2016年4月26日火曜日

ジェイムス・テイラーのギターと音楽性の関係(中)

マーク・ホワイトブックで新たな音楽に挑んだ第2ゴールデン期

ジェイムス・テイラーは1972年のアルバム「One Man Dog」のレコーディングに
参加していたジョン・マクラフリン(1)所有のフラットトップ・ギターに魅了される。
それはマーク・ホワイトブックというルシアー(弦楽器製作家)によるハンドメイド
のギターであった。



↑写真をクリックするとマクラフリンと共演した「Someone」が試聴できます。
2分辺りからマクラフリンのソロが聴けます。


ジェイムスは当時の妻カーリー・サイモンと自分のために2台、ドレッドノート・サ
イズのギターをホワイトブックにオーダーする。
これに関しては「ジェイムスが離婚時にカーリー・サイモンに1台あげた」という説
もあるが、僕は違うような気がする。


だってカーリー・サイモンってなんか恐そうじゃないですか。
「ふーん、あんた自分だけ高いギター買っていいと思ってんの?」とか言いながら、
コブラツイスト(2)でジェイムスを締め上げ大きな口でがぶりと噛みつきそう(笑)

まあ、それはないとしてもジェイムスが新婚の妻で同じシンガー・ソングライター
仲間でもあるカーリー・サイモンにも買ってあげた、という話の方が納得できる。
離婚の原因は彼女の方にある(3)わけで、その時点でギターをあげる必要もないし。



↑写真をクリックすると「You Can Close Your Eyes」のデュエットが観られます。
ギターはマーク・ホワイトブック。


マーク・ホワイトブックのギターはクラレンス・ホワイト(4)や石川鷹彦(5)も所有し
ていたらしいが、製作された数も少ないようであまり情報がない。

ジェイムス・テイラーがこのギターを持っている写真を最初に見た時はマーティンの
D-28か?いや、でもヘッドにバインディングがあるし。。。それに何だ?この「W」
のマークは!と驚かされたものだ。
おそらくマーティンにいた職人が独立して造り始めたギターで、サンタクルーズ、コ
リングス、フランクリンなどマーティンのヴィンテージ系の音だろうと思った。




↑実に丁寧な造りのギターであることが分かる。



ジェイムスはホワイトブックの音について「マーティンのようでもありギブソンのよ
うでもある」と表現している。
それは彼の弾くホワイトブックを聴くと的を得た表現であることが分かる。

ギブソンよりはマーティンに近いブライトな高音弦の響きとトーンと鳴るギブソンに
も似た低音弦の鳴り方。
見かけはマーティンの形状だがギブソンに聴こえる時もある。

コンタクト型ピックアップ(たぶんバーカスベリーだと思う)を使用した場合も、J-
45の時と似ていると感じた。



それにしてもあれだけ長いキャリアの中で、ジェイムス・テイラーが一度も王道の
マーティンを使わなかったのはなぜだろう?不思議でならない。

彼の盟友ダニー・コーチマー(6)もかつて恋人でもあったジョニ・ミッチェルもD-28
を愛用していたし、いくらでもマーティンを手にする機会はあったはずだ。
ホワイトブックの音を「マーティンのようでもあり」と言ってることから、マーティ
ン音についても熟知していたと思える。

それでもマーティンを使っていないのはあまりにもベタだと思ったのか?
J-50の音が自分のキャラクターと一体化していて、その対極にあるマーティンの音は
(たとえ良いと思っても)抵抗があったのか?




とにかくジェイムス・テイラーはマーティンとギブソン両方の魅力を持つマーク・ホ
ワイトブックと出会い、新しい相棒に選んだ。
それと同時に彼の音楽、サウンドも新天地へと舵を切る。



5枚目のアルバム「Walking Man」(1974)は西海岸を離れ、ニューヨークのセッシ
ョン・ギタリストであったデヴィッド・スピノザ(7)にプロデュースを依頼。
彼の総指揮の下、スピノザ本人とヒュー・マックラケン(g)、リック・マロッタ(ds)、
ドン・グロルニック(kb)、ブレッカー・ブラザーズ(bras)などニューヨークの精鋭
ミュージシャンを集めレコーディングに臨む。

その結果、前作「One Man Dog」での気心知れたザ・セクション(8)によるゴリゴリ
した手触りの温かみのあるサウンドとは一味違う、クールで引き締まった音作りへ。
それまでのフォーク、カントリー色が後退し洗練された都会的な作品になった。



↑写真をクリックすると「Walking Man」フルアルバムが試聴できます。


6枚目の「Gorilla」(1975)、7枚目の「In The Pocket」(1976)では再びロサンジェル
スに戻り、「バーバンク・サウンド」の立役者、レニー・ワーロンカー(8)とラス・
トルマン(9)をプロデュースに迎える。

ザ・セクションの復帰。クレジットを見ているだけでくらくらしそうなゲスト陣。
ローウェル・ジョージ、デヴィッド・グリスマン、ジム・ケルトナー、ニック・デカロ、
ウィリー・ウィークス、アル・パーキンス、バレリー・カーター、グラハム・ナッシュ、
デヴィッド・クロスビー、リンダ・ロンシュタット、ボニー・レイット、スティーヴィ
ー・ワンダー、デヴィッド・リンドレー、アート・ガーファンクル、ワディ・ワクテル、
アンディ・ニューマーク、カーリー・サイモン。。。。

ニューヨークで得た都会的要素と西海岸のまばゆい明るさと暖かさが見事に融合した。
曲もサウンドもどこまでもやさしくまろやか。心地よい。とろけそうだ。



↑写真をクリックすると「Gorilla」フルアルバムが試聴できます。



ワーナーブラザーズからコロムビアへ移籍後の「JT」(1977)、「Flag」(1979)ではピ
ター・アッシャーがプロデューサーに復帰。
ザ・セクションのメンバーを中心としたタイトなロック・サウンドになった。
「Flag」ではニューヨークで共演したデヴィッド・スピノザ、ドン・グロルニックも
参加している。

僕が大好きだったジェイムス・テイラーはここまで。



↑写真をクリックするとジャイムス、長兄アレックス、弟のリヴィングストン、ヒュー、
妹のケイトとテイラー兄弟による「Shower the People」(1981)が観られます。
さすが!息の合ったハーモニー。顔もよく似ててなんだかうれしい(笑)


次作の「 Dad Loves His Work」(1981)はJ. D. サウザーとの共演「Her Town Too」
いう目玉はあるものの、この時期蔓延し始めた「 AOR臭さ」が鼻についた。
実際に「AORの名盤」としてこのアルバムが挙げられることも多い。(10)

僕がこのアルバムを好まない要因の一つは、これ以降ジェイムス・テイラーのサウンド
のキーを担うことになるドン・グロルニックのシンセサイザーであり、もう一つはこれ
以降留任し続けるデヴィッド、ラズリーとアーノルド・マッカラーの歌い上げ系コーラ
スである。


それはともかく1974〜1981年の7年間、ソフト&メロウからタイトなロックへと変化
て行った6枚のアルバムはジェイムス・テイラーの第2ゴールデン期であり、その要と
ったのがマーク・ホワイトブックのギターだったと言い切ってもいいと思う。


マーク・ホワイトブックは既に他界している。
ジェイムス・テイラーは「僕はホワイトブックに素晴らしいギターを何台か作ってもら
うことができてラッキーだった」と語っている。

彼はよく目にしたローズウッドかハカランダ 製ボディーのドレッドノートの他、メープ
ル・ボディーのアバロン・インレイが派手なドレッドノート、パーラー・サイズ(おそ
らくマーティンの5-18と同じ3/4サイズ)を所有している。
他にも持っていたかもしれない。




しかし彼のお気に入りだったホワイトブックも1985年以降見かけなくなる。
いくら酷使する道具とはいえ使い物にならないほどダメージを受けているとは思えない
し、いくらでもリペアのしようはあったはずだ。

想像するに、この後ジェイムス・テイラーが志向する音楽性が変わり、また彼のピッキ
ングのタッチもソフトになり、それに対応するギターがホワイトブックではなくなった
のではないだろうか。

(続く)

2016年4月20日水曜日

ジェイムス・テイラーのギターと音楽性の関係(上)

ギブソンJ-50と共に築いた第1ゴールデン期

どういう因果関係なのか分からないが、ジェイムス・テイラーはギターを変える
毎に彼の音楽の方向性も違うものになっている。


ジェイムス・テイラーといえば多くの人がギブソンのJ-50を思い浮かべるだろう。
1960年代のピックガードが剥がされたJ-50は彼のドレードマークでもあった。

この年代のJ-50はアジャスタブル・ブリッジである。
サドルが固定されていないということは、弦の振動をボディーに伝えるためには
デメリットであるわけだが、このことがかえって鳴りすぎない、押し殺したよう
な独特のサウンドを生む要因になった。





細野晴臣ははっぴいえんどで「風をあつめて」を演奏する際ジェイムス・テイラー
の音が欲しくて1960年代のJ-50を買ったことを明かしている。
彼によるとJ-50とJ-45は微妙に音が違うらしい。(1)

J-45はJ-50の姉妹機種で色がサンバーストである以外違いはないように思えるが、
塗装で隠せるためトップ材の木目をJ-50より落としてあるという話だ。




J-45は1942年に発売されているがこの時の価格は$45。(型番は価格に由来)
1947年に発売されたJ-50は$50であった。
この時の広告を見るとJ-45は$45のままでJ-50は$50。
価格差を考えると前述のトップ材の木目の話は本当かもしれない。

だからと言ってJ-50がJ-45よりいい音だというわけではない。好みの問題だ。
J-45の方を好む人も多い。正直言って僕には違いがぜんぜん分からない。


この辺がギターという楽器のおもしろいところで、必ずしも木材のグレードがいい
と音がよくなるわけでもないし、よく鳴るから心地よい音というわけでもない。

要は絶妙なバランスなのである。木材、形状、力木、パーツ、職人、塗装。。。
おそらく造っている側もその時点では予測できないようなものなのだろう。



とにかくJ-50とJ-45は名器である。
やや無骨でストイックな、それでいて甘さのある独特な音のキャラクターはマーテ
ィンのきらびやかな鈴鳴りの音とは対極的ともいえるかもしれない。

ジェイムス・テイラーのブルースとカントリー、フォークを融合した独自のフィン
ガーピッキングで奏でるJ-50の音、そしてゴールデンボイスとも称された艶やかな
ハリのある、かつブルージーな歌声はたまらなく魅力的であった。



↑写真をクリックすると1970年のBBCスタジオ・ライブが視聴できます。

<セットリスト>
With A Little Help From My Friends 
Fire And Rain 
Rainy Day Man 
Steamroller 
Tube Rose Snuff Commercials
Carolina In My Mind
Long Ago And Far Away
Riding On A Railroad
You Can Close Your Eyes



さて、そのJ-50であるが彼がワーナーブラザーズ移籍後リリースした3枚のアルバ
ムで使用されている。

Sweet Baby James(1970)  
Mud Slide Slim and the Blue Horizon(1971) 
One Man Dog(1972) 

たった3枚だけ?という気もするが。
世界中のフォーク、ロック・ファンをノックアウトするには3枚でも充分だった。

この3枚のアルバムを録音した1970〜1972年はジェイムス・テイラーの第1ゴール
デン期でありそれを築いた愛器があのJ-50であったのは確かである。


いや、実はもう一枚あるはずだった。
ワーナーはOne Man Dog(1972)の後、Walking Man(1974)発売まで間が空く
ため1972年にオークランドで録音されたライブ盤を出すことを考えていたのだ。


それがこれ↓2002年に発売されたオフィシャル並み高音質のブートである。
ワーナーさん、そろそろ正規盤を出してくれないかなー。




ワーナーブラザーズ移籍前、つまり1968年にアップル・レコードからデビューした
際、またそれより遡って1966〜1967年フライングマシーン時代に彼が使っていた
ギターについては明らかでない。

アップルのプロモーションビデオでジェイムス・テイラーはJ-160E(2)を弾いてる。
このJ-160Eは彼のものなのか?誰かに借りたのだろうか?
これをレコーディングに使ったのか?


ジョン・レノンの1964年製J-160Eはこの時期塗装を剥がされナチュラルであった。
ジョージ・ハリソンの1962年製J-160Eはサウンドホール回りの白いリングが一本
だから、ジェイムス・テイラーが弾いてるものとは違う。(3)

実はポール・マッカートニーもJ-160Eを持っているが、1970年以降に製造された
スクエアショルダーのレッドサンバーストであるのでこれも除外。


残る可能性はアップルでプロデュースを担当したピーター・アッシャーがピーター
&ゴードン時代の相棒であったゴードン・ウォーラーから借りた?という線。(4)
このフィルムはオーディションであり、ジェイムスがギターを持参していなかった
ため急遽ピーター・アッシャーが調達した?とも考えられる。


そのままJ-160Eをレコーディングに使ったのか?
既にJ-50を所有していて、英国にも持参しそれを使ったのか?不明である。

アップルのデビュー盤を聴く限り僕には判別できなかった。
オール合板のJ-160Eは鳴らないけど音の傾向はわりとJ-45に近い。



↑写真をクリックするとアップルのプロモーションビデオが視聴できます。


ジェイムス・テイラーのJ-50は人から勧められて、サドル下にピエゾ・ピックアッ
プを装填したことで音が変わってしまったそうである。
アジャスタブル・ブリッジにフロートされたセラミック製のサドルを外して、固定
のサドルをセットしたことで独特の音のキャラクターが損なわれたのだろう。

「いいギターだったのに。後悔している」とジェイムス・テイラーは語っている。


1973年2月の初来日の際はJ-50のサウンドホールに何か蓋をガムテープで固定して
いる(ハウリング防止のための措置)が写真で確認できる。(5)
ブリッジの上にコンタクト・ピックアップを貼り付けているのか、この時点で彼が
後悔しているサドル下にマウントしたピックアップなのかは分からない。

少なくとも1973年前半までJ-50を使っていたことだけは確かなようで、日本のファ
ンは彼があのJ-50を弾く姿を拝めたわけだ。

(続く)

2016年4月14日木曜日

国境を越えて。メキシコへの憧憬。

1979年から1984年にかけて僕はよく好きな曲を集めたカセットテープを作った。
車に一人で乗る時、その日その時の気分に合わせて聴くためだ。

僕の好みはテーマやトーンを決めて似たような曲調を続けて聴くこと。
デュラン・デュランの後にトム・ウェイツが歌うなんてありえないし、フュージョン
とカントリーが同じテープに混在することも許されなかった。


たとえばバラード集ならA面はWhite SideでAOR、B面はBlack Sideでブラック・
コンテンポラリーの曲をメドレーにする。

ウエストコースト・ロックならA面をFast Sideにしてノリのいい曲でつなぎ、B面は
Slow Sideにしてミディアム・スローの曲を集める。
(これはロッド・ステュアートのアルバム「A Night on the Town」を真似てみた)



ある日ウエストコースト・ロックの同じ曲調のリストを作っていてふと気がついた。

Cheek To Cheek(ローウェル・ジョージ)
Tattler(リンダ・ロンシュタット)
Linda Paloma(ジャクソン・ブラウン)
Mexican Divorce(ニコレット・ラーソン)
Volver Volver(ライ・クーダー) (1)
The Magic Of Love(ジム・メシーナ)
Carmelita(リンダ・ロンシュタット)(2)
Canción Mixteca(Paris, Texas O.S.T. ライ・クーダー)

※「Tattler」「Mexican Divorce」はライ・クーダーのヴァージョンも捨て難い。


どうやら僕はマリアッチ(メキシコ民謡)(3)やテックスメックス(テキサスとメ
キシコの国境地帯の音楽)(4)が好みのようだ。



↑写真をクリックするとライ・クーダー版「Tattler」が視聴できます。
(1977年 BBC Whistle Test Live。アコーディオン奏者はフラコ・ヒメネスです)



思えばその好みははるか昔まで遡る。
僕が子供の頃、家にはビクターの家具調Hi-Fiステレオがあった。
上蓋タイプのアンサンブル型でもちろん真空管である。

両親のクラシック・レコードのコレクションには興味が持てず、僕が一人の時よく
聴いたのは、ステレオ購入時に付いていた試聴用のレコードだ。

蒸気機関車が左から右へ移る音などの効果音でステレオの特性を解説してくれて、
「では音楽をお楽しみください」といろいろな音楽が入っている。
その中で「可愛いフラの手」と「キサス・キサス」が好きで繰り返し聴いた。



「可愛いフラの手」(Lovely Hula Hands)は当時の典型的なハワイアンで、ス
ティールギターをメインにしたインストゥルメンタルであった。
1960年代のビアガーデンでバンドが演奏していそうな雰囲気だ。

「キサス・キサス」(Quizás, quizás, quizás)はメキシコのトリオ・ロス・パ
ンチョスの世界的なヒット曲(5)だが、試聴用レコードに入っていたのはたぶん
デューク・エイセスが歌っていたものと思う。

その頃から僕はハワイアン・スラッキー(6)とマリアッチを好きになる要素を持っ
てたいのだ。





メキシコには一度だけ行ったことがある。と言っても数時間いただけだけど。

メキシコの最北端、アメリカとの国境沿いにある街だ。
サンディエゴから車で約15分なのでアメリカからの日帰り観光客が多い。


初めてギタロン(バカでかいギターのような低音弦楽器)奏者がいるマリアッチ
楽団の演奏を生で見ることができて僕は喜んだ。
奏者は全員ソンブレロに黒い衣装でなんだかブーフーウー(7)みたいだった(笑)

本場のメキシコ料理は期待はずれ。代官山のラ・カシータ(8)の方が美味しい。
まあ、探せばディープな美味い料理を食べさせてくれる店もあるはずだが。





メキシコへの越境は入国審査もなくあっけないものだった。
反対にアメリカに戻る時は国境ゲートの前がすごい渋滞で、書類の記入とか車内
の検査とか面倒でうんざりさせられた。

どちらにしても「国境を越える」ロマンとか冒険心はまったく感じなかった。


でも島国に暮らすわれわれ日本人にはどれだけ想像力を働かせても分からないが、
メキシコと隣接するカリフォルニア州、テキサス州、ニューメキシコ州の南部で
は常に「国境」を意識しながら生活しているのだろう。


そしてメキシコとアメリカの文化が混じり合って「テックス・メックス」と呼ば
れる独特の料理や音楽やアートが形成された。

テハーノと呼ばれる懐かしく陽気な彼らの音楽はマリアッチ(メキシコ民謡)と
ワルツ、ポルカ、ブルースなどが融合したものだ。
かつて牧場経営や過酷な労働をしていた移民たちにとっては、祖国の音楽を聴く
ことが何よりの娯楽であり癒しであった。





国境地帯へ。いつか機会があったら行ってみたい。そう思っていた。
ロサンジェルスからアムトラック(アメリカ国有鉄道)に乗ってサンタフェへ。
それからサン・アントニオまで行く。

サン・アントニオから飛行機で一気にナッシュビルへ。
ギター・ショップをはしごしてチェット・アトキンスのライブを見よう。

漠然とそんなふうに思っていた。いつか、と。


その「いつか」は実現しなかった。
僕は海外旅行には行けなくなり、チェットは2001年に他界した。

それでもまだ僕は「国境」に魅力を感じる。
時々メキシコの匂いがする音楽を聴き、まるでアームチェアトラベラーみたいに
見えない「国境」に思いを馳せている。

2016年4月8日金曜日

日本語でロックはやれるのか?

今では信じがたい話だが、1970年代初めに「ロックは日本語で歌うべきか、英語で
歌うべきか」という「日本語ロック論争」が起こっていたことがある。


日本語ロックの是非が論じられたというより、洋楽ロック支持派が一方的に日本語
で歌うアーティストを下に見ていた、という方が実情に近い。

クラスでもガチの洋楽ロック派は、吉田拓郎とか沢田研二も好きだと言うと「おま
え、あんなの聴いてんの?」と思いっきり僕をバカにした。
彼らが認めていたのは英語で歌っていたフラワー・トラベリン・バンド(1)とクリエ
イション(2)くらいで、目の仇にしていたのはGSの寄せ集めのPYG(3)だった。





ことの発端はタウン誌の新宿プレイマップ1970年10月号に掲載された座談会だ。
座談会に出席したのは内田裕也、鈴木ヒロミツ、大瀧詠一、久民、ジャズ評論家の
相倉久人、それに編集者の6人である。


内田裕也はロカビリー時代に歌手デビュー後、GSブームでタイガースを発掘しプロ
デュースに関わり(4)、世界に通用する本物のロックを目指しフラワー・トラベリン
バンドを結成したばかりであった。
(この翌年アトランティック・レコードと契約し2枚目のアルバム「SATORI」を
日本・北米でリリースしている)

内田は「日本語でやった経験もあるが歌う方としてはのらない」とロックは英語で
歌う道を選び、ジョー山中をヴォーカルに起用した。



↑クリックするとフラワー・トラベリン・バンドの「SATORI part2」が聴けます。


GSの中ではゴールデンカップスと並んでブルースロックを得意としていたモップス
の鈴木ヒロミツは「日本語でやれればその方がいい、でも現実に日本語じゃのらな
い。日本語って母音が多い。だから『オレはオマエが好きなんだ』なんて叫んでも
シラケちゃう」と発言している。


はっぴいえんどでデビューしたばかりの大瀧詠一は「日本に外国のロックを持ち込ん
でも馴染めない一因は言葉の問題だと思う。そこで日本語でロックをやってみた」と
意気込みを語った。

さらに「ロックをやるのに日本は向いていないと思う。全世界的にやるなら英語の方
が早い。でも日本でやるなら日本の聴衆を相手にしなくちゃならないわけで。日本語
でやるのはプロテストのためじゃないし国粋主義者でもない」と自分の考えを示した。



↑写真をクリックするとはっぴいえんどの「かくれんぼ」が聴けます。


英語で歌うべき派の内田裕也も大瀧の話を聞いて「フォークと違ってロックはメッセ
ージじゃないし、そこにロックがあれば言葉じゃなくて何か判りあっちゃうと思う。
言葉は重要だと思うけどそんなにこだわらない。大滝くんたちが日本語でやるのなら
成功してほしい」とこの時はエールを贈っている。


しかし翌年ニューミュージック・マガジンに発表された日本のロック賞で、日本語で
歌っているURCレコード(5)の主にフォーク系アーティストが上位を占め、英語で歌っ
ているアーティストが選ばれなかったことで状況が変わる。

ニューミュージック・マガジン1971年5月号に掲載された「日本のロック情況はどこ
まで来たか」と題する座談会で論戦は始まった。
出席者はミッキー・カーチス、内田裕也、大滝詠一、松本隆、ロック評論家の福田一
郎、中村とうよう、小倉エージ、ディレクターの折田育造(6)の8人。


この対談で内田裕也は「はっぴいえんどの『春よ来い』はよほど注意して聞かないと
言ってることがわからない。歌詞とメロディとリズムのバランスが悪く日本語とロッ
クの結びつきに成功したとは思わない」と指摘。



↑写真をクリックするとはっぴいえんどの「春よ来い」が聴けます。


「去年のニューミュージック・マガジンの日本のロックの1位が岡林信康で、今年は
はっぴいえんど、そんなにURCのレコードがいいのか? 僕たちだって一生懸命やっ
てるんだと言いたくなる」と本音を吐いている。

対する松本隆は、ロックに日本語の歌詞を乗せることににいまだ成功していないこと
をあっさりと認めたうえで、フラワー・トラベリン・バンドをどう思うか?の問いに
「人のバンドが英語で歌おうと日本語で歌おうとかまわない。音楽についても趣味の
問題だ」と全く意に介していない。
内田以外の参加者(日本のロック賞の選考委員)はっぴいえんどを絶賛していた。



同年11月はっぴいえんどは2枚目のアルバム「風街ろまん」をリリース。
バッファロー・スプリングフィールド、リトルフィート、ジェイムス・テイラーなど
アメリカのロックのサウンドを巧みに取り入れながら、日本語で独自の世界観を表現。

これによって「ロックのメロディーに日本語の歌詞を乗せる」という試みは成功し、
「日本語ロック論争」は収束して行った。



↑写真をクリックするとはっぴいえんどの「夏なんです」が聴けます。



1972年12月にはキャロルがデビュー。
卓越した演奏と日本語+英語の巻き舌唱法で独自のスタイルを確立。

内田裕也もキャロルの実力には早々と目をつけデビュー話を持ちかけている。
(ミッキー・カーチスに先を越されてしまったが)(6)

日本語ロックに否定的だった鈴木ヒロミツのモップスも「月光仮面」(1971年3月)、
吉田拓郎作の「たどりついたらいつも雨ふり」(1972年7月)をヒットさせた。



↑ジャケットをクリックするとモップスの「月光仮面」が視聴できます。


「サイクリングブギ」(1972年)でスタートした加藤和彦のサディスティック・ミカ
・バンドの2枚目のアルバム「黒船」(1974)は英国のプロデューサー、クリス・ト
ーマス(8)が手がけ、日本のロックの金字塔といえる作品となった。
1975年にはイギリスでツアーを行い、日本語で歌ってもウケることを実証した。




内田裕也がプロデュースをした郡山のワンステップフェスティバル(1974年)には、
キャロル、サディスティック・ミカ・バンド、沢田研二&井上堯之バンド、シュガー・
ベイブ、ダウンタウン・ブギウギ・バンド、四人囃子ら日本語でロックするバンドが
多数参加した。(9)



↑写真をクリックするとワンステップフェスティバル出演時のサディスティック・ミカ
・バンドの「塀までひとっとび」が視聴できます。




↑写真をクリックするとワンステップフェスティバル出演時の沢田研二&井上堯之バン
ド+内田裕也の「塀恋の大穴」が視聴できます。


1973年に荒井由美がデビュー。
完成度の高い音楽性、美しい歌詞とメロディの融合はもはや「日本語だからこそでき
た音楽」にまで昇華していた。

2016年4月1日金曜日

放浪するヒッピーたちの安息の地。

アーロ・ガスリーといえばまず「アリスのレストラン」だろう。

僕は近所に住むイギリス人からこの曲の弾き方を教わった。
彼がうちに遊びに来た時に弾いてたので褒めたら、「君ならすぐできるよ」と
ゆっくり弾いてくれ僕もその場で覚えた。ずいぶん昔のことだ。

だから僕の「アリスのレストラン」は彼流でアーロの完コピではない。
そろそろアーロの演奏をちゃんとコピーしてみよう。


。。。。と思ってTAB譜を探したがどれも違ってる(アーロの演奏と違う)。

YouTubeでチュートリアルも探したがあまりいいのが見つからない。
アーロ本人の当時のライブやTV出演の映像は少ないようだ。


これが一番いいかな?
↓写真をクリックするとアーロ本人の「アリスのレストラン」が視聴できます。



アーロが弾いてるのは珍しいフェンダーのアコスティックギター。(1)
日本ではほとんど見かけなかった。いい音してます。



さっそくアーロの演奏をコピーしてみた。
ギャロッピング奏法(2)のラグタイム・ギターである。

さほど難しくはない。
が、この力強いノリを出せるかどうか?がポイントではないかと思う。
そうとう慣れて自分のモノにしないと歌いながらは無理だろう。



You can get anything you want at Alice's Restaurant 
You can get anything you want at Alice's Restaurant 
Walk right in it's around the back, just a half a mile from the railroad track 
An' you can get anything you want at Alice's Restaurant 
お望みのものは何でもある アリスのレストラン  
行ってごらんよ 裏の方にあるんだ 線路からほんの半マイルさ
そう、お望みのものは何でもある アリスのレストラン

                   (Arlo Guthrie 対訳:イエロードッグ)


歌になっているのはこの短いヴァースだけである。
ローカル・ラジオのCM、街頭CM、宣伝カーのCMみたいなイメージだろうか。


それ以外は彼がゴミの不法投棄でムショにぶち込まれた話、徴兵検査でその前科
のために不適格と判断され自由の身になった話がおもしろおかしく語られる。
いわゆるトーキング・ブルース(3)のスタイルだ。

父のウディ・ガスリー、ディランを始め幾世代もの歌手によって継承されて来た
スタイルで、息子のアーロが1960年代の反ベトナム期に歌っているわけだ。



「アリスのレストラン」の原題は「Alice’s Restaurant Massacre」(アリスの
レストランの大虐殺)」である。
大虐殺といってもレストランでそんな事件が起きたわけではなく、上述の逮捕〜
徴兵検査の顛末を誇張しているだけである。


↓全部訳してみようという根気と暇のある方はトライしてみてください。
http://www.lyricsmode.com/lyrics/a/arlo_guthrie/alices_restaurant.html



1967年に発売されたこのデビュー曲に目をつけたのが映画「俺たちに明日はない」
でニューシネマの寵児となった監督のアーサー・ペン。
アーロ自身を主役にキャスティングして曲中のエピソードを元に半分フィクション
の映画「アリスのレストラン(Alice’s Restaurant)」(1969年)を公開した。

社会のシステムからドロップアウトしたヒッピーたちの生活や苦悩を描く物語に
仕上げ、地味ながら味わいのある作品になっている。



↑クリックすると当時の映画のトレーラーが見られます。


物語はアーロが田舎の大学に入るところから始まるが、彼が好む音楽は学校に理解
してもらえず、保守的な人々から長髪が反感を買い食事もまともにできない。

(映画「イージー・ライダー」では、南部の保守的な人々は長髪のヒッピーを異端
とスポイルし最後はライフルで鉛の弾をぶち込んだ。
自由の国アメリカの裏の顔を知り、やるせない気持ちになったのを憶えている)



アーロは退学し放浪するが、やがて田舎町の教会を改築した広い家にたどり着く。
そこは行き場のない若者が大勢寝泊まりしている場所だった。

家の主のアリスはレストラン開業のためのCMソングをアーロに依頼する。
感謝祭には大勢の人が集まるが、そのゴミをアーロが不法投棄したことが静かな
田舎町にとって50年に一度の大事件となり、裁判沙汰の末アーロは投獄される。
実際にアーロを逮捕した警察官オビーも実名で出演している。





映画の見どころの一つでアーロが病床の父親ウディを見舞いに行くシーンがある。
ウディは2年前に他界していて俳優が演じているのだが、病室でバンジョーを抱えて
歌を披露するピート・シーガーは本人である。
ギターとハーモニカを手にアーロが加わる。
息子の成長した姿を父ウディ(役者)が嬉しそうに眺めている、という図だ。

日本だとお涙頂戴になりそうだけどそうならないのがいいよね。