2020年9月28日月曜日

フェンスの向こうはアメリカ。本牧とゴールデンカップス(3)



本牧ゴールデンカップ専属バンド、平尾時宗とグループ・アンド・アイ
横浜で評判になる。

すごいバンドがいるという噂は東京にまで広まった
多くの音楽業界関係者が見に来て、彼らの虜になった。




同じ横浜出身のジョー山中はカップスを見て衝撃を受けたそうだ。
スパイダーズのメンバーたちと一緒に見に来たかまやつひろしは、
カップスの演奏を見て「俺たちは終わった」とつぶやいたという。


ミュージックライフの水上はるこ編集長はカップスの取材に力を入れる。
彼らがポール・バターフィールド・ブルースバンドのWalkin' Blues
(ロバート・ジョンソンの曲)をカヴァーしているのに驚いたそうだ。

まだ輸入盤しか入手できず、日本では知るひとぞ知るバンドだった。
水上氏は「カップスは日本で洋楽ロックを広めてくれた」と語る。


バターフィールド・ブルースバンドではマイク・ブルームフィールド
というブルース・ギターの一人者(1)が弾いている。
エディ藩はブルームフィールドのブルースギターを研究したはずだ。

実はカップスにポール・バターフィールド・ブルースバンドを教えたの
は前ミュージックライフ編集長の星加ルミ子氏だったそうだ。
彼女もまたカップスのファンで親交を深めていた。





活動開始から1週間後、メジャー・デビューにつながる出来事があった。
ゴールデンカップに来店していたカミナリ族(当時の暴走族)ナポレオン
を取材していたTBS撮影スタッフはカップスの演奏に惹きつけられる。

ナポレオン党はマリンタワー下のハンバーガーショップ、ワトソン(店名
Dog House)に夕刻集結し、外車を乗り回しながら山下のグレープハウス、
中華街、本牧ゴールデンカップ、イタリアンガーデンを遊び場としてた。
比較的、裕福な不良が多かったと思われる。服装もオシャレだ。
鎌倉の朝比奈峠、第三京浜のタイムトライアルを楽しんでいたらしい。

↑雑誌BRUTUSに掲載されたナポレオン党の記事。


彼らと親しいクレオパトラ党(2)という女性の遊び人グループもあった。
キャシー中島(記事の写真に映っている)、山口小夜子も在籍していた。
彼女たちもまた本牧ゴールデンカップやリンディで踊り明かしていた。


↑こういうマブイ(死語)おネエさんたちが踊ってたわけです。



TBS撮影スタッフの目に止まったのがきっかけで「ヤング720」に初出演
その反響は大きかった。
黛ジュンが東芝音楽工業の関係者を連れて(鈴木邦彦を伴ってという説も
ある)ゴールデンカップを訪れた。
黛ジュンは彼らの演奏を気に入り、東芝音楽工業に契約を薦めた

スパイダーズの田邊昭知もスカウトしたが、既に黛ジュンと東芝が動い
ていることを知り断念した。


デビューに際して、平尾時宗とグループ・アンド・アイというバンド名
が分かりにくい、とゴールデンカップスに改められた
また東芝音楽工業が「全員ハーフ」というふれ込みで売るため、メンバー
のニックネームもこの時つけられた






こうして1967年6月「いとしのジザベル」でレコードデビューを果たす。
作詞はなかにし礼、作曲は鈴木邦彦。
英語でしか歌ってこなかったデイヴ平尾は日本語での歌い方がわからず、
坂本九の歌唱法を参考にしたという。


東芝音楽工業は3rd.シングル(1968年4月)で売れ筋を狙う。
「長い髪の少女」はさらに哀愁ある歌謡曲に仕上がった。

作曲の鈴木邦彦はマモル・マヌーの甘い声の方が曲に向いていると判断
デイヴ平尾は「どうぞ」の部分だけ歌うことになった。




この曲のヒットでカップスは全国区のGSとして名が売れるようになる。
「長い髪の少女」はゴールデンカップスの代表曲となった。
新宿ACBにも出演し、全国でコンサートを行うようになる。

しかし歌謡曲路線も、GSと見られることも彼らは望んでなかった
地元のファンもヒットを祝う一方で、こんなのカップスじゃないよね、
と思ってたようだ。


メンバーたちはライブでは作家から提供された曲はほとんど演奏せず、
自分たちのやりたい洋楽のカヴァーを中心に演奏した。




↑1968年テレビ出演で演奏した「I'm So Glad」(3)が視聴できます。
スポンサーの「大学ミオピン目薬
」のテロップが時代を感じる
ゴーゴーガールたちはクレオパトラ党と比べるとイモだなあ。
ズームで画面を揺らす演出、当時はこれがナウ(死語)だったのか?




小学生だった矢野顕子はカップスの追っかけで新宿ACBに見に行った。
態度の悪さが好きだったという。
子供心に「長い髪の少女」を聴いた時はなんか違う〜と思ったそうだ。


チャーは豊島園など遊園地で行われるカップスのショーを見に行った。
当時は小学生で親の同伴がないとジャズ喫茶やクラブには入れない。
後にチャーはカップスがクリームのI'm So Gladやツェッペリンの
Communication Breakdownをカヴァーしてるのに驚いたそうだ。

チャーはカップスをヤバイ先輩たちと評し、カップスのメンバーも彼を
チャー坊と可愛がった。

カップス解散後、渡米していたルイズルイス加部をチャーは熱心に口説き、
ジョニールイス&チャー(後にピンク・クラウドに改名)を結成。(4)



16歳でカップスのボーヤ(ローディー)に志願した土屋昌巳は、レコード
で聴くツェッペリンのCommunication Breakdownよりカップスが目の
前で演奏する同曲の方がリアリティーがあった、と言ってる。




クリックするとカップスのCommunication Break Downが聴けます。
(1969年10月 東京渋谷公会堂でのライブ)



故・忌野清志郎も日本一好きなバンドと評していた。

同じGS界の人気グループ、テンプターズ(5)で活躍していた故・萩原健一
は自由奔放に活動しているカップスをうらやましく思っていたそうだ。



ゴールデンカップスは奔放で自由。不良のままだった。
芸能界の決まり事とか制約なんて、俺たちの知ったことか!と。




それゆえ、ありえないような武勇伝や素っ頓狂なエピソードも多い。



ステージでの態度が悪い。ふてぶてしい。笑顔も愛想もない。
歌謡曲の世界では当然のファン・サービスへの反骨心を見せていた。
これはハマっ子気質もあるのだろう。東京に媚びるのは嫌という。

ルイズルイス加部にいたってはアンプに腰掛けて弾いたり、アンプに
もたれかかって、かったるそうに弾いてた。




◆当時GSはミリタリールック(6)、王子様キャラのフリフリ袖の制服、
もしくはスーツがお約束だった。
カップスはステージはもちろん、テレビ出演時も揃いの衣装ではなく、
めいめいが好きな服を着ていた。



◆とにかく集まらない。ちゃんと来ない。
誰かメンバーが欠けたまま、演奏するのは日常茶飯事だった。


◆ボーカルのデイヴ平尾とドラムスのマモル・マヌーしか集まらず、
2人だけでステージに上がったこともあった。
さすがにバカバカしくなったデイヴが帰ろうとすると、ステージの袖
でマネージャーが泣きそうな顔で両手を合わせてお願いしてる。
人のいいデイヴは仕方なくステージに戻りまた歌い出す。




◆時間になってもメンバー全員が会場に現れないこともあった。
「ゴールデンカップスのみなさんはXXXXにお集まりください」と
アナウンスを流すと、女性ファンがキャーとそこに押し寄せ大混乱。


◆当時、月刊明星の正月号では若手歌手の集合写真のグラビアが
恒例になっていた。女性は振袖、GSは揃いの制服。

下の写真を見て欲しい。
カップスだけが全員、普段服で寝起きみたいな顔をしている。
マネージャーがメンバー全員の家を回って叩き起こして車に乗せ、
やっと撮影に間に合いました、というのがバレバレだ。





GS界の異端児、反逆児であったカップスだが、そもそもGSという
カテゴリーで捉えるべきではないかもしれない。

僕もカップスの代表曲といえば「長い髪の少女」を思い浮かべる。
でも好きじゃない。「本牧ブルース」の方がましかな。
この人たちが他のGSのような歌謡曲を歌ってもあまり面白くない。


カップスはGSではなく日本初のロック・バンドだったと思う。
日本人がまだ知らない洋楽ロック、白人ブルースを聴かせてくれる
本格的なライヴ・バンドだった。
それは本牧が最もアメリカに近かったことが影響しているだろう。




ゴールデンカップスを聴いてみようかな?と思う方へ。

ベスト盤はやめた方がいい。
聴くなら、ライヴ盤を聴くべし!

なぜなら、
1)カップスのパワフルな演奏はライヴでしか味わえない。
2)ライヴでは彼らの本領である洋楽ロックが聴ける。
3)カップス全盛期のステージの熱気が伝わるから。



カップスは3枚のライヴ盤を残している。
いずれも廃盤なので中古を探すか、MP3ダウンロードするしかない。

個人的には最初に挙げるスーパー・ライヴ・セッションがお薦め。
オリジナル・メンバーによるカヴァー曲が堪能できる。



スーパー・ライヴ・セッション(1969年4月 横浜ゼンでの実況盤)
最後のZen Bluesはケネス伊東がボーカルをとるオリジナル曲。
この曲だけ陳信輝がギター、柳ジョージがベースで参加。
それ以外はオリジナル・メンバーによる洋楽のカヴァー。
クリーム、バターフィールドBBなど、白人ブルースの選曲中心。
ミッキー吉野のハモンド・オルガンも聴きどころの一つ。



クリックすると収録曲のBorn Under The Bad Sign(8)が聴けます。
ちなみにジャケットのサイケなイラストはルイズルイス加部が描いた



ゴールデン・カップス・リサイタル (1969年10月 東京渋谷公会堂)
A面はシングルの歌謡曲中心。ダン池田&ニューブリードが入っている。
B面はクリーム、ツェッペリン、ザ・バンド、ベックなどのカヴァー。
エディ藩とケネス伊東が脱退。ルイズルイス加部がギターに転向。
林恵文がベースで参加している。
藩のブルース色が薄れ、加部好みのブリティッシュ・ロック寄り。
一方でザ・バンドのThe Weight(9)もカヴァーしている。



↑クリックすると収録曲のThe Weightが聴けます。



ライヴ!! ザ・ゴールデン・カップス(1971年10月発売)
カップス最後のメンバー構成によるラストアルバム。
ミッキー吉野脱退後、ジョン山崎がエレクトリック・ピアノで参加。
エディ藩が復活。マモル・マヌーの後任でアイ高野がドラムス。
ルイズルイス加部が脱退。柳ジョージがベースで参加。
R&B色は払拭され、アメリカン・ロック中心のカヴァーが多い。
かと思うとナンタケット・スレイライドなんてやってるし。
内容はいまいちかな。オリジナル・メンバーじゃない時点で残念。





今回の記事を書くために「ザ・ゴールデン・カップス ワンモアタイム」
という2004年の映画をざっと見直してみた。既に16年も経っている。
この映画ではデイヴ平尾、マモル・マヌー、ルイズルイス加部、後から
参加した柳ジョージ、アイ高野もまだ健在である。

インタビューを受けているショーケン、裕也さん、かまやつさん、
井上堯之、清志郎も既に故人となっている。





米軍ハウスはなくなり、本牧はアメリカに近い街ではなくなった
バブル期にできたマイカル本牧(10)も今では廃墟と化している。



2005年に久しぶりで元町と中華街に行ってみた。
行きつけの寿園で牛バラ蕎麦とピータンに舌鼓を打ったのだが、
その翌年に鴻昌が閉店したとことは知らなかった。
若者向け新業態の店が増え、老舗は苦戦を強いられてたらしい。




エディ藩は自ら肉切り包丁を握り、レジも自分でやり、暇な時は店内
で新聞を読んでいたそうである。
カップスのメンバーが集まりOB会をやることもあったようだ。

店を畳んだエディ藩は、残りの人生を音楽にと活動を再開。
昨年秋に予定していたライヴは心臓疾患で入院のため中止したらしい。



オリジナルメンバーで残ってるのはエディ藩、一人だけになってしまった。
そして後から加入したミッキー吉野。
しかし伝説のバンドは語り継がれて行くだろう。




<脚注>

2020年9月22日火曜日

フェンスの向こうはアメリカ。本牧とゴールデンカップス(2)




平尾時宗とグループ・アンド・アイとしてゴールデンカップの専属バンド
となった彼らだが、最初は寄せ集めだった。



<オリジナル・メンバー>

◆リーダーのデイヴ平尾の実家は外国航路船員専門のクリーニング店だった。
姉の影響で音楽に親しみ、バンドを組むようになったという。
この時代にアメリカ放浪の旅に出て音楽の見聞を広める、というのは経済的
に恵まれていたのではないかと思う。
R&Bなど生のアメリカの音楽に触れたことは平尾にとって大きな成果だった。




渡米中にコンサート会場(1)でエディ藩と再会し、帰国したら一緒にバンドを
やろう、と約束する。
1966年のバンド結成から1972年の解散まで在籍した唯一のメンバー
トキちゃんの愛称で親しまれ、歴代のわがままメンバーをまとめあげた。
2008年63歳で他界。



エディ藩は横浜中華街の名店「鴻昌」の後継息子。華僑である。
インターナショナル・スクールから関東学院中学・高校・大学に進学。
(余談だが、関東学院は寺内タケシ、エディ藩、ダウンタウンの和田静男、
キャロルの内海利勝と優れたギタリストの出身校である)


関東学院大在学中、本場のR&Bに触れギターの腕を磨くため、新しい楽器
を買うために渡米。
父親とは「帰ったら音楽を辞めて料理人になる」という約束であった。
初期カップスで弾いているテレキャスターはアメリカで購入したのだろう。




GS全盛期に日本でブルース・ギターが弾けたのはモップスの星勝とカップス
のエディ藩だけだった、と言われ音楽業界での評価も高い。



ケネス伊東(愛称:ブッチ)は日系アメリカ人二世。父親は PXの高官。
そのため米国のレコードを入手でき、本場のR&Bやロックに精通してた。
初期カップスの音楽性を方向づけるのに重要な役割を果たしていた
カップスがカヴァーする渋い曲は彼が選んだものが多かったらしい。

裕福だったのだろう。結成時からモズライトやギブソンSGを使用している。
エフェクターも早くから使用。彼のリズムギターはエッジが効いていた。
ヴォーカルも取れる。英語が母国語だということも大きな強みだった。




ケネス伊東は他のメンバーとは違い、白人感覚でR&Bを解釈していた。
11歳までハワイで育たったため、根はアメリカ人だったのだろう。
メンバー間で喧嘩になると、Remember Pearl Harbor になるらしい。

1968年にビザの問題で一時帰国。
再び来日しカップスに復帰するが、1969年秋に兵役のために脱退。
日本で就労ビザ取得を目指すが叶わずハワイに永住。1997年51歳で他界。



マモル・マヌーは葉山・逗子界隈の不良仲間では知らない者はいないという、
あんなワルは他に見たことがない、と言われる根っからのワルだったらしい。
叔母が米軍人と結婚していたため、幼い頃から米軍キャンプに出入りしていた。
子供の頃から米軍キャンプで、バンドのボーカリストとして活動する

デイヴ平尾が渡米中、スフィンクスでボーカルの代役を務めた。
カップスでドラムスを担当することになるが、まったく経験がなかった




甘いルックスと美声で女性ファンを虜にし、アイドル的な人気を博した。
男性ファンが多かったゴールデン・カップスが、女の子がキャーキャーいう
GSのカテゴリーで成功を収めたのも彼の存在が大きい。

もともとボーカルでそれまで経験のないドラムスを担当することになった。
短期間で習得したのだろうが、しっかりしたテクニックを身につけている。
晩年の再結成の際はドラム・セットに座っててもほとんど叩いておらず、
ボーカルに専念している。2020年9月1日、71歳で他界した。



ルイズルイス加部はもともとギター(ケネス伊東に教わった)だが、
ベーシでカップスに加入。(武相高校の後輩マモル・マヌーに誘われた)
そのためベースらしからぬ、リードベースともいえる、枠にとらわれない、
自由なプレースタイル、攻めの力強い演奏を身上としている。




エディ藩が一時脱退した後はギターに転向している。
1969年末にマモル・マヌー、林恵文と共にカップスを脱退。
1978年チャーの熱心に説得を受け、ジョニー、ルイス&チャー(後に
ピンククラウドに名称変更)を結成。

ルイズルイス加部もまたワルそうである。
売れてテレビに出演するようになっても、アンプに座ったりもたれかかって
演奏することも多く、その態度の悪さがまた人気だった
この記事を投稿後の2020年9月26日、71歳で他界した。
奇しくも同じ武相高校の後輩、マモル・マヌーと同じ月である。


メンバーのニックネームはレコード会社が「全員がハーフ」というふれ
込み(2)で売り出したため。横浜本牧→ハーフ。実に安直である。
本当にハーフ(クオーター?)なのはルイズルイス加部だけだった。
ケネス伊東は本名。オアフ島出身の日系アメリカ人二世。


メンバーの変遷を見ると分かるように頻繁にメンバーが入れ替わっている
(1972年1月の解散までとした。以降、活動再開と活動停止を繰り返してる





<後から加入したメンバー>

ミッキー吉野は1968年7月に若干16歳でキーボード担当で参加した。
幼少からクラシック・ピアノを習う。
15歳からナイトクラブや米軍キャンプなど、横浜本牧界隈で活動していた。
エディ藩、ジョー山中と交友を持つようになる。
ケネス伊東がビザの関係で帰国してる間、エディ藩に誘われカップスに参加。
ズバ抜けたテクニックと音楽的素養アレンジ力はカップスに無くてはなら
ない存在となった。



解散後、バークリー音楽大学を卒業し帰国後、ゴダイゴを結成した。



林恵文はエディ藩が一時脱退していた短い期間にベーシストとして参加。
(その間、ルイズルイス加部がギターを担当してた)
エディ藩復帰で林恵文は脱退。ルイズルイス加部はまたベースに戻る。





アイ高野はカーナビーツ解散後、マモル・マヌー脱退後のカップスに加入。
カップスのファンは男が多く、高野は軟弱、カップスに不向きと揶揄された。
そのためアイ高野は男らしく渋く見えるよう、つけ髭を使用してステージに
上がっていたそうだ。
2006年、55歳没。


柳ジョージは1970年9月兵役のため脱退したケネス伊東の代わりに参加。
ベースを担当。解散まで在籍した。
1972年元旦、沖縄のディスコでカップスが演奏中に火事が起き機材を焼失。
デイヴ平尾は解散を決意する。柳だけはベースを持って避難したそうだ。




後に柳ジョージ & レイニーウッドとして成功を収める。
ブルースロックを基調にした和製ロックでのヒットは当時は異例だった。
ストラトキャスター(グレコ製)の泣きのギターとダミ声が売りで、和製
クラプトンと称されたが、本人はデイヴ・メイソンと言われたいそうだ。
2011年、63歳没。



ジョン山崎はカップス解散直前にキーボードで参加。
ティンパン・アレイ系の人脈にに連なり、フュージョン創世記にも活躍。
音楽をやめてから、ハワイで牧師になったらしい。



これだけ個性が強いというか、アクの強い、一癖も二癖もあるような不良
たちをうまくまとめてきたのはデイヴ平尾の人徳と言っていいだろう。




そしてR&Bへの思い入れ。寄せ集めバンドは着実に腕を上げていった。
初期のカップスはデイヴ平尾のR&B愛エディ藩の卓越したブルースギター、
ケネス伊東の日本人とは違う角度からのR&Bへの知見が大きかったと思う。


カップスは日本ではまだ誰も取り上げたことがない英米のブルースロック、
R&Bを好んでカヴァーした。
ポール・バターフィールド・ブルース・バンド、マディ・ウォーターズ、
ウィルソン・ピケット、ジミ・ヘンドリクス、クリーム、ザ・バンド、
レッド・ツェッペリン、など。

彼らがやりたかったのは英語のブルースロックであり、王子様キャラの制服
を着せられて甘ったるい曲を歌うGSなんて冗談じゃない、と思ってたはずだ。
だからやる気がない。客に媚びない。態度が悪い。それがカップスだ。




それゆえ彼らには破天荒なエピソードがいっぱい残っている。
次回はデビューのきっかけとカップスの武勇伝、音楽性について書きたい。
(続く)


<脚注>

2020年9月12日土曜日

フェンスの向こうはアメリカ。本牧とゴールデンカップス(1)

「東京なんてハマの残りカスみたいなもんさ」


1960年代、横浜の不良たちはそう言っていた。








本牧の丘に広がるベースキャンプ。フェンス越しのアメリカ


ベトナム帰休兵が持ち込む音楽、ファッション、ドラッグ、ライフスタイル、

横浜の若者はいち早くそれらを取り入れた。







東京なんて目じゃない。
ハマっ子のプライドは強く、横浜に遊びに来る東京モンをバカにしてた。

特に品川ナンバーの車は目の敵。煽るわ、乗っている人の目を傘でつく、

駐車してれば勝手にこじ開け乗り回して川に捨てる、という狼藉ぶり。

井上堯之は初めてゴールデンカップに行った時、常連客の女に「ここは

あんたたちが来るとこじゃないよ、帰んな」と言われ心底ビビったらしい。






実際に本牧は、いや横浜はコワイ、かなりヤバイ街だった。

「横浜は異国情緒があるハイカラな街」と東京人の多くが思っていた。

ユーミンがドルフィンのことを歌うと、山手は聖地巡礼の地になった。
JJでハマトラが流行し元町のフクゾー、ミハマ、キタムラに女の子が殺到。

彼女たちは知らなかっただろう。

石川町の元町と反対側に職安通り(寿町)(1)というドヤ街があること。
フェリス女学院がある丘の裏側が昔チャブ屋(2)(売春宿)街だったこと。


黒澤明監督の「天国と地獄」となった富裕層が住む浅間台の下に、黄金町

というアヘン街、赤線地帯があった(3)ことも知らないだろう。
山下公園や伊勢佐木町でも日常的にドラッグの売買が行われていた。




↑映画「天国と地獄」より。黄金町のアヘン街。




映画「天国と地獄」より。地獄(黄金町)から見た天国(浅間台の邸宅)。
(実際は京急南太田駅南から見ている)




↑映画「天国と地獄」より。浅間台の邸宅から見下ろす黄金町。(実際は平沼)
クライマックスのパートカラーが効果的だった。


山手、根岸、磯子の高台には洋館や屋敷。

その下に貧しく粗末なバラックが並ぶ。

中華街(昔のハマっ子は南京町とかチャン街と呼んでいた)は日本人、中国人

(近くに中華学院がある)、朝鮮人の三つ巴の喧嘩が絶えなかったという。
それでも殺しに至らないのは、みんな喧嘩慣れしてて限度を心得ていたから、
今の子たちと違ってね、とエディ藩は言っている。


本牧でも米兵と地元の不良との喧嘩は日常茶飯事だった。

腕力では白人・黒人兵に勝てるわけない。
ゴールデンカップ常連の不良たちは木刀を携えていた。(上西マスター談








ハマっ子たちはアメリカ人に必ずしも敵対していたわけではない。
むしろフェンスの向こう側に広がる豊かなアメリカ広い緑の芝生に立ち
並ぶアメリカンハウス(4)を羨望の目で見ていた。

そこにはアメリカ人が生活を完結できるだけの環境が整えられていた

学校、銀行、映画館・PX(物品販売所)、ボーリング場、テニスコート、
野球場、教会など。








フェンスを隔ててこちら側は焼け野原とバラック。

目の前にあるのに立ち入ることができない。近くて遠いアメリカ
PXの従業員、米軍人のゲストなど限られた日本人しか立ち入れない。







鉄条網をくぐってを小さなアメリカを冒険した少年もいた。

アメリカ人の子とフェンス越しに石を放り投げ遊んだ子供たちも。
それは喧嘩ではなくエールの交換だったという。






当時は山手警察署の前、小湊を市電が走っていた。

停留所でGIたちに声をかけられ顔を赤らめた女子高生もいる。






思春期には果敢にもフェンスを乗り越えて潜入する強者(たいてい見つ

かるとつまみ出された)もいた。
知人や家族がPXで働いていると、月1回のバザーに入ることができた。


ロックやR&Bの輸入盤をいち早く手に入れハマっ子は吸収して行った。

そして横浜発祥の新しい音楽文化が築かれていったのである。






当時アメリカ本土から極東と呼ばれた日本への慰問は少なく、進駐軍クラブ

(日本人禁止のオフリミット)程度しかフェンスの外に娯楽がなかった。


1961年にリキシャ・ルーム(5)、1962年にイタリアンガーデン(6)、1964年

にはゴールデンカップ(7)が開店する。








↑1960年代のイタリアン・ガーデン店内。


1973年にはリンディ(8)、1976年にアロハ・カフェ(9)が小湊に開店した。








元町方面から麦田トンネルを抜けると、そこはさながらリトルアメリカ。


どの店も多国籍の外国人であふれ、R&Bやロックやジャズが流れ派手な

ネオン管が夜を彩っていた。時代はベトナム戦争の真っ只中である。






ゴールデンカップにも連日連夜GIたちが訪れ、地元の不良たちと一緒に踊り、

朝まで饗宴が繰り広げられていた。乱闘騒ぎも日常茶飯事だったらしい。


オーナーの上西氏は、アメリカ旅行から帰国したばかりのデイヴ平尾に

「店の専属バンドを探している」と話を持ちかける。







平尾はスフィンクスというバンドに在籍していたが、アメリカで最先端の

音楽に生で触れてきたばかりの彼は自身のバンドの演奏を物足りなく感じた。
そこでアメリカ旅行中にライブ会場で再会したエディ藩を誘った。
藩も音楽シーンの見聞を広めるのと楽器購入のため渡米していたのだ。

エディ藩はファナティックスというバンドでギターを担当していた。

ファナティックスは平尾のスフィンクスと共に横浜を代表するバンドだった。

藩はケネス伊東を誘った。

平尾の渡米中にスフィンクスのボーカルを代行していたマモル・マヌー
がドラムスを担当することになった。
マモルは高校の先輩のルイズルイス加部を誘う。






5人は「平尾時宗とグループ・アンド・アイ(10)」として活動を開始する。



ゴールデンカップスを語る上で当時の本牧、横浜は切り離せない

前振りが長くなってしまった。次回はカップスについて書きたい。(続く)


<脚注>