確だ。
リンゴのドラムはハネ感のあるハーフ・シャッフルの8ビート
複雑なリズムを組み合わせて一体となったグルーヴ感ビートとメロディーの両立





きわめつけは間奏で見せたジョージのチェット・アトキンス奏法
間奏はヴァースと異なるコード進行なのも見逃せない。
最後のヴァースでポールにハモるジョージ。完璧なパフォーマンスだった。

ジョンとポールは自信に満ち溢れている。リンゴも余裕で楽しんでいる。
ジョージは堂々とした盤石のプレイ。(この時ジョージはまだ20歳である)





どうせビートルズなんてうるさいだけで実力の伴わないアイドルだろうとタカを
くくって見ていた人たちは、4人のレベルの高さに唖然としたに違いない。
ギター、ベース、ドラムのテクニックも当時の(レコーディングはスタジオ・ミュー
ジシャンに代行してもらってた)アメリカのポップ、ロックバンドより上手い。

それこそがビートルズの狙いだったのではないか。
「俺たちはそんじょそこらのロックンロール・バンドじゃないんだぜ」とアメリカ
の横っ面を引っ叩く
だから「オール・マイ・ラヴィング」だったのではないだろうか。

それに加え、ビートルズはとにかくカッコよかった。(1)スーツの着こなしも動きも。
2本のマイクを分け合い、曲によってポールとジョージが、ポールが歌うときはジョン
とジョージがもう1本のマイクに向かう。
左利きのポールとジョージまたはジョンがマイクを挟んでネックがシンメトリーにな
るのも美しかった。ビートルズには美学があったのだ。



↑本番前のドレスリハーサルと思われる。4人の衣装がばらばらである。



<2曲目のティル・ゼア・ウォズ・ユーも意外だった。>

続く2曲目もポールがボーカルを取る美しいバラード。
メンバー1人ずつの名前がテロップで入る。
ジョンの時は「Sorry Girls, He's married」と一言添えられていた。

「ティル・ゼア・ウォズ・ユー」はデビュー前よりポールのレパートリーとして、
ハンブルク巡業時代でも演奏していたお得意の曲である。

元々はブロードウェイ・ミュージカル「ミュージック・マン」の劇中歌で、1962
年に公開された同名の映画でも使用された。
アメリカでは馴染みのある曲だったのかもしれない。



↑映画版「ミュージック・マン」劇中歌のティル・ゼア・ウォズ・ユー。


しかしポールは「ミュージック・マン」劇中歌であることは後年まで知らなかった。
1961年にペギー・リーによるカヴァーを聴いて自身も歌うことにしたらしい。
ペギー・リーのヴァージョンはジャック・マーシャル楽団によるラテン~アフロキュ
ーバン・アレンジが陽気な「Latin Ala Lee!」というアルバムに収録されている。



↑クリックするとペギー・リーのティル・ゼア・ウォズ・ユーが聴けます。


ビートルズの「ティル・ゼア・ウォズ・ユー」はこのペギー・リーのヴァージョン
を参考にアレンジしたもので、ラテン・フレーバー(2)を感じさせる。



イギリスから来た4人組が騒々しいロックではなくラテン・アレンジのバラードを
演奏したことは意外性もあり、アメリカのお茶の間(?)では好意的に捉えられ
のではないかと思う。

もっともビートルズの狙いはそうした「受け」ではなく、幅広い音楽性と高度なテク
ニックを披露することにあったはずだ。
特にこのパフォーマンスでキーとなるのはジョージのギターである。
レコードではクラシックギターを演奏しているが、ライブではエレキギター用にアレ
ンジを少し変えている。




↑エド・サリヴァン・ショー出演時のティル・ゼア・ウォズ・ユーが観れます。


ディミニッシュ、オーギュメント、マイナー7th、マイナー9th、などふつうのロック
・バンドが使わないようなテンションコードをうまく多用している。
肝は間奏の最後不協和音の混じったコード。この響きが効いている。

コード名で言うとF#7 (add#9)。めったに使われない。
ちなみにその間、ジョンはC7を弾いている。
2つのコードは同じ構成音もあるが、濁る音も出てくる。それも計算づくだろう。


このF#7 (add#9)というコードは、リバプール時代、ジャズ・ギタリストが弾いてる
のを見て、ポールとジョージはバスに乗ってその人の家に教わりに行ったそうだ。

とっておきのコードで、ビートルズでは2回しか使わなかったとポールは言う。
この「ティル・ゼア・ウォズ・ユー」と「ミッシェル」のヴァースの2小節目。
(「ミッシェル」では5フレットにカポでF7 (add#9)を弾いている)
つい最近のインタビューでコード名はいまだに知らないと言っていた。
いかにもポールらしい(笑)


この2曲目でも音楽業界や音楽通の人たちを唸らせたはずだ。






<1回目の後半はノリのいいヒット曲>

3曲目はシー・ラヴズ・ユー。頭を振ってOooh!に女の子たちは絶叫する。
エド・サリヴァンと4人の会話、エルヴィスからの電報の紹介を挟んで、アイ・ソウ
・ハー・スタンディング・ゼア、アイ・ウォント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド
(抱きしめたい)とヒット曲で盛り上げ終わる。

尚、前半と後半はセットが変わる。大きな矢印のオブジェがあるのが前半。
後半は頭上と横に金属のバー、縦長のパネルがある。




↑クリックすると1回目の出演時の最後の演奏曲、「抱きしめたい」が観れます。



<2回目、マイアミでは1本のマイクでハモるディス・ボーイが絶品。>

ワシントン・コロシアム、カーネギー・ホールと2箇所でのコンサートを成功させ
た4人はマイアミに飛び、暖かい太陽を浴びリラックスする
そして2回目の出演、ドーヴィル・ホテルからの生中継に臨む






1曲目の「シー・ラヴズ・ユー」の後、1本のマイクをジョン、ポール。ジョージが
囲み3声でハモる「ディス・ボーイ」は絶品だ。
5曲目の「フロム・ミー・トゥ・ユー」もマイアミだけで演奏された。




↑断片的だけどマイアミ でのパフォーマンスが観れます。


ニューヨークCBSスタジオと比べて観客にきれいな女性が多く時々アップで映る。
ドーヴィル・ホテル滞在客なのか、当時のマイアミが別荘地で裕福な人が多かった
せいか、カメラさんがいい仕事をしてたのか。。。(笑)






尚、生中継は夜のショーであるが、昼間も観客を入れてリハーサルを行っており、
その映像も残っている。
リハーサルはエンジニアの調整のため楽器やボーカルのバランスが適正ではな
いが、演奏は本番と変わらない出来である)


アメリカは生中継であっても、時差がある地域の局には録画テープを送って同じ
時間帯に放送していた。
そのためビデオテープが残っていたわけだが、CBSで保存していた素材よりも、
エド・サリヴァンが自宅で保管していたテープの方が保存状態が良く画質もいい。
DVD化されたものはエド・サリヴァン所有テープをレストア(修復)してある。






<3回目の出演で演奏した3曲は「2月9日事前に」収録されていた。)

ビートルズは2月23日に3回目のエド・サリヴァン・ショーに出演しているが、
4人はその前日に既に帰国していた。
23日に放映された3曲は、2月9日の1回目生放送の前に収録されたものである。
セットは2月9日の前半、後半とは違い、縦長の曲線のある柱が組まれていた。


オープニング向きのツイスト・アンド・シャウト、プリーズ・プリーズ・ミー、
大ヒット中のアイ・ウォント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド(抱きしめたい)。
実際にスタジオで演奏した順番はこの3曲が先だったわけだ。




↑本番前のドレスリハーサルと思われる。



つまり実際に演奏した順でいうと。。。


1964年2月23日録画放送分(3回目の出演)を収録(2月9日、CBSスタジオ)

1. ツイスト・アンド・シャウト
2. プリーズ・プリーズ・ミー
3. アイ・ウォント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド(抱きしめたい)


1回目の出演 1964年2月9日夜、ニューヨークCBSスタジオ 生中継

1. オール・マイ・ラヴィング
2. ティル・ゼア・ウォズ・ユー
3. シー・ラヴズ・ユー
4. アイ・ソウ・ハー・スタンディング・ゼア
5. アイ・ウォント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド(抱きしめたい)


2回目の出演 1964年2月16日夜、マイアミ・ドーヴィルホテル 生中継

1. シー・ラヴズ・ユー
2. ディス・ボーイ
3. オール・マイ・ラヴィング
4. アイ・ソウ・ハー・スタンディング・ゼア
5. フロム・ミー・トゥ・ユー
6. アイ・ウォント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド(抱きしめたい)


ということになる。




↑2月9日に事前収録され、2月23日に放映されたツイスト・アンド・シャウト。


さすがのジョンも緊張してたのか、最初の演奏(2月23日録画放送分収録)の
1曲目、ツイスト・アンド・シャウトでは表情がやや硬い。


この後に生演奏した2月9日の1回目の方が余裕が見られる。
初登場での「オール・マイ・ラヴィング」「ティル・ゼア・ウォズ・ユー」で
肩の力が抜けて、笑顔で自信たっぷりなのもうなづける。




もちろん3回目分を先に収録することは事前に教えられていて、それも承知の上
で2月9日の最初の曲を「オール・マイ・ラヴィング」、2曲目を「ティル・ゼア・
ウォズ・ユー」に選んだのだろう。
そして3回目は前述の3曲でしめくくる、ということも。


賢明な選曲であり、結果的に大正解だったと思う。
3回のエド・サリヴァン・ショーの出演で全米にビートルズとは何者かを知らし
めたわけで、とりわけ1回目のお披露目でガツンと一発食らわせることが重要
だったのだから。
ビートルズのアメリカ征服(Beatles conquer America)は大成功だった。





<脚注>

2022年2月17日木曜日

ビートルズ、アメリカ征服は周到に計画が練られていた?



<ビートルズ、初のアメリカ上陸までの経緯>

ビートルズが初めてアメリカを訪れたのは、58年前の1964年2月7日である。
午後1時20分、パン・アメリカン航空の101便でニューヨークのケネディ空港に降
立った4人は1万人のファンの大歓声に迎えられた。
それはアメリカの音楽の歴史が大きく変わろうとする瞬間でもあった。

ビートルズがこのタイミングでアメリカの地を踏んだのは、シングル「抱きしめた
い」が全米チャート1位を獲得したからである。
かねてから「1位を獲るまでアメリカには行かない」と彼らは宣言していた


イギリスでは1963年発表のデビュー・アルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」が
30週間チャート1位という快挙を達成。
その勢いは留まることを知らず、ビートルマニア(ビートルズ旋風)と呼ばれた。




次の標的はアメリカ市場だ。
ブライアン・エプスタインとパーラフォン・レコードは同じEMI系列のキャピトル
・レコードにアメリカでの発売を持ちかけるも、一向に関心を示してもらえない。
イギリスの歌手がアメリカで売れるわけない、と懐疑的な見方をされていた。


パーロフォンはヴィー・ジェイというアメリカの弱小レーベルと契約。
プリーズ・プリーズ・ミー、フロム・ミー・トウ・ユーと2枚のシングルをアメリカ
で発売するが、鳴かず飛ばずだった。(写真は後に出た2曲カップリング盤)




パーロフォンは次に同じく弱小レーベルのスワンからアメリカで3枚目のシングル、
シー・ラヴズ・ユーを発売。これも最初はあまり動きがなかった。





一方、イギリスではビートルズの快進撃は止まらない
11月に2nd.アルバム「ウィズ・ザ・ビートルズ」が発売され1位を独走。
シングル「抱きしめたい」は予約枚数だけで100万枚を突破した。
ビートルズはヨーロッパ各地でも成功を収めていた。

イギリスで大ブームが起きていることに気づいたアメリカの3大ネットワークTV局
がビートルズをインタビューするために特派員を派遣。
英国からの輸入盤、スワンから発売されたシー・ラヴズ・ユーが売れ出したことで、
キャピトルもやっとビートルズの将来性に気づき、レーベル契約を交わす。




年明けの予定だったシングル「抱きしめたい」の発売をクリスマス翌日に早めた。
「抱きしめたい」は発売3週目にビルボードにチャートイン
2月1日にはついにNo.1となり、7週にわたってそのポジションを維持し続けた。

「抱きしめたい」から首位の座を奪ったのは、先に弱小レーベルのスワンから発売
されていた「シー・ラヴズ・ユー」で2週間連続で1位。
入れ替わりに1位を獲得したのは、新曲の「キャント・バイ・ミー・ラヴ」。
5週にわたって1位の座に留まっている。

4月の第一週は全米シングル・チャートのトップ5をビートルズの曲が独占(他に
7曲がトップ100以内にチャートイン)という前代未聞の状況が起こった。





2月1日「抱きしめたい」全米1位の吉報をビートルズは滞在中のパリで知った





4人はパリのオランピア劇場に3週にわたり出演。滞在中に「シー・ラヴズ・ユー」
「抱きしめたい」のドイツ語ヴァージョンの録音も(渋々)行なっていた。





スウェーデン、フランスと海外遠征をしていたビートルズだが、当時ドイツには
行っていない。(ハンブルク時代のスキャンダル発覚を恐れて?と言われる)
そのドイツのファン向けサービスとしてのドイツ語シングルの録音だった。
ドイツ語版の仕事をやっつけ、余った時間で4人は次のシングルとなる「キャント・
バイ・ミー・ラヴ」の録音までパリ滞在中に行なっている。





全米1位のニュースに4人はホテルの部屋で狂喜乱舞の大騒ぎだった。
「1位を獲るまでアメリカに行かない」と公言していたビートルズだが、満を持
して初のアメリカ行きが実現することになった。





<エド・サリヴァン・ショー出演が決まるまでの経緯>

初のアメリカ上陸でビートルズは約2週間滞在し、その間CBSテレビの人気バラエ
ティ番組「エド・サリヴァン・ショー」に出演し、ワシントン・コロシアムとニュ
ーヨーク・カーネギーホールにおいてアメリカ初公演を行った。





特にエド・サリヴァン・ショーへの出演は、1964年のアメリカがビートルズ一色
で塗りつぶされることになる最も象徴的な出来事であった。



エド・サリヴァン・ショーは1948年から全米で放映されていた長寿の人気番組だ。
司会者はエド・サリヴァンで、多彩なゲストが出演し彼との会話をはさみながら
パフォーマンスを披露する、という内容である。
日曜日の午後8時という放送時間も功を奏し、全米で絶大な人気を誇っていた。




特に1956年のエルヴィス出演の回は驚異的な視聴率(82.6%)を記録。
5400万人の人たちが見たと言われる。

エルヴィス出演を反対していたエド・サリヴァンだが、ライバル番組のNBCステ
ィーヴン・アレー・ショーにエルヴィスが出演し55%の視聴率を獲得したため、
無視できなくなった。1957年まで3回出演させている。




それ以来エド・サリヴァンはいち早く若者に人気のゲストを招くようになり、
若者の流行の仕掛け人となった



4ヶ月前の1963年10月、初めての海外ツアーでストックホルムに赴き帰国した
ビートルズを待ち受けていたファンたちの熱狂ぶりを、ロンドンの空港で目の当
たりにしたエド・サリヴァンは度肝を抜かれ、自らの番組への出演を決める。




キャピトル・レコードが重い腰を上げるより早く、エド・サリヴァンはビートル
ズ旋風がアメリカを席巻することを予見していた。
ビートルズの早期渡米と番組出演をエプスタインにオファーする。

ビートルズのエド・サリヴァン・ショー出演は初めてにもかかわらず3回も出演
しかも1回目は5曲、2回目は6曲、3回目は3曲、という破格の待遇であった。




ビートルズがアメリカの若者の心をわしづかみすること、視聴率を取れることを
エド・サリヴァンが確信していたことを伺わせる。

もう一つ。
エド・サリヴァンはブライアン・エプスタインと同じユダヤ人であった。
つまりユダヤ人ネットワークから交渉がスムーズに進んだのは間違いないだろう。
ユダヤ人特有の商才に長け、ビジネスの嗅覚が鋭い点でも2人は共通していた。




<ビートルズ初渡米が大成功した理由>

「抱きしめたい」全米1位から1週間も立たない2月7日に、ビートルズはロンドン
のヒースロー空港を出発。
彼らはアメリカで支持されるのか不安だったが、すぐに杞憂であったと知る。
ニューヨーク、ケネディ空港には1万人の熱狂的なファンが待っていた。




ラジオでは「抱きしめたい」がヘビーローテーションで流れビートルズ一色。
記者会見ではウィットのあるやり取りで記者たちを沸かせた。

2月8日にセントラルパークでフォト・セッション、ブロードウェイにあるCBS
テレビスタジオ50でドレスリハーサルが行われる。ジョージは体調不良で欠席。
リハーサルではローディーのニール・アスピノールが代役を務めた。
(マル・エヴァンスが代役だったと言われてたが、身長1.97mのマルがジョージ
の代わりでは、カメラもライティングもテストにならない)





2月9日にはジョージが回復し復帰。
1回目のエド・サリヴァン・ショー生出演(観客を入れたライブ)を果たす。





翌日アメリカでの初コンサートを行うため、4人はワシントンD.C.に向かう。
東海岸が大雪に見舞われ航空便が運航中止になったため、鉄道での移動になる。






このコンサートはフィルムで映像が残されているが、レアで見どころ満載だ。
会場のワシントン・コロシアムは、ステージの四方が観客席に囲まれている




そのためリンゴがどの客席からも見えるよう、数曲演奏してはドラムセットの
向きを変え、フロント3人も立ち位置を変え演奏するというユニークなステージ。


オープニングはビートルズのライブ史上において極めて珍しいジョージがボーカル
を取る「ロール・オーヴァー・ベートーヴェン」
ロックンロール発祥のアメリカ、チャック・ベリーへのオマージュだったのか。
演奏は荒削りだが勢いがある。特に上体をゆらしドラムを激しく叩くリンゴ。



↑ワシントン・コロシアムでの「ロール・オーヴァー・ベートーヴェン」が観れます。
(元は白黒フィルムだがデジタル処理で着色されている)



ジェリービーンズが好物と発言したジョージにファンが投げ入れたジェリービー

ンズの嵐も写っている。





この日演奏されたのは、ロール・オーヴァー・ベートーヴェン、フロム・ミー
・トゥ・ユー、アイ・ソウ・ハー・スタンディング・ゼア、ディス・ボーイ、
オール・マイ・ラヴィング、アイ・ウォナ・ビー・ユア・マン、プリーズ・
プリーズ・ミー、ティル・ゼア・ウォズ・ユー、シー・ラヴズ・ユー、
アイ・ウォント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド(抱きしめたい)、ロング・
トール・サリーの11曲。
※半年後の8〜9月の全米ツアーのセットリストでは聴けない曲も多い




↑ワシントン・コロシアムでの「ディス・ボーイ」が観れます。
(元は白黒フィルムだがデジタル処理で着色されている)

※1本のマイクを囲む場合ポールが左。ネックがぶつかることなく見た目も美しい。
が、この日は頻繁に立ち位置を変えてるうちにポールが右になってしまったようだ。




12日にはニューヨークに戻り、格式高いことで知られるカーネギーホールでの
コンサートを成功させる。
ロックフェラー夫人でさえチケットを購入できずコネで手に入れるほどであった。



                                                                         (写真:gettyimages)

↑写真を見ると、ステージ上のビートルズのすぐ脇に設けられた席に裕福そうな
ご婦人方が座っている。ロックフェラー夫人と子供たちもこの中にいる。
こうした特権階級の人たちのために用意された特別席だったのだろう。




16日にはマイアミへ空路移動。
ドーヴィルホテルから生放送で2回目のエド・サリヴァン・ショー出演








4人は数日マイアミで休暇を取り、ロンドンへ帰国の途に就いた。
22日朝には熱狂するファンたちが待つヒースロ空港へ到着する。






ビートルズ帰国後の2月23日、エド・サリヴァン・ショー3回目の出演が放映。
(これは初回出演の2月9日に前もって収録されたVTRであった)





とにかく急遽行きましたと思えないくらい、あまりにもタイミングよく効率的
にプローションが行われている。


実はカーネギー・ホールでのコンサートは1年前から決まっていたものだった。


アメリカのプロモーター、シド・バーンスタインは1962年10月の時点でイギリス
の新聞を賑わせていたビートルズに目をつけ、日を追うごとにイギリスで大きく
なる彼らのニュースに「これはただ事ではない」と感じていた。

バーンスタインはジュディ・ガーランド、フランク・シナトラ、レイ・チャールズ
など数多くのアーティストのマネージャーを務めるプロモーターである。





プロモーターとしてシド・バーンスタインは直感的に「勝負の時だ」と思った
アメリカでは誰もビートルズを知らなかったが、絶好のタイミングだと。
1963年2月にブライアン・エプスタインに連絡を取ると、ビートルズの音楽も
聴かずに1年後のカーネギーホールでのコンサートを契約した。

シド・バーンスタインもユダヤ系移民である。
ここでもユダヤ人ネットワークの交渉の利ユダヤ人ならではの商才嗅覚の鋭さ
が発揮された。
1964年2月にカーネギーホールでコンサートをやるということで、エド・サリヴァン
もその前後での出演の約束をエプスタインに取り付けた。


この時点ではアメリカではまだビートルズは注目されてなかった。
イギリスのバンドがアメリカで成功した例はない。2人の計画は無謀にも思える。
しかし彼らの直感は的中し、「抱きしめたい」全米1位直後という最高のタイミング
でエド・サリヴァン・ショー出演、カーネギーホール・コンサートを実現できた。

ビートルズにとっても、こうしたお膳立てがあったからこそ、予想以上の成功を
収めることができたと言える。



↑翌1965年シェイスタジアム・コンサートもシド・バーンスタインが仕掛け人。



<ビートルズ、エド・サリヴァン・ショー出演の影響>

エド・サリヴァン・ショーのビートルズ出演は観客を入れてのライヴ演奏だった。
2月9日、1回目の出演の収録が行われたのはニューヨークのCBSスタジオ。
728枚の観覧入場券を求めて55,000件もの申し込みがあったと記録されている。


2月9日、ビートルズ1回目のエド・サリヴァン・ショーに出演時の視聴率は72%
という驚異的な数字を叩き出した。
(エルヴィス出演時の82.6%には及ばないが、1956年と1964年ではテレビの世帯
普及率が違う。調査対象の母数も異なるので視聴率での単純比較はできない)




この夜2324万世帯、約7300万人がテレビの前に釘付けになりビートルズを見た
(エルヴィスの時は5400万人が見たと言われているのでそれ以上なのは明白だ)

ビートルズ出演中はニューヨークで青少年犯罪が一件も起きなかったと言われる。
また水道利用が番組放映中には激減。CM時に急増したという報告まである。


アメリカをテレビが揺るがせた瞬間であり、ロックにとって決定的な瞬間だった。
この番組を見たことがきっかけでミュージシャンを目指した人も少なくない。

14歳だったビリー・ジョエルは「あの夜エド・サリヴァン・ショーを見てなかっ
たら、今日の僕はないと断言できる」と言っている。
ブルース・スプリングスティーンは「とにかく凄かった。まるで地軸が傾いた
ような、あるいは宇宙人が侵略してきたような衝撃だった」と述べている。

トム・ペティは「僕の人生を変えたパフォマンスの一つだ。それまでロックを仕
事にするなんて考えたこともなかった」と影響の大きさを語っている。
ロジャー・マッギンもアコースティックギターからエレキへ持ち替えた。




放送の翌日には街中の楽器店に少年たちがギターを求めて駆け込んだ。

アメリカではギブソンやフェンダーがプロ御用達のギターとしてメジャーであり、
ビートルズが弾いてたリッケンバッカー、ヘフナーは知られていなかった。
(ジョージが使ってたグレッチはカントリー系ギタリストに愛用者が多かったが)

リッケンバッカーは名前からドイツのメーカーと勘違いされ、ヨーロッパの
代理店に問い合わせが殺到したという。
VOXのアンプもアメリカでは有名ではなく、イギリスに注文が行ったらしい。


イギリスからやってきた侵略者たちはアメリカの若者たちに計り知れないほど
強烈な影響を与えた
まさにBeatles Conquer America(ビートルズ、アメリカを征服)だった。




一方でメディアは「騒々しいだけ、光るものがない、性別不詳」と報じた。
エルヴィスが登場した時も似たような叩かれ方をしていたが。


それまで分業システム化されていたアメリカの音楽業界にも衝撃が走った
職業的作曲家、アレンジャーが用意した曲を、レッキングクルーのようなスタ
ジオミュージシャンが演奏してオケを作る、ツアーから帰ったバンドや歌手は
既に完成したオケに歌を吹き込む、という役割分担が慣例だった。



↑レッキング・クルー(スタジオ・ミュージシャン集団)のレコーディング風景。



が、今やアメリカの若者が求めているのはビートルズのような新しい音楽だ。
旧来型の職業的作曲家やミュージシャンは下手すると失業しかねない。
アメリカの音楽業界のシステムを根幹から揺るがす事態だ。




ビートルズはアメリカの音楽産業を否定していたわけではない。
むしろアメリカのロック、ポップスを敬愛し、ボイス&ハート、マン&シンシア、
ゴフィン&キング、リーバー&ストーラーのようなソングライティング・チーム
に憧れ、自らもレノン=マッカートニーと名乗ったほどだ。




ただし彼らは曲を書くだけではなく、自らアレンジして、演奏し歌う。
音へのこだわりも強くレコード制作全過程に主体的に関与することを望んだ。

ビートルズ自身も、アメリカに衝撃を与えることは織り込み済みだっただろう。
こいつらはただ者ではない、凄い、と認めさせるにはどうすればいいか?
したたかに計算していたと思う。
それはエド・サリヴァン・ショーでの選曲にも表れている

<続く>


<参考資料:Udiscovermusic.jp、TAP the POP、Distractions、OTONANO、
Wikipedia、ザ・ビートルズ楽曲データベース、アドニス・スクエア、他>