2020年5月22日金曜日

孤高のギタリスト、ジェフ・ベックの軌跡(3)フュージョン期

<世界一美しいロック・アルバム>

BBA解散のベックはアーティストとして岐路に立たされていた。
ロッド・スチュワート級のボーカルはいないと悟ったベックは、ボーカルではなく
ギターを見せつけるアルバムを作る、という冒険的な試みに出る。

ベックはジョン・マクラフリン率いるマハヴィシュヌ・オーケストラのジャズ・ロッ
的なアプローチに傾倒していた。
そこでマハヴィシュヌ・オーケストラの黙示録(Apocalypse 1974)をプロデュース
したジョージ・マーティンに依頼することにしたのだった。





レコーディングはロンドンのエアー・スタジオ(EMIから独立したジョージ・マーテ
ィンが1965年に設立した)で1974年12月から行われた。

ベックはマーティンと一緒に過ごすうちに、彼の話し方に教養のある丁寧な(しかし
決して相手を見下さない)雰囲気を感じたという。
他のミュージシャン達が言うように、マーティンはロックを見下さなかった。
曲がそれまでにない方向へ向かおうとする時は、なおさらそうだった。

マーティンは俺がどこに向かっているか分かってたし、うまく道へ導いてくれた
とベックは当時を回想している。


1975年にリリースされたブロウ・バイ・ブロウ (Blow by Blow) は、フュージョン色
の濃い初のインストゥルメンタル・アルバムとなり、アメリカでゴールドディスクを
獲得し、セールス面でも成功を収めた。ビルボード・チャートで4位を獲得。
(当初の邦題は「ギター殺人者の凱旋」)





アルバムに収録されているサウンドの粗さが魅力的なYou Know What I Mean、
エネルギッシュなFreeway Jumはファンク、ジャズ、フュージョンが融合した曲で、
ベックのそれ以前の曲と異なるサウンドに仕上がっている。

トーキング・モジュレーターを使ったレゲエ調のShe’s A Womanは最初聞いた時、
ビートルズのあの曲とは気づかなかった。
このビートルズとはまったく異なるヴァージョンは、ジョージ・マーティンの発案
で、R&Bシンガーのリンダ・ルイスからインスパイアされているそうだ。


キーボードのマックス・ミドルトン、ベースのフィル・チェン、ドラムのリチャード・
ベイリーという新たなバンドメンバーは、この新いいジャンルに柔軟に対応した。
ジョージ・マーティンとリチャード・ベイリーはすぐ意気投合した。


ベックはマックス・ミドルトンに惚れ込んでいた。
(ミドルトンは第二期ジェフ・ベック・グループのメンバーで、BBA結成時5人編成で
活動していた時期にも参加していた)
ブロウ・バイ・ブロウを通して聴くと、全曲で彼の貢献度が大きいことが分かる。

ミドルトンの感性は繊細で、特にフェンダー・ローズを扱わせたら絶品のプレイをする。
Cause We've Ended as Lovers(1)、Diamond Dustがいい例だ。




↑写真をクリックすると名演Cause We've Ended as Loversが聴けます。



ベックのギターの細やかな音色の変化のさせ方。ぜひステレオで聴いて欲しい。
左右に揺れるミドルトンのフェンダー・ローズ、リチャード・ベイリーの抑え気味な
リズムの刻み方と小技の効いたフィル、フィル・チェンの盤石なベース。


Cause We've Ended as Loversと同じくTheloniusもスティービー・ワンダーの曲。
クレジットされてないがスティービー本人がクラビネットを弾いている。(2)

Diamond Dustはマーティンがメロディーの盛り上がりを強調するために弦楽器パート
を加えることを提案した。「マーティンが曲を磨いてくれた」とベックは回想する。





ジャケットではトレードマークでもあるオックスブラッド・レスポールを弾くベック
の姿が見られるが、このアルバムでもメイン器として使用されている。

Cause We've Ended as Loversでハーフトーンになる箇所があるため、おそらく
ストラトキャスターだろうと長年思い込んでいた。。。が、違っていた。

セイモア・ダンカンが1959年製テレキャスターを改造しギブソンのPAFピックアップ
を2基搭載した、通称テレギブ(3)というギターを使用している。





本作発表後ベックは4月から7月にかけてアメリカ・ツアー(マハヴィシュヌ・オーケ
ストラとのジョイントもあり)行われた。8月にはBBA以来二度目の来日を果たした。



<スタンリー・クラーク、ヤン・ハマーとのセッション>

ツアーの後、ベックはスタンリー・クラークのアルバムJourney To Loveの
レコーディングに参加。タイトル曲とHello Jeffでギターを弾いている。
このセッションでジャズ/フュージョンへの傾倒はより強まることとなった。

またこの時期ベックはマハヴィシュヌ・オーケストラとヤン・ハマーに入れ込んで
いた、と明かしている。



1976年のアルバム、ワイアード(Wired)でベックは再びジョージ・マーティンと組む
ベックはマーティンにグラハム・セントラル・ステーションのアルバムを聴かせた。

マーティンは「申し訳ないけど、僕が聞いたアルバムの中で史上最悪なサウンドだね。
でも君の方向性が分かったと思う」と言ったそうだ。


アーティストの考え、やりたいこと(たとえ自分の好みでなくても)を受け入れる
寛容性、どう形にすればいいかアイディアを提示できる「何でもポケット」を持って
いることろが、マーティンならではの才力だ。(だからビートルズを成功に導いた)






今度はキーボードのヤン・ハマーが加わったことで、複雑なセッションになった。
Blue Windはマーティンではなく、ヤン・ハマーのプロデュースである。
ヤン・ハマーはこの曲も含め、4曲でシンセサイザーを演奏した。


また参加ミュージシャンも増えた。
マハヴィシュヌ・オーケストラに参加していたナラダ・マイケル・ウォルデン(ds)を
迎え、Led Bootsなど5曲で切れ味のいい演奏をしてもらっている。

Goodbye Pork Pie Hatはチャールズ・ミンガスのカヴァー。
完璧主義者のベックはソロに満足していなかったらしい。
しばらく経ってマーティンに電話して「ソロでいいアイデアがある」と言うと「アル
バムがリリースされて2週間だよ」と言われた、という逸話もある。

この曲以外は参加メンバーのオリジナル曲。ベックの作品は一つもない。






ワイアード(Wired)は前作と比べると、良くも悪くもシンセ臭が強くなりジャズ・ファ
ンク色も濃くなった、
ベックのギターも前作よりハードでダイナミックなプレイが繰り広げられている。
ストラトのアームを使ったグリッサンドで急激にピッチを下げる奏法も聴ける。


ジャケットで持っているローズ指板、オリンピック・ホワイトのストラトキャスター
はジョン・マクラフリン氏からプレゼントされた1963年製のもの。(4)
数あるストラトの中でこのネックが自分に一番フィットするとベックは言っている。
レコーディングでもこのストラトが使用された
以前に盗難に遭ったため、撮影後ベックのスタジオで大切に保管されているらしい。


本作発表後のツアーは、1976年5月ロンドン公演から始まる。
ヤン・ハマー・グループとのジョイント・ツアーの形で行われた。

ライブではタバコサンバースト、メイプルネックのストラト(ストリングガイドの形状
から1954年製と分かる)や第二期ジェフ・ベック・グループ後期から使っていたナチ
ュラルのフランケン・ストラト(5)を主に使っていたようだ




↑ベックとヤン・ハマー・グループによるScatterbrainが聴けます。
1976年6月ペンシルヴァニア州での録音。


10月から11月にかけてアメリカで行われたライヴを編集したものが「ライヴ・ワイアー
(Jeff Beck With the Jan Hammer Group Live 1977) として発表されることとなる。
実質的にはヤン・ハマー・グループのライヴにベックがゲスト参加したものである。

ライヴ盤発表に合わせてツアーが再開するが、すぐ中止になる。
一説によると、ベックとヤン・ハマーの関係が悪化したため?とか。
ヤン・ハマーは「お前のギターの音なんてシンセで出せる」と言ったそうな(^^)


その一年後1979年ベックはスタンリー・クラークのアルバムI Wanna Play For You
セッションに再び参加。Rock 'N' Roll Jelly(Live)、Jamaican Boyで演奏している。

スタンリー・クラークとのツアーは1978年11月、3度目となる日本公演から開始
このツアーにはサイモン・フィリップス(ds)トニー・ハイマス(kb)も参加している。
日本武道館でも11月30日〜12月2日の3日間行われ、僕も見に行った。




 


舞台の袖から出てきたベックはオープニングでグレコ・ローランドのギターシンセ
を携えてDarknessを演奏し始めた。その重低音に驚いたものだ。




その後はオリンピックホワイトに黒ピックガード、ローズ指板のストラト(シェク
ター・アッセンブリを搭載らしい)だった印象があるが、サンバーストのストラト
だったかもしれない。。。失念。


Freeway Jam、Scatterbrain、Rock 'n Roll Jelly、Blue Windとベックが弾くフレーズ
をスタンリーがアレンビックのベースで煽る、激しいバトルが続く。
アンコールで’Cause We've Ended As Loversも聴けて大満足のライブだった。




↑日本武道館でのスタンリー・クラークとの共演、School Daysが聴けます。





                                   (写真: Georges AMANN)
↑North Sea Jazz Fes.2006での再共演(スタンリーは7’30”で登場)
18年前もこんな感じだった。


フュージョン路線3作目のスタジオ録音アルバム、ゼア・アンド・バック (There and 
Back) は前作から4年経った1980年にリリースされた。

スタンリー・クラークとのツアー終了後、ベックは1978年12月からヤン・ハマー
との新作のレコーディングに取りかかる。サイモン・フィリップス(ds)が参加した。
ツアーですでに演奏されていたStar Cycle、Too Much to Lose、You Never Know
(ヤン・ハマーの楽曲)が録音されたが、その仕上がりに満足がいかなかったベック
はリリースを見合わせる。






1979年6月にはヨーロッパ・ツアーを開始する。
ツアー終了後、共演したトニー・ハイマス(kb)サイモン・フィリップス(ds)モー・
フォスター(b)が参加しレコーディングを再開し5曲を完成。
これに前回のセッションでの3曲を加えて本作が完成した。

発表後、アメリカ、日本(1980年12月)、ヨーロッパを回るツアーが行われた。
僕が買ったアルバムはこのゼア・アンド・バック (There and Back) が最後だ。



次作のフラッシュ (Flash 1985) は、久し振りの歌もの中心の作品。
ベック本人はあまり気に入っておらず、「忘れたいアルバム」と発言している。

しかし本作では久しぶりでロッド・スチュワートが共演しPeople Get Ready
を歌っているのをMTVで見た時は嬉しくなった。



(写真:gettyimages)
↑クリックするとベックとロッドのPeople Get Readyが視聴できます。



ベックのギターにはロッドのヴォーカルが一番相性が良かったのだと思う。
ロッド以上のボーカリストはいないからインストェルメンタルに徹したのだろう。

ベックはロッド以外はパートナーとなる、いいボーカリストに恵まれなかった。
その点がツェッペリンで大きな成功を得たジミー・ペイジ、自らのヴォーカルを
売りにできたクラプトンとの商業的な差になったのではないか。



1983年9月元スモール・フェイセズのロニー・レインの呼びかけによりロンドン
でチャリティー公演アームズ・コンサートが開催された。
三大ギタリスト(クラプトン、ベック、ペイジ)の競演が話題になった。

三者三様で良いが、僕はTシャツにジーンズで永遠のギター少年みたいなベック
がカッコ良く見え、その突拍子もないやんちゃなフレーズが一番楽しめた。




↑クリックするとアームズ・コンサートでのベックの演奏が聴けます。
(Star Cycle、The Pump、Led Boots (Intro) / Goodbye Pork Pie Hat)
サイモン・フィリップス(ds)フェルナンド・サンチェス(b) トニー・ハイマス(kb)



1986年6月ベックが再びヤン・ハマーと来日したので武道館に見に行った。
ドラムはサイモン・フィリップスだったけど他は憶えてないなあ。

6月1日に軽井沢プリンスホテル野外特設会場でサントリー提供のコンサートが
行われ、サンタナ、スティーヴ・ルカサーとも共演している。




↑軽井沢でヤン・ハマーと再共演した時のFreeway Jamが視聴できます。
ベックはイエローのストラトを弾いている。武道館でも?憶えてない。



ジェフ・ベックというギタリストは強者と組んだ時に最高のプレイをしてくれる。
ロッド・スチュワート、ティム・ボガートとカーマイン・アピス、ヤン・ハマーや
スタンリー・クラーク。。。ただし、それは長くは続かない。

ジェフ・ベックは常に新しいものを求めているからだ。



(写真:gettyimages)

<脚注>

2020年5月12日火曜日

孤高のギタリスト、ジェフ・ベックの軌跡(2)BBA結成

<最強のロック・トリオ、ベック・ボガート&アピス(BBA)の誕生>


1972年、第二期ジェフ・ベック・グループ解散後、カクタスでの活動に限界を感じ
始めていたティム・ボガート、カーマイン・アピスとのバンド結成の機運が訪れる。





当初は5人編成のジェフ・ベック・グループ名義で活動を開始する。(1)
が、他の2人は脱退。ポール・ロジャースをボーカルにという目論見も失敗。

最終的にトリオ編成のベック・ボガート& アピスとなった。
ボーカルはティム・ボガート、カーマイン・アピスが担当することになった。
ベックは下手だから(^^v)



ティム・ボガートはリズム隊としての常識的なベーシストではない。



<写真:gettyimages>

フェンダーのプレシジョン・ベースにテレキャスター・ベースのネックを付けた
愛器を思い切り歪ませ、自在なフレーズ(時にはコードも)をブンブン弾きまくる。
ジャック・ブルースと同様「リード・ベース」と呼んだ方がいいだろう。



ベックの出す音を下支えするのではなく、対位法的にフレーズを繰り出して来る。

ライブでは延々と続くティム・ボガートとジェフ・ベックの掛合い、丁々発止の
攻撃的なインプロヴィゼーションが凄かった。
聴いててどちらがリード・ギターか分からないくらいだ。



                                                                                  <写真:gettyimages>


ボガートの演奏力を評価して誘ったベックだったが、しだいにベースラインに徹せず
前に出すぎるボガートの演奏に苛立ち反感を持つようになる。
ベックとボガートの殴り合いの喧嘩に及んだこともあったという。
この二人の確執からバンドは長続きしなかった。



                                                         <写真:gettyimages>


ボガートは凄テクのベースを弾きながら歌う。(この点もジャック・ブルースと同じ)
その歌声の圧が強いのもジャック・ブルースに通ずるものがある。


が、ボガートの高音でシャウトするボーカルは、ロバート・プラントやイアン・ギラ
ンのような力強さに欠け、BBAのパワフルな楽器陣の中では貧弱に感じられた。

これもベックがボガートに対して不満を抱いた要因かもしれない。
もともとベックはポール・ロジャースをボーカルに迎えることを望んでいたのだ。



                                                                                 <写真:gettyimages>



カーマイン・アピスはハードヒット奏法によるヘヴィ・ドラミングの先駆者だ。
ヴァニラ・ファッジ(クリームもそうだが)が大音量だったことに起因している。
パワフルでありながら小技も冴える


ボンゾに匹敵するボディー・ブローのように腹に響く重いバスドラムの連打
26インチのツー・バス(バスドラム2個使用)を取り入れたのもアピスである。
ヴァニラ・ファッジではグレッチのセットを使用したが、その後ラディックに変更。




ヴァニラ・ファッジの前座を務めていたツェッペリンのボンゾがアピスのドラム
セットを気に入ったため、アピスはラディック社にボンゾを紹介した経緯もある。
ボンゾは同じセットを入手したが、ツェッペリンのメンバーの反対によりツー・
バスはやめ、ワンバスで使用していた。


スティックはお尻から1/3の所を支点に持つ時とお尻を持つ時がある。
左手はレギュラー・グリップではなく、ロック系に多いマッチド・グリップである。
時にはスティックを逆さに持つこともあった。
リムショットなどでパーカッションのような使い方もする。






右手だけでライド、クラッシュ・シンバル、スネア、タムを思いっきり叩きつけ、
左手でシンバルをミュートする奏法には唖然としたものだ。
右手のスティックは宙で回転させ間をとってから打ち下ろす。
これはツェッペリンでボンゾもよくやっていたが、アピスの影響かもしれない。


シンバルはパイステ。小刻みなハイハット連打で要所要所オープンにする。
ハイハットの裏拍打ちもよくやる。

チャイナゴングの導入、チャイナシンバルを裏返しにセット、スネアドラムにワウ
ペダルを繋ぐ、バスドラムのマイクをベースアンプに繋ぐなど革新的だった。

そしてアピスはドラムを叩きながら、ボーカルもコーラスもできる強みがあった。





余談だが、1982年にカーマイン・アピスがエリック・カルメン、リック・デリン
ジャーらを率いて来日した際、リハーサルに立ち会ったことがある。
それまで見たドラマーの誰よりも、ドッスンバッタン大きな音を出していた。

メンバーたちが休憩でスタジオを出る際、カーマイン・アピスに「ドラムセットに
座ってにていいか?」と尋ねると、快く「いいよ」と返事してくれた。
思ってた以上にセットは大きい。ライドシンバルが遠く手が届かなかった。


BBAは1972年10月ヨーロッパ・ツアー。11月アルバムのレコーディング。
翌1973年2月デビュー・アルバムにして唯一の公式オリジナル・アルバム「ベック・
ボガート&アピス (Beck, Bogert & Appice)」発売。

その後イギリス・ツアーを行う。






1973年5月に来日公演
(5月14日 日本武道館、5月16日 名古屋市民会館、5月18-19日 大阪厚生年金会館)

大阪厚生年金会館での公演が録音されライブ盤「ベック・ボガート&アピス・ライ
ヴ・イン・ジャパン(Beck, Bogert & Appice Live in Japan )」として発売。


生演奏で本来の手腕を発揮する3人は、スタジオ録音のアルバムよりはるかに強力で
キレのある自由奔放な演奏を繰り広げている
そのパワフルな演奏は現在でも語り草になっている。



↑写真をクリックするとBBA日本公演よりSuperstitionが視聴できます。

これはライヴ盤の1曲目とまったく同じテイク。こんな映像が残ってたとは!
プロ・ショット、かつ編集されてる。ということはテレビで放送したのだろうか?
※当時はカラーテープが高価なためマスターを保存せず消してのが一般だった。
このモノクロ映像はダビングされたものと思われる。画質は悪いが貴重!
ベックのトーキング・モジュレーターもしっかり映っている。

ベックが使用しているのはレスポール。ジャッケット内写真にも映っている。
力強く噛み付くようなど迫力サウンドにノックアウトされた人も多いはず。
来日直前の1973年にメンフィスの楽器店で見つけたという1954年製だ。





ゴールドトップだったのを深い茶色に塗り替えてあり、オックスブラッド(牛の
血のような濃い赤)に見えることからオックスブラッド・レスポールと呼ばれる。
P-90ピックアップをハムバッカーに交換、ネックをスリムにリシェイプ、チューナー
をシャーラーに交換してある。
※名盤ブロウ・バイ・ブロウ(Blow by Blow 1975)のジャケットにも映っている。

レスポールの出力はSunn Colosseumのソリッドステート・ヘッドアンプ+
Univox 6x 12 キャビネット。
フェンダーのPrinceton Reverbをリバーブ・アンプにしているらしい。
使用しているエフェクターはColorsound Overdriver、Crybaby(ワウペダル)、
Magic Bag Talkbox(トーキング・モジュレーター)。






このライヴ盤は日本のみで限定発売された上に、ベックの意向で廃盤となっていた。
そのため1989年にCD化されるまでは非常にレアな商品となっていた。

カーマイン・アピスは、8トラックでの録音であること(当時は既に16トラックが
欧米ではスタンダードになりつつあった)、曲の順番が変えられていること(発売
当時は2枚組LPの4面であるため、長尺な曲順の大幅な編集を余儀なくされていた)
が残念である、と発言している。

ベックの意向も同じだったのかもしれない。


※2006年にはソニーのDSDサンプリング(2)によるリマスター盤が発売される。
萩原健太氏か和久井光司氏が「野太いのに隅々まで見渡せる音」と評していた。

※2013年には40周年記念盤として、オリジナル・アナログ・マスターを元にDSD
サンプリングしたリマスター盤が発売された。
曲順が実際のセットリスト順に改められ、ライヴ本編をDISC-1で一気に聴ける。





日本から帰国後、ボガートが交通事故で重傷を負いその後のツアーがキャンセル。
夏には解散の噂が飛ぶようになる。11月には2回目のヨーロッパツアーを開始。

翌1974年1月26日ロンドンのレインボー・シアターでコンサートを行う。
この模様は9月にアメリカで「Rock Around the World」として放送された。

これがBBAによる最後の録音となり、2nd.アルバム収録曲のプレビューともなった。
このコンサートの音源が後にAt Last Rainbow等のタイトルの海賊盤で出回る。





2nd.アルバムはデビュー・アルバムやライブ盤と趣きや方向性の異なる作品になる、
という話だった。
セッションは上述レインボー・シアターでのコンサートの直前、1974年1月に行われ
たが、ベックとボガートの確執もあって完成には至らなかった。



                                                                                <写真:gettyimages>
↑写真をクリックすると未発表曲 Jizz Whizzが聴けます。




↑写真をクリックすると未発表曲Laughing Ladyが聴けます。


モンスター・バンドと言われたBBAは、1枚のオリジナル・アルバムとライブ盤を
残しただけで自然消滅することになった。
そして翌1975年からジェフ・ベックはフュージョン路線に活路を見出す。





個人的にはフュージョン時代のベックも好きだが、BBAも好きだったのでぜひ再結成
して欲しいバンドだった。(クリームもツェッペリンも再結成したんだから)

が、それも実現せず。残念である。(3)


<脚注>

2020年5月2日土曜日

孤高のギタリスト、ジェフ・ベックの軌跡(1)JBG期

これまでジミー・ペイジ、リッチー・ブラックモアについて、またことあるごとに
クラプトンにも触れてきた。ならば、そろそろこの人について書かないと。


ということで、今回からジェフ・ベック特集。



僕がラジオでジェフ・ベック・グループを最初に聴いたのは中学2年の時。
監獄ロック(Jailhouse Rock)だった。

この時は元歌がエルヴィスだということも、ロッド・スチュワートが ボーカルで、
ロン・ウッドがベースで、ニッキー・ホプキンスがピアノを弾いていることも
知らなかった。ただただカッコイイ曲だなあ、と思った。




↑クリックするとジェフ・ベック・グループのJailhouse Rockが聴けます。



<ヤードバーズからソロ活動へ>

ジェフ・ベックはジミー・ペイジの紹介でクラプトン脱退後のヤードバーズに参加。
(二人は同じアート・スクール出身で旧知の仲だった)
ヤードバーズのベースが脱退すると、ベックは後任ベーシストにペイジを誘う。
やがてヤードバーズはベックとペイジのツイン・リード編成で活動するようになる。




↑映画「欲望」(1)にカメオ出演したStroll Onを演奏するヤードバーズ。
ギターを壊すベック。ペイジが引いてるのはベックにもらったテレキャスター。


ヤードバーズ時代ベックは1954年製エスクワイヤを愛用。
それまで使用していたテレキャスターをペイジに譲る。
上記の映画で弾いてるのは、破壊しやすい(笑)薄型のホロウボディだ。
ベックがヤードバーズ時代に愛用していたVOXのAC-30が映っている。



ヤードバーズ脱退後ベックはミッキー・モスト(2)とプロデュース契約を結び、
シングルHi Ho Silver Lining / Beck's Bolero(1966年)をヒットさせる。

Hi Ho Silver Liningはベックのボーカルでお世辞にも上手いと言えない(^^)
ベックも本意ではなかったらしく、後に「自分の首にピンクの便座をかけさせること
になった曲」と語っている。


B面のBeck's Boleroはジミー・ペイジの提供曲で彼自身が12弦ギターで参加。
ジョン・ポール・ジョーンズ(b)、キース・ムーン(ds)、ニッキー・ホプキンス(p)と
豪華な顔ぶれによるインスト。





↑ヤードバーズ時代のベックとペイジ。


その後Tallyman / Rock My Plimsoul、Love Is Blue(恋は水色) / I've Been 
Drinkingと2枚のシングルを発表したが、こうしたミッキー・モスト主導のポップ
路線はベックにとっては不本意だった。
(両シングルともB面はロッドが歌うブルース・ナンバーである)



<第一期ジェフ・ベック・グループ>

ベックはバンドを結成。第一期ジェフ・ベック・グループ(1967-1969年)である。
ロッド・スチュワート(vo)、ロン・ウッド(b)、ニッキー・ホプキンス(p)が在籍。
ドラムはなかなか定着しなかった。


バンドはアルバム、トゥルース(Truth 1968)の制作に入る。
ライヴでのレパートリーから選曲し、4日という短期間で完成させた。

プロデューサーのミッキー・モストがドノヴァンのレコーディングにかかりきりだ
ったおかげで、ベックの意向が十分に反映されブルースのカヴァー主体となった。
ベックの歪んだギター+ロッドのしわがれ声が斬新かつパワフルである。




↑ クリックするとYou Shook Meの演奏シーンが観られます。



この曲はカヴァー。ツェッペリンの1st.アルバムでも取り上げられている。
ベックは1968年頃からチェリーサンバーストの1959年製レスポールを弾いている。
クラプトンがレスポール+マーシャルで出す音に魅了され入手したそうだ。
残念ながらこのレスポールは盗難に遭ったそうだ。



僕が聴いた監獄ロック(Jailhouse Rock)は第一期ジェフ・ベック・グループ
の2枚目のアルバム、ベック・オラ (Beck-Ola 1969)に収録されている。
プロデューサーはミッキー・モスト。前作と違い、オリジナル曲が大半を占めた。

この時期ジェフ・ベック・グループはドノヴァン(プロデューサーが同じミッキー
・モストだったためだろう)のレコーディングに参加。
ドノヴァンのBarabajagalではベックの攻撃的なギターが聴ける。

ベック・オラ (Beck-Ola)リリース直前にニッキー・ホプキンスが脱退。
ロッドとロンもフェイセズに加入するため脱退。
第一期ジェフ・ベック・グループはアルバム2枚を残しただけで空中分解する。



<BBA構想のきっかけはコカコーラのCMだった>

ベックは当時バニラ・ファッジのティム・ボガート、カーマイン・アピスによる
強力なリズム・セクションに衝撃を受けていた。
一方、ボガートとアピスもベックの才能を買っていた。

彼らはベックをセッションに招くことにする。
そのセッションとは、コカ・コーラ社より依頼されたCM音楽であった。

コカコーラ社は全米で1964年にThings Go Better with Cokeというスローガン
広告キャンペーンを始め、1969年までいろいろなメディアで展開していた。(3)





その一環として1965〜1969年にキャンペーン・ソングをいろいろなアーティスト
に歌わせる、というユニークなラジオCMを放送していた。(4)

歌う曲、曲のアレンジはそのアーティストたちごとに自由で、個性を存分に出し、
落とし所だけ同じThings Go Better with Cokeにするという洒落たCMだった。
米国のポップス、R&Bから英国のロック・バンドとその幅は広く多彩であった。

1969年にバニラ・ファッジに依頼が来るが、この時ギターのヴィンス・マーテル
が怪我をしていたため、代役としてベックに参加要請したのだった。




↑クリックするとバニラ・ファッジのコカ・コーラのラジオCMが聴けます。


セッションで互いの力量を確かめ合い、意気投合した3人は新グループ結成に動く。
(ベックはロッドをボーカルに迎えたかったが、ロッドはフェイセズに加入した)

しかし新バンド結成の直前、1969年11月に交通事故を起こし全身打撲の重症を負い、
3ヶ月の入院を余儀なくされる。新バンドの構想は白紙となった。
(当時ミュージック・ライフで報じられていたのを憶えている)

そのため翌年ヴァニラ・ファッジ解散後ボガートとアピスはカクタスを結成。
新バンド構想が流れ、ベックは1970年後半に新しいメンバーを集める。



<第二期ジェフ・ベック・グループ>

第二期ジェフ・ベック・グループ(1970-1972年)は、従来のブルースロック路線
と異なり、モータウンやファンクなどの影響を受けている。

ラフ・アンド・レディ(Rough and Ready 1971)はベック本人のプロデュース。
ジェフ・ベック・グループ (Jeff Beck Group 1972)はスティーヴ・クロッパー(
ブッカー・T&ザ・MG’s)にプロデュースを依頼している。
このことからもこの時期、ベックが黒人音楽に傾倒していたことが伺える。




↑クリックすると1972年ドイツのTV番組Beat Clubでの演奏が観られます。


この時期ナチュラルのストラトキャスターを使用するようになる。
既にトレモロアームも使用している。
ストラトを使うようになったのはジミ・ヘンドリックスの影響だろうか?
(クラプトンもそうだと言っていた)



コージー・パウエル(ds)マックス・ミドルトン(kb)という実力者が加わった
一方ボーカルの二人(途中で交代した)はいずれもロッドほどの切れ味はない。
僕が好きなのもボーカルの入ってないギターのインスト曲だ。



(写真:gettyimages)
↑クリックするとI Can't Give Back the Love I Feel for Youが聴けます。


<脚注>