2024年11月2日土曜日

CSN&Y 未発表ライヴ Live At Fillmore East, 1969が発売。



太田裕美が歌う「青春のしおり」(1)という曲がある。ファンに人気の高い。
歌詞は女性の視点で、学生時代につき合っていたと思われる男子学生(たぶん
年上なのだろう)を追想している。

CSNYなど聞き出してからあなたは人が変わったようね。髪をのばして授業
をさぼり自由に生きてみたいと言った」と歌われる。(2)
さらに「ウッドストック」という言葉も使われ、1970年代のカウンターカル
チャーの空気を感じさせる。



↑ウッドストック・フェスティバル会場へ向かう若者の車の列



太田裕美は作詞を手がけた松本隆に「CSNYってなあに?」と尋ねたという。
松本は怒ったように「CSNYはCSNYだよ」と答えたそうだ。
彼女は「分からないから訊いてるんじゃないの」と思ったという。

同世代の太田裕美がCSNYを知らなかったことがちょっと驚きであった。
上野学園で音楽を学び、シンガー&ソングライターという触れ込みでプロと
して活動していた人がCSNYを知らないって・・・・
松本隆がイラっとしたのもそこだったのだろう。





しかし考えてみれば中学・高校の頃、CSNYを聴いてる女子はいなかった。
GAROは好きという娘は多いけど、元ネタのCSNYの存在を知らない。

ウッドストックでCSNを知り「Déjà Vu」を聴いて、その後デビューした
GAROは和製CSNだなと思った僕たちとはストーリーが違うのだ。

そもそも洋楽ロックに夢中になっていたのは、クラスでも一部の男子だけ。
髪をのばして授業をさぼってたしね。




閑話休題。

クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング (CSN&Y) の1969年 未発表
ライヴアルバム「Live At Fillmore East, 1969」が公式リリースされた。




1969年9月20日、ニューヨークのフィルモアイースト公演を収録したものだ。
フィルモアイースト公演は以前からブートレッグで出回っていたが、音質が悪く、
テープがヨレる、など評判が悪かった。


公式発売された音源は、新たに発掘された8トラックテープから、スティーヴン
・スティルスとニール・ヤングがLAのサンセットスタジオでレストア&ミックス
を施したものだそうである。

この二人、バッファローの頃から何度もぶつかっているが。
なかよくやれたんでしょうか(笑

それはともかく、非常にいい状態で録音されている。


Crosby, Stills, Nash & Young - Live At Fillmore East, 1969 (2024 Mix)
https://youtu.be/sy_ACh-R1-o?si=gumIV8N17Uv4NvmJ








この4ヶ月前の5月29日、クロスビー、スティルス&ナッシュ(CS&N)の3人が
デビュー・アルバムを発表したばかりであった。(3)

変則チューニングを多用したアコースティクギターの響きと3声ハーモニーの妙
で、それでにない新しいロックの境地を開いた。
イーグルスを初めとするウエストコースト・ロックの礎となっている。



↑スティーヴン・スティルスはモンキーズのオーディションを受け落ちている。
歯並びが悪いという理由だった。確かに・・・



ロック色を強めたいスティルスの意向で、バッファロー解散後ソロで活動していた
ニール・ヤングがギタリストとして加わりCSN&Yの4人体制となった。


ウッドストック・フェスティバルの最終日、8月17日にCSN&Yの4人が出演。
こも歴史的なロック・コンサートのハイライトの1つとなる。

ニール・ヤングは客を前で演奏することは了承したが、映像作品は頑なに拒否。
映画ではニール・ヤング抜きの3人しか写っていない。
とはいえ、世界中の音楽ファンが動くCS&Nの姿を見て衝撃を受けた。





1970年3月にクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングの4人名義でアルバム
Déjà Vu」を発表。
ビルボード1位を記録する大ヒットとなり、商業的にも知名度的にもCSN&Yは
頂点を極め、時代を象徴するロックとなった。


フィルモアイースト公演はウッドストック出演の1ヶ月後
ニール・ヤングを加えた4人による2回目のコンサート出演ではないかと思う。




まさにCSN&Yとして上昇気流に乗った一番勢いがある時期のライヴである。
翌1970年6〜7月のライヴを収録した「4 Way Street」(1971年4月発売)より
まとまりがよく聴きやすい。4人が和気藹々と楽しそうなのが伝わる。


前半がアコースティック・セット、後半がエレクトリック・セット
圧倒的な「Suite: Judy Blues Eyes」で始まり、3声にアレンジしたビートルズ
の「Blackbird」、「Helplessly Hoping」と聴く者を虜にして行く。






ニール・ヤングはこの時点ではまだCSN&Yとしてのレパートリーがないようで
「On the Way Home」「I've Loved Her So Long」「Down by the River」
とソロ作品を歌っている。これがとてもいい。

スティルスは「4+20」、ナッシュは「Our House」とこの後「Déjà Vu」に
収録されることになる曲を披露している。
「4+20」は既に完成形。
「Déjà Vu」収録ヴァージョンとのギターのニュアンス違いも楽しめる。





「Long Time Gone」からエレクトリック・セットで5曲続く。
アコースティックの時はあんなに上手いのに、エレキギターのアンサンブル
である。余計な音が多く、ぶつかり合う。
スティルスもニール・ヤングもリードギターは上手いとは言えない。

誰か分からないけどピッチが甘い、つまりチューニングがビミョーに合ってい
なくて気持ち悪い。しかもそういう曲に限って長尺。

まあ、グレイトフル・デッドやディランは日常茶飯事だし、ザ・バンドでさえ
リック・ダンコのチューニングが合ってない時があった。





クリップチューナーもなくて、ステージで正確なチューニングを保つのが難しい
時代だったのかもしれない。
こういうことにシビアーな人と大雑把な人っているし、ガサツな方がバンドら
しくて好きという人もいる。この辺は好みが分かれるところだろう。

しかしCSN&Yの真骨頂はアコースティック・ギターとハーモニーの美しさだ。
個人的にはエレクトリック・セットの分マイナスでお薦め度は★★★★かな。
最後のアカペラ「Find the Cost of Freedom」はお口直しか。ホッとする。






さて、最後にCSN&Yの使用ギターについて少し触れておこう。
CSN&Yといえば、4人全員がマーティンの最高峰D-45を所有していたことでも
有名で、当時のギター・ファンは羨望の眼差しで見ていた。

D-45はCSN&Yのトレードマークであり、CSN&YによってD-45伝説が生まれた、
CSN&Yの影響で多くのミュージシャンが「いつかはD-45」と憧れるようになっ
た、と言っても過言ではないだろう。




D-45は当時の価格で100万円くらいだったと思う。
しかも生産本数が少なく、日本に入ってきたのは4本だけだったと言われる。

日本で最初にD-45を手に入れたのが加藤和彦だそうだ。(4)
次が石川鷹彦、そしてGAROのマークとトミー。





CSN&Yが使用していたD-45は1968年に再生産され出した直後のもので、サイド
&バックにハカランダ(ブラジリアンローズウッド)が使用されている。(5)
4人揃ってカリフォルニア州バークレーの楽器店で購入したそうだ。





尚、スティーヴン・スティルスはD-45以外にも、スロテッドヘッドで12フレット
ジョイントの000-45、ヴァーティカル・ロゴのD-28を所有している。
ニール・ヤングはD-45の他、ヴァーティカル・ロゴのD-28、D-18、ギブソン
J-200を愛用していた。



ヴァーティカル・ロゴ(縦型ロゴ)のD-28



フィルモアイースト公演の写真を見る限り、ニール・ヤングはD-45、スティルス
はD-28、クロスビーはD-18を12弦に改造したもの(6)を使用している。



D-18を12弦に改造してある。チューナーが増える分ヘッドストックが長い。



エレクトリック・セットの写真はないが、クロスビーはグレッチ・ナッシュビル、
ギブソンのセミアコを12弦に改造したモデル、スティルスはギブソンのセミアコ、
SG、グレッチ・ホワイトファルコン、グレッチ・カントリージェントルマン辺り
ではないか。

グラハム・ナッシュは不明(エレキを抱えている写真を見かけない)、ニール・
ヤングはレスポール・ブラックビューティ、グレッチ・ホワイトファルコン、
ギブソンのフライングVのいずれかを使用していたと思われる。





<脚注>

(1)「青春のしおり」

太田裕美の3枚目のアルバム「心が風邪をひいた日」(1975年)のB面最後から
2番目に収録された曲。
このアルバムは作詞:松本隆、作曲:筒美京平の曲が中心だが、荒井由美が
2曲提供している。
「青春のしおり」は作詞:松本隆で作曲:佐藤健。隠れた名曲である。
佐藤健はヤマハのライト・ミュージック制作室で萩田光雄(筒美京平作品の
編曲を担当)と一緒に働いていた。
妻である大橋純子など多くの歌手に曲を提供している。


(2)「青春のしおり」の歌詞
CSNYなど聞き出してから あなたは人が変わったようね
髪をのばして授業をさぼり 自由に生きてみたいと言った
みんな自分のウッドストック 緑の園を探していたの
(作詞:松本隆 作曲:佐藤健 編曲:萩田光雄)


(3)クロスビー、スティルス&ナッシュ(CS&N)の結成
元バーズのデヴィッド・クロスビー、元バッファロー・スプリングフィールドの
スティーヴン・スティルス、ホリーズのグラハム・ナッシュが結成したグループ。
3人はローレル・キャニオンにあるキャス・エリオットの家に集まり一緒に歌う。
3人は同じローレル・キャニオンのジョニ・ミッチェルの家で再会。
スティルスがYou Don't Have To Cryを歌うとクロスビーとナッシュがそれに
ハーモニーを付ける。それは魔法のような美しい響きだったという。
歌い終わった時グループ結成のアイデアが生まれた。


(4)加藤和彦のD-45
後年、加藤和彦によるD-45の弾き語りするのを生で見る機会があった。
仕事で立ち会ったFM番組のイベントだったのだが、ラッキーだった。
本当に「すごい音だった」としか言いようがない。ボキャ貧で申し訳ない。


(5)ハカランダ(ブラジリアンローズウッド)
この木材はワシントン条約で輸出入が禁止されたため、1970年以降に生産され
たD-45やD-28はインディアンローズウッドに変更されている。


(6) D-18を12弦に改造
クロスビーのD-18はチューナーを12個装填するために、ヘッドストックを長い
ものに交換してある。
同様の改造をギブソンのセミアコにも施している。
マーティンは1964年に初の12弦ギター、D-12-20を発売した。
これはD-18をベースとしたモデルであった。
D-18を12弦のベースにしているのは、マホガニーと12弦の相性ではないか。
D-28では響きすぎて音がまとまらないような気がする。
クロスビーがなぜD-12-20を入手せずに、D-18を12弦に改造したのかは不明。
生産量が少なく入手しにくかったのかもしれない。
1973年にはD-12-18が登場し、広く使われるようになる。


<参考資料:太田裕美について少し真面目に語ってみようか、Wikipedia、
NHK 名盤ドキュメント「太田裕美“心が風邪をひいた日〜名曲誕生の秘密、
イシバシ楽器 Guitar Quest ! CSNYを聴いてマーティンD-45に憧れた僕達、
HMV&BOOKS online、DOLPHIN GUITARS、WARNER MUSIC JAPAN、
TOWER RECORDS、YouTube、アコースティックギター・マガジン、
カケハシ・レコード ウッドストック・フェスティバル特集、Jギター、他>

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