2018年8月19日日曜日

待・ち・ど・お・しいのは〜夏休み!

ずいぶんご無沙汰してしまった(反省)
今年は異常なくらいの暑さで、ギラつく太陽を見ると恨めしくなる。
若い頃は暑さなんてなんのその、夏休みがまちどおしかったのにね。

そんな夏だからこそ聴きたいのがコニー・フランシスの「ヴァケーション」だ。





先日BS-TBS「SONG TO SOUL」で「ヴァケーション」コニー・フランシスを
見て、取り上げてみたくなった。

 「V-A-C-A-T-I-O-N in the summer sun!」というキャッチーなコーラス
R&Rの弾けるリズムに乗った楽しいヴァースは今でも鮮烈だ。

1962年当時、僕は小学生低学年でこの曲も弘田三枝子のカヴァーで知った。
「V-A-C-A-T-I-O-N !楽しいな」
弘田三枝子のパンチの効いた(死語?)歌声もインパクトがあった。
今思えば、女性が歌うR&R初体験だったと思う。



↑写真をクリックすると弘田三枝子の「ヴァケーション」が聴けます。


弘田は子供の頃から立川の進駐軍キャンプでポップスやジャズを歌っていた。
当時、同じように立川のキャンプで歌っていた少女が伊東ゆかりである。

1962年7月にコニー・フランシスの「ヴァケイション」が発売。
同年に弘田三枝子、青山ミチ、伊東ゆかり、金井克子、弘田三枝子、安村昌子
がカヴァーしたが、弘田三枝子盤が20万枚で圧勝だった。

テレビから流れていたのも弘田三枝子の「ヴァケーション」しか憶えてない。
その頃は彼女のためのオリジナル曲だと思っていたし、コニー・フランシスの
存在も知らなかった。
(後にコニー本人が日本語で歌ったレコードも発売された)



コニー・フランシス本人の話をしよう。
彼女はニュージャージー州出身のイタリア系の歌手で1955年に、17歳の時に
MGMから歌手デビューした。

彼女はいろいろな歌い方ができる器用な歌手で守備範囲が広かった。
しかしヒット曲に恵まれず、次の10作目がヒットしなければ契約を打ち切ると
MGMレコードから伝えられていた。


レコーディングが順調に進み、スタジオの残り時間があと16分と告げられた時、
コニーは父親から「Who's Sorry Now?」を最後に歌ってくれと頼まれる。
それまでも彼女は父親からなぜ「Who's Sorry Now?」を歌わない?と言われ
ていたが、30年以上も前の古臭い曲は嫌よと渋っていたそうだ。

1958年2月に発売された「Who's Sorry Now?」はビルボード最高4位を獲得。
コニー初のミリオンセラーとなり、彼女は歌手を続けることになった。

「それまでの曲は誰風に歌おうと考えて歌っていたが、この曲では誰の真似でも
なく自然に歌えた」と後にコニーは語っている。
コニー・フランシスが自分の歌い方を見つけた大きな転換点となる曲であった。



↑クリックするとコニー・フランシスの「Who's Sorry Now?」が聴けます。



この後コニーは「ボーイ・ハント」「カラーに口紅」「可愛いベイビー」など
ヒット曲を連発し、アメリカンポップスを代表する女性シンガーとなった。


コニーがデビューした1950年代半ば以降、ロックンロールが大流行していたが、
ヒットチャートを賑わせていたのはエルヴィス、ポール・アンカ、ニール・セダカ
などの若手の男性シンガーだった。

一方、女性で人気を博していたのはローズマリー・クルーニー、ドリス・デイ、
ペギー・リー、パティ・ペイジ、ダイナ・ショアなどジャズ系シンガーだった。


そこにエルヴィスみたいな歌い方をする女性シンガーが現れたのだ。


「女エルヴィス」といえばロザリー・アレンでしょ、と言う方もいると思うが
ロザリー・アレンは1955年デビュー当時の荒削りなエルヴィスの女性版、なお
かつカントリー寄りのロカビリーという印象だ。

これに対して、コニー・フランシスは幅広いロック、ポップス・シンガーとして
成長していった1950年代後半〜除隊後の1961年のエルヴィスのような女性シン
ガーだと思う。


コニーは「チャート入りパスポートを持ったシンガー」と呼ばれ、彼女の曲は
毎週のようにチャートに登場していた。
彼女に歌ってもらいたいと多くの作曲家が曲を提供したがった。
後に大御所となるバート・バカラックもその一人である。


コニーの父親は屋根葺き職人であったが、毎日新聞を片隅まで熟読するような
堅実派であり、MGMとの契約の際、2年間で10枚のシングル盤を出す、楽曲の
決定権はコニー自身にある、という破格の条件を取り付けていた。
レコード会社が選んだ楽曲を歌うのが慣例だった1950年代では異例のことだ。

またコニーは提供された曲や詩にも手を加え、納得がいくまで曲をブラッシュ
アップしていた。(何曲かはコニーの名前も作曲クレジットに入っている)




↑クリックするとコニー・フランシスの「ヴァケーション」が聴けます。



日本での「ヴァケイション」の発売、弘田三枝子盤の大ヒットを受けコニー自身
が日本語でレコーディングしたレコードも発売された。
コニーは日本語で25曲もレコーディングしている。

これも父親のアドヴァイスだった。
世界の人の心をつなぐのはワシントンでもペンタゴンでもない。歌なんだ。
コニー、おまえがそれをやるんだよ」と言われたそうだ。

コニーは15ヶ国語でレコードを出している。
日本語は彼女の母国語であるイタリア語に似てるため、やりやすかったとか。
一つ一つの単語に英語でその訳を書き、言葉の意味を考えながら歌ったという。


ただ「ヴァケイション」のような曲が日本で売れるとは思っていなかったらしい。
彼女自身は「ボーイ・ハント」「カラーに口紅」などの曲の方が、日本の女性にも
共感が得られる気がしていたそうだ。

「可愛いベイビー」は本国ではシングルカットされていない。
日本独自のヒット曲である。
中尾ミエ、森山加代子、沢リリ子、後藤久美子の競作で中尾ミエ盤が一番売れた。

「ロリポップ・リップス」も日本独自のヒット。九重佑三子がカヴァーした。
「大人になりたい」も本国より伊東ゆかり、後藤久美子のカヴァーがヒットした。


コニー・フランシスはアメリカで女性ポップス・シンガーの新しい境地を築き上げた
ヒット・メイカーであったが、彼女が日本に与えた影響も大きい。
こうしたアメリカのポップスを日本語にローカライズすることで、伊東ゆかり、
中尾ミエ、、弘田三枝子、ザ・ピーナッツ、後の黛ジュンなどの女性ポップス路線
が日本に定着したのである。



↑クリックすると、コニー・フランシスの主演映画「ハートでキッス」(1964)より
挿入曲の「レッツ・パーティ」が聴けます。


<参考資料:Connie Francis The Official Site、BS-TBS 「Song To Soul」、
Wikipedia他>

2018年6月6日水曜日

ロックな青春映画10選(6)何が何でも見たい!少女たちの執念。

今回ご紹介するのはお気楽な青春コメディ映画。

「抱きしめたい」(原題:I Wanna Hold Your Hand) 。(1)
1978年公開のアメリカ映画。
後に「バック・トゥ・ザ・フューチャー」をヒットさせたロバート・ゼメキスの
初監督作品である。(製作はスティーヴン・スピルバーグ)


タイトルはビートルズの楽曲より。邦題の「抱きしめたい」ものそまま。
日本では公開されず、ジョンの暗殺直後の1981年にやっと封切られた。

映像作品は長らく廃盤になっていたが、Blu-ray+DVDで8月8日発売されるよう
なので、ビートルズ・ファンは見てみてください。



↑写真をクリックすると「抱きしめたい」のトレーラーが観られます。



舞台は1964年2月、ビートルズが初めて米国を訪れることになった時のこと。
ビートルズ観たさに大騒ぎし奔走するニュージャージーの男女6人の若者たち。
なんとかエド・サリヴァン・ショーのチケットを入手することができた。

ニューヨークへ向かう珍道中。が、肝心のチケットを無くしてしまう。
はたして彼女たちはビートルズを観ることができるのか?


プラザホテル(2)のビートルズが滞在している部屋に潜り込む女の子はナンシー
・アレンが演じている。僕はけっこう好きな女優だ。
映画「キャリー」(1976年)で同級生の主人公をいじめるチアリーダー役、
「ロボコップ」(1987年)ではサイボーグ警官の相棒役を好演していた。

彼女はポールの愛器ヘフナーを見て感極まり、ベースにキスしてしまう。
その気持ち、分かるよね(^^)






三人娘の一人、スーザンケンダル・ニューマンはポール・ニューマンの実娘。
当初はキャリー・フィッシャー(レイア姫)がこの役の候補だったそうだ。

さて、ロージーが忍び込んだ部屋にビートルズの4人が戻って来てしまう。
焦った彼女はとっさにベッドの下に隠れる。

ベッドの下で息を殺してるロージーからは、話しながら部屋を歩きまわる4人の
ビートル・ブーツが見える。
ジョン、ポール、ジョージ、リンゴの声、しゃべり方がまたそっくりで笑える。






そしてなんとかもぐりこんだCBSのエド・サリヴァン・ショーのスタジオ。
女の子たちは客席でビートルズを観ることができる。

このシーンだけで見る価値あり!だ。
カメラ・モニターに映る本物のビートルズの映像とロングショットで捉えた代役
動きがみごとにシンクロしているのがすごい。





コーラスの際マイクに近寄るジョージの足の動き、リンゴのスティックの返し
に至るまで、放映された映像の分析とその念入りな再現に尋常じゃない手間暇
をかけているのだ。

まるで本物のビートルズがそこで演奏しているかのような錯覚にとらわれる。
エド・サリバンのそっくりさんも秀逸(笑)





さすが、ロバート・ゼメキス!
「バック・トゥ・ザ・フューチャー」でのマイケル・J・フォックスの演奏
シーンも、彼のロック愛があふれていた。


この映画はビートルズの初アメリカ上陸の熱狂、視聴率70%を記録した伝説の
エド・サリヴァン・ショーに狂喜するファンの姿を描いた青春コメディーだ。
アンチ・ビートルズ、バリケードを張る警官も登場する。

この作品と、ビートルズ側からの視点で描かれたドキュメンタリー・フィルム
「The Beatles The First U.S. Visit」(1991年製作)と対比しながら見ると
面白いのではないかと思う。



↑写真をクリックすると「The First U.S. Visit」トレーラーが観られます。




話は逸れるが。。。。

エド・サリヴァン・ショーの1曲目はなぜ「All My Loving」だったのだろう?


まず一発目は「Twist And Shout」でもぶちかましそうな気がするのだが。
おまけに続く2曲目は「Till There Was You」。これも控えめだ。

レコードコレクターズでどなたか評論家の方が「アメリカでのお披露目なので
優等生のポールの歌を2曲続けて、というブライアン・エプスタインの意向だ
ったのではないか」と書かれていた。
僕はそうではないと思う。


デッカのオーディションで失敗してから、エプスタインは「あんたは選曲に口
を出すな」とジョンから釘を刺されていた。
「ヒット曲を中心に、間奏でアドリブはやらない」というのがエプスタインの
精一杯の要求だったが、それも4人に無視されることが多かった。

エド・サリヴァン・ショーの演奏曲は4人が決めたことで「All My Loving」
をオープニングに持ってきたのも彼らの思惑があったからだ。



「All My Loving」は演奏なしの「Close your」2拍から、いきなりF#m→B7
→E→C#m→A→F#m→D→B7と演奏に入る。
曲のキーはEで、いきなりF#m→B7(IIm→V7)から始めるのも意表をつく。

リズムギターはジョンの3連の早弾き。(真似してみるとかなり難しい)
ポールは歌いながらその歌メロと対位法の4ビートのウオーキングベース。

リンゴのドラムは右手でハイハットを8ビートを刻み、左手でスネアをシャッ
フル気味に叩く、という難しい技を披露している。


きわめつけは間奏のジョージのチェット・アトキンス奏法。
チェットはサムピックを使うが、ジョージは知らなかったのかもしれない。
この時代、カントリーの演奏を英国で映像で見る機会は少なかったはずだ。

ジョージはフラットピック+中指、薬指でチェットらしさを出している。
後半のヴァースではポールとのハモりも披露。





「All My Loving」は曲としての完成度はもちろん、楽器ごとに複雑なリズム
感を組み合わせながら盤石のグルーヴ感を構築している。
コーラスの組み立ても完璧だし、アレンジも演奏力もみごとだ。

ビートルズはアメリカでの1曲目で「俺たちはそんじょそこらのロックバンド
とは違うぜ」と実力を見せたかったんじゃないかと思う。
多少なりとも楽器をかじってる連中、いや、プロもビートルズの想定以上の
演奏力にガツンとやられたはずだ。



そして2曲目の「Till There Was You」。
ブロードウェイ・ミュージカル「ミュージック・マン」の劇中で使用された曲
だが、ビートルズはラテン調バラードにうまくリアレンジしている。

maj7、m7、m9、9th、aug、dimなどテンションコードを多用。
ジョージの間奏、ジョンのリズムギターと重なる所などうまく練られている。
そして間奏の最後のコード、F#7(+#9)の響き。

ポールによるとこの隠し玉は「Michelle」でも使ったそうである。


「All My Loving」「Till There Was You」の2曲で文句をつけたがるうるさ型
を黙らせてしまったビートルス。
英国から来た4人組は一発屋のアイドルではなく、幅広い音楽性を身につけた
洗練されたバンドであることを証明したのだ。

エド・サリヴァン・ショーでまずこの2曲を披露したのは正解だったと思う。


2018年5月26日土曜日

追悼ノーキー・エドワーズ。

ノーキー・エドワーズ氏が2018年3月12日に亡くなった。(享年82歳)
前年末に受けた腰部手術後の合併症(感染症)のためらしい。

恒例の年2回のベンチャーズの来日公演(夏がジェリー・マギー、冬がノーキー・
という編成)で続いてたが、一昨年にノーキーは高齢と体力低下により最後の来日
となることを表明していた。

さらに翌年ドン・ウィルソンが、今年になってジェリー・マギーが高齢を理由に
日本ツアーから引退。伝統のベンチャーズ日本公演は幕を閉じた。



昨年BSで放映された「 SONG TO SOUL ウォーク・ドント・ラン/ベンチャーズ」
について書いたばかりだが、ドン・ウィルソンとジェリー・マギーのインタビュー
はあったものの、ノーキーの出演が無かったので体調を案じてはいた。



僕は熱心なベンチャーズ・ファンではないし、コンサートにも行ったことはない。
が、ノーキー・エドワーズ単独来日公演を見に行ったことがある。
チケット代なんと2000円(当日可)という敷居の低さも魅力だった。

2005年5月4日。場所は麻布区民ホール。
六本木のロアビルを曲がって鳥居坂下に向かってすぐ。
通りを挟んで向かいには東洋英和女学院がある閑静な場所だ。
当日は雨模様で開演待ちの客が並んでいた。





会場はキャパ200名ほどで、可動式のパイプ椅子が並べられていた。
入ってみてちょっと異様な雰囲気に驚いた。

僕以外はほとんど団塊世代の人たちで、オジサンの休日ファッションである。
いわゆる武道館やドームのロック・コンサートの客層とは違うのだ。

三脚を立てビデオカメラを構えたオジサンたちが後ろの方に並んでいる。
え?撮影オッケー?録音もオッケーらしい。
顔なじみの常連さんが多いらしく、何やら撮り方の情報交換なんかもしてる。
そんな中で僕と友人は浮いていた(笑)



ノーキー翁が登場。椅子に座ってベンチャーズのお馴染みの曲を演奏。
演奏はエルカミーノ・スペシャルバンドというコピーバンドが担当。
なるほど。ノーキーは身一つで来れるからこの価格でやれるわけだ。

PA、照明、進行も素人っぽく、それなりに味がある。
ファンによる手作りコンサート、といった雰囲気だ。
ノーキーも客席に微笑みかけたり、ノリノリのファンを指さしたり余裕だ。


使用していたのはヒッチハイカー・ノーキー・エドワーズモデル(1)
アンプはPEAVEYだったように記憶している。
中盤とアンコールではヒッチハイカー・ブランドのアコースティックギター
を弾いていた。






前の方の席を確保できたため、ノーキーの手元もばっちり見ることができた。
ほとんどの曲でサムピックを使っていた。
彼が「チェット・アトキンスから影響を受けた」というのも納得。



以前「どこかの空港でジョージ・ハリソンが彼を見つけて歩み寄り、話しかけ
てきた」というノーキーの談話を読んだことがある。
「君の『RAP CITY』のフレーズを『HELP!』で使わせてもらったよ」と言わ
れたそうだ。

「Won’t you please please help me」の後、下降するリフのことだ。
やってみたことがある方なら分かると思うが、意外とスムーズに行かない。




オルタネイト・ピッキング(2)では音がブツ切れであの流れる感じが出ない。
近年メタル系で主流になりつつあるエコノミー・ピッキング(3)で5〜2弦を
ダウンで弾く方がスムーズだが、5弦にピックを戻す余裕がない。

サムピックを用いれば簡単にできてしまうのだが、ジョージはサムピックを
使用していない。
おそらくフラットピックで5〜4弦をダウンで、3〜2弦は中指、薬指で弾いて
いるのではないかと思われる。
「All My Loving」の間奏と同じである。



ノーキー本人は元来サムピッカーだったが、ベンチャーズ時代はフラットピック
を使用しているので、同じような弾き方をしていたんじゃないだろうか。

寺内タケシや加瀬邦彦、加山雄三はノーキーと公私ともに親交が深い。
加山雄三はノーキーからプレゼントされたパールホワイトのモズライトを映画
「エレキの若大将」で弾いている。

ベンチャーズの来日時、寺内タケシと加瀬邦彦はノーキーが楽々とベンディング
(チョーキング)しているのを見て、彼の使用弦が細いことに驚いたという。

かつてはエレキの弦も太く3弦は巻き弦だった。
ノーキーの要望でアーニー・ボール社がライトゲージを製作したという。



余談だが僕がギターを弾くようになった1971年頃でさえ、ヤマハなど国産のエレ
キ弦は3弦が巻き弦だった。
当時ヤマハが出版していた「ライトミュージック」という音楽誌には5〜1弦を
をずらして張って、エレキ12弦の1弦を張るといい、と書いてあった。

だったらちゃんとエレキ用ライトゲージを作れよ!と思ったものだ。
フェンダーの弦は当時で2000円。高校生にはハードルが高かった。






1960年代ベンチャーズは日本にエレキギター・ブームを巻き起こした。
その影響力はビートルズ以上だったと言っていい。

多くの若者たちにエレキを手に取るきっかけを作ったのもベンチャーズだ。
それは前にも書いたが、ベンチャーズならではの要素があったからだと思う。

1)彼らの曲には日本人が親しみやすい「泣き」のメロディがあった

2)歯切れのいい、掴みやすいビートで日本人にもノリやすかった
(本来はアフタービートの曲なのだが、日本人の前拍の手拍子でも合わせられた。
縦ノリだけでなくスイングする部分もあるが、そこを理解してなくても演奏できた)

3)英語が苦手な日本人でも歌わなくて済む、インストゥルメンタルであり主メロ
 を弾くリード、リズムギター、ベース、ドラムが揃えばできた



このところ「ロックな青春映画10選」を書いていたが(あ、3ヶ月もサボっていて
すみません)、実は最後に「青春デンデケデケデケ」を取り上げるつもりだった。

ノーキー・エドワーズ氏の死を悼み、心から冥福をお祈りします。
「エレキの若大将」の澄ちゃん役、星由里子さんが亡くなったのも寂しい。


<脚注>

2018年2月9日金曜日

ロックな青春映画10選(5)1960年代の英国海賊ラジオ局。

今回ご紹介する映画は「パイレーツ・ロック」。(2009年英・独)
原題は「The Boat That Rocked」、アメリカ公開時は「Pirate Radio」。

脚本・監督は「Mr.ビーン」「ブリジット・ジョーンズの日記」の脚本を手がけ
たリチャード・カーティス。だからテンポがよく笑えるツボ満載だ。

1966年〜1967年、英国で海賊ラジオ局が全盛期だった頃の話なのだが、先に
当時の英国の事情について書いておこう。その方が本作品を楽しめると思う。





<1960年代前半、英国民はポップ、ロックに飢えていた>

信じがたい話だが、1960年代英国にはラジオ局は国営のBBCしかなかった。
お堅いBBCがロック、ポップスを放送するのは1日にたった45分だけ。


しかもミュージシャンのユニオン(組合)が局にレコードをかけないように規制
を強いていたため、ミュージシャンを局に招き演奏させた音源を放送していた。

1940〜1950年代はミュージシャンたちはラジオ局で演奏して収入を得ていた。
ラジオでレコードをかけられると彼らの仕事がなくなってしまう。

当時はレコード市場が成長し彼らの大きな収入源になることも、ラジオ局で流す
ことがレコードのプロモーションになることも想像できなかったのだ。




話は逸れるが、ビートルズやストーンズもBBCではレコードをかけるのではなく
局のスタジオで演奏したもの(中には公開ライブもあった)を放送していた。

そのおかげで今日、ビートルズやストーンズのBBCライブ音源が聴ける。(1)




ビートルズはEMIのオーディションに受かる半年前の1962年3月から既にBBC
に出演し、1965年6月まで全52回の出演・収録を行ない、300曲近いライヴ録音
を残している。(2)

その中には彼らがデビュー前からレパートリーにしていたカヴァー曲で公式録音
されなかったものも多く含まれ、今となっては貴重な音源である。

特に1963年一年間だけでビートルズは40回も出演し(彼らの特別番組「ポップ・
ゴー・ザ・ビートルズ」15回を含む)、1日45分というBBCのポップ枠において
特別扱いされていた(それくらい絶大な人気を博していた)ことが伺える。


脱線してしまったが、1960年代のBBCラジオ規制はそんな状況だったのだ。
当然のことながら英国の若者たちは電波でロックを聴けなくて飢えていた。

海賊ラジオ局ができる以前は、昼間はフランス語で放送しているラジオ・ルクセ
ンブルグが夜になると英語に切り換えてロック、ポップスのレコードを流し、
英国のスポンサーからのCM収入を得ていた。

ルクセンブルグはロンドンから約500km。
かなり雑音混じりの音に英国の若者たちは耳をこらしていたのだ。



<1960年代、英国で隆盛を極めた海賊ラジオ局>

そんな中1964年3月に政府未許可の海賊ラジオ局、ラジオ・キャロラインが開局。
北海からイギリス本土に向けビートルズの「Can’t Buy Me Love」を流す。




オーナーは古いオランダのフェリーを買い付け、放送設備を積みこんでフォーク州
フェリックストゥ沖5マイル(約8km)に停泊して放送を開始。
DJスタイルでブリティッシュ・ロック、アメリカのR&RやR&Bなどビート・ミュ
ージックを24時間ノンストップでかけ続けた。

これを英国の若者たちは熱狂的に支持。
英国政府からクレームがつくが、公海上に停泊しているため取り締まれない。


5月には第2の海賊放送船ラジオ・アトランタが誕生。
ラジオ・キャロラインとスポンサー確保を一括で行い営業体制も整った。

続いてミ・アミーゴ(後にラジオ・キャロラインサウスに改称)、ラジオ・ロンドン
ラジオ355(ラジオ・ブリテン)、ラジオ270が洋上に開局。




さらに船だけではなく、大戦中に公海上にある建設され放置されていた海上要塞も
不法占拠され、海賊放送局として使われた。
ラジオ・サッチ(後にラジオ・シティと改名)、ラジオ・エセックスなど。

20局以上の海賊放送局があったと言われている。
やがて各局は個性を打ち出すようになる。
ラジオ・キャロラインはR&B、ブルー・ビート、スカ、ロックステディ。
ラジオ309はブルース、ラジオ・シティはビートルズとストーンズ。


人気DJも多く輩出された。
当時最も人気のあった海賊ラジオ局はラジオ・ロンドンで、ジョン・ピール、トニー
・ブラックバーン、ケニー・エヴァレットなどが在籍。





海賊ラジオ局の人気はミュージシャン、レコード会社やプロダクションも評価。
新譜のアセテート盤をいち早くオンエアしてもらう、サンプル盤を配る(局は購入
しなくて済む)、ヒットしたら局にも収益が入るよう出版権を融通する、など利益
共存を図っていた。


BBCは対抗策として「ポップ・ゴー・ザ・ビートルズ」「フロム・アス・トゥ・ユー」
「トップ・ギア」などビートルズを核とした番組構成で「BBCならではの生のビート
ルズ」を売りにした。
(これらが前述の「BBCセッション」の音源になってるわけだ)

しかしワールドツアーや映画、テレビ出演、レコーディングで多忙のビートルズにと
っても、わざわざBBCに時間を割いて生出演するよりレコードをかけて宣伝してくれ
る海賊放送の方がありがたい。
1965年にはビートルズのBBC出演は6月の一回のみ。以降、出演しなくなった。


1966年に海賊ラジオ局は全盛期を迎え、英国民の約半分2500万人が聴いていた



一方、保守層はFワードを連発する下品なDJやR&Rが国の風紀を乱すと反対する。
政府も国営放送を脅かす海賊放送局の存在を苦々しく思い、なんとか一掃できないか
とあの手この手で妨害し続けた。

政府は海賊放送船が補給を行うヨーロッパの各港に圧力をかけ閉め出したり、CMを
出稿しているスポンサーに脅しをかけ提供をやめさせる。
最終的には「英国の漁船の通信を妨害する」という難癖としか思えない電波法を作り、
政府は公海上の海賊放送船の強制撤去に乗り出す。


1967年ラジオ・ロンドンの放送終了日には英国中の若者が涙したという。


しかし取り締まりの約1ヶ月後、BBCはFMラジオ局、BBCラジオ1をスタート。
ロック、ポップス中心の番組で、DJにあの海賊ラジオ局で人気を博したジョン・ピ
ール、トニー・ブラックバーン、ケニー・エヴァレットらを起用。

1973年には英国で地上波の民営放送局が認可され、約60のラジオ局が各地に誕生。
映画が公開された2009年時点で英国には239のラジオ局があったという。


海賊ラジオ局は1964〜1967年の4年程度の期間ではあったが、英国の若者たちに多く
のビート・ミュージックを届け、多くのロック・バンドを育てた功績は計り知れない
 


↑写真をクリックすると「パイレーツ・ロック」トレーラーが観られます。



<映画のあらすじ>

ブリティッシュ・ロックが世界を席巻していた1966年。
英国には民放ラジオ局がなく、ポップやロックはBBCが放送する1日45分だけ。

そんな中、英国の領海外の北海に浮かぶ船から24時間ロックを流し続ける海賊ラジ
オ局「ラジオ・ロック」(実在したラジオ・ロンドンがモデル)が、若者たちの熱
狂的な支持を得ていた。


喫煙とドラッグで高校を退学になったカールは更生?のため、母親の旧友クエン
ティンが経営するこのラジオ・ロックの船に預けられることになった。




クエンティンは粋にスーツを着こなす英国紳士で晩年のチャーリー・ワッツ風。
「お母さんはなぜここに君を入れたと思う?潮風にあたれば心を入れ替えるとでも
?とんだ思違いだな」とカールに言う。

母親の目論見は、どうせなら思いきり不真面目な大人たちとの共同生活で、成長
させようというショック療法だったのだ。


ロックと自由を愛するカウント(伯爵)、皮肉屋でユーモアがあって面倒見の良い
太めのデイヴ、人が良すぎて結婚詐欺にひっかかるサイモン、クールなイケメンで
女の子にモテるマーク、いじめられ役のアンガス、深夜帯を受け持ち普段は部屋に
こもるヒッピー風のボブ、とロックをこよなく愛するアクの強いDJたち。




破天荒な先輩たちに翻弄されながらもカールは気儘な生活に溶け込んで行く。
カールはこの船に「人生を学ぶ」ために来たのだ。
そして母親が只者ではないことも、父親がこの船にいることも知る。


DJたちは2週に一回、女の子たちを船に呼んで楽しくやっていた。

カールもクエンティンの姪、マリアンと結ばれてやっと童貞を卒業する。
そんなおもしろいネタをDJたちが放っておくわけがない。
電波に乗せて全英に報告してしまうのだった。





一方、英国政府は海賊放送の不道徳な内容に不快感を露わにし、担当大臣がなんとか
ラジオ・ロックを潰そうと画策していた。
スポンサーへの圧力、そして電波法を制定しついに強制終了を迫ってきた。


放送終了の直前、英国中のリスナーたちが悲痛な面持ちでラジオに耳を傾けていた。
ント(伯爵)が静かに語りだす。




So, faithful followers, the end is nigh. 
さて、ファンのみなさん、そろそろ終わりのようだ。 
We bid you farewell with dignity and pride. 
尊厳と誇りをもって君たちにお別れを言おう。 
We thought we'd never die.  But, well, we can't fight city hall. 
俺たちは死ぬわけじゃない。でも、ほら、お役所とは争えないからね
And so, take care, be good.  Listen to the music. It's a good thing to do.  
じゃあ、元気で。音楽を聴いていてくれ。それが一番さ。  
It's the Count,  
カンウト(伯爵)がお送りしました。
Counting down and out for the count at last. (3) Three, two, one... 
終了への秒読みを。3、2、1・・・・


(沈黙)


Only kidding, dudes. Let's rock!  (4)
なんて、ウソだもんね〜、さあ、ロックしようぜ!

ラジオの前で涙ぐんでいた英国中の若者たちは歓喜の声を上げた。
このシーンが最高だ。


船はこの後、難破する。SOSを送るも、英国政府は無視した。
大量の船で救助に駆けつけたのはリスナーたちだった。




<個性的な配役>

アメリカ出身のDJ、カウントを演じるのは、「カポーティ」(2005年)でアカデミー
主演男優賞を受賞したフィリップ・シーモア・ホフマン。
あの頃ペニー・レインと」(2000年)ではクリーム誌の編集長を好演していたが、
この映画でもいぶし銀の演技を見せてくれる。



経営者のクエンティンはビル・ナイ、大臣役にケネス・ブラナー、カールの母親はエマ
・トンプソン、と英国の重鎮たちが固めている。

サイモンと偽装結婚する性悪の美女エレノア役は、テレビドラマ「マッドメン」(4)
ベティ・ドレイパー役で知られるアメリカ女優ジャニュアリー・ジョーンズ。




カールが恋するマリアン(タルラ・ライリー)も小松菜奈似でかわいかった(^^v)



<選曲はカッコいいけど時代考証が甘い?>

劇中では36曲が流れる。いい曲がいっぱいだ。

特にキンクスの「All Day And All Of The Night」はこの映画の肝ではないか。
シンプルで強烈なカッコいいギター・リフ。そして歌詞。

昼も夜も一日中ロックを流す、という海賊ラジオ局にぴったりの内容だ。


I'm not content to be with you in the daytime
Girl I want to be with you all of the time
The only time I feel alright is by your side
Girl I want to be with you all of the time
All day and all of the night
君と一緒にいるの、昼だけじゃ満足できない。ねえ、ずっと一緒にいたいんだ。
君がそばにいる時だけ気分がいい。ねえ、ずっと一緒にいたいんだ。昼も夜も。


↑クリックするとキンクスの「All Day And All Of The Night」が聴けます。


でも、あれ?という選曲もけっこうあった。

クリームの「I Feel Free」、ストーンズの「Jumpin' Jack Flash」、ジェフ・
ベックの「Hi Ho Silver Lining」は1968年でこの頃はまだ登場してないはず。
バカラックの名曲、ハーブ・アルパートの「This Guy's in Love」 もそう。
キャット・スティーヴンスの「Father and Son」は1970年の曲。

この辺がちょっとズレているのは大目に見るとしても、エンド・クレジットで役者
たちが踊るデヴィッド・ボウイの「Let’s Dance」(1983年)はないでしょ。


あとダフィーなんて最近の歌手の「Stay with me」がかかるし。
本家のロレイン・エリソンの使用許可が取れなかったのかもしれないけど。

せっかくいい映画のに、時代考証が甘い点がちょっと残念。
ビートルズが1曲も使われなかったのは許可が下りなかったのだろう。


<脚注>

2018年1月20日土曜日

ロックな青春映画10選(4)ロックの授業で燃やせ!ロック魂。

「スクール・オブ・ロック」は2003年公開のアメリカ映画。
原題も「School of Rock」。ま、和製英語の変な邦題よりはいっか。





<映画のあらすじ>

売れないロックンローラー、デューイ(ジャック・ブラック)はロックをこよ
なく愛する熱〜いギタリスト。
その情熱あふれる過剰なパフォーマンスが空回りでバンドを解雇されてしまう。

家では同居人ネッドとそのガールフレンドから家賃を催促され困り果てる。
そんな中ネッドに名門私立ホレス・グリーン学院の臨時教師の話が舞い込む。
仕事が欲しかったデューイはネッドになりすまして学校へ赴く。


最初は教職に乗り気じゃないデューイだったが、厳格な規律に縛られた生徒た
ちが無気力で元気がないことに気づく。
みんなロックとは縁のないおとなしい生活を送っていた。


どんな音楽を聴いてきた?というデューイの問いかけに、生徒たちはクリステ
ィーナ・アギレラ(1)、パフ・ダディ(2)、ライザ・ミネリを挙げる。


どれもロックじゃない!レッド・ツェッペリンを知らないのか?
ブラック・サバスは?AC/DCは?モーターヘッドは?


デューイは授業と称して子供たちにロックの歴史、いろいろなロックがあること
、ロックのカッコよさを熱心に説き始めた。





担任したクラスの子供たちには音楽の才能があった。
デューイは子供たちとバンドを結成し、バンドバトルに出場することを思いつく。
ロックの名盤を聴かせ、楽器と歌のレッスンを始めた。

暴走する珍教師に最初はついていけなかった子供たちも、しだいにデューイの能
天気なキャラ、一切ブレのないロック道、自分たちの隠れた才能を引き出し認め
てくれる彼に惹かれるようになっていく。
ロックの開放感に目覚めた生徒たちはバンドバトルを目指して猛練習を始めた。



<楽器担当を決めてさっそく練習>

デューイはさっそく生徒の楽器担当を決めバンドの練習を始める。

クラシックギターを習ってる男子にはフライングVを持たせ、ブラックサバスの
「アイアン・マン」、ディープパープルの「スモーク・オン・ザ・ウォーター」、
AC/DCの「ハイウェイ・トゥ・ヘル」のイントロを弾かせ、ギターのアクション
を真似させる。

左右に体をふりながらギブソンSGを弾くデューイはまさにAC/DCのアンガス・
ヤングそのものでノリノリ。「そう、それだ!」とは大はしゃぎ。



↑写真をクリックすると楽器の指導シーンが観られます。



ピアノを弾ける男子はドアーズの「タッチ・ミー」のイントロに挑戦。

チェロをやってるという女子はベーシストに任命された。
デューイはポッシュ・スパイス(スパイスガールズのビクトリア・ベッカム)と
彼女を呼び、ベースの指弾きや弾く時の顔つき(笑)を指導。





ドラム担当の子にタムとシンバルの刻み方を指示。
まず「スモーク・オン・ザ・ウォーター」のセッションが始まった。



コーラス隊の候補を募るが、女の子たちが歌えるのはミュージカル「アニー」
挿入歌の「トゥモロウ」、聖歌「アメイジング・グレイス」、ミュージカル「キ
ャッツ」の「メモリー」などロック色のない歌ばかり。

唯一、黒人の大柄な少女がアレサ・フランクリンの「チェイン・オブ・フールズ」
をアカペラで歌い、デューイを喜ばせる。
彼女は肥満が理由で自信喪失気味だったが、デューイは「アレサ・フランクリン
だってでかい女だ」と励ます。



<ロックの教材>

デューイは「宿題」と称して子供たちにロックの名盤CDを聴かせる。

ギター担当の子にはジミ・ヘンドリックスの「アクシス:ボールド・アズ・
ラヴ」を、キーボード担当にはイエスの「こわれもの」を(特に「ラウンド
・アバウト」のキーボード・ソロを聴くようにと)渡す。
ドラムの子にはラッシュの「西暦2112年」のドラム・ソロを聴けと言う。

バックコーラス志望の子にはブロンディの「妖女ブロンディ」を渡す。
歌唱力のある大柄の少女にはピンクフロイドの「狂気」が渡され、特に「虚空の
スキャット」のヴォーカル・ソロを聴くようにと言われた。



↑写真をクリックするとセッション〜宿題のシーンが観られます。


ビデオ講座では、ザ・クラッシュ、ラモーンズ、キース・リチャーズ、ジミ・
ヘンドリックス、アンガス・ヤング、ザ・フーなどが登場。
破壊的かつ暴力的な故キース・ムーンのドラミング、ピート・タンゼントが
腕をぶん回すウィンドミル奏法は子供たちも真剣に見入っていた。



<「移民の歌」が使われた!>

劇中ではザ・クラッシュ、クリーム、ザ・フー、ラモーンズ、ザ・ダークネス、
AC/DC、スティーヴィー・ニックス、メタリカ、キッスなどが流れる。

中でもレッド・ツェッペリンの「移民の歌」が流れるシーンは格別だ。
車を運転するデューイ(ジャック・ブラック)がロバート・プラントの雄叫び
「アアア〜ア〜」の度にすごい形相で振り返るのが何度見ても笑える。



↑写真をクリックすると「移民の歌」が流れる映画のトレーラーが観られます。


ツェッペリンは音源使用の権利にかなり厳しく許諾は困難と思われていた。

2000年の「あの頃ペニー・レインと」で初めて5曲が使用されたのは前にも書
いたが、あれはキャメロン・クロウ監督がローリングストーン誌のライターだっ
た頃からのジミー・ペイジとの関係が大きいと思う。
しかも「移民の歌」は大ヒットした彼らの代表的な曲の一つである。


ジャック・ブラックは秘策に出た。
「ロックの神よ、重要なシーンなので是非使わせて欲しい」と終盤のホールの
エキストラ全員とビデオレターで懇願したところ、ペイジ、プラントから許諾
が降りたのだ。

ブラックは「どんな事でも真剣にお願いすれば叶う」と語っている。



<ロック好きは見逃せないネタ>

テストについて他の先生から意見を求められたデューイは、ホイットニー・ヒ
ューストンの全米No.1ヒット「「グレイテスト・ラブ・オブ・オール」の歌詞
「Believe that children are our future. Teach them well and let them 
lead way」をそのまま口にする。


ジョーン・キューザックが演じる堅物の女校長が実はスティーヴィー・ニック
スの大ファンであることを知ったデューイ。
校長をバーに誘い「Edge of Seventeen」をかけ、「この曲、大好き!」とほろ
酔いで一緒に歌う彼女に課外授業名目のコンサート参加を認めさせてしまう。





バンドバトルのステージに立ったデューイの衣装(半ズボン、ネクタイ、ジャ
ケット)はまさにアンガス・ヤング(AC/DC)そのもの。
ギターはもちろんギブソンSGだ。
デューイは念願のステージから客席へのダイブをキメる。


デューイがロックの衰退の要因の一つとMTVを激しく非難する(3)シーンがある。
配給元のパラマウントとMTVは共にバイアコム傘下にあり、このシーンはまずい
とカットされると思っていたがそのまま通ってしまった、とジャック・ブラック
は語っている。



<お子さまバンドの実力>

黒板のロック相関図は監督のリチャード・リンクレイターが描いたそうだ。





脚本は同居人ネッド役のマイク・ホワイトで、ジャック・ブラックに主演させ
るためにこの物語を書いた。
ジャック・ブラックは俳優業の傍、テネシャスDというバンドで活躍している。


オルタナティヴ・ロックのソニック・ユースやガスター・デル・ソルに在籍し、
親日家でも知られるジム・オルークが子供たちの演奏を指導した。
子供たちはオーディションやスカウトで集められ、数ヶ月のミュージック・キャ
プでロックの演奏技術を習得したらしい。

主演のジャック・ブラックは「子役たちはあっという間に上達して、僕より
うまくなってしまった」と語っている。


バンドバトルで披露されるオリジナル曲「スクール・オブ・ロック」も、クロ
ージングクレジットで流れるAC/DC「イッツ・ア・ロングウエィ・トゥ・ザ・
トップ」のカヴァーも実際に子供たちが演奏している。

「スクール・オブ・ロック」でのジャック・ブラックと太めの女の子とのヴォ
ーカルの掛け合いがすごくいい。



↑写真をクリックすると「スクール・オブ・ロック」演奏シーンが観られます。


Oh,Yea!  I’m Alive 
やあ、俺は生きてるぜ

Rock got no reason, Rock got no rhyme 
ロックには理由なんて要らないし、決まった形も要らない
You better get me to school on time 
俺を学校に連れてってくれ 間に合うようにね