1965年1月、日本は宇宙怪獣キングギドラによって壊滅寸前だった。
人類は突拍子もない作戦に最後の望みを託す。
モスラにゴジラとラドンを説得してもらい、一緒にキングギドラを撃退するのだ。
しかしゴジラとラドンはそれを拒む。
双子の小美人(ザ・ピーナッツ)が「駄目です。モスラは一人で闘うつもりです」
と悲しそうに言う。
小学生だった僕の心は痛み、ポップコーンのカップを握りしめた。
しかし単身戦いを挑むモスラの姿に心を動かされ、ゴジラとラドンも加勢する。
三大怪獣の猛攻を受けキングギドラは、ついに空の彼方へ逃げ去った。
めでたし、めでたし。
「三大怪獣 地球最大の決戦」(1)は1964年12月公開のゴジラシリーズ第5作。
ゴジラが初めて善玉として描かれる。
校内の窓ガラスを叩き割ってた更生の余地のないワルが介護職とか消防隊員とか
人助けの仕事に就いたみたいな。。。(^^)
三大怪獣とはキングギドラを撃退するモスラ、ゴジラ、ラドンのはずだ。
当初はポスターにもそう明記されていた。
ところが途中からゴジラ、モスラ、キングギドラに変わった。
予告編も「ゴジラ、モスラ、キングギドラ 地球最大の決戦」になっている。
おそらく完成した段階で、キングギドラのインパクトが大きくゴジラに引けを取ら
ないスター性がある。それに比べラドンは地味。
三大怪獣と銘打った手前、4匹の名前を並べるのも違和感があると判断したのか。
ラドンの名前はいつの間にかキングギドラに入れ替わっていた。
ラドンは傷ついたんじゃないだろうか。
あれ?何で俺だけハブられるわけ?俺も頑張ってたよね?と思ったはずだ。
前フリが長くなってしまった。
クラプトン、ペイジ、ベックが3大ギタリストと称されるのに、なぜリッチー・ブラ
ックモアは(同等の実力があるのに)入らないのか?と不思議に思うことがある。
リッチーはラドンと同じハブられた感を味わったんじゃないか?と僕は思う。
クラプトン、ベック、ペイジが歴代ヤードバーズのギタリストという共通点はある。
しかしヤードバーズ出身がそんなに重要なことなのか?
政界、官僚は開成、麻布出身者が偉い(2)みたいな?
クラプトンはクリーム時代の評価で既に神格化されていた。
しかし1971年〜1973年のロック・シーンにおいてクラプトンは不在である。
1971年のデレク&ザ・ドミノスの2枚目レコーディング中にバンドは空中分解。
同年バングラディシュ・コンサートでもクラプトンの演奏は冴えない。
ヘロイン中毒とスランプから抜け出せず、1973年のレインボーコンサートで復帰
したものの本調子とは言えなかった。
翌1974年の461オーシャン・ブールヴァードでやっと返り咲いた。
このアルバムは名作だが発表当時、攻撃的なギターを期待したファンはレイドバック
したクラプトンに戸惑ったものだ。
ベックは第2期ジェフ・ベック・グループ解散後、最強ユニットBB&Aで力を発揮
するが長続きせず、アルバム1枚とライブ盤だけで終わってしまった。
クラプトン不在の1971年〜1973年にツェッペリンと並びハードロックの黄金期を
築いたのは第2期ディープパープル(イアン・ギラン在籍時)である。
リッチー・ブラックモアのキャッチーなリフ、入念に作り込まれたソロとアドリブ、
早弾きの超絶テクは、ジミー・ペイジと人気を二分するほどだった。
つまりこの時期、ギター小僧たちが憧れるスーパーギタリストといえばジミー・
ペイジとリッチー・ブラックモアだったのだ。
エレキギターを手にした少年たちの誰もが、スモーク・オン・ザ・ウォーターの
リフを弾いた経験があるだろう。
世界中のギターショップの店頭には「No Smoke On The Water」「No Stairway
To Heaven」という張り紙があったくらいだ。(みんなが弾いてうるさいから)
そしてパープルはハードロックからヘヴィメタへの流れを作った。
パワーコードによる厚いサウンド、リフを駆使した曲作り、高音でシャウトするボ
ーカル、ステージでの暴力的なパフォーマンスは基本形というかお約束になる。
黒いシャツ、黒いパンツ、ロンドンブーツもそうだ。胸をはだけるのも(笑)
いや、ヘヴィメタに限らない。
TOTOのステーヴ・ルカサー、後期イーグルスのジョー・ウォルシュもリッチーの
影響を受けてるはずだ。
ホテル・カリフォルニアの最後のギターのハモりは、ハイウェイ・スターに通じる所
があるような気がする。
話はまた逸れるが、昔フジテレビで深夜「カルトQ」(3)というクイズ番組があった。
スニーカー、タカラヅカ、ヤクザ映画、パチンコ、プロレス、ファミレスなどマニアッ
クなジャンルに特化したクイズ番組で、その道のオタがどんどん答えていくのだ。
見ててさっぱり分からなかった。でもそのカルトぶりがおもしろい。
そんな中、僕にも分かるテーマが3つだけあった。
ビートルズ → 8問正解(日本公演の11曲を演奏順に全て答えるなど)
ロック&ギター → 4問正解
犬 →11問正解(鳴き声で犬種を当てるとか、レトリバー6種の名前を全て言えとか)
ロック&ギターでは「有名な曲の間奏です。演奏者と曲名は?」と楽譜が表示された。
ギター弾きは五線譜が読めない人が多いせいか誰も答えられなかった。
でも僕にはすぐ分かった。ハイウェイ・スターだ。
そんなロック・ギターのカリスマとも言えるリッチー先生が外れたのはなぜか?
4大ギタリスト、あるいはロックギター四天王でもよかったじゃないか。
(ジミ・ヘンドリックスが生きてたら5大・・・?)
三大XXXだと収まりがいい、というのは分かる。
日本人は元来、三、五、七、八、十でまとめるのが好き。納得しやすい。(4)
(前述のラドン外しの三大怪獣なんか、その最たる例だろう)
改めて調べてみると、3大ギタリストという呼称は1970年代に日本の音楽関係者の
間で使われ出したらしい。
伝説のバンド、ヤードバーズ出身が一つの基準になったのは確かだろう。
それと三者三様のスタイルが際立っていたこと、各々がステージ映えしカッコよかった、
存在感が大きかったこと、幅広い層に支持されていたという点も大きい。
もう一つ、リッチーの黄金期が意外と短かったことも4大ギタリストとはならなかった
一因かもしれない。
たとえば僕にとってはパープルの第2期の中でも1970〜1972年が黄金期だ。
イアン・ギラン、ジョン・ロード、リッチー・ブラックモア、イアン・ペイス、
ロジャー・グローヴァーの時代。
ジョン・ロードにはロックとクラシックとの融合という構想があった。
ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラとのライブ盤(1969年、テレビ収録も
された)では、リッチーは窮屈でやりにくかったと言っている。
リッチーはハードロックをやりたいと考えていた。
ツェッペリンやブラックサバスの成功を見て、自分のギターとロバート・プラントの
ようなハイトーンでシャウトできる美形のボーカルがいれば絶対売れるはずだ、と。
イアン・ギランを見つけた時、これだ!とリッチーは思ったそうだ。
合意形成型のパープルで意見を通すのが難しかったため、リッチーはジョン・ロードに
「一枚だけハードロック・アルバムを作って反応をみたい」と提案した。
ジョン・ロードは了承。次作の主導権はリッチーに委ねられた。
初のハードロック・アルバム、イン・ロック(1970年)はUKチャートで4位を獲得。
プロモ用に作ったシングル曲のブラック・ナイトは2位。日本でもヒットした。
この曲のリフはリッキー・ネルソンのサマータイムを元に作ったそうだ。
僕はB面のイントゥー・ザ・ファイアー(アルバムにも収録)が好きだった。
チャイルド・イン・タイムはイッツ・ア・ビューティフル・デイのボンベイ・コーリング
をベースになっている、と後にイアン・ギランが言っている。
↑1970年BBCトップ・オブ・ザ・ポップス出演時の映像が観られます。
この成功を受けてディープ・パープルはハードロック路線を進むことが決定。
バンドの楽曲制作はジョン・ロードからリッチー主体になった。
翌1971年ハードロック第2弾、ファイアボールは全英で1位を獲得したが、
リッチーは内容について不満の意を表している。制作時間がなさすぎたのだ。
(ストレンジ・カインド・オブ・ウーマンは好きだけど他はちょっと・・・)
次のアルバムは納得のいく環境で制作することにした。
1971年12月スイス、モントルーのレマン湖のほとりにあるホテルでゆっくりと鋭気を
養いながら、対岸にある6角形のカジノでレコーディングする予定だった。
ところが彼らが使用する直前このカジノでフランク・ザッパのコンサートが行われ、
興奮した観客が木製の天井に向け撃った信号銃から火災が発生。カジノは全焼した。
ホテルの窓から湖の上に煙が立ち込める様子を見ていたイアン・ギランが「スモーク・
オン・ザ・ウォーター」と言い、その言葉がバンド内で拡がった。
リッチーがあのシンプルなリフを編み出し、イアン・ペイスと一緒に曲を作った。
この曲を筆頭に、マシンヘッドは捨て曲なしの完成度の高いアルバムである。
前々作のブラック・ナイトもそうだが、リッチーはネタをパクって発展させる天才だ。
ハイウェイ・スターの中間部はモーツアルトらしい。
有名な早弾き間奏はスタジオのアドリブではなく、自宅でしっかり練り上げたもの。
レイジーはクリーム時代のクラプトンの楽曲、ステッピン・アウトが元ネタだとリッチー
本人が明かしている。
スモーク・オン・ザ・ウォーター、ハイウェイ・スターとパープルを代表する2大名曲
が入った美味しいアルバムだが、僕の一番の好みはネヴァー・ビフォア。
最初にシングル・カットされた曲で、ハードなリフと歌メロのキレがよく、サビの転調
してバラードになる所が美しい。そしてまたロックンロールに戻る。大好きだった。
1972年8月に初来日。大阪フェスティバルホール、日本武道館でコンサートを開催。
この公演を録音したライブ盤が日本限定で発売されたが、その出来の良さが評判になり
、海外でも「メイド・イン・ジャパン」のタイトルでリリース。
ライブ盤からシングルカットされたスモーク・オン・ザ・ウォーターがアメリカで大
ヒットし、パープルはアメリカでもブレークした。
↑クリックすると1972年日本公演のハイウェイ・スターの映像が観られます。
一方、マシン・ヘッドに続く新作、紫の肖像の制作は難航を極めた。
メンバー間の不仲とツアーの連続による疲労は、修復不能な段階まで来ていた。
リッチーとイアン・ギランはお互いリスペクトしてるものの反りが合わない。
二人とも仕切りたがるタイプだがベクトルが違う。
だんだんクリエイティブな話ができなくなる。悪循環だ。
1973年に再来日しているが、この時は既にバンドの不仲は頂点に達していた。
アンコールにも出てこないパープルに会場は騒然としたそうだ。
リッチーはイアン・ギランのボーカルにケチをつけ始める。
エルヴィスみたいな歌いかたはやめろ、ヴィブラートはかけるな、とか。
(リッチーは元フリーのポール・ロジャースを理想のボーカリストと考えていた)
気分を害したイアン・ギランは日本公演の最終日に脱退していた。
巻き添え?でロジャー・グローヴァーも解雇される。
第2期のイン・ロック(1970年)〜メイド・イン・ジャパン(1972年)まで。
パープル時代のリッチーの黄金期はわずか3年である。
僕も含め周りでは、パープルはこの3年間だけでいい、という人が多い。
強烈な存在だったのに聴いてた期間が短いのだ。
デイヴィッド・カヴァデール、グレン・ヒューズ加入後の第3期パープルによる初
アルバム、紫の炎(1974年)も完成度は高いと思った。
しかしマシンヘッドのような魅力はない。音も変わった。時代の空気ももう違う。
一方リッチーのステージでのパフォーマンスは過激になって行った。
ライブの最後スペース・トラッキンでリッチーがギターを叩き壊すのも恒例だった。
有名なのは1974年のカリフォルニア・ジャムにおけるテレビカメラの破壊、アンプ
への放火&爆発であろう。
トリのEL&Pに負けたくなかったんだ、と後にリッチーは言っている。
(EL&Pもパープルも日没後のライティングを重視していたため出演順で揉めた)
↑1974年カリフォルニア・ジャムで暴れてるリッチーが観られます。
第3期パープルもハードロック志向のリッチーと、ソウル、ファンキーの要素を持ち込
みたい新メンバーのカヴァデール、グレン・ヒューズの間で亀裂が生じる。
そしてリッチーは脱退し、レインボーを結成。
レインボーは聴いていないのでよく知らないが、メンバー・チェンジを繰り返し
ながら10年くらい続いていたようだ。
コージー・パウエル加入期のレインボーはリッチー第2の黄金期と言える。
レインボーから遡ってパープルを聴いた、という人も多いだろう。
とことんハードロックで長年に渡りリッチー先生を崇めている熱心な信者も多い。
が、ごくフツーのロック・ファンはリッチーを聴いていたのは短いのではないか。
そのせいかハードロック・オンリーの職人的ギタリストという印象で、クラプトン、
ペイジ、ベックのようなメジャー感がないのかもしれない。
クリーム、デレク&ドミノス、スワンプやレゲエなどレイドバックに傾倒し、ヒュー
・パジャムやサイモン・クライミーのサウンドを取り入れたり、アルマーニのスーツ
でブルースを歌う、アコースティック・ギターでも聴かせる、など時代の変化ととも
にしなやかに、そしてオシャレに生きてきたクラプトン。
一時はダイナソー・ロック(恐竜時代のロック)と言われたツェッペリンであるが、
単なるギタリストではなくプロデューサー、ソングライター、アレンジャー、サウンド
メーカーとしてジミー・ペイジは再評価されている。
ジェフ・ベック・グループからBB&A、フュージョン路線で新境地を開いたベック。
1983年のロニー・レーンARMSコンサート(5)でこの3人がステージに立った時、
三者三様で(見かけも演奏スタイルも)楽しめた。
この場にリッチーがいたらどうだろう?違和感ありありだったような気がする。
というか、4人が一緒に演奏するのを見たいとも思わない。
そういえばリッチーが他の御大と共演してるのって見たことないな。
とことんハードロックにこだわる孤高のギタリスト。それもいいじゃないか。
だから三大ギタリストみたいな枠に収まらない(似合わない)のかな?
しかし、近年のリッチーはもうハードロックはやっていないという。
4人目の妻、キャンディス・ナイトをボーカルとしたブラックモアズ・ナイトで、
イギリス中世の音楽を現代風にアレンジしたフォークロックをやっているそうだ。
次回はリッチー・ブラックモア奏法、愛器、機材について。
<脚注>
ホワイト・アルバム・リミックス2018にはシングルB面のレボリューションも
( A面のヘイ・ジュードと同様)リミックス対象にならなかった。
レボリューションは「1」リミックスにも収録されていない。
プロモ・ビデオの方で音も聴いてね、ということなのかもしれないが。。。
それならプロモ・ビデオの音をアウトテイクとしてリミックスして欲しかった。
(後ろで踊っているのはマル・エヴァンス)
演奏は(ニッキー・ホプキンスのエレピの間奏も含め)既にレコーディングされた
トラックを使用しているが、歌は実際に生で歌っている(レコードと違う)からだ。
まずイントロの後、ポールのシャウトが入る。
Don't you know that you can count me outの後ジョンはinと付け加えている。
(俺を仲間にしないでくれ、いや入れてくれ)
レボリューション1ではinが入るがシングル・ヴァージョンはこのinがない。
inを付けるかどうかジョンは迷ったが、レボリューション1では付けることにした。
後に「どっちでもいいということさ」と言っている。
シングルでは社会的影響力を考え破壊行為に参加せず(inなし)としたのだろう。
最初のAll right…あと後のヴァースではポールが上にハモる。
またWe'd all love to see the planからポールとジョージのコーラス、shooby do bop,
shooby do wopが入る。(レボリューション1と同じ。シングルには入っていない)
エンディング近くでもDon't you know it's gonna beのコーラスが入る。
ジョンのAll rightの歌い方も違う。
だからビデオ・ヴァージョンもアウトテイクといえる。
↑クリックするとレボリューションのプロモ・ビデオが視聴できます。
<レボリューションのプロモーション・ビデオ>
このプロモ・ビデオも1968年9月4日の午後、ヘイ・ジュードの撮影の後に同じトゥイッ
ケナム・フィルム・ スタジオで収録された。監督はマイケル・リンゼイ=ホッグ。
フェンダーのツインリバーブの赤い電源ランプが付いているのは実際に生で演奏してい
るように見せるため。視聴者にではなく、ユニオンがうるさいからだった。
(英国ではラジオやテレビに出演する際、生演奏しろという規則があった)
ジョンは塗装を剥がしたエピフォン・カジノ、ジョージはクラプトンにもらったレスポ
ール、ルーシーを弾いている。
リンゴのラディック・ブラックオイスターのドラムセットはヘイ・ジュードの時と同じ。
注目すべきはポールが久しぶりでヘフナー500-1を持っていること。しかも1961年製。
キャバーン時代から「She Loves You」の録音まで使用していた初期のモデルだ。
リア・ピックアップがフロント寄りに配され、ヘッドにはバーチカル・ロゴと呼ばれる
縦書きの「Hofner」文字が見られる。
弦の下にスポンジが入っているのは音をミュートさせるためだろう。
ポールはこの後、1月上旬に行われたトゥイッケナム・フィルム・ スタジオでのゲット・
バック・セッションでもこの1961年製ヘフナー500-1を弾いている。
だが、後半アップル・スタジオおよび屋上ライブでは1963年製の500-1(1966年の北米
ツアーまで使用。現在もこのベースは現役である)を弾いていた。
<レボリューションのレコーディング過程>
6月21日に完成したレボリューション1はシングル向きではないとポールとジョージに
指摘されたジョンは、アップテンポにリメイクすることにする。
7月9日。アビイ・ロード第3スタジオでリハーサルを開始。
この日に試し録りされたと思われるリハーサルがアウトテイク集に収録された。
まだギターの音は歪んでいない。
↑クリックするとレボリューションのリハーサルが聴けます。
翌10日。ジョンとジョージのギター、ドラムで10テイク録音。
最終テイクをベストとしリダクションを行い、ジョンのボーカルをオーバーダブ。
リダクション後の演奏だけのテイク14も今回のアウトテイク集に収録された。
完成形に近い。
ジョンは極限まで音を歪ませたがった。
機材に負荷がかかるのでこれ以上は無理とジェフ・エメリックが言っても、もっと
暴力的な音に、と譲らなかったという。
ということはエフェクター+アンプのディストーションではなく、コンソールにダイレ
クトインしてフェアチャイルドかアルテックのコンプレッサーを使ったのだろう。
エンジニアたちは機材がぶっ壊れるんじゃないかと冷や冷やしただろうなー。
翌11日、ポールのベースとジョンのリードギター、ニッキー・ホプキンスによる
エレクトリック・ピアノの間奏をオーバーダブ。
7月15日にシングル用のモノラルミックスが作られた。
が、2週間後ポールが持ち込んだヘイ・ジュードにA面の座を譲ることになる。
<ホワイト・アルバムの未発表曲>
8月7日から12日まで107テイク重ねてもジョージ自身、納得がいく仕上がりにできな
かったノット・ギルティは結局、ミックスダウンされずお蔵入りになった。
正直言って饒舌でかったるい曲である。
サージェント・ペパーズのセッションで録音されたものの、イエロー・サブマリンに
回されたオンリー・ア・ノーザン・ソング、イッツ・オール・トゥ・マッチの類かも。
ビートルズの楽曲のレベルとしては低い。ホワイト・アルバムから外したのは正解。
アンソロジー3で発表されたものと同じテイク102が今回のアウトテイク集に収録。
今回は最初のカウントが入り、フェードアウトせず最後まで通して収録。
執拗で耳障りなジョージのオブリとソロは抑えられて少し聴きやすくなった。
もう1曲ホワイト・アルバムから落ちたのがホワッッ・ザ・ニュー・メリージェーン。
ジョン、ヨーコ、ジョージによる前衛というか意味不明の作品。
8月14日に録音。
ポールとジョージ・マーティンはビートルズの作品として入れるべきでないと反対。
アンソロジー3ではテイク4が発表された。
今回のアウトテイク集にはテイク1が収録されている。
ジョンのアコギとボーカル、ピアノだけ。変なSEがかぶってない分まだ聴きやすい。
<ホワイト・アルバム以前のセッション>
ビートルズのインド滞在が2〜4月。5月にジョージ宅でのイーシャー・デモ。
ホワイト・アルバムのセッションは5月30日〜10月14日に行われた。
1968年初頭、インド訪問の前にもレコーディングが行なわれている。
アウトテイク集にはその数曲のアウトテイクが収められた。
ビートルズはインド修行で英国を離れる3月にシングルを発表することにしていた。
レディ・マドンナを1968年2月3日アビーロード第3スタジオで録音開始
ポールのピアノとリンゴのドラムだけで3テイクを録音。
テイク3にポールのボーカルとベース、ジョンとジョージのギター、リンゴのドラム、
ジョンとジョージのスキャットをオーバーダブ。
2月6日、リダクションして空きトラックを作り、ポールのボーカルとピアノ、ハンド
クラップ、ジョンとジョージのsee how they runのコーラス、間奏部分の3人による
コーラス(口を手で押さえてこもった音を出す)をオーバーダブ。
再度リダクションを行いサックス・プレーヤー4人の演奏をオーバーダブした。
アウトテイク集にはポールのピアノとリンゴのドラムだけのテイク2が収録された。
ポールのピアノを完コピしたい人にはありがたい音源だ。
それからテイク3に加えたジョンとジョージのスキャット、タンバリンだけの音。
ジョンとジョージはポテトチップス(1)を食べながら歌ったそうでその音も入ってる。
この音源は要らないような気がする。
ジ・インナー・ライトはレディ・マドンナのB面曲。
1968年1月12日、インドのムンバイ(旧ボンベイ)でジョージが現地のミュージシャン
を使って演奏だけを録音。
ジョージは映画「ワンダーウォール」(2)のサウンドトラック制作のためムンバイEMI
スタジオにいたのだが、その空き時間に5テイク録音されている。
2月6日、テイク5をアビーロードの4TRレコーダーに移しテイク6とする。
ジョージは「歌いこなす自信がない」と消極的だったが、ポールに「この美しい曲は
君じゃなきゃ歌えない」と励まされて無事録り終えた。
2月8日、ジョンとポールのコーラスをオーバーダブして完成。
アウトテイク集にはこの演奏だけのテイク6が収録された。聴いてて面白くない。
ビートルズのメンバーは誰も演奏していない。
ジョージのインドものの中では一番好きだが、この曲は繊細なジョージのボーカルが
あってこそ。
アクロス・ザ・ユニバースも当初はシングル曲候補でレディ・マドンナのB面になる
はずだった。
が、ジョンがこの曲の仕上がりに満足しなかったためジ・インナー・ライトに譲る。
その後アクロス・ザ・ユニバースは数奇な運命を辿ることになる。
2月4日のセッションではジョンがアコースティックギターを弾きながら歌う。
リンゴのドラム、ジョージのタンブーラ、など試行錯誤しながら7テイクを録音。
ポールはスタジオの前でたむろしていたファンの女の子2人をスタジオに招いて、
Nothing's gonna change my Worldのコーラスをテイク7に加える。
2月8日、ジョンはとアレンジを模索し続ける。
ジェフ・エメリックは「ジョンのボーカルとギターだけで充分美しいと説得を試みた
が、ジョンは何かが足りないと納得しなかった」そうだ。
ジョンのメロトロン、ジョージ・マーティンのオルガン、ジョンのワウ・ギター、
ポールのピアノ、ジョージのマラカス、3人のコーラスが加えられる。
結局、ジョンはこの曲を断念。シングル曲候補から外すことにした。
アクロス・ザ・ユニバースは放置されていたが、1969年10月(アビーロード発売後)
に改めてミックスが行われる。(ジェフ・エメリックが担当)
12月12日リリースの世界野生動物基金のチャリティアルバムNo One's Gonna Change
Our World(3)に収録されることになったのだ。
回転速度をかなり速め曲頭とエンディングに鳥の囀り、羽ばたきのSEが入れられた。
1970年1月5日。グリン・ジョーンズがアルバム、ゲット・バックを再リミックス。(4)
映画が公開される事が決まり、映画との整合性をとるために(トゥイッケナム・フィ
ルム・スタジオでのリハーサル時にアクロス・ザ・ユニバースを演奏しているシーン
がある)この曲をアルバムに収録する事になったためだ。
グリン・ジョーンズは女声コーラスやビートルズのコーラスも削除。
これは「オーバーダブをしない」ゲット・バック・セッションの当初のコンセプトに
沿ったものだったと思われる。鳥のさえずりや羽ばたきもカットされた。
しかしゲット・バック2nd.ミックスも結局、未発売となる。
1970年3月23日、ジョンとジョージは膨大な量のゲット・バック・セッションのテー
プをフィル・スペクターに委ね、映画と整合性が取れるアルバム制作を依頼する。
ポールはこの件を知らされてなかった。
これが後にレット・イット・ビーとして発表されるアルバムである。
フィルは映画で演奏されていたアクロス・ザ・ユニバースの収録を決める。
今度は逆にテープの回転を下げ、素人のコーラスなど以前のオーバーダブを全部カット。
1970年4月1日。ビートルズ名義の最後の録音セッション。
と言っても、ビートルズのメンバーで参加したのはリンゴだけ。(ドラムを叩いた)
女声コーラス14名、オーケストラ36名のウォール・オブ・サウンド処理が行われた。
アルバム、レット・イット・ビーに収録された新アクロス・ザ・ユニバースを聴いて、
ジョンは絶賛したそうだ。
2003年にはリミックスアルバム、レット・イット・ビー...ネイキッド(5)が発売された。
ここにリミックスされたアクロス・ザ・ユニバースは正規の回転数で、ジョン本来の声、
アコースティックギター、ジョージのタンブーラだけというシンプルな構成。
ネイキッドは賛否両論だが、このアクロス・ザ・ユニバースは絶品だと思う。
1968年2月に録音されたもののシングル候補から外れ、2年近く経ってチャリティ・アル
バムで回転を速くされ、幻のアルバム、ゲット・バックに収録されかかるが流れ、レット
・イット・ビーで回転の遅いウォール・オブ・サウンドに加工され、翻弄され続けたが
ネイキッドでやっと本来の美しさが表現された。。。と僕は思う。
今回のアウトテイク集にはその発端、2月4日のセッションで録音されたテイク6が
収録されている。
ジョンの弾き語りにリンゴのタムだろうか。これだけでも充分という気がする。
↑クリックするとアクロス・ザ・ユニバース テイク6が聴けます。
もう1曲、インド訪問の直前の2月11日に録音された曲がある。
ジョン作曲のヘイ・ブルドッグである。
この日はレディ・マドンナのプロモ・ビデオの撮影でスタジオに入っていた。
せっかくだから何かやろうよ、ということで撮影カメラが回る中、ビートルズはベーシ
ックラックを10テイク録音。
最後のテイク10にボーカルとコーラス、ベース、タンバリンをオーバーダブした。
キレのいい間奏のギターはポールではないだろうか。
タックスマンやグッド・モーニングに通ずるプレイに思える。
4人は10時間でこの曲を仕上げミックスダウンまで終わらせている。
レディ・マドンナのプロモ・ビデオは本当はヘイ・ブルドッグを演奏している。
「1」では本来演奏しているヘイ・ブルドッグのプロモ・ビデオとして見られる。
↑クリックするとヘイ・ブルドッグのプロモ・ビデオが視聴できます。
今回のアウトテイク集に残念ながらヘイ・ブルドッグは収録されなかった。
当初はBullfrogと歌っていたらしい。そういうリハーサルテイクはなかったのか?
5月末〜10月中旬のホワイト・アルバム・セッションであれだけ仲が良かった4人の
間には緊張(tension)と距離(distance)ができてしまった。
それでも4人のバンド・サウンドはすごい。そう思わせてくれるアルバムだ。
11月22日に英国でホワイト・アルバムが発売された。
ジョージは年末にウッドストックのディラン宅を訪れ、ザ・バンドとも親しくなり有意
義な時間を過ごした。(またビートルズに戻るのは気が滅入ったそうだ)
ジョンはクラプトン、キース、ミッチ・ミッチェルとダーティー・マックというユニット
でストーンズのロックンロール・サーカスに出演。
その収録は12月10日。その日、遠く離れた日本では三億円強奪事件が起きていた。
<脚注>
中学一年の初秋だったと思う。
友人の一人が「今夜のヒットパレードにビートルズが出るんだって」と言った。
チャリを飛ばして家路を急ぐ。夕刻だ。上気した頰に当たる風が涼しい少し冷たい。
テレビをつけザ・ヒットパレード(1)にチャンネルを合わせる。
ほどなくビートルズの新曲と紹介され、ポールがピアノを弾きながら歌い始めた。
動いてる(演奏している)ビートルズを見たのは初めてだった。
(このプロモ・ビデオはデヴィッド・フロスト・ショーで放映されたもの)
美しいメロディのバラード。後半から曲調が大きく変わる大胆な構成。
Na na na... Hey Judeのリフレインを繰り返し厚みが増していく。
ポールの黒っぽいシャウトも圧巻。
7分を超える長尺も当時は異例だったが、どのラジオ局も最後まで放送した。
今まで聴いてた音楽は何だったんだろう?と思うくらい斬新で素敵な曲だった。
ビートルズにのめり込んでいくきっかけになった曲でもある。
ヘイ・ジュードはビートルズが設立したアップル・レーベルから発表された第1弾
シングルである。(英国1968年8月30日、アメリカ8月26日、日本9月14日発売)
日本ではレーベル移行が間に合わず、初回は従来どおりオデオン・レーベル。
モノラル盤だった。(ステレオ盤より演奏時間が少し長い♪)
ジャケ写のポールの緑と黒のジャケット、ジョンの赤いパンツが印象的だった。
何をやってるんだろう?と思っていたが、ユア・マザー・シュッド・ノウのリハー
サル時の写真だと後で知る。
アメリカでは初チャートインで10位、9週連続でトップという異例の大ヒット。
イギリスでは2週連続の1位に留まった。
(ヘイ・ジュードを蹴落とし1位を獲得したのはメリー・ホプキンの悲しき天使)
日本でもオリコン5位を記録した。
<ヘイ・ジュード誕生の経緯、斬新な曲構成>
ヘイ・ジュードはジョンの息子、ジュリアンを励まそうとポールが書いた曲である。
ジョンがヨーコと交際を始め、シンシアとの破局(2)が決定的になったからだ。
ジュリアンを訪ねるため車を運転しながらポールはヘイ・ジュールズ(ジュリアンの
愛称)と呼びかけようとしたが語呂が悪いため、ジュード(3)に変えたと言っている。
この曲を初めてジョンに聴かせた時、サビの「The movement you need is on
your shoulder(動き出すかどうかは君しだい)は後で変えるつもり」と説明。
きっと恥ずかしかったんだろうね、とポールは回想している。
するとジョンは「何を言ってるんだ、ポール!その歌詞がこの曲で一番大切な所じ
ゃないか、絶対変えちゃ駄目だ」と鋭く指摘。
「今でもライブでそこを歌うとジョンを思い感傷的になる時がある」とポールは言う。
ジョンは架空のストーリーを題材にしたポールの能天気な歌詞を批判していたが、
「ヘイ・ジュードの歌詞は立派なもんだ。ポールも頑張れば良い詞が書ける証拠」
と述べている。
ヴァースはF→C→C7→F→B♭→F→C7→Fとシンプルなスリーコードだが、これに
あの美しいメロディーを載せる、というのがポールの天才たる所以だ。
サビではB♭→Dm/A→Gm→B♭/F→C/E→C7→Fといわゆる分数コードのクリシェ。
ベース音を半音ずつ下降させ、物悲しい響きを醸し出しているのだ。
ジョンとジョージのコーラスがこれに呼応し、切なさを強調する。
3回目のヴァースでは歌い出しのHey Ju~deに黒っぽいこぶしが入る。ここがいい!
don’t let me downに続くYou have found her(4)からジョンが下でハモる。
が、最後のThen you can start…のstartで逆転してポールの3度上へ。ここもいい!
そのままto make it betterまでポールの主メロの上をジョンが歌う。
2回目のサビ、And don't you know that it's just youの節回しもいい。
最後のヴァースのRemember to let her under your skinの直後(2’56”)にポール
がピアノをミスってFucking hell(クソっ)と小さな声で言っている。
ジョンは分かるか分からない声で「そのままにしておけ」と言ったそうだ。
そしてbetter better…で一気に上がって行きAh…のシャウト。
曲調ががらりと変わり、Na na na... Hey Judeのリフレインを繰り返す。
当時は分からなかったが、ビートルズ流のゴスペルなのだろう。
ポールのシャウトも黒人のR&Bシンガー張りである。
リフレイン部のコードはF→E♭→B♭→Fと循環逆四度進行を繰り返している。
これも斬新でユニークだ。
ジョージは「この曲が頂点だった」と振り返る。
ジョンも解散後「間違いなくポールが作った最高傑作のひとつ」と評価している。
しかしテンポアップして音をハードにしたレボリューションをアップル社からの
初シングルA面として出したかったジョンとしては、ヘイ・ジュードにA面を譲り
忸怩たる思いだったのではないかと思う。
それでもヘイ・ジュードの方が万人向きでヒットが望める点は否定できなかった。
ヘイ・ジュードに美味しいところを持って行かれたのはミックも同じだった。
キースの個人秘書、兼ボディーガードだったトニー・サンチェスの新しいクラブ
のオープニング・パーティーで、ミックは新作のストリート・ファイティング・
マンをみんなに聴かせていた。
そこへポールが現れ、出来たてのヘイ・ジュードのアセテート盤をサンチェスに
手渡しかけてもらった。
クラブの空気は一変。招待された客たちはヘイ・ジュードの方に好反応を示した。
ミックの目論んだ「いい雰囲気」は一気に萎え、彼は気分を害したそうだ。(5)
<プロモーション・ビデオ>
僕が中学一年の時にテレビで見たのはプロモーション・ビデオだった。
1968年9月4日にトゥイッケナム・フィルム・ スタジオで収録された。
監督はマイケル・リンゼイ=ホッグ。
ペイパーバック・ライターとレインのプロモ・ビデオを監督した実績があった。
(4ヶ月後に同スタジオで開始されたゲット・バック・セッションも同監督が撮影。
当初はテレビ放映を前提としていたが頓挫し、後に映画「レット・イット・ビー」
として公開された)
この時点で既にレコーディングは完了していた。(レコーディング過程は後述)
プロモ・ビデオでは既に録音された演奏を流し、ポールのボーカル、ジョンとジョージ
のコーラスのみ生で収録された。
白いタキシード・ジャケットを着た36人編成のオーケストラが後ろに控え、後半では
300人のエキストラが乱入しビートルズを囲んでNa na na... Hey Judeを大合唱した。
その中には歌手のルルの姿も見える。
デヴィッド・フロスト・ショーの収録を兼ねていたので、冒頭で彼が登場する。
4人は即興でデヴィッド・フロスト・ショーのテーマ曲を演奏し始める。
デヴィッド・フロストの紹介が終わると、今度はジョンがいきなりエルヴィスの
It's Now Or Never(やるなら今しかない)を歌い出し、他の3人も便乗する。
デヴィッド・フロストはビートルズの悪ふざけにうんざりした表情だ(笑)
これは生演奏が収録されている。だからギターもちゃんとプラグインされていた。
↑クリックするとヘイ・ジュードのプロモ・ビデオが視聴できます。
ポールは時々、笑いをこらえながらジョンを見る。二人には笑いのネタがあるのか。
2’48”でThen you can startと歌いながらジョンの方を見るポールにジョンが、ん?
オレなんかミスったっけ?という顔をするのが可笑しい。
尚、このビデオは2テイク存在する。
英国では撮影4日後の9月7日、フロスト・オン、サンデーショーで放映された。
アメリカでは1ヶ月遅れの10月6日、スマザーズ・ブラザーズ・コメディーアワーで
初めて放映された。
日本はヘイ・ジュードのシングル発売でさえ遅れたくらいだ。
プロモ・ビデオが届いたのも10月だったのではないかと思う。
日本で放映された時はこのシーンはカットされ、ポールのアップで歌が始まったと
記憶している。
このビデオではポールがアップライト・ピアノ、ジョンが塗装を剥がしたエピフォン・
カジノ、ジョージがフェンダーの6弦ベースを弾いている。
そのためレコーディングも同じ編成で同じ楽器を弾いたと勘違いしがちだ。(後述)
リンゴはお馴染みのラディックのブラック・オイスターのセット(1965年から一回り
大きいサイズを使用)だが、バスドラムのフロントヘッドがオレンジ色。
マジカル・ミステリー・ツアーで使用したものを黄色い文字だけ消したのか?
↑クリックするとヘイ・ジュードのプロモ・ビデオ別テイクが視聴できます。
実はリンゴは非公式に脱退していて、この撮影日にやっと復帰している。
8月22日、バック・イン・ザ・U.S.S.R.録音中のこと。
ポールがリンゴのドラミングにいちいち注文をつけ、挙句の果てにポールが自分でド
ラムを叩き「こういう風にやるんだよ」と言うと、流石に温厚なリンゴも嫌気がさし
「辞める」とスタジオを後にした。(ポールがドラム代役でレコーディングは続行)
ポールは「君のプレイは誰よりも最高で、君が必要だ」と褒めちぎり、ジョンは励まし
の電報を送り、ジョージはドラム・セットやスタジオを色とりどりの花で飾り、リンゴ
の復帰を待った。
リンゴは9月4日ヘイ・ジュードのプロモ・ビデオ撮影の日にやっと戻って来た。
<レコーディング過程>
1968年7月29日、アビーロード第2スタジオでセッション開始。
ポール(p)、ジョン(a.g.)、ジョージ(e.g.)、リンゴ(ds)の編成で6テイクを録音。
いずれもラフでリハーサルを兼ねた試し録りだった。ジョージ・マーティンは不在。
★この日のテイク1は今回のアウトテイク集に収録。
テイク2はアンソロジー3に収録されている。
翌30日もセッションは続き7〜23テイクを録音。
この日は英国映画協会(BFI)制作のドキュメンタリー・フイルム<Music!>のため
、ビートルズのセッションの様子が撮影されている。(6)
大部分がテイク9のレコーディング風景だが、彼らが脱線し楽しんでる姿も見られる。
ポールがトゥティ・フルティの一節Wop bop a loo bop a lop bam boom!を歌うと、
ジョンがドライヴ・マイ・カーのBeep beep'm beep beep yeahで合いの手を入れ、
ふざける。
↑クリックするとヘイ・ジュード・セッションが視聴できます。
ヘイ・ジュードの前にポールが即興でベッシー・スミスのセント・ルイス・ブルース
(こんな古い曲、よく知ってるなー)を歌うシーンもある。
★このセント・ルイス・ブルースも今回のアウトテイク集に収録された。
ジョージは演奏に参加せず、ジョージ・マーティン、ケン・スコットと一緒にコント
ロール・ルームにいて、マーティンに意見を述べたり、スタジオに指示したり一緒に
歌ったりしている。
ジョージは「Hey Jude」の箇所に歌メロに呼応するオブリを入れたがったが、ポール
はこれにイライラして止めさせた。ジョージはで出番が無くなり3人に任せた。
それでも気を悪くせずにコントロール・ルームで楽しそうに口ずさんでいる姿を見ると
、この人、気がいいんだか何だか・・・と思ってしまう。(7)
↑クリックするとヘイ・ジュード テイク9録音風景が視聴できます。
1968年7月31日。場所をロンドン・トライデントスタジオに移す。
ビートルズがこのスタジオを使うのはこの日が初めて。
トライデントスタジオは独立経営(レコード会社の経営ではない)であり、当時は
最新鋭だった8トラックレコーダーが使用されていた。
ビートルズは8トラックレコーディングを試してみたかったのである。
保守的なEMIは8トラックレコーダーを入れたものの何ヶ月も技術的な試験を続け、
ななかなか実用に至らない。ビートルズは業を煮やし実力行使に出たのだろう。
ビートルズとEMIアビーロード・スタジオは愛憎相半ばする所があったようだ。
長年使い慣れたスタジオでビートルズを最優先してくれるが、由緒ある会社ならでは
の厳格さ、機材使用に関するルール、ケチなことに彼らは不満を抱いていた。
前日までのテイクを全て破棄して、新たにリメイクを開始。
ポールのピアノ(8)、ジョンのギター(塗装を剥がしたJ-160E)、リンゴのドラム
で4テイクが録音され、最初のテイク1がベストと判断された。
8月1日。同じくトライデントスタジオ。
前日のテイク1にポールのベースとボーカル、バックコーラスをオーバーダブ。
夜には36名のオーケストラをオーバーダブした。
ビートルズはオーケストラのメンバーに「ギャラはその分上乗せするのでna,na,na~
のコーラスと手拍子をやってくれないか?と頼んだ。
1名以外は「そんな楽な仕事でいいの?」と快く引き受けてくれたそうだ。
8月6日までトライデントスタジオでこの曲のリミックス作業が行われる。
8月8日、アビーロードにそのテープを持ち込んだところ問題発生。
トライデントとアビーロードの機材の規格の違いのため、高域がカットされ劣化した
サウンドになってしまったのだ。
エンジニアのイコライジング処理で何とか聴けるレベルに修正をして事なきを得た。
シー・ラヴズ・ユーなど初期のマスターが紛失した音源はともかく、この時期のビー
トルズにおいてヘイ・ジュードは音質的にはあまりHi-Fiではないだろう。
ピアノは若干歪み、エレピのようにも聴こえる。
ポールのボーカルはやや歯擦音(日本語のサ行、タ行の子音)が気になる。
ジョンのギターは鳴りが悪くシャンシャカと低域のふくよかさが失われている。
もともとJ-160Eはオール合板で箱鳴りを抑えたギターだが、過去の録音はもっといい
独特の音がしていた。
ここまで鳴らないと、プロモ・ビデオと同じエピフォン・カジノの生音だけを拾ってる
のでは?と誤解されるのも当然だ。
<2018ホワイト・アルバム・リミックスでの扱い>
あくまでもアルバムのリミックスということで、シングル盤のヘイ・ジュードと
レボリューションのリミックスは収録されなかった。
ヘイ・ジュードは2015年にリミックスされた「1」を聴いてね、ということか。
じゃあ、「1」に入ってないレボリューションは?
サージェント・ペパーズ2017リミックスではボーナスCDにシングル曲のリミックス
が収録されたのだが、今回は本編2枚、イーシャー・デモ、アウトテイク集というこ
とで統一性を重視したのだろう。
アウトテイク集には前述のテイク1、テイク9の前に即興で演奏したセント・ルイス・
ブルースだけが収録されている。
次回はアルバムに収録されていないアウトテイク集の音源を紹介する予定です。
<脚注>