2019年3月27日水曜日

「薄幸」のイメージ化で生まれた怨歌<前篇>



作家の五木寛之は、藤圭子をこう評した。
(毎日新聞昭和45年6月7日 日曜版 藤圭子のファーストアルバムを聴いた感想)


<艶歌>でも<援歌>でもない。これは正真正銘の<怨歌>である。(1)



藤圭子は1960年代末〜1970年代初頭、夜の世界に生きる女を描いた暗く哀切な曲を
個性的なドスの効いたハスキーボイスと独特の凄みのある歌いまわしで歌唱。
その可憐な風貌とのギャップも相まって一世を風靡した。


アイドル歌手的な人気もあり、少年マガジンの表紙を飾ったこともある。





当時、少年サンデーと発行部数を競っていた少年マガジンは「あしたのジョー」
「巨人の星」など、大人の鑑賞にも耐えうる作品を連載していた。

大学生がマンガを読むようになった、と話題になった時代である。
「巨人の星」に藤圭子本人として描かれたこともあった。

1970年の少年サンデーの企画「スターとまんが主人公そっくりショー」では、楳図
かずおの「おろち」を藤圭子が演じている。(似てるかな?)

 あたしは圭子 だれかに鏡の中にとじこめられてしまったの
 あたしの人生は長く暗かった







藤圭子がデビューした1969年は激動の年だった。
全共闘が占拠した東大安田講堂は機動隊が突入。燃え上る講堂はテレビで流された。
若者による抗戦の時代が終わり、無力感、しらけ感、あきらめ感が漂った


この年は曲も暗いムードのものが多い
都会に出てはみたけれど華やかさの中に感じる孤独、苦悩が歌のテーマだ。

カルメン・マキ「時には母のない子のように」、加藤登紀子「ひとり寝の子守唄」、
アン真理子「哀しみは駆け足でやってくる」、千賀かほる「真夜中のギター」など。
ザ・ブルーベルシンガーズ「昭和ブルース」なんて暗さの極地だった。


その中でも特に、藤圭子の歌は若者の心に突き刺さった。
人形のような顔立ちの、笑顔のない少女がドスのきいた声で投げやりに歌う恨み節
衝撃的だった。


反戦フォーク演奏会が行われた新宿西口広場と藤圭子が歌う夜の歌舞伎町。
時代のうねりを背負ったもの同士の一体感があったのではないか。

そして昭和の高度成長に抗うかのように残る貧困哀しい出自、圧倒的な不幸感
十五、十六、十七と〜あたしの人生暗かった〜。
もう「リング」(2)の貞子も真っ青なくらいの怨念(汗)






実際、デビューする前の藤圭子(本名・阿部純子)は幸薄い
岩手県一関市で生まれてすぐ、北海道名寄市に移り、旭川市で育つ。

父は浪曲師、母は浪曲師で三味線弾き。
一家は北海道の漁村や炭鉱町などを転々とし、流しで生計を立てていた。
藤圭子も幼い頃から同行。自らも歌う。
中学の成績は良かったが貧困ゆえ高校進学を断念した。

父親は生活破綻者。働かず、朝からパチンコに興じ家族に暴力をふるった。
それは爪痕としていつまでも彼女の心に残っていったことだろう。
父親のことは「殺してやりたい」と憎しみを露わにしている。


15歳の時、札幌の雪祭り大会で歌う姿がビクター専属の作曲家の目に留り上京。
レッスンを受けながら、錦糸町や浅草などで母と流しをして日銭を稼ぎ、日暮里の
ガード下で煮炊きをする極貧生活を続けていた。(3)





レコード会社の大手6社(4)のオーディションを受けるが全て落選。
荒っぽい、細やかさがない、こぶしが回らない、と指摘される。
当時の老舗レコード会社の「伝統的な尺度」では個性より歌の技術が求められた。
(昨今のフィギュアスケートが何回転したかなど得点に偏重しがちなのと同じだ)



作詞家を目指す石坂まさをが、その母娘に出会ったのは1968年の秋だった。
母親は娘をスターにしたいと熱望していた。

「とにかく、何か歌ってみてよ」と石坂は促した。

小柄で瘦せぎすの17歳の少女は「星のながれに」と「カスバの女」を歌った。
外見とはかけ離れたドスのきいた凄みのある声に石坂は心を鷲掴みされた。
天才歌手を発見してしまったのである。

石坂は執念、いや怨念に取り憑かれたように少女を売り込むことに全てを賭けた。


石坂まさおは新宿で生まれ育つ。幼少より病弱で肺結核を患う。父親は暴君。
事業に成功し8人の愛人を持ち、死後は2番目の愛人の子供に事業を継がせる。
石坂は蔑ろにされた正妻に育てられたが、愛人の一人が生んだ子であった。

高校受験は全て失敗。日雇いなど職業を転々としながら新宿をぶらついていた。
作詞家を志し、同人誌「新歌謡界」に作品を投稿しながらチャンスを窺っていた。

そんな時に藤圭子に出会ったのだ。境遇への恨み荒涼とした青春
石坂と藤圭子はお互いに似た者同士と感じたそうだ。







RCAレコードの新米ディレクター、榎本襄はまだ担当歌手がいなかった。
ビクターの一部門だが、RCAといえば洋楽の世界ではNo.1のレーベルだ。
(余談だが、当時モンキーズのシングル盤を買うと、内袋にシルヴィ・ヴァルタンや
エルヴィスと一緒に和田アキ子、藤圭子、森田健作が印刷されててなんか残念だった)


石坂の自宅で彼女がギターを弾きながら歌う「カスバの女」を聴きやはり驚く。
こんな小柄で痩せた娘が中低音でドスの効いた声出すんだ。。。。
藤圭子にはラ行で軽く巻き舌になる癖があり、それが独特の魅力を醸し出した。
榎本は「演歌歌手ではなくロック歌手としてならすごい子だ」と思ったそうだ。


訊けばコロムビアの新興レーベルDENONからデビューが決まっているという。(5)
榎本はどうしても彼女と仕事がしたくて、ひっくり返すまでに半年かけ石坂を口説く。



石坂と榎本は藤圭子の売り出し戦略を練った。

デビュー曲用に4曲が録音された。詩は石坂まさおが手がける。
「女のブルース」「圭子の夢は夜ひらく」はインパクトがあり売れ線とわかる曲。
が、一番地味だが聴けば聴くほど味が出てくる作風の「新宿の女」を選んだ。

最初にビッグヒットすると、曲に負け次が売れない事例が多々あったからだ。
いわゆる一発屋になりかねない。
石坂と榎本はヒット曲を作るだけでなく藤圭子をスターにすることをゴールにした。






今までの着物姿の演歌歌手とは違う、斬新なイメージも必要だ。
黒のベルベットのスーツに白いギターを抱える、どこか愁いを漂わせる美少女
というビジュアルを作った。(6)
その少女がドスの効いた声で歌う意外性。これは強烈なインパクトがある。


藤圭子は「いつも悲しい顔をして笑わないように」と指示された。
本当はよく笑うし、しゃべる子だったそうだが。

石坂は「演歌の星を背負った宿命の少女」というキャッチフレーズを作る。
圭子の不幸感を強調し、人々の情を買うような逸話をマスコミに流布した。


 極貧生活の中で育ち、幼い頃から浪曲師の両親の興行で歌って一家の生活を支え、
 東京に出てきてからも流しをして両親を養ってきた

 上京するまで白いごはんを食べたことがなかった

 圭子は盲目の母の手を引いて夜の巷を流して歩いた 
 寒さが身にしみて白いギターを持つ手がふるえた






母の手をとって歩く藤圭子のお涙頂戴的な映像もテレビで流れた。

藤圭子の母親は網膜色素変性症という視力が低下する遺伝性の病を抱えていた。
目が不自由なのは事実だが、盲目ではない。石坂が誇張した宣伝文句である。

(母思いで仲がよかったのは事実。歌手を志したのも、母をもっと楽にさせてあげて
不自由な目を治してあげられるかもしれないと思ったからだったという



「新宿の女」は男に捨てられた女の恨み節。石坂は新宿にこだわった
自分と藤圭子の薄幸を重ね合わせ、思い入れある新宿を舞台装置に選んだのだろう。

そしてゲリラ的なプロモーション、新宿25時間キャンペーンを敢行

流しで鍛えた藤圭子は喉が強く、ギターを弾きながらどこででも歌える。
新宿の酒場を周り、少女が25時間も歌い続けるというインパクトを狙った。
(今なら大問題、大炎上になりかねないが)




↑藤圭子の新宿25時間キャンペーンの様子が見られます。


が、本当はゲリラ的ではなく、前もって一軒一軒お願いをしてあったそうだ。
キャバレーでいきなりビッグバンドの前で歌わせてくれない。
事前に彼女を連れて行きバンマス、メンバー全員に挨拶をさせ「飛び入り的な感じ
やりますので、よろしくお願いします」と根回しをしておいたのだ。

ビクターレコード本体の宣伝部がマスコミを集め、キャンペーンは成功。
特にスポーツニッポンで取り上げられた記事が話題となりレコードは売れ出した。


この頃のレコードの販促は何でもありだった。(7)
当時のマネージャー談によると、新宿中の公衆便所に「新宿の女 藤圭子」と落書き
したり(犯罪です)、映画館や新幹線に「新宿の女を歌ってる藤圭子さんを」呼び
出し電話をかけたり(迷惑です)。。。。(元現場マネージャー、成田忠幸談)



デビュー曲「新宿の女」は1969年9月25日にRCAレコードより発売された。
以後、石坂まさをと組んでヒット曲を連発。

翌1970年の「女のブルース」は8週連続1位。
そして代表曲ともなった「圭子の夢は夜ひらく」も10週連続1位を記録。
ファーストアルバム「新宿の女」は20週連続1位、2枚目のアルバム「女のブルース」
は17週連続1位、計37週連続1位という空前絶後の記録(オリコン)を残す。




↑1970年 第1回日本歌謡大賞受賞パーティーで「圭子の夢は夜ひらく」を歌う藤圭子。




「圭子の夢は夜ひらく」は1964年にヒットした「夢は夜ひらく」の改作である。
園まり、緑川アコ、バーブ佐竹、梅宮辰夫の競作で、園まり版が一番売れた。

作詞は中村泰士、富田清吾、作曲は曽根幸明。
「圭子の」とは歌詞が違う。嘘と知りつつ男を信じてしまう女心が描かれている。




園まりの「夢は夜ひらく」が視聴できます。
個人的に見た目は園まりの方が好き(笑)でもこの曲の歌唱は藤圭子の勝ち〜。



原曲はネリカン(練馬少年鑑別所)で唱われていた俗曲。曽根が採譜・補作した。
その後、新たに歌詞と曲名をつけかえ、園まりが歌うことになった。

ネリカンで唱われていた原曲がどんな詩だったのか知る由もない。(8)
救いのないどん底感という点では石井まさをが書き換えた「圭子の夢は夜ひらく」
の方が近いものがあったのでは?と想像してしまう。


「圭子の夢は夜ひらく」を改めて聴くとブルース色が濃いアレンジが施されている。
もともとAm、Dm、Eの3コードだからマイナー・ブルースとして成立する。
ギターは最初のヴァースや曲間のオブリ、バッキングもジャジーである。
さらに1拍3連符での4ビート。



榎本襄の指摘「演歌歌手ではなくロック歌手としてならすごい」は的を得ていた。
演歌にカテゴライズされていたが、和田アキ子、ちあきなおみ、青江三奈と同じ
和製R&Bシンガー、あるいは昭和歌謡ブルース歌手と言ってもいいだろう。
しかも唯一無二の。


↑1970年 渋谷公会堂のライブ「圭子の夢は夜ひらく」。これは絶品です。


後篇に続く。


<脚注&裏話>


(1)五木寛之と藤圭子
五木寛之の小説に「涙の河をふり返れ」という短編(1967年発表)がある。
「不幸の味」をイメージ化し、戦略的に一人の少女歌手を演出して行くプロデュー
サーと、旧知の友人である私(大学講師で社会心理学者)の物語である。
この作品にこんな一節がある。「人は自分より不幸な人間がいると安心する。
問題は大衆が彼女の背後に〈不幸の味〉を感じるかどうかだ」



五木寛之は「涙の河をふり返れ」を発表した後に、現実にそれと重なる出来事が
起きるとは予期していなかった、と言っている。
石坂まさをが藤圭子の売出しの際、「涙の河をふり返れ」に描かれている「不幸の
味のイメージ化」を参考にした可能性は大きい。

一度だけ五木寛之は石坂まさをに会ったことがある。
「私のやったことは五木さんに責任があるんです」と石坂は言い、「涙の河を
ふり返れ」の文章の一部を口にしたという。


(2)「リング」
1998年公開の日本のホラー映画。見た者を1週間後に呪い殺す「呪いのビデオテープ」
の謎を追う、鈴木光司の同名小説の映画化。監督は中田秀夫。 松嶋菜々子主演。
配給収入10億円を記録するヒット作となり、シリーズ化された。
「呪いのビデオ」の元凶は超能力を持つ山村貞子たが、殺害され井戸に遺棄され
怨霊と化す。テレビから這い出て、白い服で前髪を前に垂らし歩く姿が恐かった。


(3)日暮里のガード下で煮炊きをする極貧生活
デビュー前の藤圭子を知る海老名香葉子(初代林家三平の妻)の証言。
藤圭子は石坂まさをの家に居候していたが、石坂は懇意にしていた林家三平師匠の
家に頼み、藤圭子を住まわせてもらっていた。


(4)レコード会社の大手6社
日本ビクター、日本コロムビア、キング、ポリドール、テイチク、東芝音楽工業


(5)藤圭子、デビューまでの経緯
藤圭子と石坂まさをが出会う前、1968年の初夏に政治ジャーナリストで芸能界の
裏事情に詳しい渡邉正次郎は藤圭子の才能を見抜き、キングレコードのオーデション
を受けさせて合格させ、鳳企画とマネジメント契約をさせている。
給料制で毎月40万円(現在の額で200万円)と破格の高待遇だった。

喉が荒れるから流しを止めるよう言われていたが、藤圭子は流しを続けていた。
また原盤制作にしたい、その方が儲かる、給料でなくすべて歩合にしたいと鳳企画に
しつこく要求した。
北海道から流れてきたホームレス寸前の10代の小娘が原盤制作という業界用語を口にし
その方が儲かる、歩合にしたい、という。明らかに誰かの入れ知恵だ。
石坂まさをが鳳企画との契約をひっくり返すため藤圭子を言いくるめたのだろう。
原盤制作のための資金として、藤圭子は40万円の給料を石坂に差し出していた。
だから生活費を稼ぐための流しを続けるしかなかったと思われる。

鳳企画との企画は破棄、キングからのデビューは中止になった。
RCAからのデビューを知った渡邉正次郎はスポーツ紙、芸能誌に圧力をかける。
榎本、石坂、藤圭子の一家が渡邉に詫びを入れ晴れてRCAデビューすることになった。

デビュー後の藤圭子は歩合制ではなく月給制で、デビュー年は月2万円、翌年3月から
5万円、6月から8万円、「圭子の夢は夜ひらく」が大ヒットしてもやっと50万円。
石坂まさをの事務所の方が金銭的に待遇は悪く、労働面でも過酷だった。
藤圭子は騙されたと思ったはずだ。
それでも石坂が大スターにしてくれたのは事実。強く言えなかったのだろう。
後に藤圭子は恩師でもある石坂まさをを「この世で一番憎んでいる」と述べている。


(6)黒のベルベットのスーツに白いギター
当時、親会社のビクターのブラック&シルバーのステレオがヒットしていた。
どうせならオールビクターで藤圭子を応援してもらいたかったので、黒のベルベット
にシルバーのギターを藤圭子に持たせることにした。
しかし白いギターを銀粉でコーティングしたところ、ベルベットのスーツにべたべた
銀粉が付くので、あきらめて白いギターにしたそうだ。
黒のベルベットのスーツは痩せすぎの体型をふくよかに見せる狙いもあったらしい。


(7)この頃のレコードの販促は何でもあり
桜を使ってラジオ番組にリクエスト葉書を出す、電リクに電話、電リクの受付嬢を買収、
やらせ記事、局や音楽業界人に飲ませ食わせ・・・。


(8)ネリカンで歌われていた俗曲
ネリカン・ブルースという歌もあるがまったく別な曲。原曲の作者は不詳。
演歌として補作され、藤圭子の歌唱も録音が残っている。


<参考資料:NEWSポストセブン、zakzak by夕刊フジ、サイゾーpremium、
otonano 藤圭子劇場スペシャルインタビュー 榎本襄、沢木耕太郎「流星ひとつ」、
石坂まさを「きずな 藤圭子と私」、藤圭子の暗黒エネルギー、毎日新聞、
夢は夜ひらく 藤圭子の真実-BS朝日、虚像と実像の藤圭子、Wikipedia、
渡邉正次郎「芸能人・ヤクザ・政治家は弱い者イジメが大好き」、
大下英治著「悲しき歌姫」、五木寛之「涙の河をふり返れ」「怨歌の誕生」他>

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