2024年7月15日月曜日

ジミ・ヘンドリックスの名曲「リトル・ウィング」<後篇>




<「リトル・ウィング」の歌詞とその解釈>


          (Jimi Hendrix 対訳:イエロードッグ>

Well she's walking through the clouds
With a circus mind that's running round
Butterflies and zebras, and moonbeams
And fairytales    That's all she ever thinks about
Riding with the wind

When I'm sad, she comes to me
With a thousand smiles she gives to me free
It's alright, she said, it's alright
Take anything you want from me    anything, anything
Fly on, little wing


そう、彼女は雲の中を歩いてるのさ
サーカスみたいにお祭り騒ぎ ぐるぐる駆け回って
蝶とかシマウマとか 月の光 それからお伽話
彼女はいつもそんなことばかり考えているんだ
風に乗って自由に飛びながら

悲しい時は彼女が来てくれる
満面の微笑みを浮かべて 僕を解き放ってくれる
だいじょうぶ、と彼女は言う だいじょうぶよ 
欲しいものは何でもあげるわ 何でも 何でもね
小さな翼よ 飛び続けなさい




この曲を初めて聴いた時、こう歌ってるのかと思っていた。

Well she’s working through the crowds 
It's circumstance running around
(彼女は人混みの中で働いている 忙しく駆け回ってる状況で)

ぜんぜん違ってました〜(恥💦




↑珍しくフェンダー・プレシジョン・ベースを弾いてる。





さて、歌詞を拾って行きます。

「With a circus mind that's running round」
「サーカス気分で走り回る」と訳されていることが多い。
次にシマウマが登場するし、サーカスは円形劇場。その訳でしっくり来る。

「circus」は「ばか騒ぎ,大混乱、愉快で騒がしいもの」という意味もある。
「run round」にも「駆け回る、騒々しく遊ぶ」という意味が回る。


「That's all she ever thinks about」の「ever」は「いつも」を強調。
例)That's all you ever sayなら「あなたはいつもそれしか言わない」。



「Riding with the wind」という言い方があるのか?
Ride on the wind、Ride the wind、Ride like the windが一般的だと思うが。
調べたら、こんな説明を見つけた。




「Riding with the wind」は遮るものがなく自由に素早く前進することの比喩
として使われるらしい。
この場合の「風」は方向と力の象徴。
風によって運ばれるヨットのように、その人は永遠の力によって支援、推進
されることを暗示している。(なるほど)



「With a thousand smiles」の a thousand〜は数え切れないほどの多さ。
例)I owe you a thousand apologies で「本当に申し訳ありません」。


「she gives to me free」は「無償、見返りなしで私にくれる」とも訳せる。
この場合は「自由をくれる、(悲しみから)解き放ってくれる」ではないか。
尚、give to meとgive meは同じ。







「Fly on, little wing」は最初の「Riding with the wind」と韻を踏んでいる。
最後にやっとタイトルの「little wing」が出て来た。
この「little wing(小さな羽)」は妖精の彼女を指してるとも取れる。

「little wing」は愛情や保護を象徴する比喩でもあるらしい。
妖精の彼女が自分(ジミ)を呼ぶ際の愛情を込めたニックネームなのだろう。

「どんな翼でも羽ばたけば、自分らしく飛べる。だから飛び続けなさい」と
自分(ジミ)を励ましてくれている、という解釈の方がいいと思う。







<幻想的な世界観と背景にあるジミの出自>

最初のヴァースはジミの心の中にある童話のような幻想的な世界が歌われる。
貧困で希望のない生活を送っていた幼少期(1)、ジミは魔法使いや空想の世界
に逃避する傾向があったという。
この曲を作った頃は常習化していたLSDの幻覚作用も影響してるはずだ。


その超自然的な異次元空間の女性は、ジミの空想が創り上げたミューズで、
守護天使のような存在である。

幼少期のジミを置いて家を去り、早世した母親を重ねているという説もある。
母親から得られなかった愛情を架空の女性に求めているという見方もできる。



↑2台目の赤いエレキギターを買ってもらった15歳頃。


2回目のヴァースではその女性が自分(ジミ)を救ってくれる話になる。
彼女は悲しみや苦しみから解き放ってくれ、欲しいものを与えてくれ、飛び
続けるよう励ましてくれる。

ジミの才能をいち早く見出し、売り込んでくれたモデルのリンダ・キースの
存在があったのではないかと思う。




<ジミ・ヘンドリックスの才能に気がついたリンダ・キース>





リンダ・キースはキース・リチャーズの恋人だった(名前がややこしいな💦)
キースはパーティーで出逢った完璧な女性、リンダに心を奪われる。
彼女はヴォーグ誌のモデル。17歳だった。

二人は恋仲になり、同棲生活が始まった。
リンダはストーンズの全米ツアーにも同行するようになる。





ニューヨークのクラブでリンダは初めてジミのライヴを見て衝撃を受ける。
驚異的な才能は歴然としていたが、誰も気づいてない。観客もジミ本人も。
ジミにレコード契約させデビューさせることが使命だと彼女は考え始める。


リンダはまずストーンズのマネージャーのアンドリュー・ルーグ・オールダム
にジミのライヴを観せた。が、アンドリューは関心を示さなかった。
リンダがジミに肩入れしてるのを手伝えば、キースの機嫌を損ねかねない。(2)



↑アンドリュー・ルーグ・オールダムとキース・リチャーズ。



シーモア・スタイン(3)に観せたら、ギターを破壊するジミに彼は尻込みした。
(それはリンダが無断で持ち出したキースのギターだった)


アニマルズのベーシスト、チャス・チャンドラーはジミのパフォーマンスを
見て驚く。(4)
チャンドラーはジミをロンドンに連れて行き、自らがプロデューサーを務め、
新しいバンド(5)を結成させレコードデビューさせた。




↑ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスとチャス・チャンドラー(右)。



ジミが成功を手中にしたのはリンダが動いてくれたおかげだ。
ジミにLSDも教えたのもリンダである。

歌は苦手というジミに、リンダは「自分で歌いなさい」と薦めた。
ブルースをこよなく愛した彼女は、ブルースを続けることをジミに求めた。


ジミは他のガールフレンドができ、リンダとは疎遠になる。
しかし死ぬ直前には、またリンダのことを頼りにしていたという。
「リンダ、僕を見て、聴いて。ブルースをやってるよ」と手紙を送っている。






↓Red Houseは1966年にジミがリンダのために作曲したブルースである。
https://youtu.be/_whI9m0SFys?si=-YTJW0g7KaTOLY8Y





<ディランの影響を受けたボーカル・スタイル>

ディランはジミが最も憧れ続け、影響を受けた白人アーティストである。
ジミのディラン崇拝は、当時の黒人コミュニティの中で異質な存在であった。

黒人のクラブにディランのLPを持参し、「ヒルビリー・ミュージック(6)は
他所でやれ」と叩き出された、というエピソードもある。




↑バンドを転々としていた無名時代。デュオ・ソニックを使用している。



ジミがディラン熱に熱に浮かされるようになったのは、ディランがエレキギタ
ーに持ち替えバンド・スタイルに変わってからだ。

日銭を稼ぐために黒人コーラスグループのバックバンドで毎晩同じ曲を弾き続
ける日々に嫌気がさしつつも、自分の音楽の方向性も見出せずもがいていた
ジミの心に「Like A Rolling Stone」は刺さった。






ディランの比喩表現や反抗的なメッセージ・ソングは、従来の職業的作詞・
作曲家による甘ったるい紋切型の歌詞や曲調とは大きく異なり、自分自身の
音楽を模索していた当時のジミに大きな手がかりとなった。

ディランのトーキングブルース調のルーズだが骨太の歌い方も、自分の歌声
にコンプレックスを持っていたジミを勇気づけてくれた。


「Little Wing」の比喩を多用した詩、ぶっきらぼうだが味わい深い歌い方に
は、こうしたディランの影響が感じられる。






<脚注>

2024年6月29日土曜日

F・アルディの「さよならを教えて/もう森へなんか行かない」




<Comment te dire adieu(さよならを教えて)>

初めて聴いたアルディは「Comment te dire adieu(さよならを教えて)」だ。
1968年発表のアルバム「Comment te dire adieu 」のタイトル曲で、シングル盤
でも発売された。

フランスでは1968〜1969年にかけてヒットしたが、なぜか日本では5年遅れの1973
〜1974年にFMでよく流れていた。何がきっかけで売れ出したんだろう?


↓「Comment te dire adieu(さよならを教えて)」
https://www.youtube.com/watch?v=tINyMbNZytI






原曲はジャック・ゴールド作曲の「It Hurts To Say Goodbye」である。
マーガレット・ホワイティングが1966年に発表。
翌1967年にヴェラ・リンのカヴァーがヒットしている。

いずれも古き良き時代を彷彿させるオーソドックスな3連ロッカバラード(1)だった。
アルディーが聴いても興味を示さなかっただろう。


アルディは本作品のアップテンポのインストゥルメンタル(演奏者不明)をどこかで
聴き、とても「キャッチー」だと感じたという。

彼女が聴いたのは、1967年発表のブラジルのオルガン奏者、ワルター・ワンダレイ
が軽快なサンバのリズムでハモンドオルガンを弾いてるヴァージョンだと思われる。




↓ワルター・ワンダレイの「It Hurts To Say Goodbye」
https://www.youtube.com/watch?v=py2Kui2ye-I




作曲者のジャック・ゴールドも自身のオーケストラで「It Hurts to Say Goodbye」
でカヴァーしているが、1969年リリース。アルディの「さよなら〜」より後だ。

これはセルジオ・メンデス&ブラジル'66かバート・バカラックのようなラテン調の
イージーリスニングである。
むしろアルディの「さよならを教えて」のインストゥルメンタル版という印象だ。




↓ジャック・ゴールド・オーケストラの「It Hurts to Say Goodbye」
https://www.youtube.com/watch?v=WdE9VkFJ-RY






↑左からゲンスブール、アルディ、右はウォーレン・ベイティ(1967年)



アルディはフランス語の作詞はセルジュ・ゲンスブール(フランスの作詞・作曲家、
歌手、映画監督、俳優)に依頼した。(2)
ゲンスブールは ex の音節を持つ単語(3)の連続でリズムを強調することを思いつく。

Sous aucun prétex.../...te, je ne veux / avoir de réflex.../...es malheureux. / 
Il faut que tu m'ex.../...pliques un peu mieux, / comment te dire adieu.
(Kleenexという商品名も使われている)




↑フランソワーズ・アルディとセルジュ・ゲンスブール



さらに、サビは歌メロではなくモノローグのような語りのパートを付け加えた。
演奏はアップテンポでリズムが強調され、歌と同じライン、歌に呼応するオブリガー
トにスタッカートを効かせた軽快なフレンチホルン(4)が加えられている。


この曲がきっかけでアルディは、ゲンスブールとその妻だったジェーン・バーキン
とも親しくなった。




↑セルジュ・ゲンスブールとジェーン・バーキン




↑ジェーン・バーキンとフランソワーズ・アルディ



↓珍しいジェーン・バーキンとのデュエット。
https://www.youtube.com/watch?v=0xJwTV7jzwU






↑アルバム「Comment te dire adieu 」のレコーディング中。(5)
あの透明感のある歌声はノイマンのコンデンサーマイクで録音されていた。




「さよならを教えて」はヒットし、アルディの代表曲の一つとなった。
日本でも人気が高い曲である。


木之内みどりが「涙が微笑みにかわるまで」というタイトルでカヴァーしている。

ユーミンが三木聖子への提供曲として作った「まちぶせ」も「さよならを教えて」
から翻案された曲だそうだ。(6)



ユーミンはフランソワーズ・アルディのファンだったそうで、「私のフランソワーズ」
という曲も作っている。 (1974年のアルバム「MISSLIM」に収録)

  たそがれどき ひとりかけるレコード 4年前にはじめてきいた曲を(中略)
  あなたの顔 写真でしか知らない 私はただ遠く憧れるだけ

と歌われている。






ユーミンは「さよならを教えて」からフランソワーズ・アルディを聴くようになっ
たと言っている。(7) フランスで流行った1968年頃だろう。






アルディはデビュー時のイエイエから、ジョニ・ミッチェルにも通じるようなシン
ガー&ソングライターになっていた(8)が、そこはフランス。どこかオシャレだ。


アンニュイな歌声にも、写真からも、フランスのエスプリが感じられた。
ユーミンが憧れを抱いたのはそこなのだろう。


小林麻美もアルディのファンで「どことなく翳があって、不健康な美しさがある、
不安定な愛を歌っているのが魅力」と語っている。(「話の特集」1976年5月号)








<Ma jeunesse fout l'camp(もう森へなんか行かない)>

1970年代末に再度、日本でフランソワーズ・アルディが話題になる。

1979年4月〜7月にTBS系列で放送された金曜ドラマ枠「沿線地図」のテーマ曲
として、アルディの1967年の曲「Ma jeunesse fout l'camp(もう森へなんか行
かない)」が使用されたのがきっかけだった。





1967年発表のアルバム「Ma jeunesse fout l'camp」のタイトル曲である。


↓Ma jeunesse fout l'camp(もう森へなんか行かない)」
https://www.youtube.com/watch?v=pBOncEj8Wt0







ドラマは山田太一の脚本で、東急田園都市線沿線に住む家族が抱える問題(思春期
のドロップアウト、親世代の価値観と苦悩、老人の孤独)が丁寧に描かれている。
(自分はこのドラマを見ていない。放送されてたことも後から知った)





ドラマ全編でアルディの「もう森へなんか行かない」と「Si mi caballero(私
の騎士)」(1971年作品)の2曲が繰り返し流れ、切なくメランコリックな雰囲気
が演出されていたらしい。(選曲のセンスがすばらしい!)



↓「Si mi caballero(私の騎士)」
イントロの口笛、同じメロで歌われるハミングがもの悲し気でいい。
https://www.youtube.com/watch?v=8iEi4F-5nkE






「私の騎士」は1971年のアルバム「La Question(私の詩集)」に収録された。

このアルバムはほとんどの曲が、ブラジルの女性シンガー&ソングライター、トゥ
ーカとの共作で、彼女がギターとアレンジでも参加。
アルディのアンニュイな歌声とトゥーカのギター伴奏が見事に融合。名盤である。




↑トゥーカとフランソワーズ・アルディ



ドラマの中で繰り返し流れたことで話題を呼び、この2曲を収録した日本編集の
ベスト盤「もう森へなんか行かない」(1979年エピックソニー)が発売された。
(ジャケットのカバーアートはシングル盤のものを流用)

(ちなみに私が1974年に買ったベスト盤「Francoise」には「森へなんか〜」は
入っていたが、「私の騎士」は入ってなかった)







「Ma jeunesse fout l'camp(もう森へなんか行かない)」に話を戻そう。


原題を直訳すると「私の青春が逃げて行く」というニュアンスだろうか。

私の青春が去って行く 一篇の詩をたどり 韻を踏み 手をふりながら
私の青春が去って行く 枯れた泉へ 柳の枝のように私の二十歳は刈り取られる

私たちはもう森へなんか行かない 詩人の歌 安っぽい節まわし 下手な詩
夢見心地で歌った 祭りで出会った男の子たち 名前さえ忘れてしまった






二番の歌詞に「もう森へは行かない(Nous n'irons plus au bois)」が出て来る。

フランスには「Nous n'irons plus au bois」という童謡があるそうだ。
厭世的な響きのタイトルとは裏腹に「みんなで森で楽しく踊りましょう、跳んで
踊って気に入った子にはキスしましょう」という内容である。


この童謡は18世紀、グレゴリオ聖歌の旋律に詞を乗せて作られた曲らしい。(9)
ドビュッシーの作品にも「もう森へは行かない」が使われている。(10)







アルディの「もう森へなんか行かない」は、「瞬く間に過ぎ去って行った青春」に
思いを馳せ「もうあの頃へは戻れない」と感傷的になっている歌だと思う。


直訳ではないが、「もう森へなんか行かない」はすてきな邦題だ。
「なんか」という、どこか拗ねたような言い回しがいい。








実は「森へなんか〜」はアルディのオリジナルではなくカヴァー曲である。
フランスのギイ・ボンタンペリ(男性)の作曲で、ミッシェル・アルノー(女性)
が先に歌っていた。

いずれも古典的なシャンソンっぽい歌唱だ。
アルディの内省的でメランコリックな歌の方が曲とうまく共鳴している。









私は近年、港区を席巻しているなんとかヒルズなど、森ビルだらけの威圧的な街
並みを憂いて、「もう森へなんか行かない」と呟く。


時々フランソワーズ・アルディの「もう森へなんか行かない」が聴きたくなる。
今にも空が泣き出しそうな日は特に。


<脚注>

2024年6月18日火曜日

フレンチポップスの女神、フランソワーズ・アルディが死去。




フレンチポップスを代表する歌手の1人で、1960年代のスタイルアイコンでもある
フランソワーズ・アルディが6月11日に亡くなった。(享年80歳)

一番好きな女性歌手で、憧れの女性でもあった。とても残念だ。


2004年に悪性リンパ腫と診断され、長く闘病生活を送っていたそうだ。(1)
それでも音楽活動は続けていた。
2018年に最後のアルバム「Personne d'autre」を発表。

2021年に病状の悪化から歌手活動を引退している。
ル・モンド紙によると、死因は喉頭がんだったとのこと。
昨年「あまり苦しまずに早く逝きたい」と語ったとパリ・マッチ誌は報じている。
安楽死を認める議論を復活させるよう、マクロン大統領に訴えていたそうだ。

安らかにお眠りください。




(写真:GettiImages)



アルディは1962年、18歳で自作のデビュー曲「Tous les Garcons et les Filles
(男の子と女の子)」がヒット。一躍スターになった。

明るい3連ロッカバラード(4/4拍で1拍が3連符。タタタ・タタタ・・・)だが、
「同じ歳頃の男の子と女の子は並んで歩くけど私は一人」と孤独感を歌っている。



↓「Tous les Garcons et les Filles(男の子と女の子)」






(写真:GettiImages)



ちょうどシャンソンから英米のロックの影響を受けた「イエイエ」(2)と呼ばれる
フレンチポップスへと潮目が変わり出した頃である。
当時、大人気アイドルだったのが前年にデビューしたシルヴィ・バルタンだ。(3)





↑シルヴィ・バルタンと。



シルヴィ・バルタンが気が強くワガママなクラスの女王様(笑)なら、フランソ
ワーズ・アルディは一人静かに窓の外を眺める大人っぽい娘のイメージだろうか。






イエイエの時代において、華やかなエンターテイナーとしてステージで本領発揮した
バルタンとは対照的に、ギターを弾きながら淡々と歌うアルディは、シンガー&ソン
グライター然とした珍しい歌手だった。

ギターなしで歌う時は、派手な動きもなく不器用で素人っぽい印象すら与える。
そこが、かえって魅力だった。






アルディは正規のボイストレーニングを受けていない。
しかし「素朴で人を虜にする歌声」という天賦の才能を持っていた。

透明感のあるウィスパーヴォイスは哀愁に満ちていて、それが内省的な歌にとても
よく似合っている。
「アンニュイの妖精」と呼ばれる独特の空気を纏っていた。


2023年ローリングストーン誌は「史上最も偉大な歌手トップ200」に、フランソワ
ーズ・アルディをフランス人で唯一選んでいる。






類稀な美貌と180cmという長身、足の長さ、中性的なシルエット、飾り気のない
エレガンス、着こなし、落ち着いた物腰。フォトジェニックである。

流行り始めていたミニスカートやパンタロンをいち早く着用し、ジーンズやレザー
ジャケット、レザーパンツなどロックのテイストも着こなし、ファッションアイコン
としても注目を集めた。







ソルボンヌ大学在学中からヴォーグ誌のモデル、イヴ・サンローランやパコ・ラバ
ンヌ、アンドレ・クレージュのモデルを務めた。(4)

ヴォーグ誌は「アルディは反バルドー的存在だった。ブリジッド・バルドーのような
セクシーさを前面に出した女らしさを古臭いものにした」と書いている。
アルディは女優としても活躍。ジャン=リュック・ゴダーの映画にも出演している。







フランソワーズ・アルディは英米ロック・アーティストのミューズでもあった。
デヴィッド・ボウイ、ミック・ジャガー、ボブ・ディランも彼女のファンである。



↑ミック・ジャガーとアルディ(似てる?という人もいる。カーリー・サイモンも)



ディランは4枚目のアルバムの裏ジャケットに、アルディに捧げる詩を載せている。
1966年のパリでの初ライブの日、「フランソワーズ・アルディが来てくれないとス
テージに上がらない」とディランが言い出し(ガキかよ)関係者を慌てさせた。


アルディが会場に来てくれたことで、ディランは納得してステージに上がる。
コンサートの後、ディランは新作「Blonde On Blonde」をアルディに聴かせた。
アルディは「今まで聴いたことがない音楽で驚いた」と感想を述べている。




↑ディランと舞台袖で。なんか気まずそうな。。。



アルディは1971年にアメリカのフォーク・ロックを英語で歌うアルバム「If You 
Listen」を発表している。
バフィ・セントメリーやニール・ヤングの曲をカヴァーしているが、ディランの
曲はなかった。


ビートルズについては「レコードは聴いてるけどよく知らない。来週オランピアに
見に行くわ※」と答え、Twist and Shoutを歌うか?と訊かれると「いいえ、私
が歌うのは自分の曲がほとんど。もっとスローで感傷的ね」と否定している。
(1964年1月7日 英国ITNのインタビュー)
※9日後の1月16日にビートルズはオランピア劇場で初パリ公演を行なっている。





(写真:GettiImages)




日本では、アイドルにしては大人っぽすぎ、敷居が高すぎたのかもしれない。

「アイドルを探せ」「あなたのとりこ」、レナウン「ワンサカ娘」CMがヒットした
シルヴィ・バルタン(5)、「夢見るシャンソン人形」がバカ売れのフランス・ギャル、
「天使のらくがき」「オー・シャンゼリゼ」のダニエル・ビダルと違って、アルディ
の日本における知名度、人気はイマイチだった。




↑シルヴィ・バルタンと。





FMで流れていた「さよならを教えて(Comment te dire adieu)」という曲が
好きで、フランソワーズ・アルディのLPを買ったのは18才の秋だったと思う。
日本ではなぜか本国より5年遅れの1973〜1974年にヒットしていた。
(曲については次回、深掘りします)


↓「さよならを教えて(Comment te dire adieu)




この曲が入ってるアルバムを探したが、なかなかお目にかかれない。
銀座のヤマハや山野楽器まで行けばよかったのだが、当時は行動範囲が狭かった。
パイド・パイパー・ハウス(6)もまだない。
ようやく吉祥寺のレコード店で「Françoise」という国内盤LPを見つけ購入した。






余談だが「ふたりだけの窓」(7)という1966年の英国映画を見て驚いた。
リバプールのレコード店のレジにフランソワーズ・アルディのLPが飾ってあった。
英国では早くから人気があり、レコードも入手しやすかったらしい。




さて、このLP。アートワークが目を惹く。
いい曲ばかり網羅してるので、国内編集盤だと思っていたが違っていた。


フランスのヒポポタム・レーベルからリリースされた1967-1968年既発曲の編集盤
LPをエピック・ソニーが契約して1973年頃に発売したらしい。

(ちなみにフランスでは一度、1970年にコンサートホール・レーベルから発売され、
1973年にヒポポタム・レーベルが収録曲を入れ替えて再発している)





↑見開き中面にはこんな微笑ましい写真が載っていた。
ヒポポタマス(hippopotamus)=カバ、という洒落だろうか?




このLPにはラマかアルパカと一緒に映ってる写真もあったような記憶がある。
(LPは現在持っていないので確かめようがないが)





アルディは動物好きらしく、ゾウやチータや馬を愛てる写真がある。
その一方で毛皮のコートを着てる、という矛盾した行動(?)もとっている。

まあ、ブリジット・バルドーも(やや過激な)動物愛護活動家になったのは30歳
前で、それまでは公然と毛皮のコートを着てたわけで。




↑抱いているのはベンガルという猫種です。





フランソワーズ・アルディは1974年に初来日している。こっそり?
記者会見をしてるが「さよならを教えて」ヒット御礼みたいな感じだろうか。
4月16日から4月20日の5日間、日本に滞在。公演は行っていない。
一人息子が病気との知らせが届き、予定を変更して急遽パリに戻ったそうだ。




(「ロードショー」1974年7月号)



1991年4月末、伊勢丹主催のプライヴェート・トークショー(原宿クエストホール
にて2日間開催)のために来日し、2週間ほど滞在したらしい。




(プライベート・トークショー告知の新聞広告)



1996年7月末、アルバム「Le Danger」のプロモーションのために来日。
これがアルディ最後の来日となった。



日本滞在、ファンとの交流への思い出もあったのだろうか。
東日本大震災の際は多額の寄付をした、という記事を新聞で読んだ。





↓以下の記事を参考にし、記載内容と写真を転用させていただきました。
ご協力に感謝します。
素晴らしい内容ですのでご参照ください。リンクを貼りました。

マーメイド号の紙ジャケだけじゃ生きてゆけない!本日の中古盤 FRANCOISE 
HARDY/FRANCOISE
http://blog.livedoor.jp/mermaid555/archives/52093252.html

Kontaの歓びの毒牙 フランソワーズ・アルディ Françoise Hardy の初来日 1974
https://k0nta.hatenablog.com/entry/2018/02/18/162059

僕らの日々 フランソワーズ・アルディの思い出@1991
https://ameblo.jp/jametjohn/entry-12797452652.html



<脚注>