2023年8月14日月曜日

ランディ・マイズナー、ロビー・ロバートソンの死を悼む。



1970年代のロック史に名を残す優れたミュージシャンが相次いで二人、
亡くなった。


一人は元イーグルスのベーシスト、ランディ・マイズナー。
7月26日、慢性閉塞性肺疾患(COPD)の合併症により死去。77歳没。

2004年頃から心臓疾患を患い、人前で演奏する機会は減ったらしい。
2016年に再婚した妻が銃の暴発で命を落とす。
ランディもアルコール依存症や双極性障害に苦しんでいたそうだ。


もう一人はザ・バンドのメンバーであったロビー・ロバートソンだ。
8月9日、80歳で逝去。長い闘病の末に、と書かれている。
音楽関係筋によると、パーキンソン病だったという説もある。






<ランディ・マイズナーの足跡>

1969年、元バッファロー・スプリングフィールドのリッチー・フュー
レイ、ジム・メッシーナらとポコを結成。
しかしフューレイ、メッシーナとの対立から、デビュー・アルバムの
リリース前にランディは脱退する。



↑ポコ時代の
ランディ・マイズナー(中央)右がジム・メッシーナ。


ジェームス・テイラーのセッションへの参加、LAのトルバドール出演
など、ベーシストとしてランディは実績を重ね評価を得ていく。
黒人ベーシストにも通じる弾むリズム感を持ち合わせていた)

ボーカルの音域も広く高域パートを歌えるため、ビーチボーイズやCSN
の流れを汲むカリフォルニア流のハーモニー構築に重宝された。


1971年夏、リンダ・ロンシュタットのバック・バンドに採用される。
そこでドン・ヘンリー、グレン・フライ、バーニー・レドンと出会う。
イーグルスを結成し、アサイラム・レコードと契約。(1)
1972年にデビュー・アルバムを発売。

4枚目のアルバムではランディが作曲し歌ったTake It To The Limit
が、イーグルス初のミリオンセラー・シングルとなる
彼ならではのハイトーンが冴える曲で、コンサートでも盛り上がった。



↑左がランディ・マイズナー。


↓1977年のコンサートより。Take it to the limitが聴けます。
https://youtu.be/awfqcbZa8VI




グリッサンドが印象的なOne of These Nights、レゲエのリズム感を
取り入れたHotel Californiaなど、ランディのベースラインが骨格を成
している曲も多い

愛器はフェンダー・プレシジョンベース、ジャズベース、リッケンバッ
カー4001で、指弾きしている。





バンドがドン・ヘンリー、グレン・フライの専制的になったこと(2)
ジョー・ウォルシュ加入でバンドの音がよりハード路線になったこと、
Hotel Californiaの大ヒットで多忙な生活に疲れたことなどが重なり、
1977年9月にイーグルスを脱退する。

イーグルスのツアーはアンコールでTake It Easyをやるのがお約束で、
最後のランディーのハイトーンで観客が盛り上がる。
ランディーは毎回これをやるのにうんざりしてたという。
グレン・フライに強要されたが、ステージに上がるのを拒んだため
「それなら辞めろ」と解雇通告されたそうだ。(グレン・フライ談)




<イーグルス、脱退後のランディ・マイズナーの来日>

イーグルスの初来日は1976年2月のOne Of These Nightsツアーだ。

オーディエンス録音のブートを聴くと、「ランディー」と女性ファン
の声が入っている。
それを嘲るようにグレン・フライが「Randy,Randy」と言っている。
日本ではランディーが女の子に人気があったのだ。




1979年9月のThe Long Runツアーはランディは脱退後だった。
後任のティモシー・シュミットもポコ出身でハイトーンを得意とした。
バンドの不仲、まとまりの悪さが伝わり、残念なコンサートだった。
(この後、イーグルスは活動停止、正式解散を発表する)


イーグルスのメンバーとしてのランディ・マイズナーを見る機会はな
かったが、1990年、1991年にまさかのポコ再結成で来日している。
僕は1991年7月、渋谷オーチャードホールで見た。



↑再結成したポコ。右から2人目がランディ・マイズナー。



ジム・メッシーナ、ラスティ・ヤング、ランディ・マイズナーの3人
によるアコースティック・セッションである。

やっとランディ・マイズナーを生で見ることができた。
Take It To The Limit、Midnight Flyerも歌ってくれた。





しかもポコの前にバニー・レドンがイーグルス時代の持ち歌を含めて
5~6曲歌ったのだ。何て「おいしい」コンサートだろう!
1979年のイーグルス(武道館)よりよっぽどいい。



1996年イーグルスがロックの殿堂入りを果たし新旧メンバーが一堂
に会した際、ランディ・マイズナーとバニー・レドン、ドン・フェル
ダーもスピーチをし、演奏にも加わった。(2)
ランディ・マイズナーの姿を見たのはこれが最後だったと思う。



↑左が
ランディ・マイズナー。




<ロビー・ロバートソンの足跡>

ザ・バンドはアメリカ南部のスワンプ・ロックのグループだが、アメ
リカ人はリヴォン・ヘルムだけで、他の4人はカナダ人である。

ロバートソンは1965年にディランのバックバンド、ホークスに加入。
(ディランがアコギからエレキに持ち替え、世界中の会場でブーイング
を浴び、物を投げつけられた時代だ)


ホークスはザ・バンドと改名し、1968年にアルバム「Music From The
Big Pink」でデビューする。



ロビー・ロバートソン(右)以外はむさ苦しいオッサンっぽかった


サイケデリックとプログレッシブがロックの主流だった1960年代末に、
R&Bやゴスペルなどアメリカ南部音楽の深淵をなぞるような、土臭い
サウンドを作り出していたのが画期的だった。





デイヴ・メイソン、クラプトン、ジョージ・ハリソンら英国のミュージ
シャンもザ・バンドの虜になった。
クラプトンとジョージはザ・バンド加入を申し出たくらいだ。

映画「イージー・ライダー」にThe Weightが使われたこと、1969年8
月のウッドストック・コンサート、ワイト島フェスティバルへの出演
多くの人に知られ、トップクラスのライブバンドとしての名声を得る。





リーダー的存在のロビー・ロバートソンのギター・スタイルを特徴づけ
ていたのが、チョーキング&ビブラートとピッキング・ハーモニクスだ。
ピッキング・ハーモニクスは、ピックを斜めに当てながら親指の腹で
ミュートさせ、独特のコキコキという音を生み出す奏法である。(3)


僕は正直言ってザ・バンドの土臭い音楽がそれほど好きではない。
だけどロビー・ロバートソンはカッコよかった。

ザ・バンド以外のセッションでの演奏も特徴的だからすぐ分かる。
ロビー・ロバートソンが弾くと渋みが加わって曲が引き締まるのだ。
ライ・クーダーと同じ職人気質の名脇役といったところだろうか。





↓クラプトンとディランのデュエット、Sign Language。
ロビー・ロバートソンの表情豊かな渋〜いギターが聴けます。




ザ・バンドは9枚のアルバムを発表し、1976年に解散した。
ロバートソンはアルバム制作重視の意向で、ツアー活動にこだわる他
メンバーとの対立が激しくなる。
特にリヴォン・ヘルムとロバートソンの確執は大きかった。
リチャード・マニュエルはストレスから酒とドラッグに溺れてしまう。

問題を抱える中、ロバートソンは1976年にライヴ活動の停止を発表。
11月にサンフランシスコでラスト・コンサート(実質は解散コンサート
となった)が行われ、ディラン、クラプトン、ニール・ヤング、ジョニ・
ミッチェル、エミルー・ハリスなど大物ミュージシャンが参加した。




この模様はマーティン・スコセッシ監督が撮影し、映画「ラスト・ワル
ツ」として公開。サントラ盤もリリースされている。



↓クラプトンのギター・ストラップが外れ、ロビー・ロバートソンがソ
ロでつなぐ有名なシーン。
https://youtu.be/78gR3Dlj7l0





※ロビー・ロバートソンのストラトキャスターに注目!
センターのピックアップを外しフロントとリアだけにしてある。
たぶん配線も直列に変え、フロント+リアでハムバッキング効果が出る
ようにしてあるのだろう。

この他にセンターのピックアップをリアと並べて配しているブロンズの
ストラトキャスターも使用している。(上のディランと共演してる写真)



ロバートソンの独断で強行されたこの企画にリヴォン・ヘルムは反対。
他のメンバーも解散を望んでいなかった。
このことからロバートソンと他の4人との間に確執が生まれてしまい、
後の再結成の際にはロバートソンは参加しなかった




<ザ・バンド再結成と来日>

1983年ロバートソン抜きで再結成しツアーを行なう。初来日も果たす。
ザ・バンド名義で1987年、1994年にも来日公演を行なっている。




1992年ディランのデビュー30周年コンサートにザ・バンドが出演。
(ロビー・ロバートソンは不参加)



1994年、ザ・バンドはロックの殿堂入りを果たす。
式にはロバートソンも参加。反発したリヴォン・ヘルムが参加を拒否。
5人が揃って演奏することは叶わなかった。






<ロビー・ロバートソンの活動と来日>

ザ・バンド解散後はセッション・ギタリスト、音楽プロデューサーと
して活動。マーティン・スコセッシの映画で音楽監督を務める。

1987年に初のソロ・アルバムを発表。
ユダヤ系カナダ人とモホーク族インディアンの混血であることを明かし、
その出自について歌った作品であるとコメントした。


2作目の「Storyville」(1991)はニューオーリンズ音楽の影響が伺える。
ミーターズ、アーロン・ネヴィル、ニール・ヤングがゲスト参加。

このアルバム発売に合わせて来日。
プレスミーティングに招待され、ロビー・ロバートソンに会って来た。





映画「ラスト・ワルツ」の印象でクラプトンと背格好は同じくらいと
思ってたが、かなり大柄な人だった。

ロバートソンはクラプトンと同じグレンチェックのシャツを着ていた。
会場にいたワーナーの女性A&Rにそのことを言うと「あー、あれ、アル
マーニですよ。日本でも76,000円で売ってます」とのこと。
青山のアルマーニに行ったら本当に76,000円で売ってた。無理。。。
ユナイテッドアローズで似た雰囲気のシャツを見つけ(セールになるの
を待って)買った(笑)


その後もインディアンの伝統音楽に影響を受けた作品を発表する。
2008年にはザ・バンドとともにグラミー賞特別功労賞を受賞。
ローリングストーン誌の歴史上最も偉大な100人のギタリスト(2011
年)で59位に選ばれている。







2019年カナダでドキュメンタリー映画「ザ・バンド かつて僕らは兄弟
だった」(Once Were Brothers: Robbie Robertson and the Band)
が公開された(日本では2020年公開)。






↓映画の予告編が見れます。
https://youtu.be/43nM_Z2Fuj4



マーティン・スコセッシが監督だからいい作品に仕上がってるはずだ。
貴重な演奏シーンもあるだろうから見てみたい。

しかし他のメンバーが既に他界し、ロビー・ロバートソンの視点だけ
で語られるザ・バンドというのはフェアではないと思う。
唯一の生存者、ガース・ハドソンのインタビューもカットされてる。


どのグループにも確執はあるのは分かる。
でもロビー・ロバートソンとリヴォン・ヘルムの痼りは尋常じゃない。

メンバー5人のうち4人が他界してしまった。
ザ・バンドは天国で再会し仲良く演奏することもないだろう。





<脚注>