2021年2月28日日曜日

フィル・スペクターの第2黄金期、ウォール・オブ・サウンド復活。


↑(追記)左端はバーニー・ケッセル、右端はハーブ・エリス。
全員に同じフレーズを弾かせてるのか?ジャズ・ギターの大御所の無駄使い。
2人ともフルアコじゃなくテレキャスターのように見える。
(見落としていました。ご指摘くださったHさん、ありがとうございます)



日本でフィル・スペクターの名が知られるようになったのは1970年頃だ。
ビートルズのアルバム、レット・イット・ビーのプロデューサーとして。

またジョージの3枚組の大作オール・シングズ・マスト・パス、ジョンの魂、
イマジンを手がけたことでスペクター・サウンド、ウォール・オブ・サウンド
も語られるようになった。


<フィル・スペクターとビートルズ、最初の出会い>

ビートルズはアメリカの音楽を研究し、マニアックな選曲(1)をしていた。
R&Rからポップ・ミュージック、カントリー、モータウン、ミュージカルまで。
マーヴェレッツなど女性コーラス・グループの曲もレパートリーにしていた彼ら
は当然ロネッツのファンでもあり、フィルのファンでもあった。

To Know Her Is To Love Herはビートルズ初期のステージではレパートリー
であり、デッカのオーディション、BBCスタジオ・ライヴでも披露している。



↑ジョージとロネッツ、フィル・スペクター。
クリックするとビートルズ版To Know Her Is To Love Herが聴けます。



1964年1月ロネッツ渡英の際ジョン、ジョージ、リンゴが会いに行っている。
そして1964年2月7日ビートルズが初めて渡米した時、その飛行機にフィルも
乗り合わせていたのだ。(これはフィルがそうなるよう企てたらしい)



↑アメリカに向かう飛行機内のジョン、シンシア、フィル。



↑飛行機のタラップを降りるビートルズの後方、右上にフィルが写っている。


機内でフィルは4人と話をした。一番質問しいていたのはポールだったという。
レコーディングのやり方などに興味があったのだろう。



<インスタント・カーマ>

フィルをロンドンに連れてきたのはアラン・クレインだとジョージは語った。
アラン・クレインはジョンの推薦でアップルの社長に就任し、ビートルズの
マネジメントを任されるようになった。(2)

1970年1月ジョンはInstant Karmaを書き上げ、その日中に録音したがった。
クレインに相談するとフィル・スペクターを推薦され、ジョンは賛成した。(3)

ジョージによると急にジョンから召集がかかり、アビーロード・スタジオへ
行く途中フィルに会ったので一緒に連れて行ったという。




フィルはジョンにピアノ、ジョージとアラン・ホワイトにもピアノ、クラウス
・フォアマンにエレクトリック・ピアノを弾かせ、音に厚みを持たせた。
次にこもったドラム・サウンドをオーバーダヴした。


ジョンは4人編成で幅のある質感たっぶりの音を作るフィルに感銘を受けた。
フィルはLAでストリングスを入れたいと申し出るが、発売を急ぐジョンは断る。

シングルは2月初めに英国でリリースされた。
数週間後に米国で発売されたレコードはよりクリーンでタイトになっていた。
フィルがもう一度リミックスしたのだ。ジョンはフィルの才能を賞賛した。



↑クリックするとInstant Karmaが聴けます。



<レット・イット・ビー>

フィルの仕事ぶりに満足したジョンとアラン・クラインは、ビートルズが投げ
出したゲット・バック・セッションのテープの再編集を依頼した。(3)
映画公開に合わせて5月にアルバムを出す必要があったのだ。

フィルはアップル社の地下スタジオで2ヶ月間、連日テープの山と苦闘した。
収録曲とテイクを選び直し、曲によってはストリングスやコーラスを加えた。

ストレードなバンド・サウンド、対比をなす荒削りな部分、重厚なサウンドと
ビートルズの多彩さを打ち出そうとした。


その間ジョンの脱退宣言にショックを受けたポールはスコットランドの農場に
引き篭もりソロ・アルバムを制作中で、フィルが作業してるのを知らなかった。




5月5日にアルバム、レット・イット・ビーはリリースされた。

自分の知らない間にアルバム編集が行われてたこと、当初のコンセプトとは
まったく違う作品になったこと、Long And Winding Roadが原型を留めない
厚化粧の曲になってしまったことへのポールの怒りは大きかった。

ジョンは素晴らしいと絶賛。ソロ・アルバムもフィルに任せることにした。
ミックスに立ち会ったジョージもフィルの仕事ぶりを気に入り自分のソロの
プロデュースを依頼する。


ローリングストーン誌は「スペクターはこれ見よがしにお得意のオーケストラ
とコーラスを駆使し、ビートルズ久々の大傑作となるべきアルバムの荒けずり
な宝石たちを模造品に変えてしまった。フィル・スペクターの大失策」と辛辣
なレビューを載せた。
ジョージ・マーティンも「馬鹿なことをした」と厳しく批判した。

フィルは当初のレコーディングに参加していなかった上に、膨大な録音テープ
から編集するという困難な仕事だったにもかかわらず、ちゃんと形にしたので
自分が責められるいわれはないと憤慨した。
フィルを擁護するジョンとジョージ、非難するポールとの亀裂は大きくなった。




当時このアルバムを聴いた時は、確かに今までとの違和感を持った。
しかし長年聴いてきたわけで、今はこれはこれという受け留め方もしている。
それよりも、こんなにも違って聴こえるのか?という謎が長年残ったままだ。

アビーロード・スタジオのエンジニアは、フィルが全てのトラックにエコー
をかけまくった上でミックスしていた、と証言している。
ふつうエコーをかけると音像がぼやけ奥に引っ込んだように聴こえるものだ。

が、フィルがプロデュースしたレット・イット・ビーはグリン・ジョンズが
編集したゲット・バック(未発表)、ジョージ・マーティンが手がけた今まで
の作品と比べると、むしろ音像はクリアで力強く前に出てくる印象だ。
なぜだろう?やはりエコーのかけ方に極意があるのだろうか?



↑グリン・ジョンズがミックスしたシングル盤Get Backが聴けます。



↑フィル・スペクターによるGet Backアルバム・ヴァージョンが聴けます。



↑グリン・ジョンズがミックスしたシングル盤Let It Beが聴けます。



↑フィル・スペクターによるLet It Beアルバム・ヴァージョンが聴けます。



<オール・シングス・マスト・パス>

当時は分かっていなかったが、このアルバムはジョージ流のスワンプ・ロック
で、フィルの進化したウォール・オブ・サウンドで仕上げているのだ。

フィルとジョージは和気藹々で、スタジオは笑い声が絶えなかったという。
セッションに参加したビリー・プレストンによると。。。

「何台ものキーボードに同じコードを弾かせ大きく力強いサウンドを作ろう
としていた。何度も違うオクターヴで弾かされて死ぬほど退屈な思いをした。
僕自身は彼のサウンドのファンではない。ロネッツではうまくいってたけど。
合う曲と合わない曲があるんだ。でもジョージの曲にはぴったりハマってた」

「その場でエコーをかけてレコーディングする。あんなの初めてだった。
全部の機材を同時に回し、しかもそれぞれどう作用し合っているか把握してる。
サーカスだよ。もちろん団長はフィルさ」




中でもシングルカットされ大ヒットしたMy Sweet Roadの音の重ね方には
1960年代の全盛期スペクター・サウンドの残り香が漂っている。

圧倒されるくらい壮大なウォール・オブ・サウンドの中でジョージが歌う。
基本的にマントラのくり返しなのだが、フィルのリズムトラック、躍動感あふ
れるベースとドラムがインドの苦行をハッピーなゴスペルソングに変えている。



↑クリックするとMy Sweet Roadが聴けます。


フィルはステレオ・ミックスでもウォール・オブ・サウンドを成立しうること
を実証してみせた。


※この投稿の半年後オール・シングス・マスト・パス50周年リイシューが発売。
Rollingstone誌に関係者が語るフィル・スペクターの功罪が書かれています。
新たな証言もあり、なかなか興味深い。下記URLをクリックすると読めます。



<ジョンのソロ・アルバム>

ジョンの魂はミニマム編成の力強いサウンド、ジョンが心の叫びを歌う名作。
イマジンは曲によってストリングスを加え厚みを出しメリハリの効いた作品。

アルバム、イマジンの録音中ジョンは「いろいろな奴と仕事をしてきたが、
君は本当にすごい」とフィルを褒めちぎっている。




フィルは自分の力に酔い痴れていた。
偉大なビートル二人との仕事で成果を上げ、再び名声を取り戻したのだ。


サムタイム・イン・ニューヨーク・シティを経て、ロックン・ロールを録音中
、フィルの奇行、悪い面が出初めた。ドラッグと酒に溺れて情緒不安定だった。
(ジョンも酒びたりで手に負えない状態だったのだが)

ジョンが歌い始めると奇声を発して遮ってしまう。
終いにはスタジオの天井を銃で打ち抜き、マスターテープを持ち逃げした。

マスターテープは取り返したが、録れていた音は使い物にならなかったそうで、
ジョンは一からアルバムを作り直すことになった。




ジョンは「フィルは音楽やサウンドに対して驚異的な耳を持っている。それを
利用して、彼がエゴを出し怪物(specter)(5)にならないようにしていた」と
語っていた。

その後ラモーンズなどのプロデュースをするが全盛期ほどの評価を受けること
はなく、フィルは第一線から消えていく。



<ウォール・オブ・サウンドを築き上げた孤独な天才>

フィル・スペクターがォール・オブ・サウンドという革新的な録音手法を生み
出した背景には、彼自身の偏執狂的な性格が影響していたとも言われる。
彼の異常なまでの我が儘と孤独癖は家系的なものらしい。(6)

9才の時に大好きだった父親が自殺したことも影響しているかもしれない。
容姿へのコンプレックスも大きかったろう。



フィルの場合は(幸いにも)その異常性が才能へ結びついたと言える。
少年時代に聴いたR&Rに心酔していた重厚なワーグナーの音をブレンドし、
ロックンロール・シンフォニーを生み出した。

執拗なまでの完璧主義によるスタジオでの試行錯誤。そして独裁体制。
セッションを指揮するフィルは人の意見に傾ける耳を持たなかった。
スタジオではフィルの指示に従うか、去るかのどちらかだった。




スタジオで帝王として振る舞うだけならまだいいい。
少々奇矯な行動に見えても、結果として作品の完成度が高ければ人は納得する。

相手を認めない一方的な自己主張が音楽創造の場だけなら許されるだろうが、
日常的に発揮されれば周囲との間に軋轢を生じないわけがない。
フィルは自我を通し権力者になるため人を騙し、踏み付けにして敵を増やした。



1970年代にはフィル・スペクターの奇人ぶりはすでに伝説の域に達していた。
異常性を増し、ビヴァリー・ヒルズの巨大な邸宅に閉じこもるようになった。

ウォール・オブ・サウンド(音の壁)は心の壁でもあったのかもしれない。




少年時代のフィルにギターを教えたジャズ・ギタリスト、ハワード・ロバーツ
は後にフィルのセッションで単純なフレーズを何時間も弾かされたそうだ。
ハワードはこう回想している。

「フィルはまともじゃなかった。
ハリウッドでの成功というネバー・ランド(7)に入ってしまっていたんだ」


フィルの手法はその後多くのミュージシャンやプロデューサーに受け継がれ、
彼の偉業は尊敬され、彼が残した音楽は今も世界中で愛されている。
そういう意味で、フィル・スペクターは決して孤独ではなかったのだが。。。



↑1989年フィル・スペクターはロックの殿堂入りを果たした。
2004年ローリングストーン誌の選ぶ歴史上最も偉大なアーティストで64位。



<脚注>

2021年2月14日日曜日

フィル・スペクターのウォール・オブ・サウンドの秘密。



<ウォール・オブ・サウンドの正体とは?>

ウォール・オブ・サウンド=当時としては珍しい多重録音と巧みなエコー処理による
ぶ厚い音の壁のような迫力のあるサウンド、という解釈が一般的のようだ。

しかし、それは誤解である。


フィルのウォール・オブ・サウンドは音を重ねてはいるが、マルチトラック・レコー
ダーで後から重ね録り(オーヴァーダブ)して行く、いわゆる多重録音(1)ではない。

音を重ねる=ピアノ、ベース、ギターなどの演奏者をそれぞれ複数集め、ユニゾンで
弾かせることで音量、音圧、音の幅や奥行きを得る、というやり方であった。




18人から23人ものミュージシャンが一度に演奏するのを録音しているのだ。
標準的なセッションはドラムス×1、ギタリスト×4、ベース×2、キーボード×3~4、
サックス×3~4、トロンボーン×2、トランペット×2、パーカッション×多数。
(ドラムスも2人という時もあった)

基本的にリズム・セクションとホーン・セクションによるバッキング・トラックは、
スタジオでのライヴ・レコーディング、つまり一発録りであった。
一発で演奏した音をミキサーでバランスを取っているだけで多重録音はしてない。


エンジニアのラリー・レヴィンによると、ギターから始めることが多いらしい。
1時間ほど4~8小節ごとリハーサルを繰り返しフィルが聴いて変更を加える。
フィルが満足するまで何度も繰り返す。ランスルーが40回に及ぶこともあった。

次にピアノを加え、同じようにギターとぴったり合うように繰り返す。
ベースを加え、最後にホーンとドラムで仕上げる。




個々の楽器の音の輪郭が増幅され、溶け込んで一体化した音の塊となる。
バックコーラスも壮大なクワイア(聖歌隊)のように聴こえる。

その音の壁の中から、特定の音(例えば楽器のソロやオブリ、ヴォーカル)を
浮かび上がらせることで、より煌びやかに輝せ際立たせる効果も得られる。
これがウォール・オブ・サウンドの正体だ。


後にフィルを敬愛するブライアン・ウィルソンがビーチボーイズのアルバム、
ペットサウンズと未完のスマイルのレコーディングで同じ方式を採った。



↑ドラムスのハル・ブレインに指示を出すブライアン・ウィルソン。


それらのアウトテイクが発表されたが、ビーチボーイズ研究の一人者でもある山下
達郎が「多重録音で複数のピースをつないでいる、ここがつなぎ目だろうと思いな
がら聴いてたが、一曲通して一発録音と分かって驚いた」と言っていた。(2)



レコードのステレオ化が進みサウンドの分離が優先された時代に、フィルがモノラル
・ミックスにこだわったのは音を一つの塊で聴かせたいからである。
(ステレオでの楽器の分散はウォール・オブ・サウンドと相反すると考えていた)(3)
家庭用ステレオではフィルがスタジオで聴いた音は正確に再現できないのも理由の一つ。

ブライアン・ウィルソンもまたモノラルにこだわった。
ステレオだとリスナーのスピーカーの設置条件に音場が委ねられてしまうからだ。



<フィル・スペクターの録音方法>

スタジオに演奏者を集め、大量の立ちマイクで拾った音を12chミキサー(マイク
入力12系統)で音量バランスを取りながら、ダイレクトに当時アメリカで標準だ
った1/2インチテープの3トラック・レコーダー(4)にモノラル録音していた。

フィルの録音が行われたのはゴールドスター・スタジオのスタジオA。(5)
35x33フィート(10.7mx10m)、天井高14フィート(4.3m)の小さな部屋だ。




写真を見ると、狭い部屋にひしめくようにミュージシャンが座っている。
まるで高校のブラスバンド部の練習風景のようだ。

ラリー・レヴィンによると、小さな部屋で多人数が同時演奏する時の空気振動の
圧力がウォール・オブ・サウンドで、人数が増えるほど音が締まってくるという。
人の集団が音を吸収し、体が壁を構成するかららしい。

ベースやエレキギターのアンプには10cm程度のほぼベタ付けで、生音を拾う楽器
のマイクは30〜50cmの標準的な距離(6)でセットされているようだ。
音を遮るパーテーションはほとんど使われない。


こういう密状態では真近にあるマイクだけでなく、隣接した別のマイクにも音が
漏れて録音されてしまうのは避けられない。
本来拾ってはいけない別の楽器の音がディレイのように入ってくる。
それらが重なり合って壁のように聴こえるのがウォール・オブ・サウンドなのだ。


前回書いたテディ・べアーズ時代にフィルが試みたという「スピーカーから鳴らし
た音をマイクで拾い、それに音を重ねる」という素人っぽい初歩的な多重録音。
このアンビエント感のある音作り経験を活かしているのではないだろうか。


テディ・ベアーズでフィルと組んでいたマーシャル・リーブは「ウォール・オブ・
サウンドはテディ・ベアーズで試みた実験の発展形だ」と述べている。
「ウォール・オブ・サウンドは透明な壁。サウンドというより空気の動きだ。
音が混じり合い輪郭がぼやける。僕らが録ってたのは部屋の空気感なんだ」




上の写真では、ALTECの大型スタジオモニターが設置されているのが分かる。
ミュージシャンたちに録音した音を聴かせるためだが、(深読みすると)モニター
から出る音を再度マイクで拾うという裏技もあったのでは?という気がする。

(高校生の頃アコギの音をステレオからモニターしながら録音を試みたことがある
が、低音が増し独特な響きが得られた。ハウリングを抑えるのが難しかったけど)




<フィル・スペクターのエコー処理>

多くの人がフィルの独特のサウンドは深いエコーをかけることで生まれると思って
いたが(確かに深いエコーをかければそれ風に聴こえる)、エコー処理はウォール
・オブ・サウンドの本質的なテクニックではない。

上述のように過密な状態で大人数が出す音の塊がウォール・オブ・サウンドだ。
それとゴールド・スタジオ独自の音響特性(後述)が貢献している。
エコーは使ってはいたが、それはスパイスのようなものだという。


ゴールドスター・スタジオのエコー・チェンバー(ルームエコー)は響きの良さ
で人気が高かった。
創設者の一人、デヴィッド・ゴールド自らがチェンバーの設計・施行をしている。

このエコー・チェンバーは門外不出で、仕様は明らかにされなかった。 (7)
フィルの音楽制作には不可欠なフレーバーを加える装置である。



<ゴールドスター・スタジオならではの音響特性>

ゴールドスター・スタジオはハリウッドの中心、パラマウントの近くにあった。
1950年にハリウッド在住の音楽作家や映画・TV制作関係者のデモ作りの独立系
スタジオとしてスタートしている。




キャピトル、コロムビア、RCAなどのメジャー系スタジオにような伝統的な方法
やルールに縛られない、ユニークで柔軟性に富んだ運営。
独自の技術による時代を先取りした音で評価を高め、大きな成功を収めた。

デヴィッド・ゴールド手作りのミキシング・コンソール(調整卓)は、回路を
全て真空管で構成され、音抜けが良かったという。
特にスタジオAに置かれた2号機はフィル・スペクターのお気に入りだった。
他の機材も選りすぐられたものであった。(8)


ラッカー盤に溝を刻むカッティング・マシーン(高度な技術を要する)もゴール
ドによる手作りで、優れた音質と高い音量・音圧を得ることができた。

エンジニアのラリー・レヴィンやカットマン(カッティング技術者)の力も大だ。
こうしたスタッフの技量もフィルの理想の音作りには欠かせなかった。





<作曲陣、アレンジャー、レッキング・クルーの演奏力>

忘れてはならないのはフィルがゴフィン&キング、グリニッチ&バリー、マン&
ウェイル、リーバー&ストーラーなどニューヨークの売れっ子作曲家コンビと
パイプを持ち、楽曲を提供させていたことだ。

そして楽曲を料理するアレンジャーにジャック・ニッチェを起用したこと。
フィレス・レコード専属となったジャックは、映画音楽も数多く手がけていて、
クラシックやジャズ・オーケストラの理論を応用し音数が多い。
ストリングスの重厚さはワーグナーを愛したフィルの理想に沿うものだったはず。
歌伴という従来のポップスのバッキングの常識を塗り替えるものだった。


                                                                          (写真:gettyimages)


フィルの要求をすべて満たせる腕利きプレイヤー集団レッキング・クルー。(9)
エンジニアのラリー・レヴィンの存在。
理想の音が得られるゴールドスター・スタジオで納得が行くまで録音に時間を
費やすワガママが許される独裁体制であったこと。

これらの条件が揃って、フィル・スペクターのウォール・オブ・サウンド勝利の
方程式が出来上がったのである。


(次回はフィル・スペクターの第二次黄金期、ビートルズとの関係について)


<脚注>

2021年1月30日土曜日

フィル・スペクターの黄金期とウォール・オブ・サウンド。



音楽プロデューサーのフィル・スペクターが2021年1月16日に死去。享年81歳。

女優ラナ・クラークソン射殺で懲役19年の判決を受け収監されていた。
当初は自然死と発表されたが、全米各紙により彼がコロナに感染し治療を受け
回復したものの再び悪化し、刑務医療施設で亡くなったことを報じた。

後年は殺人の実刑、偏執狂的で異常な性格、狂人ぶりや奇行が取り沙汰されたが、
フィルが音楽業界に残した功績は切り離して考えるべきではないかと思う。


フィル・スペクターは、迫力あるヴォーカルと分厚いバックサウンドが融合した
独特の音像、ウォール・オブ・サウンドと呼ばれる独自の録音技法を確立した。





<テディ・ベアーズでのデビュー、多重録音の試み>

フィルは1940年ニューヨークのブロンクス地区でロシア系ユダヤ人家庭に生まれ、
彼が13歳の時に一家はロサンジェルスに移り住んだ。
少年期は黒人系ラジオ局で流れるジャズ、R&Bを聴きながらギターを弾いたり、
クラシック(重厚なワーグナーが好みだった)も聴いていたという。

高校時代(1)はR&Rの波に刺激され、曲を作りバンド活動を開始する。
大学生の頃、家庭用テープレコーダーでスピーカーから鳴らした音をマイクで
拾い、それに音を重ねるという初歩的な多重録音を試みる。(2)




1957年に高校時代の仲間と男性2人、女性1人でコーラス・ユニットを結成。
高校の同級生のエンジニアに頼んで、ゴールドスター・スタジオ (後にフィル
の本拠地となる) で前述の多重録音でシングル盤を自主制作する。


この自主制作盤を地元のローカル・レーベルに持ち込み、フィルは契約を獲得。
テディ・ベアーズ(3)名義で1959年にデビュー。

A面のDon't You Worry My Little Petは鳴かず飛ばず。
だがB面のTo Know Him Is To Love Himは地元のラジオDJたちが流すよう
になり、TVにも出演し、ついに全米1位を獲得する大ヒットとなる。(4)



↑テディ・ベアーズのTo Know Him Is To Love Himが聴けます。


これも同じ方法でダビングを繰り返した劣悪な音質だったが、エコーたっぷりの
独特のサウンドはインパクトがあった。
これがウォール・オブ・サウンドの原点といえるだろう。

テディ・ベアーズは続けてシングル、アルバムを発売するが惨敗で解散する。




<音楽業界での人脈作り、プロデューサーとしてのスタート>

1959年フィルはリー・ヘイゼルウッドと組み音楽プロデューサーをしていた
レスター・シルとソングライター兼プロデューサーとして契約を結ぶ。
デュアン・エディ(トゥワンギー・ギターで有名)のレコーディングを見学した
フィルは、その深いエコー効果の秘密などを会得した。

レスターと共にニューヨークを訪れたフィルは作曲家チームのジェリー・リーバ
ー&マイク・ストーラーと交流を深め、彼らの下で修行をする。

ニューヨークでフィルは「黄金の耳を持つ男」の異名を持つ音楽出版のドン・
カーシュナー (5)、ジェリー・ゴフィン&キャロル・キング、バリー・マン&
シンシア・ウェイルら作曲家コンビとも親交を深める。



↑パリス・シスターズとフィル・スペクター。


1960年からレイ・ピーターソンやパリス・シスターズのプロデュースを手がけ、
ヒットを生み出した。
パリス・シスターズのI Love How You Love Me(6)は深いエコー、重厚な
コーラスとストリングスは既にスペクター・サウンドを思わせる。



↑クリックするとI Love How You Love Me が聴けます。


こうした実績での信頼を得たフィルは、レスター・シルがリー・ヘイゼルウッド
と袂を別った機会に共同経営の話を持ちかけ、フィレス・レコードが設立される。



<プロデューサーとしての黄金期。ウォール・オブ・サウンドの確立>

これまで築き上げた人脈を駆使し強力なスタッフを集めたフィルは、フィレス・
レコードで独自のサウンドを作り上げ、多くのヒットを生み出した。

その成果の一つが、クリスタルズのHe's A Rebel(1962)だろう。
フィルはダーレン・ラヴと彼女のバッキング・グループ、ブロッサムズを使って
録音し、その音源をクリスタルズ名義でリリース。つまり本人たちが歌ってない。
が、皮肉なことに全米No.1獲得し、クリスタルズ最大のヒット曲となった。(7)

ダーレン・ラヴの迫力あるヴォーカルとバッキングの分厚いサウンドが融合。
独特の音像はウォール・オブ・サウンド(音の壁)と呼ばれた。



↑ダーレン・ラヴとフィル・スペクター。


クリスタルズやロネッツのヒットで順調にスタートしたフィレス・レコードだっ
たが、自我が強いフィルはしだいにレスター・シルと対立するようになる。
1962年にレスターを追い出しフィレス・レコードはフィルの独裁体制となる。

ゴフィン&キング、グリニッチ&バリー、マン&ウェイルなどヒットメイカーの
作曲家たちを起用。
ハリウッドのゴルドスター・スタジオで、自分が理想とする制作を本格化する。




後にレッキング・クルー(8)と呼ばれるようになる一流のセッションマンたち
を集め納得いくまでレコーディングを続ける。
自分の求めるサウンド、ヒットのためなら一切妥協せず、容赦ない行動に出た。


翌1963年全米2位の大ヒットを記録したロネッツのBe My Babyではレコーデ
ィングを42回やり直したという。完璧主義者なのだ。
フィル・スペクターのウォール・オブ・サウンドの傑作として高い評価を受け、
後の音楽シーンに多大な影響を与えた。



↑ロネッツとフィル。クリックするとロネッツのBe My Babyが聴けます。



↑せっかくなのでTV出演で歌っている姿もご覧ください。



ヴォーカルのヴェロニカ・ベネット(ロニー・スペクター)は後にフィルと結婚
するが、6年後に破局。(理由はフィルの異常な性格と暴力)


Be My Babyを生涯で一番好きな曲と公言するビーチボーイズのブライアン・
ウィルソンはオマージュとしてDon't Worry Babyを(1964)を作曲した。



↑ブライアンと愛犬。Caroline Noで吠えてるのはこの子ともう1
匹のワイマラナー。
クリックするとビーチボーイズのDon't Worry Babyが聴けます。



同1963年にアルバムA Christmas Gift for You from Phil Spectorを発表。
恒例のクリスマス・ソングをフィレス・レコード所属のロネッツ、クリスタルズ、
ダーレン・ラヴ、ボブ・B・ソックス&ブルージーンズが歌っている。
最後にはフィルからのクリスマス・メッセージも入る。


プロデューサーが裏方だった時代に、プロデューサー名義のコンピレーション・
アルバムという試みは画期的であった。(9)






ライチャス・ブラザーズのYou've Lost That Lovin’ Feelin'も全米1位。(10)
ブルーアイド・ソウル(白人が歌うソウル)の先駆けとなった。


しかし、フィル・スペクターの黄金期は1960年代半ばまでであった。

1964年にアメリカを席巻したビートルズを皮切りに英国のロック・グループの
波(いわゆるブリティッシュ・インヴェイジョン)が押し寄せる。
サイケデリック・ロック、ライブ志向のバンド・サウンドを基本とするロックの
時代の到来で、フィル・スペクターはout of date(時代遅れ)な存在になった。





<フィル・スペクターの功績>

フィル・スペクターがプロデュースした曲は1959〜1971年の米国ビルボード
のチャートを席巻し、19曲がTOP10入り。そのうち5曲が首位を獲得した。

ジョン・レノンは「エルヴィスが兵役に就いていた2年半の間、ずっとフィル
がロックを守ってくれた」と発言している。(11)


フィルの独自のウォール・オブ・サウンドは音楽業界に大きな影響を与えた。

彼のスタジオ・ワークを見学したブライアン・ウィルソンは、その光景に感銘
を受け1965年のビーチボーイズのアルバム、ペット・サウンズ制作時に同様の
独裁体制(レッキング・クルーと納得いくまでレコーディングを繰り返す)の
録音方式を採った。




そのペット・サウンズはビートルズ、山下達郎、大瀧詠一らに影響を与えた。

フィルの黄金期は1960年代前半でそれ以降、忘れられた存在になるが1970
年代始めに再び脚光を浴びることになった。
それはビートルズの最後のアルバムとなったレット・イット・ビーの編集、
ジョン、ジョージのソロ作品を手がけたことにある。(後述)


※次回はウォール・オブ・サウンドの秘密について深掘りします。

<脚注>

2021年1月15日金曜日

ウエストサイド物語は革新的なミュージカルだった。

年末年始のテレビって毎年、本当につまらない。
そんなわけで。ドラマの一挙放送や昔の映画を録画して見ていた。
その中の一つがウエストサイド物語。(1961年公開アメリカ映画)




中学か高校一年の頃に一回見ただけなのに、有名なトゥナイトはもちろん、
マリア、アメリカ、マンボ、クールなどの劇中歌はほとんど憶えていた。 

昔はボーッと見ていたが、この歳になって初めて気づくことも多い。
人種問題、移民、分断、銃、暴力。
今もアメリカが抱える闇は根深く、半世紀以上も続いてるのだ。



<映画「ウエストサイド物語」の概要>

舞台は1950年代のニューヨーク、マンハッタン。
セントラルパークを境に西側が移民が多く住むスラム街だった頃の話だ。
二つの不良グループが縄張り争いで一触即発の状態だった。




地元で幅を利かせていたポーランド系白人の人少年の非行グループ、ジェッツ。
プエルトリコ系移民たちの新興勢力、シャークス。

ジェッツの元リーダーで更生し真面目に働いていたトニーは、初めてのダンス
パーティーに胸を弾ませていたマリアと出会い、二人は恋に落ちる。
が、マリアはシャークスのリーダー、ベルナルドの妹だった。




両グループの決闘を止めようとしたトニーだったが、親友リフを刺殺され激怒。
ベルナルドを刺し、自らも銃殺されてしまう。


お察しのとおり、元ネタはシェイクスピアのロミオとジュリエットだ。
舞台を1950年代のニューヨークに置き換えている。
モンタギュー家とキャピュレット家を、ジェッツとシャークスに。
トニー=ロミオ、マリア=ジュリエット、ベルナルド=ティボルトである。

原作との違いは時代と場所だけではない。


ロミオは毒を飲み自殺するが、トニーは銃殺される。
マリアはジュリエットのように自害せず、恨みの言葉を吐き去って行く。

ロミオがバルコニーの下からジュリエットに愛を語る有名なシーンは、
マリアのアパートの外階段をトニーが上り、抱き合い一緒に歌う。
(初めての曲なのに何で一緒に歌える?→ミュージカルですから)




フランコ・ゼフィレッリ監督のロミオとジュリエット(1968年公開)は、
ロミオが木からバルコニーに上り、ジュリエットと一夜を共にする、という
新解釈(オリヴィア・ハッセーの見事なヌードも含め)が話題になった。
今思うと、そのシーンもウエストサイド物語に着想を得たのかもしれない。



<ジェッツとシャークスの環境>

不良グループの片方、ジェッツはポーランド系移民二世で構成されている。
白人とはいえ最下層階級である。仕事もせず集団で非行を重ねている。

2代目リーダーのリフはグループを率いているが、すぐに熱くなり衝動的に
なるメンバーも多く、組織的に統制が取れていないように見受けられる。





今回見て初めて気がついたのだが、リフを演じているラス・タンブリンは
「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」(1966年公開 東宝)で
水野久美(東宝怪獣映画ファンのマドンナ)と共演している。(1)

ウエストサイド物語から5年後のラス・タンブリンは少し太り、かつての
不良少年の面影は消え、すっかりオジサン化していた。





リフは初代リーダーのトニーを兄のように慕い頼りにしている。
二人ともジェッツが根城にしているドクの店で育った孤児のようだ。

リフの恋人を含めあばずれ女子3人がジェッツと行動を共にしている。
ジェッツに入りたくて付きまとうボイーッシュな少女がいるが、取り巻きで
はなく「男として認められたい」トランスジェンダーのようである。
(この時代で既にこういう問題に触れている点が興味深い)




シャークスのベルナルドの恋人、アニタがドクの店にマリアからトニーへの
伝言を届けに来ると、ジェッツは集団レイプしようとする民度の低さである。







一方シャークスはプエルトリコ系移民でアメリカに来て日が浅いらしい。
アメリカでの待遇への不満を口にしている。低賃金で働いているのだ。




ベルナルドの恋人、アニタが率いる女子グループもお針子の仕事をしている。
マリアもその一人。ベルナルドは妹のマリアを気にかけている。
同郷人としての結束感からか、女子グループはシャークスと親密である。





シャークス自体もベルナルドの指示に従い統制が取れている。


シャークスも女子も顔を塗っているがヒスパニック系の顔立ちではない。
役者で本当にプエルトリコ人なのはアニタ役のリタ・モレノだけである。




ベルナルド役のジョージ・チャキリスはギリシャ系の二世。(2)
マリア役のナタリー・ウッドにいたってはロシア系移民の娘。
本名もロシア名。どちらかというとジェッツの側にいる方がしっくり来る。
チコちゃんに「何であんたがそっちにいんのよ」と叱られそうだ(笑)



<映画「ウエストサイド物語」誕生の背景>

「ウエストサイド物語」は1957年ブロードウェイ初演のミュージカルである。
その構想が持ち上がったのは8年前、第二次世界大戦後間もない1949年だった。

ニューヨーク・フィルハーモニーの指揮を弱冠25歳で任された天才音楽家、
レナード・バーンスタイン。
クラシックバレエ・ダンサーとして活躍した後に、新進気鋭の振付家として
ブロードウェイの寵児となっていたジェローム・ロビンス。


2人は当時30歳そこそこで既に一流の仕事をして認められていた。
若い世代の2人だからこそ、繁栄と恐慌、戦後を経験したアメリカの空気を
敏感に捉え「ロミオとジュリエット」を下敷きとした、移民、貧困、人種差別、
銃、暴力などの問題を織り込んだ今までにない新しいミュージカルを作ろう、
という発想が生まれたのだ。

2人は劇作家・脚本家のアーサー・ロレンツ(後に「追憶」「ロープ」「愛と
喝采の日々」を手がける)に台本を依頼する。



↑左からスティーヴン・ソンドハイム(作詞)アーサー・ロレンツ(脚本)、2人
挟んでレナード・バーンスタイン(作曲)ジェローム・ロビンス(演出・振付)


構想8年7ヶ月をかけ開幕した作品は全米にセンセーションを巻き起こす。
それまでのミュージカルはハッピーエンドのラブコメが主流だったのに対して、
この作品の舞台は荒みきったスラム街。

描かれていたのはタブー視されていた人種間の差別や対立といった社会問題。
台詞や歌詞には俗語や卑猥な表現が使われ、リアリティと生々しさがあった。

不良少年を演じる若者たちが歌い、自身で大胆な踊りを披露するスタイルも、
シンガーとダンサーの分業制が一般だったミュージカル界では革新的だった。


この大ヒットしたブロードウェイ・ミュージカルを映画化したのが本作だ。
(1961年公開、配給:ユナイテッド・アーティスツ)
監督はロバート・ワイズ。(4年後「サウンド・オブ・ミュージック」でも受賞)





映画版「ウエストサイド物語」は批評家、観衆からの絶大な支持を得て1961年
のアメリカ国内第2位の興行成績を記録。
アカデミー賞11部門中10部門を受賞、という快挙を成し遂げた。


クールな演技と大胆なダンスを披露したベルナルド役のジョージ・チャキリス
が助演男優賞、その恋人アニタ役のリタ・モレノが助演女優賞を受賞。

主演の2人はダンスの見せ場もそれほどないせいか受賞していない。
映画で歌われる曲も人々を魅了。サウンドトラック盤も空前の売り上げとなる。




<「ウエストサイド物語」で生まれた数々の名曲>

音楽を手がけたレナード・バーンスタインはアメリカが生んだ最初の国際レベル
の指揮者、作曲家、ピアニスト、20世紀後半のクラシック音楽界のスターである。
バーンスタインで初めてアメリカはクラシック音楽家を生んだとも言われた。(3)



↑右端のピアノに寄りかかっている人がバーンスタイン。歌の指導をしている。


1957年ニューヨーク・フィルの常任指揮者就任の前年、39歳だったバーンスタ
インが書いた「ウエストサイド物語」の音楽は彼の代表作となった。
クラシックの手法を用いながら、ラテン、ジャズの要素を取り入れ、音楽で各
シーンの雰囲気や緊張感、高揚感を演出している。

以下、印象的だった劇中曲の解説。


◆プロローグ(演奏のみ)
映画の冒頭、ジェッツとシャークスの対立が少年たちの動きと指を鳴らす音で
表現されるが、音楽でも不協和音を巧みに使いその不和を暗示させている。
その不協和音はトライトーン(三全音)と呼ばれ、ルート音に対し増4度(半音6
つ分)の不安定な和音となり、不安感を醸し出すのに効果的である。(4)

後半、動きに合わせて音楽もリズムが加わりスピード感が出てくる。
ストリングスとブラスでトライトーンを加えたドミナント7thコード、ディミニ
ッシュ・コード(5)を使いながら、派手な演出をしている。
ジョージ・チャキリスが足を高く上げる有名なシーンもここで登場する。



↑クリックするとプロローグのダンス・シーンが観られます。


◆体育館でのダンス(演奏のみ)
ラテンのリズムを基調とした組曲になっている。
マリアッチ調のプロムナードから一転してマンボへ、トニーとマリアの出会いの
シーンではスローなチャチャチャに。ここでもフィンガー・スナップが効果的だ。


◆アメリカ
プエルトリコ系の女性たちがアメリカでの暮らしの豊かさを、シャークスの男たち
はアメリカでの待遇の悪さを、応酬のように掛け合いで歌い踊る。
ヘミオラと呼ばれるラテンの混合リズム(8分の6拍子と4分の3拍子の組み合わせ)
で、タタタ・タタタ・タン・タン・タンが小気味好い。



↑クリックするとアメリカの歌とダンスが観られます。


◆トゥナイト 
トニーとマリアがアパートの外階段で愛を語り合う最も有名なシーン。
2人が交互に、後半は一緒に歌う。繰り返す転調が高揚する気持ちを表している。
このテーマは後半の五重唱でも出てくる。


◆トゥナイト(五重唱)
リフとベルナルドが決闘に掛ける意気込みを不穏なメロディで歌い、ジェッツと
シャークスの合唱が加わり、さらにアニタの歌も入る。
その後トニー、マリアによるトゥナイトのリフレインが入り、最後は全員の合唱
になる。(トニー、マリアのパートはカウンターメロディーとなる)



↑マリア役ナタリー・ウッドとアニタ役リタ・モレノと監督のロバート・ワイズ。
クリックするとトゥナイト(五重唱)が観られます。


◆すてきな気持ち
マリアが働いているブライダル店で、素敵な人に愛される喜びを歌う。
ラテン調ワルツでI feel prettyと上昇メロディが繰り返され高揚していく。
マリアッチ(メキシコ民謡)風のアレンジが楽しい。
同僚の女子たちがフラメンコ調の手拍子で歌いながらマリアを茶化す。

この映画でマリア役のナタリー・ウッドの一番の見せ場だと思う。




↑クリックするとナタリー・ウッドのI Feel Prettyが観られます。


◆クール
リーダーを刺殺され殺気立つジェッツにメンバーの一人が落ち着けと呼びかける。
半音進行のメロディ、弱音でスイングするリズムがまさにbe coolである。
後半テンポアップしブラスを効かせた派手なインストゥルメンタルに合わせ、
暗い駐車場でジェッツの狂気を帯びたダンスになる。掛け声と手拍子が効果的。





俳優たちの歌は大部分が吹き替えである。(6)
ナタリー・ウッドは本人が歌ったものの、より完璧な歌にしたいMGM側の意向で、
ゴーストシンガーの歌に差し替えられた。
撮影終了後に初めて自分の声が使われないと知ったウッドは激怒したそうだ。



<革新的だった振り付けとダンス>

前述のように、この映画の演出・振付担当はクラシックバレエ・ダンサー出身の
ジェローム・ロビンスである。



↑役者たちに振付指導するジェローム・ロビンス。すごい跳躍力!


僕は基本的にミュージカルをあまり好まない。
ミュージカルの大前提、突然、登場人物が歌い踊り出すことに違和感を持つから。

人が死んでるのに歌ってる場合かよ、救急車呼べ、と突っ込みを入れたくなる。
(妻にそーゆー人はミュージカルを見ない方がいいと言われた。確かに)


そういう意味では、ストリートにたむろする不良グループが突然踊り始める、
しかもそのステップにクラシックバレエが取り入れられているのだから、異様な
光景ともいえる。




しかし赤いシャツを無造作に着たジョージ・チャキリス演じるベルナルドを中心
にシャークスの3人が左脚のバットマン(脚を大きく上げる動き)を見せた瞬間、
その違和感も吹っ飛んでしまう。それくらいインパクトがあり惹き込まれた。



↑手前に穴を掘りカメラを設置。下から煽るように撮影し迫力を出している。



特にジョージ・チャキリスはクールでナイフの切っ先のようにシャープだった。
(劇場で70mmワイドのスクリーンで見ると本当に迫力があった)

シャークスの3人は黒のローカットのバスケットシューズを履いていた。
(中学の同級生が真似して履いてたっけ)
あれはコンヴァースのオールスターだろうと思ってたが、日本ゴム製だった。
後に逆輸入されて、日本の若者にも愛用されるようになったそうだ。




↑ジョージ・チャキリスたちに振付の指導をするジェローム・ロビンス。


「ウエストサイド物語」はミュージカルの新たな境地を切り開いたと言える。
それまで歌の添え物だったダンスが表現の中核を担うようになった。
若者たちは生き生きと、たぎる思い、苦悩、切なさ、刹那的衝動を表現した。
だからこそ、メッセージがダイレクトに観客に伝わり感動を生んだのだと思う。



プロローグでジェッツのリフが、失せろ(Beat It)という台詞を何度か使う。
そう、マイケル・ジャクソンの名曲、今夜はビート・イットのプロモーション・
ビデオは「ウエストサイド物語」のオープニングを模して制作されているのだ。

ストリートギャングの抗争という設定、ボス同士が決闘しそうになる描写、マイ
ケルの赤いジャケット、フィンガーナッピングしながら歌い踊るのも同じだ。



↑マイケル・ジャクソンの今夜はビート・イットが観られます。


振付師はマイケル・ピータース。本人もこのPVに出演している。
ギャングの一方のボス役としてサングラスと白いジャケットを身につけ、相手
のボスとの決闘をマイケルに制止され、群舞に入るがキレの良さは抜群である。
(スリラーのゾンビ・ダンスもマイケル・ピータースが振付を担当している)

1969年にジャクソン・ファイヴでデビューしたマイケルもウエストサイド物語
を少年時代に見ているはずで、その影響が大きい(7)ことは容易に想像できる。



<「ウエストサイド物語」の音楽への違和感>

「ウエストサイド物語」の音楽とダンスは素晴らしい。完成度が高い。
その一方でどこか腑に落ちない部分がある。

1957年ブロードウェイで公開された際、観客層はミドルクラス〜アッパーミドル
層中心だったはずだ。荒んだスラム街の不良たちの抗争は別世界の出来事である。



↑ジェッツとシャークスの抗争シーンの撮影風景。



変な例え方だが、気球の上からサバンナの猛獣たちを見下ろしていた的な、
あるいは苗場プリンスでガラス越しに外のブリザードを眺めていたみたいな。

だから不良たちを演じる役者が、バーンスタインの音楽に合わせてクラシック
バレエを取り入れたダンスを踊ることに斬新さを覚えたが違和感はなかった。


しかし1961年映画公開の時はどうだろう。
劇場に足を運んだのはロウアーミドル〜ロウアークラスのマス層まで広がる。
描かれている当の不良たち、貧困層はこの演出に共感を覚えただろうか。



当時の音楽の流行を振り返ってみよう。




ミュージカル公開の前年、1956年はエルヴィスがチャートを席巻していた。
翌1957年もエルヴィスだ。ポール・アンカやバディー・ホリーもヒットした。

1958〜1960年にエルヴィスは徴兵されるが、未発表曲で人気は衰えなかった。
フランキー・アヴァロン、ボビー・ダーリン、プラターズ、ブレンダ・リー、
コニー・フランシス、レイ・チャールズなどがチャートで1位を獲った。
1961年でもエルヴィスは強い。デル・シャノン、 マーヴェレッツが登場。


この辺の曲を当時、一般大衆は好んで聴いていた。
カーラジオからも聴こえてくるし、スラム街でも流れていたはずだ。

街の不良たちがスクリーンの中に等身大の自分を投影できるとしたら、そこに
流れる音楽はロックンロール、ロカビリー、ポップスではないだろうか。




実は映画「ウエストサイド物語」のキャスティングで主人公のトニー役は、最初
エルヴィスがオファーを受け、本人もやる気充分だった。

マネージャーのパーカー大佐が「ギャングをナイフで刺し殺す役は除隊後のエル
ヴィスのクリーン路線に合わない」と断ったため実現に至らなかった。(8)


もしトニー役をエルヴィスが演じてたらどうだったろう?
エルヴィス中心の映画になってしまったかもしれない。
音楽はエルヴィス向きにロック色が強いものに書き換えられただろうか?




ナタリー・ウッドは恋多き女優として有名で、エルヴィスとも浮名を流している。
1956年エルヴィスの映画「ラヴ・ミー・テンダー」のセットで初めて出会い、
恋仲になるが長続きしなかった。

エルヴィス版トニーとナタリー・ウッドのデュエットも見てみたかった。





<「ウエストサイド物語」の舞台と社会環境/当時と現在>

1950年代のアメリカはメキシコやプエルトリコなど中南米から移民が入ってきて
、先に入植して来た白人から蔑視・危険視(職住域を侵すと)されていた。
「ウエストサイド物語」はこうした社会的背景を基に描かれている。

物語の舞台はニューヨーク、マンハッタンのセントラルパーク西側の地区。
もとは高級住宅地であったが、第二次世界大戦後スラム化が急速に進んだ。
黒人居住地区ハーレムに隣接している。



映画の大部分はロサンゼルスに作られたセットで撮影された。
冒頭の一連のダンス・シーンはアッパー・ウエストサイドのリンカーン・スクエア
付近で、取り壊し予定のビルの解体を延期してもらい撮影が行われた。
(当時リンカーン・センター建設のため再開発中だった)



↑アッパー・ウエストサイドでの撮影風景。


なので聖地巡礼に行きたくても、既に当時の名残りはない。


製作総指揮を務めたウォルター・ミリッシュは映画化を決めた理由について「アメ
リカにおける人種問題を語る絶好の機会になる。観客に作品から学び取ってもらえ
るのではないかと考えた」と語っている。


「ウエストサイド物語」でマリアはジュリエットのように後追い自殺していない。
立ち去ろうとするジェッツとシャークスの少年たちにマリアは激しい口調で言う。

You all killed him. And my brother and Riff.
Not with bullets and guns. With hate!
みんなが彼(トニー)を殺したのよ、私の兄もリフも。
銃弾ではなく、憎しみで。




↑マリア役のナタリー・ウッドに演技指導する監督のロバート・ワイズ。
横たわっているのは銃殺されたトニー役のリチャード・ベイマー。



人種間の対立と分断、銃暴力が激化する現在のアメリカを見るにつけ、本作が今も
大きな意味を持っている気がする。


2021年スピルバーグ監督が長年の夢だった「ウエストサイド物語」のリメイク版
を公開するそうだ。
1961年版でアニタを演じたリタ・モレノが制作総指揮を担当し出演もするらしい。
今回は設定に忠実に、ラテン系の俳優たちを起用する意向と言われている。




登場人物が突然、歌い踊り出すミュージカル仕立てになるのだろうか。
個人的には、エルヴィスやバディー・ホリーなど当時の若者が夢中になったロック
が流れる、アメリカン・グラフィティのようなワンナイト・ムービーにして欲しい。

一向に無くならない人種の壁、分断、憎しみ、偏見、差別、暴力。
そしてコロナ禍の不安と抑鬱感。
今だからこそ、スピルバーグ監督は人々に問いかけたいのだろう。
「ウエストサイド物語」は世代を超えて受け継がれるべきメッセージである。


<脚注>