2018年2月9日金曜日

ロックな青春映画10選(5)1960年代の英国海賊ラジオ局。

今回ご紹介する映画は「パイレーツ・ロック」。(2009年英・独)
原題は「The Boat That Rocked」、アメリカ公開時は「Pirate Radio」。

脚本・監督は「Mr.ビーン」「ブリジット・ジョーンズの日記」の脚本を手がけ
たリチャード・カーティス。だからテンポがよく笑えるツボ満載だ。

1966年〜1967年、英国で海賊ラジオ局が全盛期だった頃の話なのだが、先に
当時の英国の事情について書いておこう。その方が本作品を楽しめると思う。





<1960年代前半、英国民はポップ、ロックに飢えていた>

信じがたい話だが、1960年代英国にはラジオ局は国営のBBCしかなかった。
お堅いBBCがロック、ポップスを放送するのは1日にたった45分だけ。


しかもミュージシャンのユニオン(組合)が局にレコードをかけないように規制
を強いていたため、ミュージシャンを局に招き演奏させた音源を放送していた。

1940〜1950年代はミュージシャンたちはラジオ局で演奏して収入を得ていた。
ラジオでレコードをかけられると彼らの仕事がなくなってしまう。

当時はレコード市場が成長し彼らの大きな収入源になることも、ラジオ局で流す
ことがレコードのプロモーションになることも想像できなかったのだ。




話は逸れるが、ビートルズやストーンズもBBCではレコードをかけるのではなく
局のスタジオで演奏したもの(中には公開ライブもあった)を放送していた。

そのおかげで今日、ビートルズやストーンズのBBCライブ音源が聴ける。(1)




ビートルズはEMIのオーディションに受かる半年前の1962年3月から既にBBC
に出演し、1965年6月まで全52回の出演・収録を行ない、300曲近いライヴ録音
を残している。(2)

その中には彼らがデビュー前からレパートリーにしていたカヴァー曲で公式録音
されなかったものも多く含まれ、今となっては貴重な音源である。

特に1963年一年間だけでビートルズは40回も出演し(彼らの特別番組「ポップ・
ゴー・ザ・ビートルズ」15回を含む)、1日45分というBBCのポップ枠において
特別扱いされていた(それくらい絶大な人気を博していた)ことが伺える。


脱線してしまったが、1960年代のBBCラジオ規制はそんな状況だったのだ。
当然のことながら英国の若者たちは電波でロックを聴けなくて飢えていた。

海賊ラジオ局ができる以前は、昼間はフランス語で放送しているラジオ・ルクセ
ンブルグが夜になると英語に切り換えてロック、ポップスのレコードを流し、
英国のスポンサーからのCM収入を得ていた。

ルクセンブルグはロンドンから約500km。
かなり雑音混じりの音に英国の若者たちは耳をこらしていたのだ。



<1960年代、英国で隆盛を極めた海賊ラジオ局>

そんな中1964年3月に政府未許可の海賊ラジオ局、ラジオ・キャロラインが開局。
北海からイギリス本土に向けビートルズの「Can’t Buy Me Love」を流す。




オーナーは古いオランダのフェリーを買い付け、放送設備を積みこんでフォーク州
フェリックストゥ沖5マイル(約8km)に停泊して放送を開始。
DJスタイルでブリティッシュ・ロック、アメリカのR&RやR&Bなどビート・ミュ
ージックを24時間ノンストップでかけ続けた。

これを英国の若者たちは熱狂的に支持。
英国政府からクレームがつくが、公海上に停泊しているため取り締まれない。


5月には第2の海賊放送船ラジオ・アトランタが誕生。
ラジオ・キャロラインとスポンサー確保を一括で行い営業体制も整った。

続いてミ・アミーゴ(後にラジオ・キャロラインサウスに改称)、ラジオ・ロンドン
ラジオ355(ラジオ・ブリテン)、ラジオ270が洋上に開局。




さらに船だけではなく、大戦中に公海上にある建設され放置されていた海上要塞も
不法占拠され、海賊放送局として使われた。
ラジオ・サッチ(後にラジオ・シティと改名)、ラジオ・エセックスなど。

20局以上の海賊放送局があったと言われている。
やがて各局は個性を打ち出すようになる。
ラジオ・キャロラインはR&B、ブルー・ビート、スカ、ロックステディ。
ラジオ309はブルース、ラジオ・シティはビートルズとストーンズ。


人気DJも多く輩出された。
当時最も人気のあった海賊ラジオ局はラジオ・ロンドンで、ジョン・ピール、トニー
・ブラックバーン、ケニー・エヴァレットなどが在籍。





海賊ラジオ局の人気はミュージシャン、レコード会社やプロダクションも評価。
新譜のアセテート盤をいち早くオンエアしてもらう、サンプル盤を配る(局は購入
しなくて済む)、ヒットしたら局にも収益が入るよう出版権を融通する、など利益
共存を図っていた。


BBCは対抗策として「ポップ・ゴー・ザ・ビートルズ」「フロム・アス・トゥ・ユー」
「トップ・ギア」などビートルズを核とした番組構成で「BBCならではの生のビート
ルズ」を売りにした。
(これらが前述の「BBCセッション」の音源になってるわけだ)

しかしワールドツアーや映画、テレビ出演、レコーディングで多忙のビートルズにと
っても、わざわざBBCに時間を割いて生出演するよりレコードをかけて宣伝してくれ
る海賊放送の方がありがたい。
1965年にはビートルズのBBC出演は6月の一回のみ。以降、出演しなくなった。


1966年に海賊ラジオ局は全盛期を迎え、英国民の約半分2500万人が聴いていた



一方、保守層はFワードを連発する下品なDJやR&Rが国の風紀を乱すと反対する。
政府も国営放送を脅かす海賊放送局の存在を苦々しく思い、なんとか一掃できないか
とあの手この手で妨害し続けた。

政府は海賊放送船が補給を行うヨーロッパの各港に圧力をかけ閉め出したり、CMを
出稿しているスポンサーに脅しをかけ提供をやめさせる。
最終的には「英国の漁船の通信を妨害する」という難癖としか思えない電波法を作り、
政府は公海上の海賊放送船の強制撤去に乗り出す。


1967年ラジオ・ロンドンの放送終了日には英国中の若者が涙したという。


しかし取り締まりの約1ヶ月後、BBCはFMラジオ局、BBCラジオ1をスタート。
ロック、ポップス中心の番組で、DJにあの海賊ラジオ局で人気を博したジョン・ピ
ール、トニー・ブラックバーン、ケニー・エヴァレットらを起用。

1973年には英国で地上波の民営放送局が認可され、約60のラジオ局が各地に誕生。
映画が公開された2009年時点で英国には239のラジオ局があったという。


海賊ラジオ局は1964〜1967年の4年程度の期間ではあったが、英国の若者たちに多く
のビート・ミュージックを届け、多くのロック・バンドを育てた功績は計り知れない
 


↑写真をクリックすると「パイレーツ・ロック」トレーラーが観られます。



<映画のあらすじ>

ブリティッシュ・ロックが世界を席巻していた1966年。
英国には民放ラジオ局がなく、ポップやロックはBBCが放送する1日45分だけ。

そんな中、英国の領海外の北海に浮かぶ船から24時間ロックを流し続ける海賊ラジ
オ局「ラジオ・ロック」(実在したラジオ・ロンドンがモデル)が、若者たちの熱
狂的な支持を得ていた。


喫煙とドラッグで高校を退学になったカールは更生?のため、母親の旧友クエン
ティンが経営するこのラジオ・ロックの船に預けられることになった。




クエンティンは粋にスーツを着こなす英国紳士で晩年のチャーリー・ワッツ風。
「お母さんはなぜここに君を入れたと思う?潮風にあたれば心を入れ替えるとでも
?とんだ思違いだな」とカールに言う。

母親の目論見は、どうせなら思いきり不真面目な大人たちとの共同生活で、成長
させようというショック療法だったのだ。


ロックと自由を愛するカウント(伯爵)、皮肉屋でユーモアがあって面倒見の良い
太めのデイヴ、人が良すぎて結婚詐欺にひっかかるサイモン、クールなイケメンで
女の子にモテるマーク、いじめられ役のアンガス、深夜帯を受け持ち普段は部屋に
こもるヒッピー風のボブ、とロックをこよなく愛するアクの強いDJたち。




破天荒な先輩たちに翻弄されながらもカールは気儘な生活に溶け込んで行く。
カールはこの船に「人生を学ぶ」ために来たのだ。
そして母親が只者ではないことも、父親がこの船にいることも知る。


DJたちは2週に一回、女の子たちを船に呼んで楽しくやっていた。

カールもクエンティンの姪、マリアンと結ばれてやっと童貞を卒業する。
そんなおもしろいネタをDJたちが放っておくわけがない。
電波に乗せて全英に報告してしまうのだった。





一方、英国政府は海賊放送の不道徳な内容に不快感を露わにし、担当大臣がなんとか
ラジオ・ロックを潰そうと画策していた。
スポンサーへの圧力、そして電波法を制定しついに強制終了を迫ってきた。


放送終了の直前、英国中のリスナーたちが悲痛な面持ちでラジオに耳を傾けていた。
ント(伯爵)が静かに語りだす。




So, faithful followers, the end is nigh. 
さて、ファンのみなさん、そろそろ終わりのようだ。 
We bid you farewell with dignity and pride. 
尊厳と誇りをもって君たちにお別れを言おう。 
We thought we'd never die.  But, well, we can't fight city hall. 
俺たちは死ぬわけじゃない。でも、ほら、お役所とは争えないからね
And so, take care, be good.  Listen to the music. It's a good thing to do.  
じゃあ、元気で。音楽を聴いていてくれ。それが一番さ。  
It's the Count,  
カンウト(伯爵)がお送りしました。
Counting down and out for the count at last. (3) Three, two, one... 
終了への秒読みを。3、2、1・・・・


(沈黙)


Only kidding, dudes. Let's rock!  (4)
なんて、ウソだもんね〜、さあ、ロックしようぜ!

ラジオの前で涙ぐんでいた英国中の若者たちは歓喜の声を上げた。
このシーンが最高だ。


船はこの後、難破する。SOSを送るも、英国政府は無視した。
大量の船で救助に駆けつけたのはリスナーたちだった。




<個性的な配役>

アメリカ出身のDJ、カウントを演じるのは、「カポーティ」(2005年)でアカデミー
主演男優賞を受賞したフィリップ・シーモア・ホフマン。
あの頃ペニー・レインと」(2000年)ではクリーム誌の編集長を好演していたが、
この映画でもいぶし銀の演技を見せてくれる。



経営者のクエンティンはビル・ナイ、大臣役にケネス・ブラナー、カールの母親はエマ
・トンプソン、と英国の重鎮たちが固めている。

サイモンと偽装結婚する性悪の美女エレノア役は、テレビドラマ「マッドメン」(4)
ベティ・ドレイパー役で知られるアメリカ女優ジャニュアリー・ジョーンズ。




カールが恋するマリアン(タルラ・ライリー)も小松菜奈似でかわいかった(^^v)



<選曲はカッコいいけど時代考証が甘い?>

劇中では36曲が流れる。いい曲がいっぱいだ。

特にキンクスの「All Day And All Of The Night」はこの映画の肝ではないか。
シンプルで強烈なカッコいいギター・リフ。そして歌詞。

昼も夜も一日中ロックを流す、という海賊ラジオ局にぴったりの内容だ。


I'm not content to be with you in the daytime
Girl I want to be with you all of the time
The only time I feel alright is by your side
Girl I want to be with you all of the time
All day and all of the night
君と一緒にいるの、昼だけじゃ満足できない。ねえ、ずっと一緒にいたいんだ。
君がそばにいる時だけ気分がいい。ねえ、ずっと一緒にいたいんだ。昼も夜も。


↑クリックするとキンクスの「All Day And All Of The Night」が聴けます。


でも、あれ?という選曲もけっこうあった。

クリームの「I Feel Free」、ストーンズの「Jumpin' Jack Flash」、ジェフ・
ベックの「Hi Ho Silver Lining」は1968年でこの頃はまだ登場してないはず。
バカラックの名曲、ハーブ・アルパートの「This Guy's in Love」 もそう。
キャット・スティーヴンスの「Father and Son」は1970年の曲。

この辺がちょっとズレているのは大目に見るとしても、エンド・クレジットで役者
たちが踊るデヴィッド・ボウイの「Let’s Dance」(1983年)はないでしょ。


あとダフィーなんて最近の歌手の「Stay with me」がかかるし。
本家のロレイン・エリソンの使用許可が取れなかったのかもしれないけど。

せっかくいい映画のに、時代考証が甘い点がちょっと残念。
ビートルズが1曲も使われなかったのは許可が下りなかったのだろう。


<脚注>


(1)ビートルズ、ストーンズがBBCに残した音源
ビートルズは1962〜1965年で300曲近いライヴ録音を残している。
そのうち95曲が公式リリースされた。
(ザ・ビートルズ・ライヴ・アット・ザ・BBC  Vol.1〜2)

ストーンズも1963年~1965年にBBCに出演しており、このうち32曲が昨年10月
に公式リリースされた。(ザ・ローリングストーンズ On Air」


(2)ビートルズがBBCで出演した番組
ヒア・ウィ・ゴー 1962年3月〜1963年3月 5回
ザ・タレント・スポット 1962年12月〜1963年1月 2回
パレード・オブ・ザ・ポップス 1963年2月 1回
サタデイ・クラブ 1963年1月〜1964年12月 10回
オン・ザ・シーン 1963年3月 1回
イージー・ビート 1963年4月〜10月 4回
スウィンギング・サウンド'63 1963年4月(生放送)1回
サイド・バイ・サイド 1963年4月〜6月 3回
ステッピン・アウト 1963年6月 1回
ザ・ビート・ショー 1963年7月 1回
ザ・ケン・ドッド・ショー 1963年11月 1回
ザ・ロイヤル・バラエティ・パフォーマンス 1963年11月 1回
トップ・ギア 1964年4月〜1963年11月 2回
ポップ・ゴー・ザ・ビートルズ  1963年6月〜9月 15回
フロム・アス・トゥ・ユー 1963年12月〜 1964年8月 4回
ザ・ビートルズ・インヴァイト・ユー・トゥ・テイク・ア・ティケット・トゥ・
ライド 1963年5月 1回

3年間で全52回の出演・収録を行ない300曲近いライヴ録音を残している。
そのほとんどがブートで聴くことができる。


 (3)Counting down and out for the count at last. 
Counting downは秒読み、out for the counはノックアウト、死ぬこと。
伯爵(Count)は自分のニックネームにかけて頻繁にcountを使う。
You can count on me(俺に任せろ)、I’m counting on you(頼むぜ)とか。

 (4)Only kidding, dudes. Let's rock! 
kiddingは冗談、dudesは本来は奴みたいな意味だが挨拶で深い意味はない。
bodyとかheyみたいな呼びかけ、感情の昂りを表したりする。


(5)テレビドラマ「マッドメン」
1960年代のニューヨークの広告業界を描いたAMC製作のテレビドラマシリーズ。
2007年〜 2015年に7シーズンが放送された。
タイトルの「マッドメン(Mad Men)」とは大手広告代理店が多いマディソン・
アヴェニュー(Madison Avenue)の広告マンを指す造語である。
勤務中の社内での飲酒、喫煙や、セクシャル・ハラスメント、人種差別などが描
かれている。
BBDOやGREY、McCan Ericksonなどの現存する大手広告代理店や、アメリカン
航空やヒルトン、フィリップ・モリス、ホンダなどの現存するクライアントも登場。
プライムタイム・エミー賞、たゴールデングローブ賞など多数受賞している。


<参考資料: イギリスの海賊ラジオ局(ロックの歴史-20世紀のロックについての
お話)、BARKS ピーター・バラカンが語る海賊ラジオとパイレーツ・ロック、
ビートルズ BBCラジオ演奏記録、ピーター・バラカン氏インタビュー、
Musicman-net 第96回 ピーター・バラカン氏 ブロードキャスター、
movie walker、Wikipedia、他>

3 件のコメント:

  1. こんにちは。
    リッチー・ブラックモア、ジミー・ペイジ、ジェフ・ベックの親分
    ロード・サッチさんをご存じでしょうか?
    (詳細はリンク先を読んでいただくとして)

    私はこの映画を見ていないのですが、この海賊放送解放のために国会議員になろうとしている
    人がいませんでしたか?
    もしいたらそれはサッチさんです(笑)

    ちなみに日本(というか都下)にも有名な海賊放送があり

    https://youtu.be/_W8XD6QoMHo

    ラジオが最新音楽の発信源だった当時、私が音楽(特に洋楽)にのめり込むようになったのは、
    福生の米軍基地放送のFENとこの海賊放送の影響が大きいです。
    もちろん小室等さんのあの番組も(笑)

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  2. こんにちは。
    御ブログにもコメントを入れさせていただきましたが。
    いやいや。知らないことっていっぱいあるもんですね。

    ベックズ・ボレロでペイジ、ニッキー・ホプキンス、キース・ムーンの
    セッションがあったのは1968年か1969年ですよね。
    それ以来の、いえ、それ以上のメンバーですね。

    ベック、ペイジ、ジョンジー、ボンゾは1960年代からセッションマン
    としてレコーディングに参加してます。
    たとえばドノヴァンのアルバムでも1965年にペイジ、1968年にジョンジー+ボンゾ、
    1969年にはジェフ・ベック・グループが演奏してるんです。

    ところで、FM西東京。知りませんでした。
    1978年というとちょうどラジオを聴かなくなりチューナーも持たなく
    なった時代です。
    西東京という名前が既に使われていた、というのも驚きです。

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  3. こんにちは。
    私という異分子と出会ってイエロードッグさんの音楽世界が
    さらに充実発展することの一助になることは他人事ながらとても嬉しいものです。
    音楽が「語るもの」から「歌うもの」に変化して久しいですが
    今まで気づかなかった音との出会いのお役に立てれば私のブログも
    それなりの効果はあるのかなと(笑)

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