でフライトが遅れ午前3時40分に東京・羽田空港に到着した。
翌30日から7月2日までの3日間、日本武道館で計5回の公演を行った。
この年の8月ビートルズは北米ツアーを最後にライブ活動をやめてしまう。
日本公演は7月1日昼の部を日本テレビが録画し同日21時から放送した。
視聴率は56.5%を記録。(ビデオリサーチ・関東地区)
ビートルズの最後の年のライブを収めた、しかもカラー映像なので貴重だ。
現在はDVD「Anthology」に何曲か収録されている他、ブートDVDや投稿動画
で見ることができる。
この映像は2ヴァージョンある。ビートルズの衣装が違うので一目瞭然だ。
<5回のステージ衣装の検証>
1回目 6月30日 夜の部
スーツ上下: 濃いモスグリーン(ラペルの下半分のみ明るい色)
シャツ: 赤
靴: 黒
2回目 7月1日 昼の部
ジャケット: ライトグレーにオレンジのストライプ
パンツ: 黒
シャツ: 赤
靴: 黒
3回目 7月1日 夜の部
スーツ上下: : ライトグレーにオレンジのストライプ
パンツ: 黒
シャツ: 赤
靴: 明るいベージュ(ジョージだけ黒)
4回目 7月2日 昼の部
ジャケット: ライトグレーにオレンジのストライプ
パンツ: 黒
シャツ: 淡い花柄
靴: 黒
5回目 7月2日 夜の部
ジャケット: ライトグレーにオレンジのストライプ
パンツ: 黒
シャツ: 淡い花柄
靴: 黒
※このステージのみジョンはサングラスを着用
1回目(6月30日)に着用した濃いモスグリーンのスーツは6月24日〜26日の
ドイツ公演のために用意されたものである。
厚手で(おそらくウールだろう)いかにも仕立てが良さそうに見える。
次の極東ツアー(日本〜フィリピン)ではライトグレーにオレンジのストライ
プの上下を着用することになっていた。
極東の夏に適したトロピカル(サマーウール)ではないかと思われる。
ところがライトグレーのスーツは日本公演の初日に間に合わず、1回目はドイ
ツ公演用のモスグリーンのスーツを着用。
ポールの滝汗で分かるようにこの服はかなり暑かったのではないかと思う。
ジョンが目を開けていられなかったと言うくらい照明も強すぎた。(1)
翌7月1日午前中に航空便でライトグレーのジャケットのみ先に届いた。
昼の部(2回目)はこのジャケットに黒いパンツを合わせる。
午後に遅れてライトグレーのパンツが到着。
夜の部(3回目)は上下で着用。
7月2日は昼の部(4回目)夜の部(5回目)共にまたライトグレーのジャケッ
ト+黒のパンツを着用。
淡い花柄のシャツ(赤より薄手に見える)を合わせる場合、上下ライトグレ
ーではボケるためボトムは黒で締めたのではないだろうか。
<映像が2ヴァージョンある理由>
テレビ放映用に初日の6月30日のステージが収録された。
濃いモスグリーンのスーツを着用しているヴァージョンがそうだ。
しかしマネージャーのブライアン・エプスタインからクレームが入る。
1) マイクが安定せずビートルズが演奏に集中していない
2) 観客が映っていない
確かにマイクが左右に揺れポールが何度も直しているし、最後の「I’m Down
」の前に「マイクが最後まで動かないといいけど」とポールが言っている。
が、理由はマイクだけではなかった。
演奏の出来が悪かったのである。
ビートルズはコンサートでは自分たちの演奏が聴こえないのが常だった。
当時はPAシステムも返りのモニターもなく、真空管のヴォックス・アンプの
音はファンの悲鳴でかき消されてしまった。
収容人数18000人のハリウッドボウルで1964年、1965年の公演を録音した
際ジョージ・マーティンは金切り声がジェット機のようだったと言っている。
収録された1965年8月30日の最後「I’m Down」の2nd.ヴァースではポール
と他の3人がブレイクの後、半拍ずれたまま気づかず演奏している。(2)
1965年8月15日に前年オープンしたシェイ・スタジアムでの公演で55,600
人を動員し、以降は全米ツアーは大球場がメインとなる。
メンバーたちはますます自分たちの演奏が聴こえなくなり、ストレスを感じ
ライブへの情熱は消え演奏の質はどんどん落ちていった。
どうせ誰も聴いていない。。。。ところが日本では今までと勝手が違った。
日本武道館はライブで使用した場合の収容人数は10000人程度だが、ビートル
ズ公演は警察側が事故を警戒しアリーナに客を入れなかったため、1〜2階席
で約7500人であった。
アリーナは報道関係のみで客席は遠い。
しかも厳戒態勢で通路には警察官と警備員が立ち並び観客は立つと制される。
また多くの学校がビートルズの公演を観に行くことを禁止ししたのと、著名人、
有識者、音楽関係者がチケットが押さえたこともあって客層は大人が多かった。
つまり他国と違って、日本の観客は比較的静かだったためビートルズにも自分
たちのおざなりの演奏がバッチリ聴こえてしまったわけである。
このことは本人たちにも少なからずショックだったようだ。
広報担当のデレク・テイラーとロードマネージャーのニール・アスピナールが
証言している。
ホテルに戻った4人はミーティングを行い、この日の不出来を認めた。
ジョージは「今日やったIf I Needed Someoneは今までで最低だった」と発
言している。
翌日は本番前に練習すること、初日は半音下げていたチューニング(3)をレギ
ュラーにし音に張りを持たせ、全体にテンポアップすることが確認された。
同行した写真家のロバート・ウィテカーは、ホテルの部屋でビートルズが入念
に音合わせをしていたと言っている。
6月30日収録分をビートルズ側から駄目出しされた日本テレビは急遽、翌7月
1日の昼の部(2回目)を撮り直しその日の午後9時の放送に間に合わせた。
なので、当時放映されたのはライトグレーのジャケットの映像の方である。
マイクはスタンドに黒いテープで固定され、ビートルズの演奏も全体的に初日
よりノリが良く粗も少なくなった。
ビートルズの登場シーン、演奏中の撮り方も前日より良くなった。
エプスタインの要求を汲んで客席ショットも入ったが、カメラをパンさせ客
席を舐めてるだけのかえって汚い映像になってしまった。(4)
↑写真をクリックすると武道館の7月1日(2回目)の映像が見れます。
<再放送と映像作品化〜マスターテープの行方>
放映された7月1日の昼の部(2回目)のマスターテープ(ライトグレーのジ
ャケット)はブライアン・エプスタインが持ち帰ってしまった。
日本にはボツになった6月30日収録分(モスグリーンのスーツ)が残された。
日本テレビが「ビートルズ日本公演!今世紀最初で最後たった1度の再放送」
と銘打って1978年に放映したものは実は6月30日の分だ。
再放送ではないが、逆に6月30日収録分(モスグリーンのスーツ)が初めて日
の目をみたことになる。
1980年にポールの来日公演が大麻所持で中止になったため、ファンへの慰め
として6月30日収録分が再放送された。
さらに1988年にマイケル・ジャクソンの日本公演放映キャンペーンの一つと
して日本テレビは6月30日収録分をリマスターし再々放送した。
1996年にはビートルズ来日30周年企画として、日本テレビ系列のバップより
「ザ・ビートルズ武道館コンサート」としてVHSビデオ、LDが発売された。
1978年に再放送と銘打って6月30日収録分(モスグリーンのスーツ)を放映
するにあたって、日本テレビがアップルに打診したところ使用許可の条件は
「マスタテープの返却」だったそうだ。
1978年放映に使用された6月30日分の素材はマスタテープであるが、その後
アップルに返却したため1980年の再放送時は日本テレビが録っておいたコピ
ーが使用された。
1988年の再々放送およびVHSビデオ、LDに使用されたリマスターもその日
本に残されたコピーが元になっているため1978年放映時より色調が浅い。
余談であるが、日本テレビの録画には発売されたばかりの富士フィルム製2イン
チVTRが使われた可能性がある。
その後1インチVTRがテレビ局の標準になると2インチVTRは使用されなくなり
、作動する再生機材も姿を消した。
おそらくアップルは2インチVTR再生機材がまだあるうちに6月30日分、7月1
日分ともに一旦フィルムに変換(この作業で画質は落ちる)してからデジタル
リマスター処理を施したテープを持っているのではないだろうか。
(録画時のVTRが1インチだったとしても作業は同じである)
1996年に発売された「Anyhology」の映像版(VHSビデオ/LD、後にDVD
化)に一部収録された6月30日分、7月1日分は画質が鮮明であった。
今年9月にビートルズのライブ映像を集めたドキュメンタリー映画「The Bea
tles: Eight Days A Week - The Touring Years 」(ロン・ハワード監督)
だが公開予定が、予告編では7月1日のステージ登場シーンが収めれている。
画質はさらに向上しているようだ。
同時に来日50周年として6月30日分、7月1日分完全収録のDVD、Blue-Ray
発売?という夢は完全に消えたことになる。