2016年11月26日土曜日

歌姫メリー・ホプキンのシンデレラ・ストーリー(2)

「Those  Were The Day(邦題:悲しき天使)」の記録的なヒットでメリー・ホプ
キンの歌手としての将来性を確信したポール・マッカートニーは、すぐに彼女の1枚
目のアルバム制作に取りかかった。

メリーの1st.アルバム「Post Card」は英国で1969年2月21日に発売。
ジャケット写真はこの後ポールと結婚が決まっていたリンダ・マッカートニー。
裏ジャケットには絵葉書を模して、ポール&リンダからのメッセージとして収録曲が
手書きで書き込まれていた。





選曲はポール好みのスタンダード・ナンバーからメリーが得意とするフォーク・ソン
グまでバラエティに富んだ、良くも悪くもバラけ感があり楽しめる内容になっている。
曲目の右側の◎△×は僕の好みによる独断的な評価。


Side A 
1. Lord of the Reedy River (悲しみのリーディー・リヴァー) 
2. Happiness Runs (幸福はかけめぐる ) 
3. Love Is the Sweetest Thing ( (恋はとっても甘いもの) ×
4. Y Blodyn Gwyn (ブロイディン・グウィン) 
5. The Honeymoon Song (ハネムーン・ソング) 
6. The Puppy Song  (パピー・ソング) 
7. Inch Worm (シャクトリ虫の唄)  

Side B 
8. Voyage of the Moon  (恋は月をめざして) 
9. Lullaby of the Leaves  (木の葉の子守歌) 
10. Young Love (ヤング・ラヴ) 
11. Someone to Watch Over Me (サムワン・トゥ・ウォッチ・オーヴァー・ミー)×
12. Prince En Avignon (アヴィニオンの王子様) 
13. The Game (ザ・ゲーム) 
14. There's No Business Like Show Business  (ショーほどすてきな商売はない) ×






「Lord of the Reedy River」「Happiness Runs」「Voyage of the Moon」の3曲
はポールがドノヴァンに頼みこのアルバムのために書き下ろしてもらった新曲。

ドノヴァンは「Yellow Submarine」の曲作りに関与したり「A Day In The Life」
のレコーディンング中に遊びに来たり、ビートルズとは親しくしていた。

1968年2月にはビートルズと共にインドのリシケシに赴き、マハリシの下で超越
瞑想を体験し、ジョンとポールにフィンガーピッキングを伝授している。
このおかげでジョンとポールの作風が広がった。
「Julia」の作曲にもドノヴァンは関わり、ドノヴァンの「Hurdy Gurdy Man」
はジョージと一緒に作ったという。


Lord of the Reedy River」はインド滞在中に作った曲で、テンション・コード
を多用したドノヴァンらしい不思議な響きのある美しい幻想的な作品になっている。

初期のヴァージョンは「The Swan(in the Reedy River)」という仮タイトルだった。
レコーディングにもドノヴァンが参加
アコースティック・ギターを弾き、後半メリーに寄り添うように歌っている。

この曲は1969年4月公開の映画「火曜日ならベルギーよ」(1)にドノヴァン本人が
出演し、弾き語りで歌っている。
後に彼の9枚目のアルバム「H.M.S. Donovan」(1971年)にも収録された。



↑クリックするとドノヴァンの「Lord of the Reedy River」が視聴できます。


Happiness Runs」も自然と人間へのやさしい眼差しが感じられる魅力的な曲。
「Happiness runs in a circular motion(幸せは輪を描いて駆け巡る)」というリフ
レインはインド思想の影響を思わせるが、ビートルズとのインド滞在より前の曲。
ドノヴァンはインドに行く前からマハリシに会っていたようだ。

この曲は「Pebble And The Man」というタイトルで1967年11月にカリフォルニア
州アナハイムで行われたドノヴァンのコンサートで既に演奏されている。(2)
ドノヴァンの7枚目のスタジオ・アルバム「Barabajagal」(1969年8月)にも「
Happiness Runs」として収録された。

が、この時点(1969年初頭)ではメリーのための新曲として提供されている。
この曲でもドノヴァンがアコースティック・ギターで参加
後半はブラスや子供のコーラスが加わるにぎやかなアレンジに仕上げられ、ハッピ
ー♪な曲に聴こえるが、オリジナルのシンプルな良さが損なわれた。

Voyage of the Moon」は絵本のようなやさしいメルヘンチックな曲だ。
ドノヴァンがアコースティック・ギターでアルペジオを弾いている。
それにからむアコースティック・ギターのオブリガードはポールである。
これだけでも聴く価値あり!
メリーはドノヴァンとポールの伴奏で歌っているわけだ。なんと贅沢な!

この曲もドノヴァンが「H.M.S. Donovan」(1971年)でカヴァーした。



↑クリックするとメリー・ホプキンの「Voyage of the Moon」が聴けます。


ドノヴァンはロンドンのポストオフィス・タワー(現テレコム・タワー)で開催さ
れた「Post Card」発売記念パーティーで歌った(どの曲かは不明)そうだ。

メリーはドノヴァンから提供された3曲をとても気に入っていたという。
裏返せば、それ以外の曲はあまり自分の趣味ではないということかもしれない。



ポールはハリー・ニルソン(3)にもこのアルバムのための楽曲提供を頼んでいた。
The Puppy Song」は愛犬家でなくても口ずさみたくなる、どこか懐かしい
ボードビル調のかわいらしい曲。メリーの声質にもよく合っている

If only I could have a puppy I'd call myself so very lucky
もし子犬が飼えたら、わたし、すごくラッキーだわ
Just to have some company to share a cup of tea with me
お茶してくれる仲間ができるんだもの
I'd take my puppy everywhere La la la la I wouldn't care
わたしと子犬はどこに行くにもいっしょ、ラララ♪  それでいいの


ポールはこの曲ではウクレレを弾いている。
メリーもお気に入りらしくテレビ出演やコンサートでしばしば歌っている。
ニルソン本人も自身のアルバム「Harry(ハリー・ニルソンの肖像)」(1971年)
でカヴァーした。



↑クリックするとメリー・ホプキンの「The Puppy Song」が視聴できます。


Love Is the Sweetest Thing」はレイ・ノーブルの代表曲で1932年にヒット。
ビング・クロスビーもカヴァーしている。
ポールの趣味だが、メリー向きではないように思える。

The Honeymoon Song」はギリシャの作曲家ミキス・テオドラキスの曲。
映画「Honeymoon(1959)」でマリノ・マリーニ・クァルテットが歌いヒット。
ビートルズ初期のポールの持ち歌の一つで、BBCライヴでも披露している。


Inchworm」はブロードウェイのヒット作曲家フランク・レッサーの作品。
童話作家アンデルセンを描いた映画「Hans Christian Anderson」(1953)でダニ
ー・ケイが歌った。

Young Love」はロカビリー歌手リック・カーティの1956年のヒット曲。
よりロック調のアレンジが施されメリーはダブル・トラッキングで歌っている。


Someone To Watch Over Me」はジョージ&アイラのガーシュウイン兄弟が
1926年のミュージカル「Oh,Kay(邦題:万事円満)」のために書いた曲。
ミュージカルの中で女優のガートルード・ローレンスが歌い大ヒット。

フランク・シナトラ、エラ・フィッツジェラルド、サラ・ヴォーンなど大御所も
カヴァーしたスタンダード中のスタンダード。
歌唱力と表現力が求めれれる曲で新人のメリーにはちょっと重すぎた感がある。


Lullaby of the Leaves」はテイン・パン・アレイの女王と呼ばれたバーニス
・ペトキアが1932年発表した曲。
フレディ・パーレーシズ楽団が演奏したのを初め、チェット・ベイカー、 エラ・
ィッツジェラルドがカヴァー。
1961年にベンチャーズがサーフロックにリアレンジして再度ヒットさせた。

メリーの歌はバラード調であるが歌いこなしているとは言い難い
アレンジも中途半端な印象。


There's No Business Like Show Business」は1950年に大ヒットしたミュー
ジカル映画「アニーよ銃を取れ」の中で主演女優ベティ・ハットンが歌った曲。
好評だったため、この曲をテーマにしたエセル・マーマン主演のミュージカル映
画(マリリン・モンローも出演)も1954年に作られた。

この曲もメリーには大袈裟すぎるように思える。



↑メリー・ホプキンの「There's No Business Like Show Business」が聴けます。


Un prince en Avignon1960年代にヨーロッパ各国で人気を博したイスラエ
ルの美声歌手&女優エスター・オファリムのヒット曲。
フランス語で歌われるこの曲はメリーの澄んだ声質にもよく合う
こんな名曲を引っ張ってくるなんてポールはかなりマニアックだなあ。



↑エスター・オファリムの「Un prince en Avignon」が視聴できます。


The Game」はポールがこのアルバムのためにジョージ・マーティンに依頼した
曲で、珍しく歌詞もマーティンが手がけレコーディングにもピアノで参加している。
マーティンならではの起伏のある美しいメロディーと凝った展開が聴ける。


Y Blodyn Gwyn」は作者のプロファイルが不明だが、ウェールズ地方のトラディ
ショナル ・フォークソングではないかと思う。
メリーはウェールズのインディペンデント・レコードでもこの曲を録音している。
ちなみに英訳すると「The White Flower」だそうだ。

メリーの父親、ハウエル・ホプキンがウェールズ地方の人口1万人の町ボンタードウ
の町会議員がしており、契約時にアルバムに1曲ウェールズ語の曲を入れることを条
件づけしたため収録された。



アルバムには大ヒットした「Those Were The Days(悲しき天使)」およびその
B面「Turn! Turn! Turn!」は収録されなかった。
シングル曲はアルバムには入れないというビートルズ方式を踏襲したと思われる。





アメリカでは3月3日に発売されたが、B-4の「Someone To Watch Over Me」を
外して代わりに「Those Were The Days」が収録された。


日本では遅れて5月10日に「メリー・ホプキン・ファースト」という邦題で発売。
アルバム「Post Card」は英米では2nd.シングルの「Goodbye」リリース(1969
年3月28日世界同時発売)の直前に発売されたが、日本では「Goodbye」の約一ヶ
月後と発売と順序が逆になってしまった。

日本盤でもB-4の「Someone To Watch Over Me」が外されたが、単純に差し替え
ではなく「Those Were The Days(悲しき天使)」がA面1曲目に配された。
美しいがやや地味な「Lord of the Reedy River」よりは大ヒット曲から始まる方
が聴きやすいという判断だったのだろう。(4)



メリーはこのアルバムの制作過程で既にポールが敷いた(強いた?)「世界的な
ポップス歌手」路線に違和感を抱きはじめていたのではないかと思う。


次回は「ケ・セラ・セラ」で反旗を翻したメリー・ホプキンついて書きます。

<脚注>

2016年11月17日木曜日

歌姫メリー・ホプキンのシンデレラ・ストーリー(1)

ティム・オブライエンの短編「ゴースト・ソルジャーズ」(1)にこんな一節がある。

「僕らは僕の兵舎に戻って、ぼんやりとした明かりの中でブーツを脱いで、テープ・
デッキでメリー・ホプキンの歌を聴いていた。(中略)
戦争が終わったら僕はロンドンに行ってメリー・ホプキンに結婚を申し込もう。
ヴェトナムにいるとそうなってしまうのだ。センチメンタルになって、メリー・ホ
キンみたいな女の子と結婚したいと思うようになるのだ。」

きっとそうなのだろう。
彼らは兵舎にプレイメイトやナンシー・シナトラのピンナップを貼りながら、メリ
・ホプキンの清楚な声に感傷的になるのだ。




メリー・ホプキンは英国ウェールズ出身。
ジョーン・バエズ(2)やジュディ・コリンズ(3)に憧れながら、地元のクラブを拠点
母国語のウェールズ語でフォークソング歌っていた。
地元のインディーズ・レーベルからウェールズ語でレコーディングしている。

メリーに転機が訪れたのは1968年5月5日。2日前に18歳になったばかりだった。
ABCテレビの「Opportunity Knocks」というオーディション番組に出演していた
のだが、この日の放送はまさに幸運の女神(Opportunity Knocks)となった。

番組を観ていたモデルのツイッギーがポール・マッカートニーに連絡した。
ポールは立ち上げたばかりのアップル・レコードの新人歌手を探していたのだ。(4)
ポールは自ら電話をしメリーと母親に会い契約をした。


↑クリックすると「Opportunity Knocks」出演時のメリー・ホプキンが見れます。
ツイッギーが観た5月5日ではなくデビュー直前の7月の放送。
「ギターはジョージ・ハリソンにもらった、もうすぐレコードが発売されるので楽し
みだ」と話している。



メリーのデビュー用にポールが選んだのは「Those  Were The Days」という曲だ。

原曲は1910-1920年頃に作られたロシアの歌曲「 Дорогой длинною ダローガイ・
ドリーンナィユ(長い道)」で、欧米在住の亡命ロシア人の間で親しまれていた。
1962年に英国で活動していたアメリカの歌手、ジーン・ラスキンが英語版を編曲し、
自分の持ち歌として歌っていた。


ポールはロンドンのブルー・ランプというパブで、たまたま出演していたジーン・ラ
スキン夫妻が歌っているのを聴き、この曲にいたく心惹かれた。1965年頃のことだ。

ジーン・ラスキン版「Those  Were The Days」は1962年にアメリカのグループ、
ライムライターズがレコーディングしていたが、英国ではほとんど知られていない。
ポールは機会があればこの曲を誰かに歌わせたいと心に温めていたのだ。



↑クリックするとライムライターズの「Those  Were The Days」が聴けます。


哀愁漂うメロディーはロシア歌謡ならではだが、東欧のジプシー音楽、東欧ユダヤ人
の音楽クレズマーにも通ずるものがある。
「この曲は人の心の琴線を震わせる、絶対に当たる」という目のつけどころ。
そしてメリーに歌わせるところがポールの天性の勘、センスの良さである。

さらにポールのプロデュース力、アレンジ力がすごい。
イントロにバラライカをもってきたり、隠し味にクラリネットやチューバを使ったり、
子供のコーラス隊を入れたりと、曲の持つ哀愁を最大限まで引き出す見事な(やや大
げさすぎる)オケに仕上がっている。

冒頭に紹介した「ゴースト・ソルジャーズ」の主人公が感傷的になったメリー・ホプ
キンの曲も「Those  Were The Days」だったのだろう。


「Those  Were The Days」は古い友だちと酒場で過ごした日々に想いを馳せ、
あの頃はよかったと懐かしんでいる歌である。
邦題は「悲しき天使」であるが、歌詞に天使なんて出てこない。

昔は何でもかんでも「哀しみの」「悲しき」「愛の」「恋の」「哀愁の」「涙の」
を曲のタイトルにつけるのがレコード会社の安易な常套手段だったのだ。
メリーの清楚な歌声が天使のようだから「天使」にした。そんなところだろう。

まあ、「あの頃はよかった」や「古き良き友よ」じゃイメージが合わないし(笑)
そもそも18歳の女の子が酒場での思い出を歌うのってどうなんだろう。



↑ミュージック・ライフに掲載された広告。
クリックするとメリーが歌う「Those  Were The Days」が聴けます。



「Those  Were The Days」は1968年8月30日に英国で発売されるや全英チャート
を駆け上がり、ビートルズの「Hey Jude」を蹴落とし6週間No.1に輝いた。
アメリカではビルボード誌で最高位の第2位を獲得。

日本では1968年12月5日に発売され、2ヶ月後にピンキーとキラーズ「恋の季節」
を抜いてオリコン・シングルチャートの1位を記録している。
世界各国でも記録的な大ヒットとなった。


「世界で通用するポップス歌手に」というポールの意向から、この曲はイタリア語
、スペイン語、フランス語、ドイツ語、ヘブライ語でもレコーディングされている。

さらに各国で色々な歌手によってカヴァーされた。
イタリアのジリオラ・チンクエッティ、ギリシアのヴィッキー、フランスのダリダ、
イギリスのサンディー・ショウ、日本では森山良子など。

ポール・モーリア、マントヴァーニ・オーケストラ、チェット・アトキンスなどイ
ンストゥルメンタル曲(いわゆるロビー・ミュージック、日本ではムード音楽)と
しても広くカヴァーされ、スタンダード・ナンバーになった。



さて、僕自身はどうかというと。。。
メリー・ホプキンは好きだけど、彼女の歌う「Those  Were The Days」は何度で
も聴きたくなる曲ではない。
耳タコの感があるし、曲もアレンジもいささか大げさすぎるのだ。

B面の「ターン・ターン・ターン(Turn! Turn! Turn!))」の方が好みである。
アメリカのフォーク・シンガー、ピート・シーガー(5)の代表作の一つで、1965年
バーズがフォークロックにアレンジしたヴァージョンがヒットした。


ジョーン・バエズの持ち歌でもあり、メリーの歌唱もそれに習ったものだ。
メリーは地元のインディーズ・レコードでもこの曲をウェールズ語で録音している。
彼女が得意としていた曲なので、ポールもB面曲に選んだのだろう。

前述の「Opportunity Knocks」出演時もこの曲を歌っている。
アップル・レコードでデビュー前に撮られたプロモーション・フィルムでもこの曲
が歌われた。



https://youtu.be/fjEu5vlRfiY
↑クリックすると「Turn! Turn! Turn!」のプロモーション・フィルムが見れます。
まだ歯の矯正をしていないメリーに注目!


個人的にはそれほど好きな曲ではないと書いたが、あのバラライカのイントロを聴く
とやはりあの頃を懐かしく思う。
1968年の冬に一気にタイムスリップするのだ。


次回もメリー・ホプキン。
1st.アルバム「Post Card」〜2nd.シングル「Goodbye」について書く予定です。


<脚注>

2016年11月6日日曜日

沢田研二@夜のヒットスタジオの謎。

<「夜のヒットスタジオ」がヒット番組になった理由>

我々の世代にとって「夜のヒットスタジオ」は忘れられない音楽番組だ。
1968年11月から1990年10月まで22年間も放送された長寿番組である。

河田町にあったフジテレビ旧本社ビル1階奥の一番大きい第6スタジオ(1)から当時
としては珍しく生放送され、数々の出演者のレベルの高いパフォーマンス(生なら
ではのハプニングも含め)を毎週見せてくれた。



「夜ヒット」は歌をフルコーラスで聴かせる方針を採り、凝ったカメラワークと大
量のスモークや照明など多彩な演出で、歌手と曲の魅力を最大限に引き立てる音楽
本位の番組作りを一貫して行い独自の地位を確立した。

芳村真理、前田武彦(後に井上順)ら司会と歌手の和やかなやり取り、出演者が他
の歌手の持ち歌のワンフレーズを歌いマイクを手渡すバトンリレー形式のオープニ
ングも楽しみだった。





しかし最初からヒット番組だったわけではない。


もともと編成の都合上、穴の開いた月曜夜22時という枠の穴埋め的なつなぎとして
スタートした番組であり、あまり期待されていなかった。
当時カラー放送化が進んでいたにもかかわらず、時代遅れのモノクロ放送で東京、
大阪、名古屋、福岡わずか4局ネットでの寂しいスタートだった。


当時の22時台は深夜に近い、現在の23~24時台のような扱いだったのだ。
スタート時は視聴率10%前後で、提供スポンサーもいわゆるナショナルクライアント
は少なく(2)、椅子のホートクや「見え過ぎちゃって困るの~♪」のマスプロアンテナ
が入っていたと(おぼろげながら)記憶している。



1969年1月の生放送中「コンピューター恋人選び」のコーナーで中村晃子が「理想の
恋人」に前田武彦(交際していた)が選ばれ号泣してしまう、という事件が起きた。

2月には恋人だったレーサー、福沢幸雄を事故で亡くしたばかりの小川知子が彼の肉
テープを手渡され、泣きながら「初恋のひと」を歌い中村晃子といしだあゆみがサ
ポートする、というというハプニングが発生。

さらに今度はいしだあゆみが「理想の恋人」に森進一(交際していた)が選ばれ、感
まって「ブルーライトヨコハマ」を涙で歌えなくなり、小川知子が付き添い、出演
中だった森進一が涙を拭うシーンが全国に流れた。





泣きの夜ヒット」は評判になり1969年3月17日の放送は最高視聴率42.2%を記録。
当時は視聴率が低迷していたフジテレビにおいて貴重なドル箱となった。
番組の継続が決定し、1969年4月7日放送よりカラー放送に移行し。
オーケストラも豊岡豊とスイングフェイスダンから池田とニューブリードに交替した。

1970年代には歌謡曲のみならず、台頭してきたフォーク、ニューミュージック系アー
ティストを出演させ、1980年代には海外のア−ティスト(3)も登場するようになった。




<沢田研二@夜ヒット DVD化されなかった幻の映像>

山口百恵、中森明菜、ピンクレディー、沢田研二の「夜ヒット」出演時の映像がDVD
6枚組ボックスセット(4)として発売されている。

それぞれファンの方達にとっては貴重な作品だと思うが、今回取り上げたいのは「
研二 in 夜のヒットスタジオ」である。もちろん発売前に予約して買った。



1975年5月5日「白い部屋」から1990年2月21日「DOWN」までの全102回におよ
ぶ沢田研二出演時のパフォーマンスを収めた(5)うれしい作品だ。
恒例のオープニング・メドレーでの歌唱シーン、司会とのやり取りも見られる。

スタジオに敷き詰めた畳の上で熱唱した伝説の「サムライ」、曲の構成を間違えてし
った「OH !ギャル」、山口小夜子との共演「ヴォラーレ」と見どころは多い。
大好きな「きわどい季節」「指」「絹の部屋」「TRUE BLUE」も収録された。
井上尭之バンドからオールウェイズ(後のEXOTICS)、CO-CoLO、JAZZ MASTER
とバンドが変わるごとに、音の傾向が変わって行くのが面白い。



↑クリックすると「沢田研二 in 夜のヒットスタジオ」のティーザーが見れます。



めでたし!めでたし!と言いたいところだが、手放しで喜べない部分もある。
個人的には1973年〜1977年頃の沢田研二が一番カッコよかったと思うわけで、その
1973〜1974年出演時の映像が収録されてないのが残念だ。


「危険なふたり」はどうした?「胸いっぱいの悲しみ」は?「魅せられた夜」は?
「恋は邪魔もの」「追憶」「愛の逃亡者 THE FUGITIVE」がないじゃないか。
ロンドンブーツを履いたジュリーが見たかったのに。。。。
(DISC-2の「危険なふたり」は1977年出演時のもの)


いや、それ以前の出演もだ。
沢田研二の「夜ヒット」出演回数は実に153回に及び、出演歌手中7位を記録している。






初登場は1969年10月20日。(6)
タイガースとしての出演で「スマイル・フォー・ミー」を歌った。
同年12月15、翌1970年1月12日には「ラヴ・ラヴ・ラヴ」を披露している。

3月2日には沢田研二単独で出演し「君を許す」を歌う。
4月6日と5月18日は再びタイガースで「都会」を、9月21日と10月26日は「素晴しい
行」を、12月21日はタイガースとして最後の出演となり「誓いの明日」を披露。



1971年2月8日には沢田研二と萩原健一の夢の共演が実現。
ディープ・パープルの「ブラック・ナイト」(7)をPYGのメンバーで演奏した。
5月31日にPYGとして正式に初出演。7月5日出演時は「自由に歩いて愛して」を演奏。
9月13日PYGとして最後の出演。(8)
11月8日ソロ歌手としてのデビュー曲「君をのせて」を歌う。


などなど「喉の奥から手が出るほど?見たい映像」がいっぱいあるはずなのだ。
その貴重なシーンが日を目を見ることがなかったのはなぜなのか?





理由は「フジテレビに完全な映像が残っていないから」である。
ほぼ完全な形で局に現存しているのは1976年7月5日放送分以降と言われている。
1974年以前の放送で現存が確認されているのは8回分(9)のみで内2本はモノクロだ。

1974年頃まではカラー放送用のビデオテープは高価であったため、使用が終わると
消去して再利用するのが常であった。
また番組をコンテンツとして二次利用するという発想もまだなかった。
しかも「夜ヒット」は生放送番組。あえて同録をとる必要もなかったはずだ。


フジテレビに保存されていないものの、前田武彦は「夜ヒット」を初期のオープンリ
ールの家庭用VTR(10)で録画したビデオテープを個人的に所有(11)していたらしい。
この貴重なテープは前田が司会を解任された(12)時に全て廃棄してしまったという。




<沢田研二@夜ヒット 番組で歌われなかったあの曲>

「夜ヒット」では歌われなかった曲もある。



「サムライ」のB面だった「あなたに今夜はワインをふりかけ」(1978)はキッコーマ
ン・マンズワインのCMソングだった。
本人が出演してるCMなので、あえて歌わなかったのか?という推測もできるが。。。
(もしかしたら提供スポンサーに酒造メーカーが入っていた?)

「『ワイン」は名曲だけど『サムライ』と比べるとやはりB面曲」という旨の発言を
沢田研二はしてるので、一押しの「サムライ」を歌いたいという意向があったようだ。
(「夜ヒット」では「サムライ」を5回歌っている)
でも別な歌番組で「あなたに今夜は」を歌っていたような記憶があるんだけどなあ。






ヤマトより愛をこめて」(1978)は映画「さらば宇宙戦艦ヤマト」のエンディングテ
ーマ曲で、映画公開前は沢田研二が歌っていることが隠されていた。
また沢田本人も「新曲宣伝の要素が大きい『夜ヒット』では歌わない。ヤマトの力を
借りずにヒットさせたい。『ザ・ベストテン』でランクインしたら歌いますよ」と当
時言っていた。


渚のラブレター」はマックスファクター1981夏のキャンペーンソングだった。
競合である資生堂が提供する「夜ヒット」では歌うことが許されず、替わりにB面の
「バイバイジェラシー」が歌われた。


ザ・タイガース再結成の「色つきの女でいてくれよ」(1982)はコーセー化粧品のCM
ソングで、これまた資生堂への配慮から「夜ヒット」では歌われなかった。


日産ブルーバードのCMソングに使用された「I am I」(1980)「素敵な気分になって
れ」(1981)「スーパー・ジェネレーション」(1982 作曲:八神純子)も、ダイハツ
が提供スポンサーの「夜ヒット」で歌われるはずがない。
もっとも「I am I」は「TOKIO」のB面。他2曲はアルバムにも収録されていない。





1974年以前の出演が見られないという残念な点はあるものの、沢田研二@夜ヒットの
DVD化はファンにとっては家宝だ。
TBS「セブンスターショー」やNHK「ビッグショー」出演時の映像のDVD化、比叡山
フリーコンサートのDVD化(CD化も!)ぜひ実現してもらいたいものだ。


<脚注>