女優ラナ・クラークソン射殺で懲役19年の判決を受け収監されていた。
当初は自然死と発表されたが、全米各紙により彼がコロナに感染し治療を受け
回復したものの再び悪化し、刑務医療施設で亡くなったことを報じた。
後年は殺人の実刑、偏執狂的で異常な性格、狂人ぶりや奇行が取り沙汰されたが、
フィルが音楽業界に残した功績は切り離して考えるべきではないかと思う。
フィル・スペクターは、迫力あるヴォーカルと分厚いバックサウンドが融合した
独特の音像、ウォール・オブ・サウンドと呼ばれる独自の録音技法を確立した。
<テディ・ベアーズでのデビュー、多重録音の試み>
フィルは1940年ニューヨークのブロンクス地区でロシア系ユダヤ人家庭に生まれ、
彼が13歳の時に一家はロサンジェルスに移り住んだ。
少年期は黒人系ラジオ局で流れるジャズ、R&Bを聴きながらギターを弾いたり、
クラシック(重厚なワーグナーが好みだった)も聴いていたという。
高校時代(1)はR&Rの波に刺激され、曲を作りバンド活動を開始する。
大学生の頃、家庭用テープレコーダーでスピーカーから鳴らした音をマイクで
拾い、それに音を重ねるという初歩的な多重録音を試みる。(2)
1957年に高校時代の仲間と男性2人、女性1人でコーラス・ユニットを結成。
高校の同級生のエンジニアに頼んで、ゴールドスター・スタジオ (後にフィル
の本拠地となる) で前述の多重録音でシングル盤を自主制作する。
この自主制作盤を地元のローカル・レーベルに持ち込み、フィルは契約を獲得。
テディ・ベアーズ(3)名義で1959年にデビュー。
A面のDon't You Worry My Little Petは鳴かず飛ばず。
だがB面のTo Know Him Is To Love Himは地元のラジオDJたちが流すよう
になり、TVにも出演し、ついに全米1位を獲得する大ヒットとなる。(4)
↑テディ・ベアーズのTo Know Him Is To Love Himが聴けます。
これも同じ方法でダビングを繰り返した劣悪な音質だったが、エコーたっぷりの
独特のサウンドはインパクトがあった。
これがウォール・オブ・サウンドの原点といえるだろう。
テディ・ベアーズは続けてシングル、アルバムを発売するが惨敗で解散する。
<音楽業界での人脈作り、プロデューサーとしてのスタート>
1959年フィルはリー・ヘイゼルウッドと組み音楽プロデューサーをしていた
レスター・シルとソングライター兼プロデューサーとして契約を結ぶ。
デュアン・エディ(トゥワンギー・ギターで有名)のレコーディングを見学した
フィルは、その深いエコー効果の秘密などを会得した。
レスターと共にニューヨークを訪れたフィルは作曲家チームのジェリー・リーバ
ー&マイク・ストーラーと交流を深め、彼らの下で修行をする。
ニューヨークでフィルは「黄金の耳を持つ男」の異名を持つ音楽出版のドン・
カーシュナー (5)、ジェリー・ゴフィン&キャロル・キング、バリー・マン&
シンシア・ウェイルら作曲家コンビとも親交を深める。
↑パリス・シスターズとフィル・スペクター。
1960年からレイ・ピーターソンやパリス・シスターズのプロデュースを手がけ、
ヒットを生み出した。
パリス・シスターズのI Love How You Love Me(6)は深いエコー、重厚な
1960年からレイ・ピーターソンやパリス・シスターズのプロデュースを手がけ、
ヒットを生み出した。
パリス・シスターズのI Love How You Love Me(6)は深いエコー、重厚な
コーラスとストリングスは既にスペクター・サウンドを思わせる。
↑クリックするとI Love How You Love Me が聴けます。
こうした実績での信頼を得たフィルは、レスター・シルがリー・ヘイゼルウッド
と袂を別った機会に共同経営の話を持ちかけ、フィレス・レコードが設立される。
<プロデューサーとしての黄金期。ウォール・オブ・サウンドの確立>
これまで築き上げた人脈を駆使し強力なスタッフを集めたフィルは、フィレス・
レコードで独自のサウンドを作り上げ、多くのヒットを生み出した。
その成果の一つが、クリスタルズのHe's A Rebel(1962)だろう。
フィルはダーレン・ラヴと彼女のバッキング・グループ、ブロッサムズを使って
録音し、その音源をクリスタルズ名義でリリース。つまり本人たちが歌ってない。
が、皮肉なことに全米No.1獲得し、クリスタルズ最大のヒット曲となった。(7)
ダーレン・ラヴの迫力あるヴォーカルとバッキングの分厚いサウンドが融合。
独特の音像はウォール・オブ・サウンド(音の壁)と呼ばれた。
↑ダーレン・ラヴとフィル・スペクター。
クリスタルズやロネッツのヒットで順調にスタートしたフィレス・レコードだっ
たが、自我が強いフィルはしだいにレスター・シルと対立するようになる。
1962年にレスターを追い出しフィレス・レコードはフィルの独裁体制となる。
ゴフィン&キング、グリニッチ&バリー、マン&ウェイルなどヒットメイカーの
作曲家たちを起用。
ハリウッドのゴルドスター・スタジオで、自分が理想とする制作を本格化する。
後にレッキング・クルー(8)と呼ばれるようになる一流のセッションマンたち
を集め納得いくまでレコーディングを続ける。
自分の求めるサウンド、ヒットのためなら一切妥協せず、容赦ない行動に出た。
翌1963年全米2位の大ヒットを記録したロネッツのBe My Babyではレコーデ
ィングを42回やり直したという。完璧主義者なのだ。
フィル・スペクターのウォール・オブ・サウンドの傑作として高い評価を受け、
後の音楽シーンに多大な影響を与えた。
を集め納得いくまでレコーディングを続ける。
自分の求めるサウンド、ヒットのためなら一切妥協せず、容赦ない行動に出た。
翌1963年全米2位の大ヒットを記録したロネッツのBe My Babyではレコーデ
ィングを42回やり直したという。完璧主義者なのだ。
フィル・スペクターのウォール・オブ・サウンドの傑作として高い評価を受け、
後の音楽シーンに多大な影響を与えた。
↑せっかくなのでTV出演で歌っている姿もご覧ください。
ヴォーカルのヴェロニカ・ベネット(ロニー・スペクター)は後にフィルと結婚
するが、6年後に破局。(理由はフィルの異常な性格と暴力)
Be My Babyを生涯で一番好きな曲と公言するビーチボーイズのブライアン・
クリックするとビーチボーイズのDon't Worry Babyが聴けます。
同1963年にアルバムA Christmas Gift for You from Phil Spectorを発表。
恒例のクリスマス・ソングをフィレス・レコード所属のロネッツ、クリスタルズ、
ダーレン・ラヴ、ボブ・B・ソックス&ブルージーンズが歌っている。
最後にはフィルからのクリスマス・メッセージも入る。
プロデューサーが裏方だった時代に、プロデューサー名義のコンピレーション・
アルバムという試みは画期的であった。(9)
同1963年にアルバムA Christmas Gift for You from Phil Spectorを発表。
恒例のクリスマス・ソングをフィレス・レコード所属のロネッツ、クリスタルズ、
ダーレン・ラヴ、ボブ・B・ソックス&ブルージーンズが歌っている。
最後にはフィルからのクリスマス・メッセージも入る。
プロデューサーが裏方だった時代に、プロデューサー名義のコンピレーション・
アルバムという試みは画期的であった。(9)
ライチャス・ブラザーズのYou've Lost That Lovin’ Feelin'も全米1位。(10)
ブルーアイド・ソウル(白人が歌うソウル)の先駆けとなった。
しかし、フィル・スペクターの黄金期は1960年代半ばまでであった。
1964年にアメリカを席巻したビートルズを皮切りに英国のロック・グループの
波(いわゆるブリティッシュ・インヴェイジョン)が押し寄せる。
サイケデリック・ロック、ライブ志向のバンド・サウンドを基本とするロックの
時代の到来で、フィル・スペクターはout of date(時代遅れ)な存在になった。
<フィル・スペクターの功績>
フィル・スペクターがプロデュースした曲は1959〜1971年の米国ビルボード
のチャートを席巻し、19曲がTOP10入り。そのうち5曲が首位を獲得した。
ジョン・レノンは「エルヴィスが兵役に就いていた2年半の間、ずっとフィル
がロックを守ってくれた」と発言している。(11)
フィルの独自のウォール・オブ・サウンドは音楽業界に大きな影響を与えた。
彼のスタジオ・ワークを見学したブライアン・ウィルソンは、その光景に感銘
を受け1965年のビーチボーイズのアルバム、ペット・サウンズ制作時に同様の
独裁体制(レッキング・クルーと納得いくまでレコーディングを繰り返す)の
録音方式を採った。
そのペット・サウンズはビートルズ、山下達郎、大瀧詠一らに影響を与えた。
フィルの黄金期は1960年代前半でそれ以降、忘れられた存在になるが1970
年代始めに再び脚光を浴びることになった。
それはビートルズの最後のアルバムとなったレット・イット・ビーの編集、
ジョン、ジョージのソロ作品を手がけたことにある。(後述)
※次回はウォール・オブ・サウンドの秘密について深掘りします。
<脚注>