2019年3月27日水曜日

「薄幸」のイメージ化で生まれた怨歌<前篇>



作家の五木寛之は、藤圭子をこう評した。
(毎日新聞昭和45年6月7日 日曜版 藤圭子のファーストアルバムを聴いた感想)


<艶歌>でも<援歌>でもない。これは正真正銘の<怨歌>である。(1)



藤圭子は1960年代末〜1970年代初頭、夜の世界に生きる女を描いた暗く哀切な曲を
個性的なドスの効いたハスキーボイスと独特の凄みのある歌いまわしで歌唱。
その可憐な風貌とのギャップも相まって一世を風靡した。


アイドル歌手的な人気もあり、少年マガジンの表紙を飾ったこともある。





当時、少年サンデーと発行部数を競っていた少年マガジンは「あしたのジョー」
「巨人の星」など、大人の鑑賞にも耐えうる作品を連載していた。

大学生がマンガを読むようになった、と話題になった時代である。
「巨人の星」に藤圭子本人として描かれたこともあった。

1970年の少年サンデーの企画「スターとまんが主人公そっくりショー」では、楳図
かずおの「おろち」を藤圭子が演じている。(似てるかな?)

 あたしは圭子 だれかに鏡の中にとじこめられてしまったの
 あたしの人生は長く暗かった







藤圭子がデビューした1969年は激動の年だった。
全共闘が占拠した東大安田講堂は機動隊が突入。燃え上る講堂はテレビで流された。
若者による抗戦の時代が終わり、無力感、しらけ感、あきらめ感が漂った


この年は曲も暗いムードのものが多い
都会に出てはみたけれど華やかさの中に感じる孤独、苦悩が歌のテーマだ。

カルメン・マキ「時には母のない子のように」、加藤登紀子「ひとり寝の子守唄」、
アン真理子「哀しみは駆け足でやってくる」、千賀かほる「真夜中のギター」など。
ザ・ブルーベルシンガーズ「昭和ブルース」なんて暗さの極地だった。


その中でも特に、藤圭子の歌は若者の心に突き刺さった。
人形のような顔立ちの、笑顔のない少女がドスのきいた声で投げやりに歌う恨み節
衝撃的だった。


反戦フォーク演奏会が行われた新宿西口広場と藤圭子が歌う夜の歌舞伎町。
時代のうねりを背負ったもの同士の一体感があったのではないか。

そして昭和の高度成長に抗うかのように残る貧困哀しい出自、圧倒的な不幸感
十五、十六、十七と〜あたしの人生暗かった〜。
もう「リング」(2)の貞子も真っ青なくらいの怨念(汗)






実際、デビューする前の藤圭子(本名・阿部純子)は幸薄い
岩手県一関市で生まれてすぐ、北海道名寄市に移り、旭川市で育つ。

父は浪曲師、母は浪曲師で三味線弾き。
一家は北海道の漁村や炭鉱町などを転々とし、流しで生計を立てていた。
藤圭子も幼い頃から同行。自らも歌う。
中学の成績は良かったが貧困ゆえ高校進学を断念した。

父親は生活破綻者。働かず、朝からパチンコに興じ家族に暴力をふるった。
それは爪痕としていつまでも彼女の心に残っていったことだろう。
父親のことは「殺してやりたい」と憎しみを露わにしている。


15歳の時、札幌の雪祭り大会で歌う姿がビクター専属の作曲家の目に留り上京。
レッスンを受けながら、錦糸町や浅草などで母と流しをして日銭を稼ぎ、日暮里の
ガード下で煮炊きをする極貧生活を続けていた。(3)





レコード会社の大手6社(4)のオーディションを受けるが全て落選。
荒っぽい、細やかさがない、こぶしが回らない、と指摘される。
当時の老舗レコード会社の「伝統的な尺度」では個性より歌の技術が求められた。
(昨今のフィギュアスケートが何回転したかなど得点に偏重しがちなのと同じだ)



作詞家を目指す石坂まさをが、その母娘に出会ったのは1968年の秋だった。
母親は娘をスターにしたいと熱望していた。

「とにかく、何か歌ってみてよ」と石坂は促した。

小柄で瘦せぎすの17歳の少女は「星のながれに」と「カスバの女」を歌った。
外見とはかけ離れたドスのきいた凄みのある声に石坂は心を鷲掴みされた。
天才歌手を発見してしまったのである。

石坂は執念、いや怨念に取り憑かれたように少女を売り込むことに全てを賭けた。


石坂まさおは新宿で生まれ育つ。幼少より病弱で肺結核を患う。父親は暴君。
事業に成功し8人の愛人を持ち、死後は2番目の愛人の子供に事業を継がせる。
石坂は蔑ろにされた正妻に育てられたが、愛人の一人が生んだ子であった。

高校受験は全て失敗。日雇いなど職業を転々としながら新宿をぶらついていた。
作詞家を志し、同人誌「新歌謡界」に作品を投稿しながらチャンスを窺っていた。

そんな時に藤圭子に出会ったのだ。境遇への恨み荒涼とした青春
石坂と藤圭子はお互いに似た者同士と感じたそうだ。







RCAレコードの新米ディレクター、榎本襄はまだ担当歌手がいなかった。
ビクターの一部門だが、RCAといえば洋楽の世界ではNo.1のレーベルだ。
(余談だが、当時モンキーズのシングル盤を買うと、内袋にシルヴィ・ヴァルタンや
エルヴィスと一緒に和田アキ子、藤圭子、森田健作が印刷されててなんか残念だった)


石坂の自宅で彼女がギターを弾きながら歌う「カスバの女」を聴きやはり驚く。
こんな小柄で痩せた娘が中低音でドスの効いた声出すんだ。。。。
藤圭子にはラ行で軽く巻き舌になる癖があり、それが独特の魅力を醸し出した。
榎本は「演歌歌手ではなくロック歌手としてならすごい子だ」と思ったそうだ。


訊けばコロムビアの新興レーベルDENONからデビューが決まっているという。(5)
榎本はどうしても彼女と仕事がしたくて、ひっくり返すまでに半年かけ石坂を口説く。



石坂と榎本は藤圭子の売り出し戦略を練った。

デビュー曲用に4曲が録音された。詩は石坂まさおが手がける。
「女のブルース」「圭子の夢は夜ひらく」はインパクトがあり売れ線とわかる曲。
が、一番地味だが聴けば聴くほど味が出てくる作風の「新宿の女」を選んだ。

最初にビッグヒットすると、曲に負け次が売れない事例が多々あったからだ。
いわゆる一発屋になりかねない。
石坂と榎本はヒット曲を作るだけでなく藤圭子をスターにすることをゴールにした。






今までの着物姿の演歌歌手とは違う、斬新なイメージも必要だ。
黒のベルベットのスーツに白いギターを抱える、どこか愁いを漂わせる美少女
というビジュアルを作った。(6)
その少女がドスの効いた声で歌う意外性。これは強烈なインパクトがある。


藤圭子は「いつも悲しい顔をして笑わないように」と指示された。
本当はよく笑うし、しゃべる子だったそうだが。

石坂は「演歌の星を背負った宿命の少女」というキャッチフレーズを作る。
圭子の不幸感を強調し、人々の情を買うような逸話をマスコミに流布した。


 極貧生活の中で育ち、幼い頃から浪曲師の両親の興行で歌って一家の生活を支え、
 東京に出てきてからも流しをして両親を養ってきた

 上京するまで白いごはんを食べたことがなかった

 圭子は盲目の母の手を引いて夜の巷を流して歩いた 
 寒さが身にしみて白いギターを持つ手がふるえた






母の手をとって歩く藤圭子のお涙頂戴的な映像もテレビで流れた。

藤圭子の母親は網膜色素変性症という視力が低下する遺伝性の病を抱えていた。
目が不自由なのは事実だが、盲目ではない。石坂が誇張した宣伝文句である。

(母思いで仲がよかったのは事実。歌手を志したのも、母をもっと楽にさせてあげて
不自由な目を治してあげられるかもしれないと思ったからだったという



「新宿の女」は男に捨てられた女の恨み節。石坂は新宿にこだわった
自分と藤圭子の薄幸を重ね合わせ、思い入れある新宿を舞台装置に選んだのだろう。

そしてゲリラ的なプロモーション、新宿25時間キャンペーンを敢行

流しで鍛えた藤圭子は喉が強く、ギターを弾きながらどこででも歌える。
新宿の酒場を周り、少女が25時間も歌い続けるというインパクトを狙った。
(今なら大問題、大炎上になりかねないが)




↑藤圭子の新宿25時間キャンペーンの様子が見られます。


が、本当はゲリラ的ではなく、前もって一軒一軒お願いをしてあったそうだ。
キャバレーでいきなりビッグバンドの前で歌わせてくれない。
事前に彼女を連れて行きバンマス、メンバー全員に挨拶をさせ「飛び入り的な感じ
やりますので、よろしくお願いします」と根回しをしておいたのだ。

ビクターレコード本体の宣伝部がマスコミを集め、キャンペーンは成功。
特にスポーツニッポンで取り上げられた記事が話題となりレコードは売れ出した。


この頃のレコードの販促は何でもありだった。(7)
当時のマネージャー談によると、新宿中の公衆便所に「新宿の女 藤圭子」と落書き
したり(犯罪です)、映画館や新幹線に「新宿の女を歌ってる藤圭子さんを」呼び
出し電話をかけたり(迷惑です)。。。。(元現場マネージャー、成田忠幸談)



デビュー曲「新宿の女」は1969年9月25日にRCAレコードより発売された。
以後、石坂まさをと組んでヒット曲を連発。

翌1970年の「女のブルース」は8週連続1位。
そして代表曲ともなった「圭子の夢は夜ひらく」も10週連続1位を記録。
ファーストアルバム「新宿の女」は20週連続1位、2枚目のアルバム「女のブルース」
は17週連続1位、計37週連続1位という空前絶後の記録(オリコン)を残す。




↑1970年 第1回日本歌謡大賞受賞パーティーで「圭子の夢は夜ひらく」を歌う藤圭子。




「圭子の夢は夜ひらく」は1964年にヒットした「夢は夜ひらく」の改作である。
園まり、緑川アコ、バーブ佐竹、梅宮辰夫の競作で、園まり版が一番売れた。

作詞は中村泰士、富田清吾、作曲は曽根幸明。
「圭子の」とは歌詞が違う。嘘と知りつつ男を信じてしまう女心が描かれている。




園まりの「夢は夜ひらく」が視聴できます。
個人的に見た目は園まりの方が好き(笑)でもこの曲の歌唱は藤圭子の勝ち〜。



原曲はネリカン(練馬少年鑑別所)で唱われていた俗曲。曽根が採譜・補作した。
その後、新たに歌詞と曲名をつけかえ、園まりが歌うことになった。

ネリカンで唱われていた原曲がどんな詩だったのか知る由もない。(8)
救いのないどん底感という点では石井まさをが書き換えた「圭子の夢は夜ひらく」
の方が近いものがあったのでは?と想像してしまう。


「圭子の夢は夜ひらく」を改めて聴くとブルース色が濃いアレンジが施されている。
もともとAm、Dm、Eの3コードだからマイナー・ブルースとして成立する。
ギターは最初のヴァースや曲間のオブリ、バッキングもジャジーである。
さらに1拍3連符での4ビート。



榎本襄の指摘「演歌歌手ではなくロック歌手としてならすごい」は的を得ていた。
演歌にカテゴライズされていたが、和田アキ子、ちあきなおみ、青江三奈と同じ
和製R&Bシンガー、あるいは昭和歌謡ブルース歌手と言ってもいいだろう。
しかも唯一無二の。


↑1970年 渋谷公会堂のライブ「圭子の夢は夜ひらく」。これは絶品です。


後篇に続く。


<脚注&裏話>

2019年3月10日日曜日

ウクレレでジャズはいかが?(ライル・リッツ)<後篇>

<ライル・リッツのもう一つの顔、スタジオ・ミュージシャン>

1960年代にライル・リッツは軍隊時代に築いた人脈を伝手にベース奏者に転身する。
その腕が認められ、レッキング・クルーのメンバーとなり、売れっ子ベーシストと
して活躍するようになる。
(フォートオード基地進駐中アップライトベースを学んだ経験が役立ったわけだ)






レッキング・クルーとはドラムのハル・ブレイン率いるL.A.の腕利きのスタジオ・ミュ
ージシャンの集団で、1960年代〜1970年代のレコーディングを支えてきた猛者たちだ。
彼らは一つのバンドではなく、必要な時に必要なミュージシャンをスタジオに派遣する
流動的なセッションマンのユニットである。(1)


当時の音楽シーンは分業制で、本人たちがツアーに出ている間にスタジオ・ミュージシャ
ンが演奏をレコーディングし、完成したオケにボーカルを重ねることが多かった。
本人たちの演奏力では難しいとプロデューサーが判断した場合、メンバーが忙しくてレ
コーディングに参加できない場合、レッキング・クルーが代役を立てることもあった。

ベンチャーズのメンバーがレコーディングに揃わない時に、代役でトニー・テデスコが

リードギターを弾いたり、ハル・ブレインがドラムを叩くこともあった。


プロデューサーが求める演奏を確実にこなせなくてはならない。

アレンジが固まっていない、スコアが大まかな時は臨機応変にアイディアを出す。
難しい要求に即座に応える必要があった。


フィル・スペクターは自分の頭の中で鳴っている音と一致するまで、同じ箇所を何度も

繰り返し演奏させてOKテイクを録音していく。
フィルが作ってロネッツが歌い大ヒットしたビー・マイ・ベイビーもレッキング・クルー
の仕事で、あの有名なドラムのイントロはハル・ブレインが叩いている。

フィルを敬愛していたブライアン・ウィルソンも(ビーチボーイズのツアーには参加せず)

レッキング・クルーを起用しフィルと同じやり方でレコーディングしている。




↑映画「レッキング・クルー 伝説のミュージシャンたち」の予告篇が観られます。


フランク・シナトラ、ナンシー・シナトラ、ビーチボーイズ、エルヴィス、バーズ、
ソニー&シェール、ママス&パパス、フィフス・ディメンション、ビーチボーイズ、
モンキーズ、サイモン&ガーファンクルのヒット曲もレッキング・クルーの演奏だ。(2)

彼らの名前はレコードにクレジットされることはなかったが、音楽業界では誰もが知る
頼りになる存在だった。困った時の、まさにWrecking Crew(救難作業隊)だ。



ライル・リッツがレッキング・クルーでどのレコーディングに関わっていたか定かでない
が、有名なのはビーチボーイズの名盤「ペットサウンズ」への参加だ。

「ペットサウンズ」ではブライアンに中指を立てたという女傑(^^)キャロル・ケイが
多くの曲でフェンダーのジャズベースをピック弾きしている。

ライル・リッツはウッドベースを弾いてると思われるが、どの曲か分からない。
たぶんラストの「Caroline,No」じゃないかな。




↑左はブライン・ウィルソン。


このセッションでライルはウクレレも弾いたそうだ。
I Know There's an Answer」のベースハーモニカの間奏(1’45”)の時、ウクレレ
伴奏が聴こえるが、それがライルだと思う。

翌年シングルカットされた「Good Vibrations」に参加したという記述もあるが、
エレクトリック・ベースだし、キャロル・ケイのように聴こえる。
でもライルがフェンダー・プレシジョンベースを弾いてる写真があるから、けっこういろ
いろなことをやってたのかも。

記録はないが、ビーチボーイズの1968年のアルバム「フレンズ」収録のインストゥルメ
ンタル曲「Diamond Head」でもウクレレを弾いてると思われる。



↑ビーチボーイズのDiamond Headが聴けます。
2’22”からウクレレのコード・カッティング、まさにライル・リッツじゃないですか?



<再びウクレレへの回帰>

1970年代後半L.A.ではライ・クーダー、デヴィッド・リンドレー、ザ・セクションなど
個性的な演奏をするセッションマン、バンドが台頭してきた。

N.Y.でもスタッフ、デヴィッド・スピノザ、ヒュー・マックラケンが起用され始める。
そしてTOTO、ラリー・カールトン、リー・リトナー、スティーヴ・ガットなどいわゆる
 AOR、フュージョン系のミュージシャンがひっぱりだこになるにつれ、レッキング・
クルーの活躍の場はしだいに減っていった。


ライル・リッツのウクレレが再び注目されたのは1979年の映画「Jerk(天国から落ち
た男)」だ。
主役を演じるスティーヴ・マーチンがウクレレを弾きながら「Tonight You Belong  
to Me(3)を歌うすてきなシーンがあるのだが、そのウクレレを実際に演奏していたの
ライルだ。

撮影中にウクレレが壊れたため、スティーヴが抱えているのはフェイクらしい。



↑映画「Jerk」でのTonight You Belong to Meのシーンが視聴できます。



1980年代半ばにライル・リッツの人生に転機が訪れる。

ハワイでウクレレスタジオ(教室)を経営し、ウクレレの指導とウクレレ奏者の育成に
心血を注いでいるロイ・サクマ(ハーブ・オオタに師事していた)がライルに電話して
きたのだ。

ロイはウクレレの魅力を多くの人に伝えたいという思いから、1971年より毎年ウクレレ
フェスティバル(無料コンサート)をホノルル市内のカピオラニ公園で開催していた。
そのウクレレ・フェスティバルへの参加要請だった。


ライル・リッツが1950年代終わりにヴァーブから発表した2枚のアルバムは本国ではあま
り売れなかったものの、ハワイでは好評を博し伝説の作品となっていたこと。
そしてハワイのミュージシャンたちに多大な影響を与えていたことを、それまでハワイに
行った経験がないライル本人は知らなかったのだ。


1985年から3年連続でウクレレ・フェスに出演したライル・リッツは大きな決断をする。
ベーシストの仕事を辞め、L.A.の住居を引き払いオアフ島に引っ越すことにしたのだ。

フュージョン系のエレクトリック・ベース、シンセ・ベース、ヒュー・パジャム系のゲー
リバーブ、ブリティッシュ・ファンクがもてはやされる時代になり、ライル・リッツの
ようなベーシストの出番は少なくなっていたことは想像に難くない。

第二の人生は「自分を求めてくれる新天地で本領を発揮」という思いが強くなった。
加えて幼い娘のためにもよりよい環境に移りたい、という考えもあったようだ。



<新生ライル・リッツのディスコグラフィ>

ハワイに移住してきたライルにロイ・サクマはジャズ・ウクレレのCDを作るよう奨める。
現地のミュージシャンがバックを務め、ウッドベースとドラム、曲によってビブラフォンが
加わるラウンジ風ジャズコンボ編成で、ジャズからビリー・ジョエルまで幅広い選曲。
ライル・リッツの新譜「Time...UKULELE JAZZ」が完成した。





1995年Roy Sukama Productionsよりリリース。
ヴァーヴの2枚のアルバムから実に40年近く経った復帰作である。


Lulu's Back In Town、I’m Beginning To See The Light、Blue Hawaiiも再演。
ライルのウクレレ一本で奏でられるHanaは、春のうららの隅田川♪で親しまれている
滝廉太郎作曲の「花」だ。美しい。。。。

Time Has Done A Funny Thing To Meははライルが映画「When the Line Goes Through」
(1973)のために書いたテーマ曲。
原曲は4拍子だが3拍子にリアレンジされている。

内容はともかく、ジャケットのデザインなんとかならないですかね(笑)




次作は2001年。「Ohta-San "Herb Ohta" & Lyle Ritz ‎– Ukulele Duo
日本のビクターエンタテイメントの企画盤でハーブ・オオタとの共演作。
当時のOhta-Sanブームにあやかろうと出された一連の企画モノの一つ。

二人の大御所のウクレレのデュエット、他の楽器は一切なしのシンプルな録音。
悪くない。悪かろうはずがない。




でもプロデュース、レコーディングしてる方が日本人だからなのか。
几帳面で固い。なんか、こぢんまりまとまってるというか。
ゆるさ、おおらかさ、もっと言うと「間」や空気感が感じられない。
Teach Me Tonightでは二人の笑い声が聴けるし、楽しそうなんだけど。

演奏スタイルも違うから時には合ってるような合ってないような箇所もあったり、
だんご状態になってたっり。。。その大雑把さを活かせなかったのが残念、


ジャケットもいかにも日本のレコード会社のデザイン部で済ませた感じ。
カワイイでしょ?女子にも聴いてもらいたいという「あざとさ」が見え隠れする。
(このアルバムに限らず、日本の企画モノってなぜか愛聴盤にならない)




↑和気藹々(^^)


A Night of Ukulele Jazz/Live At McCabe's by Lyle Ritz & Herb Ohta
(2001) L.A.サンタモニカの老舗マッケイブス・ギターショップで行われたライル・
リッツとハーブ・オオタのライブ録音これは買い!ですよ。


前作の日本企画盤とは打って変わって、すばらしいスウィング感を聴かせてくれる。
(録音した時期はほぼ同じだが、こうも違うものか)
ウッドベースが加わったことでリズムが安定。低域の厚みが出てドッシリしている。

二人の演奏も絶妙で、楽しそうな雰囲気、臨場感が伝わって来る。
アレンジも練られていて、今まで聴いたウクレレ・デュオの中で最高の演奏だ。


(会場、レコーディング・エンジニアもいいのだと思う。
マッケイブスでは継続的にインストア・コンサートを行っているようで、以前バート
・ヤンシュがここで録音したライヴ盤を持ってるがこれもすばらしい)


ライル・リッツハーブ・オオタ→二人の共演という3構成
Tonight You Belong to Meはライルと娘のエミリーの共演が微笑ましい。

ジャケットはそっけないくらいシンプルだが、かえっていいと思う。
フォントの選び方、色使い、レイアウトも上手い。



↑ライル・リッツ&ハーブ・オオタのFly Me To The Moonが聴けます。


出版元はジム&リズ・ベロフ夫妻が経営するFLEA MUSIC MARKET。
1990年代よりウクレレに特化した活動をしており、全米でイベントやコンサートを開催
したり、ウクレレのCD、DVD、教則本を販売している。

ライルもこのフレア・マーケット・ミュージックから2冊の教則本(+CD)と教則DVD
を出している。


尚、このライヴCDは廃盤のため、日本ではプレミアムが付いてる。
ダウンロードするかアメリカのAmazonで適価のCDを買うのがいいと思う。




ライルは2000年頃ハワイを離れ、オレゴン州のポートランドに居を移す。
2005年にはMacを購入し、DTMソフトGarageBandを使って一人で宅録に挑戦。

完成したアルバム「No Frills」はタイトル通りウクレレとベースだけ、とシンプル。
本人が「自信作」というだけあって、コードソロ、アドリブとも演奏は充実している。
(2006年 FLEA MUSIC MARKET



↑「No Frills」収録のRainforest Waltzが聴けます。


ウクレレはオーディオコンバーター経由でGarageBandにライン録りしたようだ。
ピエゾくささが苦手なのでそこがちょっとが気になる。
ベースもGarageBandの音源モジュールを使った打ち込みなので表情に乏しい。

せっかく本人がウッドベースを弾けるんだから、ウクレレもすべて立ちマイクで録音
ればよかったのに。。。と残念に思う。


が、実はマイキングのテクというのは非常に難しいのだ。
マイクの位置、楽器との距離や向き、環境によってぜんぜん違ってしまう。
一応いい音質で録れたけど楽器の個性やニュアンスまで伝わらない、何を弾いても
同じようないい音、ということに(素人がやると)なりがちである。

それにしてもこの時点で66歳。ライル爺さん、ITまで駆使して頑張ってます!



↑こんな感じで録音してたみたいです。


その後は女性ジャズシンガー、レベッカ・キルゴアとの共演盤を2作発表。
ライル・リッツはボーカルとのコラボをずっとやりたかったようで、その夢が実現した
わけだ。


I Wish You Love - Lyle Ritz Rebecca Kilgore (2007 CD Baby) 
レベッカの深みのあるボーカル、ライルのウクレレ、リズムギター、ウッドベースの
シンプルな編成で、1920年代~1950年代の名曲が13曲聴ける。






Becky & Lyle Bossa Style - Lyle Ritz Rebecca Kilgore (2009 CD Baby) 
レベッカとの共演2作目はボサノヴァがテーマ。
アントニオ・カルロス・ジョビンやカルロス・リラの名曲の他、ビートルズのI Will、
バカラックのWhat The World Needs Nowも出色の出来。
Trisiteのみインストゥルメンタル。やはりピエゾっぽい音が残念だ。





2枚ともジャケットのデザインが秀逸。特にBecky & Lyle Bossa Styleは好きだな。
ちなみに左のはソニー製コンデンサーマイクC-38でしょう。
1966年発売以来NHK、民放で使われ続けてるロングセラーのレトロな立ちマイクです。



<晩年のライル・リッツ>

ライル・リッツは2007年にウクレレの殿堂入りを果たしし、さらに同年レッキング・
クルーの一員としてミュージシャンの殿堂入りも果たした。
晩年はウクレレの指導をしたり、ポートランドのウクレレ・フェスティバルに出演した
り、大好きなウクレレ三昧しながらのんびり過ごしたようだ。



↑2008年にオレゴン州のTV局OPB で放送されたライル・リッツのドミュメンタリー。
娘のエミリーも25歳になり、ライルと一緒に演奏している。



2017年ライル・リッツはオレゴン州のポートランドで亡くなった。享年87歳。

ライルは自分のスタイルを「polite jazz」と言っていた。
洗練された、優雅な、上品な、丁寧な、相手の気持ちを思いやるジャズということか。
まさしくライル・リッツは不世出の「polite jazz」のウクレレ・マスターである。



※今回も飯塚英さんのライル・リッツ (Lyle Ritz) 研究を参考にし、内容を転用させて
いただきました。飯塚さん、感謝です。
http://hide.g.dgdg.jp/lyle_ritz/index.html

<脚注>