2023年2月22日水曜日

ブライアンが聴いたラバーソウルはUK盤?US盤?どっち?



ブライアン・ウィルソンはビートルズの「ラバーソウル」を聴いて感銘を受け、
負けないような完成度の高い傑作アルバムを作ろうと決意。
ビーチボーイズのツアーに参加せず、スタジオワークに専念する。(1)
半年後に「ペットサウンズ」を完成させた。






ビーチボーイズ名義ではあるが、他のメンバーはボーカルとコーラス、一部の
作詞だけ(2)という、実質ブライアンのソロに近い作品である。

他のメンバーがツアーで飛び回ってる間(3)ブライアンは作曲からアレンジまで
一人でこなし、レッキングクルー(腕利きのスタジオ・ミュージシャン集団)(4)
を集め、敬愛するフィル・スペクター方式(5)でオケ(伴奏)をレコーディング。




ツアーから戻ったメンバーたちはオケとブライアンのガイドボーカルを聴く。(6)
デニス、カール、ブルース・ジョンストンは好意的だったが、マイク・ラヴと
アル・ジャーディンは批判的だった。(7)

海も太陽もサーフィンも女の子もホットロッド(車)も描かれていない。 
ビーチボーイズの世界観とかけ離れていた。キャピトルも難色を示す。




ファンたちも戸惑った。セールスは50万枚で全米チャート10位に留まった。(8)
しかしイギリスでは評価が高く絶賛され、全英チャートで2位を獲得。(9)

ポール・マッカートニーは衝撃を受け、他のビートルズ3人にも聴かせた。
God Only Knowsはポールにとって特別な曲だそうで、 この曲に触発され
Here There And Everywhereを書いたと言っている。

またポールは「ペットサウンズ」を超える作品をと意欲を燃やし「サージェ
ント・ペパーズ」の制作に入った。(10)





ブライアンが「ラバーソウル」を聴かなければ、「ペットサウンズ」も「サー
ジェント・ペパーズ」も生まれなかったもしれない



ブライアンは「ラバーソウル」について「アルバムとして統一感があり、
すべての曲が美しく仕上がっていて心奪われた」と言っている。
後に自伝でも「史上最高のアルバム」と大絶賛。

特にYou Won't See Me、I'm Looking Through You、Girl の3曲に打ち
のめされたそうだ。



(写真:gettyimages)



さて、もしあなたがビートルズ・ファンかつビーチボーイズ・ファンなら、
一つの疑問が生じるのではないだろうか。



ブライアンが聴いたラバーソウルはUK盤?それともUS盤だったのか?



https://b-side-medley.blogspot.com/2015/06/blog-post_11.html



ふつーの人にとっては何が違うのか分からない。どうでもいいことだ。
でも違う。極端に言うなら、似て非なるモノである。

英国パーラフォン・レーベルから発売されたオリジナルのラバーソウルと
アメリカで発売されたキャピトル「編集盤」では収録曲が違うのだ。

では、比較してみよう。



↓まず、UK盤のジャケット。右下に赤でパーラフォン・ロゴが入ってます。




↓次にUS盤のジャケット。
ラバーソウルのロゴが赤ではなくゴールド。これはこれでいい感じ。
キャピトルのロゴは右上。




↓本来の歪みのない状態。撮影されたのはジョンの家の庭。
(この頃4人はスエードやコーデュロイに凝ってたらしい)
撮影したロバート・フリーマンがボール紙へ写したところ歪んで見え、4人
はそれを面白がりそのまま採用。ビートルズは偶然の産物を好んだ。




↓UK盤のジャケット裏面。下にパーラフォンとEMIのロゴ。




↓US盤のジャケット裏面。UK盤のレイアウトを踏襲している。
キャピトルのロゴと注意書き、ビートルズ(違う書体)で大きく上に出し
たことで重くなってしまった。UK盤の方がすっきりして美しい。




↓UK盤の収録曲。14曲、縦に配してる。ホワイトスペースの取り方が絶妙。




↓US盤の収録曲。何かおかしい。気づきましたか?12曲なんです。
1曲目のDrive My Car、名曲Nowhere Man、リンゴのWhat Goes On、
ジョージのIf I Needed Someoneの4曲がごっそりカット
代わりに前作ヘルプ!収録曲のI've Just Seen A Face、It's Only Love
がそれぞれA面とB面の1曲目に置き換わっている。(印)




I've Just Seen A Faceで始まるラバーソウル?違和感がありませんか?
Drive My Carで始まりガツーンとやられるのがラバーソウルでしょ!
It's Only Loveは好きだけど、B面は陽気なリンゴのWhat Goes Onの次
だからこそ、ジョンのGirlが切ないんじゃないかな。



なぜヘルプ!のI've Just Seen A Face、It's Only Loveが入ってるのか?(11)



↓US盤のヘルプ!。映画のサントラ盤と記載。ジャケットはカッコいい。




ビートルズの曲は劇中で歌った7曲(UK盤のA面)だけ収録。
残りは映画内で使われたインストゥルメンタルが散りばめてある。
UK盤B面の7曲はここでは使わず、別な編集盤に流用するセコさ。

本来ヘルプ!に収録されるべきI've Just Seen A Face、It's Only Loveは
ラバーソウルに入れ、浮いた4曲を(アメリカではLPは12曲が標準だった)
別のLPをでっちあげてそっちに回してるのだ。

ラバーソウルから抜かれた4曲は、イエスタデイ&トゥデイという米国独自
編集盤に収録された。




↑有名なブッチャー・カバー。
発売直前にレコード会社や販売店からの苦情により、トランクと4人が写っ
ている写真に変更された。
(最初のロットのブッチャー・カバーは回収後、トランクの写真を上から
貼って再出荷された)

ブッチャー・カバーは希少ということでコレクターズ・アイテムになる。




↓ジョージの右腕にへばり付いた赤ん坊の手が何気に怖い。
写真家ロバート・ウィテカーとビートルズによるブラックユーモアだった。
ビートルズの意図を無視した編集で売るキャピトルへの反抗と取られたが、
4人はベトナム戦争への反対声明だと主張している。


(写真:gettyimages)





↓イエスタデイ&トゥデイの代替の「トランクと4人」のジャケット。




↓室内で撮った写真から4人を切り抜き白バックに合成したことが分かる。
カラーポジを裏焼きしたためジャケットでは左右が逆になっている。
よほど慌てて作業したのだろう(笑)




↓イエスタデイ&トゥデイの裏ジャケット。
Drive My Car、Nowhere Man、What Goes On、If I Needed Someone
の4曲はラバーソウルから外されてここに放り込まれていた。



さらに次アルバム、リボルバーに入るI'm  Only Sleeping、Dr. Robert、
And Your Bird Can Singの3曲もここに入れてある。
(つまりリボルバーはこの3曲を抜いた11曲ということ)

本来ヘルプ!収録のYesterdayとAct Naturallyもやっと日の目を見た。
We Can Work It Out、Day Tripperはシングル盤のA/B面

統一感もコンセプトもあったもんじゃない。タイトルもやっつけ。
名曲Yesterdayが目玉だから”Yesterday”...and Todayは苦肉の策?



・・・という事情が分かったところでもう一度問いたい。



ブライアンが聴いたラバーソウルはUK盤?それともUS盤だったのか?






ずいぶん前の話だが、レコードコレクターズのQ&Aにこの質問が寄せられ
、編集部が来日中のブライアンに取材したそうだ。
ブライアンの答えは「おおっ、それはいい質問だ。でも実は憶えていない
んだ。自分のではなく友人に借りて聴いたから」だった。

当時アメリカ国内ではあまりUK盤が流通していなかったことを鑑みると、
ブライアンが聴いた「ラバーソウル」はUS盤の可能性が大きい、と編集
部は結論付けていた。

ブライアンだけではない。
アメリカ人のほとんどが A面は I've Just Seen A Face で始まり、B面は 
It's Only Love で始まる「ラバーソウル」を聴いていたのだ。




      ↑UK盤の試聴テスト〜ディスクをジャケットに入れる作業ライン。



ブライアンは「美しい粒揃いの曲が並び、全体を通して統一感がある」
と評していた


キャピトル編集盤はDrive My Carを外し、A面B面をアコースティック色
の強いI've Just Seen A Face、It's Only Loveから始めることでフォーク
ロックのアルバムと位置付けたかった?
という(かなり強引だが)好意的な解釈もできる。

であれば、ディランの影響が伺えるジョンのNowhere Manを外すか?
当時アメリカで流行ったバーズのMr.Tumbling Manのサウンドを取り入れ
ビートルズ流にアレンジしたIf I Needed Someoneを外したのも解せない。


結局のところ、キャピトルはフォークロック云々とか、アルバムの統一性
とかコンセプトとか、深いところまで考えてはいなかった
彼らはティーンエイジャーから金を巻き上げられればそれでいいのだから。






さて、そんな中、表題の件で有力な情報が飛び込んできた。


ビートルズ研究家/ライターの野良さんがツイートしてるのだが。

デレク・テイラー(ビートルズの広報担当)が1965年の感謝祭の後にラバー
・ソウルのUK盤(キャピトル盤ではなくオリジナルのパーロフォン盤)の
アセテートをブライアン・ウィルスンに渡し、ブライアンがそれを聴いて
大いに感銘を受け・・・という話が、マーク・ルイスンの「ビートルズ史」
第2巻で明かされるらしい。(12)





事実ならブライアンが聴いたラバーソウルはUK盤だったことになる。
ビートルズ・ファンかつビーチボーイズ・ファンにとっては大ニュースだ!



世の中の大多数の人にとっては、どーでもいいことなのだろう。
でも、些細なことが後々、大きな意味を持つこともある。
バタフライ効果というと大袈裟だけど。

ブライアンが聴いたラバーソウルがキャピトル編集盤だったら、彼の心の
琴線に触れることもなく、ペットサウンズは生まれなかったかもしれない。
サージェント・ペパーズも。ロックの歴史は違ったものになっただろう。





<脚注>

2023年2月14日火曜日

<追悼>彼女はバート・バカラックが好きだった。



音楽界の偉人たちの訃報が続く。バート・バカラックが94歳で亡くなった。
自然死だそうである。R.I.P. 天国でも美しいメロディを奏でてください。



高校の頃、セキセイインコを飼っていた。
弟が欲しがって買ったそうだが、案の定世話もしないし可愛がりもしない。
結局、僕の部屋が定位置になり、僕が世話係になった。

自分の部屋は掃除しないのに、セキセイインコの籠は毎日きれいにした。
下に敷く新聞紙を取り替え、餌を新しくし水を入れ新鮮なレタスを挿す。



↑2羽いたが、まったく性格が違う。黄色い子(1)は音楽が好きだった。


籠の柵を口ばしで器用に弾き、コーン♪と金属的な高い音を鳴らす。
ギターをチューニングする時の音叉の音(2)を真似していた。

彼女は曲に合わせて体を揺らしステップを踏み、楽しそうに歌う。
とりわけカーペンターズがお気に入りのようだった。

「Close To You(遙かなる影)」は彼女が一番心酔していたバラードだ。
セキセイインコにもバート・バカラックの良さが分かるらしい。



↑カーペンターズがTVショーで歌う「Close To You」が観れます。


バート・バカラックといえばディオンヌ・ワーウィック。
ディオンヌ・ワーウィックといえばバート・バカラック。
そう言われるくらい、2人は相性が良く数々の名曲を世に送り出し愛された。

バカラックがドリフターズ(3)に「Mexican Divorce」(4)という曲を書いた
時、バックコーラスの1人がディオンヌだった。
ディオンヌ、妹のディーディー、叔母のシシー・ヒューストン(ホイットニ
ーのお母さん)、いとこのマーナ・スミスの4人構成だったらしい。

それぞれ実力は甲乙つけがたかったけど、ディオンヌには特別な気品と優雅
さがあって、スターの資質があるとバカラックは思ったという。
アレサ・フランクリンと違いディオンヌはゴリゴリの油ギッシュさがない。

その後ディオンヌから一緒にデモを作りたいと申し出があって、一緒に仕事を
するようになった。



↑2人がTVショー出演時の映像が観れます。
バカラックが弾くピアノに合わせヒット曲の数々をディオンヌが歌う。
途中バカラックは「Alfie 」の曲名を失念。
2人は1曲$15か$12.5でデモを作ってた頃の思い出話をしている。
(同様な状況でシラ・ブラックはぜんぜん歌いこなせず詰まっていた)


「ディオンヌは高い音も低い音も歌えた。力強く朗々と歌うこともできれば、
そっと優しく歌うこともできた」とバカラックは自伝で述べている。

        
ディオンヌはハートフォード音楽大学で音楽教育とピアノを専攻している。
音域が広く、変拍子や転調が多く、テンション・コードが複雑なバカラック
作品を難なく歌いこなせた。




Walk On By、I Say a Little Prayer(5)、I'll Never Fall in Love Again、
Do You Know the Way to San Jose(6)、This Guy's in Love with You、
What The World Needs Now Is Love....

1960年代半ば〜1970年にかけてディオンヌは、バート・バカラック/ハル・
デヴィッドの曲を次々ヒットさせた。



バート・バカラックはガーシュウィン、リロイ・アンダーソン、レナード・
バーンスタインの次の世代を代表する作曲家と言えるのではないだろうか。

稀代のメロディーメーカーであり、アレンジにはジャズやボサノヴァを取り
入れながら(7)アカデミックな音楽センス都会的な香りも匂わせる。

オブリや間奏にホルンなどやさしい音色の管楽器を挟むことが多く、この
手法はデヴィッド・フォスターも影響を受けていると思われる。




↑インスト版This Guy's In Love With Youでアレンジの妙が聴けます。


1960年代に作詞家、ハル・デヴィッドとのコンビにより最盛期を迎える

ウォーカー・ブラザーズ、アンディ・ウィリアムズ、トム・ジョーンズ、
ダスティ・スプリングフィールド、ハーブ・アルバート、ジャッキー・デ
ャノン、アレサ・フランクリン、ボサリオらのヒット曲を生む。

そうそう、シュレルズが歌いビートルズがカヴァーした「Baby It's You」
もバカラック作曲である。


ジョージ・ロイヒルの監督映画「明日に向って撃て!」主題歌「Raindrops 
Keep Fallin' On My Head」はアカデミー主題歌賞を受賞。




バカラックは当初この曲をディランに歌ってもらいたいと考えていたが、
断られ(歌うわけないし、歌えるわけないだろう)二転三転し、B・J・ト
ーマスが歌うことになった。


ポール・ニューマンがキャサリン・ロスを自転車に乗せるシーンで流れる。
コケて牛に追いかけられるのがよかった。
このシーンで使われたテイクとレコード化されたテイクは違う。

最後のNothing's worrying meで映画版はあっさり終わるが、レコード版は
me〜とこぶしが入りブラスがリフレン。サンバのリズムでFOする。

映画版は楽器数が少ないアレンジで、ポール・ニューマンの曲乗りシーン
でサーカスの音楽になり、また元の曲に戻る。




↑映画版のRaindrops Keep Fallin' On My Headのシーンが観れます。


1970年代には作曲活動が停滞する。
1980年代にクリストファー・クロスの「Arthur's Theme」、パティ・ラベル
& マイケル・マクドナルドの「On My Own」、ディオンヌ&フレンズの「
That's What Friends Are For」がヒット。(8)


1999年にはエルヴィス・コステロと共演アルバムを発表し、2001年には
コステロの妻、ダイアナ・クラールがThe Look of Love(9)をカヴァー。

改めていい曲だと思った。
バート・バカラックの曲は時代を超えて歌い継がれるのだろう。



↑ダイアナ・クラールが歌うThe Look Of LoveのPVが観れます。


<脚注>

2023年2月7日火曜日

<追悼>デヴィッド・クロスビーの黄金のハーモニー。



1月20日にデヴィッド・クロスビーの訃報が報じられた。

バーズ、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング(CSN&Y)のメンバーと
して、2度のロックンロール殿堂入りを果たしたシンガー&ソングライターだ。

多くのミュージシャンが声明を出し、クロスビーの逝去を惜しみ嘆いている。


<ニール・ヤング>
デヴィッドの声とエネルギーはバンドの核だった。
Almost Cut My Hair、Deja Vuなど彼の素晴らしい曲を一緒に演奏するのは
最高で、僕とスティルスは楽しくてワクワクした。
デヴィッドとグラハムのデュオは多くのライヴでハイライトだった。(一部略)



↑1970年9月、BBCテレビにグラハム・ナッシュと一緒に出演。
写真をクリックするとGuinnevereが視聴できます。
ニール・ヤングが言ってるように、この2人のハーモニーは極上の美しさ。



<スティーヴン・スティルス>
彼は偉大なミュージシャンであり、調和のとれた感受性はまさに天才そのもの。
僕たちの歌声は太陽に向かって羽ばたくイカロスのごとく高らかに鳴り響いた。
(一部略)


<グラハム・ナッシュ>
デヴィッドは、彼が紡ぎだす複雑なメロディのように難解な人物であった。
人生においても音楽においても大胆だった。純粋な人柄や才能。
彼の演奏や歌詞から、魂の奥底から響く微かな音を君も感じ取れるだろう。
デヴィッドの美しい音楽は、僕たちの心に生き続ける。(一部略)


ブライアン・ウィルソン、ジェイムス・テイラー、ブルース・ホーンズビー、
ピーター・フランプトンらも哀悼の意を表した。



CSN&Yのアルバム制作に携わったワーナーミュージックのケヴィン・ゴアは、
下記の声明を発表している。

クロスビーは思慮深くも直感的な創造力、完全無欠のミュージシャンシップ、
そして素晴らしい歌声で、ポピュラー音楽とカルチャーに長く語り継がれる
影響を与えてきた。
クロスビーの紡ぐ楽曲は、自己の内省観をえぐりだすような独自の創造性、
社会への鋭いまなざし、趣のあるメロディで、ロックの構造を支える大きな
柱であった。
彼の数々の作品を讃え、音楽史への並外れた貢献に感謝の意を贈る。(一部略)



↑1977年CS&N再結成時のライヴよりWooden Shipsが視聴できます。




<バーズでフォークロックを確立>

デヴィッド・クロスビーはLA出身。1960年代初頭にシカゴ、NYのグリニッジ
ビレッジでフォークシンガーとして活動していた。
ロジャー・マッギン、クリス・ヒルマンらとバーズを結成。

クロスビーの甘いテナーの高音パートは、バーズの3声コーラスの特徴となる
リズム・ギタリストとしてもカッティングが独特だった。
実験的な曲作りを志向し、モード的コード進行(1)、変則チューニング、アカペラ、
シタールの導入(2)など、先進的な面を担った。




1965年4月発売の「ミスター・タンブリンマン」が全米・全英1位のヒット。
フォークのソフトな雰囲気と豊かなハーモニー、ロックのリズム感とエレクトリ
ック・サウンドを融合させた「フォークロック」というジャンルを確立させた。


当時アメリカの音楽界を席巻していたビートルズはディランの影響を受け、アコ
ースティックギターをロックに取り入れ、内省的な歌詞も多くなった。
一方ディランはエレクトリック・ギターを持ってステージに上がり、フォーク・
ファンからブーイングを浴びながら新境地を開こうとしていた。


バーズの「ミスター・タンブリンマン」はディランの楽曲を歌わせて一儲けし
たいコロムビア(出版権を握っていた)の思惑が絡んでいた。
(PP&Mというユニットを作りディランの曲を歌わせた時と同じである)
コロムビアの社長はディランの曲をビートルズ風に演奏すれば売れるだろう、
と目論んでいた。(3)




ロジャー・マッギンはビートルズの影響でリッケンバッカーの12弦を買ったく
らいだから異論はなかっただろう。(4)
しかしレコーディングではレッキング・クルーが演奏。バーズは歌だけと当時の
アメリカの分業制(5)を強いられる、レコード会社優位の力関係があった。

同年10月に発売したピート・シーガーのカヴァー「ターン・ターン・ターン」が
全米1位となり、「ミスター・タンブリンマン」と共にバーズの代表曲となる。


バーズはロジャー・マッギンのワンマン体制下でメンバーチェンジを繰り返す。
メンバー間の確執からクロスビーは1967年に脱退




バースはサイケデリックロックから一転してカントリー路線(新メンバーのグラ
ム・パーソンズの意向)(6) 、クラレンス・ホワイトのギター演奏力を売りにし
たライブ・バンドへと迷走するが、1973年に解散した。

僕がリアルタイムでバーズを聴いたのは1969年の映画「イージー・ライダー」
挿入歌のWasn't Born to Follow(キャロル・キング作品)(7) で、前年の録音。
既にクロスビー脱退後である。




<ジョニ・ミッチェルとの出会い〜CS&N結成>

バースを脱退したクロスビーはジョニ・ミッチェルの才能を見出し、彼女
をメジャーデビューさせ自らプロデュースをしている。(8)

 



1968年7月LAのローレル・キャニオンにあるジョニの家で元バッファロー・
スプリングフィールドのスティーヴン・スティルスと元バーズのデヴィッド・
クロスビーは一緒に歌っていた。

そこへホリーズ脱退間近だったグラハム・ナッシュ(ジョニと同棲していた)
がハーモニーで加わり、歌い終わったときにCS&N結成の構想が生まれた(9)
彼らは自分たちの「魔法」をキャス・エリオットやジョン・セバスチャンに
聴かせた。



↑ジョニ、スティルス、クロスビー、ナッシュの共演が観られます。
1969年のライブ。左にジョン・セバスチャンの姿も。



(写真:gettyimages)


1969年5月29日、3人はデビュー・アルバムを発表。
アコースティク・ギターの変速チューニングを生かした音作りと、3人のコー
ラスの美しさは大きな話題となった
後のイーグルス、ドゥービー・ブラザーズなどウエストコーストロックのコー
ラスワークの原型となる。

8月にウッドストック・フェスティバルに参加(10)ハイライトの1つとなる。



↑ウッドストックでのCS&NのHelplessly Hopingが観れます。



↑ウッドストックでのCS&NのSuite Judy Blue Eyesが観れます。
(写真:gettyimages)



ロック的要素を強めたいというスティルスの要望で、元バッファロー〜でソロ
として活動していたニール・ヤングが加わる(11)



↑写真をクリックするとDeja Vuが聴けます。
(アルバム・タイトルにもなったこの曲はクロスビーが作曲した)


1970年のアルバム「デジャ・ヴ」は全米1位の記録的ヒットとなる。
商業的にも知名度においても、CSN&Yは頂点を極めた。
ニール・ヤングの参加により各人の自己主張が激しくなり、結果として4人が
それぞれの曲を持ち寄るという、多彩な作品となった(12)





バッファロー〜時代以来のスティルスとヤングの対立、さらにクロスビーと
ヤングの不和のため、ヤングが在籍したのは1年ほどであった。


1972年からクロスビー&ナッシュとして活動を始める。
お互いの曲調を尊重しながら補い合う、良好なスタイルが続いた。




2人の声質、ハーモニー作りの相性は良く、ジェイムス・テイラーのバック・
コーラスでも常連で曲に美しい拡がりを与えている。(13)

1977年にはクロスビー、スティルス、ナッシュで再結成。「CSN」を発表。
以降、1990年代まで何度か再結成を繰り返している。



<ドラッグ長期使用による混迷期>

1980年代には長年のコカイン、ヘロイン中毒で音楽活動に支障をきたす。
飲酒運転、ひき逃げ事故、45口径拳銃の不法所持、麻薬の所持で逮捕され、
9ヶ月服役することになる。

ナッシュ、スティルス、ヤング、その他の友人はクロスビーの社会復帰を
支援し、ソロ・アルバム発表やCSN&Y再結成を行う。





以降、断続的にソロ作品、クロスビー&ナッシュ、CS&Nと活動を続けて
いたが、奇行や勝手な発言、周囲との不和が目立つようになる。

ドラッグの過剰摂取でスタジオに来ない、嫌いなメンバーに攻撃的になる、
記者会見で勝手な演説をする、ステージのMCで政治的発言を行う、など。
また狩猟用ナイフ、弾薬、マリファナの不法所持で再び逮捕されている。(14)

ニール・ヤングとの不仲、盟友グラハム・ナッシュとの不仲から、CSN&Y
としての活動停止がグラハム・ナッシュから発表された
「今後デヴィッド・クロスビーと話をすることはない」と明言していた。


2019年にドキュメンタリー映画「デヴィッド・クロスビー:リメンバー
マイネーム」が制作された。(プロデュースはキャメロン・クロウ)
見ていないので内容については何とも言えない。




クロスビーは2023年1月18日に81歳で死去。死因は明かされていない。
家族の声明では「長い闘病生活の末に」死去したとされている。(15)
しかし、友人や同僚はクロスビーが死の当日まで活動を続け、ツアーや
新しいアルバムの計画に取り組んでいたと述べた。


グラハム・ナッシュはクロスビーの死を悲しみ、彼の才能を称えている。

「私たちの関係は時に不安定だったが、デヴィッドと私にとって何よりも
重要だったのは、共に創り上げた音楽、発見したサウンドの純粋な喜び、
そして長い年月を共にした深い友情だ。(中略)
彼は美しい音楽を通して自分の考え、心、そして情熱を語り、素晴らしい
レガシーを残してくれた。これが最も重要なことです」



↑2000年にVH1で放送されたCSN&Yのドキュメンタリー。

貴重な演奏シーンもあります。


<脚注>