2021年5月5日水曜日

井上陽水の「氷の世界」は終わりの始まり<前篇>

 <「氷の世界」-日本音楽史に打ち立てた金字塔>

井上陽水の3枚目のアルバム「氷の世界」は1973年12月1日の発売と同時に異常な
売れ行きをし始め、オリコン・アルバムチャートの第1位に躍り出た。
そのまま113週連続(2年以上)ベスト10に留まり、発売から1年9ヶ月後の1975年
8月には100万枚を突破し、日本音楽史上初のミリオンセラー・アルバムとなる。


大卒サラリーマンの平均初任給6万円の時代、2200円のLPが飛ぶように売れたのだ。
ステレオの世帯普及率は40〜50%。
大半の人は500円のシングル盤を買い、小型の電蓄で聴いていた。
中高生、いや大学生のお小遣い事情でさえ気軽にLPを買えなかったはずだ。

洋楽ロックや当時、台頭して来た和製フォークを聴く層はヒット曲だけでは満足でき
ず、シングルではなくアルバムで聴きたい気持ちが強かった。
歌い手の世界観やコンセプトを共有したい、という気持ちで買ってた気がする。
しかしディープな音楽ファン以外の層にも売れないと100万枚超えは難しいだろう。


このアルバムはなぜそんなに売れたのか?
「氷の世界」成功の理由を探る前にそれまでの流れを押さえておこう。


<井上陽水という売り方>

井上陽水は福岡から上京しホリプロと契約。
CBSソニーよりアンドレ・カンドレの芸名でデビューしたが鳴かず飛ばずだった。




その後ポリドール・レコードに移籍。井上陽水と改め再デビューを果たす。


井上陽水(あきみ)というのが彼の本名だった。
マネージャーの奥田義行氏は当時、既にフォーク界で不動の人気を誇っていた吉田
拓郎が「拓郎」の二文字で若者に支持されてることから、「陽水」の2文字を強調
し対抗していこうと考え、井上陽水(ようすい)として売ることにする。

ポリドールのプロデューサー多賀英典氏も拓郎を仮想敵にし追い抜こうと考えた。
「吉田拓郎が一頭地を抜いてた。誰にも分かりやすい歌で軽妙洒脱さが陽水と違う。
拓郎のアルバムは初め、陽水より全然売れていた」と当時を振り返る。

陽水も「圧倒的に吉田拓郎という人が当時いて、見上げるような感じで燦然と輝い
ていたのは事実で、当然意識はしていた」と言っている。



<断絶、傘がない〜政治の季節の終わり>



1972年5月に発売された最初のアルバム「断絶」は徐々に売れ始めた。
きっかけは陽水がミッドナイト東海(東海ラジオの深夜ラジオ番組)に出演し生で
4~5曲歌い、人気DJだった森本レオが番組内でレコードを全曲紹介したことだ。
名古屋のヤマハ本店で「断絶」が70枚売れて話題になる。




「断絶」はモップスの星勝が編曲。モップスのメンバーが演奏で参加している。
深町純もピアノとオルガンを弾いた。
「家へお帰り」以外すべての曲が暗く重い。僕は好きになれなかった。




7月に「断絶」から「傘がない」がシングル盤としてリリースされる。
社会が抱える問題よりも今日の雨、恋人に会いに行きたいのに傘がないことの方が
問題だ、と皮肉を込めて歌われている。
社会的問題に向き合わないミーイズム(自己中心主義)とも言われた。
(同年、拓郎は「結婚しようよ」をヒットさせている)

 都会では自殺する若者が増えている 今朝来た新聞の片隅に書いていた
 だけども問題は今日の雨 傘がない



↑陽水の弾き語りによる「傘がない」が視聴できます。(1972年頃)


「今朝来た新聞の片隅に書いていた」はビートルズのア・デイ・イン・ザ・ライフの
歌詞、 I read the news today, oh boy から着想を得たそうだ。


 テレビでは我が国の将来の問題を 誰かが深刻な顔をしてしゃべっている
 だけども問題は今日の雨 傘がない


作曲された1971年はまだ政治の季節であった。
が、翌1972年には学生運動が鎮静化。政治に無関心なシラケ世代の時代になる。
そのため「傘がない」は憂国の時代、政治の季節の終わりを告げる象徴と言われた。


Am-G-F-E7sus4-E7の循環コード(アンダルシア進行)はグランド・ファンク・レイ
ルロードのハートブレイカーのパクリ?にも思えた。
当時は2曲つなげて歌ったものだが(コードが簡単なので初心者でも弾きやすかった)、
実際にハートブレイカーが元ネタらしい。

1971年7月伝説となったグランド・ファンク・レイルロードの激しい雷雨中の後楽園
球場公演で演奏されたハートブレイカーに触発された陽水は「傘がない」を作った。
後からサビの冷たい雨が〜(Dm)が追加された。



↑グランド・ファンク・レイルロードのハートブレイカーが聴けます。


Am-G-F-E7は、悲しき街角、ウォーク・ドント・ランなどポップスでよく使われる
コード進行だが、「傘がない」はリズムの刻み方もハートブレイカーに酷似してた。

「傘がない」が呼び水となり、アルバム「断絶」は徐々に売れ始めた。
1972年発売当初より、3枚目の「氷の世界」と並行して1974年〜1975年にかけ
163週にわたりオリコン100位にチャートイン。51万枚のセールスを記録。
陽水のアルバムの売れ方の特徴でもあるがロングセラーとなった。



<東へ西へ、紙飛行機、夢の中へ>

陽水自身は売れた理由について「おりからのフォークブームでなんとなく浮上」
と述べている。(「陽水ライヴ もどり道」ジャケット内自筆年表)


1972年12月発売の2枚目のアルバム「陽水II センチメンタル」も同じく、発売時
よりも1974年に年間8位、1975年に年間15位を記録した。




センチメンタルというタイトルはプロデューサーの多賀英典氏がつけたもの。
人間なんて基本的には女々しいんだからいいじゃないかという気持ちと、この頃
から陽水で勝とう、絶対注目を集めてみせるという対極の意識が芽生えたそうだ。

このアルバムからはシングルカットされなかったが、「東へ西へ」「紙飛行機」
は後に「傘がない」と並ぶ代表曲となった。



↑クリックすると陽水の「東へ西へ」が聴けます。
(近年iriのカヴァー・ヴァージョン<Yaffleプロデュース>で再評価された)



個人的には「たいくつ」が好きだった。

 つめがのびている 親指が特に のばしたい気もする どこまでも長く
 アリが死んでいる 角砂糖のそばで 笑いたい気もする あたりまえすぎて



達観したような万物の見方。静かな「わび・さび」の境地にも通じる世界観。
陽水のギターはニール・ヤングのミュート奏法を参考にしたと思われる。
安田裕美のアコースティックギターのからみ方もいい。



↑「たいくつ」が聴けます。(1973年 新宿厚生年金会館 陽水ライヴ もどり道)



前述の3曲、そしてこの曲。すべてAm(カポ使用曲も含め)で演奏されている。
陽水はマイナーで歌われる曲が多く、陰鬱で重苦しいイメージが強い。
(「あどけない君のしぐさ」「白いカーネーション」など綺麗な曲もあるが)


翌1973年3月発売のシングル「夢の中へ」はそれまでの暗さを払拭し、明るく
親しみやすいポップなロックンロールである。
シングルでは初めて20位以内にランクインし、20万枚近いセールスを記録。
これも陽水の代表曲の一つとなった。



<拓郎と陽水の二強時代>

1973年当時、従来のプロテスタント・フォークとは違った私的な世界観を歌う
和製フォーク(荒井由実に四畳半フォークと揶揄される)が一つのジャンルとして
確立され、マーケットとしても大きくなっていた。

そのフォークソング・ブームの頂点にいたのが拓郎と陽水である。
もっとも当の二人はフォーク歌手という自覚はない。
ディランやドノヴァンやニール・ヤングに傾倒しアコースティックギター(当時
はフォークギターと呼ばれた)を弾くシンガー&ソング・ライターだったのが、
周囲が勝手にフォークというジャンルにカテゴライズしたというだけの話である。




フォーク・ブームの中、拓郎派と陽水派が生まれた。(両方とも好きな人もいた)
デビュー時から恋愛を歌い女子に人気があった拓郎は、フォークはプロテスタント
であるべき論を唱える左派から軟弱視され野次られることも多かった。

一方、内省的で淡々と自分の世界観や心情を歌う陽水は、ポスト学生運動のシラケ
世代、どちらかというと男に支持されていたと思う。


当時、陽水と一緒にツアーすることが多かったアリスは女の子のお客さんが多く、
陽水は男性客が多かった。
「チンペイのとこはいいよな、黄色い声が多くて。俺はぶっとい声でヨウスイ~!
とか言われてがっかりだよ」と陽水は谷村新司によく愚痴っていたそうだ(笑)
(「陽水ライヴ もどり道」を聴くと女性ファンの声も聞かれるが)

拓郎にも陽水にも熱心な信者がいたが、陽水の方がより多かった気がする。
陽水の詩の行間から自分が共感できる何かを読み取ろうとしていたのだろうか。





<「氷の世界」は日本社会の終わりの始まりだった>

陽水の歌には、こうあるべきだ、と人に行動を促すメッセージ性はない。
世の中いろいろ起きてるけど僕はここでなんとなく生きてます、と陽水は歌う。
「あかずの踏切」の歌詞のように、今の場所に留まって傍観しているだけだ。

 相変らず僕は待っている 踏切りがあくのを待っている


それが前述のように憂国の時代、政治の季節の終わりを告げる象徴とも言われた。
学生運動の無力さを痛感し就活に切り替えた団塊世代、それを傍観していた政治
に無関心なポスト団塊世代(シラケ世代)の心を陽水は捉えた。




「氷の世界」が発売された1973年12月の直前、オイルショックが起きたことも
見逃せない。
翌1974年に日本は-1.2%という戦後初めてのマイナス成長を経験する。
それは高度経済成長の終わりを告げるものであった。
挫折である。「頑張れば報われる」神話が通じなくなった。




谷村新司は「高度成長の中、団塊の世代は勝つことに躍起になっていた。
価値観が違うことを教えてくれたのがこのアルバムなんじゃないかと思う。
自分はこう思うと堂々と主張してもいい。共感する人は支持してくれると」
と言っている。


宗教史学者の中沢新一氏は「氷の世界」をこう評した。
「日本はずっと『あかずの踏切り』を続けてきた。向こうへ行きたいけど
渡れないでずっと待っている。到着点を示すのがメッセージソングという1970
年代に、待機している状態を歌っているのが新鮮だった。
目的に向かって突っ走っていたのがオイルショックで挫折した時に、井上陽水
のこの考え方は大きな意味を持つ。
日本は3.11である部分すべて終わった。『氷の世界』は予兆的でもある」




タイトル曲の「氷の世界」では、誰もが内包する矛盾や狂気や叫びが歌われる。

 誰か指切りしようよ 僕と指切りしようよ
 軽い嘘でもいいから 今日は一日はりつめた気持でいたい

 人を傷つけたいな 誰か傷つけたいな
 だけど出来ない理由は やっぱりただ自分が恐いだけなんだな

 そのやさしさを秘かに 胸にいだいてる人は
 いつかノーベル賞でももらうつもりで ガンバッてるんじゃないのか

 毎日 吹雪 吹雪 氷の世界


「若者にとっての不条理がこの時代溢れていた。若者に対する拒絶の仕方。
もっとたくさんの井上陽水がいたということはまちがいない。
自分たちの目の前の不条理を言ってくれた陽水を彼らは支持した」
と伊集院静は言っている。





<「氷の世界」は歌謡曲の終わりの始まりでもあった>

なかにし礼は「拓郎と陽水の二人の出現によって、職業的な作詞家作曲家の存在
はほとんど不要になった」と言っている。

「われわれ職業作家が作詞・作曲し歌手が歌うという作業では、1970年代の若者
たちが抱えていた精神の問題を解決する作品には成りえていなかったということ。
それを彼ら(拓郎と陽水)がすくい取って、自分たちの作品に反映させていった」

あの時代「氷の世界」が出たことによって歌謡界そのものが終わってる。
その後も細々続いているけれど、それは永遠に終わりの始まり。
若者が自分で作詞作曲して歌う、という姿勢はいまだに貫かれている」



↑後に作詞・作曲、スタジオ・ミュージシャンとして歌謡界でも存在感を増して行く
はっぴいえんどの大瀧詠一、細野晴臣、鈴木茂、松本隆。



筒美京平は「吉田拓郎の登場は危機感は持った。井上陽水が出てきた時はそれほ
ど意識しなかったけど」と言っている。
筒美京平ら作曲家が洋楽を取り入れて洒落たコード進行やアレンジで装飾し進化
させてきた歌謡曲を、単純で素朴なコードで字余りソングを歌う拓郎が覆した。
(一方、吉田拓郎は「いい曲だと思うとたいてい筒美京平だった」と言っている)

陽水は演歌にも通じる日本的なメロディやコード進行の曲が多かったから、(歌詞
を別にすれば)作曲家の筒美京平にとってさほ脅威でなかったのかもしれない。


職業作家が用意した曲を歌手が歌うという従来の歌謡界のシステムは崩れ出す。
テレビの歌番組で局が用意した歌伴オーケストラの演奏でワンコーラス歌わせて
もらってレコードの販促につなげる、というヒット曲作りの方程式も揺らいだ。




吉田拓郎や荒井由実はヒット曲のショート・ヴァージョンを歌うのは嫌、自分が
歌いたい歌を何曲か、自分(と自ら率いるバンド)で演奏して歌うスタジオ・
ライブの形式じゃないと受けない。それ以外は出演を断り続けた。

陽水にいたってはこの頃はテレビ出演を断っていた。見ることが奇跡的。
コンサートに行かないと見れない。それが陽水をより大きい存在にしていた。

(続く)


<参考資料:「井上陽水 氷の世界40年」日本初ミリオンセラーアルバムの衝撃
とその時代(NHK 2013年12月放送)、中央調査報 世帯インデックス調査、
アセットマネジメントOne、産経ニュース、戦後昭和史 レコードの価格推移、
レコードコレクターズ、ザ・カセットテープ・ミュージック、Wikipedia、他>

2021年4月17日土曜日

日本のロックは1965年のベンチャーズ来日で始まった(3)

                                                                                          
(1965年 週刊明星)


<1965年7月、ベンチャーズ3回目の来日で単独公演>

1月の来日から半年、7月に再びベンチャーズは日本にやって来た。
いや、日本のファンにとってはベンチャーズが帰って来た!というべきか。

実は1月の公演は前年11月28日に発売され、その日のうちに完売したそうだ。
1月13日の札幌でベンチャーズは15公演を終え帰国するはずだったが、あまり
の反響から14日に渋谷のリキ・スポーツパレス追加公演(ダンスパーティー)
が行われた(翌15日にその模様がフジテレビで放映)ことは前回も書いた。

そして1月の来日前にすでに7月の来日公演が決定したというから驚きである。


ベンチャーズ人気が高まると同時に、エレキギター・ブームが起きていた。
来日直前の6月フジテレビ系列で「勝ち抜きエレキ合戦」が始まる。

ベンチャーズ人気の沸騰、空前のエレキギター・ブームの中、ベンチャーズは
3度目の来日を果たす。


                                                                                        (1965年 週刊明星)


7月22日、東武デパート屋上でのサイン会には2万人のファンが押し寄せた。

7月24日〜9月3日にベンチャーズは全国28都市(四国、長野、新潟を除く)を
周るコンサート・ツアーを敢行。公演回数は58回。観客動員数は17万人。

東京だけでも厚生年金会館×8回、サンケイホール×6回、東京音協例会×2回、
台東体育館×1回、大田区民会館×1回、八王子市民会館×1回。
横浜、川崎、平塚、葉山、静岡、浜松、名古屋、大阪×4回、神戸、京都×6回、
広島、福岡、別府、高崎、金沢×2回、富山、福島、山形、仙台、秋田、室蘭、
旭川、帯広、釧路で公演を行なう。

来日アーティストが訪れる機会が少ない地方にも旋風を巻き起こした。
これが日本で全国的にベンチャーズが愛された理由になっていると思う。



今回は前座を入れず、ベンチャーズ単独で45分のステージを2回の2部構成。
新曲も多く披露し、全国のファンを熱狂させた。

演奏曲や順序は公演日や会場によって少し異なる。
ライブ収録されたと思われる7月25日(1) 厚生年金会館の演奏曲は以下の通り。

<第1部>
1. クルーエル・シー
2. ペネトレイション
3. ウォーク・イン・ザ・ルーム
4. 10番街の殺人
5. 朝日のあたる家
6. ラップ・シティ
7. 夢のマリナー号
8. ピンク・パンサーのテーマ
9. アウト・オブ・リミッツ
10. イエロー・ジャケット
11. ラヴ・ポーションNo.9
12. 悲しき街角(ドンのボーカル)
13. ウォーク・ドント・ラン’64
14. ワイプ・アウト

<第2部>
15. ベンチャーズ・メドレー(ボブがリード、ノーキーがベース)
(ウォーク・ドント・ラン~パーフィディア~木の葉の子守歌)
16. 悲しき闘牛(ボブがリード、ノーキーがベース)
17. テルスター(ボブがリード、ノーキーがベース)
18. ドライヴィング・ギター
19. フィール・ソー・ファイン(ドンのボーカル)
20. パイプライン
21. アパッチ
22. アイ・フィール・ファイン
23. サーフ・ライダー
24. ブルドッグ
25. バンブル・ビー・ツイスト
26. ダイアモンド・ヘッド
27. キャラバン(アンコール)

前日7月24日(初日)はサマータイム、星への旅路を含め29曲演奏された。(2)


      


8月11日には葉山マリーナのプールサイドで演奏。
右下にメル・テイラーにドラムの手ほどきを受ける?星由里子(澄ちゃん!)
を加山雄三、ノーキー、ドン、ボブが楽しそうに見ている写真が載っている。
ここにはザ・ヒットパレードに出演した時の交歓風景と記されているが、
正しくは後述の「花椿ショー スターの広場」ではないかと思う。
      ↓
<2023/3/30 訂正> THE M VENTURESさんから情報をいただきました。
写真はザ・ヒットパレードに出演した時の交歓風景だそうです。
 THE M VENTURES さん、ありがとうございました。


                                                                                    (ミュージック・ライフ)




<TV出演>

7月28日フジテレビ系列の番組「花椿ショー スターの広場」(3)で、加山雄三
&ランチャーズとベンチャーズが初共演した。
7月28日と8月4日の2回放送されたが、7月28日に2回分収録したのだろう。





↓「花椿ショー スターの広場」出演時のランチャーズとベンチャーズの演奏が
聴けます。(NEW!)

ブラックサンドビーチ
https://youtu.be/bai7PYkMZpA

ベンチャーズメドレー
https://youtu.be/WzAJjFVyqOU

10番街の殺人
https://youtu.be/_1MAzj5Fma0



<2023/3/30 追記>
THE M VENTURESさんがYouTubeにアップしてくれた音源です。
以前のリンク先より、はるかに音質のいい貴重な音源です。

「ベンちゃん'sア・ゴー・ゴー」サイトを運営されていた方(ご逝去されたとの
こと。ご冥福をお祈りいたします)から譲り受けた音源だそうです。

上の写真は「花椿ショー スターの広場」出演時のもの。初めて見ました!
これもTHE M VENTURESさんのYouTubeより使用させていただきました。

階段状のステージで、ブラックサンドビーチの音源ではランチャースがベンチャ
ーズと交代する際の階段を昇り降りする音が確認できます。
加山雄三はこの時ジャズマスターを、他メンバーもフェンダーを使用している。
アンプはグヤトーン。ベンチャーズと共用したようです。

THE M VENTURES さん、ありがとうございました。



ダイアモンド・ヘッド/ベンチャーズ、ブラックサンドビーチ/ランチャーズ、
キャラバン/ベンチャーズの3曲。
加山雄三はブラックサンドビーチはこの番組の3日前に作曲したと言っている。(4)
この共演を機にノーキー、ベンチャーズと加山雄三の友情が始まった。

ツアー終了後、ノーキーはパールホワイトのモズライトを加山にプレゼント。(5)
加山雄三は12月公開映画「エレキの若大将」でこのモズライトを弾いている。



※下の写真は翌1966年3月の来日時、日本テレビのビッグ・ヒット・ショー
に出演し2回目のTV共演をした時のもの。
ノーキー、ドン、ボブはキャンディー・レッドのモズライト、加山雄三は
前年にノーキーが使用していたパールホワイトのモズライトを使用している。
加山雄三は「エレキの若大将」の挿入歌、夜空の星か、この翌月発売になる
蒼い星くずを歌っているのではないか、と思われる。(6)

<追記> THE M VENTURES さんから情報をいただきました。
左の2台の台形のコンボ型真空管アンプはモズライトの試作機だそうです。
尚、市販された時はトランジスタ製になったようです。
 THE M VENTURES さん、ありがとうございました。




尚、同じ7月28日にフジテレビ系列のザ・ヒットパレードに出演したという
記録も残っている。同じ日に2つの番組に出演したのかどうか不明。
(両番組とも河田町のフジテレビのスタジオでの収録なので可能ではある)

8月1日にはフジテレビ 日曜お好み劇場「ザ・ベンチャーズ・ショー」として
厚生年金会館でのライブの模様が放送された。
(7月25日の公演を局が収録したのか?後述の映画の一部を紹介したのか?)

フジテレビ「スター千一夜」に出演したという記録もある。
1965年7月の来日時は6回テレビに出演しているが、すべてフジテレビだった。




<映像作品>

1967年7月〜の来日はモノクロ70mmシネマスコープで撮影され、翌年1966年
7月に映画「ザ・ベンチャーズ '66 スペシャル~愛すべき音の侵略者達」(英題
:Beloved Invaders The Ventures 松竹富士)が全国で公開された。(7)





タイトルに '66とあるため1966年のライブと誤解を与えるが、1965年7〜9月
来日時に撮影されたものである。


脚本・監督がアメリカ人のためか、視点がアメリカから見た日本でおもしろい。
(撮影クルーは日本人、ナレーションは大橋巨泉)
絶頂期のベンチャーズの演奏がハイクオリティで見られ、オフステージの様子や
日本のファンとの交流、当時の若者の姿も捉えられた貴重な記録映画でもある。
ベンチャーズの会話が牟田禎三ら俳優の吹き替えという違和感はあるが。
(当時、日本語版と英語版の2種類が
制作された) 



↑「ザ・ベンチャーズ '66 スペシャル~愛すべき音の侵略者達」が観れます。
(演奏は22'30"〜)




ベンチャーズの演奏は17曲収録されている。撮り方も編集も巧い。
アンプの配置から東京厚生年金会館での公演、横浜、京都、大阪、広島での
公演やオフステージ、移動時間を撮影し編集したのはないかと思われる。




曲によってアンプの前に立ちマイクがある映像とないものが混在している。
立ちマイクが置かれた映像は隣のアンプの音が入らないように、3台のアンプが
他の映像よりは離れて設置されている(前回1月公演収録時での音の被り、歪み
、残響を改善するためか)ので、その日に録音したのだろう。

録音用機材の調達などを考えると東京(保険の意味で2会場で)の可能性が高い。
使用されている音源は実況録音盤として1966年3月に発売されたAll About The 
Ventures(邦題:ベンチャーズのすべて ※後述)と同じである。


よく見ると音と映像がややズレ気味な部分がある。




この映画は1987年にビデオ、LD化された。(後にDVD化)
東芝EMI映像制作室の佐藤恒夫氏によるとかなり大変な作業だったようだ。

35mmフィルムは東洋現像所(現IMAGICA)に保管されていたのを発掘。
シネスコサイズ(ワイドスクリーン)のネガを4:3のテレシネサイズ(旧テレビ、
ビデオ、LD、DVDのアスペクト比)にして1インチビデオに変換する。
(この際、上下が黒味になる)(8)

日本語版と英語版の2種類制作されているが、音声(フィルムの映像の横に
入っている)は英語版しか見つからない。




フィルムに入ってる音を抜き出し1インチビデオに入れることにした。
が、問題があった。
1) 映画館で使用したプリントのため音はモノラルである。音質も良くない。
2) フィルムに傷やコマの欠損(9)があり、演奏が何箇所も音飛びしてしまう。

演奏部分はステレオで録音されたスコッチのテープ(レコード用のマスター
とは違うようだ)を捜し出し、映像にシンクロさせる作業が始まった。

現在のようにコンピューターを使ってタイムコードで簡単にシンクロ作業でき
るわけではない。
映像を見ながらシンクロさせていくアナログの根気の要る作業になる。
当時の古いテープレコーダーと現IMAGICAの使用機器とは微妙な回転スピー
ドの違いもあり、許容範囲内で若干ピッチを調整しシンクロさせたそうだ。


これが前述の音と映像のズレの原因だ。
メルの叩くタイミングとリズムが若干合ってない部分があるのも納得。
それよりも貴重な映像の記録がこうして残されていることに感謝したい。




映像で見ると、ベンチャーズの演奏力の高さ、醍醐味がさらに伝わる。
ノーキーの多彩なプレイ、ドンの力強いリズムギター、ボブの元祖リード・
ベースとでも言うべきベースギターの枠を超えたベースライン、パワフル
でありながら小技の効いたメルのドラミング。

スティーヴ・ガットが自分の原点はメル・テイラーと言ってたのも納得。
左手の返し、スナップの利かせ方がすごい。
後のスティーヴ・ガットの左手だけでハイハットとスネアを叩く(右手はライド
シンバルやタム、フロアタムを叩く)という超人技の雛形になってるのだろう。


今回はノーキー、ドン、ボブの3人ともパールホワイトのモズライトを使用。
映画ではアンプは3人ともフェンダー製ブロンドのピギーバッグを使用している。
(他の公演の写真を見ると、会場によって全員グヤトーン、ピギーバッグと
グヤトーンの組み合わせなど、違いが見られる)





<ライブ盤>

1月公演の実況録音ベンチャーズ・イン・ジャパン(Ventures In Japan)
が8月(7月〜の3回目の来日の最中)に発売されたことは前回も書いた。

今回も厚生年金会館での公演が録音され、ベンチャーズ・イン・ジャパン第二集
(Ventures In Japan Vol.2)として翌1966年3月に発売された。
(7月25日の公演とされるが、星への旅路はこの日ではなく前日7月24日の演奏。
2〜3回分を収録していいとこ採りしてたのではないかと思う)


ベンチャーズ・イン・ジャパンの続編として制作されたこのアルバムは、前作
に勝るとも劣らない聴き応えのある作品となった。
前作に収録された定番曲とかぶらない、珍しい曲中心の構成である。

<収録曲>
1. クルーエル・シー
2. ペネトレーション
3. アイ・フィール・ファイン
4. 朝日のあたる家
5. アウト・オブ・リミッツ
6. ウォーク・イン・ザ・ルーム
7. ベサメ・ムーチョ・ツイスト 
8. 星への旅路
9. ラップ・シティー
10. ラヴ・ポーションNo.9
11. ピンク・パンサーのテーマ
12. 夢のマリナー号
13. イエロー・ジャケット
14. サーフ・ライダー
15. ダイアモンド・ヘッド


今回のジャケットは東京ヒルトン・ホテルの茶室で撮影された。
スーツ姿の4人が屏風の前で胡座座り。手前に抹茶碗と茶道具が置かれている。
和室と補色関係の赤字でタイトル。スーツのブルーとの対比もいい。



↑クリックすると1965年7月 日本公演のアウト・オブ・リミッツが聴けます。


全体にアップ・テンポで荒けずりの演奏だが、ライブならではのグルーヴ感、
スピード感が伝わる。さすが、と思わせる素晴らしい堂々とした演奏だ。
ピッチも本来のものになった。
今回も東芝音楽工業による収録のようだ。

各楽器の音がクリアで分離も前回より良くなっていて非常に聴きやすい。
(写真や映像で確認すると)録音を行なった日は3台のアンプを離してやや上向
きに斜めにセットされ、マイクもアンプに近づけ高い位置に立てられている。
前回の録音での音の歪みと楽器のかぶり、床からの反響が解消された。


1965年でこれだけ完成度の高いライブ盤が録れているということ自体すごい。
ベンチャーズの演奏力に加え、録音エンジニアの技量も優れている。(10)

ただしライブの臨場感と迫力いう点では前作に軍配が上がるという人もいる。
1月公演のキャラバンではメルのハイハットが会場の壁の反響を拾って、実際の
音より少し遅れて聴こえてくるのまで分かる。
楽器のかぶり、歪みも含め、音が遠い感じがかえって臨場感を煽り、その場に
いるような錯覚に浸れる、ということだ。




裏ジャケットはステージでの演奏風景。
3人ともパールホワイトのモズライト。
アンプはボブはグヤトーンの大型ベースアンプ、ノーキーとドンはバンドマスター
・ピギーバッグのブラックフェイスにも見えるが、フェンダーのロゴがない。
微かにGマークが見えるので、グヤトーンのコンボアンプではないかと思う。
アンプの前にマイクが立てられてるのでこの日も収録してるのだろう。
ということは新宿厚生年金会館か。。。


7月来日時の実況録音盤はもう1種類、翌1966年3月に同時発売された。
2枚組のボックス、ベンチャーズのすべて(All About The Ventures)。
当時、赤箱と呼ばれていた。

ベンチャーズ・イン・ジャパン第二集収録曲に収録されなかった曲も加え、
公演で演奏された曲をほとんど収録(26曲)したデラックス盤である。
(ベンチャーズ・イン・ジャパン第二集はここからのダイジェストとも言える)



↑クリックすると1965年7月 日本公演のペネトレーションが聴けます。


ただしベンチャーズ・イン・ジャパン第二集に入っていたピンクパンサーの
テーマが、なぜか2枚組のベンチャーズのすべての方には入ってない。
そのため両方買ったファンも多いそうだ。


<収録曲> Part-1
1. クルーエル・シー
2. ペネトレーション
3. ブルドッグ★
4. アイ・フィール・ファイン
5. 朝日のあたる家
6. アウト・オブ・リミッツ
7. 10番街の殺人★
8. ベサメ・ムーチョ・ツイスト
9. ラヴ・ポーションNo.9
10. 星への旅路
11. ウォーク・イン・ザ・ルーム
12. ウォーク・ドント・ラン’64★
13. ラップ・シティー
14. ワイプ・アウト★

<収録曲> Part-2
1. ベンチャーズ・メドレー(ボブがリード、ノーキーがベース)
(ウォーク・ドント・ラン~パーフィディア~木の葉の子守歌)★
2. 悲しき闘牛(ボブがリード、ノーキーがベース)★
3. テルスター(ボブがリード、ノーキーがベース)★
4. 夢のマリナー号
5. ドライヴィング・ギター★
6. アパッチ★
7. イエロー・ジャケット
8. パイプライン★
9. サーフ・ライダー
10. バンブル・ビー・ツイスト★
11. ダイアモンド・ヘッド
12. キャラバン★

★はベンチャーズ・イン・ジャパン第二集には収録されてない曲。



↑クリックすると1965年7月 日本公演の10番街の殺人が聴けます。



<1965年コンプリート盤のCD化>

1998年3月ベンチャーズ・コンプリート・ライヴ・イン・ジャパン'65がCD化。
キャラバン、ピンク・パンサーのテーマ、2曲とも収録。めでたしめでたし。


<収録曲>
イントロダクション
1. クルーエル・シー
2. ペネトレーション
3. ブルドッグ
4. アイ・フィール・ファイン
メンバー紹介
5. 朝日のあたる家
6. アウト・オブ・リミッツ
7. 10番街の殺人
8. ベサメ・ムーチョ・ツイスト
9. ラヴ・ポーション・No.9
10. ウォーク・ドント・ラン′64
11. ウォーク・イン・ザ・ルーム
12. ラップ・シティ
13. ワイプ・アウト
14. メドレー(ウォーク・ドント・ラン〜パーフィディア〜木の葉の子守唄)
15. 悲しき闘牛
16. テルスター
17. ドライヴィング・ギター
18. 夢のマリナー号
19. ピンク・パンサーのテーマ
20. イエロー・ジャケット
21. アパッチ
22. パイプライン
23. サーフ・ライダー
24. 星への旅路
25. バンブル・ビー・ツイスト
28. ダイアモンド・ヘッド
29. キャラヴァン


曲順は7月25日の厚生年金会館に近いが少し違う。編集してあるようだ。
とはいえ、冒頭の紹介、メンバー紹介、ベンチャーズ・イン・ジャパン第二集
およびベンチャーズのすべてでカットされたビン・コンセプションによる曲の
紹介まですべて収められているので、公演をほぼ丸ごと聴ける感じだ。

個人的には曲ごとに入る「あなたの大好きなダイアモンド・ヘッド」という
ビン・コンセプションのカタコト日本語は鬱陶しい。無い方がいい。
が、リアルタイムで聴いたファンにとってはこれも時代の記録なのだろう。



↑クリックすると1965年7月 日本公演のパイプラインが聴けます。


ジャケットもいい。3人ともパールホワイトのモズライト。
アンプはこの写真の公演では3人ともグヤトーンだ。
ボブはグヤトーンの大型の縦置きを2台、ノーキーとドンもその半分くらいの
縦置きグヤトーンをそれぞれ2台ずつ並べている。ヘッドアンプが手前に見える。


<追記> THE M VENTURES さんからご指摘をいただきました。
東京公演は全てグヤトーンだった(グヤトーンとの契約があった)だそうです。
7月公演を収めたALL ABOUT THE VENTURES、CD化されたコンプリート・
ライヴ・イン・ジャパン'65に写っているのはグヤトーンのGA1200だそうです。
映画BELOVED INVADERSではドンとノーキーはフェンダーのショウマンを
使用しているのが確認できるそうです。
THE M VENTURES さん、丁寧に教えていただいてありがとうございました。


スティックを高く振り上げた右手。メルのドラムは炸裂している。
この瞬間が全てを物語っている。
ベンチャーズの絶頂期のライブが聴ける名盤中の名盤である。


このCDを聴いて改めてベンチャーズの底力を知ったような気がする。
演奏技術、スピード感、ぐいぐい引っ張っていくグルーヴ感、そして気迫。
スタジオ録音では味わえない。ベンチャーズはライブで聴くべし!



↑クリックすると1965年7月 日本公演のワイプアウトが聴けます。


尚、このCDはUS盤も出ている(写真のようにジャケットがダサい)が、
そちらの方が帯域が広く音が自然、対して日本盤はコンプレッサーをかけて
メリハリを付けた音、と評している人もいる。





<1965年ベンチャーズ夏の来日がもたらした影響>

7〜9月の全国行脚で日本中がベンチャーズ・サウンドに揺れ人気が沸騰した。
そして空前のエレキギター・ブーム。日本全国にエレキバンドが出現。


エレキは不良というレッテルを貼られ、社会的な現象にまでなった。
1965年時点でベンチャーズはビートルズを凌ぐ人気で若者に影響力があった。
モンキーダンス、ゴーゴーもブームとなるが同じく不良、非行の温床とされる。

1966年8月10日、銀座のど真ん中にモンキーダンス専用ホール、モンキー・
ア・ゴーゴーが開店。
オープン記念に来日中のベンチャーズとアストロノウツが出演したらしい。
しかし1ヶ月で閉店。(当局の圧力?銀座に相応しくないから?経営破綻?)


1965年冬、東宝映画「エレキの若大将」が公開。エレキ・ブームはピークへ。
夏公開の「海の若大将」ではFホールのアーチトップギター(当時はピックギタ
ーと呼ばれた)を弾いてた加山雄三が、「エレキの」ではテスコ、ヤマハ、
ノーキーから譲ってもらった?モズライトを弾いている。(11)



↑クリックすると「エレキの若大将」の予告篇が観れます。



↑加山雄三&ランチャーズのブラック・サンド・ビーチ。
本家ベンチャーズに負けてません。いかすぜ!若大将(死語)




1965年6月にアメリカ本国で唯一のライブ盤、ベンチャーズ・オン・ステージ
(The Ventures On Stage Around The World)が発売された。
内容は10曲中4曲が日本公演、3曲がイギリス公演、3曲がアメリカ公演の音源
とされているが、スタジオ録音に拍手等のSEをかぶせた擬似ライブ(12)である。



↑右の写真は1965年1月の日本公演。
ドンのグヤトーンのアンプは後にブロック2段積みを支えに傾けてある。


1966年3月の来日公演が翌1967年1月、オン・ステージ・アンコールとして
発売されたが、これもスタジオ一発録りに拍手歓声を被せた疑似ライブ。




1967年夏の来日公演を収録したベンチャーズ・アゲイン~北国の空が翌1968
年1月に発売された。
厚生年金会館で収録されたライブだが、アンコールからも4曲流用されている。
演奏は申し分ないが、この頃から歌謡路線の選曲になっている。




1968年にノーキー脱退後に加入したジェリー・マギーで、ベンチャーズ歌謡
の色が強くなり、日本との親和性はますます高まる。
日本びいきで毎年恒例のように来日。
反面、本国アメリカでは1960年代末にどんどん変化していくロックの流れに
は乗れず、ハワイ5-0のヒット以後は過去のバンド的な存在になってしまった。


アメリカでは絶頂期のベンチャーズの本当のライブ音源は残されていないが、
我々は黄金期の4人の1965年日本公演が聴けるのだからラッキーだ。

その迫力、卓越した演奏技術は今聴いても充分、すごい!と思える。
若いミュージシャンたちにも聴いてもらえると、勉強になるんじゃないかな。





今回もベンチャーズ・ファン歴が長くシャドウズ、チェット・アトキンスなど
ギター・インストに詳しいHさんに教えていただいた情報を元にまとめました。
根気強く質問に答えていただき、お付き合いいただいたことに深く感謝します。
Hさんのご協力のおかげでなんとか形になりました。
また個人で情報をアップされてる方のブログやサイトも参考にさせてもらったが、
コンタクトが取れず許諾のないまま転用させてもらった箇所もある。ご容赦を。
脚注の参考資料に出典を記載しておくので問題がある場合はご一報ください。


<脚注)

2021年4月5日月曜日

日本のロックは1965年のベンチャーズ来日で始まった(2)



<1965年1月、ベンチャーズ2回目の来日>


前年の1964年にウォーク・ドント・ラン(急がば廻れ)、アストロノウツの
太陽の彼方がヒットし、サーフロック、エレキ・ブームの機運が高まる。

1965年1月、満を時してベンチャーズは2回目の来日公演を行う。
今回はドン、ボブ、ノーキー、メル、4人の黄金メンバー揃っての来日である。


プロモーターの協同企画(現キョードー東京)は安全策としてベンチャーズ
とアストロノウツの2本立てで公演スケジュールを組む。(1)
東京と横浜は、前座にジャニーズ、寺内タケシとブルージーンズが出演。
司会はビン・コンセプション。(2)

タイトルは「エレキが炸裂する!新春日米リズム競演」。時代を感じるなあ。
ちなみに新宿厚生年金ホールのチケット代は400、600、800、1000円だった。




1月3日~14日に東京は新宿厚生年金会館で4回、リキ・スポーツパレスで6回、
サンケイホールで1回、大阪フェスティバルホールで2回、横浜文化体育で1回、
愛知県文化会館、札幌市民会館でそれぞれ1回、計16回の公演が行われた。


リキ・スポーツパレス(3) では新春大ダンスパーティーとして開催された。
当初公演は3日から13日の15回の予定だったが、大反響により14日に渋谷の
リキ・スポーツパレスで追加公演(ダンスパーティー)が行われ、その模様が
収録され、翌15日に成人の日特集としてフジテレビで放映さた。



                            (写真:gettyimages)
↑今では考えられないような密状態。肩車で踊るわ、二階席から乗り出すわ。
警備はいなかったのか?対照的にステージは高校の文化祭並みに狭い(笑)
アンプは日本側で用意したグヤトーンのようだ。(グリルにGマークがある)
ノーキーとドンはコンボタイプ、ボブのベース用は立て置きの大型アンプ。

(ギターマガジンではこの写真を新宿厚生年金会館としているが間違い。
厚生年金のホールは固定座席のため取り外してダンスホールにはできない。
吹き抜けがあり客席もないことからリキ・スポーツパレス1F会場と判る)



予想以上の演奏レベルの高さと客席の熱気を見た東芝音楽工業は、来日前に
は予定されてなかったライヴ録音を提案。ベンチャーズ側もこれを承諾。

急遽1月10日の厚生年金会館での公演が収録され、8月に実況録音盤として
ベンチャーズ・イン・ジャパン(Ventures In Japan)が発売された。
(次の7〜9月の来日公演の最中に1月公演のライブ盤が出たわけだ)

このアルバムは当時としては異例の50万枚以上の大ヒットを記録した。




↑ジャケットがいい。ベンチャーズ・ファンじゃなくても見覚えはあるだろう。
1月の来日時に雪が降る赤坂の日枝神社で撮影された写真だ。

(クリックすると1965年1月演奏のウォーク・ドント・ラン’64が聴けます)


<収録曲>

1.ベンチャーズ・メドレー(ボブがリード、ノーキーがベースを弾いている)
(ウォーク・ドント・ラン~パーフィディア~木の葉の子守歌)
2.ドライヴィング・ギター(この曲からボブがベース、ノーキーがリードに交代)
3.ブルドッグ
4.パイプライン
5.アパッチ
6.10番街の殺人
7.ウォーク・ドント・ラン’64
8.バンブル・ビー・ツイスト
9.ワイプ・アウト
10.キャラバン(アンコール)

ベンチャーズのステージは通常約50分位なので、実際に演奏した曲数はもっと
多いと思われる。人気がある代表曲中心に編集されている。



<ベンチャーズ・イン・ジャパンの録音>

録音からミッックスまですべて東芝音楽工業が行なったそうだ。


演奏の完成度の高さゆえ、スタジオ録音ではないか?という疑念の声もある。
観客の声が同じ部分が繰り返し使われている点も不自然視されている。
客席の声は別にマイクを立て収録しているので、編集を加えることは可能だ。

後で手を加えた部分があるか?という質問(1995年)に、メル・テイラーは
「いや、何もしていない。僕らの演奏がそのままが入っている。ミックスまで
全部、東芝にまかせた」と答えている。




収録日は1965年1月10日 東京厚生年金会館と記載されているが、成毛滋は2006
年のインタビューで「1965年1月のベンチャーズのライブ音源は2回分くらいの
公演からいいとこ録りしてるのでは」と言っている。

また「この時の録音は2トラ一発録り(4)ですよ。この頃はマルチ(トラック・
レコーダー)なんてないですから。ミキサーは大変だったでしょうね。いきなり
ミックスダウンです。音が大きいので(VUメーターの)針が振り切ってしまっ
て(音量レベルがピークを超え音が歪んで)困ったはず」と指摘している。

演奏をミックスしながら録音するだけで精一杯だったのではないだろうか。
立ちマイクで録った客席の歓声は、リダクションした演奏の音源にオーヴァー
ダブした、とも考えられる。それなら歓声が繰り返し〜の指摘にも説明がつく。



↑裏ジャケットもいい。
ステージ上に浮かび上がるNだけ下にずれた赤いTHE VENTURESと、黒い背景
に青字で入れたタイトル、VENTURES IN  JAPANの対比が効果的だ。
ノーキーを見て笑ってるドンの表情がまたいい。ステージの臨場感たっぷりだ。
(写真をクリックすると1965年1月演奏の10番街の殺人が聴けます)


ドンはストロベリー・レッド、ノーキーとボブがサンバーストのモズライト。
アンプはフェンダーのピギーバッグをアメリカから持参した。(5)
ツイードの後継機種でヘッド+キャビネットのコンボ・タイプである。


ボブの後にあるアンプはベースマスター・ピギーバッグ。出力は50W。
1961〜1963年に製造されたブロンド・フェイスである。
写真のように傾けて置くこともできた。

ドンとノーキーのアンプは黒のコンボタイプで、大きさや形状、黒いグリル、
傾けて置かれてることを鑑みると、1964年から製造されたブラック・フェイス
のバンドマスター・ピギーバッグ(出力40W)のようにも見えるが、 グリル
にFenderロゴが見えない。
グヤトーンだった可能性が大きい。1月公演の他の写真でもやはり微妙(笑)


<追記> THE M VENTURES さんから情報をいただきました。
1月公演のVENTURES IN JAPANの裏ジャケットの写真では、ノーキーは
フェンダー・ツインリバーブ(パイプ椅子の上)、ドンはフェンダーのバンド
マスターだそうです。
THE M VENTURES さん、どうもありがとうございました。


前述のリキ・スポーツパレスでの追加公演では全員グヤトーンを使用。
会場によって使い分けていたようだ。(後述)




↑1961-1963年製造フェンダー・バンドマスター・ピギーバッグ(ブロンド)



このベンチャーズ・イン・ジャパンではピッチが1/4音くらい高くなっている。
ライブ感を出すためテープのスピードを上げたものと思われる。
(ギターマガジン2018年6月号)
またエフェクター類を使用していないにもかかわらずギターが歪んで聴こえる。


しかし、客席にいた多くの人がレコードほど歪んでいなかったと証言している。
当時の写真を見ると、録音マイクはアンプから少し離し(大音量から機材を保護
するためか)低めの位置に垂直に立てられている。
フロアの共振、反響音を拾ってしまったことも一因かもしれない。
ライブ会場の臨場感は出ているが音像はモワッとし、楽器の被りもかなりある。

ギターの歪みはモズライトの高出力ピックアップとアンプも関係がありそうだ。
電圧の関係でベンチャーズが持参したフェンダーのアンプでボリュームを上げる
と音が割れていたようで、会場によっては日本側が用意したグヤトーンの大型
アンプを使っている。


ドン・ウイルソンが1965年1月公演について「あの頃はPAがなかったから、大会
場でもアンプだけを頼りにして演奏していた。でかい音でやるしかやるしかない。
自然にディストーションがかかったサウンドになってしまうんだ」と言っている。
(THE VENTURES BOOK)

メル・テイラーも「とにかくアンプから出る音がすごいので、それに負けないよう
に思いきり強く叩いてた。それでああいう叩き方になったのさ」と言ってる。



↑キャラバンのドラム・ソロでボブのベース弦をスティックで叩くメル。
ジーン・クルーパーの影響だろう。
(写真をクリックすると1965年1月演奏のキャラバンが聴けます)




<ノーキーのリード・プレイの秘密は使用弦にあった>

生のベンチャーズを体験した日本のバンドマンたちは衝撃を受けた。
同時に目で見るノーキー、ドン、ボブ、メルのテクニックは目から鱗だったろう。
なるほど、こういう弾き方をしてたのか。。。。と。

モズライトとフェンダーの真空管アンプが生む音圧の凄さや、ノーキーのベンディ
ング(チョーキング)奏法やグリッサンド奏法(テケテケ)を可能にしているのが
使用弦にあった点も大発見だったようだ。




1960年代のエレキギターの標準ゲージは以下のようになっていた。
ヘヴィーゲージ 058-013
ミディアムゲージ 056-012
ミディアムライト 054-012 

ジャズ・ギターを前提としたゲージであり、3弦はいずれもワウンド弦(巻弦)。
このセットでノーキーのリード・プレイやドンのリズム・カッティングは難しい。


寺内タケシと加瀬邦彦は3弦で楽々とベンディング(チョーキング)するノーキー
に「アメリカ人は力が強いんだろう」と感心し、二人で指立て伏せをし星飛雄馬か
ロッキーみたいな猛特訓をしていたという笑い話がある。(加瀬邦彦談)

ベンチャーズ来日公演の前座を務めることになった時、二人はこっそりベンチャー
ズの楽屋に忍び込み、ノーキーのモズライトを観察した。
何のことはない。ノーキーの使用弦は細いのだ。3弦は巻弦でなくプレイン。
これならギューンと思い切り弦を持ち上げられるのも納得だ。(6)


高校生だった成毛滋もまた1月10日、昼の部の公演の後、楽屋に忍び込んだ。
次のステージに備えてチューニングをしていたベンチャーズに前日に練習した英語
で「どうして3弦をあんなに上げる事が出来るんだ?」と質問したろころ、ボブと
ノーキーが説明してくれたが分からない。
答えが英語で返ってくることまで考えていなかった(笑)
するとノーキーが傍に置いてあった弦を2セットくれて何か言う。
どうやら「これを君のギターに使ってみれば分かるよ」ということらしい。
成毛滋はサンキューとその場を後にし、もらった弦を自分のギターに張り2弦も
3弦もフワッと簡単に上がることに歓喜したという。(成毛滋インタビュー)



↑写真は成毛滋がノーキーにもらったモズライトのライトゲージ弦。
パッケージ名称はLead King Strings。electric spanish guitarの表記。
ベンチャーズのロゴはエンドースメント契約終了後に外された。



ノーキーも最初はレギュラーゲージを1本ずつずらして張り(6弦〜2弦のコースに
そ5弦〜1弦を張る)、1弦にバンジョーの弦を張るなどの工夫をしていた。(7)

ベンチャーズがモズライトを使用するようになってから、セミー・モーズレイが
ノーキーの要望に応えて専用弦ライトゲージ(046-010)を造ったそうだ。
実際は中身はアーニーボール社製。
新たに6本1セットを作ったわけではなく、レギュラーゲージの1~5弦を2~6弦
の袋に入れて、010の1弦を加えたもの。
しかも1弦はバンジョーの弦の流用で、ポールエンドをつけただけであった。
(今日、世界標準のアーニーボール社レギュラースリンキーの原型だ)(8)



<1965年1月のベンチャーズ来日がもたらしたもの>

話を1965年に戻そう。
1月のベンチャーズ公演で日本にエレキギター・ブームが起きる。
6月にはフジテレビ系で「勝ち抜きエレキ合戦」という番組が始まった。審査員
は寺内タケシ、湯川れい子、福田一郎、石津謙介(VANジャケット創業者)。




同時にゴーゴー、モンキーダンスが流行。
ゴーゴー喫茶、ゴーゴークラブができ、ゴーゴーパーティーも行われ、エレキギ
ターのインストゥルメンタル・バンドの演奏で踊りに興じる若者が増えた。

一方、大人からはエレキやゴーゴーは非行化の温床だという声も挙がり、PTAや
多くの学校でエレキ禁止令が出るようになった。

そんな最中、7月にベンチャーズ3回目の来日である。


(続く)

今回もベンチャーズ・ファン歴が長くモズライトにも詳しいHさんにいろいろ
質問し、教えていただいた情報を使わせていただきました。感謝です。
また個人で情報をアップされてる方のブログやサイトも参考にさせてもらったが、
コンタクトが取れず許諾のないまま転用させてもらった箇所もある。ご容赦を。
脚注の参考資料に出典を記載しておくので問題がある場合はご一報ください。


<脚注>