「Goodbye(邦題:グッドバイ)」だった。
ポールは1969年2月ロンドンのキャベンディッシュ通りの自宅でデモテープを制作。
(この音源はブートで出回っている。
ビートルズの「Anthology」収録候補にもなったが見送られた)
レコーディングは3月1日にロンドン市内のモーガン・スタジオで行われた。
ポールがプロデューサーを務め、イントロのアコースティック・ギター、ベース、
ドラムを自ら演奏。
曲中パタパタ聴こえるのはポールが膝を叩いている音だ。
メリーもアコースティック・ギターを弾いた。
ポールのデモはキーがCだが、レコーディングではEで演奏されている。
「Goodbye」はアップルの意向で3月28日に世界同時発売。
B面はギャラガー&ライル(1)の作品「Sparrow」。
日本ではアルバム「Post Card」発売が遅れたため「グッドバイ」が先行した。
全英チャートで2位を記録。(1位はビートルズの「ゲット・バック」であった)
↑プロモーション用に撮影された「グッドバイ」レコーディング風景。
ノリノリのポールにメリーはややウザがってるような表情(笑)
メリーのシングル第3作用にポールが選んだのは「ケ・セラ・セラ」だった。
(原題:Que Sera, Sera (Whatever Will Be, Will Be) )(2)
1956年のヒッチコック監督映画「知りすぎていた男」の中で主演女優で歌手でも
あるドリス・デイ(3)が歌いヒットした曲で、アカデミー歌曲賞を受賞している。
↑ドリス・デイの「ケ・セラ・セラ」が聴けます。
ある晴れた日の午後、ポールの自宅の庭でメリーとポール座って話をしていた。
「この曲は好き?」と尋ねるポールにメリーは「3歳の頃、歌ってたわ」と答えた。
「父が好きだったんだ。じゃあ、すぐにやろうよ」とポール。
1969年8月17日の午後、EMIアビーロード・スタジオでレコーディングされた。
ちょうどビートルズがアルバム「アビーロード」を制作している真っ最中だった。
メリーとポールがアコースティック・ギターを担当。
イントロの緩んだアルペジオ、歌とハモる効果的なリフはポール。
1音下げのエピフォンFT-19Nテキサン(4)を弾いていると思われる。
3フレットにカポを付けてA(キーはB♭)だ。
(注:通常のチューニングなら1カポでAを弾けばいい)
ポールはベースとエレクトリック・ギターも弾いている。
エレクトリック・ギターは録音後にレスリーの回転スピーカーを通して後がけで
エフェクト(5)をかけたそうだ。
ドラムを叩いているのはなんと!リンゴ・スター。
リンゴは若干のオーヴァー・ダビングも行った。
ポールはこの曲を原曲のカントリー・ワルツから8ビートの軽快なフォークロック
・ナンバーへと大胆にリメイクしている。
さらに2回目のコーラス部「Que será será, what will be, will be」の後に原曲
にはないブリッジ(サビ)を新たに加筆した。
「There's a song that I sing, Autumn, winter, Summer, Spring
Lalalala lalalala lala lalalala」の部分がそうだ。
B♭からD♭に転調しFで終わらせまたB♭に戻るみごとな流れである。
(カポを付けた状態だとAからCに転調しEで終わりまたAに戻る)
原曲とは違うイントロを作り、エンディングにも「Sing a song, sing along. Sing
a song with me」という一節を加えた。
これがまるで最初からあるように実にぴったりと収まっているのだ。
中学生だった僕はドリス・デイの原曲より先にメリー版の「ケ・セラ・セラ」を
聴いたので、そういう曲なんだと思っていた。
ポールの天才たる所以だろう。
ところがメリーが「ポップソングすぎ」と難色を示したため英国での発売は中止。
ジョーン・バエズのようなフォーク・シンガーを目指していた彼女は、ポールが求
めるポップス路線にずっと違和感を抱いていたのだろう。
おそらく「Post Card」の出来にも納得してなかったはずだ。
ドノヴァン提供の3曲以外はそれほど気に入っていなかったのではないか。
1992年のインタビュー(6)でメリーは「ケ・セラ・セラ」の件について「ポールの
熱意に押されてさらっとやったの。その時、私はハモりのボーカルが完全じゃなか
ったのよ。これは酷い!リリースして欲しくないと思ったわ」と説明している。
「完全じゃない(halfway)」は「中途半端」という意味にも取れる。
フォーク歌手としての自分のアイデンティティとポップス歌手としての成功の間で
揺れていたことを「どっち付かずだった」と言ってるのかもしれない。
とにかく天下のポール様に「No!」と言うのはかなり勇気が要ることだったと思う。
メリー・ホプキンって、けっこう勝気さんだったのかな (^_^;)
「ケ・セラ・セラ」はフランスのみでの発売(1969年9月12日)となった。
B面は再びギャラガー&ライルの作品で「サン・エチェンヌの草原(Fields of St.
Etienne」。
フランスの田舎町で出征する恋人と別れる女性の悲しみを歌った静かな反戦歌だ。
「この曲はもう大のお気に入りなの」とメリーは歌っている。
この曲もポールのプロデュースでメリー、ポール、リンゴの3人で録音され「悲しき
天使」と同じアレンジャーのスコアで木管楽器、弦楽器、コーラスが加えられた。
いささか大げさなこのヴァージョンもメリーは気に入らない。(確かに良くない)
ポールがプロデュースしギャラガー&ライルのギターをフューチャーしたよりフォ
ーク色の強い美しい別ヴァージョンがメリーの希望で選ばれた。(7)
↑メリーが歌う「サン・エチェンヌの草原」が聴けます。
「ケ・セラ・セラ」はアメリカでは翌1970年6月15日、日本では8月2日に発売。(8)
日本での発売はその年の7月メリーが来日し大阪万博ホールでコンサート(9)を行っ
たのを機に、「来日記念盤として出したい」と東芝音楽工業が強く要請したため。
「ケ・セラ・セラ」日本盤のジャケットには大阪万博ホールの写真が使用された。
彼女が抱えているマーティンD-18はジョージ・ハリソンからのプレゼントとライ
ナーノーツに書いてあったと記憶しているが間違い。
(メリーがジョージにもらったのはクラシカル・ギター)
「ケ・セラ・セラ」の英国リリースを蹴ったことでメリーとポールの関係は悪化。
ポールは飼い犬に手を噛まれた的な心境だったことだろう。
以降、メリーのプロデュースから撤退した。
メリー・ホプキンについてポールはあまり語らなかったが、近年のインタビューで
「『悲しき天使』は最初戸惑っていたみたいだ。でもすぐに歌いこなせるようにな
ったよ。ジョーン・バエズみたいな歌い方が気になったけどね」と彼女のフォーク
歌手の部分をあまり歓迎していなかったような発言をしている。
さらに「ケ・セラ・セラ」以降手を引いたことについて「フォークソングがやりた
いなら勝手にやればいい。僕は興味ないから」と言っている。
ポールはアップル・レコードのごたごたやビートルズの不和とそれどころではなく
なっていた、という事情もある。
ポールの後任でミッキー・モスト(10)がプロデューサーとなり「ケ・セラ・セラ」
の代わりに「夢見る港(Temma Harbour)」を1970年1月30日リリース。(11)
その後「しあわせの扉(Knock, Knock Who's There?)」「未来の子供たちの
ために(Think About Your Children)」「私を哀しみと呼んで(Let My Name
Be Sorrow ※日本語盤とフランス語盤も)と計4枚のシングルを発表。
(日本では「ケ・セラ・セラ」は「しあわせの扉」の3ヶ月後に発売された)
ポールのようなロック色はないものの、ミッキー・モストもカンツォーネなどポッ
プス路線でメリーの希望するフォークソングではなかった。
しかもポールは曲を仕上げる過程を経験させたいとメリーに選曲からレコーディン
グまで関与させていたが、モストは完成したオケでメリーを歌わせるだけだった。
そしてポールの後ろ盾が無くなったメリーは失速して行く。
1971年10月にはトニー・ヴィスコンティ(12)をプロデューサーに迎え、メジャー
デビュー以前の原点であったブリティッシュ・フォークの香りが漂うアルバム「大
地の歌(Earth Song/Ocean song)」を発表。
鳴かず飛ばずだったがメリーは「初めて満足できる作品ができた」と言っている。
このアルバムを最後にメリーは契約を解かれアップル城を去る。
そして自分の音楽性を理解してくれたトニー・ヴィスコンティと結婚し引退した。
次回は復帰後のメリー・ホプキンの隠れた名曲を紹介します。
<脚注>
(1)ギャラガー&ライル
ベニー・ギャラガーとグラハム・ライルの2人組のソングライティング・チーム。
アップル・レコードと契約してメリー・ホプキンに何曲か作品を提供している。
1970年代にはデュオで活動しアルバムも何枚か発表している。
(2)Que Sera, Sera (Whatever Will Be, Will Be)
「Que Será, Será」は「なるようになる(Whatever will be, will be)」という
意味のスペイン語だとされが、実際はスペイン語としては非文法的で使われない。
専ら英語圏のみで(一種の擬似外国語として)使われたフレーズである。
(3)ドリス・デイ
アメリカの国民的女優でありジャズ・ポピュラー歌手でもある。
「センチメンタル・ジャーニー」「二人でお茶を」「テネシー・ワルツ」「ケ・
セラ・セラ 」などの代表曲がある。
(4)1音下げのエピフォンFT-19Nテキサン
エピフォンFT-19NテキサンはギブソンJ-45の姉妹機。
J-45は24.9インチのミディアムスケールだがテキサンは25.4のフルスケール。
クルーソンのチューナーではテンションが強く調弦もしにくかった。
そのせいかポールは常にテキサンは1音低くチューニングして使用していた。
これにより緩んだ独特の音を生み出している。
「イエスタディ」の録音にもこの1音下げのテキサンが使用された。
(5)レスリーの回転スピーカーを通して後がけでエフェクト
エフェクトは録音する際にかける先がけと録音した音に対してかける後がけがある。
この場合は録音した音を再生してそれにエフェクトをかけている。
レスリーの回転スピーカーは本来フェンダー・ローズ(エレクトリック・ピアノ)
のために開発されたスピーカーだが、ビートルズはジョンのヴォーカルの質を変え
たり、ジョージのギターにフランジャーのような効果をかけるのに使用していた。
(6)1992年のインタビュー
Goldmine Magazine, An interview with Bill De Young, 1992
(7)Fields of St. Etienne」のヴァージョン違い
ギャラガー&ライルのギターによるフォーク色の強い静かなヴァージョンがシング
ルB面、ベスト盤に採用された。
もう一つの「悲しき天使」のようなアレンジのヴァージョンは2010年にアルバム「
Post Card」がリマスターされた時にボーナストラックとして収録された。
(8)英国でのQue Sera, Sera (Whatever Will Be, Will Be) の発売
1972年に発売されたベスト盤「 Those Were The Days」に初めて収録された。
(9)大阪万博ホールでコンサート
1970年7月4〜7日の4日間で計7回の公演が行われた。
一部の曲はメリー自身がギター1本で弾き語りをしたが、大半の曲はオーケストラ
の生演奏をバックに歌われた。
ギャラガー&ライルの2人も来日しコーラスを担当した。
コンサートの模様は7月12日にテレビで放映された。
NHKだと記憶していたが、TBS系列で日曜ゴールデンタイムに大阪万博に招聘した
海外のアーティストたちのショーを放送していた枠であった。
テレビで放送された曲は以下14曲。
コンサートは10曲だったという記録もあるので、日によって曲目が多少違うのを
編集したのかもしれない。
個人で録音したテープが海賊盤の音源となっている。
1. Both Sides Now(青春の光と影)
2. Knock Knock Who's There?(しあわせの扉)
3. You've Everything You Need(未レコーディング曲)
4. The Puppy Song(パピー・ソング)
5. Donna Donna(ドナ・ドナ)
6. With A Little Help From My Friend(歌いながらギャラガー&ライルを紹介)
7. A House Of The Rising Sun(朝日のあたる家)
8. Yesterday
9. In My Life
10. Light In The City(未レコーディング曲)
11. Plaisir D'Amour(愛の喜び)
12. Temma Harbour(夢見る港)
13. Goodbye(グッドバイ)
14. Those Were The Days(悲しき天使)
途中ではしだのりひこのインタビューが入った。はしだは自作の「風」を歌う。
一番好きな曲は?という質問にメリーは「Both Sides Now」と答えた。
(10)ミッキー・モスト
イギリスの音楽プロデューサー。
自身のRAKレコードやアニマルズ、ハーマンズ・ハーミッツ、ドノヴァン、スージ
ー・クアトロ、ジェフ・ベックなどをプロデュースして成功した。
モストのプロデュース作にはジミー・ペイジ、ジョン・ポール・ジョーンズ、ジョ
ン・ボーナム、ニッキー・ホプキンスなど一流ミュージシャンが常に参加していた。
ドノヴァンをロックに転向させたのもモストの功績と言われる。
(11)「夢見る港(Temma Harbour)」がリリース。
B面「瞳はるかに(Lontano Dagli Occhi)」が1969年サンレモ音楽祭2位受賞。
(12)トニー・ヴィスコンティ
ニューヨーク出身の音楽プロデューサー・編曲家。1968年にロンドンに移住。
T・レックスやデヴィッド・ボウイの作品を手がけた。
<参考資料:Goldmine Magazine、Morgan Hopkin Music、Wikipedia、
Beatles Diary, 1969.The Beatles Bible、Mary Hopkin Unofficial japanese Site
、The McCartney Years、Many Years from Now - Paul McCartney、他>
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