2024年6月18日火曜日

フレンチポップスの女神、フランソワーズ・アルディが死去。




フレンチポップスを代表する歌手の1人で、1960年代のスタイルアイコンでもある
フランソワーズ・アルディが6月11日に亡くなった。(享年80歳)

一番好きな女性歌手で、憧れの女性でもあった。とても残念だ。


2004年に悪性リンパ腫と診断され、長く闘病生活を送っていたそうだ。(1)
それでも音楽活動は続けていた。
2018年に最後のアルバム「Personne d'autre」を発表。

2021年に病状の悪化から歌手活動を引退している。
ル・モンド紙によると、死因は喉頭がんだったとのこと。
昨年「あまり苦しまずに早く逝きたい」と語ったとパリ・マッチ誌は報じている。
安楽死を認める議論を復活させるよう、マクロン大統領に訴えていたそうだ。

安らかにお眠りください。




(写真:GettiImages)



アルディは1962年、18歳で自作のデビュー曲「Tous les Garcons et les Filles
(男の子と女の子)」がヒット。一躍スターになった。

明るい3連ロッカバラード(4/4拍で1拍が3連符。タタタ・タタタ・・・)だが、
「同じ歳頃の男の子と女の子は並んで歩くけど私は一人」と孤独感を歌っている。



↓「Tous les Garcons et les Filles(男の子と女の子)」






(写真:GettiImages)



ちょうどシャンソンから英米のロックの影響を受けた「イエイエ(2)と呼ばれる
フレンチポップスへと潮目が変わり出した頃である。
当時、大人気アイドルだったのが前年にデビューしたシルヴィ・バルタンだ。(3)





↑シルヴィ・バルタンと。



シルヴィ・バルタンが気が強くワガママなクラスの女王様(笑)なら、フランソ
ワーズ・アルディは一人静かに窓の外を眺める大人っぽい娘のイメージだろうか。






イエイエの時代において、華やかなエンターテイナーとしてステージで本領発揮した
バルタンとは対照的に、ギターを弾きながら淡々と歌うアルディは、シンガー&ソン
グライター然とした珍しい歌手だった。

ギターなしで歌う時は、派手な動きもなく不器用で素人っぽい印象すら与える。
そこが、かえって魅力だった。






アルディは正規のボイストレーニングを受けていない。
しかし「素朴で人を虜にする歌声」という天賦の才能を持っていた。

透明感のあるウィスパーヴォイスは哀愁に満ちていて、それが内省的な歌にとても
よく似合っている
アンニュイの妖精」と呼ばれる独特の空気を纏っていた。


2023年ローリングストーン誌は「史上最も偉大な歌手トップ200」に、フランソワ
ーズ・アルディをフランス人で唯一選んでいる。






類稀な美貌と180cmという長身、足の長さ、中性的なシルエット、飾り気のない
エレガンス、着こなし、落ち着いた物腰。フォトジェニックである。

流行り始めていたミニスカートやパンタロンをいち早く着用し、ジーンズやレザー
ジャケット、レザーパンツなどロックのテイストも着こなし、ファッションアイコン
としても注目を集めた







ソルボンヌ大学在学中からヴォーグ誌のモデル、イヴ・サンローランやパコ・ラバ
ンヌ、アンドレ・クレージュのモデルを務めた。(4)

ヴォーグ誌は「アルディは反バルドー的存在だった。ブリジッド・バルドーのような
セクシーさを前面に出した女らしさを古臭いものにした」と書いている。
アルディは女優としても活躍。ジャン=リュック・ゴダーの映画にも出演している。







フランソワーズ・アルディは英米ロック・アーティストのミューズでもあった。
デヴィッド・ボウイ、ミック・ジャガー、ボブ・ディランも彼女のファンである。



↑ミック・ジャガーとアルディ(似てる?という人もいる。カーリー・サイモンも)



ディランは4枚目のアルバムの裏ジャケットに、アルディに捧げる詩を載せている。
1966年のパリでの初ライブの日、「フランソワーズ・アルディが来てくれないとス
テージに上がらない」とディランが言い出し(ガキかよ)関係者を慌てさせた。


アルディが会場に来てくれたことで、ディランは納得してステージに上がる。
コンサートの後、ディランは新作「Blonde On Blonde」をアルディに聴かせた。
アルディは「今まで聴いたことがない音楽で驚いた」と感想を述べている。




↑ディランと舞台袖で。なんか気まずそうな。。。



アルディは1971年にアメリカのフォーク・ロックを英語で歌うアルバム「If You 
Listen」を発表している。
バフィ・セントメリーやニール・ヤングの曲をカヴァーしているが、ディランの
曲はなかった。


ビートルズについては「レコードは聴いてるけどよく知らない。来週オランピアに
見に行くわと答え、Twist and Shoutを歌うか?と訊かれると「いいえ、
が歌うのは自分の曲がほとんど。もっとスローで感傷的ね」と否定している。
(1964年1月7日 英国ITNのインタビュー)
※9日後の1月16日にビートルズはオランピア劇場で初パリ公演を行なっている。





(写真:GettiImages)




日本では、アイドルにしては大人っぽすぎ、敷居が高すぎたのかもしれない。

「アイドルを探せ」「あなたのとりこ」、レナウン「ワンサカ娘」CMがヒットした
シルヴィ・バルタン(5)、「夢見るシャンソン人形」がバカ売れのフランス・ギャル、
「天使のらくがき」「オー・シャンゼリゼ」のダニエル・ビダルと違って、アルディ
の日本における知名度、人気はイマイチだった。




↑シルヴィ・バルタンと。





FMで流れていた「さよならを教えて(Comment te dire adieu)」という曲が
好きで、フランソワーズ・アルディのLPを買ったのは18才の秋だったと思う。
日本ではなぜか本国より5年遅れの1973〜1974年にヒットしていた。
(曲については次回、深掘りします)


さよならを教えて(Comment te dire adieu)




この曲が入ってるアルバムを探したが、なかなかお目にかかれない。
銀座のヤマハや山野楽器まで行けばよかったのだが、当時は行動範囲が狭かった。
パイド・パイパー・ハウス(6)もまだない。
ようやく吉祥寺のレコード店で「Françoise」という国内盤LPを見つけ購入した。






余談だが「ふたりだけの窓」(7)という1966年の英国映画を見て驚いた。
リバプールのレコード店のレジにフランソワーズ・アルディのLPが飾ってあった。
英国では早くから人気があり、レコードも入手しやすかったらしい。




さて、このLP。アートワークが目を惹く。
いい曲ばかり網羅してるので、国内編集盤だと思っていたが違っていた。


フランスのヒポポタム・レーベルからリリースされた1967-1968年既発曲の編集盤
LPをエピック・ソニーが契約して1973年頃に発売したらしい。

(ちなみにフランスでは一度、1970年にコンサートホール・レーベルから発売され、
1973年にヒポポタム・レーベルが収録曲を入れ替えて再発している)





↑見開き中面にはこんな微笑ましい写真が載っていた。
ヒポポタマス(hippopotamus)=カバ、という洒落だろうか?




このLPにはラマかアルパカと一緒に映ってる写真もあったような記憶がある。
(LPは現在持っていないので確かめようがないが)





アルディは動物好きらしく、ゾウやチータや馬を愛てる写真がある。
その一方で毛皮のコートを着てる、という矛盾した行動(?)もとっている。

まあ、ブリジット・バルドーも(やや過激な)動物愛護活動家になったのは30歳
で、それまでは公然と毛皮のコートを着てたわけで。




↑抱いているのはベンガルという猫種です。





フランソワーズ・アルディは1974年に初来日している。こっそり?
記者会見をしてるが「さよならを教えて」ヒット御礼みたいな感じだろうか。
4月16日から4月20日の5日間、日本に滞在。公演は行っていない。
一人息子が病気との知らせが届き、予定を変更して急遽パリに戻ったそうだ。




(「ロードショー」1974年7月号)



1991年4月末、伊勢丹主催のプライヴェート・トークショー(原宿クエストホール
にて2日間開催)のために来日し、2週間ほど滞在したらしい。




(プライベート・トークショー告知の新聞広告)



1996年7月末、アルバム「Le Danger」のプロモーションのために来日。
これがアルディ最後の来日となった。



日本滞在、ファンとの交流への思い出もあったのだろうか。
東日本大震災の際は多額の寄付をしたという記事を新聞で読んだ。





↓以下の記事を参考にし、記載内容と写真を転用させていただきました。
ご協力に感謝します。
素晴らしい内容ですのでご参照ください。リンクを貼りました。

マーメイド号の紙ジャケだけじゃ生きてゆけない!本日の中古盤 FRANCOISE 
HARDY/FRANCOISE
http://blog.livedoor.jp/mermaid555/archives/52093252.html

Kontaの歓びの毒牙 フランソワーズ・アルディ Françoise Hardy の初来日 1974
https://k0nta.hatenablog.com/entry/2018/02/18/162059

僕らの日々 フランソワーズ・アルディの思い出@1991
https://ameblo.jp/jametjohn/entry-12797452652.html



<脚注>



(1)悪性リンパ腫

アルディが患っていたのはMALTリンパ腫。白血球中のBリンパ球ががん化する。
主に胃などの粘膜に病変が現れる。咽頭や気管に再発する場合もある。
60歳になってからの罹患のため、進行がゆっくりだったのではないか。
20年間の闘病は長く、よくがんばられたと思う。


(2)イエイエ
1960年代にフランスで生まれたポップスのジャンル。
Ye-Ye は英語の Yeah Yeah が語源。 
英米で大流行していたビートルズなどのロックに着想を得ている。
従来のシャンソンとの大きな違いは8ビートが強調されていたこと。
1960年代後半から1970年代前半にかけて流行した。
シルヴィ・バルタンの「アイドルを探せ」、フランス・ギャルの「夢みるシャン
ソン人形」(セルジュ・ゲンスブール作曲)は日本でもヒットした。
イエイエはフランス語とロックの相性の悪さもあり1970年代には勢いを失う。


(3)シルヴィ・バルタンの人気
17歳でパリ・オランピア劇場に初出演。一躍若者のアイドルとなる。
ブリジット・バルドーやカトリーヌ・ドヌーヴよりも雑誌の表紙を飾った。
ナッシュビルのRCAスタジオで録音した「アイドルを探せ」は世界的大ヒット。
1964年1月にビートルズが初めてフランスを訪れ、パリ・オランピア劇場でコン
サートを行った時はシルヴィ・バルタンの前座扱いだった。



(写真:GettiImages)


(4)フランソワーズ・アルディとファッション・ブランド
川久保玲の「コム デ ギャルソン(COMME DES GARCONS)」は「少年の
ように」という意味だが、アルディの「男の子と女の子」に着想を得て命名した
といわれている。


(5)シルヴィ・バルタンとレナウン「ワンサカ娘」CM
1965年にレナウンのCMにシルヴィ・バルタンが出演し、CMソング「ワンサカ娘」
(小林亜星作詞・曲)を踊りながら日本語で歌ったことで、イエイエはお茶の間に
も浸透する。

https://www.youtube.com/watch?v=E6onW36sOv8





シルヴィ・バルタンは名前だけは小学生の頃から知っていた。
1966年に「ウルトラマン」が放映される直前、円谷英二が彼女のファンで「バル
タン星人」と命名した、と少年サンデーだかマガジンに書いてあったからだ。
しかしレナウンのCMを歌ってるのがシルヴィ・バルタンとは知らなかった。
「アイドルを探せ」「あなたのとりこ」のシングル盤を買ったのは中学生の時だ。


(6)パイド・パイパー・ハウス (Pied Piper House) 
1975年に南青山の通称「骨董通り」に開店した輸入レコード店。
田中康夫や村上春樹の小説にも登場する。
大量の輸入盤を買い洋楽を研究していた作曲家の筒美京平は、この店で毎月30〜40
枚ほど購入していたそうで、お取り置きコーナーがあったと言われている。


(7)「ふたりだけの窓」
1966年公開の英国映画。原題は「The Family Way」。
ストーリーは「新婚早々の二人が住宅難から親と同居するが、そのせいで本当の
夫婦になれない」という微笑ましい家族関係を描いたドラマ。
背景にあった1960年代イギリス労働者階級の生活が丁寧に描かれている。
ウィットのある会話やリバプールの街並みが魅力。B級映画だが名作である。


主役のヘイリー・ミルズはこの時21歳。演技力がある。
いわゆるペチャ顔だが、とてもチャーミングだ。
味わい深い演技を見せてくれるジョン・ミルズは彼女の実父である。
本作品のサウンドトラックはポール・マッカートニーが作曲し、ジョージ・マー
ティンがアレンジとプロデュースを担当したことも話題となった。


<参考資料:WWD JAPAN、THE RAKE、Wikipedia、Amazon、YouTube、
マーメイド号の紙ジャケだけじゃ生きてゆけない!本日の中古盤 FRANCOISE 
HARDY/FRANCOISE、僕らの日々 フランソワーズ・アルディの思い出@1991
アデュー・ロマンティーク~恋とか、音楽とか、映画とか、アートとか、LIFEとか
No.0332 【60年代をつかまえて】イエイエで踊ろう~ Paris , Tokyo、
Kontaの歓びの毒牙 フランソワーズ・アルディ Françoise Hardy の初来日 1974、
GettyImages、産經新聞、読売新聞オンライン、 AFPBB News、他>

8 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

アルディさん英語圏での人気すごかったようですね 数年前にベストヒットUSA見ていたらボブディランの映像の中に突然アルディが現れてとても驚いた事がありました。アルディはディランの音楽はあまり聞いてなく早逝したニック・ドレイクが好みだったようですが音楽を聴くとすごく腑に落ちます。 日本でのアルディ人気はどちらかというとマニアックな感じだったのですね…ゲーンズブールプロデュースの「さよならを…」が彼女の日本での知名度あげましたが原曲を聴くと落差に驚きます。アルディは曲を選び魅力引き出すセンスが天才的だと思います from kanariya_san

イエロードッグ さんのコメント...

>kanariya_sanさん

ジョニ・ミッチェルのことも名前だけであまり知らないと言ってますね。
その一方でバフィ・セントメリーやニール・ヤングの曲をカヴァーしています。
どちらも名曲です。
自分が歌いたい曲、自分に向いてる曲を見つけ出すのに長けていたのでしょう。
「さよならを」も「もう森へは」も原曲を凌駕する出来ですよね。
反対に自分にフィットしない音楽は入ってこない人なんじゃないかと思います。
ディランやジョニ・ミッチェルはアルディにとってはそうだったみたいですね。

匿名 さんのコメント...

ジョニ・ミッチェルとアルディさん同年代なんですね。 歌詞も深いしポップなメロディもあってユーミンがその時代に「西のアルディ東のミッチェル」と感じてたの私はすごく納得しました。アルディさんの英語ニール・ヤングのカヴァーなど仏語訛りも可愛いですね。 米国アーティストといえばジャニス・イアンのカヴァーStarsを単数形Starのタイトルで仏語で自分なりの歌詞を書いて 切なく歌ってますね。さすがですね From kanaria_san

イエロードッグ さんのコメント...

>kanariya_sanさん

ジョニ・ミッチェルはフォークから始まって、CSN結成に関りジャズまで行きましたね。
難解で取っ付きにくい印象でしたが、近年やっと良さが分かって来てボックスセットを
買いました。
でもフランソワーズ・アルディは彼女のことはよく知らない、と答えてますよね。
Both Sides NowとかCircle Gameとか、きれいな曲もあるのに。
じゃあ、キャロル・キングは聴いてたのかな?

ジャニス・イアンは学生の頃よく聴いてた時期があります。
このジャケットも憶えてるけど、この曲はなぜか記憶にないです。
At SeventeenとかWill You Dance? が好きでした。

匿名 さんのコメント...

アルディさん キャロルキングの名曲Will you love me tomorrowのカヴァーはされてますね 翳りがあっていい感じです。ジャニス・イアン は小林麻美さんが著書でオススメでした。なのでアルディさん同様 後追ファンになり中古レコードを探し周りました。72歳まだご活躍されてますね。
From kanaria

イエロードッグ さんのコメント...

>kanariya_sanさん

あ、本当だ!
「En Anglais」、このアルバムは持ってないんです。
アメリカのわりとカントリー寄りの曲をカヴァーしていますね。

Loving Youも歌ってるから、エルヴィスは聴いてたらしい。
Let It Be Meはエヴァリー・ブラザーズですね。
Lonesome Town、ふむ。リッキー・ネルソンとは渋い。

さて、アルディーのWill You Love Me Tomorrow。
キャロル・キングのセルフカバーを聴いて気に入ったわけではなさそう。

「つづれおり』(Tapestry)発表は1971年。
アルディの「En Anglais」は1968年でキャロル・キングより前なんです。

1960年にシュレルズがヒットさせたアップテンポのドゥーワップ・
アレンジを聴いて、この曲を好きになったのでしょう。
アルディーもイエイエ時代にこういうビートの曲を歌ってますよね。

匿名 さんのコメント...

なるほど シュレルズの曲をキャロルキングが歌ってたんですね。年代を追うと面白いですね。2021年ロックの殿堂(Fame)受賞パフォーマンスでテイラー・スウィフトも披露してましたが ロックスタンダードの名曲ですね From kanaria 

イエロードッグ さんのコメント...

>kanariya_sanさん

キャロル・キング=ジェリー・ゴフィン夫妻が書いた曲をシュレルズが歌ってヒットさせました。
キャロル・キングは売れっ子作曲家でスタジオ・ミュージシャンとしても活躍してました。
シンガー&ソングライターとしてデビューしたのは1970年代になってから。
Will You Love Me Tomorrowはセルフ・カヴァーだった、ということです。

テイラー・スウィフト、客席のキャロル・キングにエアー・キスを送ってましたね。