2025年6月14日土曜日

西海岸の光と影、天才ブライアン・ウィルソンが逝去。


                    (写真:gettyimages)


ジョージ・マーティン卿が生前に「生存する最も偉大な音楽家は?」という質問
に「ブライアン・ウィルソン」と答えている。
ポール・マッカートニーじゃないのがちょっと意外だった。

ブライアンの天才たる所以は、美しいメロディ、コード、曲構成による斬新な
ソングライティング力に加え、バンドの枠組みを超えたオーケストレーション、
ハーモニー構築、サウンドプロダクションまで完璧である点だろう。



もちろんジョン、ポール、ジョージも美しい3声のコーラスを聴かせてくれる。
だがBecauseのような複雑なハーモニーはマーティン卿に頼った。
彼らはピッコロ・トランペットを間奏に、イングリッシュホルンを使いたいと
ユニークなアイディアを出すが、スコアはマーティン卿に委ねていた。



↑ブライアン・ウィルソンとジョージ・マーティン


ビートルズのプロダクションが強力なチームで民主制であったのに対し、ビーチ
ボーイズの曲はブライアンの頭の中で完璧に構築され、彼が全てを掌握していた

バート・バカラックやリチャード・カーペンターと並ぶ偉大なアメリカの音楽家
であったことは間違いない。




ビーチボーイズの中心メンバーで、カリフォルニア・サウンドを象徴する楽曲を
数多く生み出したブライアン・ウィルソンが死去した。享年82歳。死因は不明。

Love And Mercy(愛と慈悲を) 心より御冥福をお祈りいたします。





ブライアンは長年にわたり精神疾患やアルコール中毒、薬物依存と闘ってきた。
昨年、メリンダ夫人が亡くなってから支離滅裂なことを言い出したという。
認知症に似た神経認知障害を患っていることが明らかになり、家族が後見制度
の申請を行ったそうだ。




ブライアンは1961年、弟のカールとデニス(1)、いとこのマイク・ラヴ、同級生の
アル・ジャーディンとペンドルトンズを結成。
バンド名はペンドルトン社のチェック柄シャツが西海岸で流行っていて(2)彼ら
もお気に入りだったことに由来。
キャピトルと契約した際、ビーチボーイズと改名した。



↑彼らが着たペンドルトンのシャツはビーチボーイズ・モデルとして今も人気だ。



ビーチボーイズは西海岸の明るく開放的なイメージを曲にしヒットを連発した。
歌われているの題材はサーフィン、海、太陽、女の子、ホットロッド(車)。

Surfin' U.S.A.、Fun, Fun, Fun、I Get Around、California Girlsなど。
村上春樹の小説タイトルにもなったDance, Dance, Danceもそうだ。


↓The Beach Boys - Dance, Dance, Dance (2003 Stereo Mix)
(1'14"〜ヴァースの途中なのに強引に転調する絶妙さ。カッコいい!)

↓The Beach Boys "I Get Around" on The Ed Sullivan Show






どの曲もコーラスワークが絶妙で、ブライアンのファルセットが冴える
4声の複雑なハーモニーは、ブライアンの頭の中に緻密で組み立てられた


以前、山下達郎氏が「ビーチボーイズのハーモニーの肝は低音のパート」と
いうようなことを話していた。
素人には一番低いメロディーラインも真ん中のパートも音が拾いにくい。
それらが独立したメロディーとして自在に動きながらも、曲の屋台骨として
支えているから、一番上のファルセットがキラキラが輝くのだろう。





個人的にはスロー~ミディアムテンポの曲で聴ける美しく重厚なコーラスと静謐
なメロディに特に惹かれた。

ロネッツのBe My BabyにインスパイアされたというDon't Worry Baby。
Surfer Girl、Girls on the Beach、In My Room、Please Let Me Wonder、
I'm So Young。Kiss Me, Baby、And Your Dream Comes Trueなど。


↓The Beach Boys- Girls On the Beach (Stereo)
(一時転調を繰り返し、ヴァース半ば1'35"で一気に転調する荒技に脱帽)

↓The Beach Boys- In My Room (Live 1964)







ビートルズを筆頭に英国勢が全米ヒットチャートを席巻していた1960年代中頃。
彼らに対抗できたのはモータウン系以外では、ビーチボーイズとディランくらい
だったのではないか。


ブライアンの作曲家、アレンジャー、サウンドメイカー、プロデューサーとして
の才能ははどんどん進化して行った。
敬愛するフィル・スペクターのウォール・オブ・サウンド(3)を取り入れる。

完璧主義のブライアンはレッキング・クルー(4)と呼ばれるスタジオ・ミュージ
シャン集団に演奏を委ね、スタジオ作業に専念するようになる。
バンドのツアーには参加しなくなった。(5)







ビートルズの「ラバーソウル」(6)に感銘を受けたブライアンは、より質の高いア
ルバムを作ろう、ビーチボーイズの音楽を新しい境地へと導こう、と決意する。

作詞家のトニー・アッシャーとブライアンは内省的で、孤独感や切なさを滲ませ
た、そしてひたすら美しい曲を作った。
ブライアンは綿密なアレンジを練って、それらの曲をさらに美しく彩った。





しかしレコード会社もファンも、そして他のメンバーたちも困惑した。
新作にはカリフォルニアの太陽もビーチも素敵な女の子もホットロッドもない。
みんなが期待している「ビーチボーイズの世界観」ではなかったからだ。

「こんな音楽、誰が聴く?ペットにでも聴かせるのか?」と言うマイク・ラヴ
の皮肉からアルバム・タイトルは「ペット・サウンズ」と命名された。
「ペット・サウンズ」がセールス面で振るわず評価も得られなかったこともあり、
ブライアンは重度の精神障害に陥ってしまう。





しかし「ペット・サウンズ」は英国では2位を獲得し、高い評価を得た。
NME誌の人気投票でビーチボーイズは、ビートルズをおさえて1位となる。


ポール・マッカートニーは「ペット・サウンズ」は特別なアルバムと言い、
収録曲の「God Only Knows」(7)を「史上最高の曲」と称賛している。


The Beach Boys - God Only Knows (Remastered 1999)






「ペット・サウンズ」はビートルズの実験精神を後押しし、「サージェント・
ペパーズ」を産むことになる。



ポールとブライアンは同い年で、2人とも優れたメロディーメーカーであった。
またバンド内でベーシストであり、ロックの楽曲におけるベースラインを新しい
次元にまで高めた、という点でも共通している。

「ラバーソウル」でも「ペットサウンズ」でもベースのルート外し(8)が聴ける。
リズム楽器にとどまらず、カウンターメロディを奏でる楽器に昇華させている。




↑ブライアンはデビュー時はサンバースト、後にホワイトのフェンダー・プレシジ
ョンベースを使用。親指で弾きマイルドな音を出していた。


もっともポールが優れたプレイヤーとして現役であり続けたのに対し、ブライアン
自身はテクニックがあるわけではなく、彼自身も演奏にこだわっていなかった。
そのため考えたベースラインを、レッキングクルーの女性ベーシスト、キャロル・
ケイ(9)に弾かせていた。




ブライアンは作詞家ヴァン・ダイク・パークスと共にポピュラー音楽のあり方を
一新しようと、精緻に構成された音楽組曲「スマイル」の制作に取り組む。

が、精神的な問題、薬物依存もありセッションは次第に頓挫し、迷路に嵌る。
加えて、バンド内の不和、レコード会社からの重圧、などブライアンの神経は
破綻し「スマイル」は「幻の名盤」となった(10)





先行シングルGood Vibrationsだけが発売された。
変化する曲構成、テルミンの使用など実験的ではあるが、ビーチボーイズらしい
キャッチーな曲でヒットした。

Good Vibrations (2021 Stereo Mix)



↓Good Vibrationsのレコーディング風景が見れます。これはレア!

Good Vibrations the Lost Studio Footage






「スマイル」制作中のブライアンをポールが表敬訪問している。
「新譜を出すなら急いだほうがいい。もうすぐ僕らがすごいのを出すから」
とポールはブライアンに言ったそうだ。(11)

その「すごいの」とは「サージェント・ペパーズ」のことだった。
「サージェント・ペパーズ」を聴いたブライアンは「敵わない」とショックを
受ける。彼の精神状態はまずます悪化して行った。






その後のブライアンは廃人状態で、薬物中毒、アルコール依存がひどくなる。
体調のいい時にバスローブ姿で階下のスタジオに現れ参加する、などビーチ
ボーイズでの楽曲制作、レコーディングへの関与は限定的となって行く。




精神科医の治療を受けたブライアンは1980年代末からソロ活動を開始する。

映画「ラブ&マーシー 終わらないメロディー」は1960年〜1980年代のブラ
イアンを描いた伝記映画(2014年)である。(12) 一見の価値あり。







ブライアンの完全復活は1998年発表のアルバム「イマジネーション」からだ。

1999年には初のソロ来日公演を果たす。
あのブライアンが本当に飛行機に乗ってやって来れるんだろうか?と半信半疑
だったが、元気な姿を見せ自身のバンドでビーチボーイズ以上にビーチボーイズ
なサウンドを聴かせてくれた。

かつて美しいファルセットだった声はつぶれ、音程も不安定だったが、ファン
は誰も気にしなかったと思う。
僕の後ろの席には、ブライアンが再婚したメリンダ夫人が座っていた。
ブライアンの復活は彼女の力が大きかったようだ。

2002年は名盤「ペット・サウンズ」全曲再現ツアーを敢行。再来日した。





2004年には幻の名盤「スマイル」をブライアンが新たに録音し、ソロ作品として
完成させた。(13)
その翌年2005年には3度目の来日で、全曲を日本のファンに披露した。

これが「スマイル」の全貌だったのかという感動と、1967年に発表してたらロッ
クの歴史は違っていたかも?実に惜しい・・・という思いだった。


Brian Wilson - Surf's Up







ブライアンとポールの友情物語は続いていた。
ポールはインスタグラムでブライアン・ウィルソン追悼の意を表明している。

「ブライアンには曲を痛ましいくらい特別なものにする、神秘的で天才的な
音楽センスがありました。(中略)
ブライアン・ウィルソンを失い私たちがどうやっていくのか。
「God Only Knows」(神のみぞ知る)です。
ありがとう、ブライアン。ポール」。


<脚注>

2025年4月21日月曜日

「やさしく歌って」を聴くとコーヒーが飲みたくなる。




 <ネスカフェのCMと「やさしく歌って」>

ロバータ・フラックの Killing Me Softly With His Song(やさしく歌って)・・・
ああ、ネスカフェのCMソング。日曜洋画劇場でよく流れてたっけ。

50代以上の方はこう記憶している人が多い。


実はCMで歌ってるのはロバータ・フラックではない
マデリン・ベルという英国の黒人女性シンガーだ。


☕️ネスカフェCM ネスカフェは世界のことば篇 60秒 1973年(1)
曲:Killing Me Softly With His Song 唄:マデリン・ベル 






改めて聴くと、ロバータ・フラックとは声質も歌い方も違う。
演奏はエレピを中心としたバンド編成で、イントロもロバータ・フラックのヴァー
ジョンとは異なる。

歌詞もCM用に書き換えられている
こう歌ってるんじゃないかと思う、たぶん(間違ってたらごめんなさい)

The night is way to morning to start the brand new day,
All round the world you find the word that you want to say
I need some quiet morning wherever you may be

You find that you say the same things, find that you feel the same way
Find that it's same the world over, Nescafe, Nescafe, the world over,
You say Nescafe, Nescafe



<ネッスル日本の広告キャンペーン>

ネッスル(現:ネスレ)は「One World of Nescafe」をスローガンに掲げ、
世界共通の広告キャンペーンを展開していた。






日本では1966年に国内生産を開始したのを機に、世界共通ブランドであることを
アピールするために和訳した「世界中どこでも、ネスカフェ」を使い始める。


広告代理店はマッキャン・エリクソン(2)であった。
当時ワールドワイドでマッキャン・エリクソンがネッスルのアカウントを持って
いて、日本でもマッキャンが担当することになったのだろう。


マッキャン・エリクソンのクライアントの多くは、高度成長期に日本に進出し、
大きく成長した欧米ブランドである。
コカ・コーラ、ケンタッキー・フライドチキン、アメリカ.ンエキスプレス、ロレ
アル、デルモンテ、ナビスコなど。





こうした外資系企業は広告、特にTVCMの影響力を理解していた。
日本の市場でシェアを取るために巨額の広告費を投じていた。


ネッスル日本はコカ・コーラと双璧をなすマッキャンの重点クライアントだった。
おそらく当時の2大国内自動車、ビール・ウイスキーに次ぐくらいの広告費だった
のではないかと推測する。

当然、TV・ラジオ局、新聞社、雑誌社にとってはありがたいクライアントだ。
ネッスル日本はテレビ創成期の頃から数多くの提供番組を抱え、ピークの時には
1週間で10番組提供していたこともあった。(3)
番組提供の他にスポットCMも出稿していたので、相当なCM露出量である。



 

<日曜洋画劇場とネスカフェのCM>

その中でも日曜洋画劇場は、ネッスル日本提供のイメージが強い番組だ。
テレビ朝日(旧:NETテレビ)系列で1966年から放送されていた初の洋画番組。

お茶の間でアラン・ドロンやチャールズ・ブロンソンやオードリー・ヘップバーン
が見られるのだから、当時としては画期的であった。
映画評論家の淀川長治の解説とサヨナラ、サヨナラが番組の顔になった。





ネッスル日本は1966年の番組開始から提供。
主要スポンサーには、企業イメージと洋画との親和性で、サントリー、松下電器、
ネッスル日本、レナウンが選ばれる。
4社によるスポンサー体制は長く続いた。

余談だが、当時マッキャンでネッスル日本の日曜洋画劇場提供に携わったという
方に話を伺ったことがある。
日曜の夜、家族と番組で流れるネスカフェのCMを見て感無量だったそうだ。
かなり大変な思いされて、提供を獲得したのだろう。

ネスカフェのCMは世界の街と人々が映され英語の歌が流れる
洋画劇場のイメージに合っていた





だから「日曜劇場でネスカフェのCM」を見た記憶に刷り込まれている。
でも「ロバータ・フラックが歌ってた」は勘違い、思い込みだ。


このCMがマッキャン・エリクソンがワールドワイドで流すCMとして制作された
素材を編集して日本向けにローカライズしたものなのか?
それとも日本独自で制作したものなのか?

それは分からない。知ってる方がいたら教えてください。
もし後者だとしたら、かなりお金をかけてロケをした贅沢なCMである。


世界の(ほとんどが欧州)人々の一日を紹介し「ゆたかな時間、くつろぎの
ひと時にネスカフェがある」とナレーションが入る。

裕福な家族やアッパーミドルクラスの人たちがコーヒーを味わい、テーブルの
真ん中にインスタントコーヒーがデンと置いてあるのが不自然な気はするが・・・








<「世界中どこでも、ネスカフェ」シリーズ>

1977年に再びマデリン・ベルの歌で同じ曲を使用。
新録音でストリングスを入れた新しいアレンジになっいる。

☕️ネスカフェCM 夏はアイスで篇  30秒 1977年 
曲:Killing Me Softly With His Song 唄:マデリン・ベル






翌1978年は曲が「The Way We Were(追憶)」に変更になる。
バーブラ・ストライサンドが主役を演じた映画「追憶」の主題歌で、彼女
自身の歌が1974年ビルボード誌で3週間1位というヒットとなった。
歌詞はCM用に変更され、マデリン・ベルが歌っている。

☕️ネスカフェCM いい朝いい一日篇 60秒 1978年
曲:The Way We Were(追憶) 唄:マデリン・ベル

※ハッピー感を出すためか、エンディングがメジャー・キーになっている。



1979年は曲はそのままで歌はクレア・トーリーに変わった。
この人は英国の白人歌手で、ピンクフロイドの「The Great Gig In The Sky」
でのスキャット(後半はシャウト)が有名。

☕️ネスカフェCM ゆたかな味わい/しいくつろぎ/夏はアイス篇 60秒 1979年
曲:The Way We Were(追憶) 唄:クレア・トーリー






1980年からはCM曲が「One World of Nescafe」になる。
ロジャー・ニコルズ&ザ・スモール・サークル・オブ・フレンズという長ーい名前
のコーラスグループの「The One World Of You And Me」が元ネタ。

これまではCM用に歌詞を書き換えていたが、この曲はそのまま生かし、最後の
「The one world of you and me」だけ「The one world of Nescafe」になる。
CMごとに複数の女性歌手に歌わせている。


☕️ネスカフェCM  スイスの首都ベルンの朝篇 30秒 1980年
曲:One World of Nescafe 唄:キャロル・チェイス






☕️ネスカフェCM  スイス・アイガーの冬篇 30秒 1982年
曲:One World of Nescafe 唄:不明

☕️ネスカフェCM  パリの夏篇/シャンゼリゼ篇 60秒 1982年
曲:One World of Nescafe  唄:ジャニス・イアン

☕️ネスカフェCM  パリの朝篇 1982年
曲:One World of Nescafe  唄:ステファニー・デ・サイクス







1985-1987年、ネスカフェはネスカフェ・エクセラへ改称される。
コピーは「このひと時、ゆたかな味わい」になる。

曲も「Do You Know Where You're Going To(マホガニーのテーマ)」へ。
映画「マホガニー物語」で主役を務めたダイアナ・ロスが歌いヒットした曲。
CM用に歌詞を変更されている。




☕️ネスカフェ・エクセラCM  1985-1987年
曲のアレンジや歌手はCMごとに変えている。男女のデュエットも登場。
オランダの運河飛び篇/ヨット・夏はアイス篇/絵画教室篇/パン屋篇/アムステル
ダム篇/ナツ・シズル篇/オランダ・バイク旅篇/手紙篇/仕事篇/パン屋閉店篇
曲:Do You Know Where You're Going To 唄:不明



<ダバダ〜♫のネスカフェ・ゴールドブレンド>





尚、多くの人が憶えていると思うが、ダバダ〜♫はフリーズドライ製法で作られた
ネスカフェ・ゴールドブレンドのCMソング「めざめ」である。(1970年から継続)

☕️曲:めざめ 唄:伊集加代子(日本のスキャットの第一人者)






作家の遠藤周作、歌舞伎役者の中村吉右衛門、ファッションデザイナーの山本寛斎
、作家の阿川弘之など文化人が出演し、ゴールドブレンドを堪能するというCM。
キャッチコピーは「違いがわかる男のゴールドブレンド」。
が、中村紘子など女性も起用されるようになり「違いがわかる人」に変更された。


<脚注>

2025年3月21日金曜日

「ブルー・ライト・ヨコハマ」は川崎の工業地帯の夜景だった。




いしだあゆみ(以下、敬称略)が甲状腺機能低下症の悪化で亡くなったそうだ。
まだまだお元気で活躍されてる思っていたが。ご冥福をお祈りします。


どの記事も「ブルー・ライト・ヨコハマ」が代表作と報じている。


彼女にとって26枚目のシングルとなる本曲が発売されたのは1968年のクリスマス。
翌年にかけて大ヒットした。
発売日に10万枚のレコードが売れ、それが10日間続いたという。




時代は学園紛争のピーク。
若者たちは新宿西口広場で集会を開きフォークソングを歌い、機動隊と衝突した。
パンタロン、マキシスカート、シースルールック、ヒッピーが流行していた。

僕は中学生でラジオを聴き出した頃だった。
「夜明けのスキャット」「人形の家」などの歌謡曲とバニラ・ファッジ、ドアーズ、
クリーム、モンキーズ、アーチーズ、ショッキング・ブルー、ナンシー・シナトラ、
ツェッペリン、スコット・ウォーカーなんかを一緒くたに聴いていた。
「ブルー・ライト・ヨコハマ」もその一つ。リクエストが多くよく流れていた。


いしだあゆみ - ブルー・ライト・ヨコハマ
https://youtu.be/cZRk3kEkFz8?si=g54J1Gqkd2QY6wqy







歌詞もメロディもアレンジも完成度が高い。昭和を代表する名曲だ。
しかし実際はレコーディング前日に、苦戦しながら編み出した作品らしい。




<ブルー・ライト・ヨコハマが生まれた過程(歌詞)>

いしだあゆみはビクターから4年間で23枚のシングルをリリースしていたが、女優・
タレント業で忙しかったこともあり、歌手としてのイメージはあまりなかった。
そこで心機一転、「歌手・いしだあゆみ」を打ち出すためにコロムビアに移籍。
橋本淳・筒美京平のコンビが曲作りを担当することになった。

2人とも青山学院中等部〜大学の出身で、橋本淳は筒美京平の先輩である。
在学中にジャズ研で橋本淳がウッドベース、筒美京平がピアノを弾いていたらしい。
つまり「音楽を通じて気心知れた仲」ということだ。
また橋本淳は「楽曲の構造も演奏も心得ている作詞家」ということになる。



↑青学時代の橋本淳と筒美京平


コロムビアは「3曲作って欲しい、どれか100万枚超えのヒットを」と2人に依頼。
2曲出したけど売れない。橋本淳はプレッシャーを感じていた。

当時は曲先ではなく、詞先というスタイルで作っていたという。
3曲目は「ヨーロッパや港のイメージの歌」にしたい、と橋本は漠然と思っていた。


橋本は横浜の街をあちこち歩いてみたが、一向に言葉が浮かばない。
夜になってもう一度歩いてみようと、港の見える丘公園まで登って行った。

当時は辺り一面が真っ暗。公園から遠くを眺めると川崎の工場街が見えて、そこが
紫っぽいような、ブルーっぽい光が海に照り返っていた
これこそ自分が探していた光景だ、と橋本は思った。
カンヌの空港の滑走路に着陸する際に見た夜景を重ね合わせていたという。





その場で「ブルー・ライト・カワサキ」というタイトルが浮かぶ
でも、さすがにそれはどうかと思い「ブルー・ライト・ヨコハマ」に改めた。

カタカナで「ヨコハマ」にしたのも都会的で洗練されたイメージにつながった。
当時の横浜は進駐軍の影響が残っていて、東京にない尖った面白さがあるものの、
暗くて危ない街であった。


翌日がレコーディングでもう時間がないので、横浜から筒美京平に電話をかけて、
タイトルだけ決めたと伝えた。
筒美はメロディーを考えていたそうで「ポール・モーリアのアルバムにイントロ・
イメージが合うものがある」と言ったそうだ。

橋本はもう一度、海岸通りを歩き回わる。
歩いても、歩いても、何も思いつかなかった。「あれ?歩いても、歩いても
これをサビにしようか・・・」と即興でワンコーラス作る。
1番の歌詞を電話で筒美に伝え、橋本は帰宅して残りの歌詞を徹夜で仕上げた。

(作詞家・橋本淳が語る「ブルー・ライト・ヨコハマ」の誕生 2024年)







<ブルー・ライト・ヨコハマが生まれた過程(曲)>

筒美京平の曲作りの秘訣について、橋本淳がインタビューでこう語っている。

「あの人、やっぱり天才ですから、歌作りもまずコード進行から固めるんですよ。
外国のレコードもいっぱい聴いて吸収してね。
自分の気に入ったコードの並びに、サビでも1小節でもエンディングでも、日本
的なテイストを必ず入れていく。だからいくらでも曲が作れちゃうんです」

(作詞家・橋本淳が語る盟友・筒美京平 2024年)



いしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」はキーがマイナーキーでF#m。
Amで採譜した楽譜を見つけた。ギターやピアノで弾きやすくしたのだろう。
このキー=Amの楽譜で「筒美京平マジック」を探ってみたいと思う。





曲の構成はAメロ9小節+Bメロ(サビ)9小節の組み合わせ。
Am→Dm→E7からAmへ帰結、という演歌でもよく使われる「日本人が好きな」
マイナー・キーのコード進行だ。

イントロはE7のジャーンというギターに続いて、フロアタムのドコドンドン。
管楽器による情緒たっぷりのメロディが2小節(青い囲み)〜それと対話する
かのようなチェンバロとギターのカウンターメロディが2小節(緑の囲み)


最初に聴き手の心を掴み、歌に入る期待感を煽るのがイントロの役目だ。
(Z世代はタイパ重視でイントロ不要と考えてるそうだが、このオイシイ部分
を捨ててしまうのはもったいない)

筒美京平はイントロの達人でこだわっていた。編曲まで自分でこなす。






Aメロに入ってからも歌の「間」を埋めるようにオブリガードでフォロー
している。(青い囲み)
Bメロ(うでのなーかー♪)ではストリングスで装飾(オレンジの囲み)

筒美は同じ手法をオックスの「スワンの涙」でも使っていた。



6小節目がA7に一時的転調しているところがミソ。(赤い丸)
Am→A7→Dmのコード進行は、ドラマチックで切ない響きを生む。
7thコードは5度上のコード(Dm)に移行しやすい。

この場合A7のメロディは一時的にダイアトニックスケールになる(赤い丸)が、
次のDmですぐAmキーのナチュラル・マイナーに戻るから違和感がない。





あれ?一瞬、風の向きが変わったかな? あ、少し陽が射したみたい・・・
くらいの印象ではないか。でも、これだけでオシャレになる。

歌メロはいしだの歌唱力を考えてか、音域が狭くあまり高低差がない。
それだけに、Aメロ最後とBメロ最後の高域は際立つ。





Aメロの出だしは1拍分の休符が入り、2拍目から歌が入る。
(ン)まちのあかりが〜♪
Bメロ(あるいても〜♪)は小節の頭からメロディーが始まる。

これはアメリカのポップ・ソングの王道。洋楽っぽい感じになる。


ブルーライト〜♪のソ#はE7の構成音である(赤い丸)
Amキーのスケールとしては、純日本的なメロディック・マイナーだったのが、
ソ#で一時的にアラビア、ペルシア風響きのハーモニック・マイナーになる。
このちょっとした異国情緒感もスパイスになっていると思う。





あなたと〜♪はDm構成音ではないシが2拍続くので、Dm→Dm6が合うと思う。
が、オフィシャル音源を聴く限り、1小節Dmのままである。


しあわせよ〜♪はDm→F7on C→E7。(赤い丸)
ベース音をDから1音下降させてC、その勢いでE7 on Aでも良さそうだがベース
はルート音のE。次がAmだからベース音をE→Aにしてメリハリを付けたのだろう。

Bメロの こぶねのように〜♪も同じく、Dm→F7on C→E7。(赤い丸)


ゆれてあなたのうでのなーかー♪の山場で、初めてDm→G7→Cが登場。
一気に明るくなり、世界が広がったような気分になる。(ピンクの囲み)
(CはAmの裏コードで構成音が近く、メロディに使うスケールも共通である)







<いしだあゆみの歌唱>

この人は鼻にかかったような声抑揚のない歌い方が独特だった。
半拍遅れのようなタイム感(和製英語?)が、揺れとタメを感じさせる。
それが男女の揺れる関係を暗示しているようにも思える。


半拍遅れは楽器演奏でいうゴースト音のせいでもあるかもしれない。

♪ まッちのあッかりがー と・て・も・きれいね よッこはンま♫
促音や撥音便が潜んでいる。それが「ハネ感」になっているわけだ。
本人は無意識に歌ってるのだろうけど。







「私、歌ではあまりいい思い出はないんですよ。
音程が悪くて、いつも怒られてばかりで、すごく暗くなっていました。
ブルーライト・ヨコハマはレコーディングに48時間もかかったんです」
(1997年 日刊スポーツ いしだあゆみインタビュー)



「ブルー・ライト・ヨコハマ」はいしだあゆみの26枚目のシングル。
テレビで見る彼女は大人で色っぽく見えた。まだ20歳だったという。


1969年TBS「歌のグランプリ」に出演。
https://youtu.be/zg-tmlLikWM?si=87NgyZHtTHaAgAJI

1969年NHK「紅白歌合戦」に出場。
https://youtu.be/9Q9GAlLr43U?si=A2vFq5mv4fWcsdqp
※演奏が早いので、歌がついていけてない(笑
デジタル着色したためか、時々コワイ顔になる😱









<ブルー・ライト・ヨコハマで歌われる情景>

橋本淳は演歌の「捨てられても待っている女」的な男目線の女性観とは異なる
「若者の恋愛観」「揺れる女心」を歌詞にするのが巧かった。

「ブルー・ライト・ヨコハマ」に登場するのは横浜の夜の街を一緒に歩く男女。
女性の視点、気持ちが語られる。彼女は相手に夢中のようだ。
男は年上だろうか。もしかしたら不倫かもしれない。少し危険な香りがする。



 
                    (写真:Everybody×Photographer.com)


横浜の街の灯りがブルーできれいと彼女は言う。
伊勢崎町のことか?馬車道か?それとも山下公園に続く海岸通りだろうか?(※)


橋本淳に言わせると「横浜は元々青くなかった。あの歌が売れたおかげで、夜の
ライトがすべて青に変わった」らしい。
その真偽はともかく「ブルー・ライトに照らされる横浜」がパブリックイメージ
になったのは確かだろう。

あれから半世紀以上の時が流れた今も、ヨコハマにはブルーが似合う。
(歌旅 いしだあゆみ「ブルー・ライト・ヨコハマ」の喚起力 中西康夫)