2022年3月29日火曜日

サーフロックの起源/日米で違うベンチャーズの捉え方。

ドン・ウィルソン追悼、2回目はインスト・サーフロックの誕生とベンチャーズ、
アメリカと日本で異なるベンチャーズの位置付け、について深掘りしようと思う。




<サーフロックの起源>

サーフロック、サーフミュージックという言葉が使われるようになったのは1960
年代に入ってからである。
それまでのサーファーたちラジオから流れるロックンロールやポップスをふつうに
聴いていたのだろう。サーファーのための特別な音楽というジャンルはなかった。


1978年公開の映画「ビッグ・ウェンズデー」は1960年代初め、カリフォルニア
を舞台としたサーファーの物語である。

挿入歌は1960年前後にヒットしたR&Bばかりだった。
ビーチボーイズやベンチャーズ、アストロノウツなどのサーフロックが一世風靡
する前という設定なのだろうか。(1)





最初のサーフロックは1960年ベンチャーズがヒットさせた「ウォーク・ドント
ラン」だと言われている。
本人たちが意図したわけではないだろうが、彼らはインストのサーフロック、また
はサーフミュージックとカテゴライズされることになる。

ベンチャーズを起源とするインストのサーフロックとは、1950年代後半に流行した
ロックンロールを基調としたスピード感のあるロックで、多くの場合エレクトリック
・ギターを主役とした演奏である。


サーフロックは1960年から流行り出したツイスト(チャビー・チェッカーがヒット
させた「ザ・ツイスト」がきっかけ)を踊りやすいこともあり全米に広まった。
(1960年代半ばにツイストからゴーゴーが主流になる)





インストのサーフロックはいくつかのグループが出現しブームとなる。
波の音を彷彿させるサウンドを表現するために、フェンダー・アンプに搭載された
「ウェット」というスプリング式リヴァーブが用いられた。


その一つがディック・デイル&ヒズ・デルトーンズの「ミザルー」(1962年)。
この人は全米ではたいしたヒットがないが、西海岸では毎週末2000人を集める
ローカルヒーローだったらしい。
タランティーノ監督の「パルプ・フィクション」(1994年)でも使用された。



西海岸のサーフロック・バンド、シャンテイズの「パイプライン」(1963年)は
エレピとエレキによるghostly(幽霊のような、ほんやりした)サウンドが特徴。
(Pipelineとはオアフ島のノースショアにあるサーフポイントで、6~9m級の波の
きさや質が世界一とも称される)



↑クリックするとシャンテイズの「パイプライン」が聴けます。




↑ベンチャーズの「パイプライン」と聴き比べてみてください。



同じく西海岸からサーファリーズの「ワイプ・アウト」がヒット(1963年)。
(ちなみに原題のWipe Outはサーフィン用語で「波乗り中こけること」)



↑クリックするとサーファリーズの「ワイプ・アウト」が聴けます。





↑ベンチャーズの「ワイプ・アウト」と聴き比べてみてください。



シャンテイズもサーファリーズも西海岸のハイスクール・ガレージバンド。
演奏は良くも悪くもチープである。
2曲とも翌年ベンチャーズがカヴァー。実力の差は歴然で持って行かれてしまう。
今では完全に「ベンチャーズの代表曲の1つ」になっている


アストロノーツはRCAがサーフロックの波に乗って売り出したグループである。
リー・ヘイズルウッド作曲の「太陽の彼方に(Movin') 」が1963年にヒット。

深いリバーブをかけビンビン鳴るギターと駆り立てるドラムビートが特徴。
8小節からなるメロディを転調しながら延々と反復し続ける構成。
何も考えない人が踊るにはうってつけだった。翌年、日本でも発売されヒット。



↑クリックするとアストロノーツの「太陽の彼方に(Movin') 」が聴けます。



そんな中、ベンチャーズの実力と存在感は頭一つ抜けていた
上述のグループは消えていくが、ベンチャーズの人気は衰えなかった。


大西洋を挟んでイギリスではシャドウズがギター・インストの4ピース・バンド
としてベンチャーズと対峙する存在になっていた。
(この人たちはサーフロックとは呼ばれなかった)

ベンチャーズとかぶるカヴァー曲も多い。サウンドはクリーン+リバーブ。
(ギターはバーンズ、フェンダーのストラトキャスター。 アンプはVOX AC-30)





<ボーカル・サーフの登場>

ベンチャーズを筆頭とするインスト・バンドが人気を博す一方、ダイレクトに
サーフィンのことを歌うボーカル主体のグループも現れ人気を博した。
インストと同じくロックンロールを基調としながらもより明るく軽快で楽しい曲
感傷的なバラードが中心である。

1962年にはビーチボーイズがデビュー。
サーフィン、ホットロッド(改造車)、海、女の子、サウス・カリフォルニアを
題材にした(2)美しいコーラスワークで、次々ヒットを飛ばした。





ビーチボーイズもサウンド的にはフェンダーのギター、フェンダーのアンプの
リバーブを効かせたペケぺケ・サウンドで波の音を表現していた。
(もっともビーチボーイズはライブでは本人たちが演奏しているが、レコーディ
ングではレッキング・クルーが演奏したオケに歌だけ入れることが多かった)


先にデビューしていたジャン&ディーンも、ビーチボーイズに刺激を受けサーフ
ロック路線になる。(3)






<ベンチャーズがアメリカのロック・シーンで果たした役割>

ベンチャーズは1964年頃からレコーディングで実験的なサウンドを試みるよう
になり(次回、深掘りする予定)、アニマルズやビートルズ、サーチャーズ、
ゾンビーズといった英国勢のカヴァーなど、レパートリーを広げる。


1965年にはサーフロックという形容は後退し、ベンチャーズは幅広い曲をエレキ
インストにアレンジして演奏するバンドとして認識されるようになって行く。






ベンチャーズがアメリカのロック史の中で果たした重要な役割は、エレキギター
のみで編成されたインスト・バンドの草分けだったということである。
エレキギター2台、エレキベース、ドラムによる最小単位のコンボ編成で、それまで
の歌の添え物としての演奏ではなく、バンドの演奏自体を主役として聴かせた点が
斬新であった。

つまりベンチャーズは、エルヴィス、バディ・ホリー、エディ・コクラン、チャック
ベリーなど1950年代のロックンロールから1960年代の多様なロックへの橋渡し
的役割を担ったといえる。




<日本のベンチャーズ・ブームと音楽史に与えたインパクト>

1965年の2度の来日で日本に一大ムーヴメントを巻き起こしたベンチャーズ。


      

                            (1965年 週刊明星)


彼等が日本の音楽シーンに残した影響力は、いくら評価してもし過ぎることはない。
ベンチャーズが現れなかったら、日本の音楽の歴史は全く違うものになっていたろう。

今日この国でこれほどまでにロックが聴かれ、広く演奏されるようになった経緯は
ベンチャーズ抜きでは語ることが出来ない。

ロックに関する情報が少なく誰もがビギナーであった当時の日本において、ベンチャ
ーズはエレキギターへの大きなモチベーション、最高の入門テキストであった

       (山下 達郎「ザ・ヴェンチャーズ・フォーエヴァー」より引用および加筆)

渡辺香津美、鈴木茂、高中正義、Charも最初はベンチャーズと言っている。




          (「ザ・ベンチャーズ '66 スペシャル~愛すべき音の侵略者達」より)



<日本/アメリカにおけるベンチャーズの評価>

これだけ大きな足跡を残しているにもかかわらず、今の日本でベンチャーズに対する
音楽史的評価は必ずしも正当とはいえない

ブームがあまりにも凄まじかったため、ベチャーズがロック史上最も傑出したインス
トゥルメンタル・バンドの一つであるという認識がある時点から抜け落ちてしまった


当時、日本におけるべンチャーズ人気は、アメリカやイギリスでのそれをはるかに上回
る、熱狂的なものであった。

なぜ日本だけあれほどの大ブームを巻き起こしたのか?そして今も続く根強い全国的な
人気を保持し続けているのか?考えてみれば不思議だ。
要因はいくらでも挙げられるが、今だに決定打となる答えを探すことは難かしい。

       (山下 達郎「ザ・ヴェンチャーズ・フォーエヴァー」より引用および加筆)






ブームが日本だけの特殊なケースであったことから、ベンチャーズの日本での活動は
次第にアメリカ本土とは異なったものとなって行く

日本のマーケットを狙ったシングルやアルバムが発売されるようになり、日本全国を
回るツアーが毎年行われるようになる。
加山雄三ら日本の歌手のヒット曲のカヴァーや、「二人の銀座」「京都の恋」などの
オリジナル作品、いわゆるベンチャーズ歌謡が生まれた。







日本受けするアプローチが成功すればするほど、本来のアメリカのロック・バンドと
しての存在感は逆に低下して行った

アメリカにおいては、べンチャーズが一時期に人気があり、ロック史上重要な役割を
果たしたことは評価されてるものの、今もって人気があるとは言い難い。
日本の歌謡史の中でのべンチャーズの役割は語られるが、アメリカ・ロック史での
位置付けは未整理のまま現在に至っている。


これが災いして、日本においても間違った認識が生まれた。
ベンチャーズは1960年代当時の日本の未成熟な音楽シーンにうまくハマっただけで、
アメリカ本国では本当はたいしたバンドではない、という偏見。
さらに、毎年日本に出稼ぎに来る時代遅れの懐メロ・バンドみたいな捉え方だ。

       (山下 達郎「ザ・ヴェンチャーズ・フォーエヴァー」より引用および加筆)



夏だ!エレキだ!ベンチャーズ・・・ってこれじゃオッサンの夏祭りだ。



<サーフ・ロックは終わったか?>

1967年の6月モンタレー・ポップ・フェスティヴァルでジミ・ヘンドリックスがステー
ジで「サーフィン・ミュージックは終わった」と言ったことで、サーフロック=ダイナ
ソー・ロック(時代遅れのロック)のレッテルが貼られてしまう。





ジミの発言には理由があった。
当初メインアクトとして参加予定だったビーチボーイズが、フリー・コンサートに
なることが決定し、ギャラがもらえないこと、ヒッピーの集まりになりそうなことを
理由に出演を辞退した。
そのビーチボーイズを揶揄してのことだった。(4)




この発言はベンチャーズを指したものではないが、巻き添えを食って一緒くたにダイ
ソー・ロック視されてしまった感は否めない。

実際にこの頃サージェント・ペパーズを発表したビートルズ、ジミ・ヘンドリックス
やクリーム、翌年にデビューするツェッペリンと比べると、ベンチャーズのサウンド
はいささか時代遅れに聴こえてしまうのも事実だ。



しかしベンチャーズの影響はアメリカでも次世代にしっかり受け継がれていた。
1970年代後半に隆盛を極めたフュージョン、AORの名うてのミュージシャンたち
もベンチャーズがルーツだと公言している。

その中にはスティーヴ・ガット、ウィル・リー、デヴィッド・スピノザ、ジョン・
トロペイといったニューヨークの売れっ子のミュージシャンもいた。
後にハイパー・ベンチャーズというユニットでアルバムを発表している。(1992年)



↑クリックするとハイパー・ベンチャーズの「キャラバン」が聴けます。



<ベンチャーズは人々の記憶に生き残れるか?>

ベンチャーズ最盛期のメンバーが一人もいなくなり、リアルタイムでベンチャーズ
体験をした人たちが高齢者となっている昨今。
これからベンチャーズはどのように語り継がれて行くのだろうか。

若いミュージシャン、リスナーにもベンチャーズを聴いてもらいたいものだ。
パクるもよし。サンプリングに使うもよし。ビニール盤懐古趣味から入ってもいい。
きっと得るものがあるのではないかと思う。


<続く>


<脚注>

2022年3月22日火曜日

サイドマンとしてリズムを刻み続けたドン・ウィルソンが他界。

 ベンチャーズの創設メンバーで最後の存命者、ドン・ウィルソンが亡くなった。
享年88。死因は老衰。4人の子供たちに見守られ安らかに息を引き取ったそうだ。
ご冥福をお祈りします。



ドンはリズムギター担当。
ノーキー・エドワーズのリードギターを支える、いわば名バイプレーヤーだった。

ドンと一緒にベンチャーズを結成しベースを担当をしてたボブ・ボーグルはリンパ腫
の闘病の末、2009年他界している。


圧倒的なテクニックを誇ったリードギターのノーキー・エドワーズは2018年に術後
の合併症により死去。
鉄壁のドラムのメル・テイラーは1996年来日中に肺癌が発覚。帰国後、他界。

ノーキー脱退後、代わりにリードギターとして加入し、幅広い音楽性とベンチャーズ
歌謡という新ジャンルをもたらしたジェリー・マギーは、2019年ソロで来日中に心臓
発作を起こし死亡。都内の桐ヶ谷斎場で荼毘に付された。


これでベンチャーズ黄金期のメンバーは1人もいなくなった。そう思うと寂しい。
天国で5人は再会しまた演奏しているのだろうか。


ベンチャーズは1959年のデビュー以来、何度もメンバーが入れ替わっている。
その中で創設メンバー、ドンとボブの2人は一度もバンドを離れることはなかった。
メンバーの変遷があってもドンとボブがいる限りベンチャーズなのだ。

    



ボブ他界後もドンはベンチャーズを支え続けた。
(2015年の来日を最後にツアー参加を引退したがレコーディングは継続してた)


    
<ベンチャーズ・サウンドはリードギター+リズムギターが中核>

ドン・ウィルソンとボブ・ボーグルの出会いがベンチャーズの始まりである。
中古車のセールスマンだったドンの店にレンガ職人のボブが車を探しに来た。
2人はすぐ仲良くなり、お互いにギターを弾くことを知る。
一緒に何か始めてみないか?とすぐ意気投合。

ギター2人というシンプルなデュオを組んだ。1958年のことである。
ベンチャーズ・サウンドの中核はリードギター+リズムギターの組み合わせだ。




2人は地元タコマのナイトクラブに出演し腕を磨いて行く。
ドンはチェット・アトキンスのウォーク・ドント・ラン(原曲はジョニー・スミス)
を弾いてみようと試みるが難しすぎて断念。2台で弾いているように聴こえたという。
そこで分解しドンがコード、ボブがメロディと分担。アップテンポにリアレンジした。
この分かりやすさとスピード感からクラブで演奏すると受けるようになる。

ドラマーとベーシストが加わり4ピースのインスト・バンドとなった。
(ノーキーは当初ベース担当として参加した)

バック・オウエンスのバンドでキャリアを積み多彩なテクニックを持つノーキーなら
ジョニー・スミス風もチェット・アトキンス風もモノにできたはずだ。
しかしボブ+ドンのシンプルなロック・ヴァージョンだからこそ、1960年発売の
ウォーク・ドント・ランは全米2位を記録するヒットとなったのだと思う。



<ドン・ウィルソン奏法-1 ストラミング(コード・カッティング)>

ドンのリズムギターは独特でパワフルである。
リズム・セクションがなかったため、ドラムの役割もできないかいう試みから、
コードを叩きつけ時にかきむしるるようなハードなストラミングになったそうだ。

力強いダウンピッキングで8ビートを刻み、1拍は16ビートというパターンが多い。
1970年代半ばから隆盛を極めたフュージョンやAORで多用されたお上品な16ビート
とは違い、もっと荒々しくかき鳴らすジャカ弾きである。
ドン・ウィルソンは頻繁に弦を切った、と言っている。そりゃそうだ。


たとえばウォーク・ドント・ランのイントロ。

♬ ♪  -   ♬ ♪   -   ♬♬♪ - 
↓↓↓     ↓↓↓       ↓↓↓↓
Am      G          F    E



10番街の殺人のイントロ。

♬♬    -   ♪   -  ♪ ♪   -  
↓↑↓↑      ↓      ↓↓
D



↑こんな教則レコードも出ていた。
ベンチャーズがきっけでエレキという若者はアメリカでも多かったようだ。







<ドン・ウィルソン奏法-2 トレモロ・グリッサンド(テケテケテケ)>

ベンチャーズのトレードマークともなった連続ピッキングで6弦を降下する奏法
日本ではテケテケテケで親しまれてるが、トレモロ・グリッサンド(スライド
グリッサンド)という。波のうねりを表現するための奏法らしい。




ベンチャーズは曲によってノーキーがやる場合とドンがやる場合がある。
このトレモロ・グリッサンド。人によってやり方が違う


ギター・マガジンのインタビューと萩原健太氏がドン本人に訊いた話をまとめると、
ドン・ウィルソンのトレモロ・グリッサンドのコツは。。。

・6弦のブリッジあたりを右手の掌でミュートし、ボディに腕をくっつけて弾く。
低音弦のミュートのさせ方はとても大切なテクニック。
厚めのピックを使用。まっすぐでは駄目で45度の角度で斜めにピックを当てる
・ピックを自由に動かしまくりながら左手の人差し指を6弦上でスライドさせる。
・リバーブをたっぷり効かせる。アンプのリバーブのノブは半分くらいまで回す
(リバーブのかかり具合は会場ごとに音が異なるので、リハーサル時メンバーの誰
 かが客席まで降りてサウンドを確認していた)




※ベンチャーズのトレモロ・グリッサンドの迫力はモズライトの大出力ピック
アップとフェンダーのアンプに搭載されてたリバーブによるところが大きい。




これに対して加山雄三は薄いピック、太い弦でやっていた。
寺内タケシは左手の人差し指と中指を交互に動かしながら6弦の上を滑らせた方が
きれいに音が出る、と言っている。

テケテケテケもいろいろあって奥深いのだ。


ベンチャーズのトレモロ・グリッサンドは頭にタメというか半拍くらい間がある
(ん)テケテケテケ・・・・という感じ、といえばいいだろうか。

そして野太い音で一気に降下して行くが、拍で割り切れない長さがある。
だんだん音が消えて行くのがまた哀愁。余韻があっていい。






<ドン・ウィルソンが語ったベンチャーズのこと>

ギター・マガジン2018年6月号に掲載された記事が公開されてる。必見です!

追悼 ドン・ウィルソン(ベンチャーズ)ギター・マガジン最後のインタビュー
https://guitarmagazine.jp/interview/2022-0124-rip-don-wilson/



ボブ・ボーグルとの出逢い、ジャズマスターとストラトを選んだ理由、初来日、
フェンダーのアンプを使うようになった経緯、モズライトの音、音作りの方法、
アレンジについて、リズムギターの重要性、ノーキーのこと、などなど。
興味深いエピソードがたっぷり載っている。





インタビューの最後でドンはこう語っていた。

「日本の各地にベンチャーズのコピー・バンドがいることを誇らしく思う。
京都ベンチャーズ、広島ベンチャーズ、東京ベンチャーズ、札幌ベンチャーズ。
これってすごいことだ」と。

いやいや、そんなの序の口ですよ、ドン・ウィルソンさん。
池袋ベンチャーズ、荻窪ベンチャーズ、春日部ベンチャーズ、鎌倉ベンチャーズ。
もっともっとディープに細分化してます。
僕は転職を重ねたけど、どの会社にも取引先にも1人くらいは「ベンチャーズの
コピバンやってます」という人がいた。
しかもリアルタイム世代だけでなく追体験した若い人たちまでいる。
これって本当にすごいことだと思う。


<続く>


<参考資料:ギター・マガジン、ミュージックライフ・クラブ、 BS音盤夜話、
Wikipedia、他>

2022年2月28日月曜日

ビートルズ、エド・サリヴァン・ショー初出演の1曲目は?


 
<1964年2月エド・サリヴァン・ショーで演奏された曲>


1回目の出演 1964年2月9日夜、ニューヨークCBSスタジオ 生中継

1. オール・マイ・ラヴィング
2. ティル・ゼア・ウォズ・ユー
3. シー・ラヴズ・ユー
4. アイ・ソウ・ハー・スタンディング・ゼア
5. アイ・ウォント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド(抱きしめたい)


2回目の出演 1964年2月16日夜、マイアミ・ドーヴィルホテル 生中

1. シー・ラヴズ・ユー
2. ディス・ボーイ
3. オール・マイ・ラヴィング
4. アイ・ソウ・ハー・スタンディング・ゼア
5. フロム・ミー・トゥ・ユー
6. アイ・ウォント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド(抱きしめたい)


3回目の出演 1964年2月23日録画放送(2月9日、CBSスタジオで収録)

1. ツイスト・アンド・シャウト
2. プリーズ・プリーズ・ミー
3. アイ・ウォント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド(抱きしめたい)




<1回目の出演の1曲目がオール・マイ・ラヴィング」だった理由>

「街がこんなに興奮しているのは初めて」というエド・サリヴァンの紹介に続き、
1曲目に演奏したのはポールが歌う「オール・マイ・ラヴィング」だった。





ちょっと意外であった。
景気づけに一発目は(1964-1965ツアーのオープニング曲の)ツイスト・アンド・
シャウトをかますか、この後のワシントンDCのオープニングでジョージが歌った
ロール・オーヴァー・ベートーヴェン、といったノリのいいロックンロールで行き
そうなものだが。


以前読んだ記事で(たぶんレコード・コレクターズではないかと思うが)どなたか
音楽評論家の方が「ブライアン・エプスタインの判断で好印象を与えるために優等
生のポールの曲を最初に持ってきたのでは」と書いていた。

それは違うと思う。
デッカのオーディションに落ちた後、エプスタインはジョンから「あんたは選曲
に口出しするな。俺たちが決める」ときつく言われている。
エプスタインが言えたのは「できるだけヒット曲を」とか「間奏はアドリブにしな
いように」「ステージでガムを噛まないように」くらいであった。





初めてアメリカの大衆の前で披露するのに「オール・マイ・ラヴィング」を選んだ
理由は、この曲があらゆる面で高度な自信作だったからではないだろうか。


小気味好い、弾むようなテンポに乗せて歌われる、きれいで明るいメロディ。
この曲はもともとコーラス部のAll My Loving〜から歌われていたが、ジョージ・
マーティンのアドヴァイスで、ヴァースからスタートするように変えた。
しかもイントロなし出だしのClose your〜の2拍は演奏もなしの歌のみ
Eyesから一気にスピード感のある演奏が始まる。これだけでもインパクト充分。

マーティン卿は最初に耳に入る音でリスナーをノックアウトするのに長けていた。
(「キャント・バイ・ミー・ラヴ」では逆にヴァースから歌っていたのを、Can't
 buy me loveから始めてみてはどうか、と的確な提案をしている)




↑1回目の出演の1曲目、オール・マイ・ラヴィングの冒頭部分が観れます。
(デジタル処理でカラー化されています)



「オール・マイ・ラヴィング」は演奏もキレがよくアイディアが詰まっている
ジョンによるヴァースでの歯切れのいい3連の早弾きコードカッティング
All my loving〜ではアフタービートのカッティングを強調したクリシェ。

ポールは4ビートのウォーキングベース。しかも歌いながらカウンターメロディー
のようなベースラインを正確に弾いている。歌のピッチも正確だ。
リンゴのドラムはハネ感のあるハーフ・シャッフルの8ビート
複雑なリズムを組み合わせて一体となったグルーヴ感ビートとメロディーの両立





きわめつけは間奏で見せたジョージのチェット・アトキンス奏法
間奏はヴァースと異なるコード進行なのも見逃せない。
最後のヴァースでポールにハモるジョージ。完璧なパフォーマンスだった。

ジョンとポールは自信に満ち溢れている。リンゴも余裕で楽しんでいる。
ジョージは堂々とした盤石のプレイ。(この時ジョージはまだ20歳である)





どうせビートルズなんてうるさいだけで実力の伴わないアイドルだろうとタカを
くくって見ていた人たちは、4人のレベルの高さに唖然としたに違いない。
ギター、ベース、ドラムのテクニックも当時の(レコーディングはスタジオ・ミュー
ジシャンに代行してもらってた)アメリカのポップ、ロックバンドより上手い。

それこそがビートルズの狙いだったのではないか。
「俺たちはそんじょそこらのロックンロール・バンドじゃないんだぜ」とアメリカ
の横っ面を引っ叩く
だから「オール・マイ・ラヴィング」だったのではないだろうか。

それに加え、ビートルズはとにかくカッコよかった。(1)スーツの着こなしも動きも。
2本のマイクを分け合い、曲によってポールとジョージが、ポールが歌うときはジョン
とジョージがもう1本のマイクに向かう。
左利きのポールとジョージまたはジョンがマイクを挟んでネックがシンメトリーにな
るのも美しかった。ビートルズには美学があったのだ。



↑本番前のドレスリハーサルと思われる。4人の衣装がばらばらである。



<2曲目のティル・ゼア・ウォズ・ユーも意外だった。>

続く2曲目もポールがボーカルを取る美しいバラード。
メンバー1人ずつの名前がテロップで入る。
ジョンの時は「Sorry Girls, He's married」と一言添えられていた。

「ティル・ゼア・ウォズ・ユー」はデビュー前よりポールのレパートリーとして、
ハンブルク巡業時代でも演奏していたお得意の曲である。

元々はブロードウェイ・ミュージカル「ミュージック・マン」の劇中歌で、1962
年に公開された同名の映画でも使用された。
アメリカでは馴染みのある曲だったのかもしれない。



↑映画版「ミュージック・マン」劇中歌のティル・ゼア・ウォズ・ユー。


しかしポールは「ミュージック・マン」劇中歌であることは後年まで知らなかった。
1961年にペギー・リーによるカヴァーを聴いて自身も歌うことにしたらしい。
ペギー・リーのヴァージョンはジャック・マーシャル楽団によるラテン~アフロキュ
ーバン・アレンジが陽気な「Latin Ala Lee!」というアルバムに収録されている。



↑クリックするとペギー・リーのティル・ゼア・ウォズ・ユーが聴けます。


ビートルズの「ティル・ゼア・ウォズ・ユー」はこのペギー・リーのヴァージョン
を参考にアレンジしたもので、ラテン・フレーバー(2)を感じさせる。



イギリスから来た4人組が騒々しいロックではなくラテン・アレンジのバラードを
演奏したことは意外性もあり、アメリカのお茶の間(?)では好意的に捉えられ
のではないかと思う。

もっともビートルズの狙いはそうした「受け」ではなく、幅広い音楽性と高度なテク
ニックを披露することにあったはずだ。
特にこのパフォーマンスでキーとなるのはジョージのギターである。
レコードではクラシックギターを演奏しているが、ライブではエレキギター用にアレ
ンジを少し変えている。




↑エド・サリヴァン・ショー出演時のティル・ゼア・ウォズ・ユーが観れます。


ディミニッシュ、オーギュメント、マイナー7th、マイナー9th、などふつうのロック
・バンドが使わないようなテンションコードをうまく多用している。
肝は間奏の最後不協和音の混じったコード。この響きが効いている。

コード名で言うとF#7 (add#9)。めったに使われない。
ちなみにその間、ジョンはC7を弾いている。
2つのコードは同じ構成音もあるが、濁る音も出てくる。それも計算づくだろう。


このF#7 (add#9)というコードは、リバプール時代、ジャズ・ギタリストが弾いてる
のを見て、ポールとジョージはバスに乗ってその人の家に教わりに行ったそうだ。

とっておきのコードで、ビートルズでは2回しか使わなかったとポールは言う。
この「ティル・ゼア・ウォズ・ユー」と「ミッシェル」のヴァースの2小節目。
(「ミッシェル」では5フレットにカポでF7 (add#9)を弾いている)
つい最近のインタビューでコード名はいまだに知らないと言っていた。
いかにもポールらしい(笑)


この2曲目でも音楽業界や音楽通の人たちを唸らせたはずだ。






<1回目の後半はノリのいいヒット曲>

3曲目はシー・ラヴズ・ユー。頭を振ってOooh!に女の子たちは絶叫する。
エド・サリヴァンと4人の会話、エルヴィスからの電報の紹介を挟んで、アイ・ソウ
・ハー・スタンディング・ゼア、アイ・ウォント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド
(抱きしめたい)とヒット曲で盛り上げ終わる。

尚、前半と後半はセットが変わる。大きな矢印のオブジェがあるのが前半。
後半は頭上と横に金属のバー、縦長のパネルがある。




↑クリックすると1回目の出演時の最後の演奏曲、「抱きしめたい」が観れます。



<2回目、マイアミでは1本のマイクでハモるディス・ボーイが絶品。>

ワシントン・コロシアム、カーネギー・ホールと2箇所でのコンサートを成功させ
た4人はマイアミに飛び、暖かい太陽を浴びリラックスする
そして2回目の出演、ドーヴィル・ホテルからの生中継に臨む






1曲目の「シー・ラヴズ・ユー」の後、1本のマイクをジョン、ポール。ジョージが
囲み3声でハモる「ディス・ボーイ」は絶品だ。
5曲目の「フロム・ミー・トゥ・ユー」もマイアミだけで演奏された。




↑断片的だけどマイアミ でのパフォーマンスが観れます。


ニューヨークCBSスタジオと比べて観客にきれいな女性が多く時々アップで映る。
ドーヴィル・ホテル滞在客なのか、当時のマイアミが別荘地で裕福な人が多かった
せいか、カメラさんがいい仕事をしてたのか。。。(笑)






尚、生中継は夜のショーであるが、昼間も観客を入れてリハーサルを行っており、
その映像も残っている。
リハーサルはエンジニアの調整のため楽器やボーカルのバランスが適正ではな
いが、演奏は本番と変わらない出来である)


アメリカは生中継であっても、時差がある地域の局には録画テープを送って同じ
時間帯に放送していた。
そのためビデオテープが残っていたわけだが、CBSで保存していた素材よりも、
エド・サリヴァンが自宅で保管していたテープの方が保存状態が良く画質もいい。
DVD化されたものはエド・サリヴァン所有テープをレストア(修復)してある。






<3回目の出演で演奏した3曲は「2月9日事前に」収録されていた。)

ビートルズは2月23日に3回目のエド・サリヴァン・ショーに出演しているが、
4人はその前日に既に帰国していた。
23日に放映された3曲は、2月9日の1回目生放送の前に収録されたものである。
セットは2月9日の前半、後半とは違い、縦長の曲線のある柱が組まれていた。


オープニング向きのツイスト・アンド・シャウト、プリーズ・プリーズ・ミー、
大ヒット中のアイ・ウォント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド(抱きしめたい)。
実際にスタジオで演奏した順番はこの3曲が先だったわけだ。




↑本番前のドレスリハーサルと思われる。



つまり実際に演奏した順でいうと。。。


1964年2月23日録画放送分(3回目の出演)を収録(2月9日、CBSスタジオ)

1. ツイスト・アンド・シャウト
2. プリーズ・プリーズ・ミー
3. アイ・ウォント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド(抱きしめたい)


1回目の出演 1964年2月9日夜、ニューヨークCBSスタジオ 生中継

1. オール・マイ・ラヴィング
2. ティル・ゼア・ウォズ・ユー
3. シー・ラヴズ・ユー
4. アイ・ソウ・ハー・スタンディング・ゼア
5. アイ・ウォント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド(抱きしめたい)


2回目の出演 1964年2月16日夜、マイアミ・ドーヴィルホテル 生中継

1. シー・ラヴズ・ユー
2. ディス・ボーイ
3. オール・マイ・ラヴィング
4. アイ・ソウ・ハー・スタンディング・ゼア
5. フロム・ミー・トゥ・ユー
6. アイ・ウォント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド(抱きしめたい)


ということになる。




↑2月9日に事前収録され、2月23日に放映されたツイスト・アンド・シャウト。


さすがのジョンも緊張してたのか、最初の演奏(2月23日録画放送分収録)の
1曲目、ツイスト・アンド・シャウトでは表情がやや硬い。


この後に生演奏した2月9日の1回目の方が余裕が見られる。
初登場での「オール・マイ・ラヴィング」「ティル・ゼア・ウォズ・ユー」で
肩の力が抜けて、笑顔で自信たっぷりなのもうなづける。




もちろん3回目分を先に収録することは事前に教えられていて、それも承知の上
で2月9日の最初の曲を「オール・マイ・ラヴィング」、2曲目を「ティル・ゼア・
ウォズ・ユー」に選んだのだろう。
そして3回目は前述の3曲でしめくくる、ということも。


賢明な選曲であり、結果的に大正解だったと思う。
3回のエド・サリヴァン・ショーの出演で全米にビートルズとは何者かを知らし
めたわけで、とりわけ1回目のお披露目でガツンと一発食らわせることが重要
だったのだから。
ビートルズのアメリカ征服(Beatles conquer America)は大成功だった。





<脚注>