2024年9月21日土曜日

ウエストコースト・ロックを陰で支えた立役者 J.D.サウザー。



寝耳に水とはこういうことなんだろうか。

J.D.サウザーがニューメキシコ州の自宅で亡くなった。享年78歳。
イーグルスの代理人が確認したという。死因など詳しいことは不明。


イーグルスは公式サイトで追悼の意を表明している。

「我々は兄弟であり友人である素晴らしいソングライターを失いました。
J.D.サウザーは1970年代の南カリフォルニア・サウンドの先駆者です。
聡明で才能に溢れ、読書家で、最高のユーモアのセンスの持ち主でした。
食事、映画、マティーニを愛し、生涯を通して多くの犬を飼っていました」

J.D.サウザーは音楽仲間や家族や愛犬を残して、突然いなくなってしまった。






<「もう一人のイーグルス」としての立ち位置>

J.D.の最も輝かしい功績は、グレン・フライやドン・ヘンリーとの共作で多くの
名曲をイーグスに提供したことだろう。

Doolin-Dalton、Best of My Love、James Dean、New Kid in Town、
Victim of Love、Heartache Tonight、The Sad Cafe......


「もう一人のイーグルス」と呼ばれ、彼らとの交流、友人関係は続いた。
イーグルスの2枚目のアルバム「Desperado」の裏ジャケでは、イーグルスの
4人と仲良く「ならず者」に扮してお縄を頂戴して横たわっている。



↑手前、一番右に転がってるのがJ.D.サウザー。



J.D.サウザーはデトロイトで生まれ、テキサス州で育った。
L.A.を目指した理由は「ビーチボーイズが『みんなカリフォルニアの娘だと
いいのに(I wish they all could be California girls)と歌ってたから。
みんなそうじゃないかな」と笑いながら言う。

デトロイト出身のグレン・フライは同じアパートメントに住んでいた。
階下にはジャクソン・ブラウンがいた。

毎朝ジャクソン・ブラウンがピアノで同じ曲(Doctor, My Eyes)を何度も
演奏するので、J.D.は「締め殺してやりたい」と思ったそうだ。



      ↑J.D.サウザーとジャクソン・ブラウン


一方グレン・フライはジャクソン・ブラウンのピアノを聴きながら、作曲
とはこうやるものかと学んだという。

ともあれ3人は仲良くなり、一緒に演奏したり作曲したりしていた。
J.D.とグレン・フライは一時期フォーク・デュオを結成し活動していたが、
コンビ解消後も作曲面でのパートナーシップは続いた。


グレン・フライはリンダ・ロンシュタットのバックバンドに参加。
そのメンバーがイーグルスとして、ジャクソン・ブラウンが契約していた振興
レーベル、アサイラム・レコード(1)からデビューする(2)ことになる。

リンダは「正気なの?リンダ・ロンシュタットのバックバンドという手堅い
仕事を棒にふる気?」と引き留めたという。
まさかアメリカの国民的なバンドに化けるとは・・・


Take It Easyはグレン・フライとジャクソン・ブラウンの共作でヒットした。
J.D.サウザー、グレン・フライ、ドン・ヘンリーによるBest of My Loveはイー
グルス初の全米No.1(ビルボード)を記録した。

J.D.サウザーはしばしばイーグルスのコンサートにゲスト参加している。



↑手を挙げて歓声に応えるグレン・フライの左にいるのがJ.D.サウザー。




<リンダ・ロンシュタットへの楽曲提供、共演>

やがてリンダがキャピトルからアサイラムに移籍する。(3)
ジョニ・ミッチェルもリプリーズからアサイラムへ移籍。

J.D.サウザーもアサイラムからソロデビュー。
ネッド・ドヒニー、ウォーレン・ジヴォン、元ポコのリッチー・フューレイ(4)
らが集まり、アサイラム一派はウエストコースト・サウンドを完成させて行く。





↑エミルー・ハリス、大笑いしてるリンダの横でギターを弾くJ.D.サウザー



J.D.サウザーはリンダにFaithless Love、White Rhythm and Blueを提供。
彼女のアルバムでPrisoner in Disguise、Sometimes You Just Can't Win
をデュエットしている。

またJ.D.のアルバムにもリンダが参加しており、If You Have Crying Eyes、
Say You Willをデュエットしている。

J.D.サウザーとリンダの声質は相性がよかった。声だけではない。
当時リンダとJ.D.サウザーは恋仲であった。




しかし、その恋は長くは続かなかった。
リンダはステージ上で恋話を始めて泣き出したこともあったという。
後ろにJ.D.サウザー本人がいるという状況だったらしいが、どんな気持ちで
リンダの話を聞いていたんだろう。
リンダはJ.D.作曲のFaithless Love(あてにならない恋)を歌ったのかな。


Faithless Love - Linda Ronstadt
https://youtu.be/NGmUYlsXTD4?si=uo5KR3NnFVojoMx7







<ジャイムス・テイラーとのデュエット>

デュエットといえば、ジェイムス・テイラーのHer Town Too(憶い出の町 )
(1981)ではJ.D.とJ.T.(ややこしいな)の珠玉のハーモニーが聴ける。


James Taylor and J.D. Souther - Her Town Too (Official Music Video)
https://youtu.be/cIIfn8C2y8g?si=ahYQ8SDv61HKKbys



伸びやかで艶があり、低域が豊かなジェイムス・テイラーの声。
スモーキーで甘く哀愁を帯び、空まで抜けそうな澄んだ声のJ.D.サウザー。
異質な二人の声が重なると、それだけで素敵な音楽になる。



(写真:gettyimages)


この曲はジェイムス・テイラー、J.D.サウザー、ワディ・ワクテルの共作。
アメリカではビルボード11位まで上がったようだ。

日本でもFMで流れたり、当時TVで音楽のプロモ・ビデオが流れるように
なった頃(MTVはまだ日本に上陸していない)で、渋谷にできたばかりの
タワーレコードの店頭でもこの曲のプロモ・ビデオをかけていた。


この2人のハーモニーは1979年カーラ・ボノフのデビュー・アルバムの
最後を飾るThe Water Is Wideでも聴くことができる。すばらしい!

Karla Bonoff - The Water Is Wide
https://youtu.be/VCR0MllrO-4?si=acOankpQChG1W-ds







<1981年、2球場で開催されたカリフォルニア・ライヴ>

J.Dサウザーは1980年2月に初来日。新宿厚生年金会館などでライヴを行う。

翌1981年9月ジェイムス・テイラー、J.D.サウザー、リンダ・ロンシュタット
という顔ぶれで来日。
カリフォルニア・ライヴと銘打ってコンサートが行われた。

横浜スタジアムと甲子園球場の2公演のみで、グラウンドはステージのみで、
客席はスタンド席のみという今となっては珍しい形態。



(写真:gettyimages)


ワディ・ワクテル率いるローニン、ダニー・コーチマー、ラス・カンケル、
ケニー・エドワーズ、キーボードはリトルフィートのビリー・ペイン、ローズ
マリー・バトラーがコーラスで参加、という豪華な面々。
プロデューサーはピーター・アッシャーだった。

が、J.T.とリンダがGet Closerをデュエットしたこと、客席で大学のゼミの友人
と再会したことくらいしか憶えてない。
リンダのFaithless LoveではJ.D.サウザーがデュエットで参加してたらしい。
写真を見るとジェイムス・テイラーはタカミネを弾いている。これもレア。



(写真:gettyimages)




<名盤の誉高いYou're Only Lonely (1979) >

J.D.サウザーは1970年代に3枚のソロ・アルバムを発表している。
3枚目のアルバム「You're Only Lonely」 (1979) はアサイラムからCBS移籍後
のアルバム。名曲揃いだ。
ウエストコースト・ロックの名盤であり、AORの名盤とも言える。



↑ブルーに黄色のタイトル。思わずジャケ買いしてしまった。


アルバム・タイトル曲You're Only Lonelyは彼が敬愛するロイ・オービソンの
Only The Lonelyへのオマージュ。全米7位のヒットとなった。

ニコレット・ラーソンもデビュー・アルバムで歌ったThe Last in Love、
かつての恋人リンダ・ロンシュタットに提供したWhite Rhythm and Blues。
共に美しく繊細なフォークバラードで、このアルバムの聴きどころである。


J. D. Souther - White Rhythm and Blues
https://youtu.be/9xDHLUxV4uY?si=MIJCQDITo-YaNoBE


R&R、ロカビリー、カントリー色の強い曲が多く、J.D.のバックグラウンドが
伺えるが、聴きやすいウエストコースト・サウンドに昇華させている。




ワディ・ワクテル(g)、ダニー・コーチマー(g)、ダン・ダグモア(g)、ケニー・
エドワーズ(b)、ドン・グロルニック(kb)、リック・マロッタ(ds)、デヴィッド・
サンボーン(sax)、トム・スコット(sax)らが参加。

ウエストコースト・ロックからヨットロック(AOR)へと音楽の潮流が変わっ
てしまう直前の、一番いい時期のサウンドだ。

「ア・ロング・バケーション」制作前に大瀧詠一と松本隆が本作を聴きながら、
「こういうアルバムを創りたいね」と話し合ったのは有名なエピソード。




<2000年代のJ.D.サウザー>

J.D.サウザーはその後もマイペースで新譜を出しライヴ活動を続けていた。
他のアーティストとのコラボレーションにも積極的に参加している。

2009年には久しぶりの来日公演。
2013年にソングライターズ殿堂入りを果たす。
2014年にはカーラ・ボノフと来日。
同年、アメリカ音楽協会授賞式で盟友ジャクソン・ブラウンと共演した。



(写真:gettyimages)


Jackson Browne & J.D. Souther - Fountain of Sorrow
https://youtu.be/vHljmLUEk9o?si=cAT7gLDpXg2YT-Bq




2015年には他のアーティストへの提供曲のセルフカヴァー集、Natural History
をリリースしている。
60代最後のJ.D.サウザーが静かに歌うNew Kid In Town、Best Of My Love、
Faithless Loveはなかなか味わい深い。





J. D. Souther - Best Of My Love
https://youtu.be/eO5YmR8IWTE?si=xBWD2KiC2CbHylyd

J. D. Souther - New Kid In Town
https://youtu.be/U_w2O3DImcc?si=41yZblnmk-KBakct



同年に来日し、ビルボード東京/大阪でライヴを行っている。





この人はいい感じで歳を重ね、渋い爺さんになったなと思う。
声もそれほど衰えていない。

J.D.サウザーはカーラ・ボノフとのツアーをこの9月24日にフェニックスから
開始する予定だったそうで、音楽活動にも意欲的だったらしい。

ご冥福をお祈りします。
天国でグレン・フライと再会できますように。




<脚注>

2024年7月15日月曜日

ジミ・ヘンドリックスの名曲「リトル・ウィング」<後篇>




<「リトル・ウィング」の歌詞とその解釈>


          (Jimi Hendrix 対訳:イエロードッグ>

Well she's walking through the clouds
With a circus mind that's running round
Butterflies and zebras, and moonbeams
And fairytales    That's all she ever thinks about
Riding with the wind

When I'm sad, she comes to me
With a thousand smiles she gives to me free
It's alright, she said, it's alright
Take anything you want from me    anything, anything
Fly on, little wing


そう、彼女は雲の中を歩いてるのさ
サーカスみたいにお祭り騒ぎ ぐるぐる駆け回って
蝶とかシマウマとか 月の光 それからお伽話
彼女はいつもそんなことばかり考えているんだ
風に乗って自由に飛びながら

悲しい時は彼女が来てくれる
満面の微笑みを浮かべて 僕を解き放ってくれる
だいじょうぶ、と彼女は言う だいじょうぶよ 
欲しいものは何でもあげるわ 何でも 何でもね
小さな翼よ 飛び続けなさい




この曲を初めて聴いた時、こう歌ってるのかと思っていた。

Well she’s working through the crowds 
It's circumstance running around
(彼女は人混みの中で働いている 忙しく駆け回ってる状況で)

ぜんぜん違ってました〜(恥💦




↑珍しくフェンダー・プレシジョン・ベースを弾いてる。





さて、歌詞を拾って行きます。

「With a circus mind that's running round」
「サーカス気分で走り回る」と訳されていることが多い。
次にシマウマが登場するし、サーカスは円形劇場。その訳でしっくり来る。

「circus」は「ばか騒ぎ,大混乱、愉快で騒がしいもの」という意味もある。
「run round」にも「駆け回る、騒々しく遊ぶ」という意味が回る。


「That's all she ever thinks about」の「ever」は「いつも」を強調。
例)That's all you ever sayなら「あなたはいつもそれしか言わない」。



「Riding with the wind」という言い方があるのか?
Ride on the wind、Ride the wind、Ride like the windが一般的だと思うが。
調べたら、こんな説明を見つけた。




「Riding with the wind」は遮るものがなく自由に素早く前進することの比喩
として使われるらしい。
この場合の「風」は方向と力の象徴。
風によって運ばれるヨットのように、その人は永遠の力によって支援、推進
されることを暗示している。(なるほど)



「With a thousand smiles」の a thousand〜は数え切れないほどの多さ。
例)I owe you a thousand apologies で「本当に申し訳ありません」。


「she gives to me free」は「無償、見返りなしで私にくれる」とも訳せる。
この場合は「自由をくれる、(悲しみから)解き放ってくれる」ではないか。
尚、give to meとgive meは同じ。







「Fly on, little wing」は最初の「Riding with the wind」と韻を踏んでいる。
最後にやっとタイトルの「little wing」が出て来た。
この「little wing(小さな羽)」は妖精の彼女を指してるとも取れる。

「little wing」は愛情や保護を象徴する比喩でもあるらしい。
妖精の彼女が自分(ジミ)を呼ぶ際の愛情を込めたニックネームなのだろう。

「どんな翼でも羽ばたけば、自分らしく飛べる。だから飛び続けなさい」と
自分(ジミ)を励ましてくれている、という解釈の方がいいと思う。







<幻想的な世界観と背景にあるジミの出自>

最初のヴァースはジミの心の中にある童話のような幻想的な世界が歌われる。
貧困で希望のない生活を送っていた幼少期(1)、ジミは魔法使いや空想の世界
に逃避する傾向があったという。
この曲を作った頃は常習化していたLSDの幻覚作用も影響してるはずだ。


その超自然的な異次元空間の女性は、ジミの空想が創り上げたミューズで、
守護天使のような存在である。

幼少期のジミを置いて家を去り、早世した母親を重ねているという説もある。
母親から得られなかった愛情を架空の女性に求めているという見方もできる。



↑2台目の赤いエレキギターを買ってもらった15歳頃。


2回目のヴァースではその女性が自分(ジミ)を救ってくれる話になる。
彼女は悲しみや苦しみから解き放ってくれ、欲しいものを与えてくれ、飛び
続けるよう励ましてくれる。

ジミの才能をいち早く見出し、売り込んでくれたモデルのリンダ・キースの
存在があったのではないかと思う。




<ジミ・ヘンドリックスの才能に気がついたリンダ・キース>





リンダ・キースはキース・リチャーズの恋人だった(名前がややこしいな💦)
キースはパーティーで出逢った完璧な女性、リンダに心を奪われる。
彼女はヴォーグ誌のモデル。17歳だった。

二人は恋仲になり、同棲生活が始まった。
リンダはストーンズの全米ツアーにも同行するようになる。





ニューヨークのクラブでリンダは初めてジミのライヴを見て衝撃を受ける。
驚異的な才能は歴然としていたが、誰も気づいてない。観客もジミ本人も。
ジミにレコード契約させデビューさせることが使命だと彼女は考え始める。


リンダはまずストーンズのマネージャーのアンドリュー・ルーグ・オールダム
にジミのライヴを観せた。が、アンドリューは関心を示さなかった。
リンダがジミに肩入れしてるのを手伝えば、キースの機嫌を損ねかねない。(2)



↑アンドリュー・ルーグ・オールダムとキース・リチャーズ。



シーモア・スタイン(3)に観せたら、ギターを破壊するジミに彼は尻込みした。
(それはリンダが無断で持ち出したキースのギターだった)


アニマルズのベーシスト、チャス・チャンドラーはジミのパフォーマンスを
見て驚く。(4)
チャンドラーはジミをロンドンに連れて行き、自らがプロデューサーを務め、
新しいバンド(5)を結成させレコードデビューさせた。




↑ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスとチャス・チャンドラー(右)。



ジミが成功を手中にしたのはリンダが動いてくれたおかげだ。
ジミにLSDも教えたのもリンダである。

歌は苦手というジミに、リンダは「自分で歌いなさい」と薦めた。
ブルースをこよなく愛した彼女は、ブルースを続けることをジミに求めた。


ジミは他のガールフレンドができ、リンダとは疎遠になる。
しかし死ぬ直前には、またリンダのことを頼りにしていたという。
「リンダ、僕を見て、聴いて。ブルースをやってるよ」と手紙を送っている。






↓Red Houseは1966年にジミがリンダのために作曲したブルースである。
https://youtu.be/_whI9m0SFys?si=-YTJW0g7KaTOLY8Y





<ディランの影響を受けたボーカル・スタイル>

ディランはジミが最も憧れ続け、影響を受けた白人アーティストである。
ジミのディラン崇拝は、当時の黒人コミュニティの中で異質な存在であった。

黒人のクラブにディランのLPを持参し、「ヒルビリー・ミュージック(6)は
他所でやれ」と叩き出された、というエピソードもある。




↑バンドを転々としていた無名時代。デュオ・ソニックを使用している。



ジミがディラン熱に熱に浮かされるようになったのは、ディランがエレキギタ
ーに持ち替えバンド・スタイルに変わってからだ。

日銭を稼ぐために黒人コーラスグループのバックバンドで毎晩同じ曲を弾き続
ける日々に嫌気がさしつつも、自分の音楽の方向性も見出せずもがいていた
ジミの心に「Like A Rolling Stone」は刺さった。






ディランの比喩表現や反抗的なメッセージ・ソングは、従来の職業的作詞・
作曲家による甘ったるい紋切型の歌詞や曲調とは大きく異なり、自分自身の
音楽を模索していた当時のジミに大きな手がかりとなった。

ディランのトーキングブルース調のルーズだが骨太の歌い方も、自分の歌声
にコンプレックスを持っていたジミを勇気づけてくれた。


「Little Wing」の比喩を多用した詩、ぶっきらぼうだが味わい深い歌い方に
は、こうしたディランの影響が感じられる。






<脚注>

2024年6月29日土曜日

F・アルディの「さよならを教えて/もう森へなんか行かない」




<Comment te dire adieu(さよならを教えて)>

初めて聴いたアルディは「Comment te dire adieu(さよならを教えて)」だ。
1968年発表のアルバム「Comment te dire adieu 」のタイトル曲で、シングル盤
でも発売された。

フランスでは1968〜1969年にかけてヒットしたが、なぜか日本では5年遅れの1973
〜1974年にFMでよく流れていた。何がきっかけで売れ出したんだろう?


↓「Comment te dire adieu(さよならを教えて)」
https://www.youtube.com/watch?v=tINyMbNZytI






原曲はジャック・ゴールド作曲の「It Hurts To Say Goodbye」である。
マーガレット・ホワイティングが1966年に発表。
翌1967年にヴェラ・リンのカヴァーがヒットしている。

いずれも古き良き時代を彷彿させるオーソドックスな3連ロッカバラード(1)だった。
アルディーが聴いても興味を示さなかっただろう。


アルディは本作品のアップテンポのインストゥルメンタル(演奏者不明)をどこかで
聴き、とても「キャッチー」だと感じたという。

彼女が聴いたのは、1967年発表のブラジルのオルガン奏者、ワルター・ワンダレイ
が軽快なサンバのリズムでハモンドオルガンを弾いてるヴァージョンだと思われる。




↓ワルター・ワンダレイの「It Hurts To Say Goodbye」
https://www.youtube.com/watch?v=py2Kui2ye-I




作曲者のジャック・ゴールドも自身のオーケストラで「It Hurts to Say Goodbye」
でカヴァーしているが、1969年リリース。アルディの「さよなら〜」より後だ。

これはセルジオ・メンデス&ブラジル'66かバート・バカラックのようなラテン調の
イージーリスニングである。
むしろアルディの「さよならを教えて」のインストゥルメンタル版という印象だ。




↓ジャック・ゴールド・オーケストラの「It Hurts to Say Goodbye」
https://www.youtube.com/watch?v=WdE9VkFJ-RY






↑左からゲンスブール、アルディ、右はウォーレン・ベイティ(1967年)



アルディはフランス語の作詞はセルジュ・ゲンスブール(フランスの作詞・作曲家、
歌手、映画監督、俳優)に依頼した。(2)
ゲンスブールは ex の音節を持つ単語(3)の連続でリズムを強調することを思いつく。

Sous aucun prétex.../...te, je ne veux / avoir de réflex.../...es malheureux. / 
Il faut que tu m'ex.../...pliques un peu mieux, / comment te dire adieu.
(Kleenexという商品名も使われている)




↑フランソワーズ・アルディとセルジュ・ゲンスブール



さらに、サビは歌メロではなくモノローグのような語りのパートを付け加えた。
演奏はアップテンポでリズムが強調され、歌と同じライン、歌に呼応するオブリガー
トにスタッカートを効かせた軽快なフレンチホルン(4)が加えられている。


この曲がきっかけでアルディは、ゲンスブールとその妻だったジェーン・バーキン
とも親しくなった。




↑セルジュ・ゲンスブールとジェーン・バーキン




↑ジェーン・バーキンとフランソワーズ・アルディ



↓珍しいジェーン・バーキンとのデュエット。
https://www.youtube.com/watch?v=0xJwTV7jzwU






↑アルバム「Comment te dire adieu 」のレコーディング中。(5)
あの透明感のある歌声はノイマンのコンデンサーマイクで録音されていた。




「さよならを教えて」はヒットし、アルディの代表曲の一つとなった。
日本でも人気が高い曲である。


木之内みどりが「涙が微笑みにかわるまで」というタイトルでカヴァーしている。

ユーミンが三木聖子への提供曲として作った「まちぶせ」も「さよならを教えて」
から翻案された曲だそうだ。(6)



ユーミンはフランソワーズ・アルディのファンだったそうで、「私のフランソワーズ」
という曲も作っている。 (1974年のアルバム「MISSLIM」に収録)

  たそがれどき ひとりかけるレコード 4年前にはじめてきいた曲を(中略)
  あなたの顔 写真でしか知らない 私はただ遠く憧れるだけ

と歌われている。






ユーミンは「さよならを教えて」からフランソワーズ・アルディを聴くようになっ
たと言っている。(7) フランスで流行った1968年頃だろう。






アルディはデビュー時のイエイエから、ジョニ・ミッチェルにも通じるようなシン
ガー&ソングライターになっていた(8)が、そこはフランス。どこかオシャレだ。


アンニュイな歌声にも、写真からも、フランスのエスプリが感じられた。
ユーミンが憧れを抱いたのはそこなのだろう。


小林麻美もアルディのファンで「どことなく翳があって、不健康な美しさがある、
不安定な愛を歌っているのが魅力」と語っている。(「話の特集」1976年5月号)








<Ma jeunesse fout l'camp(もう森へなんか行かない)>

1970年代末に再度、日本でフランソワーズ・アルディが話題になる。

1979年4月〜7月にTBS系列で放送された金曜ドラマ枠「沿線地図」のテーマ曲
として、アルディの1967年の曲「Ma jeunesse fout l'camp(もう森へなんか行
かない)」が使用されたのがきっかけだった。





1967年発表のアルバム「Ma jeunesse fout l'camp」のタイトル曲である。


↓Ma jeunesse fout l'camp(もう森へなんか行かない)」
https://www.youtube.com/watch?v=pBOncEj8Wt0







ドラマは山田太一の脚本で、東急田園都市線沿線に住む家族が抱える問題(思春期
のドロップアウト、親世代の価値観と苦悩、老人の孤独)が丁寧に描かれている。
(自分はこのドラマを見ていない。放送されてたことも後から知った)





ドラマ全編でアルディの「もう森へなんか行かない」と「Si mi caballero(私
の騎士)」(1971年作品)の2曲が繰り返し流れ、切なくメランコリックな雰囲気
が演出されていたらしい。(選曲のセンスがすばらしい!)



↓「Si mi caballero(私の騎士)」
イントロの口笛、同じメロで歌われるハミングがもの悲し気でいい。
https://www.youtube.com/watch?v=8iEi4F-5nkE






「私の騎士」は1971年のアルバム「La Question(私の詩集)」に収録された。

このアルバムはほとんどの曲が、ブラジルの女性シンガー&ソングライター、トゥ
ーカとの共作で、彼女がギターとアレンジでも参加。
アルディのアンニュイな歌声とトゥーカのギター伴奏が見事に融合。名盤である。




↑トゥーカとフランソワーズ・アルディ



ドラマの中で繰り返し流れたことで話題を呼び、この2曲を収録した日本編集の
ベスト盤「もう森へなんか行かない」(1979年エピックソニー)が発売された。
(ジャケットのカバーアートはシングル盤のものを流用)

(ちなみに私が1974年に買ったベスト盤「Francoise」には「森へなんか〜」は
入っていたが、「私の騎士」は入ってなかった)







「Ma jeunesse fout l'camp(もう森へなんか行かない)」に話を戻そう。


原題を直訳すると「私の青春が逃げて行く」というニュアンスだろうか。

私の青春が去って行く 一篇の詩をたどり 韻を踏み 手をふりながら
私の青春が去って行く 枯れた泉へ 柳の枝のように私の二十歳は刈り取られる

私たちはもう森へなんか行かない 詩人の歌 安っぽい節まわし 下手な詩
夢見心地で歌った 祭りで出会った男の子たち 名前さえ忘れてしまった






二番の歌詞に「もう森へは行かない(Nous n'irons plus au bois)」が出て来る。

フランスには「Nous n'irons plus au bois」という童謡があるそうだ。
厭世的な響きのタイトルとは裏腹に「みんなで森で楽しく踊りましょう、跳んで
踊って気に入った子にはキスしましょう」という内容である。


この童謡は18世紀、グレゴリオ聖歌の旋律に詞を乗せて作られた曲らしい。(9)
ドビュッシーの作品にも「もう森へは行かない」が使われている。(10)







アルディの「もう森へなんか行かない」は、「瞬く間に過ぎ去って行った青春」に
思いを馳せ「もうあの頃へは戻れない」と感傷的になっている歌だと思う。


直訳ではないが、「もう森へなんか行かない」はすてきな邦題だ。
「なんか」という、どこか拗ねたような言い回しがいい。








実は「森へなんか〜」はアルディのオリジナルではなくカヴァー曲である。
フランスのギイ・ボンタンペリ(男性)の作曲で、ミッシェル・アルノー(女性)
が先に歌っていた。

いずれも古典的なシャンソンっぽい歌唱だ。
アルディの内省的でメランコリックな歌の方が曲とうまく共鳴している。









私は近年、港区を席巻しているなんとかヒルズなど、森ビルだらけの威圧的な街
並みを憂いて、「もう森へなんか行かない」と呟く。


時々フランソワーズ・アルディの「もう森へなんか行かない」が聴きたくなる。
今にも空が泣き出しそうな日は特に。


<脚注>