2025年4月21日月曜日

「やさしく歌って」を聴くとコーヒーが飲みたくなる。




 <ネスカフェのCMと「やさしく歌って」>

ロバータ・フラックの Killing Me Softly With His Song(やさしく歌って)・・・
ああ、ネスカフェのCMソング。日曜洋画劇場でよく流れてたっけ。

50代以上の方はこう記憶している人が多い。


実はCMで歌ってるのはロバータ・フラックではない
マデリン・ベルという英国の黒人女性シンガーだ。


☕️ネスカフェCM ネスカフェは世界のことば篇 60秒 1973年(1)
曲:Killing Me Softly With His Song 唄:マデリン・ベル 






改めて聴くと、ロバータ・フラックとは声質も歌い方も違う。
演奏はエレピを中心としたバンド編成で、イントロもロバータ・フラックのヴァー
ジョンとは異なる。

歌詞もCM用に書き換えられている
こう歌ってるんじゃないかと思う、たぶん(間違ってたらごめんなさい)

The night is way to morning to start the brand new day,
All round the world you find the word that you want to say
I need some quiet morning wherever you may be

You find that you say the same things, find that you feel the same way
Find that it's same the world over, Nescafe, Nescafe, the world over,
You say Nescafe, Nescafe



<ネッスル日本の広告キャンペーン>

ネッスル(現:ネスレ)は「One World of Nescafe」をスローガンに掲げ、
世界共通の広告キャンペーンを展開していた。






日本では1966年に国内生産を開始したのを機に、世界共通ブランドであることを
アピールするために和訳した「世界中どこでも、ネスカフェ」を使い始める。


広告代理店はマッキャン・エリクソン(2)であった。
当時ワールドワイドでマッキャン・エリクソンがネッスルのアカウントを持って
いて、日本でもマッキャンが担当することになったのだろう。


マッキャン・エリクソンのクライアントの多くは、高度成長期に日本に進出し、
大きく成長した欧米ブランドである。
コカ・コーラ、ケンタッキー・フライドチキン、アメリカ.ンエキスプレス、ロレ
アル、デルモンテ、ナビスコなど。





こうした外資系企業は広告、特にTVCMの影響力を理解していた。
日本の市場でシェアを取るために巨額の広告費を投じていた。


ネッスル日本はコカ・コーラと双璧をなすマッキャンの重点クライアントだった。
おそらく当時の2大国内自動車、ビール・ウイスキーに次ぐくらいの広告費だった
のではないかと推測する。

当然、TV・ラジオ局、新聞社、雑誌社にとってはありがたいクライアントだ。
ネッスル日本はテレビ創成期の頃から数多くの提供番組を抱え、ピークの時には
1週間で10番組提供していたこともあった。(3)
番組提供の他にスポットCMも出稿していたので、相当なCM露出量である。



 

<日曜洋画劇場とネスカフェのCM>

その中でも日曜洋画劇場は、ネッスル日本提供のイメージが強い番組だ。
テレビ朝日(旧:NETテレビ)系列で1966年から放送されていた初の洋画番組。

お茶の間でアラン・ドロンやチャールズ・ブロンソンやオードリー・ヘップバーン
が見られるのだから、当時としては画期的であった。
映画評論家の淀川長治の解説とサヨナラ、サヨナラが番組の顔になった。





ネッスル日本は1966年の番組開始から提供。
主要スポンサーには、企業イメージと洋画との親和性で、サントリー、松下電器、
ネッスル日本、レナウンが選ばれる。
4社によるスポンサー体制は長く続いた。

余談だが、当時マッキャンでネッスル日本の日曜洋画劇場提供に携わったという
方に話を伺ったことがある。
日曜の夜、家族と番組で流れるネスカフェのCMを見て感無量だったそうだ。
かなり大変な思いされて、提供を獲得したのだろう。

ネスカフェのCMは世界の街と人々が映され英語の歌が流れる
洋画劇場のイメージに合っていた





だから「日曜劇場でネスカフェのCM」を見た記憶に刷り込まれている。
でも「ロバータ・フラックが歌ってた」は勘違い、思い込みだ。


このCMがマッキャン・エリクソンがワールドワイドで流すCMとして制作された
素材を編集して日本向けにローカライズしたものなのか?
それとも日本独自で制作したものなのか?

それは分からない。知ってる方がいたら教えてください。
もし後者だとしたら、かなりお金をかけてロケをした贅沢なCMである。


世界の(ほとんどが欧州)人々の一日を紹介し「ゆたかな時間、くつろぎの
ひと時にネスカフェがある」とナレーションが入る。

裕福な家族やアッパーミドルクラスの人たちがコーヒーを味わい、テーブルの
真ん中にインスタントコーヒーがデンと置いてあるのが不自然な気はするが・・・








<「世界中どこでも、ネスカフェ」シリーズ>

1977年に再びマデリン・ベルの歌で同じ曲を使用。
新録音でストリングスを入れた新しいアレンジになっいる。

☕️ネスカフェCM 夏はアイスで篇  30秒 1977年 
曲:Killing Me Softly With His Song 唄:マデリン・ベル






翌1978年は曲が「The Way We Were(追憶)」に変更になる。
バーブラ・ストライサンドが主役を演じた映画「追憶」の主題歌で、彼女
自身の歌が1974年ビルボード誌で3週間1位というヒットとなった。
歌詞はCM用に変更され、マデリン・ベルが歌っている。

☕️ネスカフェCM いい朝いい一日篇 60秒 1978年
曲:The Way We Were(追憶) 唄:マデリン・ベル

※ハッピー感を出すためか、エンディングがメジャー・キーになっている。



1979年は曲はそのままで歌はクレア・トーリーに変わった。
この人は英国の白人歌手で、ピンクフロイドの「The Great Gig In The Sky」
でのスキャット(後半はシャウト)が有名。

☕️ネスカフェCM ゆたかな味わい/しいくつろぎ/夏はアイス篇 60秒 1979年
曲:The Way We Were(追憶) 唄:クレア・トーリー






1980年からはCM曲が「One World of Nescafe」になる。
ロジャー・ニコルズ&ザ・スモール・サークル・オブ・フレンズという長ーい名前
のコーラスグループの「The One World Of You And Me」が元ネタ。

これまではCM用に歌詞を書き換えていたが、この曲はそのまま生かし、最後の
「The one world of you and me」だけ「The one world of Nescafe」になる。
CMごとに複数の女性歌手に歌わせている。


☕️ネスカフェCM  スイスの首都ベルンの朝篇 30秒 1980年
曲:One World of Nescafe 唄:キャロル・チェイス






☕️ネスカフェCM  スイス・アイガーの冬篇 30秒 1982年
曲:One World of Nescafe 唄:不明

☕️ネスカフェCM  パリの夏篇/シャンゼリゼ篇 60秒 1982年
曲:One World of Nescafe  唄:ジャニス・イアン

☕️ネスカフェCM  パリの朝篇 1982年
曲:One World of Nescafe  唄:ステファニー・デ・サイクス







1985-1987年、ネスカフェはネスカフェ・エクセラへ改称される。
コピーは「このひと時、ゆたかな味わい」になる。

曲も「Do You Know Where You're Going To(マホガニーのテーマ)」へ。
映画「マホガニー物語」で主役を務めたダイアナ・ロスが歌いヒットした曲。
CM用に歌詞を変更されている。




☕️ネスカフェ・エクセラCM  1985-1987年
曲のアレンジや歌手はCMごとに変えている。男女のデュエットも登場。
オランダの運河飛び篇/ヨット・夏はアイス篇/絵画教室篇/パン屋篇/アムステル
ダム篇/ナツ・シズル篇/オランダ・バイク旅篇/手紙篇/仕事篇/パン屋閉店篇
曲:Do You Know Where You're Going To 唄:不明



<ダバダ〜♫のネスカフェ・ゴールドブレンド>





尚、多くの人が憶えていると思うが、ダバダ〜♫はフリーズドライ製法で作られた
ネスカフェ・ゴールドブレンドのCMソング「めざめ」である。(1970年から継続)

☕️曲:めざめ 唄:伊集加代子(日本のスキャットの第一人者)






作家の遠藤周作、歌舞伎役者の中村吉右衛門、ファッションデザイナーの山本寛斎
、作家の阿川弘之など文化人が出演し、ゴールドブレンドを堪能するというCM。
キャッチコピーは「違いがわかる男のゴールドブレンド」。
が、中村紘子など女性も起用されるようになり「違いがわかる人」に変更された。


<脚注>

2025年3月21日金曜日

「ブルー・ライト・ヨコハマ」は川崎の工業地帯の夜景だった。




いしだあゆみ(以下、敬称略)が甲状腺機能低下症の悪化で亡くなったそうだ。
まだまだお元気で活躍されてる思っていたが。ご冥福をお祈りします。


どの記事も「ブルー・ライト・ヨコハマ」が代表作と報じている。


彼女にとって26枚目のシングルとなる本曲が発売されたのは1968年のクリスマス。
翌年にかけて大ヒットした。
発売日に10万枚のレコードが売れ、それが10日間続いたという。




時代は学園紛争のピーク。
若者たちは新宿西口広場で集会を開きフォークソングを歌い、機動隊と衝突した。
パンタロン、マキシスカート、シースルールック、ヒッピーが流行していた。

僕は中学生でラジオを聴き出した頃だった。
「夜明けのスキャット」「人形の家」などの歌謡曲とバニラ・ファッジ、ドアーズ、
クリーム、モンキーズ、アーチーズ、ショッキング・ブルー、ナンシー・シナトラ、
ツェッペリン、スコット・ウォーカーなんかを一緒くたに聴いていた。
「ブルー・ライト・ヨコハマ」もその一つ。リクエストが多くよく流れていた。


いしだあゆみ - ブルー・ライト・ヨコハマ
https://youtu.be/cZRk3kEkFz8?si=g54J1Gqkd2QY6wqy







歌詞もメロディもアレンジも完成度が高い。昭和を代表する名曲だ。
しかし実際はレコーディング前日に、苦戦しながら編み出した作品らしい。




<ブルー・ライト・ヨコハマが生まれた過程(歌詞)>

いしだあゆみはビクターから4年間で23枚のシングルをリリースしていたが、女優・
タレント業で忙しかったこともあり、歌手としてのイメージはあまりなかった。
そこで心機一転、「歌手・いしだあゆみ」を打ち出すためにコロムビアに移籍。
橋本淳・筒美京平のコンビが曲作りを担当することになった。

2人とも青山学院中等部〜大学の出身で、橋本淳は筒美京平の先輩である。
在学中にジャズ研で橋本淳がウッドベース、筒美京平がピアノを弾いていたらしい。
つまり「音楽を通じて気心知れた仲」ということだ。
また橋本淳は「楽曲の構造も演奏も心得ている作詞家」ということになる。



↑青学時代の橋本淳と筒美京平


コロムビアは「3曲作って欲しい、どれか100万枚超えのヒットを」と2人に依頼。
2曲出したけど売れない。橋本淳はプレッシャーを感じていた。

当時は曲先ではなく、詞先というスタイルで作っていたという。
3曲目は「ヨーロッパや港のイメージの歌」にしたい、と橋本は漠然と思っていた。


橋本は横浜の街をあちこち歩いてみたが、一向に言葉が浮かばない。
夜になってもう一度歩いてみようと、港の見える丘公園まで登って行った。

当時は辺り一面が真っ暗。公園から遠くを眺めると川崎の工場街が見えて、そこが
紫っぽいような、ブルーっぽい光が海に照り返っていた
これこそ自分が探していた光景だ、と橋本は思った。
カンヌの空港の滑走路に着陸する際に見た夜景を重ね合わせていたという。





その場で「ブルー・ライト・カワサキ」というタイトルが浮かぶ
でも、さすがにそれはどうかと思い「ブルー・ライト・ヨコハマ」に改めた。

カタカナで「ヨコハマ」にしたのも都会的で洗練されたイメージにつながった。
当時の横浜は進駐軍の影響が残っていて、東京にない尖った面白さがあるものの、
暗くて危ない街であった。


翌日がレコーディングでもう時間がないので、横浜から筒美京平に電話をかけて、
タイトルだけ決めたと伝えた。
筒美はメロディーを考えていたそうで「ポール・モーリアのアルバムにイントロ・
イメージが合うものがある」と言ったそうだ。

橋本はもう一度、海岸通りを歩き回わる。
歩いても、歩いても、何も思いつかなかった。「あれ?歩いても、歩いても
これをサビにしようか・・・」と即興でワンコーラス作る。
1番の歌詞を電話で筒美に伝え、橋本は帰宅して残りの歌詞を徹夜で仕上げた。

(作詞家・橋本淳が語る「ブルー・ライト・ヨコハマ」の誕生 2024年)







<ブルー・ライト・ヨコハマが生まれた過程(曲)>

筒美京平の曲作りの秘訣について、橋本淳がインタビューでこう語っている。

「あの人、やっぱり天才ですから、歌作りもまずコード進行から固めるんですよ。
外国のレコードもいっぱい聴いて吸収してね。
自分の気に入ったコードの並びに、サビでも1小節でもエンディングでも、日本
的なテイストを必ず入れていく。だからいくらでも曲が作れちゃうんです」

(作詞家・橋本淳が語る盟友・筒美京平 2024年)



いしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」はキーがマイナーキーでF#m。
Amで採譜した楽譜を見つけた。ギターやピアノで弾きやすくしたのだろう。
このキー=Amの楽譜で「筒美京平マジック」を探ってみたいと思う。





曲の構成はAメロ9小節+Bメロ(サビ)9小節の組み合わせ。
Am→Dm→E7からAmへ帰結、という演歌でもよく使われる「日本人が好きな」
マイナー・キーのコード進行だ。

イントロはE7のジャーンというギターに続いて、フロアタムのドコドンドン。
管楽器による情緒たっぷりのメロディが2小節(青い囲み)〜それと対話する
かのようなチェンバロとギターのカウンターメロディが2小節(緑の囲み)


最初に聴き手の心を掴み、歌に入る期待感を煽るのがイントロの役目だ。
(Z世代はタイパ重視でイントロ不要と考えてるそうだが、このオイシイ部分
を捨ててしまうのはもったいない)

筒美京平はイントロの達人でこだわっていた。編曲まで自分でこなす。






Aメロに入ってからも歌の「間」を埋めるようにオブリガードでフォロー
している。(青い囲み)
Bメロ(うでのなーかー♪)ではストリングスで装飾(オレンジの囲み)

筒美は同じ手法をオックスの「スワンの涙」でも使っていた。



6小節目がA7に一時的転調しているところがミソ。(赤い丸)
Am→A7→Dmのコード進行は、ドラマチックで切ない響きを生む。
7thコードは5度上のコード(Dm)に移行しやすい。

この場合A7のメロディは一時的にダイアトニックスケールになる(赤い丸)が、
次のDmですぐAmキーのナチュラル・マイナーに戻るから違和感がない。





あれ?一瞬、風の向きが変わったかな? あ、少し陽が射したみたい・・・
くらいの印象ではないか。でも、これだけでオシャレになる。

歌メロはいしだの歌唱力を考えてか、音域が狭くあまり高低差がない。
それだけに、Aメロ最後とBメロ最後の高域は際立つ。





Aメロの出だしは1拍分の休符が入り、2拍目から歌が入る。
(ン)まちのあかりが〜♪
Bメロ(あるいても〜♪)は小節の頭からメロディーが始まる。

これはアメリカのポップ・ソングの王道。洋楽っぽい感じになる。


ブルーライト〜♪のソ#はE7の構成音である(赤い丸)
Amキーのスケールとしては、純日本的なメロディック・マイナーだったのが、
ソ#で一時的にアラビア、ペルシア風響きのハーモニック・マイナーになる。
このちょっとした異国情緒感もスパイスになっていると思う。





あなたと〜♪はDm構成音ではないシが2拍続くので、Dm→Dm6が合うと思う。
が、オフィシャル音源を聴く限り、1小節Dmのままである。


しあわせよ〜♪はDm→F7on C→E7。(赤い丸)
ベース音をDから1音下降させてC、その勢いでE7 on Aでも良さそうだがベース
はルート音のE。次がAmだからベース音をE→Aにしてメリハリを付けたのだろう。

Bメロの こぶねのように〜♪も同じく、Dm→F7on C→E7。(赤い丸)


ゆれてあなたのうでのなーかー♪の山場で、初めてDm→G7→Cが登場。
一気に明るくなり、世界が広がったような気分になる。(ピンクの囲み)
(CはAmの裏コードで構成音が近く、メロディに使うスケールも共通である)







<いしだあゆみの歌唱>

この人は鼻にかかったような声抑揚のない歌い方が独特だった。
半拍遅れのようなタイム感(和製英語?)が、揺れとタメを感じさせる。
それが男女の揺れる関係を暗示しているようにも思える。


半拍遅れは楽器演奏でいうゴースト音のせいでもあるかもしれない。

♪ まッちのあッかりがー と・て・も・きれいね よッこはンま♫
促音や撥音便が潜んでいる。それが「ハネ感」になっているわけだ。
本人は無意識に歌ってるのだろうけど。







「私、歌ではあまりいい思い出はないんですよ。
音程が悪くて、いつも怒られてばかりで、すごく暗くなっていました。
ブルーライト・ヨコハマはレコーディングに48時間もかかったんです」
(1997年 日刊スポーツ いしだあゆみインタビュー)



「ブルー・ライト・ヨコハマ」はいしだあゆみの26枚目のシングル。
テレビで見る彼女は大人で色っぽく見えた。まだ20歳だったという。


1969年TBS「歌のグランプリ」に出演。
https://youtu.be/zg-tmlLikWM?si=87NgyZHtTHaAgAJI

1969年NHK「紅白歌合戦」に出場。
https://youtu.be/9Q9GAlLr43U?si=A2vFq5mv4fWcsdqp
※演奏が早いので、歌がついていけてない(笑
デジタル着色したためか、時々コワイ顔になる😱









<ブルー・ライト・ヨコハマで歌われる情景>

橋本淳は演歌の「捨てられても待っている女」的な男目線の女性観とは異なる
「若者の恋愛観」「揺れる女心」を歌詞にするのが巧かった。

「ブルー・ライト・ヨコハマ」に登場するのは横浜の夜の街を一緒に歩く男女。
女性の視点、気持ちが語られる。彼女は相手に夢中のようだ。
男は年上だろうか。もしかしたら不倫かもしれない。少し危険な香りがする。



 
                    (写真:Everybody×Photographer.com)


横浜の街の灯りがブルーできれいと彼女は言う。
伊勢崎町のことか?馬車道か?それとも山下公園に続く海岸通りだろうか?(※)


橋本淳に言わせると「横浜は元々青くなかった。あの歌が売れたおかげで、夜の
ライトがすべて青に変わった」らしい。
その真偽はともかく「ブルー・ライトに照らされる横浜」がパブリックイメージ
になったのは確かだろう。

あれから半世紀以上の時が流れた今も、ヨコハマにはブルーが似合う。
(歌旅 いしだあゆみ「ブルー・ライト・ヨコハマ」の喚起力 中西康夫)






2025年3月8日土曜日

ロバータ・フラックとロリ・リーバーマンの「やさしく歌って」



ロバータ・フラックが88歳で逝去した。ご冥福をお祈りします。
3年前にALSと診断され引退していたそうだ。
家族に見守られ、安らかに息を引き取ったという。


黒人R&Bシンガーの多くは(すごいとは思うが)パワフルで脂ギッシュすぎ。(1)
聴いてて疲れるから苦手だった。

その点、ロバータ・フラックは黒っぽさがいい意味で薄味。マイルドで聴きやすい。
少しハスキーで深みがあり、包容力のある声が魅力だった。



ジャズやゴスペル、ソウルを主体としながら、1970年代のフォークやロックを
うまく取り入れてる。特にこの人のバラードは絶品だ。


ピアノの弾き語りというスタイルもシンガー&ソングライター然としている。
実際に彼女はバフィー・セント・メリー、ジャニス・イアン、キャロル・ベイヤー
・セイガー、キャロル・キングなど、白人シンガー&ソングライターの曲を好んで
取り上げていた






ロバータ・フラックのヒット曲・名曲は数多いが、代表曲は1973年発表した
Killing Me Softly With His Song(邦題:やさしく歌って)」だろう。



ロバータ・フラックの「Killing Me Softly With His Song」
https://youtu.be/DEbi_YjpA-Y?si=xfW-jXPUGeZTDh3I




4週連続でビルボード・チャート1位という大ヒットを記録している。
1973年度グラミー賞で3部門の最優秀賞を獲得した。
(最優秀レコード賞/最優秀楽曲賞/最優秀女性ボーカル賞)


ロバータ・フラックがこの曲を歌うことになったのは奇跡に近い偶然だった。




<ロリ・リーバーマンの「Killing Me Softly With His Song」>





1971年初頭、駆け出しだったフォーク・シンガーのロリ・リーバーマンはある日、
LAのライヴハウス、トルバドール(2)で、同じくまだ売れる前のドン・マクリーン(3)
の歌を聴いて衝撃を受けた

マクリーンの「Empty Chairs」を聴いたとき、ちょうど失意にあった彼女はまるで
「自分の心を見透かされた」ような気がしたという。
それは大切な人が去った後の「空っぽの椅子」を歌ったバラードだった。

ロリはショーのあと一人席に残って「Killing Me Softly With His Blues」という
詩をテーブルの上の紙ナプキンに書いた。




19歳だったロリは作詞家ノーマン・ギンベル、作曲家チャールズ・フォックスと
楽曲提供、制作、マネージメントを任せる契約を結んでいた。



↑作詞家ノーマン・ギンベルとロリ・リーバーマン



彼女は自分が書いた詩を2人に見せる。
Bluesという言葉が時代に合わないという意見が出て「Killing Me Softly With 
His Song」に変え、ギンベルとフォックスが曲として仕上げることになった。


「Killing Me Softly With His Song」のニュアンスは日本語で表現しにくい
「あの人の歌、めっちゃ心に刺さってもうだめ〜」みたいな感じだろうか。(4)


I heard he sang a good song I heard he had a style 
すてきな曲を歌う人だと聞いたわ 独自のスタイルがあるそうね
And so I came to see him to listen for a while  
それで彼を見に来たの 少し聴いてみようと思って
And there he was this young boy a stranger to my eyes
そこにいたのは初めて見る若者だった

Strumming my pain with his fingers Singing my life with his words 
ギターを奏でる指が私の痛みをかき鳴らす(5) 私の人生を歌ってる
Killing me softly with his song Killing me softly with his song 
その歌はそっと私を傷つける 耐えられないくらい
Telling my whole life with his words Killing me softly with his song
私の人生すべてを言葉にして暴き 私をやさしく傷つける 

(Charles Fox - Norman Gimbel 対訳:イエロードッグ)



↓ロリ・リーバーマンの「Killing Me Softly With His Song」
https://youtu.be/ua4n_sTa9f4?si=kg6IK74caZ0Gj3Sy







完成した曲は、1972年発表のロリのデビュー・アルバムに収録された。
ただし、作詞作曲のクレジットに彼女の名前はなかった

ロリの「Killing Me Softly With His Song」は地味ではあるが、アコースティッ
ク・サウンドの正統派フォークで、澄んだ歌声が瑞々しい。
ヒットはしなかった。


ところが、奇跡が起きる。



↓マイク・ダグラス・ショーに出演したロリ・リーバーマン(1973)
「Killing Me Softly」を歌い、この曲が作られた経緯を話している。
https://youtu.be/cTyGLBANuOg?si=Awbz8GLomO1x2mLO





<ロバータ・フラックと「Killing Me Softly With His Song」>

この頃、既に売れっ子で活躍していたロバータ・フラックは、ツアーでロサンジェ
ルスからニューヨークに向かう飛行機に乗っていた。

彼女はイヤホンで機内オーディオ・プログラム(6)の音楽を聴こうと思い、機内誌の
再生リストに目を通した。


「Killing Me Softly」というタイトルが目に留まり、気になって何度も冊子を手
に取っては戻しを繰り返し、結局聴いてみた。とても気に入ったという。
機内で紙に五線譜を書き、何度も再生しながら耳コピでメロディーを採譜した。






ニューヨークに降り立つとすぐスタジオに駆け込み、リハーモナイゼーション
元のコードの置き換え、新しいコードの付加などでコード進行を再構築していく
アレンジ手法)を行った。(7)


数日後、ジャマイカのスタジオでバンドと一緒にこの曲をリハーサルしたものの
、満足できる出来ではなかったためボツ。
数ヶ月かけて曲に取り組み、ニューヨークのアトランタ・スタジオで完成させた。
ロバータ・フラックはローランド・カーク(8)のサックスを意識して歌ったという。


不思議なのは、ヒットもしなかったロリの「Killing Me Softly〜」がなぜ飛行機
のオーディオ・セレクションのリストに入っていたのか?ということである。
そして、たまたまロバータ・フラックが「Killing Me Softly」というタイトルに
興味を持ち、耳にすることになったという偶然。

運命のいたずらだったのか、神の計らいによる巡り合わせなのか・・・・・







<ロバータ・フラックの新アレンジで蘇った「Killing Me Softly 〜」>

バックビートを強調しつつ16ビートも加え、ミディアム・テンポのバラード
仕上がっている。
レコーディングに参加したミュージシャンはすべて黒人。
グルーヴ感(ノリ)を大切にしたかったのではないだろうか。


巨匠ロン・カーターが力強いベースライン(珍しくエレクトリック・ベース?)
を弾き、STUFF結成前(!)のエリック・ゲイルがナイロン弦ギターでサンバ
調アルペジオを弾いている。(この人がこういう演奏をするとは!)
この2つでどっしりした曲の骨格ができあがっている。

加えてラルフ・マクドナルドのパーカッション、グレイディ・テイのドラム、
ハワード大学以来の盟友であるダニー・ハサウェイのコーラス、そしてロバータ
・フラックのエレクトリック・ピアノ(音色が彼女のボーカルと相性がいい)




↑ロバータ・フラックとダニー・ハサウェイ



自身とハサウェイのハーモニー、スキャットには深いエコーがかけられた。
あえて音像を濁らせ、左右に響くミックスにしてある。
ジャマイカのセッションで満足できず、彼女がこだわった部分はここのようだ。


きわめつけは、ヴァース(Aメロ)とブリッジ(Bメロ)の順番の入れ替え
確かにこの入り方だとつかみがいい(聴き手を惹きつける)

ブリッジ(Bメロ)のStrumming my pain with his fingers〜♪から入り、ほぼ
アカペラ(エレピのみ)で14小節歌い、その後ギターとベースが同じフレーズを
繰り返す8小節でたっぷりタメを作る。

盛り上がったところで I heard he sang a good song〜♪のヴァース(Aメロ)へ。



↓ジョニー・カーソンのトゥナイト・ショーに出演したロバータ・フラック。
「Killing Me Softly」とディランの「Just Like a Woman」を歌った。(1973)
クラシック、ゴスペル、ジャズの経験が役に立った、と話している。
https://youtu.be/CrjQ6BAFpn0?si=xxpB5n6YmY79cXJ6








<その後のロリ・リーバーマン>

ロリ・リーバーマンは車を運転中にこのロバータ・フラックのバージョンが偶然
ラジオから流れてきて、路肩に停車して聴き入ったという。嬉しかったそうだ。


ロリの控えめな歌はヒットこそしないものの、ラジオでは人気を博していた。
しかしロバータ・フラックの「Killing Me Softly With His Song」が大ヒットして
以降、ロリのオリジナル・ヴァージョンは影が薄くなって行く。

音楽業界への失望もあり、1980年にロリ・リーバーマンは引退する。
3児の母となっていた彼女はスポットライトを浴びない生活を送っていたが、
周りの薦めもあり1990年後半から音楽活動を再開。





2009年以降、ロリ・リーバーマン再評価の機運が高まり、知名度も上昇。
旧作のリマスターと配信。新作アルバムをレコーディングした。
ヨーロッパツアーを開始し、ホールを埋め尽くすほどの観客を集めている。



ロバータ・フラックの訃報に接したロリ・リーバーマンは声明を出した。

 「ロバータ、あなたは私や多くの人々に世界を開いてくれました。
  あなたの芸術的才能、やさしさ、そして私の歌で。
  あなたへの感謝は一生忘れません。
  あなたの旅立ちに愛と幸がありますように。。。」








<「Killing Me Softly With His Song」の作者は誰か?論争>

ロリ・リーバーマンの知名度が高まる中「Killing Me Softly With His Song」
は曲作りに彼女が関与していた、クレジットに名前がないのはおかしい、という
声が挙がるようになる。
ノーマン・ギンベルとチャールズ・フォックスはロリの関与を否定した。

ギンベルは「Killing Me Softly With His Blues はアイディア・ノートから引き出
したフレーズで、チャールズ・フォックスと2人で曲を仕上げた。
2人の作品を歌ってもらう予定だったロリ・リーバーマンに聴かせると大変気に
入り、ドン・マクリーンのライヴで彼の歌を聴き同じ気持ちになったと言った。
このロリの発言が、彼女の体験に基づいて作曲したと間違って言い伝えらえた。
いわば都市伝説だ」と言ってる。


しかし歌詞を見ると女性視点だし、明らかに彼女の体験が元になっている
ドン・マクリーンもロン・リーバーマン作者説を支持すると公表している。





(写真:GettyImages)


そして1973年当時、ギンベルがデイリーニュースに語った記事が発掘されたこと
で、この論争は明確な結論に達した。
「彼女はマクリーンの歌を聴いたときの強烈な体験を語ってくれた。いい曲になり
そうな予感がしたので、3人で何度も話し合った」とギンベルが言ってるのだ。


現在、Wikipedia英語版の「Killing Me Softly With His Song」では作者は(クレ
ジットされていない)の注釈付きで、ロン・リーバーマンも併記されている。



海外でも日本でも著作権や出版権については、見解の相違で揉めることがある。
「Killing Me Softly」のケースも、19か20歳そこそこの新人の女の子を搾取する
エンタメ業界の深い闇の一例のような気がする。


<脚注>

2025年2月28日金曜日

ガース・ハドソンの緩慢な死とザ・バンドの消滅。




ザ・バンド最後の生存者だったガース・ハドソン(87歳)が先月亡くなった。

ニューヨーク州ウッドストック近郊の介護施設で、安らかに眠るように息を引き
取ったという。
いかにもこの人らしい穏やかな旅立ちのような気がする。

彼が亡くなった場所は、1967年にザ・バンドがボブ・ディランと地下室で歴史的
的セッションを行ったビッグ・ピンクから数マイルしか離れていない場所だった。






一昨年には元ザ・バンドのロビー・ロバートソンが亡くなっている。
最後の一人となったガース・ハドソンはこの時、声明を出していない。
彼がウェルビーイングの状態(よい人生を送っている)かも不明であった。

ガース・ハドソンの死去によって、ザ・バンドというロック・グループが地球上
から完全に消滅したことになる。







ザ・バンドについてはあまり多くを語ることができない。知らないからだ。
薦められてアルバムを2枚買って聴いたが、どうしても好きにはなれなかった。
バッファロー・スプリングフィールドの時と同じだ。

↓一昨年ロビー・ロバートソン追悼でザ・バンドについては少し書いている。
僕が知ってるのはこのくらいだ。
https://b-side-medley.blogspot.com/2023/08/blog-post.html



サイケデリックからプログレッシブへとロックの潮流が変わり、ツェッぺリン
が登場した1960年代末。
ザ・バンドはR&Bやゴスペルなどアメリカ南部音楽をルーツとした土臭いサウ
ンドを作り出していた。






時代に争うかのような彼らの泥臭さは、それはそれで画期的だった。
ザ・バンドほど洗練、進化という言葉と程遠いロックはなかっただろう。


同じスワンプ・ロックでも、リトル・フィートは16ビートのフュージョンや
ファンクを取り入れたジャムを得意とし、もっと柔軟に変化して行った。

オールマン・ブラザーズ・バンドもスイング感のあるブルースを中心に、
、サンバ、カントリー、フュージョンを取り入れ多彩な音楽を作っていた。
CCRはストレートなR&Rでキャッチーだったため
ヒットにも恵まれた。




さて、ザ・バンドにおけるガース・ハドソンの立ち位置はどうだったのか?
ガース・ハドソンを知ってる日本人ってどれくらいいるのだろう?






ガース・ハドソンは誰が見てもロック・ミュージシャンには見えないだろう。
彼はまるで森の賢者のような風貌だった。

近代以前の生活様式で自給自足の生活を営むアーミッシュのようでもある。
中世のイギリスを描いたテリー・ギリアムの映画に出てきそうな雰囲気だ。






ガース・ハドソンは寡黙であり、謎の男であった
ザ・バンドのインタビューでもほとんど口を開かず、主張しなかった。

歌わない唯一のメンバーということも、彼を目立たなくしていた。
いつも後ろの方で控えめではあるが、とびきり素晴らしい演奏をしていた







↓アルバム「Music from Big Pink」収録曲の「Chest Fever」。
ガース・ハドソンが弾く荘厳なオルガン(ローリー社のフェスティバル)
によって曲が導かれる。

The Band - Chest Fever
https://youtu.be/es_uhcxXUYk?si=YheDgOToBl8VP2rD




↓映画「Last Waltz」の1シーンだが、ロビー・ロバートソンのギター・ソロ
の合間にガース・ハドソンが極上のサックスのソロを聴かせる(4'30"〜)

The Band - It Makes No Difference (Last Waltz)
https://youtu.be/ZfBqWNFOVo8?si=OB6unIT-L9DuwmjY








ガース・ハドソンはオルガン、ピアノ、アコーディオン、サックス、フィドル、
など多くの楽器を演奏できた

バッハの讃美歌などクラシック音楽の素養をもち、カントリーやブギウギ、
ホンキートンク、ブルースのスタイルは酒場で身につけた。







謙虚な天才である彼は、開拓者精神に満ちた素朴な音楽を奏でるザ・バンド
というグループを象徴する存在であった


ザ・バンドのごく初期から、ガース・ハドソンは仲間たちに音楽理論とハ
ーモニーを教え、グループの音楽性を向上させた。






「ガース・ハドソンと共演できるのに、一緒に演奏しない奴はバカだ」と
レヴォン・ヘルムがかつて語っていたことがある。

ロビー・ロバートソンは「ガースはロック界で最も先進的なミュージシャン。
僕らとやるのと同じくらい簡単にコルトレーンやニューヨーク・フィルとも
演奏できるだろう」と言っていた。



ガース・ハドソンはザ・バンドという音楽共同体において、他のメンバー
より何歳も年上で、思慮深い父親のような存在であった

「ガースの性格のおかげでザ・バンドははあんな良いサウンドになったんだ」
とレヴォン・ヘルムは認めている。







1968年12月、ウッドストックのディランの別荘で過ごしたジョージ・ハリ
ソンは、ザ・バンドのメンバーたちとも親しくなる。

年明けに開始したゲット・バック・セッションで、ジョージがビリー・プレ
ストンを誘ったのは、ガース・ハドソンのような役割がビートルズに必要と
考えたからだ、という説もある。







個人的には、ザ・バンドよりも他のアーティストのセッションに参加した
時のガース・ハドソンの演奏が気に入ってる。


↓「Ballad of a Thin Man」ではディランの歌メロを縫うように、ガース・
ハドソンがオルガンでカウンター・メロディを弾いている。
単音のメロディでありながら、彼の紡ぎ出す音はコード(和音)をイメー
ジさせ、曲に陰影を与えている



Bob Dylan - Ballad of a Thin Man

https://youtu.be/we37yX3zpKA?si=niMu2fRg4PqckD0d







↓カーラ・ボノフが歌う「The Water Is Wide」(トラディショナル)
では、ガース・ハドソンのアコーディオン・ソロ(1'57")が絶品
この後ジェイムス・テイラー、J.D.サウザーも加わった美しい3声ハーモ
ニーの後ろで控えめに鳴り続ける。




Karla Bonoff - The Water Is Wide
https://youtu.be/VCR0MllrO-4?si=DtiSlKSimqcKPpwY







↓ジョージ・ハリスンの「Living in the Material World」2024 Mixでは、
ザ・バンド(リチャード・マニュエルを除く4人)が参加したSunshine 
Life For Me が公開された。
カントリーフレーバーたっぷりのフィドルはガース・ハドソンの演奏。




George Harrison - Sunshine Life For Me (Sail Away Raymond)
https://youtu.be/SjQrnhHOpl4?si=ZvCtDZxnvjrXei-E








教授と尊敬されたガース・ハドソンは、友人たちからは親しみを込めて、
「The Bear」(クマさん)の愛称で呼ばれていたそうだ。






<参考資料:U discovermusic.jp、Rollingstone JAPAN、amass、
Wikipedia、YouTube、他>