2017年12月28日木曜日

ロックな青春映画10選(2)’73年のアメリカの空気が伝わる。

2000年のアメリカ映画「あの頃ペニー・レインと」はロック・ファン必見。
ロックバンドのツアーに同行取材することになった少年の姿と淡い恋を描い
た青春ロードムービーだ。

15歳でローリングストーン誌の最年少記者となりオールマン・ブラザーズ、
レッドツェッペリン、ザ・フー、イエス、デヴィッド・ボウイ、エルトン・
ジョン、ニール・ヤングなど数多くの大物ミュージシャンへのインタビュー
に成功したキャメロン・クロウの実体験をもとにした作品である。





キャメロン・クロウ本人が製作・脚本・監督を担当。
この作品はゴールデングローブ賞作品賞とアカデミー賞脚本賞を受賞した。

脚本を気に入ったスピルバーグ率いるドリーム・ワークスが全面協力。
音楽はクロウの妻で元ハートのギタリスト、ナンシー・ウィルソンが担当。



<物語のあらすじ>

11歳のウィリアムの母親は大学教授で、自身の子供たちに厳格な教育方針。
その厳しさに19歳の姉アニタは反抗し、ボーイフレンドと家を出て行く。
別れ際にウィリアムの肩を抱き耳元で囁く。


「いつかあなたはクールになれるわ。ベッドの下を見て。自由がある」
One day you'll be cool. Look under your bed.It’ll set you free.(1)





ウィリアムがベッドの下を覗くと大量のロックのレコードが置いてあった。
ザ・フーの「トミー」のジャケットを開くとメモが出てきた。

「ロウソクを灯して聴いて。未来がすべて見えるから」。
Listen to Tommy with a candle burning, and you’ll see your entire future.


ウィリアムはその言葉どおりロウソクに火をつけ「トミー」に針を下ろす。
姉の残したレコードをかたっぱしから聴きロックにのめり込んで行く。




↑写真をクリックすると「あの頃ペニー・レインと」のトレーラーがみられます。



15歳になったウィリアムはロック評論家を目指しクリーム誌に投稿し続ける。
編集長レスター・バングス(実在の人物)にも会い「正直であれ。辛辣に書け」
とアドヴァイスをもらう。(2)
「ブラック・サバスのインタビューを取って来い」と課題も与えられた。


コンサート会場に赴くも、裏口で門前払いをくらい途方にくれるウィリアム。
が、前座のスティルウォーターの楽屋入りの際、その場で彼らの演奏に的確な
意見を述べ、「入れよ」と気に入られる。
ウィリアムはバックステージの世界(3)を初めて目の当たりにする。





そこでペニーレインと名乗る16歳の少女とウィリアムは仲良くなる。
スタッフパスも彼女が手に入れてくれた。

「私たちはロックスターと寝るだけのグルーピーとは違う、バンドを助ける
バンド・エイドなの」と微笑む彼女にウィリアムは恋をしてしまう。
が、ペニーレインはスティルウォーターのギタリスト、ラッセルがお目当て。





そんなウィリアムにローリングストーン誌から電話で仕事の打診が来る。
クリーム誌に投稿した記事が編集者の目にとまったのだ。
驚いたウィリアムだが、子供と悟られないよう声色を変えて応対する。

「スティルウォーターは?」というウィリアムの提案に編集者は賛成。
「スティルウォータ?いいね。じゃあ、さっそく記事を書いてくれ」



ウィリアムはスティルウォーターのツアーに同行することにした。
スタッフたち、グルーピーたちの間でもすっかり顔になったウィリアム。





一方ペニーレインはラッセルと関係をもつようになった。
彼女に淡い恋を抱くウィリアムは苦悩する。


思うようにインタビューが取れず、記事はなかなか書けない。
ローリングストーン誌からは原稿を催促され、切羽詰まったウィリアムは
深夜クリーム誌の編集長レスター・バングスに電話し悩みを打ち明ける。





「正直に書け、バンドに対しては無慈悲であるべき」と助言を受けたウィリ
アムはバンド内の不和まで赤裸々に書く。

ローリングストーン誌はウィリアムの記事の内容、卓越した文章力を絶賛。
しかし裏取りをすると、スティルウォーター側は全面否定。
事実と確認が取れない記事は採用されない。



失望したウィリアムは空港で家出した姉と偶然再会。一緒に母の元に帰る。
そこに訪ねてきたのは思いがけずラッセル。ペニーレインの計らいだった。
ラッセルとの恋に破れ自殺を図った彼女を救ったウィリアムへの気持ちだ。

ラッセルは記事を事実と認め、すべて話すと言う。
ウィリアムは改めてラッセルにマイクを向けインタビューを始めるのだった。




<スティルウォーターとは>

劇中のスティルウォーターは1973年に売り出し中という架空のバンド。
「あの頃ペニー・レインと」の原題は「Almost Famous」。(4)
「ブレイク寸前、ほとんど成功したようなもの」と訳せばいいだろうか。

日本での配給会社はペニーレインへの淡い恋を売りにしたようだ。
ビートルズの楽曲名であるペニーレインなら興味をそそられるだろう、と
いう目論見もあったと思う。





スティルウォーターは、キャメロン・クロウがツアーに同行しローリングス
トーン誌に記事を書いたオールマン・ブラザーズ・バンドがモデル。(5)
当時のオールマンも同じように人気上昇株だった。

音的にはフリー、バッド・カンパニー、ハンブルパイに近い?という印象。
見た目はブリティッシュっぽさは感じられないが。



ギターのラッセルは若き日のクラプトン、デュアン・オールマンを足して二
で割ったようなイメージを狙ったそうだが、個人的には「One Man Dog」
の頃のジェームス・テイラーにちょっと似ているような気がした。

(グレン・フライをイメージしたという説もあるが、似てないと思う)
またクロウは当初ブラッド・ピットをラッセル役も考えていたらしい。

ピーター・フランプトン(元ハンブルパイ、劇中でローディ役でカメオ出演し
ている)がライブ演奏のギターの弾き方、パフォーマンスを特訓したそうだ。






ヴォーカルのジェフはバッド・カンパニーのポール・ロジャースの歌い方、
マイクの持ち方までそっくり。本人の許可を得て真似たらしい。



実際の音入れはパール・ジャムのマイク・マクレディ、プロデューサー兼ミュ
ージシャンのマーティ・フレデリクセンが行った。

スティルウォーターが劇中で演奏する曲はクロウと妻のナンシー・ウィルソン、
ピーター・フランプトンにより作られたもので、バッド・カンパニーとジェスロ
タルの中間のようなイメージを狙ったという。





<クロウの体験を元にしたエピソード>

スティルウォーターを載せた専用機が乱気流に揉まれ不時着するシーンは、
ャメロン・クロウの二回の実体験を元にしている。
ザ・フーのツアーに同行した時とハートとの同乗の時だそうだ。

ちなみにメンバーたちがバディ・ホリーの「ペギー・スー」を歌い出すのは、
バディ・ホリーが1958年にチャーター機の墜落で死亡したため。


ラッセルがなかなかインタビューに応じてくれないのは、ジミー・ペイジが
実際にそうだったことを元にしている。
ツェッペリンを酷評していたローリングストーン誌を嫌っていたせいもある。
劇中でもジェフが「どうせ悪口を書くんだろ?」と言っている。

スティルウォーターがローリングストーン誌の表紙を飾ることになるとウィリ
アムが告げると、メンバーたちはブレイク寸前であるを確信し興奮する。(6)





酔ったラッセルがウィリアムに「おまえはスパイだ」と悪態をつくシーンは、
グレッグ・オールマンがドラッグによる妄想癖でキャメロン・クロウをFBI
のスパイと思い込んでいた(7)というエピソードが活かされた。


キャメロン・クロウは劇中のウィリアムと同じくサンディエゴで育った。
母親は実際に大学の法学教授で厳しかったそうで、姉が家出したのも事実。
空港で姉と偶然、再会するのも本当にそうだったらしい。

ウィリアムがグルーピーたちに童貞を奪われるシーンもクロウの実体験(笑)

クリーム誌の編集長レスター・バングスは実在の人物。





ウィリアムに執筆を依頼するローリングストーン誌の中国系アメリカ人、
ベン・フォン・トレスも実在の人物。
原稿を持ってきたのが15歳の少年であることにトレスが驚くシーンがある。

ベン・フォン・トレスはキャメロン・クロウと電話で話した際「若いのは分か
っていたがせいぜい18か19だと思ってた、まさか15歳の少年があれだけ
記事を書くとは!」と驚いたことを明かしている。



<ツェペリンへのオマージュがいっぱい>

スティルウォーターがツアーで滞在するホテルにツェッペリンが泊まっている
ことが分かり、さっきプラントに会ったと興奮するファンの様子が描かれてい
るが、本当にツェッペリンがいるかのような錯覚にとらわれる。(8)


撮影は実際に当時ツェッペリンが泊まっていたハリウッドのハイアットハウス、
ニューヨークのドレイクホテルで行われた。

ニューヨークでのリムジンの中の様子はツェッペリンの1973年のマディソンス
クエア・ガーデンでのコンサートを映画化した「狂熱のライブ」を彷彿させる。





LSDでハイになったラッセルが「俺は金色に輝く神だ(I am a golden God)」
と叫び屋根からプールにダイブするシーンは、ロバート・プラントがLAのハイ
アットハウスのベランダで叫んだという逸話が元ネタ。


ケイト・ハドソン演じるペニーレインは女ロバート・プラント?と思うくらい
そっくりで、当時のプラントの髪型から服、表情や雰囲気を真似ている。

グルーピー仲間が楽屋のドアを開けるときペニーラインが言う「みんな笑い声
を覚えてる?(Does anybody remember laughter?)」は「天国への階段」
の途中でロバートプラントが客席に投げかけた言葉。(9)





そして劇中でツェッペリンの楽曲が5曲使用されたことも話題になった。
これまでツェッペリンは自分たちの楽曲の商業使用を許可していなかったのだ。
キャメロン・クロウは映画のラフ編集をプラントとペイジに見せ、特別に許可を
もらったらしい。

「Misty Mountain Hop,」「Bron Yr Aur」「The Rain Song」「Tangerine」
「‘That’s the Way」と選曲のセンスがいい。うれしくなる。

特にラストのモンタージュ、ウィリアムの家族、スティルウォーターの成功、
ウィリアムの記事が載ったローリングストーン誌、ペニーレインが夢見ていた
モロッコへ旅立つ、スティルウォーターのツアーバスがオレンジ色の景色の中を
走っていくバックに流れる「Tangerine」(10)は最高だ。



↑ウィリアムの記事が掲載されたローリングストーン誌。
タイトル「Still Waters Run Deep」は「深い川は静かに流れる」の意。
「中身がある人は悠然としてやたらに騒がない」というたとえ。
スティルウォーターが実派の大物であることをうまく言い表している。

★写真をクリックすると「Tangerine」が流れる映画のラストがみられます。



<配役の妙>

主人公のウィリアム役のはロックについてはまったく知識がなく、レッド・ツェ
ッペリンって人の名前?と思ったそうだ。


ペニーレインを演じたケイト・ハドソンは女優ゴールディー・ホーンの娘。
この役を獲るために、1970年代のロック・シーンやファッションを研究してオー
ディションに臨んだらしい。
クロウ監督は彼女を見て「この子だ!」と思ったそうだ。(11)

ペニーレインはペニー・トランブルというクロウ自身の友人がモデル。
元モデルで数多くのミュージシャンと浮名を流したビビ・ビュエル(リブ・タイ
ラーの母親)もペニーレインの人物像になっている。


ウィリアムの厳格な母親役のフランシス・マクドーマンドはさすがの演技力。
コーエン兄弟の映画「ファーゴ」(1996年)でアカデミー主演女優賞を獲得。
トニー賞、エミー賞を受賞し、演劇の三冠王を達成したベテラン女優だ。
こういう渋い配役がこの映画をビシッと締めているような気がする。


もう一人、クリーム誌編集長レスター・バングスを演じた名優フィリップ・シー
モア・ホフマン(12)の存在感も大きい。





<ロックへの愛情があふれる作品>

インタビューできず思い悩むウィリアムにバングスが電話で語りかけるシーン。

「俺もお前もダサいよな(Uncool)。でも昔から芸術はモテないヤツが恋に
破れた気持ちを糧につくりだしてきた。芸術は劣等感から産まれるんだ」

バングスはこうも言っている。
「ロックは終わった。クールな産業(Industry of Cool)になったんだ。
カッコいいロックスター売れるという時代になって、俺たちが愛した音楽は死
んだのさ」

クールなロックスターとグルーピーたち。クールと正反対のロック・オタク。
その切なさを知っているキャメロン・クロウが描くから心に響くのだ。



そして劇中で使用された数々の楽曲。
ツェッペリンの5曲もそうだが、他の選曲もクロウのセンスが光る。

こう来ましたか!と意表をつかれたのがビーチボーイズの「Feel Flows」。
トッド・ラングレンの「It Wouldn't Have Made Any Difference」、
キャット・スティーヴンスの「The Wind」もよかった。

とにかくキャメロン・クロウのロックへの愛情があふれる映画である。
劇中でベッドの下に残された大量のレコードはクロウの私物らしい。




<脚注>

2017年12月20日水曜日

ロックな青春映画10選(1)怒れるモッズを描いた名作。

ロックな青春を描いた映画をいくつかご紹介したいと思う。

ただしアーティストの伝記、ドキュメンタリー、ロックオペラ、ミュージ
カルは除外。
ロックに夢中だった自分を投影できる、いつもロックが流れていたあの頃
を思い出し共感できる(と個人的に思える)映画を選んだ。



まず挙げたいのは1979年のイギリス映画「さらば青春の光」。
監督はフランク・ロッダム。
1960年代初期のロンドンで流行ったモッズの青春を描いた作品である。
原題は「Quadrophenia(四重人格)」。






ザ・フーは1973年に6枚目のアルバムにして2枚組ロックオペラの大作、
「Quadrophenia(四重人格)」を発表。
イギリス、アメリカ共にチャートの2位につける大ヒットとなった。
映画はこのアルバムを原作としている。タイトルも同じである。



ザ・フーといえばスモール・フェイセスとともにモッズの代表バンドだ。
イギリスの若者なら「Quadrophenia」→ザ・フー→モッズと連想する。

「四重人格」が「自分は何者にもなれない」「自分は誰?」「人と違う
特別な存在になりたい」という若者の苦悩を意味してると共感できる。


が、日本で「四重人格」と言っても映画の内容がアピールしにくい。
配給会社の宣伝担当は悩んだあげく「さらば青春の光」などという陳腐な
タイトルをつけてしまったのだろう。

日本では1979年に公開されているが、たぶん興行成績は低迷したはず。
その後ビデオ化されてカルト的な人気作品になった。





<物語のあらすじ>

舞台は1960年代初期のロンドン。
主人公ジミーは広告会社のメールボーイ(1)という退屈な仕事をしている。
給料は悪くない。

仕事がひけると、ジミーはモッズ仲間とパープルハーツと呼ばれるクスリ(2)
キメて、クラブでロックを聴きながら夜通し踊りまくっていた。
真夜中に帰宅するジミーに両親は「不良、ギャング、精神分裂」と怒る。


モッズであることがジミーの唯一の生きがいでありアイデンティティだった。
三つボタン、サイドベンツの細身のスーツ。スエードのブーツ。
派手なデコレーションを加えた改造スクーター(ランブレッタ)。





敵対するロッカーズとはことあるごとに衝突した。
ブライトン・ビーチでついに大乱闘が起き、ジミーも逮捕される。

ジミーは常習欠勤と逮捕のため職を失う。
母親からは「家を出て行け」と言われた。
ガールフレンドのステフも仲間の一人に奪われる。
海岸を空しく歩き、暴動の中ステフと関係を持った路地裏で佇むジミー。


ジミーはホテルのそばでモッズ仲間のカリスマ的存在だったエース(ポリス
時代のスティングが演じている)の改造ベスパを見つけ喜ぶ。
が、ベルボーイの恰好で客の荷物を運ぶエースの姿を見て愕然とする。
彼もまた現実社会の中で妥協しながら生きていたのだ。

ジミーはエースのベスパを盗み、ビーチ岬の断崖沿いを疾走。
スクーターは崖からダイブして大破した。



↑クリックすると「さらば青春の光」のトレーラーが観られます。



<モッズとは何か?>

この映画を楽しむには1960年代のイギリス若者文化、モッズやロッカーズ
とは何かを理解しておく必要があると思う。

モッズ(Mods) とは1958年〜1966年にかけてロンドンの洗練された若者
たちの間で流行したファッション、音楽、ライフスタイル。
原型はテディボーイ(3)だという説もある。


背景にはイギリスでティーンエイジャーの人口が増えたこと、好況のおかげ
で働く若者が増えたこと、彼らの消費力(遊ぶ余裕)が増えたことがある。

つまりモッズは服とレコードとクスリにお金をつぎこむ消費文明の申し子だ。
彼らの多くは労働者階級だが、洒落者であることでそれをボカしていた。


彼らは深夜にクラブに集まり、モダンジャズやモータウン系のR&B、スカ、
ロックを楽しみ、ダンスに興じた。
ザ・フー、スモール・フェイセス、キンクス、スペンサー・ディヴィス・
グループはモッズ御用達のバンドだった。

モッズの多くがハイになるためパープルハーツと呼ばれるアンファタミン
化合物(覚醒剤)を常用していた。





モッズは独特のファッション・スタイルを確立していた。

グリースなどをつけずにドライのまま前髪を下ろしたモッズカット。
サイドベンツの細身の三つボタンのスーツに細身のネクタイ。

キューバンヒールにサイドゴアのチェルシーブーツ(初期の
ビートルズが愛用)、またはスエードのデザートブーツ。

フレッドペリーのポロシャツ。
彼らは501のような労働着っぽい太めのデニムを嫌い、アメリカ東部の学生
向けに新しく発売されたホワイト・リーバイスを好んだ。

ポークパイ・ハットやモッズ・キャップ(キャスケットに近い)をかぶる
こともある。


モッズたちの移動手段はスクーター。
エンジン剥き出しのモーターサイクルではスーツが汚れてしまうからだ。
ミラーやライトなど派手なデコレーションでカスタマイズしたイタリア製
スクーター(ベスパ、ランブレッタ)を乗り回していた。





冬のロンドンの寒さをしのぐため彼らは米軍払い下げのパーカを羽織った。
モッズコートとして知られる軍用パーカM-51(4)は、米国地上軍の極寒防寒
衣料の1951年型モデルのことである。


独自のスタイリッシュな世界観をもつ彼らはモダニスト、モダーンズと呼ば
れ、そこからモッズという名称になったと言われている。 



<ロッカーズとの関係>

モッズと対極にあったのがロッカーズと呼ばれる粗暴な若者たち。
ロッカーズはアメリカの古いR&Rを好んで聴いていた。
リーゼントで革ジャンに革ブーツというマッチョなスタイルの彼らは、単気筒
のモーターサイクルを愛し、暴走と喧嘩に明けくれるタフな連中だ。

モッズとは犬猿の仲で、お互いに目の敵にしては対立していた。
「さらば青春の光」で描かれているのも、1964年に実際に起きた「ブライトン
の暴動」と呼ばれるモッズ対ロッカーズの集団大ゲンカがモデルになっている。





ビートルズの映画「ハード・デイズ・ナイト」(1964年)ではインタビュアー
の「あなたはモッズ?それともロッカー?」という質問にリンゴが「モッカー」
と答えるシーンがある。

デビュー前のビートルズは革ジャンにリーゼントだった。
ハンブルク時代にアストリッド・キルヒャー(5)の提案で前髪を下ろし、ブライ
アン・エプスタインの指示で細身のサイドベンツのスーツにキューバンヒールに
サイドゴアのブーツを着用するようになったのだ。



<モッズの衰退>

スウィンギング・ロンドンの空気の中で、モッズは1963〜1964年頃に最
盛期を迎える。
しかし乱闘目的で加わる者、スキンヘッズも現れモッズのスタイルは揺らぐ。

スキンヘッズは労働者階級であることを強調する格好で暴力的だった。
集団で地下道を歩き、休日はフットボール観戦。
クラブで一夜を過ごすことは無くモッズのオシャレ感とはかけ離れていた。


1966年イギリスの経済危機でスウィンギング・ロンドンも陰り出した。
人気の音楽番組「レディー・ステディー・ゴー」の打ち切り。
サイケデリックが注目され、サンフランシスコで生まれたヒッピーカルチャー
が台頭する中、モッズは姿を消していった。

1967年の映画「欲望」(6)では後期モッズの姿が描かれている。




<続編が作られるらしい?>

2016年6月に「さらば青春の光」の続編製作が決定したと発表された。
英ミラー紙によると、続編には37年前に主人公ジミーを演じたフィル・ダニ
エルズを始め、オリジナルキャストが集結。現代のジミーの姿を描くらしい。
同年夏ロンドンで撮影開始ということだが、ザ・フー側は非難している。


<脚注>

2017年10月28日土曜日

人生はブルースと嘆いたアメリカのフォーク歌手。

遠藤賢司さんが亡くなった。
僕は和製フォークには疎い。この人の曲も「カレーライス」しか知らない。

が、一度だけお会いしたことがある。
FM番組ディレクターがフォーク畑に人脈が多いらしく、その関係で八ヶ岳で
一緒にテニスをしたのだ。

遠藤賢司=長髪の不健康そうな人の先入観があったが、この時のエンケンさん
はテクノカットでさっぱりしてて、愉快な人だった。
おまけにテニスが上手い。完敗だった。

その後はお会いしてない。彼の音楽活動のことも知らない。
訃報を知りちょっと寂しい気がしている。ご冥福をお祈りします。



で、本題。

今回は和製フォークではなくアメリカのフォーク歌手の話である。

10月からNHKで「THIS IS US 36歳、これから」というドラマが始まった。
2016年にアメリカのNBCで放送されたドラマで、ゴールデングローブ賞、
批評家協会テレビジョン賞、プライムタイム・エミー賞、全米映画俳優組合賞、
にノミネートされ、好評を博している。






物語はケイト、ケヴィン、ランダルの三つ子の生い立ちと成長と苦悩、36歳に
った現在のそれぞれの岐路、家族の絆が描かれている。

三兄弟が生まれた1980年、成長期の1989年〜1995年、そして現在(2016
年〜2017年)と、エピソードは過去と現在を行き来する。
舞台はピッツバーグ、ロサンゼルス、ニュージャージー、ニューヨーク。



近年に珍しいくらい静かで知的で、人生という大きな川の流れを思わせる作品
で、久々に心の琴線に触れるドラマを見たという気がする。

そして劇中で流れる音楽がとてもいいのだ。
その多くは1960〜1970年代のフォーク、ロック。だから惹かれるのだろう。



特にエピソード3で繰り返し流れる曲が心に染みる。これ、何だっけ?
聴いたことがあるけど思い出せない。

聞き取れる歌詞でググッたら「Blues Run The Game」という曲だった。
ジャクソン・C.フランクという人の曲で本人が歌っている。



↑ジャクソン・C.フランクの「Blues Run The Game」が聴けます。




Blues Run The Game


(Jackson C. Frank 拙訳:イエロードッグ)


Catch a boat to England, baby Maybe to Spain
イギリス行きの船に乗ろうよ スペインでもいいけどさ
Wherever I have gone Wherever I've been and gone
どこへ行っても 僕がどっかに行っちゃったとしても
Wherever I have gone The blues are all the same (1)
どこへ行こうと ブルーな気分は変わらない 

Send out for whiskey, baby Send out for gin
ねえ、ウィスキーを持ってきてくれないか、ジンでもいいんだ
Me and room service, honey Me and room service, babe
僕とルーム・サービス そして君
Me and room service Well, we're living a life of sin
僕とルーム・サービス そう、僕らは罪を背負って生きている

When I'm not drinking, baby You are on my mind
酒を飲んでいない時は 君のことを思う
When I'm not sleeping, honey When I ain't sleeping, mama
僕が眠ってない時 眠ってない時はね
When I'm not sleeping You know you'll find me crying
眠ってない時は 僕が泣いてるってわかるよね

Try another city, baby Another town
他の街に行ってみようか 小さい街でもいいんだ
Wherever I have gone Wherever I've been and gone
どこへ行っても 僕がどっかに行っちゃったとしても
Wherever I have gone The blues come following down
どこへ行こうと ブルーな気分は追いかけてくる

Living is a gamble, baby Loving's much the same
生きることは賭けだよね 愛だって似たようなもんさ
Wherever I have played Whenever I throw them dice
どこで賭けをしても どこでサイコロを振ろうが
Wherever I have played The blues have run the game
どこかで生きようとしても ブルーな気分がつきまとう

Maybe tomorrow, honey Someplace down the line (2)
ねえ、もしかしたら明日 いつかある時
I'll wake up older So much older, mama (3)
僕は老いて目を覚ますんだ すごく歳をとってね
I'll wake up older And I'll just stop all my trying
僕は老いて目覚める そして何も求めなくなるんだろう



ジャクソン・C.フランクは1943年にNY州バッファローの生まれ。
11歳の時、通っていた小学校が火事に遭う。

同級生15人の死。
彼自身も火傷を負い、数ヶ月の入院生活を送ることになる。
この経験がトラウマとなり、ジャクソン・C.フランクの人生につきまとった。
額に残った火傷の痕とともに。

1964年に保険金がおり、その金でイギリスへ渡航。フランクが21歳の時だ。
ロンドンでは、ポール・サイモンがルームメイトだった。






同年サイモン&ガーファンクルでデビューしたものの鳴かず飛ばず。
アート・ガーファンクルは大学院に戻り、ポール・サイモンはヨーロッパを放浪。
その後ロンドンで現地の音楽シーンに刺激を受け単身で音楽活動をしていた。(4)

二人は同じ屋根の下で音楽談義をし、お互いに影響を与え合ったのだろう。
フランクの演奏スタイルはポール・サイモンに通ずるものがある。


翌1965年ジャクソン・C.フランクはロンドンのCBSスタジオでレコーディング
を行い、アルバム「Blues Runs The Gam」を発表。
プロデュースはポール・サイモン。
英国コロンビアにフランクを売り込んだのもサイモンだった。


1965年といえばビートルズ、それに続くブリテッッシュ・インヴェイジョンの
にやられっぱなしで、アメリカのロック、フォークは元気がなかった頃。

逆にイギリスではこの時期から、バート・ヤンシュ、ジョン・レンボーン、ロイ
・ハーパー、フェアポート・コンベンション、ドノヴァンらによるフォーク・
リヴァイバル始まっていた。

ジャクソン・C.フランクがデビューしたのもその波に乗れたせいかもしれない。
しかし彼が残したのは、このアルバム一枚だけだった。



一方ポール・サイモンが渡英中、プロデューサーのトム・ウィルソンがアルバム
収録曲「The Sound of Silence」に独断で12弦エレキギターやドラムなどを加え
(5)シングル発売したところ、フォークロックの潮流に乗り大ヒット。

サイモンは帰国後、ガーファンクルとともにこのシングル・ヴァージョンを含む
2枚目のアルバム「Sounds of Silence」のレコーディングの制作にかかる。



このセッションでジャクソン・C.フランクの「Blues Runs The Game」の
カヴァも録音されたが、アルバムに収録はされなかった。
ウィスキーを持ってきてくれ、ジンでもいい、サイコロを振る、など男臭いと
いうか泥臭い詩がイメージに合わない、と判断したのかもしれない。


このテイクは1997年発売の3枚組アルバム「Old Friends」に未発表曲として
収録され、その後アルバム「Sounds of Silence」が2001年にリマスターされ
た際にボーナス・トラックとして収録された。

僕がこの曲を知っていたのはこのS&G版を聴いていたからだった。




↑サイモン&ガーファンクル版「Blues Run The Game」が聴けます。



バート・ヤンシュも1975年のアルバム「Santa Barbara Honeymoon」で
この曲をカヴァーし、ライヴでも好んでしばしば演奏している。

1982年のアルバム「Heartbreak」が2012年にリマスターされた際、LAの
マッケイブス・ギター店頭で行われたライブ(おそらく1982年当時だろう)
がDisc 2として収録された。
「Blues Runs The Game」の弾き語りも聴ける。




↑ヤンシュの「Blues Run The Game」。'73年ノルウェーのTV出演映像。



その他ジャクソン・C.フランクと恋仲だったサンディー・デニー、ジョン・
ンボーン、ニック・ドレイク、ジョン・メイヤーらもカヴァーしている。
が、ジャクソン・C.フランク本人の歌が一番心に染み入る



フランクの唯一のアルバムのB面1曲目「Milk And Honey」も味わい深い。
ただしアルバムを通して聴くと単調で飽きる。(6)
フォークソングとは元来こういうものなのかもしれないが。

この辺が美しくキャッチーな作曲力、知的な詩、幅広いアレンジ力、ハーモ
ニーでメジャーになっていったポール・サイモンとの分岐点だったのか。



ジャクソン・C.フランクは音楽活動から遠ざかり、入退院を繰り返した。
左目を失明。1999年に56歳で亡くなっている。



↑ジャクソン・C.フランクの「Milk And Honey」が聴けます。


<脚注>

2017年8月18日金曜日

急がば廻れ。

BS-TBSで日曜の夜に「 SONG TO SOUL」という番組を放送している。
アーティストのブレイクスルーにつながった「名曲、名アルバム」の誕生秘話
について関係者の話をもとに明らかにしていく、という内容だ。
http://www.bs-tbs.co.jp/songtosoul/schedule/

「輝く星座」フィフス・ディメンション、「Room 335」ラリー・カールトン
は、新事実も知ることができて面白かった。



先週は「ウォーク・ドント・ラン」ベンチャーズ
番組でドン・ウィルソン本人が語っていた結成のいきさつが興味深かった。

中古車ディーラーに勤めていたドンは客の一人、レンガ職人のボブ・ボーグル(1)
と親しくなる。
ボブの車のリアシートにギターが積んであったのを見たドンは「君もやるのか?
じゃあ、一緒にやろうぜ!」と誘う。


最初は2人のユニットでボブがリードを弾き、ドンがリズムギターを担当した。
ベースやドラムがいないため、弦を掻き鳴らす歯切れのいいコードストローク
のバッキングをやるようになったそうだ。

二人は地元シアトルのパーティやクラブで演奏するようになる。
「Walk Don’t Run」という曲をやってみよう、ということになった。



「Walk Don’t Run」は1955年にジャズ・ギタリスト、ジョニー・スミスが作曲し
録音した曲である。(2)


↑ジョニー・スミスの「Walk Don’t Run」が聴けます。



チェット・アトキンスが2年後の1957年にカヴァーしている。


↑チェット・アトキンスの「Walk Don’t Run」が聴けます。


ドンとボブが聴いてレパートリーに加えようとしたのはチェットの演奏だ。
が、ギャロッピング・スタイルのフィンガーピッキングで、ベース音、コード音、
メロディーを同時に弾くという高度なテクニックが要求される。

ドンとボブはフラットピッキングしかできないし、チェットの演奏は難しすぎて
弾けなかった。
それでメロディーとコード、ベースのバッキングを分解し単純化
スピード感あるロックにアレンジし直した。これがうまく行った・



彼らの「Walk Don’t Run」は好評で「今の曲は何だい?もう一回やってくれ」と
リクエストも多く、一晩に5回演奏したこともあったそうだ。

ドンの母親の資金援助を受けプライベートレーベル BlueHorizon を立ち上げ、
1960年には2枚目シングル「Walk Don’t Run」をレコーディングする。
後に加入するノーキー・エドワーズがベースを担当し、ドラマーはスキップ・
ムーアというクラブ・ミュージシャンを雇った。


「Walk Don’t Run」は地元シアトルのラジオ局がニュース番組のテーマ曲として
使用したことから火がつき、ビルボード誌のヒットチャート第2位を記録。
大手のリバティー・レコードと契約が決まり、再発売された。



↑1960年8月TV出演時に演奏した「Walk Don’t Run」が聴けます。
ドンはストラト、ボブはジャズマスター、ノーキーはプレシジョン・ベース。
ドラムは2代目のホーウィー・ジョンソン。
後の「エレキの若大将」の横揺れのステップ、途中のターンはこのベンチャーズ
が元ネタだったんだなあ。。。。


その後リードギターがボブからノーキーに交代。
バック・オウエンスのバンドで完成されたスタイルを持っていたノーキーに任せ
た方が将来的にいい、というボブの判断だったらしい。(3)
そして3代目のドラマー、メル・テイラーを迎えて黄金時代の四人が揃う。


ベンチャーズは1964年に新バージョンの「Walk, Don't Run '64」を発表。
二度目のヒットを記録。


日本でベンチャーズがブームになったのはこの頃だったと思う。
僕は小学生だった。
ちゃんとレコードで聴いたのは中学生になってからだった。

昔の邦題は「急がば廻れ」だったっけ。
誰かが4曲入りのコンパクト盤(EP盤)(4)を持ってて聴かせてもらった記憶がある。
そう、これこれ↓
↑1966年日本公演時での新バージョンの「Walk Don’t Run」が聴けます。
ギターとベースはパールホワイトのモズライト(5)、アンプはフェンダーのツイード。
ドラムは3代目のメル・テイラー。音がぐんとダイナミックになっている。


アメリカ人はYeah!、Wow!と客席で踊るのだが、日本人は座っておとなしく聴いて
終わると拍手する、とても礼儀正しいと彼らは思ったそうだ。


番組はベンチャーズにあまり明るくない僕でも充分楽しめた。
しかし、残念な点が二つあった。


一つはこの番組が存命者のインタビューを元にしているせいか、故メル・テイラー
についてほとんど語られなかった点である。



ベンチャーズを聴いた人はダイナミックなサウンドとグルーヴ感に圧倒され、次に
ノーキーのリフのカッコよさに惚れ込むはずだ。
もう少し聴き込む、自分たちでもやってみるとワイルドなドンのリズムギターと
ボブのリードギターのようなシャープなベースが屋台骨であることに気づく。

そしてライヴ盤を聴く、生で見てメル・テイラーの正確かつ迫力あるドラミングに
唖然とするはずだ。
グレッチ製のシンプル極まりない小さなセットであのすごい音を出すなんて!

優れたバンドに鉄壁のリズム隊あり、とはよく言ったものだ。



1965年の日本公演盤のメル・テイラーの圧巻とも言えるドラミングを聴きながら、
はて、この不思議なデジャヴ感は何なんだろう?と思ったことがある。

しばらくして分かった。スティーヴ・ガッドに似ているのだ。
ガッドは自分のルーツはマーチングドラムとベンチャーズだと語っていた。
ウィル・リー、ジョン・トロペイ、デビッド・スピノザと共にベンチャーズのカヴ
ァー・アルバムを発表した(6)こともあるくらいだ。


メル・テイラーはジーン・クルーパーに心酔していたようだが、むやみにフィルイン
やソロを入れることもなく、スネア中心で4拍目でリムショットを入れる、ハイハッ
ト、ライトシンバルの連打とベンチャーズでの演奏は要所要所でセンスが光っていた。

ガッドの特徴の一つ、左手でハイハットを刻みつつ2拍、4拍を同じ左手でスネアを
叩く、その間右手はまったく別なことをやっている、という離れ技はメル・テイラー
の発展形ではないか、と僕は密かに思っている。





もう一つ、残念だった点。
新しいサウンドに飢えていた日本の若者の心をベンチャーズが動かしたという点、
ノーキーの後任でエルヴィスやモンキーズのバックで演奏し幅広い音楽性を持って
いたジェリー・マギーによる「ベンチャーズ歌謡」路線が日本での人気を不動のも
のした、という点は異論はない。


が、ベンチャーズが日本人に受け入れられたのは、もともと彼らのメロディーに
「泣き」があったからだ、という大事な点が抜けていた。
「パイプライン」「10番街の殺人」「ダイアモンドヘッド」も演歌・歌謡に通ずる
「泣き」があるのだ。


大ヒットした「ダイアモンドヘッド」のサビなんて祭囃子みたいではないか。
もともと日本人が親しみやすい要素があったのだと思う。

反対に「泣き」がないビーチボーイズは日本では受け入れられなかった。
僕だってコテコテの日本人だ。
ビーチボーイズが素敵だと思えるまでにはそうとう時間がかかったしね。



最後に、僕の「「Walk Don’t Run」」体験を振り返ってみよう。

最初は加山雄三とランチャーズの「ブラックサンド・ビーチ」(7)だった。
「Walk Don’t Run」のコード進行を逆にして作った曲だそうでカッコいい。

加山と寺内タケシはノーキーからもらったモズライトを愛用していた。
「エレキの若大将」の前半では「勝ち抜きエレキ合戦」のスポンサーであった
テスコのギターを使用しているが、後半モズライトも使用している。



↑加山雄三とランチャーズの「ブラックサンド・ビーチ」が聴けます。

次にベンチャーズの「Walk, Don't Run '64」、最初の「Walk, Don't Run」、
大人になってからチェット・アトキンス、最後にジョニー・スミスのオリジナルを
聴いた。つまり後からオリジナルへと遡って行ったわけだ。
どれが好きか?と言われると・・・うーん、それぞれいいんだよねー。

<脚注>