2019年10月11日金曜日

「薄幸」のイメージ化で生まれた怨歌<後篇>

前回のおさらい↓
https://b-side-medley.blogspot.com/2019/03/blog-post_27.html

(半年も間が空いてしまって申し訳ない)






1969年にデビューした藤圭子は、演歌の既成概念を破る新しい歌手だった。

夜の世界に生きる女を描いた暗く哀切な恨み節。
ドスの効いたハスキーボイスと独特の凄みのある歌いまわし。
日本語のブルースとロックを内包している、とも言えた。

そして可憐な風貌とのギャップ。
激動の1969年が終わり、無力感、あきらめ感が漂う若者の心を掴んだ。




人気絶頂期の最中、藤圭子はファンに対して二つの裏切りをしてしまった
と元RCAレコードのディレクター、榎本襄氏は言う。


一つは、1971年8月の前川清との結婚である。






内山田洋とクール・ファイブのボーカルだった前川清と藤圭子は同じRCA所属。
共演する機会も多かった。
「演歌の競演 清と圭子」というアルバムは第8集まで出している。




当時アイドル的な人気を集めていた藤圭子だが、前川清との結婚で若い男性
ファンは離れていった。(1)



また大衆が支持したのは藤圭子の圧倒的な不幸感だ。
悲しい境遇、貧困から這い上がってきたからこそ共感したのである。
幸せになってしまったら、怨歌ではなくなってしまう。

結婚は一年しか続かず、翌1972年に離婚。ままごと結婚と揶揄された。(2)







もう一つの裏切りとは、任侠路線である。

藤圭子を育てた作詞家兼マネージャーの石坂まさをは任侠映画が好きだった
藤純子のファンだったという。
おそらく藤圭子(本名・阿部純子)という芸名も藤純子にあやかったのだろう。

石坂が愛した夜の新宿のネオン街は、藤圭子の舞台装置として最適だった。
しかし今度は任侠の世界感を藤圭子に持ち込むという。
周囲は反対したが、石坂は頑として譲らなかった。



1970年7月、4枚目のシングル「命預けます」を発売。
同年、松竹映画「涙の流し唄 命預けます」にも出演している。
前川清との結婚がその翌月だから、ファンは立て続けに面食らったことだろう。





「命預けます」の売上枚数は47万枚。オリコン・チャート最高位3位。
充分ヒットであるが、「女のブルース」75万枚「圭子の夢は夜ひらく」77万枚
の比ではない。


その後も23万枚→16万枚と売上げは落ちていく。
デビュー時の凄み、恨み節、一途なブルース演歌は感じられなくなっていた

それでも石坂まさをは任侠に固執した。
1971年5月発売の「恋仁義」は8万枚。さらに売れなくなって行った。
同年10月の「知らない町で/圭子の網走番外地」は3万枚。







藤圭子はまだ終わっていない。石坂まさをは苦渋の決断をした。
自らが歌詞を手がけることを諦め、新鋭の阿久悠(3)に作詞を依頼したのだ。

阿久悠は1971年、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」(作曲:筒美京平)で100
万枚近いヒットを生み、日本レコード大賞と日本歌謡大賞を受賞していた。


阿久悠作の「京都から博多まで」に、石坂は愕然としたという。
男を追い京都から博多へ、瀬戸内を走る列車に乗る女の心情と風景を描いた歌
で、石坂がこだわり続けた新宿がどこにも出てこないからだ。

「京都から博多まで」は1972年1月に発売され14万枚、次作も阿久悠による
「別れの旅」で20万枚と持ち直すが、その後また低迷していく。





ヒットに恵まれなくなった藤圭子は1973年、1974年とNHK紅白歌合戦出場に
落選し、本人はかなりショックを受けていたらしい。



一方で藤圭子は、恩師である石坂まさをへの不満、不信感を募らせていた。
デビュー前は原盤制作資金として石坂に毎月40万円を渡し、デビュー後は当初
聞いていた歩合制ではなく月給制で月2万円、5万円、8万円、「圭子の夢は
夜ひらく」が大ヒットしてやっと50万円。

石坂まさをに言いくるめられて、鳳企画、キングレコードの契約を反故にしたのに、
石坂まさをの事務所の方が金銭的に待遇は悪く、労働面でも過酷だった。

藤圭子は騙されたと思ったはずだ。
が、石坂が大スターにしてくれたのも事実。強く言えなかったのだろう。



ヒット曲を生みたい、スターを育てたい石坂の野心はいささか過剰すぎた。
人前でも圭子に手を挙げることも多かったという。

石坂に管理、支配され続けることに藤圭子は反感を持つようになる。
藤圭子はスター歌手であることに少しずつ苦しむようになっていった。








おもしろいエピソードがある。

1973年、四国の高松公演中、藤圭子はいつものようにホテルに缶詰状態だった。
石坂から「圭子を一歩も外に出すな」ときつく指示されたいた現場マネージャー、
成田忠幸氏は「一時間でいいから外に出たい」と彼女に懇願され、不憫に思い
外出を許可した。

戻ってきた藤圭子はトレードマークの長い髪をばっさり切ってショートにして、
パーマをかけていた。

なんとなく切りたくなって、通りがかりの美容院に飛びこんで頼んだという。
驚いたのは頼まれた美容師で、本当に切っていいんですか?と何度も念を押しな
がら、こわごわカットしてくれたそうだ。



成田氏は「もうおしまいだ」と観念し報告したが、石坂は意に介さない。
このハプニングを逆手にとって、全国の美容室にショートヘアーの藤圭子のポスター
を貼ってもらい、PRに利用したのだ。






こうした転んでもただでは起きない抜け目のなさ、売名行為のために何でもやる
強引さ(弱視の母を盲目とPRに利用するなど)は、圭子をさらに苛立たせた。


後に藤圭子は恩師である石坂まさをを「この世で一番憎んでいる」と述べている。




1973年12月5日デビュー5周年特別記念盤として藤圭子「演歌全集」を発売。
古今の演歌の名曲を網羅した、全曲新録音による演歌の集大成。

LP8枚組のボックスで、LPはそれぞれ「憂愁」「恋心」「故郷」「艶姿」「任侠」
「港灯」「巷歌」「出発」というタイトルが付けられていた。






この全集のため88曲を歌う、という過酷なレコーディングが連日行われた。
流しで鍛えた藤圭子の喉は強かったが、ついに声が出なくなった

声帯結節(ポリープ)と診断され、極秘のうちに切除手術が行われた。
休養後、復帰して残りの曲を収録し終えた。



声の変化にいち早く気づいたのはRCAレコードの榎本襄氏だった。
藤圭子本人も「声が変わってしまった」と感じていた

決定的だったのは、目の不自由な母が思わず語った言葉だったという。
圭子が音合わせをしている時、舞台の袖で聴いていた母が傍にいる人に訊ねた。

純ちゃん(藤圭子)の歌をとても上手に歌っている人がいるけどあれは誰かしら?







ブルースとロック色を備えた演歌の天才歌手、藤圭子は23歳で消えてしまった。
自分の声を失くした藤圭子は絶望の淵に置かれ、引退を考えるようになる。



1979年、藤圭子は27歳で引退を表明し渡米。自由に生活したいという思いから。
そしてアメリカに行ってロックを歌いたい(4)ということだった。

RCAのディレクター、榎本襄氏が藤圭子の歌を聴いて最初に感じた「当時の演歌の
基準には合わないが、ロックだったら成功するかも」という勘は鋭かった。







引退発表後のインタビューで藤圭子は、作家の沢木耕太郎にこう打ち明けている。


つらいのはね、あたしの声が聴く人の心に引っかからなくなってしまったことなの。
歌っていうのは聴いてる人に、あれっと思わせなくちゃいけないんだ。
あれっと思わせ、もう一度、と思ってもらなはくては駄目なんだよ。
だけど、あれっと立ち止まらせる力があたしの声になくなっちゃったんだ。

確かにある程度は歌いこなせるんだ。
人と比較するんなら、そんなに負けないと思うこともある。
でも残念なことに、私は前の藤圭子をよく知ってるんだ。
あの人と比較したら、もう絶望しかなかったんだよ。








藤圭子は宇多田照實氏と再婚。1983年にニューヨークで長女を出産する。
「我が子から光が失われないように」という願いを込め「光」と命名した。


圭子は既に母親と同じ網膜色素変性症という視力が低下する病を発症していた。
精神的に不安定になり、激昂しやすくなり、誰も信じられなくなっていた。(5)


2013年3月、藤圭子は西新宿の高層マンション13階から投身、自らの命を絶った。
奇しくも翌日は5ヶ月前に亡くなった「石坂まさをを偲ぶ会」の予定日だった。







娘に「光」と名付けたのは、視力のことだけではないように僕には思える。
いつまでも人生の光を失わないで」という祈りでもあったのではないか。


<脚注>

(1)結婚によるファン離れ
歌手や俳優の結婚に対するファンの捉え方は当時と今はだいぶ違うと思う。
現在なら、結婚→ファンを辞める、ということにはならないだろう。
昭和の時代は男も女も好きな歌手や俳優を恋愛対象の理想系、結婚願望とする
向きがあったのではないか。だからその対象が結婚すると落胆し冷めてしまう。
今はもっとクールに捉えてるだろう。
ファンの方も、どうせIT長者かアスリートかお笑い芸人とくっつくんだろう、
女子アナや新人女優に手を出してんだろう、くらいの認識があるはずだ(笑)


(2)藤圭子と前川清の結婚〜離婚の経緯
最近、藤圭子との結婚と離婚の経緯について前川清が明かしている。
恋愛が世間にバレたため、結婚してしまえば楽になるというのが理由だった。
挙げるつもりのない結婚式も事務所やテレビ局に乗せられて、話が大きくなって
しまったという。
離婚についても特に理由はなかった。
結婚当初から藤圭子は演歌に興味がなく、外国に行くなど(目指していることが)
感覚的に違った、と2人の間のズレについて告白ししている。


(3)阿久悠
1960年代半ばから放送作家、作詞家として活動。
作詞家としての本格デビューはザ・モップスの「朝まで待てない」(1967年)。
タイトルの由来は、曲の締め切りが朝に迫っていたからだという。
初の大ヒット作は森山加代子の「白い蝶のサンバ」(1970年1月)。
尾崎紀世彦の「また逢う日まで 」(1971年3月)は100万枚近いヒット。
詞が先行で曲がそれにあわせて作られるのが主流だった時代において、曲先も
こなせる作家で演歌、アイドル歌謡曲と幅広いジャンルを手がけた。

石坂まさをは阿久悠に作詞を委ねることで藤圭子の新境地を開こうとしたのだろう。
「京都から博多まで」はいい曲だったが、その直後1972年3月に発売された和田
アキ子の「あの鐘を鳴らすのはあなた」(作曲:森田公一)の方がインパクトが
大きかった(日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞)。


(4)アメリカに行ってロックを歌いたい。
この話は石坂まさをもマネージャーの成田忠幸氏も前川清も八代亜紀も、本人
から聞いている。
藤圭子はその夢を娘に託した。必死な売り込み方は尋常ではなかったそうだ。
圭子のマネジャーだった成田忠幸は、その姿にかつての石坂まさをを重ねた。
絶縁状態だった石坂まさを、平尾昌晃、RCAの榎本襄氏にもヒカルを売り込んだ。

宇多田ヒカルのデビュー時、藤圭子は自らの名前を封印した。
夫の宇多田照實氏の意向もあったと思うが、藤圭子自身が経験してきた芸能界の
しがらみに娘を巻き込みたくない、という思いがあったのかもしれない。
暴力団とのつながりもその一つと言われている。
そのため親子の個人事務所で拠点をニューヨークに置いていた。


(5)藤圭子の精神的な病
藤圭子が自殺した時、宇多ヒカルはコメントを発表し、藤圭子が以前から精神的に
不安定だったと述べている。
「幼い頃から、母の病気が進行していくのを見ていました。
症状の悪化とともに、家族も含め人間に対する不信感は増す一方で、現実と妄想
の区別が曖昧になり、彼女は自身の感情や行動のコントロールを失っていきました」

統合失調症という説がある。
が、上記の証言を鑑みると境界性パーソナリティ障害だった可能性が大きい。

一卵性母娘といわれるほど母親思いだった藤圭子が1988年から母親を強く憎み、
絶縁状態になったのには金銭トラブル(母親がかつてギャラを着服していたと
絶縁していた父親から聞かされた)と言われる。
石坂まさをも、藤圭子から母親と縁を切れと強く言われ驚いたという。


全面的に信頼していた人を、何らかのきっかけで最低の人間だとして罵倒する。
その落差は著しい家族など親しい人に攻撃的な発言や行動を行うようになる。
パーソナリティ障害は、親密な人間関係で問題が生じる疾患である。

感情の変化は激しくなり、やがて夫の照實氏や娘の光もその攻撃対象となった。
宇多田ヒカルは子供時代「光は天使だと言われたり、悪魔の子、私の子じゃない、
と言われたり、色々大変なこともあった」と述べている。

ヒカルが爆発的に売れたことで莫大な金が藤圭子に入るようになる。
貧乏から脱出するため金を稼いだ藤圭子は、人を信頼しない面があった。
銀行も信用しない。常に大金を持ち歩いていた。
2009年ケネディ空港で5億円近い現金を没収される。(事件性がないため返却)

浪費家となり、世界中のカジノで豪遊し5年間で5億円を散財。
照實氏との間で7回に及ぶ結婚・離婚を繰り返す。
感情が不安定。激昂しやすい。激しい怒りや憎しみ。人間不信。妄想。
これらも境界性パーソナリティ障害に見られる特徴である。

ダイアナ妃、マリリン・モンロー、ウィノナ・ライダー、ヘルマン・ヘッセ、
太宰治、尾崎豊も境界性パーソナリティ障害に苦しんだと言われている



<参考資料:NEWSポストセブン、zakzak by夕刊フジ、サイゾーpremium、
otonano 藤圭子劇場スペシャルインタビュー 榎本襄、ASAGEI plus、
沢木耕太郎「流星ひとつ」、藤圭子の暗黒エネルギー、毎日新聞、週刊明星、
夢は夜ひらく 藤圭子の真実-BS朝日、実像の藤圭子、TAP the POP、Wikipedia、
東スポWeb、 zakzak by 夕刊フジ、フジテレビ「ダウンタウンなう」他>

2 件のコメント:

縞梟 さんのコメント...

こんにちは。
膨大な藤圭子物語を読ませていただきました。
「怨歌」という言葉は五木さんが持ち出したのは知りませんでした。
(私はずっと三上寛の造語だと思ってました(苦笑)

幸薄いイメージだと浅川マキさんとイメージがダブりますが
今までしっかり聴いたことがないので、お薦めの1970年の渋公のライヴ盤は
CDだとBOXでしか買えないようなのでしばらくはyoutubeで我慢します。
(ちなみにこちらの記事からのリンクは切れているようですよ)

>あたしの声が聴く人の心に引っかからなくなってしまった
という引退理由にプロフェッショナルな姿勢を感じますが、ロック転向での
圭子さんの歌声も聴きたかったですね。

イエロードッグ さんのコメント...

縞梟さん

演歌系は疎いんですが、藤圭子は昭和歌謡でもエポックメイキング
な存在だったと思います。

浅川マキ、森田童子、中島みゆき、三上寛、あがた森魚、山崎ハコ。
この辺の幸薄い系の暗そうな人たち、苦手です。
それぞれ才能のある人たちだと認めますが。
カルメン・マキはOZになってから2回、見に行きましたけどね。

RCAレコードの榎本ディレクターが最初に聴いた時「演歌歌手では
なくロック歌手としてならすごい」という印象を持った話。
なんとなくカルメン・マキを思い浮かべました。

でも親は浪曲師でそのリズム感で育った人ですからね。
はたして縦ノリで後拍の8ビートにノレたのかどうか。
横揺れのスイングのR&Bになると、もう無理そうな気がします。
哀しい出自、貧困、不幸感。演歌の方が商業的に成功したでしょう。
昭和歌謡界の闇に呑み込まれ短命に終わったのは残念でしたが。

たまたま昨日「ジュディ」を見たんですよ。
ジュディ・ガーランドの伝記映画。
子役の頃からアンフェタミンを飲ませれ働かされていたんですね。
で、夜は眠れないから睡眠薬を煽る。
肥満防止のためチキンスープしか与えられない。もう虐待です。
日本でも似たような話はちらほら聞きますが。

さて、藤圭子。学生の頃、見かけたことがあります。
NET教育放送(今のテレビ朝日)でバイトしてた時期がありまして。
ショートカットで黄色のワンピース。笑顔でひょこひょこ歩いてましたよ。
あのドスの効いた声とはギャップがありました。
引退する2年前だったと思います。