2016年1月26日火曜日

西海岸の光と翳。イーグルス

バンドはエゴのぶつかり合いである。
自分でもバンドをやった経験がある人なら分かるだろう。

意気投合して初めてもだんだんくい違いが出てきてぶつかるようになる。
頭にくる。誰かが誰かの不満を言う。もうやめよう。
しかしバンドを離れればまた友だちに戻れる。我々がアマチュアだからだ。

イーグルスはそうではなかった。
彼らは単なるバンドではなく巨額の利益が絡む音楽ビジネスだったのだ。





グレン・フライは1948年デトロイト生まれ。
デトロイトでバンド活動をしていたがロサンゼルスへ移り、J.D.サウザーや
ジャクソン・ブラウンと出会う。彼らは同じアパートに住んでいた。

グレンは階下に住むジャクソン・ブラウンが弾くピアノを聴きながら、作曲と
はどうやるものなのか学んだという。



J.D.サウザーの紹介でリンダ・ロンシュタットのバック・バンドを務めること
になるが、この時一緒だったドン・ヘンリーとバンド結成を思いつく。
ジャクソン・ブラウンが契約していたアサイラム・レコードに売り込んだが、
まだ無名の二人に社長のデヴィッド・ゲフィン(1)は難色を示した。

そこでブルーグラスのマルチプレーヤーであるバーニー・レドン、ポコ出身の
ランディー・マイズナーと実績のある二人を入れやっと契約にこぎつける。



初期のイーグルスはカントリー色の強いロックで、バーニー・レドンのギター、
マンドリン、バンジョー、ペダルスチールが音作りの要になっていた。



↑写真をクリックするとPeaceful Easy Feeling(BBC Live 1973)が見れます。



3枚目の「On The Border」で彼らは不満を抱いていたグリン・ジョンズ(2)
からビル・シムジク(3)へとプロデューサーを変更。
(その経緯については以前の投稿をご参照ください)
http://b-side-medley.blogspot.jp/2015/07/blog-post_24.html

バーニーの紹介で2曲参加してもらったギタリストのドン・フェルダーを正式
メンバーとして迎える。
フェルダーのハードでソリッドなプレイはバンドの音をぐっとタイトにした。



皮肉なことにドン・フェルダーを紹介したバーニーの居場所はだんだん無くなり、
バーニーはだんだんレコーディングをすっぽかし身が入らなくなる。
グレンとヘンリーはバーニーの曲にも不満を抱いていた。

バンドを仕切っていたグレン・フライとバーニーの仲は険悪になる。
ある日スタジオでバーニーはグレンの頭にビールをぶっかけて、そのまま出て
行ってしまった。



一方ランディーは毎回アンコールで「Take It To The Limit」の高音を歌うこと
にうんざりしていた。
グレンは「お客が期待してるから」といつもランディーをなだめて歌わせた。
しかしランディーはついに拒否。



↑写真をクリックするとLyin’ Eyes(Live 1977)が見れます。



実はイーグルスはバンド名だけでなくマネージャーのアーヴィング・エイゾフ
(4)が設立した会社イーグルス・リミテッドでもある。
収益は5人に平等に分配される取り決めになっていた。

グレンとの確執からバーニーとランディーが解雇。
残った3人で3等分するはずが、いつのまにかドン・フェルダーは貢献度が低い
という理由で取り分が少なくなっていた。



「イーグルスは民主主義じゃない。俺とドン(ヘンリー)が稼いでるんだから多い
のは当然だろ。文句があるならやめりゃいい」というのがグレンの言い分だ。


後から加わったティモシー・シュミット(5)とジョー・ウォルシュはメンバーで
あるものの会社には加わっていない。雇い人という扱いである。
そのせいか二人は「グレンとドン(ヘンリー)と一緒にやらせてもらってるだけ
で光栄」というスタンスだ。



ドン・フェルダーは音楽面でも不当に扱われていると弁護士を通じ主張。
「One Of These Nights」「Hotel California」での貢献(6)を評価してもらえな
い、自分の曲はアルバムに採用されない、ボーカルを取らせてもらえない、など。
後から加入した二人より地位が低いことも彼を苛立たせた。


↑写真をクリックするとOne Of These Nights(Live 1977)が見れます。



グレン に言わせれば「曲は使えないし、歌は基準点以下、Hotel Californiaも最初
にギターのパターンだけで曲にしたのはドン(ヘンリー)と俺」だ。

ドン・フェルダーとグレン の確執はどんどん大きくなる。
ステージで二人が「終わったらぶっ殺してやる」「お前こそ逃げるなよ」と激し
く罵り合っていたのもしっかり録音が残っている。



フェルダーと親しく息のあったツイン・リードギターを弾いていたジョー・ウォ
ルシュは立場が難しかったが、グレンとドン・ヘンリーに従うことにした。

双頭独裁体制だったグレンとドン・ヘンリーの間にも軋みが出始めた。
そして1980年に解散。



「Hotel California」の最後では、ホテルのボーイ長に自分の好みの銘柄のワイン
を注文するとこんな答えを返される。

We haven't had that spirit here since nineteen sixty nine
(そのようなお酒は1969年以来こちらには置いておりません)

spirit(7)は蒸留酒の意とスピリット(魂)の意を掛けているのは有名な話。
1969年のウッドストック・フェスティバル以降ロック界が商業至上主義になり
退廃して行ったことを揶揄しているのだ。
それは自嘲でもある。イーグルス自身もまた産業ロックの真っ只中で病んでいた。



↑写真をクリックするとThe Long Run(Studio 1979 )が見れます。



グレン・フライはビジネスライクでいささか傲慢であったかもしれない。
しかし巨大化した大鷲号(イーグルス)の舵取りをしていたのは彼である。
バンドの成功のためリーダーは時には冷徹な決断も下さなければならなかった。




イーグルス解散後すぐにグレン・フライはソロ活動を開始。
1985年には映画「ビバリーヒルズ・コップ」挿入歌「The Heat Is On」
とTVドラマ「マイアミ・バイス」(8)挿入歌「You Belong To The City」を
ヒットさせた。



イーグルスは1994年にMTVのライブを機に再結成。(9)
グレンはドン・フェルダーに電話して「お前の取り分はこれだけだ。不服なら
やらなくていい。24時間以内に連絡しろ」と一方的に伝えた。

ドン・フェルダーは参加しまた素晴らしい演奏を聴かせてくれた。
が、2000年にフェルダーは「バンドに貢献していない」と突然解雇される。
彼はこれを不服として訴訟を起こした。泥沼である。





しかしどんなに争い憎み合っていても、同じバンドでいい時期を過ごした仲間
というのは特別な存在なのではないだろうか。
ドン・フェルダーのグレン・フライ追悼の声明を読んでそう思った。



ドン・フェルダーによる声明は以下の通り。(長いので一部略しました)

「グレンの死が信じられず、ショックの状態にあります。(中略)
彼はとてつもなく才能に溢れたソングライターであり、アレンジャーであり、
リーダーであり、シンガーであり、ギタリストでした。
皆そう思ってるでしょうし、彼はそれに応えることができ、即座に“マジック”
を生み出すことができる人だったのです。(中略)」

「1974年にイーグルスに加入するように誘ってくれたのがグレンでした。
彼のすぐそばで長い間、一緒に仕事をして過ごすことができたのは人生の贈り物。
グレンは愉快で、強く、寛容で、優しい人でした。
兄弟のように感じていましたし兄弟のようだからこそ食い違うこともありました。
そういう難しい時でもなんとか僕らはマジカルな楽曲を作ることができましたし、
素晴らしいレコーディングやライヴを生み出すことができたのです。(中略)」

「グレンはバンドのジェームス・ディーンでした。
方向性を探している時のリーダーでしたし、バンドで最もクールな男でした。
僕らの問題に一緒に取り組んだり話したりできないと思うと大変悲しくなります。
悲しいことにもうその機会はないのですね。
この星は偉大な人を、偉大なミュージシャンを失いました。
誰も彼の代わりなんて務められないでしょう。安らかに、グレン。(中略)」


(参考資料:ザ・ヒストリー・オブ・イーグルス、レコード・コレクターズ、
 ドン・フェルダー自伝 天国と地獄 イーグルスという人生、NME JAPAN、   
 Wikipedia、他)


(1)デヴィッド・ゲフィン
ローラ・ニーロの発掘、CS&Nを売り出したのを機に音楽界に人脈を作る。
1970年ジャクソン・ブラウンがアトランティック・レコードと契約する際、
新レーベル「アサイラム」を設立し出資者のゲフィンが社長になった。
アサイラム・レコードはイーグルス、J.D.サウザーなど新人を送り出すと共に、
リンダ・ロンシュタットやジョニ・ミッチェルを他レーベルから移籍させ
大成功を得る。

1973年にアサイラムはエレクトラと合併しゲフィンはその社長に就任。
ゲフィンは病気療養の為に一時引退するが1980年に復帰。
ジョン・レノンの「Double Fantasy」で再び華々しい成功を収める。
その後エルトン・ジョン、エアロスミスを他社から引き抜き、ニルヴァーナ、
ガンズ・アンド・ローゼズ、ベックをブレイクさせた。

1990年にゲフィン・レコードをMCAに売却。
1994年にはスティーヴン・スピルバーグ、ジェフリー・カッツェンバーグと
共にドリームワークスSKGを設立した。


(2)グリン・ジョンズ
イギリスのエンジニア/プロデューサー。
ローリングストーンズ、トラフィック、スティーヴ・ミラー・バンド、
デラニー&ボニー、レオン・ラッセル、リタ・クーリッジ、ジョー・コッカー、
と英米のアーティストを手がける。
ビートルズの未発売アルバム「Get Back」も彼がミックスを担当した。

ジョンズの音作りは中域に固まったゴリッとした無骨な肌触りである。
しかしイーグルスではエコーの深い霧の中のような音を出している。
ジョンズはイーグルスのハーモニーやバラードを評価しているものの、ロック
バンドとしては認めていなかった。


(3)ビル・シムジク
アメリカのエンジニア/プロデューサー。
B.B.キング、ジェイムズ・ギャング、Jガイルズ・バンドを手がける。
ワイルドなギターの音を聴きやすくコンテンポラリーな音楽に料理するのを
得意としていた。
ダン・フォーゲルバーグのレコーディングに参加していたイーグルスと知り
合い、グリン・ジョンズの後任を頼まれる。
ジェイムズ・ギャングを脱退したジョー・ウォルシュと組むことが多く、ジョー
を紹介したのもビル・シムジクのようだ。


(4)アーヴィン・エイゾフ
ハード・ネゴシエイターとして音楽業界に知られるやり手のマネージャー。
REOスピードワゴン、ダン・フォーゲルバーグ、ジョー・ウォルシュを手がける。
イーグルスは1974年にゲフィン・ロバーツからエイゾフにマネジメントを変更。
イーグルスの成功により名声を得たエイゾフは、スティーリー・ダン、ジャクソン
・ブラウン、ジャーニー、シカゴ、マイケル・マクドナルドを次々獲得。
1983年にエイゾフはMCAレコードの社長に就任。
グレン・フライとティモシー・シュミットはアサイラムを離れMCAに移籍した。


(5)ティモシー・シュミット
ランディー・マイズナーの後任としてポコに参加していたが、ランディーが抜け
たイーグルスに後任のベーシストとして加入。
イーグルスに最後に入ったメンバーで参加したアルバムは「The Long Run」のみ。
しかし彼の楽曲「I Can't Tell You Why」で見せた存在感は大きい。
ランディーもティモシーもベース担当で高音部のハーモニーを受け持っていた。
二人の違いは、ランディーのベースと歌が’70年代の素朴な味わいがあるのに対し
ティモシーのベースと歌、曲作りは都会的で新しい感覚であった点である。


(6)「One Of These Nights」「Hotel California」での貢献
「One Of These Nights」の作曲クレジットはドン・ヘンリー、グレン・フライ。
しかしイントロや間奏の特徴的なギター、ファンキーなリズムにアレンジしたのは
ドン・フェルダーである。

「Hotel California」はドン・フェルダーが作ったコード展開が元になった。
それにドン・ヘンリーが歌をつけた。
グレン・フライは歌詞を手伝った程度らしい。
作曲クレジットは発売時はフェルダー、ヘンリー、フライであったのが、1994年
再結成時はヘンリー、フライ、フェルダーに変えられていた。


(7)spirit
細かいことを言うとワインはspirit(蒸留酒)じゃなくてliquor(醸造酒)。


(8)TVドラマ「マイアミ・バイス」
1984年〜1989年まで5シーズンに渡ってアメリカNBCで放映されたドラマ。
二人の潜入捜査官クロケットとタブスを演じたのはドン・ジョンソンとフィリッ
プ・マイケル・トーマス。製作はマイケル・マン。
マイアミを舞台にヴェルサーチやアルマーニのスーツを着てフェラーリを乗り
回すスタイリッシュな刑事ドラマとして話題になった。
劇中のヒット曲が流れるシーンは「MTV」のようにカッコよかった。

グレン・フライ本人もシーズン1第15話「密輸業者のブルース」に運び屋の役で
出演している。
これはアーヴィン・エイゾフがグレンを売るためドラマ出演を仕掛けたもの。
2枚目のアルバム収録曲「Smuggler’s Blues」を主題ににした脚本を書かせた。


(9)1994年イーグルス再結成。
1979年の最終メンバーーが集められた。
グレン・フライ、ドン・ヘンリー、ドン・フェルダー、ジョー・ウォルシュ、
ティモシー・シュミットの5人。
ジョー・ウォルシュはアルコール依存症だったがこれを機に立ち直った。
4曲の新曲とMTVライブ収録曲で構成されたアルバム「Hell Freezes Over」
を発表し世界ツアーを展開。1995年には来日公演を果たす。

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