2022年5月17日火曜日

モンキーズのマイク・ネスミスの功績を辿る<前篇>

(写真:GettyImages)


モンキーズのマイク・ネスミスが昨年12月カリフォルニア州カーメル・バレー(
ワインの産地で有名)の自宅で静かに息をひきとった。(享年78)

家族は自然死だったと発表しているが、4年前に心臓のバイパス手術を受けており
心不全により亡くなったという報道もある。

デイビー・ジョーンズが2012年に心臓発作のため66歳で他界。
ピーター・トークが2019年に他界(77歳)。
マイクはミッキー・ドレンツと共に11月にモンキーズのフェアウェル・ツアーを
終えたばかりだった。




マイクの訃報を受けたミッキーは追悼コメントを発表している。

I’m heartbroken.
I’ve lost a dear friend and partner.
I’m so grateful that we could spend the last couple of months together 
doing what we loved best – singing, laughing, and doing shtick.
I’ll miss it all so much.  Especially the shtick.
Rest in peace, Nez. All my love,
Micky

胸が張り裂けそうだ。親友でパートナーを失った。
最後の数ヶ月を僕らが一番好きだったこと(歌、笑い、お決まりのギャグ)をし
ながら一緒に過ごせたことに感謝。
それがもうできないなんて寂しい。特にお決まりのギャグはね。
安らかに、ネズ。愛しているよ。ミッキー




モンキーズというアメリカ的なビジネスモデルにおいて、マイク・ネスミスは
優れた音楽センスと反骨精神でグループに音楽的な主体性と創造性をもたらした。
彼がモンキーズに加えた色とはカントリー・テイストであり、それは1970年代の
カントリー・ロックの先駆けという重要な役割も担っている

そしてもう一つ、上記のミッキーのコメントにある「お決まりのギャグ」。
モンキーズにおいてマイクは地味目の落ち着いたキャラクターを演じていたが、
ナンセンスなギャグは彼の真骨頂で、モンキーズでも発揮されていた。


1980年代にマイクは映像制作会社を設立し「Elephant Parts」というコメディ
スケッチとミュージックのコレクションをビデオ作品化。
グラミー賞ミュージックビデオ部門初の受賞を果たしている。



↑クリックするとElephant Partsの「Neighborhood Nukes」が見られます。
この時期に不謹慎かもしれないが、ぶちギレた人の行動は際限なくエスカレート
するという不条理さへの皮肉をこめた反面教師ともいえるる作品です。

マイク・ネスミスが好きなのはこういう笑いと音楽だったのだ。



<TV番組ありきでスタートした企画だった>

よく言われるようにモンキーズは「作られた」アメリカ版ビートルズである。

元々モンキーズの構想はTV番組企画として始まった
コロムビア映画傘下の映像プロダクション、スクリーン・ジェムズのプロデュー
サー、ボブ・ラフェルソンとバート・シュナイダーは、ビートルズの「ハード・
デイズ・ナイト」「ヘルプ!」から着想し、同じようなTV番組を作ればテイーン
エイジャーに受けるのではないかと画策する。(つまりパクりだ)

当初は実在するラヴィン・スプーンフルを出演させる案もあったそうだ。
1965年9月にエンターテイメント業界誌、バラエティとハリウッド・レポーター
にオーディションの広告を掲載する。
NBC主催で行われたオーディションには437人が集まった。(1)




その中から子役あがりでミュージカル「オリバー!」にも出演していたデイビー、
人気TV番組「サーカスボーイ」に子役で出演していた経験があるミッキー、
グリニッジヴィレッジで音楽活動をしていたピーター、既にミュージシャンとして
デビューしていたマイク、の4人が選ばれる。(2)

歌って演技するのは作られたバンドでよかった
メンバーは若い子を惹きつける個性とそこそこの歌唱力と演技力があればいい。

架空のバンドによるシチュエーション・コメディと音楽を織り交ぜたTV番組。
アイドルが歌うキャッチーな曲をTVで流しレコードのヒットにつなげるという
新しい方程式(従来はヒット曲はラジオで作られた)の誕生だ。
入念に仕掛けられたアメリカのショービジネス界らしい発想である。




↑ネーム入りディレクターズ・チェアにモンキーズ。これもビートルズのパクリ



↑ジョージの髪を整えているのがパティー・ボイド。ポール担当の娘も美人だ。



<モンキーズの音楽面での仕掛け人>

アメリカの音楽ビジネスは作詞・作曲家、アレンジャー、ミュージシャン、歌手
という分業によって大量生産される総合システムとして成り立っていた。
(バンドがツアーしてる間にレコーディングはスタジオミュージシャンが済ませ、
録音済みのオケに合わせて歌だけ吹き込む、というやり方が一般的だった)


そのヒット作りのビジネスモデルがビートルズにより根底から覆されてしまう
ビートルズは自作曲を自分らアレンジし演奏し歌い、すべてをこなす。
プロデュースやスタジオの技術などレコーディングのすべてに積極的に関与した。
そして彼らはアメリカのチャートを席巻してしまった。


従来の職業的作詞・作曲家、アレンジャー、ミュージシャンは失業しかねない。
ビートルスに対抗できるムーヴメントをアメリカの音楽ビジネスフォーマットで
創り出せないか、というプロジェクトだった。


                          (写真:GettyImages)


仕掛け人は音楽プロデューサーのドン・カーシュナー(3)
ヒット曲を聴き分ける黄金の耳を持つ男(The Man With the Golden Ear)と
言われた。ティーンエイジャーの心をつかむ天性の勘があった。
リーバー=ストーラー、キング=ゴフィン、マン&シンシアなどの作詞・作曲家
や有能なプロデューサー、アレンジャーを起用した。


モンキーズのためにボイス&ハート、キャロル・ベイヤー・セイガー、ニール・
ダイアモンドなど無名だった若手を登用したのもカーシュナーの功績だ。

レコーディングはハル・ブレイン、ジェイムズ・バートン、グレン・キャンベル、
ビル・ピットマンなどの一流ミュージシャン、レッキング・クルー(4)がメンバ
ーたちの代わりに演奏した。




つまりアメリカの音楽界きっての一流どころが結集したプロジェクトなのである。
4人は歌うだけだが個性的で魅力的な声だった。悪かろうはずがない。

そこが「作られた」アメリカ版ビートルズと言われる所以である。
キャラクター重視で選ばれた4人にビートルズのような音楽性は求めてなかった



<デビュー・アルバムの制作>

モンキーズのレコードはコロムビア傘下のスクリーン・ジェムズとRCAビクター
が設立したコルジェムス・レコードから発売されることになった。

カーシュナーは売れっ子プロデューサーのスナッフ・ギャレットにモンキーズを
任せたが、うまく行かなかった。4人とも一筋縄ではいかない。
キャロル・キングをも泣かせたという逸話がある。




レコーディングが頓挫したおかげでマイクにチャンスが巡ってきた。
次のプロデューサーが決まるまで抑えてあったスタジオとミュージシャンを使っ
てもいいという許可が降りたのだ。

マイクは自らのプロデュースで自作の「Papa Gene's Blues」とゴフィン&キング
との共作「Sweet Young Thing」の2曲を録音した。

レコード会社としても、マイクの2作品をアルバムに採用することで「メンバーに
作曲力がある」ことをアピールできると踏んだのだろう。




新しいプロデューサーに抜擢されたのは、カーシュナーがモンキーズのために
起用した新人の作曲チーム、トミー・ボイス&ボビー・ハートの2人だった。
4人とボイス&ハートとの関係は良好でアルバムの制作は順調に進んだ。

アルバム収録曲の半分以上がボイス&ハートの作品である。
その中には「モンキーズのテーマ」、デイビーが歌うバラード「自由になりたい」、
シングルカットされ大ヒットした「恋の終列車(Last Train to Clarksville)」、
小気味好いノリの「ダンスを続けよう」などキャッチーな曲が連なる。



↑ボイス&ハートと和気藹々のモンキーズ。


「恋の終列車(Last Train to Clarksville)」のイントロはドン・カーシュナーから
「ペイパーバック・ライターをパクれ」という指示があったらしい。
デイ・トリッパーにも似てる。タンバリンの入り方とかも。



↑ミッキーが歌う「恋の終列車(Last Train to Clarksville)」が聴けます。


では誰があのギターを弾いてたのか?
萩原健太氏はジェリー・マギーかレジー・ヤングじゃないかと言ってた。
徳武弘文氏も1枚目と2枚目でジェリー・マギーが弾いていると言っている。
(僕はジェイムズ・バートン、ビリー・ストレンジ、トミー・テデスコあたりかと)
調べてみたらルイ・シェルトンという人だった。この人もレッキング・クルー。





「自由になりたい」はアコースティックギターのアルペジオをバックにデイビー
が歌う美しいバラードで、中盤からストリングスが入る。
この辺も「イエスタデイ」が雛形だったのではないかと匂わせる。




随所でビートルズをパクってはいるが、レッキング・クルーが演奏してること
もあって、やはりアメリカンなサウンドである。ビートルズではない。
ビーチボーイズやナンシー・シナトラ、エルヴィス、初期のバーズに近いかな。



<オーディション/ソロでもデビューしていたマイク・ネスミス>

1965年にアメリカのNBC主催のオーディションで4人の若者が選ばれた。
マイクは部屋を出た直後に「あのニット帽の男は入れよう」という声を聞き、
合格を確信したそうだ。



クリックするとデイビーとマイクのスクリーン・テストが見られます。
画面映えとユーモアのセンス、4人の個性が混ざる化学反応が期待されたのか。




↑クリックすると1965年マイクが初めてTVに出演した時の映像が見られます。
1965年LAのローカルTV局KCOPの番組「ロイド・サクストン・ショー」に出演。
曲はバフィー・セイント・メリーの「Until It's Time For You To Go」。



4人の中で作曲ができてギターの演奏テクニックがあり、ミュージシャンとして
グループを引っ張っていたのはマイクである。
デビュー時から彼はレコーディングには主体的に関わりたい意向を主張してた。





<モンキーズのデビューと反響>

1966年9月NBC系列でTVシリーズ「ザ・モンキーズ」がスタートする。
ロサンゼルス郊外のビーチウッドに住む売れないミュージシャン4人が繰り広げる
ドタバタ・コメディドラマで一話完結型だった。

番組は高視聴率を記録し、若者たちの間で大人気となる。
翌1967年にはエミー賞2部門(1つは最高コメディー賞)を受賞。




TVシリーズ開始の1ヶ月後、デビュー・アルバムThe Monkees」が発売。
アメリカ、カナダ、イギリスでNo.1を獲得。(邦題;恋の終列車)
2枚目のアルバムMore of the Monkees」も1位。
ビールボードのアルバムチャート1位、2位をモンキーズが独占する事態となる。





デビュー・シングル「Last Train To Clarksville(恋の終列車)」も2nd.シングル
「I'm a Believer」も1位に輝く。
一時はビートルズを凌ぐ勢いの人気であった。


1966年ジョンの「ビートルズはキリストよりポピュラー」発言でアメリカでは
不買運動が起き、人気に翳りが見え出した。
ビートルズ自身もスタジオでの実験的な音創りに傾倒しライブに興味をなくし、
8月の全米ツアーを最後にライブをやめると宣言。
その後、風貌の変化とともにティーンのアイドルではなくなっていた。
そこに登場したモンキーズは女の子たちから圧倒的な支持を得た。




日本ではTV番組の開始が1年遅れで、1967年10月からTBS系列で「ザ・モンキ
ーズ・ショー」として放送された。(ちょうどGSブームと重なった)
クラスの女子たちはみんなTVを見てたし、特にデイビーのファンが多かった。
男子もレコードを買ってたが、しだいにビートルズやピンクフロイド、Zep、
ELP、キング・クリムゾン、ディプパープルへ移って行った。

<続く>


<脚注>

(1) モンキーズのオーディション
1965年にNBC主催で行われたオーディションには437人が集まった。
中にはジョン・セバスチャン、ヴァン・ダイク・パークス、ダニー・ハットン(スリ
ー・ドッグ・ナイト)、後に CS&Nとして売れたスティーヴン・スティルスもいた。
スティルスは歯並びが悪くて髪が汚いという理由で不合格になったが(笑)、代わ
りにピーター・トークを推薦している。(えらい!)
※スティルス不合格の理由はボブ・ラフェルソンとバート・シュナイダーが彼の
作曲家としての能力を評価していなかったため、とも言われている。


(2)オーディションで選ばれた4
ボブ・ラフェルソンとバート・シュナイダーは自社スクリーン・ジェムズ、同じ
コロムビア映画傘下のコルピックス・レーベルと契約していたデイビーに目を付ける。
デイビーは最初から決まっていてオーディションで他の3人を探すつもりだった。

ミッキーもまたスクリーン・ジェムズと仕事の繋がりがあり声をかけられた。
グリニッジヴィレッジで音楽活動をしていたピーター・トークは、スティーヴン・
スティルス(不合格だった)の紹介でオーディションを受けた。

実際に告知を見てオーディションを受けて合格したのはマイク1人だった。
偶然だろうがコルピックス・レーベルからレコード・デビューしていた。
オーディションとはいえ出来レースやコネの面もあったと思う。
だとしても、選ばれた4人が魅力的な個性を持っていたことは確かだ。


(3)ドン・カーシュナー
アメリカの音楽プロデューサー。
’50年代~'60年代のアメリカのポピュラー音楽、ロックの発展への功績は大きい。
コニー・フランシス、ボビー・ダーリンのマネージャーを務めていた。
アル・ネヴィンスと共同で音楽出版社アルドン・ミュージックを設立。
そのネヴィンスは金・評判・経験・人脈を持つ音楽業界の重鎮で、モンキーズの
プロジェクトにも関与していたようだ。
カーシュナーはモンキーズのプロデューサーを更迭された後、ジ・アーチーズ
という架空のバブルガム・グループの仕掛け人として成功した。
コミック本をTVアニメ化し、その中で男女5人にバンドを組ませ、毎週番組でオリ
ジナル曲を歌わせる。レコードも発売。「シュガー・シュガー」が大ヒットした。
実際の楽曲制作と歌はロン・ダンテが担当。演奏はスタジオ・ミュージシャン。
モンキーズで成功したヒットの方程式を応用したものだった。


(4)レッキング・クルー
ドラムスのハル・ブレイン率いるL.A.の腕利きスタジオ・ミュージシャン集団。
1960年代〜1970年代のアメリカのヒット・チャートを支えてきた猛者たちだ。
一つのバンドではなく、必要な時に必要なミュージシャンをスタジオに派遣する
流動的なセッションマンのユニットである。

ベーシストのキャロル・ケイ、ジョー・オズボーン、ライル・リッツ。
ピアノのラリー・ネクテル、レオン・ラッセル、キーボードのドン・ランディ。
ギターはトミー・テデスコ、グレン・キャンベル、ビリー・ストレンジ、アル・
ケイシ、ビル・ピットマン、バーニー・ケッセル、デヴィッド・ゲイツ。
サックスのプラス・ジョンソン、サックスとクラリネットのニノ・テンポ、
ドラムスのアール・パーマーらが名を連ねていた。

フィル・スペクターがレコーディング時に起用したミュージシャンたちだが、
高度な演奏技術が評価され、色々なレコーディングで起用されるようになる。
当時のアメリカの音楽シーンは分業制が多かった。
歌手やバンドがツアーに出ている間にスタジオ・ミュージシャンが演奏を録音。
完成したオケにボーカルを重ねる。
また本人たちの演奏力では難しいとプロデューサーが判断した場合、メンバーが
忙しくレコーディングに参加できない場合もレッキング・クルーが代役を務めた。
ロネッツ、フランク・シナトラ、ナンシー・シナトラ、ビーチボーイズ、バーズ、
モンキーズ、カーペンターズ、サイモン&ガーファンクル、フィフス・ディメン
ション、バーブラ・ストライサンド、ママス&パパスのヒット曲で貢献している。


<参考資料:Udiscovermusic.jp、ミュージックライフ・クラブ、CD Journal、
ラジカントロプス2.0、モンキーズの楽曲 作曲家別一覧、Wikipedia、YouTube、
大人のミュージックカレンダー、ヘイ・ヘイ・ウィアー・ザ・モンキーズ 、
GettyImages、tabs.ultimate-guitar.com、レコード・コレクターズ、他>

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