自分でもバンドをやった経験がある人なら分かるだろう。
意気投合して初めてもだんだんくい違いが出てきてぶつかるようになる。
頭にくる。誰かが誰かの不満を言う。もうやめよう。
しかしバンドを離れればまた友だちに戻れる。我々がアマチュアだからだ。
イーグルスはそうではなかった。
彼らは単なるバンドではなく巨額の利益が絡む音楽ビジネスだったのだ。
グレン・フライは1948年デトロイト生まれ。
デトロイトでバンド活動をしていたがロサンゼルスへ移り、J.D.サウザーや
ジャクソン・ブラウンと出会う。彼らは同じアパートに住んでいた。
グレンは階下に住むジャクソン・ブラウンが弾くピアノを聴きながら、作曲と
はどうやるものなのか学んだという。
J.D.サウザーの紹介でリンダ・ロンシュタットのバック・バンドを務めること
になるが、この時一緒だったドン・ヘンリーとバンド結成を思いつく。
ジャクソン・ブラウンが契約していたアサイラム・レコードに売り込んだが、
まだ無名の二人に社長のデヴィッド・ゲフィン(1)は難色を示した。
そこでブルーグラスのマルチプレーヤーであるバーニー・レドン、ポコ出身の
ランディー・マイズナーと実績のある二人を入れやっと契約にこぎつける。
初期のイーグルスはカントリー色の強いロックで、バーニー・レドンのギター、
マンドリン、バンジョー、ペダルスチールが音作りの要になっていた。
↑写真をクリックするとPeaceful Easy Feeling(BBC Live 1973)が見れます。
3枚目の「On The Border」で彼らは不満を抱いていたグリン・ジョンズ(2)
からビル・シムジク(3)へとプロデューサーを変更。
(その経緯については以前の投稿をご参照ください)
http://b-side-medley.blogspot.jp/2015/07/blog-post_24.html
バーニーの紹介で2曲参加してもらったギタリストのドン・フェルダーを正式
メンバーとして迎える。
フェルダーのハードでソリッドなプレイはバンドの音をぐっとタイトにした。
皮肉なことにドン・フェルダーを紹介したバーニーの居場所はだんだん無くなり、
バーニーはだんだんレコーディングをすっぽかし身が入らなくなる。
グレンとヘンリーはバーニーの曲にも不満を抱いていた。
バンドを仕切っていたグレン・フライとバーニーの仲は険悪になる。
ある日スタジオでバーニーはグレンの頭にビールをぶっかけて、そのまま出て
行ってしまった。
一方ランディーは毎回アンコールで「Take It To The Limit」の高音を歌うこと
にうんざりしていた。
グレンは「お客が期待してるから」といつもランディーをなだめて歌わせた。
しかしランディーはついに拒否。
↑写真をクリックするとLyin’ Eyes(Live 1977)が見れます。
実はイーグルスはバンド名だけでなくマネージャーのアーヴィング・エイゾフ
(4)が設立した会社イーグルス・リミテッドでもある。
収益は5人に平等に分配される取り決めになっていた。
グレンとの確執からバーニーとランディーが解雇。
残った3人で3等分するはずが、いつのまにかドン・フェルダーは貢献度が低い
という理由で取り分が少なくなっていた。
「イーグルスは民主主義じゃない。俺とドン(ヘンリー)が稼いでるんだから多い
のは当然だろ。文句があるならやめりゃいい」というのがグレンの言い分だ。
後から加わったティモシー・シュミット(5)とジョー・ウォルシュはメンバーで
あるものの会社には加わっていない。雇い人という扱いである。
そのせいか二人は「グレンとドン(ヘンリー)と一緒にやらせてもらってるだけ
で光栄」というスタンスだ。
ドン・フェルダーは音楽面でも不当に扱われていると弁護士を通じ主張。
「One Of These Nights」「Hotel California」での貢献(6)を評価してもらえな
い、自分の曲はアルバムに採用されない、ボーカルを取らせてもらえない、など。
後から加入した二人より地位が低いことも彼を苛立たせた。
↑写真をクリックするとOne Of These Nights(Live 1977)が見れます。
グレン に言わせれば「曲は使えないし、歌は基準点以下、Hotel Californiaも最初
にギターのパターンだけで曲にしたのはドン(ヘンリー)と俺」だ。
ドン・フェルダーとグレン の確執はどんどん大きくなる。
ステージで二人が「終わったらぶっ殺してやる」「お前こそ逃げるなよ」と激し
く罵り合っていたのもしっかり録音が残っている。
フェルダーと親しく息のあったツイン・リードギターを弾いていたジョー・ウォ
ルシュは立場が難しかったが、グレンとドン・ヘンリーに従うことにした。
双頭独裁体制だったグレンとドン・ヘンリーの間にも軋みが出始めた。
そして1980年に解散。
「Hotel California」の最後では、ホテルのボーイ長に自分の好みの銘柄のワイン
を注文するとこんな答えを返される。
We haven't had that spirit here since nineteen sixty nine
(そのようなお酒は1969年以来こちらには置いておりません)
spirit(7)は蒸留酒の意とスピリット(魂)の意を掛けているのは有名な話。
1969年のウッドストック・フェスティバル以降ロック界が商業至上主義になり
退廃して行ったことを揶揄しているのだ。
それは自嘲でもある。イーグルス自身もまた産業ロックの真っ只中で病んでいた。
↑写真をクリックするとThe Long Run(Studio 1979 )が見れます。
グレン・フライはビジネスライクでいささか傲慢であったかもしれない。
しかし巨大化した大鷲号(イーグルス)の舵取りをしていたのは彼である。
バンドの成功のためリーダーは時には冷徹な決断も下さなければならなかった。
イーグルス解散後すぐにグレン・フライはソロ活動を開始。
1985年には映画「ビバリーヒルズ・コップ」挿入歌「The Heat Is On」
とTVドラマ「マイアミ・バイス」(8)挿入歌「You Belong To The City」を
ヒットさせた。
イーグルスは1994年にMTVのライブを機に再結成。(9)
グレンはドン・フェルダーに電話して「お前の取り分はこれだけだ。不服なら
やらなくていい。24時間以内に連絡しろ」と一方的に伝えた。
ドン・フェルダーは参加しまた素晴らしい演奏を聴かせてくれた。
が、2000年にフェルダーは「バンドに貢献していない」と突然解雇される。
彼はこれを不服として訴訟を起こした。泥沼である。
しかしどんなに争い憎み合っていても、同じバンドでいい時期を過ごした仲間
というのは特別な存在なのではないだろうか。
ドン・フェルダーのグレン・フライ追悼の声明を読んでそう思った。
ドン・フェルダーによる声明は以下の通り。(長いので一部略しました)
「グレンの死が信じられず、ショックの状態にあります。(中略)
彼はとてつもなく才能に溢れたソングライターであり、アレンジャーであり、
リーダーであり、シンガーであり、ギタリストでした。
皆そう思ってるでしょうし、彼はそれに応えることができ、即座に“マジック”
を生み出すことができる人だったのです。(中略)」
「1974年にイーグルスに加入するように誘ってくれたのがグレンでした。
彼のすぐそばで長い間、一緒に仕事をして過ごすことができたのは人生の贈り物。
グレンは愉快で、強く、寛容で、優しい人でした。
兄弟のように感じていましたし兄弟のようだからこそ食い違うこともありました。
そういう難しい時でもなんとか僕らはマジカルな楽曲を作ることができましたし、
素晴らしいレコーディングやライヴを生み出すことができたのです。(中略)」
「グレンはバンドのジェームス・ディーンでした。
方向性を探している時のリーダーでしたし、バンドで最もクールな男でした。
僕らの問題に一緒に取り組んだり話したりできないと思うと大変悲しくなります。
悲しいことにもうその機会はないのですね。
この星は偉大な人を、偉大なミュージシャンを失いました。
誰も彼の代わりなんて務められないでしょう。安らかに、グレン。(中略)」
(参考資料:ザ・ヒストリー・オブ・イーグルス、レコード・コレクターズ、
ドン・フェルダー自伝 天国と地獄 イーグルスという人生、NME JAPAN、
Wikipedia、他)