2019年8月22日木曜日

アビイ・ロードへと続く長く曲がりくねった道<前篇>

バック・トゥ・ザ・フューチャーのデロリアンに乗って1969年に戻ってみよう。
緑字は当時の僕の目線。黒字は同時期ビートルズは何をしていたか。青字は注釈





1969年1月21日、ホワイト・アルバムの日本盤が店頭に並んだ。
英国でのリリースから2ヶ月遅れの発売だった。

中学一年生のお小遣い事情では4000円のLPは手が出ず。
学校の帰りチャリでヤマハに行っては、欲しいな〜と眺めていた。
同級生で3人が購入。カセットテープに録音させてもらった。

その頃、海の向こうのロンドンでビートルズがゲットバック・セッションを開始し
ていたこと、それがお蔵入りになり、紆余曲折あってアビイ・ロードが生まれる
ことを知る由もなかった。



年明けの1969年1月2日トゥイッケナム映画スタジオでリハーサルが始まった。


ホワイト・アルバム制作の過程でバンドの分裂を危惧したポールは「原点に帰ろう、
一発録りでオーバーダブはなし」と提案する。これにはジョンも賛成。

さらに「リハーサルからレコーディングの様子をフィルムに収め、TV特別番組として
放送する、そのフィナーレとして観客の前でのライブを行う」とポールは話を進める。
他の3人は映像収録、ライブ・ショー(1)には消極的。





寒々とした映画スタジオでのセッションはまとまりがなく不協和音が出始める。
ポールは仕切ろうと空回り。ジョンはやる気なしでヨーコといちゃつく。
ジョージは自分の曲をみんなが真剣にやらない、ポールに弾き方をあれこれ指示
れる、ジョンがヨーコの言いなりであることに不満を爆発させスタジオを出て行く。
1月14日にセッションは中断。


その後の話し合いで、ライブ・ショーの企画はなし、セッションの場所をアップル社
の地下スタジオに移すということになり、1月21日からセッションが再開された。

ジョージが誘ったビリー・プレストン(kb)の参加により音の厚み、R&B色が加わる。
またメンバー間の緊張感も和らぎ、雰囲気が良くなった。

曲も絞り込まれ、テイクを重ねていく。
映像作品のハイライトとして1月30日、アップル社屋上でライブを敢行。
翌31日、ライブ向きでない3曲をレコーディング。一応セッションは終了。







90時間以上の録音テープ、撮影フィルムが手つかずのまま残された。



2月22日、トライデントスタジオにてレコーディング再開。
3週間の中断はビリー・プレストン(kb)とプロデューサーのグリン・ジョンズ(2)
の不在、ジョージが扁桃腺手術で入院していたため。
この時点ではアビイ・ロードの構想はなくゲット・バックを仕上げる気だったらしい。




↑ポールの横に立っているのがプロデューサーのグリン・ジョンズ。




4人はアイ・ウォント・ユーに取り掛かる。
この日はリハーサルを兼ね、ベーシック・トラックを35テイク録音。
3つのテイクからいいとこ取りで編集し、マスター・テイクが作られた。
(試験的にポールが歌ったテイクもある→2019リミックスで聴けるのか?)


曲のアウトラインは既に1月中にできていたようだ。(3)
屋上コンサートのテープ・リール交換の間4人はGod Save the Queen(英国国歌)
を即興演奏したり、軽くジャムっている。
ジョンはアイ・ウォント・ユーを数小節、披露した。


2月25日にジョージは一人スタジオに赴き、サムシング、オールド・ブラウン・シュー
、オール・シングス・マスト・パスのデモを録音。(4)



↑ジョンのエピフォン・カジノを借りて弾くジョージ。


3月初旬、ジョンとポールはグリン・ジョンズにアルバム制作を依頼
「1月に録音した大量のテープのことは覚えてるよね?後はまかせるからよろしく」
もうゼネコン真っ青の丸投げ(汗)

グリン・ジョーンズは3月10日からゲット・バック・セッションをアルバムとして
まとめるべく、テープの山と格闘し使用する音源を選ぶ作業を開始する。



日本では3月21日にイエロー・サブマリンが発売された。(英国は1月17日発売)
ホワイト・アルバムからまだ2ヶ月しか経っていないのに。(映画公開は半年後)
店頭にはビートルズの新譜として、2枚のアルバムが並ぶことになった。


4月11日ゲット・バック/ドント・レット・ミー・ダウンのシングルが英国で発売。
(ポールがミックスやり直しを要求したため、店頭に並んだのは数日後だった)
日本盤の発売は6月1日。4月下旬にはもうラジオで流れていたような。




↑ホワイト・アルバムより写真を転用。あいかわらず雑なジャケットだ。
日本ではこのシングルからアップル・レーベルに変わり、ステレオ盤になった。



近いうちに新しいアルバムが発売される、という記事がミュージックライフに掲載。
タイトルはGet Back with Don’t Let Me Down and 9 other songsだとか。

デビュー・アルバムPlease Please Me with….のパロディとは気づかなかった。
もちろんPlease Please Me with….と同じ場所で撮影され、同じレイアウトのジャケ
ットが用意されている、ということも少なくとも日本では誰も知らなかっただろう。



5月13日マンチェスターのEMI本社で撮影場所も構図もデビュー・アルバムと同じ。




しかし一向にその長ったらしいタイトルのアルバムが出る気配はない。
どうなってるんだ?

間もなく次のシングル、ジョンとヨーコのバラード/オールド・ブラウン・シュー
が発売された。(英国は5月30日、日本は7月10日)
ゲット・バック発売から一ヶ月半、まだチャート1位だった時期である。



↑レボリューションのPVからキャプチャーした写真。そんなに宣材が乏しかったのか?



ジョンとヨーコのバラードは二人が再婚した時の騒動を綴ったジョンの私的な曲。
プラスチック・オノ・バンドでやるべき内容だが、まだ結成前だった。
即リリースしたかったジョンはポールに電話で手伝ってくれるよう頼む。
ポールは二つ返事でオッケー。

4月14日リンゴとジョージが不在だったため、ジョンとポール二人だけで録音
ドラム役のポールにジョンが「Ready?Ringo」と言えばポールは「Okay George」。
ビートルズの仲が険悪になっていた時期だが、この日の二人は和気藹々。
これが功を奏したのではないだろうか。



↑リンダが撮影。いい写真だ。ポールもお気に入りだという一枚。





4月16日からサムシングオールド・ブラウン・シューに着手。
オールド・ブラウン・シューは4テイクでベーシック・トラックの録音を終了。
4月18日にはオルガンとギターをオーバーダブして完了。


この日はアイ・ウォント・ユー(2月22日にトライデントスタジオで制作したテイク
)にもジョンとジョージがギターをオーバーダブ。

4月20日にオー・ダーリンのベーシック・トラックを録音。
ポール(b)ジョン(p)ジョージ(g)リンゴ(d)の編成でライブで26テイク録られた。

4月26日からオクトパス・ガーデンの録音が始まる。
ポール(b)ジョン(g)ジョージ(g)リンゴ(d)の編成で32トラック収録。
ジョンはドノヴァン直伝の3フィンガーを弾いた。
リンゴの人柄のせいか、このセッションは和やかな雰囲気で行われた。

アイ・ウォント・ユー、オー・ダーリン、オクトパス・ガーデンの3曲はゲット・
バック・セッションでも断片的に演奏されている。
まだゲット・バックの延長線上という意識だったのではないか。





↑EMIアビイ・ロード第2スタジオ。階段の上にミキシングルームがある。


彼らにはグリン・ジョンズに丸投げしたゲット・バックの作業も残っていた
4月30日にはレット・イット・ビーにジョージがギター・ソロ(レズリーの回転
スピーカーに通した)がオーバーダブ。
「原点回帰で一発録り」のゲット・バックのコンセプトは既に崩れていた。



ポールはジョージ・マーティンに「もう一枚アルバムを作りたい。プロデュース
してくれないか。」と申し出る。

マーティンはホワイト・アルバムの中盤で降板し、ゲット・バック・セッションも
実質的にはグリン・ジョンズに任せ、ビートルズと距離を置いていた。
マーティンは「本当に昔のようにやるんだね?そうじゃないなら断る」と応え、
「ジョンが積極的に関わるなら」という条件で引き受けた。



4人は再びアビイ・ロードスタジオに集結する。








そのゲット・バックはグリン・ジョンズの苦労でアルバムの体裁が整ったのが5月28日。
ビートルズの意図を汲んで中途半端なリハーサルテイクや会話も散りばめられていた。
しかし却下。特にジョンは「ヘドが出そうだ」と嫌悪感を露わにした。

この日のマスター(5)からサンプル盤が作られ米国のラジオ曲に配布された(これを
元に海賊盤が作られた)にもかかわらず、延期に次ぐ延期(6)の泥沼状態。
先にアビイ・ロードが発売された。(英国9月26日、日本10月21日)



夏だったと思うが、ミュージックライフに「ビートルズの新譜はロックンロール・
アルバムになるだろう」と紹介されていた。
アビイ・ロードのこととは露知らず。
Get Back with….は何処へ?内容が変わったのか?と腑に落ちなかった。





アビイ・ロード・セッションはいつ始まったのか?

アイ・ウォント・ユーの録音開始と考えるなら2月22日と言えるだろう。

しかしこの時点では、いや、4月16日のサムシング、オールド・ブラウン・シュー、
4月20日〜のオー・ダーリン、4月26日〜のオクトパス・ガーデン5月2日〜のサムシン
グのリメイクの時点でもゲット・バック・セッションの延長と捉えていたのではないか。

もう一枚別なアルバムアビイ・ロード)の構想はまだなかったはずだ。

4月16日〜5月2日の録音はクリス・トーマスが立ち会っている。
が、5月5日(サムシングへのベースとギターのオーバーダブ)以降はすべてジョージ・
マーティンが仕切っている。
(ポールがマーティンにプロデシュースを依頼したのは4月下旬か5月頭か?)

ということは、5月6日のユー・ネヴァー・ギヴ・ミー・ユア・マネーの録音開始
本格な作スタート点と見ていかもしれない。
まだアルバムの全体像も見えずB面メドレーの着想もできていなかったようだが。

(後篇に続く)


<脚注>


(1)ゲット・バック・セッションのライブ・ショー
クライマックスのライヴをどこでやるか?ビートルズは話し合っていた。
ロンドン・パラディアムやラウンドハウスなど具体的な場所から、サハラ砂漠やギザ
のピラミッドの前、クィーン・エリザベスの甲板、チュニジアにある2000年前の
ローマ帝国の円形劇場など突拍子もない案まで。(実際にロケハンまで依頼)
旅行嫌いのリンゴは遠征に反対。ジョージはライブ自体に否定的。
アップル本社の屋上に落ち着くが、直前までやるかどうか意見が割れていた。


(2)グリン・ジョンズ
イギリスのエンジニア/プロデューサー。
中域に固まったゴリッとした無骨な肌触りの音作りを得意とする。
ローリングストーンズ、トラフィック、スティーヴ・ミラー・バンド、
デラニー&ボニー、レオン・ラッセル、リタ・クーリッジ、ジョー・コッカー、
キンクス、ザ・フー、と英米のアーティストを手がける。
ビートルズの未発売アルバム「Get Back and….」も彼がミックスを担当した。

英国では当時、映画スタジオで仕事ができるのはユニオン加入が条件だった。
ジョンズが起用されたのは彼がユニオンに入っていて映画の仕事もできたからだ。
またホワイト・アルバムでの謀反から、ジョージ・マーティンがビートルズとは
距離を置いていたため名目プロデューサーで、現場はジョンズに一任していた。




(3)後にアビイ・ロードに収録される曲
アイ・ウォント・ユー以外にも、1月22日にリハーサルを行ったシー・ケイム・イン・
スルー・ザ・バスルーム・ウィンドーが後にアビイ・ロードに収録されている。
また1月前半のトゥイッケナム映画スタジオで行われたセッションでは、オクトパス・
ガーデン、オー・ダーリン、サン・キング、マックスウェルズ・シルヴァー・ハンマー、
ミーン・ミスター・マスタード、キャリー・ザット・ウェイトを演奏してるが、ほとん
どは断片的なもの。


(4)2月25日のジョージのデモ
サムシングはホワイト・アルバムの録音中にクリス・トーマスに披露していた。
この日はエレキギターを弾きながら歌い、ピアノを重ねたようだ。
アンソロジーにギター一本のデモが収録。2019ミックスではピアノ入りで聴ける。
オールド・ブラウン・シュー、オール・シングス・マスト・パスのデモもアンソロジー
に収録されている。
オール・シングス・マスト・パスはトゥイッケナム映画スタジオでも演奏しているが、
ジョンとポールは本腰でやっていない。


(5)グリン・ジョンズ 1st.ミックス
5月28日に完成したゲット・バックはグリン・ジョンズ 1st.ミックスと呼ばれる。


Side A:
One After 909, Rocker, Save The Last Dance For Me, Don't Let Me Down
Dig A Pony, I've Got A Feeling, Get Back

Side B:
For You Blue, Teddy Boy, Two Of Us, Maggie Mae, Dig It, Let It Be,
The Long And Winding Road, Get Back(Reprise)


(6)延期に次ぐ延期の果てに。。。
ゲット・バックは当初1969年6月リリースが予定されたものの、8月に延期の告知。
それも延期になり、アビイ・ロードが先に発売される。
ゲット・バックは映画公開と併せて11月発売と告知されたが結局、年明けにずれ込む。

1970年1月5日にグリン・ジョンズ2nd.ミックスが完成した。

映画で演奏しているAcross The Universe, I Me Mineを追加
Teddy Boyはカット。(ポールの要請だったという説もある)
Across The Universeは1968年初頭に録音され、WWFのチャリティ・アルバムに
収録された音源を再度ミックス。




I Me Mineは1970年1月3日にジョンを除く3人が集まって新たに録音された。
(ジョン不在とはいえ、これがビートルズの最後のレコーディングとなった)


しかし2nd.ミックスもメンバー間の意見の相違から却下されお蔵入りとなる。
ジョンズがプロデューサーとしてのクレジットを要求したことも「ビートルズを利用し
売名行為」とジョンを激怒させることになった。


こうして1969年1月2日トゥイッケナム映画スタジオで始まった泥沼のセッション
に一年間も付き合ったグリン・ジョンズは強制退場させられてしまう。




1月27日インスタント・カーマ録音中のジョン
当時ミュージックライフに「断髪は過去への決別か」と写真が載ってたっけ。


1月27日インスタント・カーマのレコーディングでフィル・スペクターの仕事に感心
したジョンは「ビートルズの仕事がしたければこれでアルバムを作ってみろ」と、
膨大なテープをフィル託す。ポールは完成するまで知らなかったという。
フィルの施したウォール・オブ・サウンドは「原点に戻る」コンセプトとは正反対
1970年5月8日アルバム「レット・イット・ビー」が発売された。


<参考資料:THE BEATLES RECORDING SESSIONS、、ビートルズ録音年表、
ジェフ・エメリック「ザ・ ビートルズ・サウンド 最後の真実」、Wikipedia、
ゲット・バック・セッションの音源と映像、他>

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