1960年代、横浜の不良たちはそう言っていた。
本牧の丘に広がるベースキャンプ。フェンス越しのアメリカ。
ベトナム帰休兵が持ち込む音楽、ファッション、ドラッグ、ライフスタイル、
横浜の若者はいち早くそれらを取り入れた。
東京なんて目じゃない。
ハマっ子のプライドは強く、横浜に遊びに来る東京モンをバカにしてた。
特に品川ナンバーの車は目の敵。煽るわ、乗っている人の目を傘でつく、
駐車してれば勝手にこじ開け乗り回して川に捨てる、という狼藉ぶり。
井上堯之は初めてゴールデンカップに行った時、常連客の女に「ここは
あんたたちが来るとこじゃないよ、帰んな」と言われ心底ビビったらしい。
実際に本牧は、いや横浜はコワイ、かなりヤバイ街だった。
「横浜は異国情緒があるハイカラな街」と東京人の多くが思っていた。
ユーミンがドルフィンのことを歌うと、山手は聖地巡礼の地になった。
JJでハマトラが流行し元町のフクゾー、ミハマ、キタムラに女の子が殺到。
彼女たちは知らなかっただろう。
石川町の元町と反対側に職安通り(寿町)(1)というドヤ街があること。
フェリス女学院がある丘の裏側が昔チャブ屋(2)(売春宿)街だったこと。
黒澤明監督の「天国と地獄」となった富裕層が住む浅間台の下に、黄金町
というアヘン街、赤線地帯があった(3)ことも知らないだろう。
山下公園や伊勢佐木町でも日常的にドラッグの売買が行われていた。
↑映画「天国と地獄」より。黄金町のアヘン街。
↑映画「天国と地獄」より。地獄(黄金町)から見た天国(浅間台の邸宅)。
(実際は京急南太田駅南から見ている)
↑映画「天国と地獄」より。浅間台の邸宅から見下ろす黄金町。(実際は平沼)
クライマックスのパートカラーが効果的だった。
山手、根岸、磯子の高台には洋館や屋敷。
その下に貧しく粗末なバラックが並ぶ。
中華街(昔のハマっ子は南京町とかチャン街と呼んでいた)は日本人、中国人
(近くに中華学院がある)、朝鮮人の三つ巴の喧嘩が絶えなかったという。
それでも殺しに至らないのは、みんな喧嘩慣れしてて限度を心得ていたから、
今の子たちと違ってね、とエディ藩は言っている。
本牧でも米兵と地元の不良との喧嘩は日常茶飯事だった。
腕力では白人・黒人兵に勝てるわけない。
ゴールデンカップ常連の不良たちは木刀を携えていた。(上西マスター談)
ハマっ子たちはアメリカ人に必ずしも敵対していたわけではない。
むしろフェンスの向こう側に広がる豊かなアメリカ、広い緑の芝生に立ち
並ぶアメリカンハウス(4)を羨望の目で見ていた。
そこにはアメリカ人が生活を完結できるだけの環境が整えられていた。
学校、銀行、映画館・PX(物品販売所)、ボーリング場、テニスコート、
野球場、教会など。
フェンスを隔ててこちら側は焼け野原とバラック。
目の前にあるのに立ち入ることができない。近くて遠いアメリカ。
PXの従業員、米軍人のゲストなど限られた日本人しか立ち入れない。
鉄条網をくぐってを小さなアメリカを冒険した少年もいた。
アメリカ人の子とフェンス越しに石を放り投げ遊んだ子供たちも。
それは喧嘩ではなくエールの交換だったという。
当時は山手警察署の前、小湊を市電が走っていた。
停留所でGIたちに声をかけられ顔を赤らめた女子高生もいる。
思春期には果敢にもフェンスを乗り越えて潜入する強者(たいてい見つ
かるとつまみ出された)もいた。
知人や家族がPXで働いていると、月1回のバザーに入ることができた。
ロックやR&Bの輸入盤をいち早く手に入れ、ハマっ子は吸収して行った。
そして横浜発祥の新しい音楽文化が築かれていったのである。
当時アメリカ本土から極東と呼ばれた日本への慰問は少なく、進駐軍クラブ
(日本人禁止のオフリミット)程度しかフェンスの外に娯楽がなかった。
1961年にリキシャ・ルーム(5)、1962年にイタリアンガーデン(6)、1964年
にはゴールデンカップ(7)が開店する。
1973年にはリンディ(8)、1976年にアロハ・カフェ(9)が小湊に開店した。
元町方面から麦田トンネルを抜けると、そこはさながらリトルアメリカ。
どの店も多国籍の外国人であふれ、R&Bやロックやジャズが流れ、派手な
ネオン管が夜を彩っていた。時代はベトナム戦争の真っ只中である。
ゴールデンカップにも連日連夜GIたちが訪れ、地元の不良たちと一緒に踊り、
朝まで饗宴が繰り広げられていた。乱闘騒ぎも日常茶飯事だったらしい。
オーナーの上西氏は、アメリカ旅行から帰国したばかりのデイヴ平尾に
「店の専属バンドを探している」と話を持ちかける。
平尾はスフィンクスというバンドに在籍していたが、アメリカで最先端の
音楽に生で触れてきたばかりの彼は自身のバンドの演奏を物足りなく感じた。
そこでアメリカ旅行中にライブ会場で再会したエディ藩を誘った。
藩も音楽シーンの見聞を広めるのと楽器購入のため渡米していたのだ。
エディ藩はファナティックスというバンドでギターを担当していた。
ファナティックスは平尾のスフィンクスと共に横浜を代表するバンドだった。
藩はケネス伊東を誘った。
平尾の渡米中にスフィンクスのボーカルを代行していたマモル・マヌー
がドラムスを担当することになった。
マモルは高校の先輩のルイズルイス加部を誘う。
5人は「平尾時宗とグループ・アンド・アイ(10)」として活動を開始する。
ゴールデンカップスを語る上で当時の本牧、横浜は切り離せない。
前振りが長くなってしまった。次回はカップスについて書きたい。(続く)
<脚注>











































