歌うべきか」という「日本語ロック論争」が起こっていたことがある。
日本語ロックの是非が論じられたというより、洋楽ロック支持派が一方的に日本語
で歌うアーティストを下に見ていた、という方が実情に近い。
クラスでもガチの洋楽ロック派は、吉田拓郎とか沢田研二も好きだと言うと「おま
え、あんなの聴いてんの?」と思いっきり僕をバカにした。
彼らが認めていたのは英語で歌っていたフラワー・トラベリン・バンド(1)とクリエ
イション(2)くらいで、目の仇にしていたのはGSの寄せ集めのPYG(3)だった。
ことの発端はタウン誌の新宿プレイマップ1970年10月号に掲載された座談会だ。
座談会に出席したのは内田裕也、鈴木ヒロミツ、大瀧詠一、久民、ジャズ評論家の
相倉久人、それに編集者の6人である。
内田裕也はロカビリー時代に歌手デビュー後、GSブームでタイガースを発掘しプロ
デュースに関わり(4)、世界に通用する本物のロックを目指しフラワー・トラベリン
・バンドを結成したばかりであった。
(この翌年アトランティック・レコードと契約し2枚目のアルバム「SATORI」を
日本・北米でリリースしている)
内田は「日本語でやった経験もあるが歌う方としてはのらない」とロックは英語で
歌う道を選び、ジョー山中をヴォーカルに起用した。
↑クリックするとフラワー・トラベリン・バンドの「SATORI part2」が聴けます。
GSの中ではゴールデンカップスと並んでブルースロックを得意としていたモップス
の鈴木ヒロミツは「日本語でやれればその方がいい、でも現実に日本語じゃのらな
い。日本語って母音が多い。だから『オレはオマエが好きなんだ』なんて叫んでも
シラケちゃう」と発言している。
はっぴいえんどでデビューしたばかりの大瀧詠一は「日本に外国のロックを持ち込ん
でも馴染めない一因は言葉の問題だと思う。そこで日本語でロックをやってみた」と
意気込みを語った。
さらに「ロックをやるのに日本は向いていないと思う。全世界的にやるなら英語の方
が早い。でも日本でやるなら日本の聴衆を相手にしなくちゃならないわけで。日本語
でやるのはプロテストのためじゃないし国粋主義者でもない」と自分の考えを示した。
↑写真をクリックするとはっぴいえんどの「かくれんぼ」が聴けます。
英語で歌うべき派の内田裕也も大瀧の話を聞いて「フォークと違ってロックはメッセ
ージじゃないし、そこにロックがあれば言葉じゃなくて何か判りあっちゃうと思う。
言葉は重要だと思うけどそんなにこだわらない。大滝くんたちが日本語でやるのなら
成功してほしい」とこの時はエールを贈っている。
しかし翌年ニューミュージック・マガジンに発表された日本のロック賞で、日本語で
歌っているURCレコード(5)の主にフォーク系アーティストが上位を占め、英語で歌っ
ているアーティストが選ばれなかったことで状況が変わる。
ニューミュージック・マガジン1971年5月号に掲載された「日本のロック情況はどこ
まで来たか」と題する座談会で論戦は始まった。
出席者はミッキー・カーチス、内田裕也、大滝詠一、松本隆、ロック評論家の福田一
郎、中村とうよう、小倉エージ、ディレクターの折田育造(6)の8人。
この対談で内田裕也は「はっぴいえんどの『春よ来い』はよほど注意して聞かないと
言ってることがわからない。歌詞とメロディとリズムのバランスが悪く日本語とロッ
クの結びつきに成功したとは思わない」と指摘。
↑写真をクリックするとはっぴいえんどの「春よ来い」が聴けます。
「去年のニューミュージック・マガジンの日本のロックの1位が岡林信康で、今年は
はっぴいえんど、そんなにURCのレコードがいいのか? 僕たちだって一生懸命やっ
てるんだと言いたくなる」と本音を吐いている。
対する松本隆は、ロックに日本語の歌詞を乗せることににいまだ成功していないこと
をあっさりと認めたうえで、フラワー・トラベリン・バンドをどう思うか?の問いに
「人のバンドが英語で歌おうと日本語で歌おうとかまわない。音楽についても趣味の
問題だ」と全く意に介していない。
内田以外の参加者(日本のロック賞の選考委員)はっぴいえんどを絶賛していた。
同年11月はっぴいえんどは2枚目のアルバム「風街ろまん」をリリース。
バッファロー・スプリングフィールド、リトルフィート、ジェイムス・テイラーなど
アメリカのロックのサウンドを巧みに取り入れながら、日本語で独自の世界観を表現。
これによって「ロックのメロディーに日本語の歌詞を乗せる」という試みは成功し、
「日本語ロック論争」は収束して行った。
↑写真をクリックするとはっぴいえんどの「夏なんです」が聴けます。
1972年12月にはキャロルがデビュー。
卓越した演奏と日本語+英語の巻き舌唱法で独自のスタイルを確立。
内田裕也もキャロルの実力には早々と目をつけデビュー話を持ちかけている。
(ミッキー・カーチスに先を越されてしまったが)(6)
日本語ロックに否定的だった鈴木ヒロミツのモップスも「月光仮面」(1971年3月)、
吉田拓郎作の「たどりついたらいつも雨ふり」(1972年7月)をヒットさせた。
↑ジャケットをクリックするとモップスの「月光仮面」が視聴できます。
「サイクリングブギ」(1972年)でスタートした加藤和彦のサディスティック・ミカ
・バンドの2枚目のアルバム「黒船」(1974)は英国のプロデューサー、クリス・ト
ーマス(8)が手がけ、日本のロックの金字塔といえる作品となった。
1975年にはイギリスでツアーを行い、日本語で歌ってもウケることを実証した。
内田裕也がプロデュースをした郡山のワンステップフェスティバル(1974年)には、
キャロル、サディスティック・ミカ・バンド、沢田研二&井上堯之バンド、シュガー・
ベイブ、ダウンタウン・ブギウギ・バンド、四人囃子ら日本語でロックするバンドが
多数参加した。(9)
↑写真をクリックするとワンステップフェスティバル出演時のサディスティック・ミカ
・バンドの「塀までひとっとび」が視聴できます。
↑写真をクリックするとワンステップフェスティバル出演時の沢田研二&井上堯之バン
ド+内田裕也の「塀恋の大穴」が視聴できます。
1973年に荒井由美がデビュー。
完成度の高い音楽性、美しい歌詞とメロディの融合はもはや「日本語だからこそでき
た音楽」にまで昇華していた。
<脚注>
(1)フラワー・トラベリン・バンド
ジョー山中(ボーカル)、石間秀樹(ギター)上月ジュン(ベース)、和田ジョージ
(ドラムス)4人による日本のロックバンド。1970年結成。
プロデューサーの内田裕也のアイディアで「東洋的な旋律をモチーフとしたロックを
英語で歌う」独自のスタイルで世界で通用するロックを目指した。
3オクターブに渡る音域のジョー山中の歌唱力と高い演奏力で海外でも評価が高い。
アトランティック・レコードと契約し、2枚目のアルバム「SATORI」(1971年)は
アメリカとカナダでも発売された。
1973年1月に来日するローリングストーンズの前座を務める予定だったが、来日は中
止になり大きなチャンスを逸してしまう。同年4月に解散した。
(2)クリエイション
竹田和夫(ボーカル、ギター)を中心とするブルース・ロックのバンド。
(1969年結成時はブルース・クリエイションという名前だった)
1971年にはカルメン・マキ&ブルース・クリエイションで第3回全日本フォークジャン
ボリーに出演している。
メンバーは幾度か入れ替わっておりフェリックス・パパラルディ、山内テツ、アイ高野
が参加していた時期もある。
1984年に解散したが2008年に活動再開し現在にいたる。
(3)PYG
1971年に元タイガースの沢田研二、岸部一徳、元テンプターズの萩原健一、大口広司、
元スパイダーズの大野克夫、井上堯之が結成したバンド。
グループ名の由来は「豚のように蔑まれても生きてゆく」という信念。
当時は日本のニューロックを目指したがGSの寄せ集めと揶揄され活動は2年と短命。
(4)内田裕也とタイガースの関わり
大阪のジャズ喫茶・ナンバ一番で演奏していたファニーズ(後のタイガース)をスカ
ウトし上京させ、ジャズ喫茶新宿ACBに活動の場を移させる。
しかし所属する渡辺プロダクションは裏方としての内田の役割を理解できない。
当初はレコード、テレビ、ラジオは渡辺プロ、コンサートは内田が仕切るという棲み
分けもできていたが、タイガースの人気が上がるとともに渡辺プロにとっては内田は
煙たい存在になったようで、結果的に内田は手を引くことになった。
内田裕也はタイガース解散後も沢田研二とは交流があり、沢田のステージに内田が
ゲスト出演することもあった。
(5)URCレコード
アングラ・レコード・クラブ (通称: URC)という1969年に設立された会員制の通信
販売のシステムだったが、入会希望者が後を絶たずインディーズのレコード会社「UR
Cレコード」として発足した。
所属していたアーティストは、五つの赤い風船、遠藤賢司、岡林信康、加川良、斉藤
哲夫、高石友也、高田渡、友部正人、中川五郎、はっぴいえんど、六文銭、三上寛。
(6)折田育造
ポリドール・レコードでクリームを売るにあたってアートロックという言葉を作る。
その後アートロックはニューロックに継承された。
ワーナー・パイオニアではレッドツェッペリンを担当。
1973年のツェッペリン来日時は彼らの狼藉ぶりに大変だったと言う。
ワーナー・ミュージック社長、ユニバーサル・ミュージック会長に就任。
日本で洋楽ロックを育てた重要人物の一人である。
見た目は商店街のオッサンだけど(笑)
(7)内田裕也とキャロル
1972年10月フジテレビ「リブ・ヤング」にキャロルが出演した際、リハーサルを見て
いた内田裕也がプロデューサー役を申し出ていた。
ところが本番終了後ミッキー・カーチスからも連絡が入り、キャロルは具体的なレコー
ド・デビューの話まで持ちかけたミッキー・カーチスを選択する。
矢沢永吉は内田裕也に丁寧に詫びた。
2016年3月にフジテレビ「ダウンタウンなう」に出演した内田裕也はこの件について
以下のように語っている。
人を介し「会いたい」と言って来た矢沢から「僕らを男にしてください」と頼まれた。
しかしキャロルはミッキー・カーチスと組むことに。
「冗談じゃねぇよ、お前らが『ヨロシク』って来たんだろ」と怒り、矢沢を殴ってやろ
うと焼肉屋に呼びつけたという。
しかし矢沢は内田の前で正座し「自分が悪いので一発もらえますか」と殴られる覚悟で
詫びを入れたそうだ。
内田は「ここで負けた、こいつイケるな、大スターになると思った」と言っている。
内田裕也とキャロルはワンステップフェスティバルの際も出演料の件でもめている。
郡山市の町興し的なイベントで予算がないため内田は各出演者にボランティアでと頼ん
だが、矢沢は頑として譲らなかったそうだ。
それでも内田裕也は「あのイベントは沢田研二とキャロルが出てくれたから成立したん
だ」と振り返っている。
(8)クリス・トーマス
英国ロック界の名プロデューサー。
ビートルズの「ホワイトアルバム」(1968年)にアシスタント・プロデューサーとして
携わった後、プロコルハルム、ピンクフロイド、ロキシー・ミュージック、セックスピ
ストルズ、ポール・マッカートニー、プリテンダーズ、ピート・タウンゼント、エルト
ン・ジョン、U2のプロデュースを行う。
ステレオ感が希薄で中音域に密集したるパンチの効いた音響処理が特徴である。
(9)ワンステップフェスティバル
1974年8月4日から5日、同8日から10日に福島県郡山市開成山公園内の総合陸上競技場
で開かれたロック・フェスティバル。
30組以上の日本ミュージシャンに加えアメリカからはオノ・ヨーコも参加し、日本最大
のロックフェスティバル、日本のウッドストックと呼ばれた。
プロデュースは内田裕也、石坂敬一。
<参考資料:「新宿プレイマップ」1970年10月号「喧論戦シリーズ②ニューロック」、
「ニューミュージック・マガジン」1971年5月号「日本のロック情況はどこまで来たか」
、日刊スポーツ、ワンステップフェスティバル・スペシャルボックス DVD、Wikipedia>
こんにちは。
返信削除ワンステップは懐かしいです。
ワンステップにお世話になって
郡山で何度か仕事をした記憶があります。
またこのフェスの企画は事前に聞かされていて、
ウチのどこかに当時の企画書も残ってるかもしれません。
フェスのCD化の際にちょっと協力した事で、
サンプル盤を頂きましたが、聞いた事がありません(笑)
自分の金で買わないと聞かないですね。
>proviaさん
削除以前proviaさんにワンステップフェスのCD-Rをいただきましたね。
その時にこのイベントに関わったというお話を伺いました。
真夏の郡山、酷暑だったんしょうね。
知人からDVDを借りて見ましたが、オースチン・ミニから降りた
かまやつさんが顔を歪めて「暑い」と言ったのが印象的でした。
民家の部屋で村の若い衆みたいな人たちと沢田研二たちが会合し
てる様子も、この時代ならではという気がしました。
予算もなく音楽事務所が主催するコンサートというよりは、町興し
的な手作りイベントだったのでしょう。
ワンステップフェスのCD化、DVD化に際してキャロルのステージが
収録されなかったのが残念です。
内田裕也も言ってるようにキャロルは目玉でしたし油の乗り切って
いる時期でいい演奏をしたと思うのですが、内容は矢沢永吉が納得
できるものじゃなかったんですかね。