2022年9月2日金曜日

1970年代の日本(東京)におけるディスコの系譜(前編)

ロックを聴いてた僕はディスコ・ミュージックをどこか下に見ていた気がする。
いい曲がいっぱいあったい一方で、実際にマヌケな曲も多々あった。

新宿のディスコでダンスフロアを占領し全員が同じ振り付けで踊る人たちとは
あまり友だちになりたいと思わなかった。


それはともかく、僕がそういう踊れる店に初めて行ったのは中学2年の夏休み。
バンドの練習の後、別な高校のドラムの上手いやつが出演しているから見に行こ
う、という話になった。だから踊りに行ったわけではない。

当時は生バンドの演奏に合わせて踊るゴーゴークラブ。(昼間も営業している)
店に入った時バンドはサンタナの「ブラックマジック・ウーマン」を演奏してた。




↑写真は横浜・石川町の「アストロ」。
当時のゴーゴー・クラブはライヴハウス的な面もあった。




<ディスコの発祥〜アメリカ大都市での急拡大>

ゴーゴークラブとディスコはどこが違うのか?


ディスコ発祥の地はフランス。1967年頃にできたというのが定説らしい。

バンドの生演奏の代わりにDJが選んだレコードで踊るナイトクラブのことを、
コード盤の「Disc」とフランス語でライブラリーを意味する「Bibliothèque」
をかけ合わせてディスコティック(Discothèque)と呼んだのが始まりだ。

アメリカでは1960年代末〜1970年代初頭にかけ、ニューヨークやロサンゼルス
でゲイや黒人、ヒスパニック系など労働条件の悪い若者が、せめて週末くらい楽
もうとディスコに集い踊り明かすようになる。

マイノリティーのサブカルとして始まったディスコは、やがて都会で働く独身女
が安心して遊べる場として裾野が広がって行く。




1971年にはディスコ・ミュージック専門のラジオ局や「ソウル・トレイン」など
のテレビ番組が始まり、メジャーなカルチャー、マーケットとなる。

音楽とダンスの性質でいうと、ゴーゴーが縦ノリで手足、腰を振って踊るのに対し
ディスコでのダンスは横揺れ、スイング感、大きな動きが特徴的だ。

黒人ならではのリズム感、グルーヴ感、全身を使っての表現力が「らしさ」になる。
白人やアジア系はなんとかそれを真似するがサマになる人は少ない。




<1971年-日本(東京)で最初のディスコ、ビブロスが開店>

日本で最初のディスコは1971年に赤坂に開店したビブロスと言われる。




ビブロスは隣接していたムゲン(1968年開店)と同じ経営で、VIP客は地下フロア
の奥からムゲンとビブロスを自由に行き来できた。
ムゲンはサイケデリックな店内とアメリカのR&Bバンドも出演していたクラブで、
文化人、芸能人、業界人、遊び人たちの社交場であった。(ディスコではない)



↑ MUGEN(ムゲン)店内。黒人R&Bバンドの生演奏で踊っている。


後からできたビブロスは洞窟のような内装で、フロアが上下に別れていた。
DJがかける音楽はR&Bでなくロックが中心。
会員制で女性または女性同伴のみ入店可。黒服による服装チェックがあった。
(=ダサい格好をしてると断られる)




ビブロスも芸能人、業界人に人気で、海外のミュージシャンたちの間でも有名。
東京でコンサートをやった後は必ず来るという話だった。


同じく1971年に開店した六本木メビウスが日本初のディスコという説もある。
黒く統一されたフロアに宇宙船のようなDJブースでレコードをかけたらしい。
日本初のDJのみで客に踊ってもらうスタイルだった、と言われている。

(ディスコの定義によって他にも諸説あるが、DJのかけるレコードで踊る箱、と
いう形態でいうと、ビブロスかメビウスだったのだろう。)




<1972年-米軍基地とディスコ、R&Bからフィリー・ソウルへ>

米軍立川基地が1973年に返還されるまでは、米兵たちの溜まり場となるバーや
ディスコが多く、都心よりも先に新しいレコードとステップが見聞きできると
言われ、足繁く通うファンもいたようだ。

同じく本牧に開店したリンディー(1972〜1973年?)も米兵とその家族、PX
関係者向けディスコ。
ビブロスと同じく男性のみの客は断られ、入店時の服装チェックがあった。
PXのコネで入れるハマっ子のみならず、東京の音楽・芸能関係者や遊び人も
訪れたという。



      ↑本牧リンディー


1972年頃のアメリカは、エルヴィスの 「Burning Love」、ポール・サイモン
のソロ初シングル「Mother and Child Reunion」、ドン・マクリーンの
「American Pie」、シカゴの「Saturday In The Park」、イーグルスの
「Take It Easy」などがヒットしていた。

ツェッペリンの「Black Dog」、ディープパープルの「Highway Star」など
英国ハードロックも全米でヒット。グラム・ロック旋風も吹き始めていた。

音楽業界の多くの人間にとって、ディスコ・ミュージックは一部の人が聴くマイ
ナーなサブカルで、そこから全米ヒットが生まれるとは夢にも思わなかった



       ↑ゲロッパ!でお馴染みのジェームズ・ブラウン。


ディスコでDJたちがかける音楽も、ジェームズ・ブラウンの「Sex Machine」
、アイザック・ヘイズの「Shaft(黒いジャガーのテーマ)」、マーヴィン・ゲイ
の「What's Going On」、レアアースモータウンの白人R&Bバンド)の『Get 
Ready」など、1960年代から続くソウルやR&Bが中心
ディスコ・ミュージックと呼ばれるようなスタイルが確立していなかった


そんな中、フィラデルフィア・インターナショナル・レコードが設立。

オージェイズ、ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツ、ルー・ロウルズ、
スリー・ディグリーズ、ビリー・ポールなど、今までとは質感が違うフィリー
(フィラデルフィア)ソウルと呼ばれる新しいダンス・ミュージックが人気
を博すようになる。






<1973年-ディスコの普及とソウル・ミュージックの浸透>

オイルショックの1973年、新宿と六本木にカンタベリーハウスがオープン。
新宿のカンタベリーハウスは大型店で、ギリシャ館、ペルシャ館など多店舗展開。
敷居が低い大衆ディスコで、立地的に埼玉や千葉から来てる客も多かった。

歌舞伎町の東亜会館はディスコ・ビルと化し、周辺にもプレイハウス、クレイジー
・ホースなどディスコが乱立する。

ディスコという名称が一般に浸透。地方都市まで拡がる。


(1973年にディスコでかかった曲)
●スリー・ディグリーズ「Dirty Ol' Man(荒野のならず者 )」
●スティーヴィー・ワンダー「Superstition(迷信)」※発売は1972年
●クール & ザ・ギャング「Jungle Boogie」
●ヒューズ・コーポレーション「Rock The Port(愛の航海)」
●ラヴ・アンリミテッド・オーケストラ「Love's Theme」
●オージェイズ「Love Train、Black Stabbers(裏切り者のテーマ)」

●マーヴィン・ゲイ&ダイアナ・ロス「You Are Everything」
●スタイリスティックス「 You Make Me Feel Good New(誓い)」
●ビリー・ポール「Me and Mrs. Jones」
多くのディスコではチークタイムがあり、これら3曲は定番だった。




↑スリー・ディグリーズの「Dirty Ol'  Man」が視聴できます。



※原題の「Dirty Old Man」は直訳すると「汚い老人」だが、スラングで「いや
らしい中年男」「スケベなオッサン」を表す。これでは売れないと思ったのか。
けど「荒野のならず者」って何(笑)映画「荒野の7人」に便乗した?

歌詞もスラングが多く容赦ない。イギリスでは放送禁止になったとか。
幸い日本人には意味が分からないので問題なくヒット。


発売時の謳い文句は「フィラデルフィア・ソウルのセクシー・ダイナマイト」
(日本の配給元であるCBSソニーがどういう売り方をしたかったかが分る)
スリー・ディグリーズはポッと出の新人ではなく、キャリアが長くメンバーも
何回か入れ替わってる。実力派なのだ。






<1974年-ソウル・トレイン放送開始、大衆ディスコvs.高級ディスコ>

1974年アメリカのソウル系ダンス音楽番組「ソウル・トレイン」がテレビ東京
(東京12チャンネル)の深夜枠で放送開始。司会はドン・コーネリアス。




※ちなみに番組はアパレル・メーカー、JUNの1社提供。
リチャード・アヴェドンが監督したイメージCMが放送されていた。



ソウル・トレインのテーマ」はフィリーソウルのMFSBが演奏した「TSOP」
に歌詞をつけスリー・ディグリーズが歌い、アメリカではビルボード1位を獲得。



↑「ソウル・トレイン」のオープニングが視聴できます。



「ソウル・トレイン」では毎回、豪華アーティストが出演。
ライブ演奏に合わせて黒人ダンサーたちがファンキーなダンスを披露する。



ソウル・トレイン・ギャングと呼ばれるダンサーたちの動きは必見!



当時の日本の若者はそんなふうに大胆に体を動かせない。黒人のノリも出ない。
そこで簡単に踊れる方法として生まれたのが、集団で繰り返し決まったステップ
を踏むラインダンスである。
(ソウルチャチャ、フリーャチャ、ハマチャチャなど)


新宿の大衆ディスコでは常連たちが集い、一斉に同じステップで達成感と連帯感
に酔っていた。(一糸乱れぬマスゲームは側で見ていると異様にも思える)
その姿に憧れる若者たちが続々と詰め掛けこぞってステップを覚える、という
独特のカルチャーが生まれ、ステップは各地のディスコに広まって行った。



このステップは曲によってもバリエーションが生まれ、地域や店によって(=常
連客となるグループ)によって異なる、など細分化して行く。


これに対し、六本木は赤坂のディスコでは(客層が違うためか)こうした全員で
同じステップという光景は見られない。各自が好きなように踊っていた。




この年「ソウル・トレイン」でも見られたバンプ(体をぶつけ合う踊り方)が
流行するが、これは日本人でも真似しやすかった。



大衆ディスコが増える中、1974年六本木で2つの象徴的なディスコがオープン。
1つはハーレムにありそうなディスコをイメージしたアフロレイク

黒人のバンド演奏とDJによるレコードの混合型で、音楽はソウルやファンク。
従業員は黒人、メニューもアフリカ系、という徹底ぶり。
客の半分は横須賀や厚木キャンプから通う黒人のGI、彼ら目当ての日本人女性。
常連の日本人客の多くもアフロ・ヘアだったという。




(後に六本木にオープンしたエンバシーも同じコンセプトだった)



もう1つは、完成したての六本木スクエア・ビルの地階に(パリの本店の姉妹店
として)オープンした高級会員制ディスコ、キャステル

黒大理石を用いたゴージャスな内装で、来店の際は正装が条件。
会員の多くは外国人や一流企業の役員クラス、資産家の御曹司、芸能人。
キャステルの会員権を持っていることは遊び人の大きなステータスとなった。





(1974年にディスコでかかった曲)
●オージェイズ「Back Stabbers(裏切り者のテーマ)」※発売は1972年
●コモドアーズの「The Bump」→バンプ
●ジョージ・マックレー「Rock Your Baby」→ソウル・チャチャ 
●スリー・ディグリーズ「When Will I See Your Again(天使のささやき)」
●ジャクソン・ファイブ「Dancing Machine」→ロボットダン
●スピナーズ「Mighty Love」
●ヒューズ・コーポレーション「Rock The Port(愛の航海)」
●ラベル「Lady Marmalade」
●ヴァン・マッコイ&ソウル・シティ・シンフォニー「Love Is The Answer」
●KC&ザ・サンシャイン・バンド「Get Down Tonight」




↑ジャクソン5、マイケルのロボットダンスが観れます。


ジョージ・マックレー「Rock Your Baby」が全米1位、ジャクソン・ファイブ
の「Dancing Machine」が全米2位、スリー・ディグリーズ「When Will I 
See Your Again」がビルボードで2位、キャッシュボックスで1位を獲得。

ソウル・ミュージックがR&Bチャートではなくポップチャートでも上位を獲る
(=メジャーになる)ようになった。


<次回は1975〜1979年のディスコ・シーンと音楽の変化について>


<参考資料:History  od Disco、ディスコの歴史、The list of DISCO、
1970年代のディスコフィーバー、洋楽を対訳する大役、我が青春のポップス、
Wikipedia、Youtube、他>

※個人のブログやSNSに掲載された写真も使わせていただいてます。
問題が
ある場合はすぐに削除しますのでご一報ください。

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