2025年3月8日土曜日

ロバータ・フラックとロリ・リーバーマンの「やさしく歌って」



ロバータ・フラックが88歳で逝去した。ご冥福をお祈りします。
3年前にALSと診断され引退していたそうだ。
家族に見守られ、安らかに息を引き取ったという。


黒人R&Bシンガーの多くは(すごいとは思うが)パワフルで脂ギッシュすぎ。(1)
聴いてて疲れるから苦手だった。

その点、ロバータ・フラックは黒っぽさがいい意味で薄味。マイルドで聴きやすい。
少しハスキーで深みがあり、包容力のある声が魅力だった。



ジャズやゴスペル、ソウルを主体としながら、1970年代のフォークやロックを
うまく取り入れてる。特にこの人のバラードは絶品だ。


ピアノの弾き語りというスタイルもシンガー&ソングライター然としている。
実際に彼女はバフィー・セント・メリー、ジャニス・イアン、キャロル・ベイヤー
・セイガー、キャロル・キングなど、白人シンガー&ソングライターの曲を好んで
取り上げていた






ロバータ・フラックのヒット曲・名曲は数多いが、代表曲は1973年発表した
Killing Me Softly With His Song(邦題:やさしく歌って)」だろう。



ロバータ・フラックの「Killing Me Softly With His Song」
https://youtu.be/DEbi_YjpA-Y?si=xfW-jXPUGeZTDh3I




4週連続でビルボード・チャート1位という大ヒットを記録している。
1973年度グラミー賞で3部門の最優秀賞を獲得した。
(最優秀レコード賞/最優秀楽曲賞/最優秀女性ボーカル賞)


ロバータ・フラックがこの曲を歌うことになったのは奇跡に近い偶然だった。




<ロリ・リーバーマンの「Killing Me Softly With His Song」>





1971年初頭、駆け出しだったフォーク・シンガーのロリ・リーバーマンはある日、
LAのライヴハウス、トルバドール(2)で、同じくまだ売れる前のドン・マクリーン(3)
の歌を聴いて衝撃を受けた

マクリーンの「Empty Chairs」を聴いたとき、ちょうど失意にあった彼女はまるで
「自分の心を見透かされた」ような気がしたという。
それは大切な人が去った後の「空っぽの椅子」を歌ったバラードだった。

ロリはショーのあと一人席に残って「Killing Me Softly With His Blues」という
詩をテーブルの上の紙ナプキンに書いた。




19歳だったロリは作詞家ノーマン・ギンベル、作曲家チャールズ・フォックスと
楽曲提供、制作、マネージメントを任せる契約を結んでいた。



↑作詞家ノーマン・ギンベルとロリ・リーバーマン



彼女は自分が書いた詩を2人に見せる。
Bluesという言葉が時代に合わないのという意見が出て「Killing Me Softly With 
His Song」に変え、ギンベルとフォックスが曲として仕上げることになった。


「Killing Me Softly With His Song」のニュアンスは日本語で表現しにくい
「あの人の歌、めっちゃ心に刺さってもうだめ〜」みたいな感じだろうか。(4)


I heard he sang a good song I heard he had a style 
すてきな曲を歌う人だと聞いたわ 独自のスタイルがあるそうね
And so I came to see him to listen for a while  
それで彼を見に来たの 少し聴いてみようと思って
And there he was this young boy a stranger to my eyes
そこにいたのは初めて見る若者だった

Strumming my pain with his fingers Singing my life with his words 
ギターを奏でる指が私の痛みをかき鳴らす(5) 私の人生を歌ってる
Killing me softly with his song Killing me softly with his song 
その歌はそっと私を傷つける 耐えられないくらい
Telling my whole life with his words Killing me softly with his song
私の人生すべてを言葉にして暴き 私をやさしく傷つける 

(Charles Fox - Norman Gimbel 対訳:イエロードッグ)



↓ロリ・リーバーマンの「Killing Me Softly With His Song」
https://youtu.be/ua4n_sTa9f4?si=kg6IK74caZ0Gj3Sy







完成した曲は、1972年発表のロリのデビュー・アルバムに収録された。
ただし、作詞作曲のクレジットに彼女の名前はなかった

ロリの「Killing Me Softly With His Song」は地味ではあるが、アコースティッ
ク・サウンドの正統派フォークで、澄んだ歌声が瑞々しい。
ヒットはしなかった。


ところが、奇跡が起きる。



↓マイク・ダグラス・ショーに出演したロリ・リーバーマン(1973)
「Killing Me Softly」を歌い、この曲が作られた経緯を話している。
https://youtu.be/cTyGLBANuOg?si=Awbz8GLomO1x2mLO





<ロバータ・フラックと「Killing Me Softly With His Song」>

この頃、既に売れっ子で活躍していたロバータ・フラックは、ツアーでロサンジェ
ルスからニューヨークに向かう飛行機に乗っていた。

彼女はイヤホンで機内オーディオ・プログラム(6)の音楽を聴こうと思い、機内誌の
再生リストに目を通した。


「Killing Me Softly」というタイトルが目に留まり、気になって何度も冊子を手
に取っては戻しを繰り返し、結局聴いてみた。とても気に入ったという。
機内で紙に五線譜を書き、何度も再生しながら耳コピでメロディーを採譜した。






ニューヨークに降り立つとすぐスタジオに駆け込み、リハーモナイゼーション
元のコードの置き換え、新しいコードの付加などでコード進行を再構築していく
アレンジ手法)を行った。(7)


数日後、ジャマイカのスタジオでバンドと一緒にこの曲をリハーサルしたものの
、満足できる出来ではなかったためボツ。
数ヶ月かけて曲に取り組み、ニューヨークのアトランタ・スタジオで完成させた。
ロバータ・フラックはローランド・カーク(8)のサックスを意識して歌ったという。


不思議なのは、ヒットもしなかったロリの「Killing Me Softly〜」がなぜ飛行機
のオーディオ・セレクションのリストに入っていたのか?ということである。
そして、たまたまロバータ・フラックが「Killing Me Softly」というタイトルに
興味を持ち、耳にすることになったという偶然。

運命のいたずらだったのか、神の計らいによる巡り合わせなのか・・・・・







<ロバータ・フラックの新アレンジで蘇った「Killing Me Softly 〜」>

バックビートを強調しつつ16ビートも加え、ミディアム・テンポのバラード
仕上がっている。
レコーディングに参加したミュージシャンはすべて黒人。
グルーヴ感(ノリ)を大切にしたかったのではないだろうか。


巨匠ロン・カーターが力強いベースライン(珍しくエレクトリック・ベース?)
を弾き、STUFF結成前(!)のエリック・ゲイルがナイロン弦ギターでサンバ
調アルペジオを弾いている。(この人がこういう演奏をするとは!)
この2つでどっしりした曲の骨格ができあがっている。

加えてラルフ・マクドナルドのパーカッション、グレイディ・テイのドラム、
ハワード大学以来の盟友であるダニー・ハサウェイのコーラス、そしてロバータ
・フラックのエレクトリック・ピアノ(音色が彼女のボーカルと相性がいい)




↑ロバータ・フラックとダニー・ハサウェイ



自身とハサウェイのハーモニー、スキャットには深いエコーをかけられた。
あえて音像を濁らせ、左右に響くミックスにしてある。
ジャマイカのセッションで満足できず、彼女がこだわった部分はここのようだ。


きわめつけは、ヴァース(Aメロ)とブリッジ(Bメロ)の順番の入れ替え
確かにこの入り方だとつかみがいい(聴き手を惹きつける)

ブリッジ(Bメロ)のStrumming my pain with his fingers〜♪から入り、ほぼ
アカペラ(エレピのみ)で14小節歌い、その後ギターとベースが同じフレーズを
繰り返す8小節でたっぷりタメを作る。

盛り上がったところで I heard he sang a good song〜♪のヴァース(Aメロ)へ。



↓ジョニー・カーソンのトゥナイト・ショーに出演したロバータ・フラック。
「Killing Me Softly」とディランの「Just Like a Woman」を歌った。(1973)
クラシック、ゴスペル、ジャズの経験が役に立った、と話している。
https://youtu.be/CrjQ6BAFpn0?si=xxpB5n6YmY79cXJ6








<その後のロリ・リーバーマン>

ロリ・リーバーマンは車を運転中にこのロバータ・フラックのバージョンが偶然
ラジオから流れてきて、路肩に停車して聴き入ったという。嬉しかったそうだ。


ロリの控えめな歌はヒットこそしないものの、ラジオでは人気を博していた。
しかしロバータ・フラックの「Killing Me Softly With His Song」が大ヒットして
以降、ロリのオリジナル・ヴァージョンは影が薄くなって行く。

音楽業界への失望もあり、1980年にロリ・リーバーマンは引退する。
3児の母となっていた彼女はスポットライトを浴びない生活を送っていたが、
周りの薦めもあり1990年後半から音楽活動を再開。





2009年以降、ロリ・リーバーマン再評価の機運が高まり、知名度も上昇。
旧作のリマスターと配信。新作アルバムをレコーディングした。
ヨーロッパツアーを開始し、ホールを埋め尽くすほどの観客を集めている。



ロバータ・フラックの訃報に接したロリ・リーバーマンは声明を出した。

 「ロバータ、あなたは私や多くの人々に世界を開いてくれました。
  あなたの芸術的才能、やさしさ、そして私の歌で。
  あなたへの感謝は一生忘れません。
  あなたの旅立ちに愛と幸がありますように。。。」








<「Killing Me Softly With His Song」の作者は誰か?論争>

ロリ・リーバーマンの知名度が高まる中「Killing Me Softly With His Song」
は曲作りに彼女が関与していた、クレジットに名前がないのはおかしい、という
声が挙がるようになる。
ノーマン・ギンベルとチャールズ・フォックスはロリの関与を否定した。

ギンベルは「Killing Me Softly With His Blues はアイディア・ノートから引き出
したフレーズで、チャールズ・フォックスと2人で曲を仕上げた。
2人の作品を歌ってもらう予定だったロリ・リーバーマンに聴かせると大変気に
入り、ドン・マクリーンのライヴで彼の歌を聴き同じ気持ちになったと言った。
このロリの発言が、彼女の体験に基づいて作曲したと間違って言い伝えらえた。
いわば都市伝説だ」と言ってる。


しかし歌詞を見ると女性視点だし、明らかに彼女の体験が元になっている
ドン・マクリーンもロン・リーバーマン作者説を支持すると公表している。





(写真:GettyImages)


そして1973年当時、ギンベルがデイリーニュースに語った記事が発掘されたこと
で、この論争は明確な結論に達した。
「彼女はマクリーンの歌を聴いたときの強烈な体験を語ってくれた。いい曲になり
そうな予感がしたので、3人で何度も話し合った」とギンベルが言ってるのだ。


現在、Wikipedia英語版の「Killing Me Softly With His Song」では作者は(クレ
ジットされていない)の注釈付きで、ロン・リーバーマンも併記されている。



海外でも日本でも著作権や出版権については、見解の相違で揉めることがある。
「Killing Me Softly」のケースも、19か20歳そこそこの新人の女の子を搾取する
エンタメ業界の深い闇の一例のような気がする。


<脚注>

2025年2月28日金曜日

ガース・ハドソンの緩慢な死とザ・バンドの消滅。




ザ・バンド最後の生存者だったガース・ハドソン(87歳)が先月亡くなった。

ニューヨーク州ウッドストック近郊の介護施設で、安らかに眠るように息を引き
取ったという。
いかにもこの人らしい穏やかな旅立ちのような気がする。

彼が亡くなった場所は、1967年にザ・バンドがボブ・ディランと地下室で歴史的
的セッションを行ったビッグ・ピンクから数マイルしか離れていない場所だった。






一昨年には元ザ・バンドのロビー・ロバートソンが亡くなっている。
最後の一人となったガース・ハドソンはこの時、声明を出していない。
彼がウェルビーイングの状態(よい人生を送っている)かも不明であった。

ガース・ハドソンの死去によって、ザ・バンドというロック・グループが地球上
から完全に消滅したことになる。







ザ・バンドについてはあまり多くを語ることができない。知らないからだ。
薦められてアルバムを2枚買って聴いたが、どうしても好きにはなれなかった。
バッファロー・スプリングフィールドの時と同じだ。

↓一昨年ロビー・ロバートソン追悼でザ・バンドについては少し書いている。
僕が知ってるのはこのくらいだ。
https://b-side-medley.blogspot.com/2023/08/blog-post.html



サイケデリックからプログレッシブへとロックの潮流が変わり、ツェッぺリン
が登場した1960年代末。
ザ・バンドはR&Bやゴスペルなどアメリカ南部音楽をルーツとした土臭いサウ
ンドを作り出していた。






時代に争うかのような彼らの泥臭さは、それはそれで画期的だった。
ザ・バンドほど洗練、進化という言葉と程遠いロックはなかっただろう。


同じスワンプ・ロックでも、リトル・フィートは16ビートのフュージョンや
ファンクを取り入れたジャムを得意とし、もっと柔軟に変化して行った。

オールマン・ブラザーズ・バンドもスイング感のあるブルースを中心に、
、サンバ、カントリー、フュージョンを取り入れ多彩な音楽を作っていた。
CCRはストレートなR&Rでキャッチーだったため
ヒットにも恵まれた。




さて、ザ・バンドにおけるガース・ハドソンの立ち位置はどうだったのか?
ガース・ハドソンを知ってる日本人ってどれくらいいるのだろう?






ガース・ハドソンは誰が見てもロック・ミュージシャンには見えないだろう。
彼はまるで森の賢者のような風貌だった。

近代以前の生活様式で自給自足の生活を営むアーミッシュのようでもある。
中世のイギリスを描いたテリー・ギリアムの映画に出てきそうな雰囲気だ。






ガース・ハドソンは寡黙であり、謎の男であった
ザ・バンドのインタビューでもほとんど口を開かず、主張しなかった。

歌わない唯一のメンバーということも、彼を目立たなくしていた。
いつも後ろの方で控えめではあるが、とびきり素晴らしい演奏をしていた







↓アルバム「Music from Big Pink」収録曲の「Chest Fever」。
ガース・ハドソンが弾く荘厳なオルガン(ローリー社のフェスティバル)
によって曲が導かれる。

The Band - Chest Fever
https://youtu.be/es_uhcxXUYk?si=YheDgOToBl8VP2rD




↓映画「Last Waltz」の1シーンだが、ロビー・ロバートソンのギター・ソロ
の合間にガース・ハドソンが極上のサックスのソロを聴かせる(4'30"〜)

The Band - It Makes No Difference (Last Waltz)
https://youtu.be/ZfBqWNFOVo8?si=OB6unIT-L9DuwmjY








ガース・ハドソンはオルガン、ピアノ、アコーディオン、サックス、フィドル、
など多くの楽器を演奏できた

バッハの讃美歌などクラシック音楽の素養をもち、カントリーやブギウギ、
ホンキートンク、ブルースのスタイルは酒場で身につけた。







謙虚な天才である彼は、開拓者精神に満ちた素朴な音楽を奏でるザ・バンド
というグループを象徴する存在であった


ザ・バンドのごく初期から、ガース・ハドソンは仲間たちに音楽理論とハ
ーモニーを教え、グループの音楽性を向上させた。






「ガース・ハドソンと共演できるのに、一緒に演奏しない奴はバカだ」と
レヴォン・ヘルムがかつて語っていたことがある。

ロビー・ロバートソンは「ガースはロック界で最も先進的なミュージシャン。
僕らとやるのと同じくらい簡単にコルトレーンやニューヨーク・フィルとも
演奏できるだろう」と言っていた。



ガース・ハドソンはザ・バンドという音楽共同体において、他のメンバー
より何歳も年上で、思慮深い父親のような存在であった

「ガースの性格のおかげでザ・バンドははあんな良いサウンドになったんだ」
とレヴォン・ヘルムは認めている。







1968年12月、ウッドストックのディランの別荘で過ごしたジョージ・ハリ
ソンは、ザ・バンドのメンバーたちとも親しくなる。

年明けに開始したゲット・バック・セッションで、ジョージがビリー・プレ
ストンを誘ったのは、ガース・ハドソンのような役割がビートルズに必要と
考えたからだ、という説もある。







個人的には、ザ・バンドよりも他のアーティストのセッションに参加した
時のガース・ハドソンの演奏が気に入ってる。


↓「Ballad of a Thin Man」ではディランの歌メロを縫うように、ガース・
ハドソンがオルガンでカウンター・メロディを弾いている。
単音のメロディでありながら、彼の紡ぎ出す音はコード(和音)をイメー
ジさせ、曲に陰影を与えている



Bob Dylan - Ballad of a Thin Man

https://youtu.be/we37yX3zpKA?si=niMu2fRg4PqckD0d







↓カーラ・ボノフが歌う「The Water Is Wide」(トラディショナル)
では、ガース・ハドソンのアコーディオン・ソロ(1'57")が絶品
この後ジェイムス・テイラー、J.D.サウザーも加わった美しい3声ハーモ
ニーの後ろで控えめに鳴り続ける。




Karla Bonoff - The Water Is Wide
https://youtu.be/VCR0MllrO-4?si=DtiSlKSimqcKPpwY







↓ジョージ・ハリスンの「Living in the Material World」2024 Mixでは、
ザ・バンド(リチャード・マニュエルを除く4人)が参加したSunshine 
Life For Me が公開された。
カントリーフレーバーたっぷりのフィドルはガース・ハドソンの演奏。




George Harrison - Sunshine Life For Me (Sail Away Raymond)
https://youtu.be/SjQrnhHOpl4?si=ZvCtDZxnvjrXei-E








教授と尊敬されたガース・ハドソンは、友人たちからは親しみを込めて、
「The Bear」(クマさん)の愛称で呼ばれていたそうだ。






<参考資料:U discovermusic.jp、Rollingstone JAPAN、amass、
Wikipedia、YouTube、他>

2025年2月16日日曜日

1979年の「沿線地図」と「もう森へなんか行かない」。



BS-TBSで再放送されたドラマ「沿線地図」全15話を見終わった。
脚本家の山田太一さん追悼企画の一環ということらしい。

年末に「岸辺のアルバム」(1977年)をやっていたので、「沿線地図」もやるの
では?ぜひ見てみたい、と期待していのだ。


「沿線地図」は1979年4月〜7月にTBS系列の金曜ドラマ枠で放送された。
リアルタイムでは見てない。今回が初めてだ。
当時は部屋でレコードばかり聴いてたのでTVを見る習慣がなく、このドラマの
こともまったく知らなかった。(TVに関わる仕事をしてたのに)






「沿線地図」を見てみたいと思ったのは、フランソワーズ・アルディの「もう森
へなんか行かない(Ma jeunesse fout l'camp)」が主題歌で使われていること
を知ったからだ。

Francoise Hardy - Ma jeunesse fout le camp
https://youtu.be/pBOncEj8Wt0?si=w-dtB6Q2-_scTlaO


↓昨年「もう森へなんか行かない」について書いた投稿もご参照ください。
https://b-side-medley.blogspot.com/2024/06/f.html




<ドラマの設定>

多少ネタバレになってしまうが・・・・

二人の高校生のドロップアウトと家出、同棲が主題である。
両家の親世代の価値観の崩壊と苦悩、祖父の孤独、と各世代の葛藤が丁寧に
描かれている。




志郎(広岡瞬)は東大も確実と言われる優等生。本ばかり読んでいる根暗くん。
通学の電車で知り合った道子(真行寺君枝)に焚き付けられ、優等生の道を
外れ出すが、何か生きる活力のようなものを感じ始める。

志郎と道子が通学中に会っていたのは田園都市線の車内、二子玉川(当時は
二子玉川園)駅ホーム、自由が丘駅前、等々力駅ホーム。
東急の田園都市線と大井町線が舞台となっている。





志郎の父(児玉清)は一橋大学卒のエリート銀行員で支店次長。
田園都市線・宮崎台の高級マンションに母(河内桃子)と3人で暮らす。





ユニークな造りのマンションは東急ドエル宮崎台ビレジ(1971年竣工)。
現在もヴィンテージ・マンションとして人気が高い。
ドラマの撮影では実際にこの物件のエントランス、廊下、室内が使われた。





道子は大井町線の等々力駅近くの電気屋の一人娘。
優等生だが、奇矯な行動を繰り返す。




父(河原崎長一郎)と母(岸恵子)が店を切り盛りしている。
(三菱電機系列店という設定は、番組提供スポンサーだったためだろう)

岸恵子はパリ居住だったが、このドラマ撮影のために来日したそうだ。
電気屋のおかみに岸恵子はミスキャストと思ったが、けっこうハマり役。




店内・店前はセットを組んでの撮影。劇中では電車の通過音が聞こえる。
踏切近くの用賀仲町通りから横小路に入ると、小さな商店が並んでた。
そんな商店街の一角に小さな店をかまえていた、という設定だろう。



↑等々力駅前、
用賀仲町通りの踏切。
劇中では八百正、喫茶アゼリアの看板が映っていたが・・・



志郎の祖父(笠智衆)は二子玉川のアパートで一人暮らしをしている。
窓からは多摩川が見える。
小津安二郎作品の時と違い、笠智衆の台詞がけっこう長い(笑




等々力駅の反対側にあるスナックの従業員(新井康弘)は、惚れてる弱み
で道子の家出を手伝ったり、金を貸したり情報提供に協力する。
彼が着ているバラクータG9はこの頃流行っていた。




家出した2人の情報を得ようと、両家が頻繁にこのスナックに集う。
壁にはフランソワーズ・アルディのポスターが貼ってあった。



家出した2人は東新宿の青果卸売市場(淀橋市場)で働いていた。
志郎はフォークリフトで積荷を運び、道子は市場内の食堂で給仕をしている。
淀橋市場が面している中央線の脇を志郎が歩くシーンも見られる。





2人が同棲しているのは東中野の木賃アパート




※貧乏な同棲が話題になったのは同棲時代、赤提灯が流行った1973年。
1977年に雑誌ポパイが創刊、SHIPSとBEAMSが開店、1979年に村上春樹
の「風の歌を聴け」、翌年に田中康夫の「なんクリ」。
1979年はAORが流行り「ライトで都会的で洗練された」が良しとされた。
この頃の若者が「決められたレールの上を歩きたくない」と言うだろうか。
ちょっと時代感覚がズレてる?という気がしなくもない。





<「もう森へなんか行かない」の使われ方>

「もう森へなんか行かない」はオープニングで流れる
原曲はA-B-B'-A-B-B'の構成で3'07"だが、尺の関係で2分弱に編集してある。

まずエピソードのさわりから始まり、イントロのギター抜きで歌が入る。


↓これは最終回。エピソードがいつもより長く、1'26"〜歌が始まる。
https://youtu.be/sLx32h_W3bg?si=4kB2PxZwJeNDtTgc






二子新地を出て多摩川を渡り、二子玉川に入る田園都市線の空撮をバックに
「沿線地図」のタイトル、脚本、制作スタッフなどのテロップが入る。
(この頃のドラマや映画はオープニングにクレジットが入るのが一般的だった)

横に246と二子橋も見える。二子玉川を過ぎて右に弧を描いてるのは大井町線。

(2年前に新玉川線・二子玉川〜 渋谷間が開通し、田園都市線が渋谷まで直通
で乗り入れるようになった。
これによって沿線の梶ヶ谷、宮前平、宮崎台、鷺沼、たまプラーザ、青葉台など
整備された郊外の都会的な街として人気が高まって行く)



(1979年の東急電鉄路線図に志郎と道子の家、会っていた場所を追記)




大井町線の運転席から撮った前方の風景が流れる。
(東京急行の許可を取って撮影しているそうだ)

大岡山トンネルを出たところで、配役のクレジットが入る。
等々力のホームを過ぎ、上野毛の待避線?に緑色の旧型車両がいるのが見える。



(丸っこい顔がかわいく芋虫電車と呼んでいたが、鉄道ファンの間では青ガエル
という呼称で親しまれているそうだ。
目蒲線、池上線でよく使われていた。国鉄の払い下げ車両らしい。床は木製。
井の頭線でも一部あった。クーラーがないので夏は窓を開けて走っていたっけ)



「もう森へなんか行かない」は最初の数回はエンディングでも流れた
さらに短く1分弱に編集してある。後半はオープニングだけで流れた。




<バリエーション>

フランソワーズ・アルディのこの歌は、フランス語の歌詞を「ささやくように」
にメロディに乗せている。詩を謳っている、という感覚かもしれない。

1拍内に3連符が続いだかと思うと、他の箇所では間を取ったり、緩急と
抑揚があり、フランス語ならではのイントネーションが心地いい。


(出典:musée sasem)


レコーディングも予め録音したオケに合わせて歌うのではなく、アルディの
歌にギターが合わせて行くやり方で、コーラスやストリングスは後からオー
ヴァーダヴしたのではないだろうか。





劇中では「もう森へなんか行かない」のバリエーションが頻繁に流れる。
シーンに合わせてテーマ曲のバリエーションを作る、という手法はよくある。

しかし、そのバリエーションが日本人歌手によるスキャットなのだ。
ルルルルル〜♪と8分音符を並べた単調な曲になってしまっている

さらに中盤から、メジャー・キーに転調したルルルルル〜♪も使われる。
前向きな、明るいイメージを出したかったのだろうか。ありえない!


メジャー・キーのバリエーション(スキャット)1'37"〜
https://youtu.be/PTLnJyYHI-g?si=-4lrZsX246uTYsAh





さらにさらに「森へなんか〜」とは無関係の、ありがちなボサノヴァ調の
ルルル〜♪も終盤で登場。なんか、やりたい放題だなー。


音楽担当の小川よしあき氏はフォーク歌謡でデビューしたものの鳴かず飛ばず
で、作曲・編曲に転身したがヒット作なし、という人物。
フランソワーズ・アルディを好むようなセンスがあったとは思えない。



1979年の都市に生活する各世代を描くための装置として東急線沿線を使う
そこにフランソワーズ・アルディのメランコリーな歌でやや鬱な色彩を配し、
子供たちの自立を「もう森へなんか行かない」で表現したい。
これが脚本家の山田太一さんと大山勝美プロデューサーの意図だったはずだ。





山田太一さんはこの後の「ふぞろいの林檎たち」では、サザンオールスター
ズの曲を多用しているが、選曲、曲を使うシーン、どこでフェイドアウトする
かなど、細かい指示を脚本に記していたという。

もしかしたら「沿線地図」で意図しない音楽の使われ方をしたことが反面教師
になっていたのかもしれない(勝手な推測ですが)




<フランソワーズ・アルディの他の曲>

私の騎士(Si mi caballero)」が後半に少しだけ流れた。
口笛が印象的で哀しげな曲。すばらしい選曲!もっと聴かせて欲しかった。

Francoise Hardy - Si mi caballero
https://youtu.be/8iEi4F-5nkE?si=Ize94hEce5u7t0Ja




↑Si mi caballero収録のアルバム「La Question」は名盤です!



人生は風のように(Au fil des nuits et des journees)」も1回だけ流れた。

Francoise Hardy - Au fil des nuits et des journées
https://youtu.be/2HPxRlkg-TQ?si=C90p73VkDxZ1BsLW




<参考資料:TBSチャンネル、Wikipedia、乗りものニュース、YouTube、
mogref せっかくなので昔の東急の路線図を作る、musée sasem
こんな街があったらね「沿線地図」~TVがつくる都市の記憶、
いいマンション ヴィンテージマンションを紹介、townphoto.net、他>

追記:私は鉄オタでもマンション・オタでもありません(笑