2022年5月30日月曜日

モンキーズのマイク・ネスミスの功績を辿る<後篇>



<モンキーズは演奏できない疑惑>

ティーンエイジャーたちの心を掴み商業的にも成功したモンキーズだったが、
マスコミで「モンキーズは演奏してない」という噂が広まるようになる。
ツアーでは自分たちで演奏して酷評された。
もっとも凄まじい嬌声で泣きわめく女の子たちには聴こえてなかっただろう。






一年遅れでモンキーズ人気が高まった日本は1968年10月にモンキーズ初来日。
日本武道館、京都会館、大阪フェスティバルホールで公演が行われる。




前座は後のエイプリル・フールの母体となったフローラル(小坂忠、柳田ヒロが
在籍)、ブルーインパルス、ポニーズの3グループだった。

フローラルは3曲ほどモンキーズのバッキングで参加している。
このエピソードからいつしか「モンキーズは楽器を弾くふりをしてただけで、全
曲ステージ裏でフローラルが演奏していた」という都市伝説が生まれた。
そのうちオックスが演奏してたというデマまで。いや、それはないっしょ(笑)



↑アンプはすべてELKだった。


しかし基本的にはメンバーたちがちゃんと演奏していた。
柳田ヒロの証言によると、ミッキーはスネアを叩きながらバスドラを正確にキック
できないという演奏技量だった(ミッキーがセンターに立って歌う時は、デイビー
がドラムを叩いてた)が、他のメンバーたちはミュージシャンとしてしっかりと
した力量を持っていたそうだ。

武道館公演はTBS系で「モンキーズ・イン・ジャパン」として放送されている。
その音源を聴く限り、演奏もコーラスも雑ではあるが本人たちのものである。



↑クリックするとモンキーズ日本公演が聴けます。




<アルバム制作で自主性を求め始めたモンキーズ>

デビュー・アルバム制作後、メンバーたちに自我が芽生える。
2枚目は自分たちが主体的に作曲や演奏に関わって行きたい、と4人は要求。
特にマイクの意思は固く、ドン・カーシュナーもこの件は承服していた。

しかしカーシュナーは約束を反故にした。
メンバーが知らないうちに既に収録済の音源(自分の音楽出版社所有の楽曲)
集め、2nd.アルバム「モア・オブ・ザ・モンキーズ(More of the Monkees)」
(1967年)として発売してしまったのだ。




ボイス&ハート提供曲は2曲で、他の作曲陣の作品が増えバラエティー豊かな
アルバムに仕上がっている。

まだ無名だったニール・ダイヤモンドの「I'm a Believer」はシングルカット
されて大ヒットした。



↑「I'm A Believer」のミュージックビデオが視聴できます。


ポップな「Look Out (Here Comes Tomorrow)」も彼の曲だ。
新人のキャロル・ベイヤー・セイガー/ニール・セダカは「When Love 
Comes Knockin' (At Your Door)」、ジャック・ケラーは「Hold On Girl」、
ゴフィン=キングは「Sometime in the Morning」を提供。

マイクの作品も「Mary,Mary」「The Kind of Girl I Could Love」の2曲が
収録された。
本人たちが知らないうちに発表されたアルバムとはいえ、いい曲ばかりである。
モンキーズの最高傑作と言う人も多い



「I'm a Believer」に次ぐ3枚目のシングルとしてニール・ダイアモンド作曲の
「A Little Bit Me, a Little Bit You(邦題:恋はちょっぴり)」が決まっていた。
B面はマイク作曲の「The Girl I Knew Somewhere」(邦題:どこかで知った娘、
ボーカルはミッキー)のはずだった。


 
↑当初B面予定だった「The Girl I Knew Somewhere」が聴けます。


しかしドン・カーシュナーはまたしても独断でB面をジェフ・バリーの「She 
Hangs Out」に無断で差し替えて発売してしまう。(これもいい曲なんだけど)



↑差し替えられたB面の「She Hangs Out」が聴けます。


これにマイクは激怒。
当初予定されていた「恋はちょっぴり/どこかで知った娘」カップリングのシン
グル盤を自主制作「これが本物の3rd.シングル」と記者会見を開く
マスメディアを巻き込んだクーデター決行に、レコード会社もボイス&ハート
モンキーズ側につき、カーシュナーは更迭される。






<モンキーズの3枚目はヘタウマのガレージバンド。>

カーシュナーを追い出したマイクは、タートルズのチップ・ダグラスをプロデュ
ーサーに迎え、3作目のアルバム「Headquarters」の制作に入る。

前2作と異なり、チップ・ダグラスとモンキーズ自身によるプロデュースで、
自作曲または自分たちが選んだ曲が録音された。






ホーン・セクションを除いて演奏もモンキーズ自身とダグラスが行なった
レコーディング中のお遊びや会話も収められた。





等身大の4人を表現する作品に仕上がったものの、演奏テクニックが稚拙なために
アルバムとしての完成度は落ちる。良くも悪くも素人っぽく音がスカスカ。
今ではそれが「ガレージバンドっぽい味わい」と再評価もされているが。


セールス的にも前2作には及ばなかった。
それでもモンキーズ・ブームの勢いでアルバム・チャートで1位を獲得。




チップ・ダグラス作曲の「Forget That Girl」はいい曲だ。
マン=シンシア作曲の陰影のある美しい「Shades of Gray(邦題:灰色の影)」
は出色の出来。前半はデイビー、後半は珍しくピーターがボーカルを取る。
(このEP盤は自分のお小遣いで初めて買ったモンキーズのレコードだ)




↑「Shades of Gray(邦題:灰色の影)」が聴けます。



「Headquarters」をチャート1位から引きずり降ろしたのは「Sgt.Peppers」。
ビートルズは既にその先の時代に行っていた

「A Day In The Life」のオーケストラのオーヴァーダヴ・セッションをマイク、
ミッキー、ピーターは見学に行っている。
刺激を受けたモンキーズは次のアルバムで実験的な音作りを行う。








<4枚目はモンキーズの頂点と言える意欲的なアルバム。>

1967年から北米ツアー開始。合間にレコーディング、撮影と殺人的スケジュール。
演奏はスタジオミュージシャンを使用する方式に戻すことにした。

制作に半年を費やし同年11月に発表された4枚目のアルバム「Pisces, Aquarius, 
Capricorn & Jones LTD. 」は再び名曲揃いの力作で全米1位を獲得。



↑きれいなカバーアートだが、日本では弱いと思われたのか流行ってた
サイケ調
イラストと4人の写真に変えられ、邦題も「スター・コレクター」になった。


シングル・カットされた「Pleasant Valley Sunday / Words」も大ヒット。
この頃、AB両面ヒットを飛ばせるのはビートルズ、サイモン&ガーファンクル
、モンキーズだけと言われた。


ボイス=ハートによる「Words(邦題:恋の合言葉)」は情感たっぷりに歌う
ミッキーの後をピーターが追うフーガ形式と追い立てるようなリズムが印象的。

「Pleasant Valley Sunday」はゴフィン=キングの作品。
ボーカルはミッキー。イントロのギターはマイクが弾いている。
(ビートルズの「I Want To Tell You」に似ているような)




↑「Pleasant Valley Sunday」のミュージックビデオが視聴できます。


※キャロル・キングはこのイントロを嫌がったそうだが、現在セルフカヴァー
する時はちゃんとこのイントロを弾いている。



「Star Collector」もゴフィン=キング作品。
この曲でミッキーはポップス史上初めてムーグ・シンセサイザーを使用。
(ビートルズがムーグを導入したのは2年後の「Abbey Road」だった)
またテープ速度を変える、SEの多用など実験的な音作りにも凝っている。


「Cuddly Toy」はハリー・ニルソン作曲でデイビーが歌う素敵な曲。
※銀行員の傍、作曲をしていたニルソンはこれで自信をつけプロ作曲家になる。
ちなみにCuddly Toyはぬいぐるみのこと。
この人はPuppy Somgとかかわいい曲が多くジョンとポールもファンだった。



↑「Cuddly Toy」のミュージックビデオが視聴できます。
デイビーと一緒に踊ってるのは有名な振付師らしい。(顔が苦手だった)



カーシュナーが勝手にシングルB面にしたジェフ・バリーの「She Hangs Out」
もこのアルバムに収録された。
デイビーの魅力があふれるいい曲だ。(シングルA面でもヒットしただろう)


アルバムではマイクの作品が3曲。
ミッキーに歌わせた「Daily Nightly」はシンセで不思議な浮遊感を出している。
マイク自身が歌う「Don't Call On Me」は個人的にこのアルバムで一番好き。



↑「Don't Call On Me」が聴けます。(珍しくブルーのニット帽)



マイクのカントリー趣味が前面に出た「What Am I Doing Hangin' 'Round」
もいい。




↑「What Am I Doing Hangin' 'Round」のミュージックビデオが見れます。



マイクはクレイグ・スミス作曲の「Salesman」、チップ・ダグラス作曲の「
The Door Into Summer」、マン=ウェイル作曲の「Love Is Only Sleeping」
でも魅力的なボーカルを聴かせてくれる。



↑「The Door Into Summer」が聴けます。


このアルバムは曲もいいし4人のボーカルとハーモニーもレベルアップしてるし、
完成度が高い。モンキーズの頂点と言っていいアルバムだと思う。
特にマイクの存在感(=音楽におけるカントリーの要素)が強くなった。



<「デイドリーム」収録のアルバム「小鳥と蜂とモンキーズ」。>

「The Birds, The Bees & The Monkees(邦題:小鳥と蜂とモンキーズ)」
は1968年4月に発売された5枚目のアルバム。




3月にTV番組が終了したこともあり、人気に翳りが出始めた頃である。
このアルバムは初めて首位を逃しチャート3位に留まった。

チップ・ダグラスのプロデュース作品としては3枚目に当たるこのアルバムは、
いろいろな作曲陣を起用している(マイクは4曲提供)が散漫な印象。



↑ミッキーがJ-160Eを使っているのに注目!


4人がそれぞれやっている、個性を同居させたような作品とも言える。

しかしジョン・ステュアート作「Daydream Believer」、ボイス=ハートによる
「Valleri」というモンキーズの代表作ともいえる2曲が収録されている。




日本においてはTV番組「モンキーズ・ショー」が1年遅れで1969年1月まで放送
してたこともあり、人気のピーク時で「Daydream Believer」「Valleri」のシン
グル盤は売れた。




<アヴァンギャルドに行き過ぎてしまったHEAD>

モンキーズは新たな局面に挑む。「HEAD」という映画の制作である。
TVシリーズを手掛けたボブ・ラフェルソンとジャック・ニコルスンによる脚本、
監督作品。ベトナム戦争を背景とした実験的な風刺劇であった。




シュールというと聞こえはいいが、アングラとサイケとアヴァンギャルドを目指
した、日本でいうとATGやPFF的な作品だ。

ファンには理解不能で受け入れられなかった。
能天気で陽気なあのモンキーズを期待して見た人たちはがっかりしただろう。
アイドルがエゴを主張すると大概こういう結果になるという見本。
やらかしちゃいましたね、という感じ。興行的にも大失敗で酷評された。




アルバムは映画のサウンドトラックだが、これまた難解でセールスも不調。
が、テーマ曲「Porpose Song」(ゴフィン=キング)は不思議な魅力がある。
※2001年の映画「バニラ・スカイ」で使用され再評価された。

またキャロル・キング、ライ・クーダー、ニール・ヤング、ダニー・コーチマー、
ラス・タイトルマンと後の西海岸ロックを担うミュージシャンが参加している。
レッキング・クルーから次世代の音楽への橋渡しの時期でもあったのだ。




この後ピーター・トークが脱退しモンキーズは急激に失速して行く。




<過去作品寄せ集めの「Instant Replay」>

3人となったモンキーズは1969年にアルバム「Instant Replay」を発表。

Instant Replay(記録した動きの即時再生)という自虐的なタイトルどおり、
これまでのアルバム・セッションでボツになった音源、またはその再録を中心
に編集したやっつけ的な内容である。



↑初回プレス盤は真ん中の3人の顔写真が違っていた。


とはいえ、ボイス=ハート、ゴフィン=キング、キャロル・ベイヤ・セイガー&
ニール・セダカの提供曲が半分以上を占め、悪くはない。
ただサウンド的に逆戻りしてしまった感は否めない。

シングルカットされた「Tear Drop City(邦題:涙の街角)」は「恋の終列車」
そのまんまで、デビュー・アルバムでボツになったのがバレバレだ。


マイクの曲「While I Cry」「Don't Wait for Me」は地味ながら味わい深い。
このアルバムは祭りの後の気分でマイクにフォーカスして聴くと楽しめる。



↑「While I Cry」が聴けます。



↑「Don't Wait for Me」が聴けます。



「Don't Wait for Me」はマイクがナッシュビルのスタジオ・ミュージシャン集団、
エリアコード615(1)に演奏させている。
このアルバムの後シングル盤で発売した「 Listen To The Band」もエリアコード
615の演奏である。





この後マイクはモンキーズ脱退を表明。
1970年にファースト・ナショナル・バンドを結成し3枚のアルバムを発表。
1972年にはセカンド・ナショナル・バンドとして1枚。同年ソロで1枚リリース。

以降、年1枚のペースでアルバムを発表していたが、チャートインしたのは1972
までで、それも200位以内。地味である。
プロデューサーとしても活躍し、1980年代にはミュージック・ビデオで成功した。


ファースト・ナショナル・バンド名義の3枚のアルバム、1972年にソロで
出した
アルバムはマイクらしいカントリー・ロックが聴ける
日本では「Silver Moon」がヒットした。
僕は
アメリカで大ヒットした哀愁のある「Joanne」の方が好きだ。



↑ファースト・ナショナル・バンドの「Joanne」が聴けます。
(オッサンっぽい?カントリーの人たちって服装気にしないからなー)




<アメリカでのリバイバル・ブーム>

1986年にMTVで「モンキーズ」が再放送されたのをきっかけに、アメリカでリバイ
バルブームが起こり、ベスト・アルバムやリマスター盤が発売された。(2)




モンキーズのメンバーたちは1990年以降、結成30周年、45周年、50周年と不定期
に再結成しツアーを行なっている。
デイビーが2012年に、ピーターが2019年に他界。
残されたマイクとミッキーは昨年11月フェアウェル・ツアーを終えたばかりだった。




<マイク・ネスミスが目指したカントリーロックの潮流>

モンキーズの頃からマイクが目指してたのはカントリーとロックの融合である。(3)
イーグルスが「Take It Easy」をヒットさせた時、マイクは自分のカントリーロック
への野心が早すぎたことに気づいたという。




しかしマイクが種を蒔いたおかげで、バッファロー・スプリングフィールド、
ポコ、バーズ、イーグルスなどのカントリーロックが1970年代に開花した。(4)

それはミュージック・シーン(音楽産業、演奏する側)への影響だけではなく、
リスナーである我々(カントリーへの馴染みが少ない世代)にもカントリーに
慣れさせ、抵抗感を無くさせるという、いわば音楽的な抗体を植え付けてくれ
る効果があったのではないかと思うのだ。

極論すると、エルヴィスやモンキーズの中にあるカントリーな部分を聴いてた
からこそ、リンダやイーグルスなど西海岸勢のカントリーロックにすんなり
入れたのではないか、ということだ。今にして思えば、であるが。



↑3人になってからジョニー・キャッシュ・ショーに出演したモンキーズ。
クリックすると視聴できます。3声ハーモニーがすばらしい。楽しそう!



マイク・ネスミスはモンキーズの音楽性の舵取りをしていただけではなく、アメ
リカのロック史において多大なる貢献をした人だと思う。

ブルースロック、ハードロック至上主義の人たちには取るに足らない存在かも
しれないけど、今も昔も僕はモンキーズが大好きだ。
ストーンズよりもモンキーズ。マイクのソロ・アルバムもよく聴く。

マイク・ネスミスに感謝。安らかに眠ってください。 
というより、デイビー、ピーターと再会し他愛ないギャグで笑ってるのかな。





<脚注>

2022年5月17日火曜日

モンキーズのマイク・ネスミスの功績を辿る<前篇>

(写真:GettyImages)


モンキーズのマイク・ネスミスが昨年12月カリフォルニア州カーメル・バレー(
ワインの産地で有名)の自宅で静かに息をひきとった。(享年78)

家族は自然死だったと発表しているが、4年前に心臓のバイパス手術を受けており
心不全により亡くなったという報道もある。

デイビー・ジョーンズが2012年に心臓発作のため66歳で他界。
ピーター・トークが2019年に他界(77歳)。
マイクはミッキー・ドレンツと共に11月にモンキーズのフェアウェル・ツアーを
終えたばかりだった。




マイクの訃報を受けたミッキーは追悼コメントを発表している。

I’m heartbroken.
I’ve lost a dear friend and partner.
I’m so grateful that we could spend the last couple of months together 
doing what we loved best – singing, laughing, and doing shtick.
I’ll miss it all so much.  Especially the shtick.
Rest in peace, Nez. All my love,
Micky

胸が張り裂けそうだ。親友でパートナーを失った。
最後の数ヶ月を僕らが一番好きだったこと(歌、笑い、お決まりのギャグ)をし
ながら一緒に過ごせたことに感謝。
それがもうできないなんて寂しい。特にお決まりのギャグはね。
安らかに、ネズ。愛しているよ。ミッキー




モンキーズというアメリカ的なビジネスモデルにおいて、マイク・ネスミスは
優れた音楽センスと反骨精神でグループに音楽的な主体性と創造性をもたらした。
彼がモンキーズに加えた色とはカントリー・テイストであり、それは1970年代の
カントリー・ロックの先駆けという重要な役割も担っている

そしてもう一つ、上記のミッキーのコメントにある「お決まりのギャグ」。
モンキーズにおいてマイクは地味目の落ち着いたキャラクターを演じていたが、
ナンセンスなギャグは彼の真骨頂で、モンキーズでも発揮されていた。


1980年代にマイクは映像制作会社を設立し「Elephant Parts」というコメディ
スケッチとミュージックのコレクションをビデオ作品化。
グラミー賞ミュージックビデオ部門初の受賞を果たしている。



↑クリックするとElephant Partsの「Neighborhood Nukes」が見られます。
この時期に不謹慎かもしれないが、ぶちギレた人の行動は際限なくエスカレート
するという不条理さへの皮肉をこめた反面教師ともいえるる作品です。

マイク・ネスミスが好きなのはこういう笑いと音楽だったのだ。



<TV番組ありきでスタートした企画だった>

よく言われるようにモンキーズは「作られた」アメリカ版ビートルズである。

元々モンキーズの構想はTV番組企画として始まった
コロムビア映画傘下の映像プロダクション、スクリーン・ジェムズのプロデュー
サー、ボブ・ラフェルソンとバート・シュナイダーは、ビートルズの「ハード・
デイズ・ナイト」「ヘルプ!」から着想し、同じようなTV番組を作ればテイーン
エイジャーに受けるのではないかと画策する。(つまりパクりだ)

当初は実在するラヴィン・スプーンフルを出演させる案もあったそうだ。
1965年9月にエンターテイメント業界誌、バラエティとハリウッド・レポーター
にオーディションの広告を掲載する。
NBC主催で行われたオーディションには437人が集まった。(1)




その中から子役あがりでミュージカル「オリバー!」にも出演していたデイビー、
人気TV番組「サーカスボーイ」に子役で出演していた経験があるミッキー、
グリニッジヴィレッジで音楽活動をしていたピーター、既にミュージシャンとして
デビューしていたマイク、の4人が選ばれる。(2)

歌って演技するのは作られたバンドでよかった
メンバーは若い子を惹きつける個性とそこそこの歌唱力と演技力があればいい。

架空のバンドによるシチュエーション・コメディと音楽を織り交ぜたTV番組。
アイドルが歌うキャッチーな曲をTVで流しレコードのヒットにつなげるという
新しい方程式(従来はヒット曲はラジオで作られた)の誕生だ。
入念に仕掛けられたアメリカのショービジネス界らしい発想である。




↑ネーム入りディレクターズ・チェアにモンキーズ。これもビートルズのパクリ



↑ジョージの髪を整えているのがパティー・ボイド。ポール担当の娘も美人だ。



<モンキーズの音楽面での仕掛け人>

アメリカの音楽ビジネスは作詞・作曲家、アレンジャー、ミュージシャン、歌手
という分業によって大量生産される総合システムとして成り立っていた。
(バンドがツアーしてる間にレコーディングはスタジオミュージシャンが済ませ、
録音済みのオケに合わせて歌だけ吹き込む、というやり方が一般的だった)


そのヒット作りのビジネスモデルがビートルズにより根底から覆されてしまう
ビートルズは自作曲を自分らアレンジし演奏し歌い、すべてをこなす。
プロデュースやスタジオの技術などレコーディングのすべてに積極的に関与した。
そして彼らはアメリカのチャートを席巻してしまった。


従来の職業的作詞・作曲家、アレンジャー、ミュージシャンは失業しかねない。
ビートルスに対抗できるムーヴメントをアメリカの音楽ビジネスフォーマットで
創り出せないか、というプロジェクトだった。


                          (写真:GettyImages)


仕掛け人は音楽プロデューサーのドン・カーシュナー(3)
ヒット曲を聴き分ける黄金の耳を持つ男(The Man With the Golden Ear)と
言われた。ティーンエイジャーの心をつかむ天性の勘があった。
リーバー=ストーラー、キング=ゴフィン、マン&シンシアなどの作詞・作曲家
や有能なプロデューサー、アレンジャーを起用した。


モンキーズのためにボイス&ハート、キャロル・ベイヤー・セイガー、ニール・
ダイアモンドなど無名だった若手を登用したのもカーシュナーの功績だ。

レコーディングはハル・ブレイン、ジェイムズ・バートン、グレン・キャンベル、
ビル・ピットマンなどの一流ミュージシャン、レッキング・クルー(4)がメンバ
ーたちの代わりに演奏した。




つまりアメリカの音楽界きっての一流どころが結集したプロジェクトなのである。
4人は歌うだけだが個性的で魅力的な声だった。悪かろうはずがない。

そこが「作られた」アメリカ版ビートルズと言われる所以である。
キャラクター重視で選ばれた4人にビートルズのような音楽性は求めてなかった



<デビュー・アルバムの制作>

モンキーズのレコードはコロムビア傘下のスクリーン・ジェムズとRCAビクター
が設立したコルジェムス・レコードから発売されることになった。

カーシュナーは売れっ子プロデューサーのスナッフ・ギャレットにモンキーズを
任せたが、うまく行かなかった。4人とも一筋縄ではいかない。
キャロル・キングをも泣かせたという逸話がある。




レコーディングが頓挫したおかげでマイクにチャンスが巡ってきた。
次のプロデューサーが決まるまで抑えてあったスタジオとミュージシャンを使っ
てもいいという許可が降りたのだ。

マイクは自らのプロデュースで自作の「Papa Gene's Blues」とゴフィン&キング
との共作「Sweet Young Thing」の2曲を録音した。

レコード会社としても、マイクの2作品をアルバムに採用することで「メンバーに
作曲力がある」ことをアピールできると踏んだのだろう。




新しいプロデューサーに抜擢されたのは、カーシュナーがモンキーズのために
起用した新人の作曲チーム、トミー・ボイス&ボビー・ハートの2人だった。
4人とボイス&ハートとの関係は良好でアルバムの制作は順調に進んだ。

アルバム収録曲の半分以上がボイス&ハートの作品である。
その中には「モンキーズのテーマ」、デイビーが歌うバラード「自由になりたい」、
シングルカットされ大ヒットした「恋の終列車(Last Train to Clarksville)」、
小気味好いノリの「ダンスを続けよう」などキャッチーな曲が連なる。



↑ボイス&ハートと和気藹々のモンキーズ。


「恋の終列車(Last Train to Clarksville)」のイントロはドン・カーシュナーから
「ペイパーバック・ライターをパクれ」という指示があったらしい。
デイ・トリッパーにも似てる。タンバリンの入り方とかも。



↑ミッキーが歌う「恋の終列車(Last Train to Clarksville)」が聴けます。


では誰があのギターを弾いてたのか?
萩原健太氏はジェリー・マギーかレジー・ヤングじゃないかと言ってた。
徳武弘文氏も1枚目と2枚目でジェリー・マギーが弾いていると言っている。
(僕はジェイムズ・バートン、ビリー・ストレンジ、トミー・テデスコあたりかと)
調べてみたらルイ・シェルトンという人だった。この人もレッキング・クルー。





「自由になりたい」はアコースティックギターのアルペジオをバックにデイビー
が歌う美しいバラードで、中盤からストリングスが入る。
この辺も「イエスタデイ」が雛形だったのではないかと匂わせる。




随所でビートルズをパクってはいるが、レッキング・クルーが演奏してること
もあって、やはりアメリカンなサウンドである。ビートルズではない。
ビーチボーイズやナンシー・シナトラ、エルヴィス、初期のバーズに近いかな。



<オーディション/ソロでもデビューしていたマイク・ネスミス>

1965年にアメリカのNBC主催のオーディションで4人の若者が選ばれた。
マイクは部屋を出た直後に「あのニット帽の男は入れよう」という声を聞き、
合格を確信したそうだ。



クリックするとデイビーとマイクのスクリーン・テストが見られます。
画面映えとユーモアのセンス、4人の個性が混ざる化学反応が期待されたのか。




↑クリックすると1965年マイクが初めてTVに出演した時の映像が見られます。
1965年LAのローカルTV局KCOPの番組「ロイド・サクストン・ショー」に出演。
曲はバフィー・セイント・メリーの「Until It's Time For You To Go」。



4人の中で作曲ができてギターの演奏テクニックがあり、ミュージシャンとして
グループを引っ張っていたのはマイクである。
デビュー時から彼はレコーディングには主体的に関わりたい意向を主張してた。





<モンキーズのデビューと反響>

1966年9月NBC系列でTVシリーズ「ザ・モンキーズ」がスタートする。
ロサンゼルス郊外のビーチウッドに住む売れないミュージシャン4人が繰り広げる
ドタバタ・コメディドラマで一話完結型だった。

番組は高視聴率を記録し、若者たちの間で大人気となる。
翌1967年にはエミー賞2部門(1つは最高コメディー賞)を受賞。




TVシリーズ開始の1ヶ月後、デビュー・アルバムThe Monkees」が発売。
アメリカ、カナダ、イギリスでNo.1を獲得。(邦題;恋の終列車)
2枚目のアルバムMore of the Monkees」も1位。
ビールボードのアルバムチャート1位、2位をモンキーズが独占する事態となる。





デビュー・シングル「Last Train To Clarksville(恋の終列車)」も2nd.シングル
「I'm a Believer」も1位に輝く。
一時はビートルズを凌ぐ勢いの人気であった。


1966年ジョンの「ビートルズはキリストよりポピュラー」発言でアメリカでは
不買運動が起き、人気に翳りが見え出した。
ビートルズ自身もスタジオでの実験的な音創りに傾倒しライブに興味をなくし、
8月の全米ツアーを最後にライブをやめると宣言。
その後、風貌の変化とともにティーンのアイドルではなくなっていた。
そこに登場したモンキーズは女の子たちから圧倒的な支持を得た。




日本ではTV番組の開始が1年遅れで、1967年10月からTBS系列で「ザ・モンキ
ーズ・ショー」として放送された。(ちょうどGSブームと重なった)
クラスの女子たちはみんなTVを見てたし、特にデイビーのファンが多かった。
男子もレコードを買ってたが、しだいにビートルズやピンクフロイド、Zep、
ELP、キング・クリムゾン、ディプパープルへ移って行った。

<続く>


<脚注>