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2026年8月30日日曜日

カントリーの女王ドリー・パートンとI Will Always Love You。



ドリー・パートンが8月25日にテネシー州ナッシュビルで死去した。享年80歳。
腎臓結石と自己免疫系の治療を受け、最後は癌との闘病で亡くなったそうだ。



<ドリー・パートンの功績>

ドリー・パートンは13歳でデビュー。
60年以上にわたって3000曲以上を手掛けた。
70枚以上のアルバムをリリース。全世界で1億6000万枚以上の売り上げを記録。

史上最も売れた女性カントリー・シンガー&ソングライターであり、「カントリー
の女王」としてアメリカ国内はもちろん海外でも親しまれていた。






女優としても活躍している。
1980年の映画「9時から5時まで」ではジェーン・フォンダと共演。
1989年の「マグノリアの花たち」ではジュリア・ロバーツやサリー・フィールド
、シャーリー・マクレーンと共演した。






<ドリー・パートンとチェット・アトキンス>

日本でドリー・パートンを知っている人は多くないだろう。
かなりニッチな層なのかな。僕も含めて。


僕がドリー・パートンを知ったきっかけは、チェット・アトキンスである。
2人ともRCAレコード所属(1)で、カントリー・ミュージックの大御所だ。
ナッシュビルに居住し、ナッシュビルで活動し続けた点も同じ。





2人は仲良しで、TVやコンサートで共演することも多かったようだ。
でも共演の公式録音は(僕が知る限り)1976年のこの曲だけ(2)だと思う。

チェットのギターだけというシンプルな伴奏で、くつろいだ雰囲気で楽しそう
に歌ってる。(時々、笑い声なんかも入ってる)

Chet Atkins & Dolly Parton - Do I Ever Cross Your Mind 




↑これはBlack Smoke's a-Risin'という曲を演奏しているところ。



↓このライヴでは同曲を後半、超高速で演奏。おふざけが大好きらしい。
45回転のレコードを78回転で再生した音を再現してるそうです(笑

Do I Ever Cross Your Mind Live at The Dolly Show 1977





<誰もが知ってるあの歌が!ドリー・パートンの名曲とは>

ドリー・パートンは素晴らしい歌手でエンタテイナーであると同時に、優れた
作詞・作曲家でもあった。
女性シンガー&ソング・ライターの先駆けと言ってもいい。



↑赤いバンダナ柄のウエスタン・シャツの裾を無造作に結ぶ。
ナッシュビルでは今もカントリー・スタイルの女性を見かけるんでしょうか・・・



たとえばオリヴィア・ニュートン=ジョンが1976年にヒットさせたJolene。
ドリー・パートンが1973年に発表した楽曲で、本人の歌もカントリー・チャート
1位を獲得している。
ビヨンセ、マイリー・サイラスも後年カヴァーした。








そして誰もが聴いたことがある「エンダァァァァァ」のあの曲。
1992年の映画「ボディガード」の主題歌「I Will Always Love You」は翌年に
かけ全米シングルチャートで14週連続ナンバー1を記録した。
日本のオリコン洋楽シングルチャートでも、27週連続1位を獲得した大ヒット曲だ。

主演を務めたホイットニー・ヒューストンの持ち歌と思っている人が多いのではないか。
実は違う。





ドリー・パートンが1973年に発表したアルバムに収録されていた楽曲で、彼女自身
による作詞作曲である。翌1974年6月にアルバムからの2枚目のシングルとして発売
され、米ビルボード誌のカントリーチャートで1位を獲得している。
(先に紹介したDo I Ever Cross Your MindはシングルB面曲だった)




<ドリー・パートンの曲が映画主題歌に選ばれた経緯>

映画「ボディガード」の主題歌候補は当初、音楽担当プロデューサーのデヴィッド・
フォスターによって別な曲が用意されていた。
しかし、ホイットニーはその曲に納得しなかったという。

映画の共演者ケヴィン・コスナーの勧めでI Will Always Love Youを聴いたホイ
ットニーは気に入り、これだ!と確信する。





ケヴィン・コスナーがホイットニーに聴かせたのは、ドリー・パートンのオリジナル
ではなく、リンダ・ロンシュタットによるカヴァーだった。
(コスナーは同曲が収録されたリンダのアルバムを愛聴(3)していた)



I Will Always Love You - Linda Ronstadt

Dolly Parton - I Will Always Love You - 1974





フォスターはすぐドリー・パートンに連絡し使用許可を求める。
ドリー・パートンは快諾。
リンダのカヴァーではVerse3(3番の歌詞)が歌われていないことを指摘。
その上でホイットニーのために、ドリー・パートン自ら歌詞の一部を加筆修正する。






ホイットニー版「I Will Always Love You」はデヴィッド・フォスターのアレンジ
とプロデュース手腕によって、ドラマチックなバラードに仕上がった。

ホイットニーのファルセットに続くテナーサックス・ソロも効果的だ。
後半の転調後の展開は、さらにスケール感が重厚である。

I Will Always Love You - Whitney Houston






この曲はホイットニーのアカペラで始り、静かにオケが入る。
アカペラを強く押したのは曲の推薦者でもあるケヴィン・コスナーだった。
フォスターは反対したが、最終ミックスを聴いて納得したという。



「ボディガード」のサウンドトラック盤は、1994年の第36回グラミー賞で「最優秀
アルバム賞」「最優秀ポップ・ボーカル・パフォーマンス(女性)」を受賞。
シングルカットされた「I Will Always Love You」は世界中で2400万枚以上を
売り上げ、ホイットニー最大のヒットにして彼女の代表作となる。





ドリー・パートンのオリジナル、リンダのカヴァー、ホイットニーのカヴァー。
あなたはどれが好きですか?
僕はドリー・パートンが切々と静かに歌うカントリー・バラードが好きです。
ホイットニーのは大袈裟すぎて・・・(個人的感想です)




<エルヴィスに歌わせなかったI Will Always Love You>

実はパートンが「I Will Always Love You」をヒットさせた後、エルヴィスから
この曲をカヴァーしたい(いかにも歌いそう)という申し出があった。
しかしマネージャーのトム・パーカー大佐から出版権の半分を譲渡することが条件(4)
と言われ、パートンは拒否した。

エルヴィスはこの曲の録音を諦め、ドリー・パートンはその後何年にも渡って同曲の
印税を得た上、1982年の再リリースの際にもカントリー・チャートで再び1位を獲得。
さらに「ボディガード」主題歌の世界的大ヒットで、パートンは莫大な印税を手にする。
彼女はそれを慈善活動や寄付(5)に充てた。





エルヴィス側の話に乗っていたら、その後の流れは変わっていたかもしれない。
運命と決断とは不思議である。




<ドリー・パートンの死を悼むメッセージ>

訃報を受けて、ドリー・パートンと親交のあった多くのアーティストたちが追慕、
惜別の念をソーシャルネットワークで綴っている。
テイラー・スウィフト、ビヨンセ、ミック・ジャガー、ロッド・スチュワートなど。
一緒に活動していた時期もあるリンダ・ロンシュタットは喪失感を伝えた。





ポール・マッカートニーはインスタグラムに1974年の初対面時の写真を投稿して、
こう綴っている。いい文章なのでほぼ全文紹介しよう。


偉大なるスターのドリー・パートンが亡くなった知り、本当に悲しいです。
本当に素晴らしい女性でした。
とても快活で生命力に溢れていた女性なので、亡くなったというニュースをなかなか
受け入れられません。
彼女の作曲力、その歌声、慈善活動はカントリー・ミュージック界において比類なき
もので、ドリー・パートンのいない世界で生きていくことなど想像もつきません。
彼女は非常に聡明なビジネス・ウーマンであり、自身の音楽の価値(6)、そして何より
自分が世界中の人々に与える影響力を理解していました。(中略)



↑1974年の写真。左からポール、リンダ、ドリー・パートン、ポーター・ワグナー。
手前は次女メアリー、長女のヘザー。ステラ・マッカトニーはまだ生まれていない。


一緒に「Let It Be」を歌えた(7)ことは私にとってとても光栄なことでした。
彼女と知り合えたことを誇りに思います。そのユニークな才能を尊敬しています。
私や世界中に素晴らしい音楽を届けてくれたドリー・パートンに感謝しています。
いつまでもあなたを愛し続けるでしょう(We will always love you)。
神の御加護を、安らかに。あなたは最高でした。




<脚注>

2026年5月1日金曜日

ポール・マッカートニー:マン・オン・ザ・ランを見て(私的雑感)



「マン・オン・ザ・ラン」はビートルズ解散後のソロ活動〜ウイングス結成〜解散
までポール・マッカートニーの軌跡を辿るドキュメンタリーである。

MAN ON THE RUNがポールの最高作の誉高いアルバム、Band On The Runの
捩りであることは、彼のファンならすぐピンと来るだろう。

直訳すると「逃走中の男、忙しく動き回る男」(1)で、ポールの性格を考えると
後者の意味も含まれているような気がする。


ポール・マッカートニー:マン・オン・ザ・ラン 予告 プライムビデオ



<作品の概要>

監督はモーガン・ネヴィル。
アメリカの映画プロデューサー、監督、脚本家で、マディー・ウォーターズ、
ジョニー・キャッシュ、スタックス・レコードのドキュメンタリーでグラミー賞
にノミネートされたことがある。
渋めの作品を作る人だが、なぜポールがこの人に依頼したのかは謎。

キービジュアルの写真でポールがダルメシアンを飼ってたことを初めて知った。
もしかしたら今まで知らなかったポールを見れるかも?とちょっと期待。

甘かった。





「マン・オン・ザ・ラン」は既視感の強い、目にタコ?の見たことがある映像を
駆け足でコラージュした薄っぺらく深みのない作品、という感想を抱いた。
それこそ、MAN ON THE RUNである。

ポール本人、リンゴ、ショーン・レノン、エルトン・ジョン、なぜかクリッシー
・ハインドらのインタビュー音声が使われるが、本人たちは出演しない。

制作総指揮はポール。つまりポールの意向が反映されているということ。
映像はストック動画素材だけで作れ、自分も含め現在の映像は使うな、という
オーダーだったのか・・・



<「WINGSPAN」との違い>

2001年に2枚組CDと一緒に制作された映像作品「WINGSPAN」(夢の翼〜
ヒッツ&ヒストリー)の方がよっぽど楽しめた。





監督のアリステア・ドナルドはポールのシングル、The World Tonightの
安上がりなプロモ・ビデオを手がけたことがある。
2001年時点でドナルドはポールの次女メアリー・マッカートニーの配偶者だった。
プロデューサーはポール名義だが、メアリーがプロジェクトを仕切っていたのでは
ないかと思われる。

「WINGSPAN」ではメアリーがポールにウイングスのこと、亡き母リンダのこと
やアルバム制作時のことなどを訊き、ポールが答えギターで実演してみせる。


Paul McCartney Talks Songwriting with Mary McCartney 
- Rare Wingspan Extra 2001



最初のソロアルバム「McCartney」のジャケットはリンダが撮った写真で「ジャ
ケットの中の赤ちゃんがお前だよ」とか、親子の会話がよかった。





「マン・オン・ザ・ラン」ではメアリーとステラのインタビュー音声は聞けるが、
本人たちは出演していない。印象的な話もなかった。
歴代のウィングス生き残りメンバーのインタビューがあってもよかったのに。



<レアだと思ったシーン>

目新しさという点では収穫のない作品だが、目(耳)を惹く部分も少しあった。

一つは1973年にジョンがアラン・クレイン(3)を解雇した直後に英国のTV局、
ITNの政治・時事番組「Weekend Television」のインタビューに答える映像。
ジョンは「ポールが正しかった」と素直に認めている。(4)






もう一つは1974年にビートルズの法的な争いがようやく終結し、解散が正式に
認められた時の映像。
複数の書類にサインするポールとジョージが映っている。2人とも嬉しそう。
(リンゴは既にサイン済み、ジョンは後日フロリダでサインした)



↑右奥でジョージがサインしてる。



最後の一つは、ウイングスのメンバーたちの報酬についてのポールの発言。
「僕は経理じゃないから知らない。要望があるなら自分で交渉すればいいんだ」
と突き放すように言っている。

いかにもポールらしい。自分さえ良ければいいという金銭感覚。
ビートルズ時代も自分だけロイヤリティを高くするよう交渉していた。(5)
この時も他メンバーの非難に「自分で交渉すればいい」とどこ吹く風。



ウイングスのメンバーたちは固定給で雇われていた。
レコードが売れても、楽曲と原盤のロイヤリティはポールとリンダにだけ入る。
作曲のクレジットに入らない限りは(つまり共作名義の曲じゃないと)。





ただしライヴの収益はメンバーたちに配分される。
ウイングスが売れて全米ツアーをしていた時期はメンバーたちも潤っただろう。
しかし最初にバスで英国内の大学を回ってた頃はボランティアみたいなものだ。
リンダが妊娠する度にツアーは延期。メンバーたちの生活は困窮した。(6)

ウイングスのメンバーが頻繁に変わるのは、ポールのワンマン体制のせいだけ
ではなく、報酬への不満もあった・・・と思う。






<MAN ON THE RUNで語られるビートルズ解散後のポール>

ジョンの脱退宣言(表面化しなかったが)、ビートルズの事実上解散でポール
はうつ状態に陥り、酒浸りに。
ロンドンを離れ、妻リンダと共にスコットランドの農場に引きこもる。



↑リンダの横にいるのは羊ではなくオールド・イングリッシュ・シープドッグ
のマーサ。Martha My Dearで歌われているのはこの子です。


何かできることをとあ曲を作り宅録した結果が最初のアルバム「McCartney」。
これはよく語られる話。

スコットランドの農場で作曲を始めたのは事実だが、宅録作業はロンドンのカヴ
ェンディッシュ・アベニューにある自宅で行われている。
アビーロード・スタジオ(自宅から歩いて行ける距離)から4トラック・レコー
ダーStuder J37を拝借し自宅に持ち込んだ。これは語られない。



↑EMIは1968年に8トラックを導入。1970年には16トラックも登場。
だから、ほぼ用済みの4トラックは借りやすかったのかもしれない。
ポールにとってはビートルズで慣れ親しんだ機材。扱いやすかったはずだ。



ミキシング・コンソールもVUメーターもないため、マイクをレコーダーに直挿し
して録音していた。これもよく語られる話。

必要に応じて、アビーロード・スタジオやモーガン・スタジオで追加録音やミキ
シングが行われた。この部分は割愛される。

「McCartney」はビートルズ時代に作られた曲も多く、ビートルズっぽさが
感じられる一枚であり、こぢんまりした手作り感も個人的には好みである。
しかし酷評された。





奮起したポールは次作のレコーディングをニューヨークで行う。
ポール&リンダの名義のアルバムRumを最高作と評価する声も多い。

オフコースも真似したDear Boyの重厚コーラス、軽快なカントリーソングの
Heart of the Country、Uncle Albert/Admiral Halseyメドレー、
ビートルズ時代に書いたThe Back Seat of My Carなど聴きどころは多い。
しかも完成度が高い。大雑把な曲もあるが、それもまたポール。




↑珍しくギブソン・ファイアバードを弾いている。



Rumではニューヨークの一流スタジオ・ミュージシャンを雇い、オーケストラ
も導入された。
この時のドラマー、デニス・シーウェルがウイングスの初代ドラマーとなる。
これは語られる。



↑右がデニス・シーウェル。Wild Lifeジャケ写撮影時の写真だろう。



ギターのデヴィッド・スピノザも誘ったが断られたという。
売れっ子のスピノザなら固定給で雇われるよりニューヨークで稼いだ方がいい。
ここは触れられなかった。



↑RAMレコーディン中のポールとデヴィッド・スピノザ。
Heart Of The Countryをやってるのかな?
この写真、レアじゃないですか?見つけた時、うれしくなりました♫♪♫
手前の子供はメアリー・マッカートニー。




<ウイングス結成〜最盛期>

元ムーディーブルースのデニー・レインを誘い4人体制でウイングス結成。
その後ギタリストのヘンリー・マッカロクが参加。





バスで英国内の大学を廻り格安ギャラでライヴをやった話が語られる。




↑ポールはバス好きらしい。
Magical Mystery TourとYellow Submarineの世界観に通じる塗装。
2階にはベビーベッドまで置かれたいたという。



駄作と言われるWild Life、次のRed Rose Speedwayは触れられない。

1973年に英国ATVで放送されたJames Paul McCartneyと題した特番。
Live and Let Die、Mary Had a Little Lamb、My Loveのシーン。
ロンドンブーツを履いたポールがダンサーたちと踊るミュージカルなどが
ちらっと映る。




↑ポールのアコギ弾き語りメドレー。
James Paul McCartneyで一番おいしいシーンだった。



で、いよいよBand On The Run制作秘話というかお馴染みの苦労話。



思いつきでラゴスのEMIスタジオでレコーディングすることに。
ラゴス行き反対のデニスとヘンリーが脱退。
ポール夫妻とデニー・レインの3人でレコーディングに臨む。




↑ポールは一人何役もこなす。ドラムの腕はキース・ムーンに評価された。



スタジオがお粗末だった話、強盗に襲われたエピソードなど。




↑ポールの右はリンダの連子ヘザー(Let It Beでスタジオで遊んでた子)、
右はメアリー、手前は今や世界的デザイナーのステラ・マッカートニー。



リンダの発案で囚人が脱走するジャケットに。俳優を雇って撮影・・・



1974年にTV放送用に収録されたもののお蔵入りとなったスタジオ・ライヴ
One Hand Clappingをちょっとだけ紹介。




ギタリストのジミー・マカロックと短期間在籍したドラマーのジェフ・ブリ
トンが参加している。
ポールは「この頃が一番よかった」と言ってる。ふーん、そうなんだ・・・






<ウイングス後半〜解散>

続くVenus and Marsについては語られない。これも名盤なのに。

翌1976年の全米ツアー。いつものRock Show(2)の映像を少しだけ。
リマスターされクリアーになっていた。





Wings at Speed of Sound、再び3人体制で制作されたLondon Town
については語られなかった。


全英シングルチャート9週連続1位の大ヒットとなったMull of Kintyre
については語られる。
スコットランドのポール宅の屋外でギター、ボーカル、地元のバグパイプ・
バンドの演奏を録音したことなどが紹介される。




↑右の女の子は次女のメアリー・マッカートニー。
アルバムMcCartneyでポールの胸元にすっぽり入ってたあの赤ちゃん。
すでに垂れ目のマッカートニー家系の顔になっている。


バグパイプのキーに合わせるため途中から転調しているが、これが印象的
で功を奏した。という話は省いていたような。




セッション前夜、泥酔したジミー・マカロックが農場で暴れたため、激怒
したポールがジミーを解雇した件については触れられなかった(笑





ウイングス最後のアルバム Back to the Eggについてもスルー。
ギターにローレンス・ジュバー、ドラムにスティーヴ・ホリーを迎え、
ウイングス史上最も演奏力があったのに。いい曲もあったし。





デヴィッド・ギルモア、ジョン・ボーナム、ジョン・ポール・ジョーンズ
も参加したロケストラについても一言もなし。



↑右端、ロニー・レインの後のドラムがジョン・ボーナムなのでは?
フィル・スペクターみたいな大編成録音をやってみたかったのか?
残念ながらウォール・オブ・サウンド(7)にはなっていない。


日本で大麻所持で逮捕、ジョン射殺でショックを受けた話で終わる。




<MAN ON THE RUNの評価>

Amazonの視聴者評価は4.8(5点満点)、 ⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎の割合 85%。
かなり高評価である。

IMDb(ストリーミングコンテンツに関連する情報を集めたオンライン
データベース)は7.5/10。(個人および批評家のレビューが含まれる)
実はIMDbもAmazonの子会社が運営してる。

Redditの評価は賛否両論。
低評価の意見は概ね僕と同じであった。





この作品はAmazon Prime独占配信で2026年2月27日から始まった。
僕は初日に見た。

視聴後、Amazonからレビューの依頼メールが来た。
正直に書いた。低評価である。
Amazonからお礼と「レビューが反映されました」というお知らせ。
しかし僕の評価は載っていない。

ちなみに同時期、Amazon Prime独占配信でニコール・キッドマン主演
の「スカーペッタ」(原作:パトリアシア・コーンウェル)が始まった。
1話目を見てつまらなかったので続きは見ないことにした。
辛口のレビューを書いたが、これまた反映されていない。

他の商品の評価はちゃんと載っている。
Amazon Primeオリジナル作品の低評価が嫌で揉み消した?
まあ、いいんだけどね。



<脚注>

2026年2月27日金曜日

「俺たちの旅」と和製フォークの終焉。



BS日テレで「俺たちの旅」を再放送していた。なんと、全46話(!)
当初は2クール(半年)放映予定だったが、高視聴率のため延長されたという。

46話は長い(汗)後半は消化試合の様相を呈してる。
1日1話うだうだ、なんとか身終えた(笑


当時は途中から見てみて、早めに離脱してしまったようだ。
共同生活をする3人の関係がいまいちよく分かってなかった。

中村雅俊はなぜコースケと呼ばれたりカースケと呼ばれるのか?
田中健はなぜオメダと呼ばれるのか?
津坂まさあき(秋野太作)はカースケから先輩、グズ六とも呼ばれる。

岡田奈々は中村雅俊の妹役だと思っていたが、田中健の妹という設定だった。






<あらすじ>

津村浩介(中村雅俊)は三流私大、修学院大学バスケ部のキャプテン。
あだ名のカースケは、短気で瞬間湯沸器のようににすぐカーッとなるから。
就職活動はせず、バスケに打ちこみ、アルバイトで汗をかき、その日を楽しく
生きればいい、という信条。

彼に想いを寄せるバスケ部のマネージャー、洋子(金沢碧)は心配するが
意に介しない。



↑修学院大学は津田塾大学 小平キャンパスで撮影された。



バスケ部の同輩、中谷隆夫(田中健)は真面目で心優しいが、要領が悪い。
「俺は駄目な男だ」とすぐ落ち込むからダメ男の逆読みでオメダと呼ばれる。
なんとか就職するが、理不尽な営業方針や人間関係に耐えられず退職。

真弓(岡田奈々)はオメダの妹。カースケに淡い恋心を抱いている。

熊沢伸六(秋野太作)はカースケと同郷で小学校の先輩。
グズグズして煮え切らない性格からグズ六。
早稲田を卒業し就職するが、どこも長続きしない。



カースケとオメダは6畳古アパートで貧乏生活し、既婚のグズ六も入り浸る。
隣室の浪人生ワカメと3人は共同で「なんとかする会社」を立ち上げる。
どぶさらい、工事現場の手伝い、家事代行・・・縛られない生活を目指す。






<「俺たちの旅」が人気番組で、いまだにファンが多いのはなぜ?>

1.等身大の大学生の生活を描いたこと
2.吉祥寺・井の頭公園という舞台装置
3.中村雅俊のキャラクターとファッション
4.小椋佳の文学的な作風の曲(歌:中村雅俊)




<1.等身大の大学生の生活を描いたこと>

「俺たちの旅」は主演:中村雅俊ありきでスタートしたらしい。





日テレの岡田晋吉プロデューサーは、中村雅俊から学生時代の生活のエピソー
ドを聞いたことをきっかけに、「大学生の青春ものをやろう」と提案する。 

当時は青春ドラマといえば高校生(年齢的に無理のある俳優が演じていた)で、
友情と根性とスポーツと恋。テーマもストーリーも定型化してた。

岡田晋吉自身も「青春とはなんだ」など、高校生の青春ドラマを手がけてきた
プロデューサーである。
脚本の鎌田敏夫(1)は「大学生は純真さも無いし当たらない」と反対した。






主演の3人は最初、中村雅俊と村野武範、水谷豊を想定。出演を打診していた。
中村が主題歌を歌うと知ると水谷が辞退し、田中健に変更になる。

村野は「青春ものは卒業し大人の役者に向けて飛躍する時期」と辞退した。
秋野太作(当時は津坂まさあき)に決まったのは撮入のわずか3日前。
「台本読んでみたら面白いと思った」ので承諾したという。




高度成長期神話が崩壊し、就職氷河期とも言われた時代。
就職戦線の道は険しく、特に二流・三流大学で出身者は門前払いされる。(2)
社会人になる前にエリートとドロップアウトという格差が生まれていた。



↑既に高層ビルが聳え立つ新宿西口は「威圧感のある社会」を象徴していた。



シラケ世代と呼ばれた多くの大学生は、社会人になっても不条理な社会の慣習
や人間関係に縛られることに馴染めない。組織から脱落する者も多かった。

3人の落ちこぼれたちの友情物語はそんな背景を舞台としている。





 
<2.吉祥寺・井の頭公園という舞台装置>

吉祥寺(3)を主舞台に選んだのは脚本の鎌田敏夫だったらしい。
東京都下の学生に人気の吉祥寺は、このドラマの影響で全国区になった。

後にドラマ「愛していると言ってくれ」(1995年 脚本:北川悦吏子)でも、
主演の豊川悦司のアトリエは閑静な井の頭公園近くとして描かれている。



筆者は吉祥寺っ子だったので、サンロード、ダイヤ街、ハモニカ横丁、F&F
(伊勢丹新館)やコスモビル、奥に東急百貨店が見える元町通り、喫茶MOO、
など1975-1976年当時の吉祥寺が懐かしく、たまらなく愛おしい。



↑当時、Taka-Qの前でロケ中の中村雅俊を見ました。



井の頭公園は、噴水に面したベンチ、ステージ、弁天橋、七井橋から見える
メゾン井の頭(建設当時は景観を損ねると住民が大反対)、井の頭線の路線
橋下、井の頭公園駅に通じる小さな階段・・・・とにかく懐かしい。





グズ六は婚約者、紀子(上村香子)さん宅の離れに下宿している。(4)
カースケとオメダは近くの木賃アパート「たちばな荘」を借りて同居し出す。

階下は大衆食堂「お食事いろは」。貧乏なカースケたちはツケで食べている。
グズ六も頻繁にアパートに入り浸る。新婚の紀子さんも洋子も遊びに来る。(5)









<3.中村雅俊のキャラクターとファッション>

カースケ(中村雅俊)のジーンズで下駄履きというスタイルやアルバイトばかり
やっているという設定は、ほぼ大学生時代の中村そのままであった。(6)

中村雅俊によると撮影現場に行くと衣装は「そのままでいい」と言われ、私服
で撮影に入ったという。オメダ役の田中健も同様であった。(7)

ジーンズで下駄履き!(8)
早稲田ならともかく、中村の母校の慶應ではレアな存在?だったかもしれない。





番組前半で彼がよく履いているベルボトムは精巧なパッチワークが施されていて、
街のジーンズショップで作ってもらったレベルではない。
セットアップでデニムのパッチワーク・テーラードジャケットも一緒に着てるの
で、メーカー品またはブティックのオリジナルでそれなりに高価だったと思う。


また中村雅俊は米軍放出品を好んで着ている。背が高いのでよく似合っていた。
M-65フィールドジャケット、M51モッズパーカー(後に「踊る大捜査線」の青島
刑事のトレードマークになる)、ユーティリティシャツOG-107、トレンチコート
ジャングル・ファティーグジャケットなど。






<4.小椋佳による文学的な作風の曲>

ナレーションを廃し、若者たちの心理描写を音楽と歌によって表現しよう、
という新しい演出方法が採用された。
若者と音楽が切っても切れない関係にある世相を反映した結果らしい。

特に中村雅俊が歌ったオープニング曲「俺たちの旅」とエンディング曲「ただ
お前がいい」は、いずれも作詞・作曲が小椋佳。

吉祥寺の街、井の頭公園、自由に生きる3人とこの2曲は見事に一体化してた。






俺たちの旅 - 中村雅俊


 「夢の夕陽はコバルト色の空と海 交わってただ遠い果て
  輝いたという記憶だけで ほんの小さな一番星に
  追われて消えるものなのです」






ただお前がいい - 中村雅俊


 「わずらわしさに投げた小石の放物線の軌跡の上で 
  通り過ぎてきた青春のかけらが飛び跳ねて見えた」







小椋佳の曲はどこか知的で「文学的で内省的な世界観」が描かれる。
私生活の匂いぷんぷんの和製フォークと一線を画すと感じた人は多いはずだ。







2曲とも演奏はトランザム(10)が担当。
劇中のインストゥルメンタルもすべてトランザムによる演奏である。
チト河内のバンドでフォーク系のバックバンドをやることが多かった。



ユーミンのMISSLIMが発表されたのが1974年、COBALT HOURが1975年。
日本の音楽はフォークや伝統的歌謡曲から、より都会的で洋楽的なニューミュ
ージックやシティ・ポップへと急速に変化していく。

四畳半フォークで歌われたつつましやかな「私生活の断片」、孤独や陰鬱さ
を感じさせる私小説的情景は違和感がある。
それより「リッチでオシャレな都会的生活」を良しとする風潮が強くなった。





そんな過渡期にドラマ「俺たちの旅」が放送され中村雅俊が歌う2曲が流れた。
小椋佳の曲であったことは、オワコンのフォークとは一線を画し、「哲学的な
人生観を歌った知的な音楽」であることをアピールできた。

1975〜1976年でまだ金がなく、就職もうまく行かず、カッコ悪いけど楽しく
生きてる3人のテーマソングとして、一昔前のフォークじゃ湿っぽすぎて悲惨、
かといってシティポップは似合わない。
今思えば、小椋佳の曲は彼らへの賛歌としてちょうど良かったのかもしれない。







劇中で1度だけ、中村雅俊が弾き語りで「ふれあい」を歌うシーンがあった。
アルペジオでクリシェの部分もしっかりしてたし、合間にオブリも入れていて、
ギターの腕前はなかなか上手い。

長年このドラマでヒットした曲かと思っていたが、そうではなかった。
前年に「われら青春!」の主役を務めた際、番組挿入歌の「ふれあい」を中村
本人が歌い100万枚を超える大ヒットを記録したらしい。
(作詞:山川啓介、作曲:いずみたく)








<「俺たちの旅」で制作側が言いたかったこと>

「俺たちの旅」には落ちこぼれ大学生のユートピアみたいな世界観がある。
友情と青春群像を活写し、生きることの意味、悩み、喜びについて問いかける。



↑太宰治も愛した中央線の三鷹跨線橋。3人が話し合う際に使われた。
(2年前に老朽化のため撤去されたそうだ)




番組の最後に毎回、相田みつをの詩書っぽい格言?が入るので驚いた。
「男は・・・」「青春とは・・・」とか。完全に男目線の昭和の男のロマン。
今見ると違和感ありありだ。若い人はどう感じるんだろう?







中村雅俊は最初に台本を見せてもらった時に「ドラマがない。どういう話なんで
すか」と岡田プロデューサーに伝えたという。
大学生の話ではっきりしたストーリーもなく、会話と音楽で進行するためだ。

そこで脚本家の鎌田敏夫が、各エピソードの最後に締めの言葉を入れるという
演出を加えることにしたらしい。




<その後の「俺たちの旅」>

本放送開始(1975年)の10年後(1985年)、20年後(1995年)、約30年後
(2003年)に、主人公3人や周囲の人々のその後を描いた続編がそれぞれ単発
の特番として放映された。(3作とも鎌田敏夫脚本・斎藤光正監督のコンビ)

『俺たちの旅 十年目の再会」(1985年9月)
「俺たちの旅 二十年目の選択」(1995年9月)
「俺たちの旅 30年SP 三十年目の運命」(2003年12月)






“俺旅”を一気に予習&復習!


当然のことながら年々みんな歳をとっていくわけで。
こういう展開はどうなんだろうという部分もあったけど、三十年目まで見て
よかったという気がした。



1985年はまだ駅や電車や井の頭公園や街並みも昔の面影を残している。
ただし1985年以降は吉祥寺の街並みが使われなくなった。
たぶん許可が降りなかったのだろう。武蔵野市は住民パワーが強い。

というか、1975年頃は許可なしで勝手に撮っちゃえ〜のノリだったのだ。(11)
冒頭のサンロードでの肩車も、歌舞伎町コマ劇場前の噴水池乱入もそうだ。



↑吉祥寺サンロードの一番奥(比較的、人通りが少ない)で撮影された。



「四十年目」はシリーズ通して監督を務めた斎藤光正(12)の他界で実現せず。
先月「五十年目の俺たちの旅」と題して中村雅俊監督作として映画化された。
BS日テレで過去のシリーズが再放送されたのは、映画のPRでもあったようだ。




 
3人も70代。当時「俺たちの旅」を見ていた人たちも70歳前後だろう。
50年の歳月が流れたのだ。
今も根強い人気でロケ地巡礼とかイベントが行われているというから驚きだ。
「伝説のドラマ」「人生が変わった」という人もいるそうだ。


  

↑撮影に使われた世田谷区岡本3丁目の富士見坂。石壁が変わった。


<脚注>