2024年11月10日日曜日

半世紀もアメリカ音楽界に君臨したクインシー・ジョーンズ。



アメリカのポピュラー音楽の巨匠、クインシー・ジョーンズが91歳で亡くなった。

ご冥福をお祈りします。


クインシーといえば、多くの人がマイケル・ジャクソンを想起するだろう。

マイケルとクインシーは1979年の「Off The Wall」で初めてタッグを組む。
800万枚を売り上げるロングセラーとなった。



↑クインシーとマイケル。「Off The Wall」制作中の写真と思われる。
この頃のマイケルはよかったなあ。




次作への期待は高まり、マイケルとクインシーはプレッシャーを感じてたそうだ。
しかし1982年に発売された「Thriller」は前作を軽く超え、約7000万枚〜1億枚
という「史上最も売れたアルバム」となった。

Beat Itはエディ・ヴァン・ヘイレンのギターソロが強烈なロックナンバーだ。




↑マイケルのライヴでギターソロを弾くエディ・ヴァン・ヘイレン。



イントロやコーラス部のBeat it〜♫で鳴っているギターのリフ、バッキング、
オブリ、ベースはスティーヴ・ルカサーが弾いている。

あのリフはTOTOのHold The Lineを彷彿させる。
スティーヴ・ルカサーがスタジオで考えたのか?
それともクインシーが渡したスコアに既に書いてあったのか?

ヴァン・ヘイレン間奏は最初から決まっていたんだろうか?
スティーヴ・ルカサーが弾いた間奏は存在しないのかな?



スティーヴ・ルカサーとエディ・ヴァン・ヘイレン


Beat It - Isolated Guitars - Steve Lukather & Eddie Van Halen




ブラック・ミュージックに白人ロックの要素を取り入れるセンス
クインシーはこのバランス感覚に優れていた

ブラザーズ・ジョンソン、パティ・オースティン、ジェームス・イングラムも
都会的で洗練されたAORの黒人版ブラック・コンテンポラリー路線で売れる。
彼らは「クインシーの秘蔵っ子」と呼ばれた。



↑クインシーとブラザーズ・ジョンソン


1985年には大物アーティストが結集し(参加アーティストは45人に及んだ)、
アフリカ救済のチャリティー・シングル「We Are the World」を制作
クインシーはそのプロデュースも手がけた。

クインシー・ジョーンズの黄金期は1970年代末〜1980年代前半のブラック・
コンテンポラリー全盛期と重なるが、彼のキャリアは長く1950年代から輝かしい
実績を残している。
クインシーがキャリアをスタートさせた頃はジャズであった。
多くの人がイメージするクインシー=ブラック・コンテンポラリーとは違う。




クインシーはもともとトランペット奏者であった
そのせいかアレンジにおいても、ホーン・セクションの使い方に長けていた




10代で盲目のピアノ奏者の少年レイ・チャールズと共にバンド活動を始める。
ライオネル・ハンプトン楽団に参加したクインシーはアレンジャーの才能を
開花させる。




カウント・ベイシー、デューク・エリントン、ヘレン・メリル、サラ・ヴォーン
のアレンジを手がけた。



サラ・ヴォーンと。左がプロデューサーのボビー・シャッド。右がクインシー。




↑クインシーとディジー・ガレスピー





↑名盤の誉高いヘレン・メリルのデビュー・アルバム(1955年)もクインシー
がアレンジを手がけている。



Helen Merrill With Clifford Brown - Falling In Love With Love
https://youtu.be/RlAoPW51jjI?si=mq0UICybpbbPUpu1




1960年代からはプロデューサーとしても活躍した。
レスリー・ゴーアのデビュー曲、It's My Partyは全米1位を獲得。(1963年)





Lesley Gore - It's My Party
https://youtu.be/Xqc-tDSBSbE?si=6hTzVOJQLl0MU12J



「ヒット曲はイントロで決まる」という格言どおり、It's My Partyはたった2音
ながらもキャッチーな仕掛けで曲にインパクトを与えた。
お世辞にも歌が上手いとは言えないレスリー・ゴーアを人気歌手に押し上げた
のは、クインシー・マジックである。



↑レスリー・ゴーアとクインシー




マイルス・デイヴィス、フランク・シナトラのプロデュースも手がけた。




↑シナトラとクインシー



また映画・TVドラマの音楽の分野へも活動の幅を広げる。
シドニー・ポワチエ主演の「夜の大捜査線」やスティーヴ・マックイーン主演
の「ゲッタウェイ」のサウンドトラックも評判となった。

ドラマ「鬼警部アイアンサイド」のテーマ曲は、NTV「テレビ三面記事 ウィ
ークエンダー」で「新聞によりますと」で始まる事件解説の際使われたので
日本でもお馴染みの曲となっている。
(クエンティン・タランティーノ監督の映画「キル・ビル」でも使用された)




       ↑原題は「Ironside」。鬼警部って・・・(笑



「鬼警部アイアンサイドのテーマ」クインシー・ジョーンズ」
https://youtu.be/qRLO2_EK04o?si=b6jr3z4ey-tq74ZX



1978年公開の映画「ウィズ」(「オズの魔法使い」をベースにした黒人出演者
によるミュージカルに)でマイケル・ジャクソンと出会う。
これがクインシーとマイケルの最高傑作を産むきっかけとなる。



    ↑クインシーとマイケル



クインシーは37枚のリーダー・アルバムも残している。

大まかに分けると、〜1961年はジャズ1960年代はポピュラー・ミュージック
、Smackwater Jack (1971年)からはソウル・ファンク

Sounds... And Stuff Like That!(1978年)からブラック・コンテンポラリー
The Dude (1981年)は全世界でヒットした。


Quincy Jones - Takin It To The Streets
https://youtu.be/0IYRnC5ngRc?si=ui5UK4aPrE4Nk7nO

↑ドゥービー・ブラザーズのヒット曲。作曲はマイケル・マクドナルド。
ボーカルはルーサー・ヴァンドロスとグウェン・ガスリー。






Quincy Jones - Betcha Wouldn't Hurt Me
https://youtu.be/Xg9esGW_LUE?si=TMRSb_b4EgNW3S5G

↑作曲はスティーヴィー・ワンダー、ボーカルはパティ・オースティン。
スラップ・ベースはルイス・ジョンソンが弾いている。






<参考資料:CNBC TITANS、JAZZ MUSIC SMALL LIBRARY、
JET SET ONLINE SHOP、Wikipedia、YouTube、他>

2024年11月2日土曜日

CSN&Y 未発表ライヴ Live At Fillmore East, 1969が発売。



太田裕美が歌う「青春のしおり」(1)という曲がある。ファンに人気の高い。
歌詞は女性の視点で、学生時代につき合っていたと思われる男子学生(たぶん
年上なのだろう)を追想している。

CSNYなど聞き出してからあなたは人が変わったようね。髪をのばして授業
をさぼり自由に生きてみたいと言った」と歌われる。(2)
さらに「ウッドストック」という言葉も使われ、1970年代のカウンターカル
チャーの空気を感じさせる。



↑ウッドストック・フェスティバル会場へ向かう若者の車の列



太田裕美は作詞を手がけた松本隆に「CSNYってなあに?」と尋ねたという。
松本は怒ったように「CSNYはCSNYだよ」と答えたそうだ。
彼女は「分からないから訊いてるんじゃないの」と思ったという。

同世代の太田裕美がCSNYを知らなかったことがちょっと驚きであった。
上野学園で音楽を学び、シンガー&ソングライターという触れ込みでプロと
して活動していた人がCSNYを知らないって・・・・
松本隆がイラっとしたのもそこだったのだろう。





しかし考えてみれば中学・高校の頃、CSNYを聴いてる女子はいなかった。
GAROは好きという娘は多いけど、元ネタのCSNYの存在を知らない。

ウッドストックでCSNを知り「Déjà Vu」を聴いて、その後デビューした
GAROは和製CSNだなと思った僕たちとはストーリーが違うのだ。

そもそも洋楽ロックに夢中になっていたのは、クラスでも一部の男子だけ。
髪をのばして授業をさぼってたしね。




閑話休題。

クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング (CSN&Y) の1969年 未発表
ライヴアルバム「Live At Fillmore East, 1969」が公式リリースされた。




1969年9月20日、ニューヨークのフィルモアイースト公演を収録したものだ。
フィルモアイースト公演は以前からブートレッグで出回っていたが、音質が悪く、
テープがヨレる、など評判が悪かった。


公式発売された音源は、新たに発掘された8トラックテープから、スティーヴン
・スティルスとニール・ヤングがLAのサンセットスタジオでレストア&ミックス
を施したものだそうである。

この二人、バッファローの頃から何度もぶつかっているが。
なかよくやれたんでしょうか(笑

それはともかく、非常にいい状態で録音されている。


Crosby, Stills, Nash & Young - Live At Fillmore East, 1969 (2024 Mix)
https://youtu.be/sy_ACh-R1-o?si=gumIV8N17Uv4NvmJ








この4ヶ月前の5月29日、クロスビー、スティルス&ナッシュ(CS&N)の3人が
デビュー・アルバムを発表したばかりであった。(3)

変則チューニングを多用したアコースティクギターの響きと3声ハーモニーの妙
で、それでにない新しいロックの境地を開いた。
イーグルスを初めとするウエストコースト・ロックの礎となっている。



↑スティーヴン・スティルスはモンキーズのオーディションを受け落ちている。
歯並びが悪いという理由だった。確かに・・・



ロック色を強めたいスティルスの意向で、バッファロー解散後ソロで活動していた
ニール・ヤングがギタリストとして加わりCSN&Yの4人体制となった。


ウッドストック・フェスティバルの最終日、8月17日にCSN&Yの4人が出演。
こも歴史的なロック・コンサートのハイライトの1つとなる。

ニール・ヤングは客を前で演奏することは了承したが、映像作品は頑なに拒否。
映画ではニール・ヤング抜きの3人しか写っていない。
とはいえ、世界中の音楽ファンが動くCS&Nの姿を見て衝撃を受けた。





1970年3月にクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングの4人名義でアルバム
Déjà Vu」を発表。
ビルボード1位を記録する大ヒットとなり、商業的にも知名度的にもCSN&Yは
頂点を極め、時代を象徴するロックとなった。


フィルモアイースト公演はウッドストック出演の1ヶ月後
ニール・ヤングを加えた4人による2回目のコンサート出演ではないかと思う。




まさにCSN&Yとして上昇気流に乗った一番勢いがある時期のライヴである。
翌1970年6〜7月のライヴを収録した「4 Way Street」(1971年4月発売)より
まとまりがよく聴きやすい。4人が和気藹々と楽しそうなのが伝わる。


前半がアコースティック・セット、後半がエレクトリック・セット
圧倒的な「Suite: Judy Blues Eyes」で始まり、3声にアレンジしたビートルズ
の「Blackbird」、「Helplessly Hoping」と聴く者を虜にして行く。






ニール・ヤングはこの時点ではまだCSN&Yとしてのレパートリーがないようで
「On the Way Home」「I've Loved Her So Long」「Down by the River」
とソロ作品を歌っている。これがとてもいい。

スティルスは「4+20」、ナッシュは「Our House」とこの後「Déjà Vu」に
収録されることになる曲を披露している。
「4+20」は既に完成形。
「Déjà Vu」収録ヴァージョンとのギターのニュアンス違いも楽しめる。





「Long Time Gone」からエレクトリック・セットで5曲続く。
アコースティックの時はあんなに上手いのに、エレキギターのアンサンブル
である。余計な音が多く、ぶつかり合う。
スティルスもニール・ヤングもリードギターは上手いとは言えない。

誰か分からないけどピッチが甘い、つまりチューニングがビミョーに合ってい
なくて気持ち悪い。しかもそういう曲に限って長尺。

まあ、グレイトフル・デッドやディランは日常茶飯事だし、ザ・バンドでさえ
リック・ダンコのチューニングが合ってない時があった。





クリップチューナーもなくて、ステージで正確なチューニングを保つのが難しい
時代だったのかもしれない。
こういうことにシビアーな人と大雑把な人っているし、ガサツな方がバンドら
しくて好きという人もいる。この辺は好みが分かれるところだろう。

しかしCSN&Yの真骨頂はアコースティック・ギターとハーモニーの美しさだ。
個人的にはエレクトリック・セットの分マイナスでお薦め度は★★★★かな。
最後のアカペラ「Find the Cost of Freedom」はお口直しか。ホッとする。






さて、最後にCSN&Yの使用ギターについて少し触れておこう。
CSN&Yといえば、4人全員がマーティンの最高峰D-45を所有していたことでも
有名で、当時のギター・ファンは羨望の眼差しで見ていた。

D-45はCSN&Yのトレードマークであり、CSN&YによってD-45伝説が生まれた、
CSN&Yの影響で多くのミュージシャンが「いつかはD-45」と憧れるようになっ
た、と言っても過言ではないだろう。




D-45は当時の価格で100万円くらいだったと思う。
しかも生産本数が少なく、日本に入ってきたのは4本だけだったと言われる。

日本で最初にD-45を手に入れたのが加藤和彦だそうだ。(4)
次が石川鷹彦、そしてGAROのマークとトミー。





CSN&Yが使用していたD-45は1968年に再生産され出した直後のもので、サイド
&バックにハカランダ(ブラジリアンローズウッド)が使用されている。(5)
4人揃ってカリフォルニア州バークレーの楽器店で購入したそうだ。





尚、スティーヴン・スティルスはD-45以外にも、スロテッドヘッドで12フレット
ジョイントの000-45、ヴァーティカル・ロゴのD-28を所有している。
ニール・ヤングはD-45の他、ヴァーティカル・ロゴのD-28、D-18、ギブソン
J-200を愛用していた。



ヴァーティカル・ロゴ(縦型ロゴ)のD-28



フィルモアイースト公演の写真を見る限り、ニール・ヤングはD-45、スティルス
はD-28、クロスビーはD-18を12弦に改造したもの(6)を使用している。



D-18を12弦に改造してある。チューナーが増える分ヘッドストックが長い。



エレクトリック・セットの写真はないが、クロスビーはグレッチ・ナッシュビル、
ギブソンのセミアコを12弦に改造したモデル、スティルスはギブソンのセミアコ、
SG、グレッチ・ホワイトファルコン、グレッチ・カントリージェントルマン辺り
ではないか。

グラハム・ナッシュは不明(エレキを抱えている写真を見かけない)、ニール・
ヤングはレスポール・ブラックビューティ、グレッチ・ホワイトファルコン、
ギブソンのフライングVのいずれかを使用していたと思われる。





<脚注>