2025年3月21日金曜日

「ブルー・ライト・ヨコハマ」は川崎の工業地帯の夜景だった。




いしだあゆみ(以下、敬称略)が甲状腺機能低下症の悪化で亡くなったそうだ。
まだまだお元気で活躍されてる思っていたが。ご冥福をお祈りします。


どの記事も「ブルー・ライト・ヨコハマ」が代表作と報じている。


彼女にとって26枚目のシングルとなる本曲が発売されたのは1968年のクリスマス。
翌年にかけて大ヒットした。
発売日に10万枚のレコードが売れ、それが10日間続いたという。




時代は学園紛争のピーク。
若者たちは新宿西口広場で集会を開きフォークソングを歌い、機動隊と衝突した。
パンタロン、マキシスカート、シースルールック、ヒッピーが流行していた。

僕は中学生でラジオを聴き出した頃だった。
「夜明けのスキャット」「人形の家」などの歌謡曲とバニラ・ファッジ、ドアーズ、
クリーム、モンキーズ、アーチーズ、ショッキング・ブルー、ナンシー・シナトラ、
ツェッペリン、スコット・ウォーカーなんかを一緒くたに聴いていた。
「ブルー・ライト・ヨコハマ」もその一つ。リクエストが多くよく流れていた。


いしだあゆみ - ブルー・ライト・ヨコハマ
https://youtu.be/cZRk3kEkFz8?si=g54J1Gqkd2QY6wqy







歌詞もメロディもアレンジも完成度が高い。昭和を代表する名曲だ。
しかし実際はレコーディング前日に、苦戦しながら編み出した作品らしい。




<ブルー・ライト・ヨコハマが生まれた過程(歌詞)>

いしだあゆみはビクターから4年間で23枚のシングルをリリースしていたが、女優・
タレント業で忙しかったこともあり、歌手としてのイメージはあまりなかった。
そこで心機一転、「歌手・いしだあゆみ」を打ち出すためにコロムビアに移籍。
橋本淳・筒美京平のコンビが曲作りを担当することになった。

2人とも青山学院中等部〜大学の出身で、橋本淳は筒美京平の先輩である。
在学中にジャズ研で橋本淳がウッドベース、筒美京平がピアノを弾いていたらしい。
つまり「音楽を通じて気心知れた仲」ということだ。
また橋本淳は「楽曲の構造も演奏も心得ている作詞家」ということになる。



↑青学時代の橋本淳と筒美京平


コロムビアは「3曲作って欲しい、どれか100万枚超えのヒットを」と2人に依頼。
2曲出したけど売れない。橋本淳はプレッシャーを感じていた。

当時は曲先ではなく、詞先というスタイルで作っていたという。
3曲目は「ヨーロッパや港のイメージの歌」にしたい、と橋本は漠然と思っていた。


橋本は横浜の街をあちこち歩いてみたが、一向に言葉が浮かばない。
夜になってもう一度歩いてみようと、港の見える丘公園まで登って行った。

当時は辺り一面が真っ暗。公園から遠くを眺めると川崎の工場街が見えて、そこが
紫っぽいような、ブルーっぽい光が海に照り返っていた
これこそ自分が探していた光景だ、と橋本は思った。
カンヌの空港の滑走路に着陸する際に見た夜景を重ね合わせていたという。





その場で「ブルー・ライト・カワサキ」というタイトルが浮かぶ
でも、さすがにそれはどうかと思い「ブルー・ライト・ヨコハマ」に改めた。

カタカナで「ヨコハマ」にしたのも都会的で洗練されたイメージにつながった。
当時の横浜は進駐軍の影響が残っていて、東京にない尖った面白さがあるものの、
暗くて危ない街であった。


翌日がレコーディングでもう時間がないので、横浜から筒美京平に電話をかけて、
タイトルだけ決めたと伝えた。
筒美はメロディーを考えていたそうで「ポール・モーリアのアルバムにイントロ・
イメージが合うものがある」と言ったそうだ。

橋本はもう一度、海岸通りを歩き回わる。
歩いても、歩いても、何も思いつかなかった。「あれ?歩いても、歩いても
これをサビにしようか・・・」と即興でワンコーラス作る。
1番の歌詞を電話で筒美に伝え、橋本は帰宅して残りの歌詞を徹夜で仕上げた。

(作詞家・橋本淳が語る「ブルー・ライト・ヨコハマ」の誕生 2024年)







<ブルー・ライト・ヨコハマが生まれた過程(曲)>

筒美京平の曲作りの秘訣について、橋本淳がインタビューでこう語っている。

「あの人、やっぱり天才ですから、歌作りもまずコード進行から固めるんですよ。
外国のレコードもいっぱい聴いて吸収してね。
自分の気に入ったコードの並びに、サビでも1小節でもエンディングでも、日本
的なテイストを必ず入れていく。だからいくらでも曲が作れちゃうんです」

(作詞家・橋本淳が語る盟友・筒美京平 2024年)



いしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」はキーがマイナーキーでF#m。
Amで採譜した楽譜を見つけた。ギターやピアノで弾きやすくしたのだろう。
このキー=Amの楽譜で「筒美京平マジック」を探ってみたいと思う。





曲の構成はAメロ9小節+Bメロ(サビ)9小節の組み合わせ。
Am→Dm→E7からAmへ帰結、という演歌でもよく使われる「日本人が好きな」
マイナー・キーのコード進行だ。

イントロはE7のジャーンというギターに続いて、フロアタムのドコドンドン。
管楽器による情緒たっぷりのメロディが2小節(青い囲み)〜それと対話する
かのようなチェンバロとギターのカウンターメロディが2小節(緑の囲み)


最初に聴き手の心を掴み、歌に入る期待感を煽るのがイントロの役目だ。
(Z世代はタイパ重視でイントロ不要と考えてるそうだが、このオイシイ部分
を捨ててしまうのはもったいない)

筒美京平はイントロの達人でこだわっていた。編曲まで自分でこなす。






Aメロに入ってからも歌の「間」を埋めるようにオブリガードでフォロー
している。(青い囲み)
Bメロ(うでのなーかー♪)ではストリングスで装飾(オレンジの囲み)

筒美は同じ手法をオックスの「スワンの涙」でも使っていた。



6小節目がA7に一時的転調しているところがミソ。(赤い丸)
Am→A7→Dmのコード進行は、ドラマチックで切ない響きを生む。
7thコードは5度上のコード(Dm)に移行しやすい。

この場合A7のメロディは一時的にダイアトニックスケールになる(赤い丸)が、
次のDmですぐAmキーのナチュラル・マイナーに戻るから違和感がない。





あれ?一瞬、風の向きが変わったかな? あ、少し陽が射したみたい・・・
くらいの印象ではないか。でも、これだけでオシャレになる。

歌メロはいしだの歌唱力を考えてか、音域が狭くあまり高低差がない。
それだけに、Aメロ最後とBメロ最後の高域は際立つ。





Aメロの出だしは1拍分の休符が入り、2拍目から歌が入る。
(ン)まちのあかりが〜♪
Bメロ(あるいても〜♪)は小節の頭からメロディーが始まる。

これはアメリカのポップ・ソングの王道。洋楽っぽい感じになる。


ブルーライト〜♪のソ#はE7の構成音である(赤い丸)
Amキーのスケールとしては、純日本的なメロディック・マイナーだったのが、
ソ#で一時的にアラビア、ペルシア風響きのハーモニック・マイナーになる。
このちょっとした異国情緒感もスパイスになっていると思う。





あなたと〜♪はDm構成音ではないシが2拍続くので、Dm→Dm6が合うと思う。
が、オフィシャル音源を聴く限り、1小節Dmのままである。


しあわせよ〜♪はDm→F7on C→E7。(赤い丸)
ベース音をDから1音下降させてC、その勢いでE7 on Aでも良さそうだがベース
はルート音のE。次がAmだからベース音をE→Aにしてメリハリを付けたのだろう。

Bメロの こぶねのように〜♪も同じく、Dm→F7on C→E7。(赤い丸)


ゆれてあなたのうでのなーかー♪の山場で、初めてDm→G7→Cが登場。
一気に明るくなり、世界が広がったような気分になる。(ピンクの囲み)
(CはAmの裏コードで構成音が近く、メロディに使うスケールも共通である)







<いしだあゆみの歌唱>

この人は鼻にかかったような声抑揚のない歌い方が独特だった。
半拍遅れのようなタイム感(和製英語?)が、揺れとタメを感じさせる。
それが男女の揺れる関係を暗示しているようにも思える。


半拍遅れは楽器演奏でいうゴースト音のせいでもあるかもしれない。

♪ まッちのあッかりがー と・て・も・きれいね よッこはンま♫
促音や撥音便が潜んでいる。それが「ハネ感」になっているわけだ。
本人は無意識に歌ってるのだろうけど。







「私、歌ではあまりいい思い出はないんですよ。
音程が悪くて、いつも怒られてばかりで、すごく暗くなっていました。
ブルーライト・ヨコハマはレコーディングに48時間もかかったんです」
(1997年 日刊スポーツ いしだあゆみインタビュー)



「ブルー・ライト・ヨコハマ」はいしだあゆみの26枚目のシングル。
テレビで見る彼女は大人で色っぽく見えた。まだ20歳だったという。


1969年TBS「歌のグランプリ」に出演。
https://youtu.be/zg-tmlLikWM?si=87NgyZHtTHaAgAJI

1969年NHK「紅白歌合戦」に出場。
https://youtu.be/9Q9GAlLr43U?si=A2vFq5mv4fWcsdqp
※演奏が早いので、歌がついていけてない(笑
デジタル着色したためか、時々コワイ顔になる😱









<ブルー・ライト・ヨコハマで歌われる情景>

橋本淳は演歌の「捨てられても待っている女」的な男目線の女性観とは異なる
「若者の恋愛観」「揺れる女心」を歌詞にするのが巧かった。

「ブルー・ライト・ヨコハマ」に登場するのは横浜の夜の街を一緒に歩く男女。
女性の視点、気持ちが語られる。彼女は相手に夢中のようだ。
男は年上だろうか。もしかしたら不倫かもしれない。少し危険な香りがする。



 
                    (写真:Everybody×Photographer.com)


横浜の街の灯りがブルーできれいと彼女は言う。
伊勢崎町のことか?馬車道か?それとも山下公園に続く海岸通りだろうか?(※)


橋本淳に言わせると「横浜は元々青くなかった。あの歌が売れたおかげで、夜の
ライトがすべて青に変わった」らしい。
その真偽はともかく「ブルー・ライトに照らされる横浜」がパブリックイメージ
になったのは確かだろう。

あれから半世紀以上の時が流れた今も、ヨコハマにはブルーが似合う。
(歌旅 いしだあゆみ「ブルー・ライト・ヨコハマ」の喚起力 中西康夫)






2025年3月8日土曜日

ロバータ・フラックとロリ・リーバーマンの「やさしく歌って」



ロバータ・フラックが88歳で逝去した。ご冥福をお祈りします。
3年前にALSと診断され引退していたそうだ。
家族に見守られ、安らかに息を引き取ったという。


黒人R&Bシンガーの多くは(すごいとは思うが)パワフルで脂ギッシュすぎ。(1)
聴いてて疲れるから苦手だった。

その点、ロバータ・フラックは黒っぽさがいい意味で薄味。マイルドで聴きやすい。
少しハスキーで深みがあり、包容力のある声が魅力だった。



ジャズやゴスペル、ソウルを主体としながら、1970年代のフォークやロックを
うまく取り入れてる。特にこの人のバラードは絶品だ。


ピアノの弾き語りというスタイルもシンガー&ソングライター然としている。
実際に彼女はバフィー・セント・メリー、ジャニス・イアン、キャロル・ベイヤー
・セイガー、キャロル・キングなど、白人シンガー&ソングライターの曲を好んで
取り上げていた






ロバータ・フラックのヒット曲・名曲は数多いが、代表曲は1973年発表した
Killing Me Softly With His Song(邦題:やさしく歌って)」だろう。



ロバータ・フラックの「Killing Me Softly With His Song」
https://youtu.be/DEbi_YjpA-Y?si=xfW-jXPUGeZTDh3I




4週連続でビルボード・チャート1位という大ヒットを記録している。
1973年度グラミー賞で3部門の最優秀賞を獲得した。
(最優秀レコード賞/最優秀楽曲賞/最優秀女性ボーカル賞)


ロバータ・フラックがこの曲を歌うことになったのは奇跡に近い偶然だった。




<ロリ・リーバーマンの「Killing Me Softly With His Song」>





1971年初頭、駆け出しだったフォーク・シンガーのロリ・リーバーマンはある日、
LAのライヴハウス、トルバドール(2)で、同じくまだ売れる前のドン・マクリーン(3)
の歌を聴いて衝撃を受けた

マクリーンの「Empty Chairs」を聴いたとき、ちょうど失意にあった彼女はまるで
「自分の心を見透かされた」ような気がしたという。
それは大切な人が去った後の「空っぽの椅子」を歌ったバラードだった。

ロリはショーのあと一人席に残って「Killing Me Softly With His Blues」という
詩をテーブルの上の紙ナプキンに書いた。




19歳だったロリは作詞家ノーマン・ギンベル、作曲家チャールズ・フォックスと
楽曲提供、制作、マネージメントを任せる契約を結んでいた。



↑作詞家ノーマン・ギンベルとロリ・リーバーマン



彼女は自分が書いた詩を2人に見せる。
Bluesという言葉が時代に合わないという意見が出て「Killing Me Softly With 
His Song」に変え、ギンベルとフォックスが曲として仕上げることになった。


「Killing Me Softly With His Song」のニュアンスは日本語で表現しにくい
「あの人の歌、めっちゃ心に刺さってもうだめ〜」みたいな感じだろうか。(4)


I heard he sang a good song I heard he had a style 
すてきな曲を歌う人だと聞いたわ 独自のスタイルがあるそうね
And so I came to see him to listen for a while  
それで彼を見に来たの 少し聴いてみようと思って
And there he was this young boy a stranger to my eyes
そこにいたのは初めて見る若者だった

Strumming my pain with his fingers Singing my life with his words 
ギターを奏でる指が私の痛みをかき鳴らす(5) 私の人生を歌ってる
Killing me softly with his song Killing me softly with his song 
その歌はそっと私を傷つける 耐えられないくらい
Telling my whole life with his words Killing me softly with his song
私の人生すべてを言葉にして暴き 私をやさしく傷つける 

(Charles Fox - Norman Gimbel 対訳:イエロードッグ)



↓ロリ・リーバーマンの「Killing Me Softly With His Song」
https://youtu.be/ua4n_sTa9f4?si=kg6IK74caZ0Gj3Sy







完成した曲は、1972年発表のロリのデビュー・アルバムに収録された。
ただし、作詞作曲のクレジットに彼女の名前はなかった

ロリの「Killing Me Softly With His Song」は地味ではあるが、アコースティッ
ク・サウンドの正統派フォークで、澄んだ歌声が瑞々しい。
ヒットはしなかった。


ところが、奇跡が起きる。



↓マイク・ダグラス・ショーに出演したロリ・リーバーマン(1973)
「Killing Me Softly」を歌い、この曲が作られた経緯を話している。
https://youtu.be/cTyGLBANuOg?si=Awbz8GLomO1x2mLO





<ロバータ・フラックと「Killing Me Softly With His Song」>

この頃、既に売れっ子で活躍していたロバータ・フラックは、ツアーでロサンジェ
ルスからニューヨークに向かう飛行機に乗っていた。

彼女はイヤホンで機内オーディオ・プログラム(6)の音楽を聴こうと思い、機内誌の
再生リストに目を通した。


「Killing Me Softly」というタイトルが目に留まり、気になって何度も冊子を手
に取っては戻しを繰り返し、結局聴いてみた。とても気に入ったという。
機内で紙に五線譜を書き、何度も再生しながら耳コピでメロディーを採譜した。






ニューヨークに降り立つとすぐスタジオに駆け込み、リハーモナイゼーション
元のコードの置き換え、新しいコードの付加などでコード進行を再構築していく
アレンジ手法)を行った。(7)


数日後、ジャマイカのスタジオでバンドと一緒にこの曲をリハーサルしたものの
、満足できる出来ではなかったためボツ。
数ヶ月かけて曲に取り組み、ニューヨークのアトランタ・スタジオで完成させた。
ロバータ・フラックはローランド・カーク(8)のサックスを意識して歌ったという。


不思議なのは、ヒットもしなかったロリの「Killing Me Softly〜」がなぜ飛行機
のオーディオ・セレクションのリストに入っていたのか?ということである。
そして、たまたまロバータ・フラックが「Killing Me Softly」というタイトルに
興味を持ち、耳にすることになったという偶然。

運命のいたずらだったのか、神の計らいによる巡り合わせなのか・・・・・







<ロバータ・フラックの新アレンジで蘇った「Killing Me Softly 〜」>

バックビートを強調しつつ16ビートも加え、ミディアム・テンポのバラード
仕上がっている。
レコーディングに参加したミュージシャンはすべて黒人。
グルーヴ感(ノリ)を大切にしたかったのではないだろうか。


巨匠ロン・カーターが力強いベースライン(珍しくエレクトリック・ベース?)
を弾き、STUFF結成前(!)のエリック・ゲイルがナイロン弦ギターでサンバ
調アルペジオを弾いている。(この人がこういう演奏をするとは!)
この2つでどっしりした曲の骨格ができあがっている。

加えてラルフ・マクドナルドのパーカッション、グレイディ・テイのドラム、
ハワード大学以来の盟友であるダニー・ハサウェイのコーラス、そしてロバータ
・フラックのエレクトリック・ピアノ(音色が彼女のボーカルと相性がいい)




↑ロバータ・フラックとダニー・ハサウェイ



自身とハサウェイのハーモニー、スキャットには深いエコーがかけられた。
あえて音像を濁らせ、左右に響くミックスにしてある。
ジャマイカのセッションで満足できず、彼女がこだわった部分はここのようだ。


きわめつけは、ヴァース(Aメロ)とブリッジ(Bメロ)の順番の入れ替え
確かにこの入り方だとつかみがいい(聴き手を惹きつける)

ブリッジ(Bメロ)のStrumming my pain with his fingers〜♪から入り、ほぼ
アカペラ(エレピのみ)で14小節歌い、その後ギターとベースが同じフレーズを
繰り返す8小節でたっぷりタメを作る。

盛り上がったところで I heard he sang a good song〜♪のヴァース(Aメロ)へ。



↓ジョニー・カーソンのトゥナイト・ショーに出演したロバータ・フラック。
「Killing Me Softly」とディランの「Just Like a Woman」を歌った。(1973)
クラシック、ゴスペル、ジャズの経験が役に立った、と話している。
https://youtu.be/CrjQ6BAFpn0?si=xxpB5n6YmY79cXJ6








<その後のロリ・リーバーマン>

ロリ・リーバーマンは車を運転中にこのロバータ・フラックのバージョンが偶然
ラジオから流れてきて、路肩に停車して聴き入ったという。嬉しかったそうだ。


ロリの控えめな歌はヒットこそしないものの、ラジオでは人気を博していた。
しかしロバータ・フラックの「Killing Me Softly With His Song」が大ヒットして
以降、ロリのオリジナル・ヴァージョンは影が薄くなって行く。

音楽業界への失望もあり、1980年にロリ・リーバーマンは引退する。
3児の母となっていた彼女はスポットライトを浴びない生活を送っていたが、
周りの薦めもあり1990年後半から音楽活動を再開。





2009年以降、ロリ・リーバーマン再評価の機運が高まり、知名度も上昇。
旧作のリマスターと配信。新作アルバムをレコーディングした。
ヨーロッパツアーを開始し、ホールを埋め尽くすほどの観客を集めている。



ロバータ・フラックの訃報に接したロリ・リーバーマンは声明を出した。

 「ロバータ、あなたは私や多くの人々に世界を開いてくれました。
  あなたの芸術的才能、やさしさ、そして私の歌で。
  あなたへの感謝は一生忘れません。
  あなたの旅立ちに愛と幸がありますように。。。」








<「Killing Me Softly With His Song」の作者は誰か?論争>

ロリ・リーバーマンの知名度が高まる中「Killing Me Softly With His Song」
は曲作りに彼女が関与していた、クレジットに名前がないのはおかしい、という
声が挙がるようになる。
ノーマン・ギンベルとチャールズ・フォックスはロリの関与を否定した。

ギンベルは「Killing Me Softly With His Blues はアイディア・ノートから引き出
したフレーズで、チャールズ・フォックスと2人で曲を仕上げた。
2人の作品を歌ってもらう予定だったロリ・リーバーマンに聴かせると大変気に
入り、ドン・マクリーンのライヴで彼の歌を聴き同じ気持ちになったと言った。
このロリの発言が、彼女の体験に基づいて作曲したと間違って言い伝えらえた。
いわば都市伝説だ」と言ってる。


しかし歌詞を見ると女性視点だし、明らかに彼女の体験が元になっている
ドン・マクリーンもロン・リーバーマン作者説を支持すると公表している。





(写真:GettyImages)


そして1973年当時、ギンベルがデイリーニュースに語った記事が発掘されたこと
で、この論争は明確な結論に達した。
「彼女はマクリーンの歌を聴いたときの強烈な体験を語ってくれた。いい曲になり
そうな予感がしたので、3人で何度も話し合った」とギンベルが言ってるのだ。


現在、Wikipedia英語版の「Killing Me Softly With His Song」では作者は(クレ
ジットされていない)の注釈付きで、ロン・リーバーマンも併記されている。



海外でも日本でも著作権や出版権については、見解の相違で揉めることがある。
「Killing Me Softly」のケースも、19か20歳そこそこの新人の女の子を搾取する
エンタメ業界の深い闇の一例のような気がする。


<脚注>