2024年11月10日日曜日

半世紀もアメリカ音楽界に君臨したクインシー・ジョーンズ。



アメリカのポピュラー音楽の巨匠、クインシー・ジョーンズが91歳で亡くなった。

ご冥福をお祈りします。


クインシーといえば、多くの人がマイケル・ジャクソンを想起するだろう。

マイケルとクインシーは1979年の「Off The Wall」で初めてタッグを組む。
800万枚を売り上げるロングセラーとなった。



↑クインシーとマイケル。「Off The Wall」制作中の写真と思われる。
この頃のマイケルはよかったなあ。




次作への期待は高まり、マイケルとクインシーはプレッシャーを感じてたそうだ。
しかし1982年に発売された「Thriller」は前作を軽く超え、約7000万枚〜1億枚
という「史上最も売れたアルバム」となった。

Beat Itはエディ・ヴァン・ヘイレンのギターソロが強烈なロックナンバーだ。




↑マイケルのライヴでギターソロを弾くエディ・ヴァン・ヘイレン。



イントロやコーラス部のBeat it〜♫で鳴っているギターのリフ、バッキング、
オブリ、ベースはスティーヴ・ルカサーが弾いている。

あのリフはTOTOのHold The Lineを彷彿させる。
スティーヴ・ルカサーがスタジオで考えたのか?
それともクインシーが渡したスコアに既に書いてあったのか?

ヴァン・ヘイレン間奏は最初から決まっていたんだろうか?
スティーヴ・ルカサーが弾いた間奏は存在しないのかな?



スティーヴ・ルカサーとエディ・ヴァン・ヘイレン


Beat It - Isolated Guitars - Steve Lukather & Eddie Van Halen




ブラック・ミュージックに白人ロックの要素を取り入れるセンス
クインシーはこのバランス感覚に優れていた

ブラザーズ・ジョンソン、パティ・オースティン、ジェームス・イングラムも
都会的で洗練されたAORの黒人版ブラック・コンテンポラリー路線で売れる。
彼らは「クインシーの秘蔵っ子」と呼ばれた。



↑クインシーとブラザーズ・ジョンソン


1985年には大物アーティストが結集し(参加アーティストは45人に及んだ)、
アフリカ救済のチャリティー・シングル「We Are the World」を制作
クインシーはそのプロデュースも手がけた。

クインシー・ジョーンズの黄金期は1970年代末〜1980年代前半のブラック・
コンテンポラリー全盛期と重なるが、彼のキャリアは長く1950年代から輝かしい
実績を残している。
クインシーがキャリアをスタートさせた頃はジャズであった。
多くの人がイメージするクインシー=ブラック・コンテンポラリーとは違う。




クインシーはもともとトランペット奏者であった
そのせいかアレンジにおいても、ホーン・セクションの使い方に長けていた




10代で盲目のピアノ奏者の少年レイ・チャールズと共にバンド活動を始める。
ライオネル・ハンプトン楽団に参加したクインシーはアレンジャーの才能を
開花させる。




カウント・ベイシー、デューク・エリントン、ヘレン・メリル、サラ・ヴォーン
のアレンジを手がけた。



サラ・ヴォーンと。左がプロデューサーのボビー・シャッド。右がクインシー。




↑クインシーとディジー・ガレスピー





↑名盤の誉高いヘレン・メリルのデビュー・アルバム(1955年)もクインシー
がアレンジを手がけている。



Helen Merrill With Clifford Brown - Falling In Love With Love
https://youtu.be/RlAoPW51jjI?si=mq0UICybpbbPUpu1




1960年代からはプロデューサーとしても活躍した。
レスリー・ゴーアのデビュー曲、It's My Partyは全米1位を獲得。(1963年)





Lesley Gore - It's My Party
https://youtu.be/Xqc-tDSBSbE?si=6hTzVOJQLl0MU12J



「ヒット曲はイントロで決まる」という格言どおり、It's My Partyはたった2音
ながらもキャッチーな仕掛けで曲にインパクトを与えた。
お世辞にも歌が上手いとは言えないレスリー・ゴーアを人気歌手に押し上げた
のは、クインシー・マジックである。



↑レスリー・ゴーアとクインシー




マイルス・デイヴィス、フランク・シナトラのプロデュースも手がけた。




↑シナトラとクインシー



また映画・TVドラマの音楽の分野へも活動の幅を広げる。
シドニー・ポワチエ主演の「夜の大捜査線」やスティーヴ・マックイーン主演
の「ゲッタウェイ」のサウンドトラックも評判となった。

ドラマ「鬼警部アイアンサイド」のテーマ曲は、NTV「テレビ三面記事 ウィ
ークエンダー」で「新聞によりますと」で始まる事件解説の際使われたので
日本でもお馴染みの曲となっている。
(クエンティン・タランティーノ監督の映画「キル・ビル」でも使用された)




       ↑原題は「Ironside」。鬼警部って・・・(笑



「鬼警部アイアンサイドのテーマ」クインシー・ジョーンズ」
https://youtu.be/qRLO2_EK04o?si=b6jr3z4ey-tq74ZX



1978年公開の映画「ウィズ」(「オズの魔法使い」をベースにした黒人出演者
によるミュージカルに)でマイケル・ジャクソンと出会う。
これがクインシーとマイケルの最高傑作を産むきっかけとなる。



    ↑クインシーとマイケル



クインシーは37枚のリーダー・アルバムも残している。

大まかに分けると、〜1961年はジャズ1960年代はポピュラー・ミュージック
、Smackwater Jack (1971年)からはソウル・ファンク

Sounds... And Stuff Like That!(1978年)からブラック・コンテンポラリー
The Dude (1981年)は全世界でヒットした。


Quincy Jones - Takin It To The Streets
https://youtu.be/0IYRnC5ngRc?si=ui5UK4aPrE4Nk7nO

↑ドゥービー・ブラザーズのヒット曲。作曲はマイケル・マクドナルド。
ボーカルはルーサー・ヴァンドロスとグウェン・ガスリー。






Quincy Jones - Betcha Wouldn't Hurt Me
https://youtu.be/Xg9esGW_LUE?si=TMRSb_b4EgNW3S5G

↑作曲はスティーヴィー・ワンダー、ボーカルはパティ・オースティン。
スラップ・ベースはルイス・ジョンソンが弾いている。






<参考資料:CNBC TITANS、JAZZ MUSIC SMALL LIBRARY、
JET SET ONLINE SHOP、Wikipedia、YouTube、他>

2024年11月2日土曜日

CSN&Y 未発表ライヴ Live At Fillmore East, 1969が発売。



太田裕美が歌う「青春のしおり」(1)という曲がある。ファンに人気の高い。
歌詞は女性の視点で、学生時代につき合っていたと思われる男子学生(たぶん
年上なのだろう)を追想している。

CSNYなど聞き出してからあなたは人が変わったようね。髪をのばして授業
をさぼり自由に生きてみたいと言った」と歌われる。(2)
さらに「ウッドストック」という言葉も使われ、1970年代のカウンターカル
チャーの空気を感じさせる。



↑ウッドストック・フェスティバル会場へ向かう若者の車の列



太田裕美は作詞を手がけた松本隆に「CSNYってなあに?」と尋ねたという。
松本は怒ったように「CSNYはCSNYだよ」と答えたそうだ。
彼女は「分からないから訊いてるんじゃないの」と思ったという。

同世代の太田裕美がCSNYを知らなかったことがちょっと驚きであった。
上野学園で音楽を学び、シンガー&ソングライターという触れ込みでプロと
して活動していた人がCSNYを知らないって・・・・
松本隆がイラっとしたのもそこだったのだろう。





しかし考えてみれば中学・高校の頃、CSNYを聴いてる女子はいなかった。
GAROは好きという娘は多いけど、元ネタのCSNYの存在を知らない。

ウッドストックでCSNを知り「Déjà Vu」を聴いて、その後デビューした
GAROは和製CSNだなと思った僕たちとはストーリーが違うのだ。

そもそも洋楽ロックに夢中になっていたのは、クラスでも一部の男子だけ。
髪をのばして授業をさぼってたしね。




閑話休題。

クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング (CSN&Y) の1969年 未発表
ライヴアルバム「Live At Fillmore East, 1969」が公式リリースされた。




1969年9月20日、ニューヨークのフィルモアイースト公演を収録したものだ。
フィルモアイースト公演は以前からブートレッグで出回っていたが、音質が悪く、
テープがヨレる、など評判が悪かった。


公式発売された音源は、新たに発掘された8トラックテープから、スティーヴン
・スティルスとニール・ヤングがLAのサンセットスタジオでレストア&ミックス
を施したものだそうである。

この二人、バッファローの頃から何度もぶつかっているが。
なかよくやれたんでしょうか(笑

それはともかく、非常にいい状態で録音されている。


Crosby, Stills, Nash & Young - Live At Fillmore East, 1969 (2024 Mix)
https://youtu.be/sy_ACh-R1-o?si=gumIV8N17Uv4NvmJ








この4ヶ月前の5月29日、クロスビー、スティルス&ナッシュ(CS&N)の3人が
デビュー・アルバムを発表したばかりであった。(3)

変則チューニングを多用したアコースティクギターの響きと3声ハーモニーの妙
で、それでにない新しいロックの境地を開いた。
イーグルスを初めとするウエストコースト・ロックの礎となっている。



↑スティーヴン・スティルスはモンキーズのオーディションを受け落ちている。
歯並びが悪いという理由だった。確かに・・・



ロック色を強めたいスティルスの意向で、バッファロー解散後ソロで活動していた
ニール・ヤングがギタリストとして加わりCSN&Yの4人体制となった。


ウッドストック・フェスティバルの最終日、8月17日にCSN&Yの4人が出演。
こも歴史的なロック・コンサートのハイライトの1つとなる。

ニール・ヤングは客を前で演奏することは了承したが、映像作品は頑なに拒否。
映画ではニール・ヤング抜きの3人しか写っていない。
とはいえ、世界中の音楽ファンが動くCS&Nの姿を見て衝撃を受けた。





1970年3月にクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングの4人名義でアルバム
Déjà Vu」を発表。
ビルボード1位を記録する大ヒットとなり、商業的にも知名度的にもCSN&Yは
頂点を極め、時代を象徴するロックとなった。


フィルモアイースト公演はウッドストック出演の1ヶ月後
ニール・ヤングを加えた4人による2回目のコンサート出演ではないかと思う。




まさにCSN&Yとして上昇気流に乗った一番勢いがある時期のライヴである。
翌1970年6〜7月のライヴを収録した「4 Way Street」(1971年4月発売)より
まとまりがよく聴きやすい。4人が和気藹々と楽しそうなのが伝わる。


前半がアコースティック・セット、後半がエレクトリック・セット
圧倒的な「Suite: Judy Blues Eyes」で始まり、3声にアレンジしたビートルズ
の「Blackbird」、「Helplessly Hoping」と聴く者を虜にして行く。






ニール・ヤングはこの時点ではまだCSN&Yとしてのレパートリーがないようで
「On the Way Home」「I've Loved Her So Long」「Down by the River」
とソロ作品を歌っている。これがとてもいい。

スティルスは「4+20」、ナッシュは「Our House」とこの後「Déjà Vu」に
収録されることになる曲を披露している。
「4+20」は既に完成形。
「Déjà Vu」収録ヴァージョンとのギターのニュアンス違いも楽しめる。





「Long Time Gone」からエレクトリック・セットで5曲続く。
アコースティックの時はあんなに上手いのに、エレキギターのアンサンブル
である。余計な音が多く、ぶつかり合う。
スティルスもニール・ヤングもリードギターは上手いとは言えない。

誰か分からないけどピッチが甘い、つまりチューニングがビミョーに合ってい
なくて気持ち悪い。しかもそういう曲に限って長尺。

まあ、グレイトフル・デッドやディランは日常茶飯事だし、ザ・バンドでさえ
リック・ダンコのチューニングが合ってない時があった。





クリップチューナーもなくて、ステージで正確なチューニングを保つのが難しい
時代だったのかもしれない。
こういうことにシビアーな人と大雑把な人っているし、ガサツな方がバンドら
しくて好きという人もいる。この辺は好みが分かれるところだろう。

しかしCSN&Yの真骨頂はアコースティック・ギターとハーモニーの美しさだ。
個人的にはエレクトリック・セットの分マイナスでお薦め度は★★★★かな。
最後のアカペラ「Find the Cost of Freedom」はお口直しか。ホッとする。






さて、最後にCSN&Yの使用ギターについて少し触れておこう。
CSN&Yといえば、4人全員がマーティンの最高峰D-45を所有していたことでも
有名で、当時のギター・ファンは羨望の眼差しで見ていた。

D-45はCSN&Yのトレードマークであり、CSN&YによってD-45伝説が生まれた、
CSN&Yの影響で多くのミュージシャンが「いつかはD-45」と憧れるようになっ
た、と言っても過言ではないだろう。




D-45は当時の価格で100万円くらいだったと思う。
しかも生産本数が少なく、日本に入ってきたのは4本だけだったと言われる。

日本で最初にD-45を手に入れたのが加藤和彦だそうだ。(4)
次が石川鷹彦、そしてGAROのマークとトミー。





CSN&Yが使用していたD-45は1968年に再生産され出した直後のもので、サイド
&バックにハカランダ(ブラジリアンローズウッド)が使用されている。(5)
4人揃ってカリフォルニア州バークレーの楽器店で購入したそうだ。





尚、スティーヴン・スティルスはD-45以外にも、スロテッドヘッドで12フレット
ジョイントの000-45、ヴァーティカル・ロゴのD-28を所有している。
ニール・ヤングはD-45の他、ヴァーティカル・ロゴのD-28、D-18、ギブソン
J-200を愛用していた。



ヴァーティカル・ロゴ(縦型ロゴ)のD-28



フィルモアイースト公演の写真を見る限り、ニール・ヤングはD-45、スティルス
はD-28、クロスビーはD-18を12弦に改造したもの(6)を使用している。



D-18を12弦に改造してある。チューナーが増える分ヘッドストックが長い。



エレクトリック・セットの写真はないが、クロスビーはグレッチ・ナッシュビル、
ギブソンのセミアコを12弦に改造したモデル、スティルスはギブソンのセミアコ、
SG、グレッチ・ホワイトファルコン、グレッチ・カントリージェントルマン辺り
ではないか。

グラハム・ナッシュは不明(エレキを抱えている写真を見かけない)、ニール・
ヤングはレスポール・ブラックビューティ、グレッチ・ホワイトファルコン、
ギブソンのフライングVのいずれかを使用していたと思われる。





<脚注>

2024年9月21日土曜日

ウエストコースト・ロックを陰で支えた立役者 J.D.サウザー。



寝耳に水とはこういうことなんだろうか。

J.D.サウザーがニューメキシコ州の自宅で亡くなった。享年78歳。
イーグルスの代理人が確認したという。死因など詳しいことは不明。


イーグルスは公式サイトで追悼の意を表明している。

「我々は兄弟であり友人である素晴らしいソングライターを失いました。
J.D.サウザーは1970年代の南カリフォルニア・サウンドの先駆者です。
聡明で才能に溢れ、読書家で、最高のユーモアのセンスの持ち主でした。
食事、映画、マティーニを愛し、生涯を通して多くの犬を飼っていました」

J.D.サウザーは音楽仲間や家族や愛犬を残して、突然いなくなってしまった。






<「もう一人のイーグルス」としての立ち位置>

J.D.の最も輝かしい功績は、グレン・フライやドン・ヘンリーとの共作で多くの
名曲をイーグスに提供したことだろう。

Doolin-Dalton、Best of My Love、James Dean、New Kid in Town、
Victim of Love、Heartache Tonight、The Sad Cafe......


「もう一人のイーグルス」と呼ばれ、彼らとの交流、友人関係は続いた。
イーグルスの2枚目のアルバム「Desperado」の裏ジャケでは、イーグルスの
4人と仲良く「ならず者」に扮してお縄を頂戴して横たわっている。



↑手前、一番右に転がってるのがJ.D.サウザー。



J.D.サウザーはデトロイトで生まれ、テキサス州で育った。
L.A.を目指した理由は「ビーチボーイズが『みんなカリフォルニアの娘だと
いいのに(I wish they all could be California girls)と歌ってたから。
みんなそうじゃないかな」と笑いながら言う。

デトロイト出身のグレン・フライは同じアパートメントに住んでいた。
階下にはジャクソン・ブラウンがいた。

毎朝ジャクソン・ブラウンがピアノで同じ曲(Doctor, My Eyes)を何度も
演奏するので、J.D.は「締め殺してやりたい」と思ったそうだ。



      ↑J.D.サウザーとジャクソン・ブラウン


一方グレン・フライはジャクソン・ブラウンのピアノを聴きながら、作曲
とはこうやるものかと学んだという。

ともあれ3人は仲良くなり、一緒に演奏したり作曲したりしていた。
J.D.とグレン・フライは一時期フォーク・デュオを結成し活動していたが、
コンビ解消後も作曲面でのパートナーシップは続いた。


グレン・フライはリンダ・ロンシュタットのバックバンドに参加。
そのメンバーがイーグルスとして、ジャクソン・ブラウンが契約していた振興
レーベル、アサイラム・レコード(1)からデビューする(2)ことになる。

リンダは「正気なの?リンダ・ロンシュタットのバックバンドという手堅い
仕事を棒にふる気?」と引き留めたという。
まさかアメリカの国民的なバンドに化けるとは・・・


Take It Easyはグレン・フライとジャクソン・ブラウンの共作でヒットした。
J.D.サウザー、グレン・フライ、ドン・ヘンリーによるBest of My Loveはイー
グルス初の全米No.1(ビルボード)を記録した。

J.D.サウザーはしばしばイーグルスのコンサートにゲスト参加している。



↑手を挙げて歓声に応えるグレン・フライの左にいるのがJ.D.サウザー。




<リンダ・ロンシュタットへの楽曲提供、共演>

やがてリンダがキャピトルからアサイラムに移籍する。(3)
ジョニ・ミッチェルもリプリーズからアサイラムへ移籍。

J.D.サウザーもアサイラムからソロデビュー。
ネッド・ドヒニー、ウォーレン・ジヴォン、元ポコのリッチー・フューレイ(4)
らが集まり、アサイラム一派はウエストコースト・サウンドを完成させて行く。





↑エミルー・ハリス、大笑いしてるリンダの横でギターを弾くJ.D.サウザー



J.D.サウザーはリンダにFaithless Love、White Rhythm and Blueを提供。
彼女のアルバムでPrisoner in Disguise、Sometimes You Just Can't Win
をデュエットしている。

またJ.D.のアルバムにもリンダが参加しており、If You Have Crying Eyes、
Say You Willをデュエットしている。

J.D.サウザーとリンダの声質は相性がよかった。声だけではない。
当時リンダとJ.D.サウザーは恋仲であった。




しかし、その恋は長くは続かなかった。
リンダはステージ上で恋話を始めて泣き出したこともあったという。
後ろにJ.D.サウザー本人がいるという状況だったらしいが、どんな気持ちで
リンダの話を聞いていたんだろう。
リンダはJ.D.作曲のFaithless Love(あてにならない恋)を歌ったのかな。


Faithless Love - Linda Ronstadt
https://youtu.be/NGmUYlsXTD4?si=uo5KR3NnFVojoMx7







<ジャイムス・テイラーとのデュエット>

デュエットといえば、ジェイムス・テイラーのHer Town Too(憶い出の町 )
(1981)ではJ.D.とJ.T.(ややこしいな)の珠玉のハーモニーが聴ける。


James Taylor and J.D. Souther - Her Town Too (Official Music Video)
https://youtu.be/cIIfn8C2y8g?si=ahYQ8SDv61HKKbys



伸びやかで艶があり、低域が豊かなジェイムス・テイラーの声。
スモーキーで甘く哀愁を帯び、空まで抜けそうな澄んだ声のJ.D.サウザー。
異質な二人の声が重なると、それだけで素敵な音楽になる。



(写真:gettyimages)


この曲はジェイムス・テイラー、J.D.サウザー、ワディ・ワクテルの共作。
アメリカではビルボード11位まで上がったようだ。

日本でもFMで流れたり、当時TVで音楽のプロモ・ビデオが流れるように
なった頃(MTVはまだ日本に上陸していない)で、渋谷にできたばかりの
タワーレコードの店頭でもこの曲のプロモ・ビデオをかけていた。


この2人のハーモニーは1979年カーラ・ボノフのデビュー・アルバムの
最後を飾るThe Water Is Wideでも聴くことができる。すばらしい!

Karla Bonoff - The Water Is Wide
https://youtu.be/VCR0MllrO-4?si=acOankpQChG1W-ds







<1981年、2球場で開催されたカリフォルニア・ライヴ>

J.Dサウザーは1980年2月に初来日。新宿厚生年金会館などでライヴを行う。

翌1981年9月ジェイムス・テイラー、J.D.サウザー、リンダ・ロンシュタット
という顔ぶれで来日。
カリフォルニア・ライヴと銘打ってコンサートが行われた。

横浜スタジアムと甲子園球場の2公演のみで、グラウンドはステージのみで、
客席はスタンド席のみという今となっては珍しい形態。



(写真:gettyimages)


ワディ・ワクテル率いるローニン、ダニー・コーチマー、ラス・カンケル、
ケニー・エドワーズ、キーボードはリトルフィートのビリー・ペイン、ローズ
マリー・バトラーがコーラスで参加、という豪華な面々。
プロデューサーはピーター・アッシャーだった。

が、J.T.とリンダがGet Closerをデュエットしたこと、客席で大学のゼミの友人
と再会したことくらいしか憶えてない。
リンダのFaithless LoveではJ.D.サウザーがデュエットで参加してたらしい。
写真を見るとジェイムス・テイラーはタカミネを弾いている。これもレア。



(写真:gettyimages)




<名盤の誉高いYou're Only Lonely (1979) >

J.D.サウザーは1970年代に3枚のソロ・アルバムを発表している。
3枚目のアルバム「You're Only Lonely」 (1979) はアサイラムからCBS移籍後
アルバム。名曲揃いだ。
ウエストコースト・ロックの名盤であり、AORの名盤とも言える。



↑ブルーに黄色のタイトル。思わずジャケ買いしてしまった。


アルバム・タイトル曲You're Only Lonelyは彼が敬愛するロイ・オービソンの
Only The Lonelyへのオマージュ。全米7位のヒットとなった。

ニコレット・ラーソンもデビュー・アルバムで歌ったThe Last in Love、
かつての恋人リンダ・ロンシュタットに提供したWhite Rhythm and Blues。
共に美しく繊細なフォークバラードで、このアルバムの聴きどころである。


J. D. Souther - White Rhythm and Blues
https://youtu.be/9xDHLUxV4uY?si=MIJCQDITo-YaNoBE


R&R、ロカビリー、カントリー色の強い曲が多く、J.D.のバックグラウンドが
伺えるが、聴きやすいウエストコースト・サウンドに昇華させている。




ワディ・ワクテル(g)、ダニー・コーチマー(g)、ダン・ダグモア(g)、ケニー・
エドワーズ(b)、ドン・グロルニック(kb)、リック・マロッタ(ds)、デヴィッド・
サンボーン(sax)、トム・スコット(sax)らが参加。

ウエストコースト・ロックからヨットロック(AOR)へと音楽の潮流が変わっ
てしまう直前の、一番いい時期のサウンドだ

「ア・ロング・バケーション」制作前に大瀧詠一と松本隆が本作を聴きながら、
「こういうアルバムを創りたいね」と話し合ったのは有名なエピソード。




<2000年代のJ.D.サウザー>

J.D.サウザーはその後もマイペースで新譜を出しライヴ活動を続けていた。
他のアーティストとのコラボレーションにも積極的に参加している。

2009年には久しぶりの来日公演。
2013年にソングライターズ殿堂入りを果たす。
2014年にはカーラ・ボノフと来日。
同年、アメリカ音楽協会授賞式で盟友ジャクソン・ブラウンと共演した。



(写真:gettyimages)


Jackson Browne & J.D. Souther - Fountain of Sorrow
https://youtu.be/vHljmLUEk9o?si=cAT7gLDpXg2YT-Bq




2015年には他のアーティストへの提供曲のセルフカヴァー集、Natural History
をリリースしている。
60代最後のJ.D.サウザーが静かに歌うNew Kid In Town、Best Of My Love、
Faithless Loveはなかなか味わい深い。





J. D. Souther - Best Of My Love
https://youtu.be/eO5YmR8IWTE?si=xBWD2KiC2CbHylyd

J. D. Souther - New Kid In Town
https://youtu.be/U_w2O3DImcc?si=41yZblnmk-KBakct



同年に来日し、ビルボード東京/大阪でライヴを行っている。





この人はいい感じで歳を重ね、渋い爺さんになったなと思う。
声もそれほど衰えていない。

J.D.サウザーはカーラ・ボノフとのツアーをこの9月24日にフェニックスから
開始する予定だったそうで、音楽活動にも意欲的だったらしい。

ご冥福をお祈りします。
天国でグレン・フライと再会できますように。




<脚注>