2016年11月6日日曜日

沢田研二@夜のヒットスタジオの謎。

<「夜のヒットスタジオ」がヒット番組になった理由>

我々の世代にとって「夜のヒットスタジオ」は忘れられない音楽番組だ。
1968年11月から1990年10月まで22年間も放送された長寿番組である。

河田町にあったフジテレビ旧本社ビル1階奥の一番大きい第6スタジオ(1)から当時
としては珍しく生放送され、数々の出演者のレベルの高いパフォーマンス(生なら
ではのハプニングも含め)を毎週見せてくれた。



「夜ヒット」は歌をフルコーラスで聴かせる方針を採り、凝ったカメラワークと大
量のスモークや照明など多彩な演出で、歌手と曲の魅力を最大限に引き立てる音楽
本位の番組作りを一貫して行い独自の地位を確立した。

芳村真理、前田武彦(後に井上順)ら司会と歌手の和やかなやり取り、出演者が他
の歌手の持ち歌のワンフレーズを歌いマイクを手渡すバトンリレー形式のオープニ
ングも楽しみだった。





しかし最初からヒット番組だったわけではない。


もともと編成の都合上、穴の開いた月曜夜22時という枠の穴埋め的なつなぎとして
スタートした番組であり、あまり期待されていなかった。
当時カラー放送化が進んでいたにもかかわらず、時代遅れのモノクロ放送で東京、
大阪、名古屋、福岡わずか4局ネットでの寂しいスタートだった。


当時の22時台は深夜に近い、現在の23~24時台のような扱いだったのだ。
スタート時は視聴率10%前後で、提供スポンサーもいわゆるナショナルクライアント
は少なく(2)、椅子のホートクや「見え過ぎちゃって困るの~♪」のマスプロアンテナ
が入っていたと(おぼろげながら)記憶している。



1969年1月の生放送中「コンピューター恋人選び」のコーナーで中村晃子が「理想の
恋人」に前田武彦(交際していた)が選ばれ号泣してしまう、という事件が起きた。

2月には恋人だったレーサー、福沢幸雄を事故で亡くしたばかりの小川知子が彼の肉
テープを手渡され、泣きながら「初恋のひと」を歌い中村晃子といしだあゆみがサ
ポートする、というというハプニングが発生。

さらに今度はいしだあゆみが「理想の恋人」に森進一(交際していた)が選ばれ、感
まって「ブルーライトヨコハマ」を涙で歌えなくなり、小川知子が付き添い、出演
中だった森進一が涙を拭うシーンが全国に流れた。





泣きの夜ヒット」は評判になり1969年3月17日の放送は最高視聴率42.2%を記録。
当時は視聴率が低迷していたフジテレビにおいて貴重なドル箱となった。
番組の継続が決定し、1969年4月7日放送よりカラー放送に移行し。
オーケストラも豊岡豊とスイングフェイスダンから池田とニューブリードに交替した。

1970年代には歌謡曲のみならず、台頭してきたフォーク、ニューミュージック系アー
ティストを出演させ、1980年代には海外のア−ティスト(3)も登場するようになった。




<沢田研二@夜ヒット DVD化されなかった幻の映像>

山口百恵、中森明菜、ピンクレディー、沢田研二の「夜ヒット」出演時の映像がDVD
6枚組ボックスセット(4)として発売されている。

それぞれファンの方達にとっては貴重な作品だと思うが、今回取り上げたいのは「
研二 in 夜のヒットスタジオ」である。もちろん発売前に予約して買った。



1975年5月5日「白い部屋」から1990年2月21日「DOWN」までの全102回におよ
ぶ沢田研二出演時のパフォーマンスを収めた(5)うれしい作品だ。
恒例のオープニング・メドレーでの歌唱シーン、司会とのやり取りも見られる。

スタジオに敷き詰めた畳の上で熱唱した伝説の「サムライ」、曲の構成を間違えてし
った「OH !ギャル」、山口小夜子との共演「ヴォラーレ」と見どころは多い。
大好きな「きわどい季節」「指」「絹の部屋」「TRUE BLUE」も収録された。
井上尭之バンドからオールウェイズ(後のEXOTICS)、CO-CoLO、JAZZ MASTER
とバンドが変わるごとに、音の傾向が変わって行くのが面白い。



↑クリックすると「沢田研二 in 夜のヒットスタジオ」のティーザーが見れます。



めでたし!めでたし!と言いたいところだが、手放しで喜べない部分もある。
個人的には1973年〜1977年頃の沢田研二が一番カッコよかったと思うわけで、その
1973〜1974年出演時の映像が収録されてないのが残念だ。


「危険なふたり」はどうした?「胸いっぱいの悲しみ」は?「魅せられた夜」は?
「恋は邪魔もの」「追憶」「愛の逃亡者 THE FUGITIVE」がないじゃないか。
ロンドンブーツを履いたジュリーが見たかったのに。。。。
(DISC-2の「危険なふたり」は1977年出演時のもの)


いや、それ以前の出演もだ。
沢田研二の「夜ヒット」出演回数は実に153回に及び、出演歌手中7位を記録している。






初登場は1969年10月20日。(6)
タイガースとしての出演で「スマイル・フォー・ミー」を歌った。
同年12月15、翌1970年1月12日には「ラヴ・ラヴ・ラヴ」を披露している。

3月2日には沢田研二単独で出演し「君を許す」を歌う。
4月6日と5月18日は再びタイガースで「都会」を、9月21日と10月26日は「素晴しい
行」を、12月21日はタイガースとして最後の出演となり「誓いの明日」を披露。



1971年2月8日には沢田研二と萩原健一の夢の共演が実現。
ディープ・パープルの「ブラック・ナイト」(7)をPYGのメンバーで演奏した。
5月31日にPYGとして正式に初出演。7月5日出演時は「自由に歩いて愛して」を演奏。
9月13日PYGとして最後の出演。(8)
11月8日ソロ歌手としてのデビュー曲「君をのせて」を歌う。


などなど「喉の奥から手が出るほど?見たい映像」がいっぱいあるはずなのだ。
その貴重なシーンが日を目を見ることがなかったのはなぜなのか?





理由は「フジテレビに完全な映像が残っていないから」である。
ほぼ完全な形で局に現存しているのは1976年7月5日放送分以降と言われている。
1974年以前の放送で現存が確認されているのは8回分(9)のみで内2本はモノクロだ。

1974年頃まではカラー放送用のビデオテープは高価であったため、使用が終わると
消去して再利用するのが常であった。
また番組をコンテンツとして二次利用するという発想もまだなかった。
しかも「夜ヒット」は生放送番組。あえて同録をとる必要もなかったはずだ。


フジテレビに保存されていないものの、前田武彦は「夜ヒット」を初期のオープンリ
ールの家庭用VTR(10)で録画したビデオテープを個人的に所有(11)していたらしい。
この貴重なテープは前田が司会を解任された(12)時に全て廃棄してしまったという。




<沢田研二@夜ヒット 番組で歌われなかったあの曲>

「夜ヒット」では歌われなかった曲もある。



「サムライ」のB面だった「あなたに今夜はワインをふりかけ」(1978)はキッコーマ
ン・マンズワインのCMソングだった。
本人が出演してるCMなので、あえて歌わなかったのか?という推測もできるが。。。
(もしかしたら提供スポンサーに酒造メーカーが入っていた?)

「『ワイン」は名曲だけど『サムライ』と比べるとやはりB面曲」という旨の発言を
沢田研二はしてるので、一押しの「サムライ」を歌いたいという意向があったようだ。
(「夜ヒット」では「サムライ」を5回歌っている)
でも別な歌番組で「あなたに今夜は」を歌っていたような記憶があるんだけどなあ。






ヤマトより愛をこめて」(1978)は映画「さらば宇宙戦艦ヤマト」のエンディングテ
ーマ曲で、映画公開前は沢田研二が歌っていることが隠されていた。
また沢田本人も「新曲宣伝の要素が大きい『夜ヒット』では歌わない。ヤマトの力を
借りずにヒットさせたい。『ザ・ベストテン』でランクインしたら歌いますよ」と当
時言っていた。


渚のラブレター」はマックスファクター1981夏のキャンペーンソングだった。
競合である資生堂が提供する「夜ヒット」では歌うことが許されず、替わりにB面の
「バイバイジェラシー」が歌われた。


ザ・タイガース再結成の「色つきの女でいてくれよ」(1982)はコーセー化粧品のCM
ソングで、これまた資生堂への配慮から「夜ヒット」では歌われなかった。


日産ブルーバードのCMソングに使用された「I am I」(1980)「素敵な気分になって
れ」(1981)「スーパー・ジェネレーション」(1982 作曲:八神純子)も、ダイハツ
が提供スポンサーの「夜ヒット」で歌われるはずがない。
もっとも「I am I」は「TOKIO」のB面。他2曲はアルバムにも収録されていない。





1974年以前の出演が見られないという残念な点はあるものの、沢田研二@夜ヒットの
DVD化はファンにとっては家宝だ。
TBS「セブンスターショー」やNHK「ビッグショー」出演時の映像のDVD化、比叡山
フリーコンサートのDVD化(CD化も!)ぜひ実現してもらいたいものだ。


<脚注>


(1)河田町フジテレビ本社 第6スタジオ
スタジオライブの時は第4スタジオから放送された。
フジテレビ跡地はUR都市機構の高層賃貸マンション、河田町コンフォガーデンが
建てられている。


(2)提供スポンサー
1970年代には資生堂、ダイハツ、森永製菓、日清サラダ油、キャノンが提供スポンサ
ーとして常連で、大正製薬、松下電器、日本ヴィックス、P&Gヘルスケアなどが流動
的に入っていた。


(3)「夜ヒット」に出演した海外のア−ティスト
シーナ・イーストン、オリビア・ニュートン=ジョン、カルチャー・クラブ、U2、
クリストファー・クロス、ライオネル・リッチー、レイ・パーカーJr.、マドンナ、
デュラン・デュラン、ボン・ジョヴィ、バリー・マニロウ、ジャネット・ジャクソン、
ホイットニー・ヒューストン、など。


(4)「夜のヒットスタジオ」の映像作品化
山口百恵 in 夜のヒットスタジオ(2010年)1975-1980年放送分
中森明菜 IN 夜のヒットスタジオ(2010年)1982-1995年放送分
ピンク・レディー in 夜のヒットスタジオ(2011年)1976-1981年放送分
沢田研二 in 夜のヒットスタジオ(2011年)1975-1990年放送分

この他、THE ALFEE 40th Anniversaryスペシャルボックス(DVD2枚組+CD16枚
組 2014年)にTHE ALFEE の「夜ヒット」出演映像がDVD2枚に収録されている。

当時の出演歌手によっては版権上の問題や過去映像に対する解釈により、再放送や
映像作品化が許可されない場合も多い。
また三波伸介の親族が生前の映像使用を許可していないことから、彼が司会をして
いた頃の映像再利用は制限されているようだ。


(5)「沢田研二 in 夜のヒットスタジオ」DVD-BOX収録曲

■ DISC-1 1975~1977
白い部屋
巴里にひとり
時の過ぎゆくままに
立ちどまるなふりむくな
ウィンクでさよなら
コバルトの季節の中で
さよならをいう気もない
勝手にしやがれ

■ DISC-2 1977~1978
憎みきれないろくでなし
MY WAY
危険なふたり
勝手にしやがれ
サムライ
ダーリング

■ DISC-3 1978~1979
LOVE (抱きしめたい)
カサブランカダンディ
OH !ギャル
ロンリーウルフ

■ DISC-4 1979~1981
カサブランカダンディ
OH !ギャル
ロンリーウルフ
TOKIO
恋のバッドチューニング
酒場でDABADA
おまえがパラダイス
バイバイジェラシー
ス・ト・リ・ッ・パー

■ DISC-5 1982~1985
麗人
おまえにチェック・イン
6番目のユウウツ
背中まで45分
晴れのちBLUE BOY
きめてやる今夜
どん底
渡り鳥はぐれ鳥
はるかに遠い夢
灰とダイヤモンド
絹の部屋


■ DISC-6 1986~1990
アリフ・ライラ・ウィ・ライラ
時の過ぎゆくままに
夢を語れる相手がいれば
ヴォラーレ
ホワイトルーム -White Room-
スタンド・バイ・ミー -STAND BY ME-
闇舞踏
無宿
女神
やさしく愛して
きわどい季節
チャンス
TRUE BLUE
STRANGER-ONLY TONIGHT-
ポラロイドGIRL
DOWN


(6)タイガースとしての初出演
タイガースの出演を機に、それまで番組方針によりキャスティングが見合わせられて
いたグループサウンズの出演が解禁となった。
翌1970年1月にはスパイダース、7月にはテンプターズが初出演している。


(7)PYGでディープ・パープルの「ブラック・ナイト」を演奏
ライブではディープ・パープルやレッド・ツェッペリン、フリー、ローリングストー
ンズなどハードロック志向の曲を好んで演奏していた。
(2枚組ライブアルバム「FREE WITH PYG」で聴くことができる)


(8)PYGとして最後の出演
この時点でまだPYGは解散していない。
1972年9月発売の「JULIE IV 今僕は倖せです」ではPYGのメンバーとして萩原健一の
写真を載せ、インタビューでも「PYGの一員として」と沢田は抱負を語っている。
沢田研二がソロデビューし萩原健一が俳優業で忙しくなるとPYGとしての活動は激減。
1972年11月21日発売のシングル「初めての涙」を最後にPYGは自然消滅した。
12月の日劇ウエスタン・カーニバルには「沢田研二と井上堯之グループ」名義で出演
している。


(9)フジテレビに残っている1974年以前の「夜ヒット
1969年1月27日と2月24日(モノクロ放送)、7月28日、1973年8月6日、1974年3月
25日、4月1日、8月5日、8月19日の計8回分。


(10)オープンリールのVTR
1/2インチ幅のオープンリール・ビデオテープを使った家庭用のレコーダー。
1969年に統一規格となったEIAJ-1統一Ⅰ型のVTR機器と思われる。
ソニー、東芝、松下電器から発売されていたが、かなり高価であった。
1970年にテープ幅19mm(3/4インチ)のカセットテープを使用するUマチックVTR
VTRが登場すると、そちらが主流になりオープンリール形式は衰退した。
尚、放送用は1970年代後半まで2インチ幅のオープンリールが使用されていたが、
その後は1インチが主流になった。


(11)司会者が番組の録画テープを所有
1957年〜1971年にアメリカのCBSテレビで放送されていた「エド・サリヴァン・シ
ョー」は生放送であったものの、アメリカ国内で時差があるため地域によってはVTR
に録画したものを放送していた。
CBSテレビにはほとんどの放送分が残っているが、それとは別にエド・サリヴァンが
自宅で録画していた2インチのオープンリール・テープの方が保管状態が良く、DVD
化の際はそちらが使用されている。


(12)前田武彦の「夜ヒット」司会解任
1973年6月前田武彦が大阪参院補選に立候補した日本共産党の沓脱タケ子の応援演
説で「当選した際には生放送中にバンザイを必ずやります」という旨の約束をした。
沓脱候補が当選し、前田は「夜ヒット」のエンディングでバンザイのポーズをした。
このことが「反共」を掲げていた鹿内信隆フジサンケイグループ議長の逆鱗に触れ、
前田は9月で当番組の司会を解任。
これに伴い他局のレギュラーも降板となり前田は業界から干されることになった。

当時のフジテレビは今とは違い閉鎖的な体質で労使対立も根深かった。
またアメリカと違い、報道関係者や芸能人が特定の政党や候補をメディア出演中に
支援することもタブーであった。
公私混同という批判は当然起きるが、共産党に肩入れする前田に対する制裁という
面もあったのだろう。

フジテレビは前田の解任と同時に芳村真理も一旦降板させたが、芳村には木曜20時
枠の新番組「木曜リクエストスタジオ」が用意され、その半年後には「夜ヒット」
復帰という出来レースが仕組まれていた。
このことも前田のプライドを傷つけたのは間違いない。
根に持っても仕方ないとオープンリールのビデオテープを全て処分したそうだ。

前田解任後の半年間は出演者による輪番司会制になったが、半年後の1974年4月に
芳村真理が復帰するにあたって三波伸介、朝丘雪路がパートナーに選ばれた。
三波伸介は2年後に井上順にバトンタッチ。
芳村真理・井上順の名コンビは1976年〜1985年まで9年間も続くことになる。




<参考資料:伝説の歌番組・夜のヒットスタジオを語る、昭和の名盤!アナログ日記
、マエタケのテレビ半世紀、読め!/前田武彦、Wikipedia、Amazon他>

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