2016年6月29日水曜日

ビートルズ来日から50年(衣装で分かる事実)

今から50年前の今日、1966年6月29日ビートルズを乗せた飛行機は台風の影響
でフライトが遅れ午前3時40分に東京・羽田空港に到着した。

翌30日から7月2日までの3日間、日本武道館で計5回の公演を行った。
この年の8月ビートルズは北米ツアーを最後にライブ活動をやめてしまう。



日本公演は7月1日昼の部を日本テレビが録画し同日21時から放送した。
視聴率は56.5%を記録。(ビデオリサーチ・関東地区)

ビートルズの最後の年のライブを収めた、しかもカラー映像なので貴重だ。
現在はDVD「Anthology」に何曲か収録されている他、ブートDVDや投稿動画
見ることができる。

この映像は2ヴァージョンある。ビートルズの衣装が違うので一目瞭然だ。



<5回のステージ衣装の検証>

1回目 6月30日 夜の部
スーツ上下: 濃いモスグリーン(ラペルの下半分のみ明るい色)
シャツ: 赤
靴: 黒





2回目 7月1日 昼の部
ジャケット: ライトグレーにオレンジのストライプ
パンツ: 黒
シャツ: 赤
靴: 黒





3回目 7月1日 夜の部
スーツ上下: : ライトグレーにオレンジのストライプ
パンツ: 黒
シャツ: 赤
靴: 明るいベージュ(ジョージだけ黒)





4回目 7月2日 昼の部
ジャケット: ライトグレーにオレンジのストライプ
パンツ: 黒
シャツ: 淡い花柄
靴: 黒


5回目 7月2日 夜の部
ジャケット: ライトグレーにオレンジのストライプ
パンツ: 黒
シャツ: 淡い花柄
靴: 黒
※このステージのみジョンはサングラスを着用






1回目(6月30日)に着用した濃いモスグリーンのスーツは6月24日〜26日の
ドイツ公演のために用意されたものである。
厚手で(おそらくウールだろう)いかにも仕立てが良さそうに見える。

次の極東ツアー(日本〜フィリピン)ではライトグレーにオレンジのストライ
プの上下を着用することになっていた。
極東の夏に適したトロピカル(サマーウール)ではないかと思われる。



ところがライトグレーのスーツは日本公演の初日に間に合わず、1回目はドイ
ツ公演用のモスグリーンのスーツを着用。
ポールの滝汗で分かるようにこの服はかなり暑かったのではないかと思う。
ジョンが目を開けていられなかったと言うくらい照明も強すぎた。(1)


翌7月1日午前中に航空便でライトグレーのジャケットのみ先に届いた。
昼の部(2回目)はこのジャケットに黒いパンツを合わせる。

午後に遅れてライトグレーのパンツが到着。
夜の部(3回目)は上下で着用。


7月2日は昼の部(4回目)夜の部(5回目)共にまたライトグレーのジャケッ
ト+黒のパンツを着用。
淡い花柄のシャツ(赤より薄手に見える)を合わせる場合、上下ライトグレ
ーではボケるためボトムは黒で締めたのではないだろうか。




<映像が2ヴァージョンある理由>

テレビ放映用に初日の6月30日のステージが収録された。
濃いモスグリーンのスーツを着用しているヴァージョンがそうだ。


しかしマネージャーのブライアン・エプスタインからクレームが入る。

 1) マイクが安定せずビートルズが演奏に集中していない
 2) 観客が映っていない

確かにマイクが左右に揺れポールが何度も直しているし、最後の「I’m Down
」の前に「マイクが最後まで動かないといいけど」とポールが言っている。



が、理由はマイクだけではなかった。
演奏の出来が悪かったのである。



ビートルズはコンサートでは自分たちの演奏が聴こえないのが常だった。
当時はPAシステムも返りのモニターもなく、真空管のヴォックス・アンプの
音はファンの悲鳴でかき消されてしまった。


収容人数18000人のハリウッドボウルで1964年、1965年の公演を録音した
ジョージ・マーティンは金切り声がジェット機のようだったと言っている。

収録された1965年8月30日の最後「I’m Down」の2nd.ヴァースではポール
他の3人がブレイクの後、半拍ずれたまま気づかず演奏している。(2)


1965年8月15日に前年オープンしたシェイ・スタジアムでの公演で55,600
人を動員し、以降は全米ツアーは大球場がメインとなる。
メンバーたちはますます自分たちの演奏が聴こえなくなり、ストレスを感じ
ライブへの情熱は消え演奏の質はどんどん落ちていった。


どうせ誰も聴いていない。。。。ところが日本では今までと勝手が違った。







日本武道館はライブで使用した場合の収容人数は10000人程度だが、ビートル
ズ公演は警察側が事故を警戒しアリーナに客を入れなかったため、1〜2階席
約7500人であった。

アリーナは報道関係のみで客席は遠い。
しかも厳戒態勢で通路には警察官と警備員が立ち並び観客は立つと制される。


また多くの学校がビートルズの公演を観に行くことを禁止ししたのと、著名人、
有識者、音楽関係者がチケットが押さえたこともあって客層は大人が多かった。

つまり他国と違って、日本の観客は比較的静かだったためビートルズにも自分
たちのおざなりの演奏がバッチリ聴こえてしまったわけである。




↑写真をクリックすると武道館の6月30日(1回目)の映像が見れます。



このことは本人たちにも少なからずショックだったようだ。
広報担当のデレク・テイラーとロードマネージャーのニール・アスピナールが
証言している。

ホテルに戻った4人はミーティングを行い、この日の不出来を認めた。
ジョージは「今日やったIf I Needed Someoneは今までで最低だった」と発
している。

翌日は本番前に練習すること、初日は半音下げていたチューニング(3)をレギ
ラーにし音に張りを持たせ、全体にテンポアップすることが確認された。
同行した写真家のロバート・ウィテカーは、ホテルの部屋でビートルズが入念
に音合わせをしていたと言っている。






6月30日収録分をビートルズ側から駄目出しされた日本テレビは急遽、翌7月
1日の昼の部(2回目)を撮り直しその日の午後9時の放送に間に合わせた。
なので、当時放映されたのはライトグレーのジャケットの映像の方である。

マイクはスタンドに黒いテープで固定され、ビートルズの演奏も全体的に初日
よりノリが良く粗も少なくなった。
ビートルズの登場シーン、演奏中の撮り方も前日より良くなった。

エプスタインの要求を汲んで客席ショットも入ったが、カメラをさせ客
席を舐めてるだけのかえって汚い映像になってしまった。(4) 



↑写真をクリックすると武道館の7月1日(2回目)の映像が見れます。



<再放送と映像作品化〜マスターテープの行方>

放映された7月1日の昼の部(2回目)のマスターテープ(ライトグレーのジ
ケット)はブライアン・エプスタインが持ち帰ってしまった。
日本にはボツになった6月30日収録分(モスグリーンのスーツ)が残された。


日本テレビが「ビートルズ日本公演!今世紀最初で最後たった1度の再放送」
と銘打って1978年に放映したものは実は6月30日の分だ。
再放送ではないが、逆に6月30日収録分(モスグリーンのスーツ)が初めて日
の目をみたことになる。


1980年にポールの来日公演が大麻所持で中止になったため、ファンへの慰め
として6月30日収録分が再放送された。
さらに1988年にマイケル・ジャクソンの日本公演放映キャンペーンの一つと
て日本テレビは6月30日収録分をリマスターし再々放送した。

1996年にはビートルズ来日30周年企画として、日本テレビ系列のバップより
「ザ・ビートルズ武道館コンサート」としてVHSビデオ、LDが発売された。


1978年に再放送と銘打って6月30日収録分(モスグリーンのスーツ)放映
するにあたって、日本テレビがアップルに打診したところ使用許可の条件は
「マスタテーの返却」だったそうだ。

1978年放映に使用された6月30日分の素材はマスタテープであるが、その後
アップルに返却したため1980年の再放送時は日本テレビが録っておいたコピ
ーが使用された
1988年の再々放送およびVHSビデオ、LDに使用されたリマスターもその日
に残されたコピーが元になっているため1978年放映時より色調が浅い。







余談であるが、日本テレビの録画には発売されたばかりの富士フィルム製2イン
チVTRが使わた可能性がある。
その後1インチVTRがテレビ局の標準になると2インチVTRは使用されなくなり
作動する再生機材も姿を消した。


おそらくアップルは2インチVTR再生機材がまだあるうちに6月30日分、7月1
分ともに一旦フィルムに変換(この作業で画質は落ちる)してからデジタル
リマスター処理を施したテープを持っているのではないだろうか。
(録画時のVTRが1インチだったとしても作業は同じである)

1996年に発売された「Anyhology」の映像版(VHSビデオ/LD、後にDVD
化)に一部収録された6月30日分、7月1日分は画質が鮮明であった。



今年9月にビートルズのライブ映像を集めたドキュメンタリー映画「The Bea
tles: Eight Days A Week - The Touring Years 」(ロン・ハワード監督)
が公開予定が、予告編では7月1日のステージ登場シーンが収めれている。
画質はさらに向上しているようだ。

同時に来日50周年として6月30日分、7月1日分完全収録のDVD、Blue-Ray
発売?という夢は完全に消えたことになる。

2016年6月22日水曜日

バカラックもカーペンター兄も絶賛の歌姫。

今回取り上げるアーティストは僕のブログの中では「最近の人」である。
ルーマーというパキスタン出身のイギリスのシンガー・ソングライターだ。

イスラマバードに生まれた彼女はテレビも新聞もない環境で、幼少期から家族
と一緒に歌いながら育った。
ルーマーのフォーキーな要素はこのルーツにあると思う。



イギリスに移り住んでからの彼女は苦労の連続だったようだ。
両親の離婚、ゴミ収集所に置かれたヴァンに暮らし病の母親の面倒をみる生活。
母親との死別後も皿洗いやポップコーン売りで生計を立てていた。

ロンドンのどん底生活の中で地道に音楽活動を続けていたルーマーは評価され
始め、2010年に31歳で遅咲きの新人デビューを果たす。



デビュー・アルバム「Seasons of My Soul」はプラチナディスクを獲得。
メディアでも絶賛され、翌2011年にはイギリス最大の音楽賞、ブリット・アワ
ードの最優秀新人賞、最優秀女性アーティスト賞の2部門にノミネートされた。

その歌声に魅了されたバート・バカラックはカリフォルニアの豪邸に彼女を招き
大統領とファーストレディの前で歌わせた。
リチャード・カーペンターも感動してルーマーに手紙を送り、エルトン・ジョン
もルーマーを絶賛し自分のステージに招いている。






ルーマーの魅力は少し気だるくアンニュイでソフトな歌声。
決して力まず張り上げない、息を吐くボサノヴァっぽい歌い方が僕の好みである。
スローかミディアムスローのゆったりした曲ばかりでリラックスして聴ける。

ケニア(1)、カレン・カーペンター、ノラ・ジョーンズが好きな人にはお薦めだ。


ポップになりすぎないフォーキーな要素は前述のように彼女の生い立ちが影響し
ているのだと思う。
ルーマーの歌には光と翳を感じるのだ。
洗練されているのだが、渇いた土の匂いもかすかに感じられる。



今回紹介するのは2015年にリリースされたルーマーの最新アルバムだが、カヴ
ー曲、アルバム未収録曲を集めたコンピレーション。

タイトルもずばり「B Sides & Rarities」。
おおっ!このブログのタイトルにもぴったりではないか(笑)



ソングリストを見ていただきたい。
(曲名の後にYouTubeのランニングタイムが記してあります)

1. Arthur's Theme (Best That You Can Do)  00:00
2. Dangerous (Bossa Nova)  03:55
3. Sailing  08:03
4. Hasbrook Heights (with Dionne Warwick)  12:31
5. Come Saturday Morning  15:56
6. It Might Be You (theme from Tootsie)  19:12
7. Moon River (live on BBC radio 2)  22:38
8. Separate Lives (with Stephen Bishop)  25:11
9. The Warmth Of The Sun  29:00
10. Alfie  32:23
11. Long Long Day  35:15
12. Soul Rebel  38:26
13. Here Comes The Sun  41:59
14. Marie  45:49
15. Frederick Douglas  48:30
16. That's All  (with Michael Feinstein live on NPR)  53:58
17. I Believe In You  (Theme from Johnny English)  57:11




↑写真をクリックすると「B Sides & Rarities」フル・アルバムが視聴できます。



1曲目の「Arthur's Theme」は1981年に大ヒットしたクリストファー・クロ
(2)の名曲で、映画「ミスター・アーサー」の主題歌。
この曲を冒頭に持ってくるところが心憎い。

2曲目の「Dangerous」は自身のヒット曲だが、新たにボサノヴァ・アレンジ
施されていてこれがまた心地いい。

3曲目の「Sailing」は再びクリストファー・クロスの大ヒットしたデビュー曲。

続く「Hasbrook Heights」は1970年代にB.J.トーマス、ディオンヌ・ワーウ
ックが歌ったいかにもバート・バカラックらしいナンバー。
ルーマーはそのディオンヌとデュエットしている。

「Come Saturday Morning」は1969年公開のライザ・ミネリ主演の映画「
くちづけ」で使用された曲でサンドパイパーズが歌っていた。
選曲がマニアックだなあ。。。

「It Might Be You」はスティーヴン・ビショップ(3)が歌った名曲(曲はデイ
・グルーシン)で1982年のダスティ・ホフマン主演映画「トッツィー」主題歌。
いい曲が続きます。。。

「Moon River」はヘンリー・マンシーニの名曲中の名曲で、1961年の映画「
ィファニーで朝食を」の主題歌。
オードリー・ヘプバーンの味のあるヘタウマ歌唱には及ばないものの、ジャジー
な雰囲気は悪くない。BBCラジオのライブ・レコーディング。

「Separate Lives」はスティーヴン・ビショップの曲。
フィル・コリンズとマリリン・マーティンのデュエットが1985年公開の映画「
ホワイトナイツ/白夜」で使用された。
スティーヴン・ビショップとルーマーのライブ・ヴァージョンが聴ける。

とろけてしまいそうな「The Warmth Of The Sun」はビーチボーイズの19
64年の名曲。ブライアン・ウィルソンとマイク・ラヴ共作の美しい曲。

「Alfie」は1966年の映画「アルフィー」の主題歌。
ハル・デイヴィッド作詞・バート・バカラック作曲でシェールが歌った。
後年ディオンヌ・ワーウィック、ホイットニー・ヒューストン、ヴァネッサ・
ウイリアムズもカバーしている。
バカラック本人が「一番好きな曲」と言っている。

「Long Long Day」はポール・サイモンの曲でアルバム「One-Trick Pony」
(1980)のラストを飾るパティー・オースチンとのデュエット曲。
こんな曲を引っ張って来るなんて、やっぱりこの人はタダモノじゃない。

「Soul Rebel」はレゲエ・シンガー、ボブー・マーリーの1970年の作品。
みごとにルーマー節のスローな曲にアレンジされている。

このアルバムで僕が唯一ミソをつけるのがこの「Here Comes The Sun」
キーが低すぎるせいか抑揚のないアルトが続きメリハリがない。
アレンジも凡庸で芸がない。
そもそも選曲がベタすぎると思う。
ジョージ・ハリソンの楽曲をやるなら「If I Needed Someone」をアコーステ
ック・ギターだけでスローで歌うとか、「You Like Me Too Much」や「I 
Need You」をボサノヴァ風にするとか、もっとやりようがあったのではないか。
「The Inner Light」をルーマー流の料理で聴かせることもできたはずだ。

「Marie」はランディ・ニューマン(4)による1974年の作品。
ルーマーのカヴァーの方が僕は好きだ。

「Frederick Douglas」は彼女のオリジナル曲のようだが、これまでシングル
アルバムに収録された形跡がない。このトラック=レアということだろう。
歌われているフレデリック・ダグラスは19世紀終わりの奴隷制廃止論を唱えた
アフリカ系アメリカ人の活動家。
ゴスペル調のかけ合いコーラスで静かに盛り上げる曲である。

「That’s all」は1957年にナット・キング・コールが歌ったバラードの名作。
フランク・シナトラ、サム・クック、サラ・ヴォーン、メル・トーメ、コニー
・フランシスなど多くのシンガーがカヴァーしている。
ここに収録されているのはNPR(たぶんストリーミング放送局)でのライブで、
ジャズ・シンガーのマイケル・ファインスタイン(5)とのデュエット。

ラストを飾る「I Believe In You」は僕の一番のお気に入りだ。
彼女のオリジナル曲で2011年の映画「ジョニー・イングリッシュ 気休めの
報酬」(6) のエンディング・テーマに使用された。
この映画はミスター・ビーンでおなじみのローワン・アトキンソン主演の英国
のスパイコメディ映画なのだが、007シリーズのパロディーてんこ盛りである。
最後に流れるルーマーの「I Believe In You」は、ナンシー・シナトラが歌った
「007は二度死ぬ」の主題歌「You Only Live Twice」を彷彿させる。







アーティストはオリジナル作品はもちろんだが、むしろカヴァーでその力量が
問われるのではないか、と僕は思っている。

ビートルズやローリングストーンズがいい例だ。
彼らがカヴァーした楽曲はオリジナルを凌駕するくらいの出来だ。
いまだに「Please Mr. Postman」はビートルズの曲と信じてる人だっている。

そういう意味でルーマーは期待できるシンガーだと思う。

2016年6月15日水曜日

強くなければ生きていけない。(モハメド・アリ追悼)

モハメド・アリが亡くなった。
アリはビッグマウスだけど口先だけではなく実行した。カッコよかった。
リングの強敵とも差別社会とも病気とも戦い続けた。



僕がアリの存在を知ったのは1969年3月、中学一年の春休みだった。
遠縁のだいぶ年上の従兄弟から、ビートルズのシングル盤やEP盤や来日時の
ビートルズ特集雑誌、モンキーズの来日パンフレットをもらった。

その中の一つ「映画ストーリー臨時増刊ビートルズのすべて」(1965年7月)
にビートルズとアリの写真が載っていたのだ。






1964年2月ビートルズが初めて渡米し、エド・サリヴァン・ショーの2回目の
出演のためマイアミに赴いた際、トレーニング中のアリ(2月25日のソニー・
リストンとのタイトルマッチ(1)に臨むため)を訪問した時の写真である。
(アリは7回TKO勝ちでWBA・WBC統一世界ヘビー級王座を獲得した)


映画ストーリー臨時増刊の写真のキャプションには「ヘビー級チャンピオン、
カシアス・クレイ」と書いてあった。
イスラム教に改宗しカシアス・クレイからモハメド・アリに改名したのはリ
ストン戦の直後。ビートルズが訪問した時はまだ旧名だった。

映画ストーリー臨時増刊が発行された1965年7月には既にモハメド・アリだっ
たが、まだ日本ではカシアス・クレイで通っていたのかもしれない。



僕がアリのことを知った1969年当時、ヘビー級タイトルマッチをテレビで
見る機会はほとんどなかったと思う。
あったとしてもそこにアリの勇姿を見ることはできなかった。
彼は徴兵を拒否(2)しタイトルとライセンスを剥奪されていたからだ。


アリの試合をリアルタイムで観たのは1974年10月。僕は大学生になっていた。
彼が長いブランクを経て当時無敗だった最強のチャンピオン、ジョージ・フ
ォアマンに挑み、大方の予想を覆し8回KO勝ちでWBA・WBC統一世界ヘビー
級王座に返り咲いた「キンシャサの奇跡」と言われる伝説の試合だった。

それからアリの防衛戦がテレビで放映される機会が増え欠かさず見ていた。
格闘技にも他のスポーツにもさほど興味のない僕だが、アリは大好きだった。








音楽のブログなのでアリに関連がある音楽の話をしよう。



アリといえば入場テーマの「アリ・ボンバイエ」(3)が有名だが、カシアス・
クレイ時代(1963年)に「I Am the Greatest 」というアルバムも出している。
内容はお得意の早口ビッグマウスで、対戦前にソニー・リストンを挑発する
トラッシュトーク(4)が収められ、歌(Stand by Me)まで披露している。




↑写真をクリックするとアリの「Stand by Me」が聴けます。




アリのドキュメンタリー映像作品はいくつか出ているが、アリ本人が出演した
映画がある。1977年トム・グライス監督の「アリ/ザ・グレーテスト」だ。
ローマオリンピックの表彰台から始まりプロ転向後の試合映像、私生活や事件
を描き1974年の「キンシャサの奇跡」で終わるという内容。

エンディング・テーマの「I Always Knew I Had It In Me」は「アリ・ボンバ
イエ」にジェリー・ゴフィンの詩を付け、ジョージ・ベンソンがバラードにア
レンジし直したもの。(なんだかなーという感じ)



オープニング・タイトルの「The Greatest Love of All」もジョージ・ベンソ
ンが歌っているが、後に(1986年)ホイットニー・ヒューストンがカバーして
全米No.1の大ヒットとなった。(ホイットニーの勝ち〜)

ベンソン版を聴くとなんだか恋人たちに向けられた甘っちょろいラブソングに
思えるが、内容は「自己へ向けた愛と誇りの歌」である。



↑写真をクリックするとジョージ・ベンソンの「The Greatest Love of All」が
流れる「アリ/ザ・グレーテスト」のオープニング・タイトルを視聴できます。



作詞を担当したリンダ・クリードは当時乳がんの手術を受けた1ヶ月後に書き上
げ、その後10年に及ぶ闘病の末に37歳の若さで亡くなっている。
ホイットニーのカバーが全米チャートでNo.1を獲得する一ヶ月前だった。


この曲はホイットニーが自身の最高傑作と言い、最も大切にしていた歌だった。
彼女はゴスペル歌手だった母シシー(5)から「どんな時も自分に対して誇りを持っ
て生きなさい」と言い聞かされていたそうだ。

「The Greatest Love of All」は歌いこなすのが難しい曲で、母シシーは「この
曲が歌えたら一人前よ」とホイットニーを励ましていたという。


ホイットニーの歌唱に説得力があるのはそのせいかもしれない。
彼女は詩を書いたリンダ・クリードの思いにもモハメド・アリの強い信念を持っ
た生き方にも共感できたのだろう。



↑写真をクリックするとアリ50歳の誕生日でホイットニー・ヒューストンが歌う
「The Greatest Love of All」(6)が視聴できます。



もう一つ評価が高いのがウィル・スミス主演の映画「 ALI」(2001)だ。
映画で使われた音楽はアリシア・キーズ、R・ケリーなど最近のR&B系シンガー
からアレサ・フランクリン、アル・グリーンといった大御所まで幅広く、サウ
ンドトラック盤だけでもけっこう楽しめる。

特にアリシア・キーズの「Fight」とR・ケリーの「Hold On」がいい。
アリシアは「自由は権利、誰も奪えない、闘おう、尊厳を守ろう」と訴える。
R・ケリーは「しっかりしろ、しっかりするんだ、最後まで俺は強くなくちゃ」
(7)と力強く歌い上げる。

まさにモハメド・アリを讃える歌だと思う。




↑アリ役を演じたウィル・スミスとアリ本人。
クリックするとアリシア・キーズの「Fight」が聴けます。




1964年ソニー・リストン戦。クリックするとR・ケリーの「Hold On」が聴けます。

2016年6月8日水曜日

光の国から僕らのために。

子供の頃から変だと思ってたことがある。それは「ウルトラマンの歌」だ。



  胸につけてるマークは流星 自慢のジェットで敵をうつ
  光の国から僕らのために 来たぞわれらのウルトラマン

  手にしたカプセル ピカリと光り 百万ワットの輝きだ
  光の国から正義のために 来たぞわれらのルトラマン




↑クリックすると「ウルトラマン」のオープニング・タイトルが視聴できます。



ウルトラマンの胸の模様はどう見ても流星には見えない。
ついてるのはカラータイマーだけだ。
流星マークのバッヂ(小型無線機になる)を胸につけているのは科学特捜隊である。


敵をうつ自慢のジェットとは何のことだろう?
ウルトラマンの伝家の宝刀はスペシウム光線。ジェットなんちゃらという武器はない。






鉄人28号みたいに背中にロケットを積んで飛ぶわけでもないし、鉄腕アトムみたいに
足からジェット噴射しているようにも見受けられない。
そもそもウルトラマンがどういう原理で飛行するのか分からないのだ。


ジェットとはたぶん科学特捜隊のジェットビートル号のことじゃないかと思う。




ということは1番の歌詞はウルトラマンではなく科学特捜隊のことである。


2番に出てくるカプセルはハヤタ隊員がウルトラマンに変身する際に使用するベーター
カプセルのことだと思って間違いないだろう。
つまり2番の歌詞はハヤタ隊員のこと。






さらにテレビ放映時は使われていないが、この歌には3番がある。



  手にしたガンがビュビュンとうなる 怪獣退治の専門家
  光の国から地球のために 来たぞわれらのウルトラマン



手にしたガンは科学特捜隊が使用するスーパーガン(小型レーザー光線銃)および
アラシ隊員が装備しているスパイダーショット(大型熱線銃)のことだと思われる。

怪獣退治の専門家はウルトラマンとも解釈できるが科学特捜隊の方がしっくり来る。
3番も科学特捜隊について歌っているのだ。







ウルトラマンの主題歌なのになぜ科学特捜隊のことを歌っているのだろう?
作詞家は内容を理解していなかったのか?




「ウルトラマンの歌」は東 京一(あずまきょういち)作詞・宮内国郎作曲である。
東 京一は円谷英二の息子で「ウルトラマン」の監督であった円谷一のペンネームだ。

なので作詞にあたって内容を「理解していなかった」ということはありえない。
歌詞がちぐはぐになったのは制作時間が足りなかったことが原因ではないかと思う。




「ウルトラマン」は「ウルトラQ」に続く空想特撮シリーズ第2作として制作された。
TBS映画部(円谷一が勤務していた)と円谷特技プロの共同制作である。(1)

前作と同じく東宝のスタッフ集められ、キャスティングも東宝俳優が主体だった。
東宝の怪獣映画や若大将シリーズでお馴染みの平田昭彦、若林映子、二瓶正也も
ゲストで登場する。(2)
「ウルトラQ」でレギュラーだった桜井浩子はフジタ隊員役で続投することになり、
西條康彦も一話だけゲスト出演している。(3)







TBSはかなり早い段階で4つの条件を円谷特技プロに提示していた。

1. カラー作品とする (4)
2. 怪事件を専門に扱う架空の公的機関を登場させる (5)
3. 怪獣と互角に戦える正義のモンスターを主人公にする(6)
4.「ウルトラQ」のレギュラー俳優を1人残す (7)


監修の円谷英二が「スーパーマンのようなヒーローを登場させてはどうか」と提案。
次の段階で「烏天狗のような容姿のの宇宙人ベムラーが科学特捜隊の見方をする」
という企画書が作成されたが、「敵怪獣と区別がつきにくい」「キャラクター性が
弱い」と再検討され、新たに「科学特捜隊レッドマン」が企画された。


レッドマンは赤いコスチュームをまとい身長は伸縮自在、変身時間の制限、飛行機
事故で死なせた地球人の体を宇宙人レッドマンが借りるという設定は、ほぼウルトラ
マンに近い。

TBS側から「無表情な鉄仮面のようなものの方が謎があっていい」と提案があり、
造形を担当した成田亨は弥勒菩薩の像をもとにウルトラマンを完成させた。




↑ウルトラマンを演じていた古谷三敏はこんなにハンサムだったのだ。



「ウルトラマン」はカラー放送される連続テレビ映画の草分けであり、大がかりな
特撮中心のドラマは例がないため番組制作は苦難の連続だった。

色彩設計や照明の光量などカラーフィルム(8)の入念なテスト、ウルトラマンの着ぐ
るみの度重なる塗り直し、ジェットビートル号をホリゾント(9)にぶつけて大破、円
谷英二のダメ出しによる撮り直し。。。。

また週1回の放送に間に合わるための脚本・演出、怪獣のデザインと制作、怪獣が
暴れる街などミニチュア制作など、スケジュールは常に切迫していた。(10)






当初の企画では科学特捜隊の活躍がメインで、その一員であるハヤタ隊員が変身す
るウルトラマンが協力して怪獣を退治する、という内容であったらしい。
科学特捜隊の怪獣退治を特撮でというアイディアは、NHKで放映され人気を博して
いた英国の人形劇による特撮ドラマ「サンダーバード」(11)の影響があったはずだ。

「ウルトラマンの歌」が作られたのもその時期ではないだろうか。
おそらく第1話の内容もぎりぎりまで脚本の推敲と撮り直しがあったはずだ。


一方オープニング・タイトルは初回に間に合うように本編とは別に、限られた情報
を元に先行して制作する必要があったと想像できる。

それを裏付けるのがオープニングのシルエット(影絵)だ。
科学特捜隊の流星マークのバッヂ、ウルトラマン、ネロンガの他は大猿のゴロー、
ペギラ、カネゴンと「ウルトラQ」に登場した怪獣で「ウルトラマン」に関係ない。







この段階では本編にどんな怪獣が登場するかまだ決まっていなかったのだろう。
放映直前で本編の内容と擦り合わせしてオープニング・タイトルを作り直す、歌詞
を変えて再度テーマ曲を録音することが無理だったのではないかと思われる。

シルエット(影絵)という手法もまだ素材(ウルトラマン、怪獣の実写)がないた
め苦肉の策で考えたアイディアだったのかもしれない。
結果的には期待感を抱かせるシンプルで美しいタイトルになったと思う。


放送が始まった当時、我が家はまだ白黒テレビであった。
そのためシルエットのバックが赤、青、と切り替わるのが分からなかった。

祖母の家で初めてカラーテレビ(東京オリンピックのために買った)で「ウルトラ
マン」のオープニング・タイトルを見たときは「こんなにきれいだったのか!」と
感激したものである。






「ウルトラマン」は平均視聴率は36.7%、最高視聴率42.8%(ビデオリサーチ、
関東地区)を記録する人気番組となった。

オープニングに使われた「ウルトラマンの歌」は1、2番の短縮ヴァージョンだが、
3種類の音源が使われていてらしい。(12)

歌は、みすず児童合唱団。少年少女が主題歌を歌うのが主流だったのだ。
来たぞわれらの〜♪の部分でコーロステルラによる男性コーラスが入る。
フルコーラス収録されたレコードの売り上げはミリオンセラーを記録した。


また科学特捜隊が出動シーンなどで流れた「特捜隊の歌」も忘れられない。
ドラマではマーチ風にアレンジされたインストゥルメンタルが使用されているが、
歌入りヴァージョンも存在する。




↑クリックすると劇中で使用された「特捜隊の歌」が視聴できます。


この他、主題歌の候補として作られた短調の「進め! ウルトラマン」も中盤から
ウルトラマンの戦闘シーンで使われるようになった。
(2曲とも詞:東京一/曲:宮内國郎で歌はみすず児童合唱団、コーロステルラ)

当初は「特捜隊の歌」の歌が主題歌になるはずで「ウルトラマンの歌」はもとも
と科学特捜隊のテーマソングとして予定していたのが入れ替わった、「ウルトラ
マンの歌」で特捜隊のことが歌われているのはそのためという説もあるが、調べ
た限りではそう記載されている資料はなかった。

2016年6月2日木曜日

Stuff の骨太サウンドが聴ける貴重なアルバム。

◆ Disco Baby - Van McCoy&The Soul Symphony(1975) 

ソウル界の重鎮プロデューサー&作曲家のヴァン・マッコイの自身名義の初アルバム。
シングルカットされた「ハッスル」が全米1位・全世界でレコード売上1000万枚の大ヒ
ヒットを記録し、グラミー賞の最優秀ポップ・インストゥルメンタル賞を受賞。

アメリカをはじめ世界中でディスコ・ブームを巻き起こすきっかけとなった曲だ。
インスト中心で「Do the Hustle!」のかけ声だけの分かりやすい曲が万人受けした。
アルバム・タイトル曲の「ディスコ・ベイビー」もヒットしている。

演奏はザ・ソウル・シンフォニーであるが、エリック・ゲイル、リチャード・ティー、
ゴードン・エドワーズ、スティーヴ・ガッドの名前がクレジットされている。(1)
つまりコーネル・デュプリーとクリス・パーカーを除くスタッフの面々が参加している
わけで、スタッフ・デビューの前年、1975年に残した4人の演奏が聴けるのだ。

ジャケットからも窺えるがアルバム通して聴くとかなりコテコテだ(笑)
ヴァン・マッコイとザ・ソウル・シンフォニーの良さを手っ取り早く楽しむんだったら
ベスト・アルバムを聴いた方がいいと思う。



↑ジャケット写真をクリックすると「The Hustle」が視聴できます。



◆ Stingray - Joe Cocker(1976)

ジョー・コッカーと言うとウッドストックでのエアーギター的絶叫パフォーマンスか、
マッド・ドッグス&イングリッシュメンのイメージが強いが、この頃はアクの強さが
後退し落ち着いた渋いR&Bを聴かせてくれる。

このアルバムではスタッフという名前こそ出ていないが、クリス・パーカーを除くスタ
ッフの5人が裏ジャケットに写真付きでクレジットされている。
ジョー・コッカーのそれまでのアルバムでもリチャード・ティーとコーネル・デュプリ
ーは演奏しているが、5人がそろったレコーディングはたぶんこれが最初と思われる。


スタッフならではの渋く野太い音とグルーヴ感は歌伴でもしっかり味わえる。
おそらくこのレコーディングで彼らはバンドとして活動していく意を固めたのだろう。
半年後の1976年8月モントルー・ジャズ・フェスティバルでデビューを果たす。

このアルバムは名盤だと思う。残念ながら長らく廃盤になっている。
程度のいい中古盤を見つけたら買っておいて損はないだろう。



↑ジャケット写真をクリックすると「Stingray」フルアルバムが聴けます。



◆ Crystal Green - Rainbow featuring Will Boulware(1976)
 
スタッフのモントルーでのデビュー3ヶ月前の1976年5月に、クリス・パーカーとリチャ
ード・ティーを除くスタッフのメンバー4人とウィル・ブールウェア(kb)、マイケル・ブ
レッカー(sax)のセッションで制作されたアルバム。(2)

当時、渋谷の輸入盤店CISCOで見つけてジャケットが気に入り、ミュージシャンのクレ
ジットに興味をそそられて買ったのだが、これが思わぬ拾い物で秀作だった。

ジャケットからも伝わるが、リラックスしたどこか牧歌的とも思える演奏が聴ける。
まさにクロスオーバー創世記ならではの「間」のあるというか、呼吸している音楽だ。
全編で聴けるマイケル・ブレッカーのソロとスタッフっぽいうねりのある演奏の共演が
楽しめるのもこのアルバムならではの魅力だ。


特にいいのが「Feel Like Makin' Love」だった。
ロバータ・フラックの持ち歌であるが、ボブ・ジェイムス、ジェントル・ソウツ(第2
期でリー・リトナーとエリック・ゲイルの共演が聴きもの)もカバーしている。

コーネル・デュプリー、ウィル・ブールウェア、マイケル・ブレッカーとソロを回して
行くのだが、何といってもコーネル・デュプリーのソロが絶品だ。
ゴードン・エドワーズとガッドのリズム隊が少しずつパターンを変えているのも巧い。


実はこのアルバムは伊東潔・伊東八十八という日本の人がプロデュースしている。
クロスオーバーの創世記に日本人が凄腕のミュージシャンを選んでこんなセッションを
組んでいたなんて驚きだ。
この頃の日本の音楽関係者には「儲からなくても質のいい音楽を作りたい」という心意
気があったんだなあ、とつくづく思う。

昨年アナログ盤をすべて整理したのだが、このアルバムは後ろ髪引かれた一枚だった。
復刻CDも今や廃盤だし、やっぱりもったいなかった。。。。



  ↑写真をクリックすると「Crystal Green」から「So True」が視聴できます。
  ※「Feel Like Makin' Love」は残念ながらアップされてませんでした。



◆ Dinner Music - Carla Bley(1976) 
ジャズ・ピアニスト、カーラ・ブレイのアルバム。スタッフが参加。
カーラ・ブレイ・バンドのホーン・セクションが出過ぎだと思う。

◆ Evening Star - 深町純(1977)
シンセが不快。今となっては古臭さを感じてしまう。
せっかくのスタッフの演奏が楽しめない。

※この2枚は個人的には好きではないのでお薦めしません。



My Love - Salena Jones(1981)

サリナ・ジョーンズのバラード中心のアルバム。
旬のバンドをくっつけて売ってみようというビクター音楽産業の企画もの。

その辺のクラブでジャズ・シンガーが歌ってそうな感じ。選曲も凡庸。
スタッフの円熟した演奏はいいけど、いまいち愛聴盤にならず。
でもリチャード・ティーがハモる「I Don’t Wanna Be Alone Tonight」はいい。

スタッフというバンド名がクレジットされたのはこの作品だけかもしれない。
クリス・パーカーは既に脱退していたようだ。



  ↑写真をクリックすると「My Love」収録の「Everyday」が視聴できます。
  エリック・ゲイルの泣き節、歌でもからむリチャード・ティーが聴きどころ。
  ※「Feel Like Makin' Love」は残念ながらアップされてませんでした。



1970年代終わりから1980年初頭にかけてフユージョン系のミュージシャンがロックの
アルバムのレコーディングに起用される(3)ことが多く、その中でもスタッフのメンバー
たちは超売れっであった。

全員ではなくてもスタッフの2〜4人が参加するだけで「スタッフっぽい音」になる。
またスティーヴ・ガッドやリチャード・ティーの名前がクレジットされることだけでも
「売り」になった(4)時代である。