↑一緒に来日したスキーター・デイヴィスと。ホテルの中庭と思われる。
チェットはダブルカッタウェイのカントリージェントルマンを持参。
<チェットが来日した1965年の日本>
チェット・アトキンスが来日したのは一度だけ。
1965年10月14日〜16日に開催されたパッケージ・ツアー、ポップ&
カントリー・フェスティバルに出演するためであった。
当時の日本は高度経済成長期の真っ只中。
前年1964年10月に東京オリンピックが開催され、東京の街が大きく
変わって行った時期であった。(1)
1965年1月にはベンチャーズ来日公演が若者に衝撃を与え、さらに
7月の再来日・全国ツアーでベンチャーズは一大ブームとなる。
エレキギターが人気を博し「勝ち抜きエレキ合戦」(2)が放送された。
12月に映画「エレキの若大将」(3)が公開され、エレキは社会現象と
なり、歌謡曲のサウンドにも影響を与えた。
チェット来日は1965年ベンチャーズの夏の全国ツアーの後である。
エレキギターがブームの最中、ノーキー・エドワーズにも影響を与
えたギターの神様が日本に来るのだから、もっと話題になってもよ
さそうなものだが、あまり人々の記憶に残っていない。
日本の音楽史にチェット来日がしっかり刻まれていないのが残念だ。
レコード業界の人に訊いても知ってる人は少なかった。
それはチェット・アトキンスがカントリーという日本ではマニアック
なジャンル(4)のギタリストであったからではないかと思う。
<ポップ&カントリー・フェスティバルとは>
チェットが出演したポップ&カントリー・フェスティバルとは何だっ
たのか?
それは1950年代後半から日本で起こったカントリー・ミュージック
愛好家のムーヴメント(5)から誕生したイベントである。
1957年に文化放送でラジオ番組「サンデー・ウエスタン」が開始。
番組のファンクラブ「サンデーウエスタン友の会」のメンバーが、
「東京グランド・オール・オープリー」(6)を起ちあげる。
カントリーのコンサートを有楽町ヴィデオ・ホールで定期的に開催。
出演はジミー時田とマウンテンプレイボーイズ、原田実とワゴンエー
ス、米軍バンド、学生バンドなどであった。
↑アメリカでもそうだが、カントリーといえばカウボーイだ。
(日本ではウエスタン、カントリー&ウエスタンと呼ばれていた)
1962年に駐留軍慰問のため来日したジョニー・キャッシュが、初めて
日本人向けに後楽園ホールで公演を行ったことでカントリー・ミュー
ジックの機運が高まる。
1963年にピート・シーガー、ファーリン・ファスキーが来日公演の際、
東京グランド・オール・オープリーに出演。
1964年にはハンク・スノウ、マーティ・ロビンス、ロイ・エイカフが
東京グランド・オール・オープリーに出演した。
チェット・アトキンスが来日したのは一度だけ。
1965年10月14日〜16日に開催されたパッケージ・ツアー、ポップ&
カントリー・フェスティバルに出演するためであった。
当時の日本は高度経済成長期の真っ只中。
前年1964年10月に東京オリンピックが開催され、東京の街が大きく
変わって行った時期であった。(1)
1965年1月にはベンチャーズ来日公演が若者に衝撃を与え、さらに
7月の再来日・全国ツアーでベンチャーズは一大ブームとなる。
エレキギターが人気を博し「勝ち抜きエレキ合戦」(2)が放送された。
12月に映画「エレキの若大将」(3)が公開され、エレキは社会現象と
なり、歌謡曲のサウンドにも影響を与えた。
チェット来日は1965年ベンチャーズの夏の全国ツアーの後である。
エレキギターがブームの最中、ノーキー・エドワーズにも影響を与
えたギターの神様が日本に来るのだから、もっと話題になってもよ
さそうなものだが、あまり人々の記憶に残っていない。
日本の音楽史にチェット来日がしっかり刻まれていないのが残念だ。
レコード業界の人に訊いても知ってる人は少なかった。
それはチェット・アトキンスがカントリーという日本ではマニアック
なジャンル(4)のギタリストであったからではないかと思う。
<ポップ&カントリー・フェスティバルとは>
チェットが出演したポップ&カントリー・フェスティバルとは何だっ
たのか?
それは1950年代後半から日本で起こったカントリー・ミュージック
愛好家のムーヴメント(5)から誕生したイベントである。
1957年に文化放送でラジオ番組「サンデー・ウエスタン」が開始。
番組のファンクラブ「サンデーウエスタン友の会」のメンバーが、
「東京グランド・オール・オープリー」(6)を起ちあげる。
カントリーのコンサートを有楽町ヴィデオ・ホールで定期的に開催。
出演はジミー時田とマウンテンプレイボーイズ、原田実とワゴンエー
ス、米軍バンド、学生バンドなどであった。
↑アメリカでもそうだが、カントリーといえばカウボーイだ。
(日本ではウエスタン、カントリー&ウエスタンと呼ばれていた)
1962年に駐留軍慰問のため来日したジョニー・キャッシュが、初めて
日本人向けに後楽園ホールで公演を行ったことでカントリー・ミュー
ジックの機運が高まる。
1963年にピート・シーガー、ファーリン・ファスキーが来日公演の際、
東京グランド・オール・オープリーに出演。
1964年にはハンク・スノウ、マーティ・ロビンス、ロイ・エイカフが
東京グランド・オール・オープリーに出演した。
<1965年 ポップ&カントリー・フェスティバルの概要>
そして1965年、日本でポップ&カントリー・フェスティバルが開催。
チェット・アトキンス率いるナッシュビル勢がやって来た。
The End Of The Worldの大ヒットで知られるスキーター・デイヴィス、
コーラスグループのザ・ブラウンズ、ハンク・ロックリン、という一流
どころのパッケージ・ツアーである。
招聘元(プロモーター)はどこだったんだろう?
東京グランド・オール・オープリーの関わり、役割は?
※招聘元はビクター芸能株式会社(今のビクターミュージックアーツ
(株)のようです。(縞梟さん情報です。ありがとうございました)
ただし呼び屋(興行主)は別に任せてる場合もある。
東京圏と大阪圏で9公演。(7)
後日チェットは「日本では各地を回って素晴らしい体験をし、素晴
らしい人たちと出会った」と述懐してる。
↑来日メンバーを皇居・二重橋に案内。
右からザ・ブラウンズの3人、チェット・アトキンス、ハンク・ロッ
クリン、スキーター・デイビス、チェットのツアーのベースマン。
公演は3部構成のオムニバス・コンサートであった。
(第1部)
ハンク・ロックリン、スキーター・デイヴィス、ザ・ブラウンズが
それぞれ3曲ずつ。30分くらいだったのだろう。
ギタリストもアメリカから連れてきた人らしい。
(第2部)
チェット・アトキンス登場!8曲演奏。MCを入れて30分程度か?
全曲バンド編成で、チェットはグレッチを弾いたと思われる。
ベースなどチェットのツアーバンド常連の姿も見られるが、日本の
ミュージシャンが多かったようだ。
機材も日本側が用意したらしい。アンプはエルクのように見える。
(第2部)
チェット・アトキンス登場!8曲演奏。MCを入れて30分程度か?
全曲バンド編成で、チェットはグレッチを弾いたと思われる。
ベースなどチェットのツアーバンド常連の姿も見られるが、日本の
ミュージシャンが多かったようだ。
機材も日本側が用意したらしい。アンプはエルクのように見える。
※後援がラジオ関東(現アール・エフ・ラジオ日本)なので、当時
放送したのであれば倉庫にテープが眠ってるかもしれない(縞梟さん
からご指摘をいただきました)が、移転時に処分してる可能性大だ。
(第3部)
ハンク・ロックリン、スキーター・デイヴィス、ザ・ブラウンズ、
最後にチェットが2曲演奏。この部も30分でトータル1時間半か。
※以上「東京グランド・オール・オープリーの時代」を参考にさてい
ただき、写真も転用させてもらいました。ご快諾いただき感謝です。
↓当時の貴重なお話と写真が載っています。
http://jtkanehira.com/konma.html
<チェット・アトキンス来日時のエピソード>
※以下「瀬谷福太郎のカントリー四方山話 CHET ATKINSとの思いで」
を参考にまとめました。写真も転用させていただいてます。
(瀬谷さんは残念ながら5年ほど前に亡くなられたとのことです。
謹んでお悔やみを申し上げます。
転用はサイトの管理者の方が快諾してくださいました。感謝です)
瀬谷さんは日本のカントリー・ギターの第一人者で、ジミー時田、原
田実など多くのシンガーと音楽活動をされていたそうです。
↓当時の貴重なお話と写真が載っています。
「故・成毛滋氏との思いで」も読み応えがあり感慨深い内容でした。
http://www1.tcn-catv.ne.jp/musicrow/A31_1.htm
瀬谷福太郎さんは1965年ポップ&カントリー・フェスティバルのツアー
に同行し、チェットと一緒に演奏をされたとのこと。
以下、その時のエピソードを抜粋して転載します。
田実など多くのシンガーと音楽活動をされていたそうです。
↓当時の貴重なお話と写真が載っています。
「故・成毛滋氏との思いで」も読み応えがあり感慨深い内容でした。
http://www1.tcn-catv.ne.jp/musicrow/A31_1.htm
瀬谷福太郎さんは1965年ポップ&カントリー・フェスティバルのツアー
に同行し、チェットと一緒に演奏をされたとのこと。
以下、その時のエピソードを抜粋して転載します。
・チェットはツアー中、衣装、ギターなどの荷物は人に任せなかった。
瀬谷さんが申し出ても「本国ではいつも自分でやっている事なので」
と自身で運んでいた。
特にギターは人任せにせず、肌身離さずという感じだった。
・チェットは絶えずギターを弾いていた。
暇さえあればギターを弾いていた。瀬谷さんは感心したという。
・いつものフレーズを違ったポジションで弾いたり、ちょっとフレーズ
を変えて弾いたり、いくつかのフレーズを絶えず練習して弾いていた。
・「演奏中にミスをすることは?」と質問すると「もちろん神様じゃな
いからミスはするけど、ミスをミスにしないのがテクニックだ。
自分が絶えずいろいろなポジションでフレーズを弾いているのは、どこ
からでも次の音に繋げられるように指に慣れさせるための練習をしてい
る」と言っていたそうだ。
そして「自分が絶えずギターを体から離さないのは、私がギターを好き
だからだよ」とのことだった。
・「カントリーミュージックはアドリブはだめ、曲に合ったフェイク(8)
にしなければならない」と教えられたそうだ。
そして「自分が絶えずギターを体から離さないのは、私がギターを好き
だからだよ」とのことだった。
・「カントリーミュージックはアドリブはだめ、曲に合ったフェイク(8)
にしなければならない」と教えられたそうだ。
↑チェットの左隣が瀬谷さん。右後の女性はブラウンズのメンバー。
・ツアー中、瀬谷さんはチェット直伝で「Yakety Axe」を教わったそう
で、この曲は彼にとってチェットとの思い出を偲ぶ、心の中に秘めた宝
物だという。
・当時は今みたいに良い音響設備がなかった。(注:PAがまだなくステ
ージ上のギターアンプの音を直接客席に聴かせていた)
チェットのために用意されたギターアンプは国産で畳一畳もあるような
大型アンプ(写真から推察するにエルクではないか?ヤマハもばかデカい
アンプを作っていたが)でみなびっくりしたらしい。
チェットはステージ前には必ず時間をかけて入念に調整し使っていたが、
これは大変なことだった。
よくあのアンプでツアーを無事終了できたものだ、と瀬谷さんは語る。
後で白いエレキを弾いてる人が瀬谷さん。
右のアメリカから来たギタリストはフェンダーのアコギを弾いている。
ベースとスティールギターは日本のミュージシャンのようだ。
・ツアーの合間にTV出演があったらしい。
瀬谷さんはチェットのレコードから完コピした曲を選び演奏した。
演奏の後チェットに批評をしてもらうと、その曲はたまたまチェットが
間違えた部分があって気になっていたけどレコード化されたもの。
「私が間違えたフレーズまでコピーしましたね」と言われたそうだ。
アメリカでは多少の音の違いよりも全体の雰囲気の良い方を選ぶ、と
チェットは言っていたそうだ。
ツアーに関わっていた人の体験談は貴重だ。読んでて引き込まれる。
こうした「事実の記録」って少ないけど、すごく大事だと思う。
<チェットが日本限定で発売したレコード>
チェットは1973年に日本の伝統歌や童謡をカヴァーしたアルバム「日本
の詩」を日本限定で発売している。(1995年にBMGビクターよりCD化)
↑この頃、日本のオーディオは4チャンネルを売りにしてた。すぐ消えたが。
「日本の詩」のタイトルは金文字と黒文字の2種類あった。
日本の詩/チェット・アトキンス(Discover Japan)
SIDE 1
1 浜辺の歌 2 ゆりかごの唄 3 里の秋 4 夏は来ぬ
5 みかんの花咲く丘 6 城ヶ島の雨 7 荒城の月
SIDE 2
1 赤とんぼ 2 椰子の実 3 花 4 波浮の 5 故郷 6 夕焼け小焼け
ギターの神様とは思えないくらいテクニックは控えめで、リヴァーブ深め
で丁寧にメロディを紡ぐような演奏をしている。
バックの演奏といい、カントリーというより木村好夫とかムード歌謡ギタ
ーに近い?と思ってしまうが。。。
そこはチェット・アトキンス。
ギャロッピング奏法もハーモニクス奏法もミュート奏法も要所で聴ける。
何より日本の歌の叙情感をよく研究し、独自の解釈をしていてる。
グレッチ、クラシックギター、デル・ベッキオのリゾネーターギター、と
使い分け、実にきめ細かい行き届いた演奏を聴かせてくれる。
↓「日本の詩/チェット・アトキンス」が聴けます。
https://youtu.be/0yXx1QfnAXw
裏ジャケットの夕暮れとカラスがいかにも「日本人が忘れかけた心のメロ
ディを再確認しましょう」と訴えかけているようだ。
カヴァーアートとタイトルは日本側で考えたのではないかと思う。(9)
チェットの長い経歴でも異色のこのアルバムは日本限定ということもあり、
海外でもコレクターズ・アイテムになっているそうだ。
アルバムの制作については、日本のビクターが予めオケを用意していて、
チェットが来日した際にギターを録音した、という話をどこかで読んだ。
千駄ヶ谷のビクター・スタジオに行く機会があると、ああ、ここでチェッ
トがレコーディングして行ったんだなあ、と感慨に浸ったものである。
他のチェット・ファンもこの説を聞いたことがあるらしく、僕の勘違いで
はなさそうだ。
しかし1965年の来日時に録音したアルバムをなぜ1973年までリリースし
なかったのか、不可解であった。
改めて1995年にCD化された際の解説(1973年発売時のもの)を読んだ。
それによると、チェットは1965年に日本にツアーで訪れた時、街の中に
日本の古い歌が全く聴こえてこないことを非常に残念に思ったらしい。
アメリカに戻ってから、チェットは日本の楽曲を勉強したそうだ。
(日本のビクターにも音源を集めてもらうなど協力要請したのだろう)
そして独自の解釈で作られたアルバムが「日本の詩」である。
編曲もチェットが自ら行ったそうだ。
オーケストレーションはプロに譜面を書き起こしてもらったのだろう。
ギターのタイミング、音色、フレーズも絶妙でチェットならではである。
デル・ベッキオの多用など、1970年代のチェットの音作りだと思う。
1965年の来日から8年もかけたのは、納得できるまで曲を研究し自分流
の表現ができるまで発表しないチェットのプロ意識だろうか。(10)
↑スキーター・デイヴィスのレコーディング。J-50を弾いてる人は一緒に
デル・ベッキオの多用など、1970年代のチェットの音作りだと思う。
1965年の来日から8年もかけたのは、納得できるまで曲を研究し自分流
の表現ができるまで発表しないチェットのプロ意識だろうか。(10)
↑スキーター・デイヴィスのレコーディング。J-50を弾いてる人は一緒に
来日したギタリストかも?(写真:Gettyimages)
訂正)若い頃のボビー・ベアのようです。ギターはB-25-12です。
Hさん、教えていただきありがとうございました。
チェット来日は1965年の1度だけで以降、日本に来ることはなかった。
いつかナッシュビルに行ってチェット・アトキンスのコンサートを見る、
という僕の夢も叶わなかった。
<脚注>