2016年11月17日木曜日

歌姫メリー・ホプキンのシンデレラ・ストーリー(1)

ティム・オブライエンの短編「ゴースト・ソルジャーズ」(1)にこんな一節がある。

「僕らは僕の兵舎に戻って、ぼんやりとした明かりの中でブーツを脱いで、テープ・
デッキでメリー・ホプキンの歌を聴いていた。(中略)
戦争が終わったら僕はロンドンに行ってメリー・ホプキンに結婚を申し込もう。
ヴェトナムにいるとそうなってしまうのだ。センチメンタルになって、メリー・ホ
キンみたいな女の子と結婚したいと思うようになるのだ。」

きっとそうなのだろう。
彼らは兵舎にプレイメイトやナンシー・シナトラのピンナップを貼りながら、メリ
・ホプキンの清楚な声に感傷的になるのだ。




メリー・ホプキンは英国ウェールズ出身。
ジョーン・バエズ(2)やジュディ・コリンズ(3)に憧れながら、地元のクラブを拠点
母国語のウェールズ語でフォークソング歌っていた。
地元のインディーズ・レーベルからウェールズ語でレコーディングしている。

メリーに転機が訪れたのは1968年5月5日。2日前に18歳になったばかりだった。
ABCテレビの「Opportunity Knocks」というオーディション番組に出演していた
のだが、この日の放送はまさに幸運の女神(Opportunity Knocks)となった。

番組を観ていたモデルのツイッギーがポール・マッカートニーに連絡した。
ポールは立ち上げたばかりのアップル・レコードの新人歌手を探していたのだ。(4)
ポールは自ら電話をしメリーと母親に会い契約をした。


↑クリックすると「Opportunity Knocks」出演時のメリー・ホプキンが見れます。
ツイッギーが観た5月5日ではなくデビュー直前の7月の放送。
「ギターはジョージ・ハリソンにもらった、もうすぐレコードが発売されるので楽し
みだ」と話している。



メリーのデビュー用にポールが選んだのは「Those  Were The Days」という曲だ。

原曲は1910-1920年頃に作られたロシアの歌曲「 Дорогой длинною ダローガイ・
ドリーンナィユ(長い道)」で、欧米在住の亡命ロシア人の間で親しまれていた。
1962年に英国で活動していたアメリカの歌手、ジーン・ラスキンが英語版を編曲し、
自分の持ち歌として歌っていた。


ポールはロンドンのブルー・ランプというパブで、たまたま出演していたジーン・ラ
スキン夫妻が歌っているのを聴き、この曲にいたく心惹かれた。1965年頃のことだ。

ジーン・ラスキン版「Those  Were The Days」は1962年にアメリカのグループ、
ライムライターズがレコーディングしていたが、英国ではほとんど知られていない。
ポールは機会があればこの曲を誰かに歌わせたいと心に温めていたのだ。



↑クリックするとライムライターズの「Those  Were The Days」が聴けます。


哀愁漂うメロディーはロシア歌謡ならではだが、東欧のジプシー音楽、東欧ユダヤ人
の音楽クレズマーにも通ずるものがある。
「この曲は人の心の琴線を震わせる、絶対に当たる」という目のつけどころ。
そしてメリーに歌わせるところがポールの天性の勘、センスの良さである。

さらにポールのプロデュース力、アレンジ力がすごい。
イントロにバラライカをもってきたり、隠し味にクラリネットやチューバを使ったり、
子供のコーラス隊を入れたりと、曲の持つ哀愁を最大限まで引き出す見事な(やや大
げさすぎる)オケに仕上がっている。

冒頭に紹介した「ゴースト・ソルジャーズ」の主人公が感傷的になったメリー・ホプ
キンの曲も「Those  Were The Days」だったのだろう。


「Those  Were The Days」は古い友だちと酒場で過ごした日々に想いを馳せ、
あの頃はよかったと懐かしんでいる歌である。
邦題は「悲しき天使」であるが、歌詞に天使なんて出てこない。

昔は何でもかんでも「哀しみの」「悲しき」「愛の」「恋の」「哀愁の」「涙の」
を曲のタイトルにつけるのがレコード会社の安易な常套手段だったのだ。
メリーの清楚な歌声が天使のようだから「天使」にした。そんなところだろう。

まあ、「あの頃はよかった」や「古き良き友よ」じゃイメージが合わないし(笑)
そもそも18歳の女の子が酒場での思い出を歌うのってどうなんだろう。



↑ミュージック・ライフに掲載された広告。
クリックするとメリーが歌う「Those  Were The Days」が聴けます。



「Those  Were The Days」は1968年8月30日に英国で発売されるや全英チャート
を駆け上がり、ビートルズの「Hey Jude」を蹴落とし6週間No.1に輝いた。
アメリカではビルボード誌で最高位の第2位を獲得。

日本では1968年12月5日に発売され、2ヶ月後にピンキーとキラーズ「恋の季節」
を抜いてオリコン・シングルチャートの1位を記録している。
世界各国でも記録的な大ヒットとなった。


「世界で通用するポップス歌手に」というポールの意向から、この曲はイタリア語
、スペイン語、フランス語、ドイツ語、ヘブライ語でもレコーディングされている。

さらに各国で色々な歌手によってカヴァーされた。
イタリアのジリオラ・チンクエッティ、ギリシアのヴィッキー、フランスのダリダ、
イギリスのサンディー・ショウ、日本では森山良子など。

ポール・モーリア、マントヴァーニ・オーケストラ、チェット・アトキンスなどイ
ンストゥルメンタル曲(いわゆるロビー・ミュージック、日本ではムード音楽)と
しても広くカヴァーされ、スタンダード・ナンバーになった。



さて、僕自身はどうかというと。。。
メリー・ホプキンは好きだけど、彼女の歌う「Those  Were The Days」は何度で
も聴きたくなる曲ではない。
耳タコの感があるし、曲もアレンジもいささか大げさすぎるのだ。

B面の「ターン・ターン・ターン(Turn! Turn! Turn!))」の方が好みである。
アメリカのフォーク・シンガー、ピート・シーガー(5)の代表作の一つで、1965年
バーズがフォークロックにアレンジしたヴァージョンがヒットした。


ジョーン・バエズの持ち歌でもあり、メリーの歌唱もそれに習ったものだ。
メリーは地元のインディーズ・レコードでもこの曲をウェールズ語で録音している。
彼女が得意としていた曲なので、ポールもB面曲に選んだのだろう。

前述の「Opportunity Knocks」出演時もこの曲を歌っている。
アップル・レコードでデビュー前に撮られたプロモーション・フィルムでもこの曲
が歌われた。



https://youtu.be/fjEu5vlRfiY
↑クリックすると「Turn! Turn! Turn!」のプロモーション・フィルムが見れます。
まだ歯の矯正をしていないメリーに注目!


個人的にはそれほど好きな曲ではないと書いたが、あのバラライカのイントロを聴く
とやはりあの頃を懐かしく思う。
1968年の冬に一気にタイムスリップするのだ。


次回もメリー・ホプキン。
1st.アルバム「Post Card」〜2nd.シングル「Goodbye」について書く予定です。


<脚注>


(1)ティム・オブライエンの短編「ゴースト・ソルジャーズ」
短編集「本当の戦争の話をしよう」ティム・オブライエン著(訳:村上春樹 1990
年刊)に収められている短編。
ティム・オブライエンはベトナム戦争という巨大なシステムに呑み込まれ、潰されて
ゆく個の姿、心にベトナム戦争を抱えたまま病む人を描くのを得意としている。
短編の多くは「エスクァイア」などの雑誌に掲載された。
「ゴースト・ソルジャーズ」は優秀短編に与えられるO・ヘンリー賞を受賞。
他にも「ソン・チャボンの恋人」「兵士たちの荷物」など名作が収められている。


(2)ジョーン・バエズ
アメリカの女性フォーク・シンガー。
1960年のデビュー時は「ドナドナ」「朝日のあたる家」などトラディショナルなフォ
ーク・バラードやブルースを自身のギターで弾き語りしていたが、やがて公民権運動
と反戦活動の先頭に立つようになる。
多くの女性フォーク・シンガーが彼女を模倣した。


(3)ジュディ・コリンズ
1960年代前半ジョーン・バエズと人気を二分していたアメリカの女性フォーク歌手。
ウディ・ガスリーやピート・シーガー、ディランなどの曲をカヴァー。
1968年ジョニ・ミッチェルの「青春の光と影(Both sides Now)」を歌いヒット。


(4)ツイッギーがポール・マッカートニーに連絡
ポールの述懐ではツイッギーと食事をした時に彼女が「Opportunity Knocks」で勝
ち進んでいる女の子がいる。あの子は絶対次も残る。観てみなさい」と言ったそうだ。
別な説では、ツイッギーがポールに電話をかけ「テレビをつけて。あなたが探してい
る子が出てるわ」と言ったことになっている。


(5)ピート・シーガー
アメリカのフォーク・シンガー。
20世紀半ばのフォーク・リバイバル運動、プロテストソングのの中心人物の一人。
「花はどこへ行った」「天使のハンマー」「ウィ・シャル・オーバーカム」
「ターン・ターン・ターン」などの代表作がある


<参考資料:「Many Years from Now」ポール・マッカートニー、Wikipedia
「The McCartney Years」ポール・マッカートニー、他>

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