2022年9月23日金曜日

1970年代ディスコ・ミュージックが日本の歌謡曲に与えた影響。

ディスコ・ミュージックと日本の歌謡曲は親和性が高かった。
それは戦後の日本にアメリカ経由でラテン・ミュージックとダンスのブーム(1)
が押し寄せた時代の歌謡曲との関係に近いかもしれない。




またキングトーンズ、和田アキ子、青江三奈、尾崎紀世彦なども、R&Bと
歌謡曲の馴染みがいいことを証明した。

1970年代に入り、日本でもR&Bやファンクは赤坂のムゲン、あるいは六本木、
本牧、立川で一部のスノッブな遊び人の間で流行り始めた。

それがメジャーになったのは、フィリーソウルから始まった聴きやすく踊り
やすいソウル・ミュージックがヒットしたことと、ディスコが全国的に拡大
したことが背景にある

さらに日本の市場においては歌謡曲との蜜月裾野を拡げた。



ではディスコ・ミュージックが歌謡曲に取り入れられ始めたのはいつだろう?





1973年、沖縄生まれの5人兄弟、フィンガー5がお茶の間にヒットを連発。
グループ名は母親案だったが、ジャクソン5に影響を受けたのは確かだろう。
父親がAサイン(米軍公認)バーを営業してたため5人はアメリカ音楽で育つ。
上京してデビュー前は米軍基地で歌っていた。



↑本家本元、ジャクソン5の「I Want You Back」が視聴できます。
マイケル坊やの歌唱力がすごい!5人の動きも最高。




フィンガー5のデビュー曲「個人授業」の作詞は阿久悠、作曲は都倉俊一
♭2ndノート、7thノートとブルーノートを巧みに織り交ぜながらポップさ
をキープしてるところはさすが!の手腕。
サビの「できることなら」で一転してメロディック・マイナー・スケール
「Ha,Hahaha」はIII7コードの7thノートで締めヴァースのルート音に帰結。

振付(一の宮はじめ)がもろ歌謡曲で黒っぽさゼロな点が残念。
しかしデビュー・アルバムはR&B歌謡でなかなかがんばってる。



↑フィンガー5のデビュー・アルバムが聴けます。これがなかなか!
半分は洋楽の日本語カヴァー。ジャクソン5のあの曲も聴ける。




「恋のダイヤル6700」から作曲は井上忠夫に代わる。
この人は1960年前後のポップスやR&Rを匂わせるいい曲を作る。
リンリンリリン♪で始まるAメロは7thコードのスピード感あるR&B
が、サビの「あなたが好き」で腰砕けの歌謡曲メロになってしまう。
この曲も振付が同じくダサい。歌謡曲なんだからしょうがないか。


でも売れた。シングル3枚続けてミリオンセラーはすごい。
曲のテーマは学校での恋愛に一貫。

目新しさがなくなるとヒットが出ず、フィンガー5の人気は衰えて行った。
ハードスケジュール強制、変声期を迎えた晃に女性ホルモン注射を勧める、
キャラクターグッズの収益を事務所がピンハネ、と芸能界のブラックな面
が取りざたされた。
こういう歌手の消耗品的ビジネスモデルがまかり通っていたのだ。




阿久=都倉コンビはその前年、低迷していた山本リンダを「どうにもとまら
ない」「狙いうち」のセクシー・ダンス歌謡で復活させた
スリットの入ったローライズの黒のパンタロンにシャツの裾を胸で結んだ「
ヘソ出しルック」も当時話題になった。



       ↑山本リンダと
都倉俊一


「どうにもとまらない」はサンバのリズムを基調とした情熱的な曲。
当初候補に挙がっていたタイトルは「恋のカーニバル」だったらしい。

都倉俊一は単にラテンのリズムで仕上げなかった。
ギター、ベース、ドラムは8ビートロックで若さを出し、パーカッションで
16ビートのサンバのリズムを加える、という凝ったアレンジをしている。


「狙いうち」はウクライナ伝統のコサックダンスの2/4拍子の跳ね感がある
リズムで、随所に「ヘイ!」のかけ声。フラメンコっぽさも加わる。
リズムセクションはギター、ベース、ドラム。ストリングスとブラスが絡む。
サビでメジャーに転調。仕掛け〜ブレイクと複雑である。

阿久悠の歌詞は「きりきり舞い」「ウララ、ウラウラ」「じんじんさせて」
など連続音が多く、歌メロに乗ると独特のリズム感が増した。(2)
いずれもダンス・ミュージックと歌謡曲の融合であるがディスコではない。



2人はこの成功体験を活かし、1970年代後半に子供から老若男女まで国民的
な人気アイドルとなったピンクレディーを手がけ大ヒットさせている。



ピンクレディー都倉俊一、阿久悠


ディスコ・ブームの最中であったためか、ピンクレディーもその影響大と
思われがちだが、音楽的にもダンスの面でもディスコ・ミュージックに通じ
るものはあまりない

土井甫による振付はミュージカルのダンスに近いという印象だ。
阿久悠の歌詞のエグさ、都倉俊一の複雑なリズムを反映しキワモノ感が強い。


都倉俊一の曲は8分音符の連打でリズムを畳み込んでいくスタイルが基本。
シンコペーション(強弱拍を変化させる)もあればブレイクも仕掛けあるし、
3連が入ることもあり、スカのような後拍もあり、単純ではない。

ディスコでかかったら、踊るのが難しく困ってしまう曲ばかりだ。
つまり、その曲のためにカスタムで作られたダンスだからこそシンクロする
が、他の汎用的なダンスで合わせようとしても無理がある。


都倉俊一が手がけた一連のダンス歌謡は、山本リンダもピンクレディーも
ディスコ・ミュージックではない。(フィンガー5は微妙)




1970年代後半はディスコ・ミュージックに影響を受けた歌謡曲が量産された。



岩崎宏美の「シンデレラ・ハネムーン」(阿久悠/筒美京平)が聴けます。
ディスコ歌謡の最高傑作という評価も多い。
センチメンタル〜未来〜シンデレラ・ハネムーンとノンストップのダンス・
ミックスを作れば、ドナ・サマーみたいになりそうだ。(3)




浅野ゆう子の「セクシー・バス・ストップ」(橋本淳/筒美京平)が聴けます。
これも1970年代を代表するディスコ歌謡である。




上に挙げた2曲に代表されるように、ディスコ歌謡の主流は筒美京平作品
であり、もう一つの潮流はキャンディーズである。
そして、その両方にスリー・ディグリーズが関わっていた




キャンディーズの「その気にさせないで」(1975 作曲:穂口雄右)や「
ートのエースが出てこない」(1976 作曲:森田公一)「やさしい悪魔
(1977 作曲:吉田拓郎)はスリー・ディグリーズ日本版と言ってもいい。
ハモり方、コーラスの入れ方、手の動きも参考にしていたようだ。(4)




↑キャンディーズの「やさしい悪魔」が視聴できます。




3人はスリー・ディグリーズが好きでコンサートではカヴァーを披露している。
バックバンドのMMP(渡辺茂樹+スペクトラム)はホーンセクションが売りで、
ソウル・ミュージックで力を発揮した。
ナベプロも売れてる限りライヴは好きにやらせるという方針だったらしい。



↑キャンディーズの「When Will I See You Again(天使のささやき」〜
「That's the Way (I Like It)」(KC&ザ・サンシャイン・バンドのカヴァー)
が視聴できます。





キャンディーズ以外のディスコ歌謡は圧倒的に筒美京平作品が多い。
以下の曲は一例である。


平山三紀「熟れた果実」(橋本淳/筒美京平)1974
岩崎宏美「センチメンタル」1975「未来」1976「シンデレラ・ハネムーン」
     1978(すべて阿久悠/筒美京平)
南沙織「GET DOWN BABY」(安井かずみ/筒美京平)1975
浅野ゆう子「セクシー・バス・ストップ」(橋本淳/筒美京平)1976
シェリー「恋のハッスルジェット」(橋本淳/筒美京平)1976
麻丘めぐみ「夏八景」(阿久悠/筒美京平)1976
中原理恵「ディスコ・レディー」(松本隆./筒美京平)1978
桜田淳子「リップスティック」(松本隆./筒美京平)1978
山内恵美子「太陽は泣いている'78」(松本隆/筒美京平)1978




セクシー・バス・ストップ」はもともとインストゥルメンタルであった。
アメリカでバス・ストップというステップ(5)が流行り始めたので、日本で踊
れる曲を作ってしまおう、というのが企画の発端。

作曲依頼を受け筒美京平はフィリーソウルを支えたMFSB(6)の日本版を目指す。
林立夫(ds)鈴木茂(g)後藤次利(b)矢野顕子(kb)によるユニット、オリ
エンタル・エクスプレスを結成。ビクターから洋盤として発売したところ好評。



↑オリエンタル・エクスプレスの「セクシー・バス・ストップ」が聴けます。



歌詞を付けて浅野ゆう子に歌わせる案が出た。
初めは難色を示していた筒美京平も「橋本淳に作詞を依頼する」条件で了承。
浅野ゆう子の「セクシー・バス・ストップ」は自己最高セールスを記録した。




↑今や語られることもなくなったシェリーの「恋のハッスルジェット」。
いい曲なのに。これも元はオリエンタル・エクスプレスのインスト曲。




筒美京平はディスコ・ミュージックと歌謡曲との融合をいい塩梅で仕上げた。
それは彼がフィリー・ソウル以降のモダンなディスコ・ミュージックを理解
し、歌謡曲にうまく流用する(=パクる)術を持っていたからだ。(7)




たとえば1970年代前半のディスコ・サウンドは、クラビネットの歪んだアタ
ックの強い和音が入れておくと、スティーヴィー・ワンダーやコモドアーズ
のファンキーな感じが出る、とか。

アレンジャーの領域になるが、筒美京平はオーケストレーションもできるので
編曲まで手がけることも多かったという。(8)


筒美京平=ディスコ歌謡の認識は、彼がスリー・ディグリーズの曲を手がけ
日本でヒットさせた実績も評価されてのことだと思う。







日本で人気が高かったスリー・ディグリーズは親日的だった。
何度も来日公演を行なっており、来日時に「When Will I See Your Again
(天使のささやき)」の日本語盤をレコーディングしヒットさせている。

1975年には「にがい涙」(安井かずみ作詞、筒美京平作曲)を日本限定
で発売し、ヒットさせた。




↑スリー・ディグリーズの「にがい涙」が聴けます。


スリー・ディグリーズは来日すると歌番組に出演し、日本語でも歌った。
歌謡曲しか聴かない層もお茶の間で本場のソウルミュージックに触れ、
受け入れる体質が形成されて行ったのではないだろうか。

極論になるが、今日に至るまでの日本のブラック・ミュージック・ブーム
の上流には、スリー・ディグリーズと筒美京平があるのでははないか、と
さえ思えてくる。




ディスコ歌謡は1980年代に引き継がれる。
初めは1970年代後半から続くAOR、ブラコンの影響を受けた曲だった。


アン・ルイス「恋のブギ・ウギ・トレイン」(吉田美奈子/山下達郎)1979
鹿取容子「ゴーイン・バック・トゥ・チャイナ」(Pim Koopman) 1980
岩崎良美「ごめんね Darling」(尾崎亜美)1981
杏里「悲しみがとまらない」(康珍化/林哲司・編曲:角松敏生)1983





↑鹿取容子の「ゴーイン・バック・トゥ・チャイナ」が視聴できます。
これは振付ではなく、六本木で遊びまくってた人の踊り方です(笑)
曲はパトリース・ラッシェンの「Forget Me Nots」を彷彿させる。




↑岩崎良美「ごめんね Darling」が聴けます。
Darling〜のリフレインがアース・ウィンド&ファイアーの「 September」
のBa-du-da.ba-du-daと同じメロディ。
シンコペーションの付け方、スラップベースなどアレンジも似てる。




↑杏里の「悲しみがとまらない」が聴けます。
プロデューサーでもある角松敏生のアレンジが聴きどころ。




1980年代半ばからユーロビート色の強い曲が中心となる。
ヒュー・パジャム系の2拍・4拍を叩きつけるようなサウンドが特徴だ。


アン・ルイス「六本木心中」(湯川れい子/NOBODY)1984
田原俊彦「抱きしめて TONIGHT」(森浩美/筒美京平)1984
C-C-B 「Romanticが止まらない」(松本隆/筒美京平)1985




↑アン・ルイスの「六本木心中」が視聴できます。
六本木の大衆向けディスコではヘビロテで異様な盛り上がりだったとか。
ご当地ソングということ?




1980年代後半はユーロビートの洋楽カヴァーが多くなる。


荻野目洋子「ダンシング・ヒーロー」1985→アンジー・ゴールドのカヴァー
石井明美「CHA-CHA-CHA」1986→フィンツィ・コンティーニのカヴァー
本田美奈子「Heart Break」1987→?
森川由加里「SHOW ME」1987→カバー・ガールズのカヴァー
和田加奈子 Lucky Love」1988→カイリー・ミノーグのカヴァー

今聴くと、荻野目洋子以外は歌が下手。
本田美奈子は歌唱力が評価されてるが、この曲はピッチが不安定である。
ミュージカルをやるようになって上手になったのかな?
他の歌手はキャッチーな曲で一発ヒット狙いの雑な売り出し方で、充分
なボーカル・レッスンも受けていなかったのかもしれない。




1990年代に入るとM.C.ハマー、ボビー・ブラウンが人気を博し、若者はヒッ
プホップやラップ、またはハウス・ミュージックで踊るようになる。
踊る箱もジュリアナ東京やヴエルファーレなどバブル期の象徴のようなディ
スコから、クラブやDJバーへと移って行く。

日本の音楽シーンはJ-Popと呼ばれるようになり(9)、歌謡曲は懐メロとなる。
この時点でディスコ歌謡というジャンルは終わった。


<脚注>

2022年9月13日火曜日

1970年代の日本(東京)におけるディスコの系譜(後編)

 <1975年-椿ハウス開店、ディスコの個性化・棲み分けが進む>

ベトナム戦争が終わった1975年、新宿テアトルビル5Fに大箱ディスコ、椿
ハウスが誕生する。

オープン当初、新宿二丁目のゲイを積極的に店に招き入れたことから、感性が
豊かな彼らの影響で新たな流行、カルチャーの発信地となる。
DCブランドの成長期に「ファッション性が高いディスコ」という付加価値は、
ディスコ乱立の新宿において椿ハウスの大きな強みとなった。




新宿は大衆性&デザイナーズ系の尖ったファッション性、六本木や赤坂は外人、
金持ちの遊び人が集う街として、二極化して行く。

六本木と新宿ではかかる曲や踊り方も異なり、新宿がヒット曲中心で全員が同じ
ステップを踏むラインダンスだったのに対し、六本木は新しいファンク、ソウル
がかかり踊り方も自由だった。
しかし、この翌年あたりから六本木のディスコもミーハー化して行く。


(1975年にディスコでかかった曲)
●カール・ダグラス「Kung Fu Fighting」→カンフー・ダンス(バカっぽい)
●アース・ウインド&ファイアー「Shining Star」
●スタイリスティックス「Can't Give You Anything (But My Love)」
●KC&ザ・サンシャイン・バンド「That's the Way (I Like It)」
●シルバー・コンベンション「Fly Robin Fly」
●ヴァン・マッコイ&ソウルシティ・シンフォニー
「The Hustle」「Disco Baby」→ハッスルというステップが流行。




↑ヴァン・マッコイ&ソウルシティ・シンフォニー「The Hustle」が聴けます。




↑シングル盤の裏にはステップの解説が。これじゃ小学生のお遊戯レベル。
当時、新宿では独自の腰を低くする変な踊り方が流行っていた。
アメリカのミュージックビデオでは、ぜんぜん違う踊り方をしてるが。

アメリカのドラマ「アリー my Love」でもこの曲で踊るシーンがあるが、
ラインダンスでものすごく簡単なソウルチャチャであった。





↑関連動画でPerfumeのカヴァーが出てきた。ポップな解釈で新鮮。



ヴァン・マッコイは黒っぽさとポップのバランス感覚が素晴らしかった。
その点ではクインシー・ジョーンズと同じと言えるかもしれない。

ソウルシティ・シンフォニーはニューヨークの一流ミュージシャンが参加。
ゴードン・エドワーズ(bs)スティーヴ・ガッド(ds)リチャード・ティー
(kb)エリック・ゲイル(9)ジョン・トロペイ(g)。悪いわけがない。


トロペイ以外の4人はコーネル・デュプリー(g)を加え、ジョー・コッカー
のバックバンドを経てスタッフ名義での活動を開始する。
スタッフの2枚目のアルバム「More Stuff」(1977)はヴァン・マッコイが
プロデュースした。








<1976年-ディスコ・ブームの多様化、歌謡曲にもディスコ・ソング>

六本木スクエアビルは床面積が狭い地下2階、地上10階建ての雑居ビル。
2台のガラス張りエレベーターが有名で、夜の六本木のランドマークだった。
エレベーターに乗ると不思議な高揚感があった。




前述のキャステル以降、ネペンタ、フーフー、ギゼ、チャクラマンダラ、
レオパードキャット、マジックなどが次々と開店。
ほとんどのフロアがディスコで、ディスコ・ブームの象徴となった。

お金持ちは外側の階段を降りてキャステルへ、それ以外の人はエレベーター
で上階のディスコのどこかへ。スクエアビルにもカースト制があった。



差別化が難しくなった新宿や渋谷の大型ディスコは、低価格路線や飲み放題
・食べ放題が一般化し。学生や低賃金労働者などを取り込もうとする。

その究極形が吉祥寺にできたインデペンデントハウスだった。
時間制(10分200円で飲み放題・食い放題)が売りの格安ディスコ
食べ物はビュッフェ形式だが、焼き蕎麦の屋台まであり、学園祭のノリ。
中央にはやぐらが組まれ、ディスコというより盆踊り大会だった。





(1976年にディスコでかかった曲)
●KC&ザ・サンシャイン・バンド「Shake Your Booty」
●ミラクルズ「Love Machine」
●ワイルド・チェリー「Play That Funky Music」
●トランプス「Disco Inferno」
●ヒートウェイヴ「Boogie Nights」
●リッチー・ファミリー「The Best Disco In Town」
●シルヴァーズ「Hotline」
●ドナ・サマー「Try Me I Know We Can Make It」


※ドナ・サマーは「Queen of Disco」と呼ばれ一世を風靡。
アルバム「A Love Trilogy」は1曲が長く延々と踊れるので人気だった。



↑ドナ・サマーの「Try Me I Know We Can Make It」が視聴できます。




<1977年-R&Bからブラコンへ、アメリカ以外からもヒットが誕生>

R&B色が薄れ、フュージョンやAOR色の強い、洗練されたブラック・コンテ
ンポラリーがディスコでも中心になる。欧州の白人グループもヒット。

ABBA、バカラ、ノーランズ(1980年)はキャンディ・ポップと呼ばれた。
「Dancing Queen」は世界的な大ヒットとなり、サブカルだったディスコ
メインストリームに押し上げた。

(1977年にディスコでかかった曲)
●スティーヴィー・ワンダー「Isn't She Lovely?(可愛いアイシャ)」
●ラブマシーン「Desperately」
●アース・ウインド&ファイアー「Fantasy」
●エモーションズ「Best Of My Love」
●ボニー M.「Sunny」
●ヒートウェイヴ「Boogie Nights」
●ABBA「Dancing Queen」※スウェーデン発、世界的ヒット
●バカラ「Yes Sir, I Can Boogie」※ドイツの女性2人組、ABBAのパクリ?
●ホットブラッド「Soul Dracula」※フランスのグループの企画モノ

※「Soul Dracula」はいわゆるキワモノ。この曲がかかるとフロアを去った。



↑エモーションズの「Best Of My Love」が視聴できます。





<1978年-サタデーナイト・フィーバーの影響でディスコブーム>

映画「サタデーナイト・フィーバー」が空前の大ヒット。
世界的なディスコ・ブームを巻き起こし、大きなうねりのような社会現象
となった。

このエポックメイキングな映画はディスコ史を語る上で、最も重要だと思う。
できれば改めて取り上げたいと思う。





映画が商業的成功を収めただけでなく、劇中で使われたビージーズの曲、
イヴォンヌ・エリマンの歌もヒット。
2枚組サウンドトラック盤はビルボード24週連続1位のメガヒットを記録。
グラミー賞最優秀アルバム賞を獲得した。


アース・ウインド&ファイアー、シック、シェリル・リンは都会的で洗練さ
れた、ディスコ以外の様々なシーンで聴ける大人の音楽として人気だった。

ディスコブームは音楽界全体に影響し、ローリングストーンズやロッド・
スチュアートなどのロックまでもがディスコ・サウンドの影響を受けた。

(1978年にディスコでかかった曲)
●ビージーズ「Stayin' Alive、Night Fever、You Should Be Dancing」
●イヴォンヌ・エリマン「If I Can't Have You」
●アース・ウインド&ファイアー「September」
●シック「Le Freak」
●シェリル・リン「Got To Be Real」
●ローリングストーンズ「Miss You」
●ロッド・スチュアート「Da Ya Think I'm Sexy ?」
●バリー・マニロウ「Copacabana」
●アラベスク「Hello Mr. Monkey」※ドイツの女性トリオ
●レイフ・ギャレット「I Was Made For Dancin'(ダンスに夢中)」



↑シックの「Le Freak」が視聴できます。


シックの中心メンバー、ギターのナイル・ロジャースとベースのバーナ
ード・エドワーズはもともとジャズ畑のミュージシャン。
2人はプロデューサーとして活躍。

シスター・スレッジ、マドンナ、ダイアナ・ロス、デヴィッド・ボウイ、
パワー・ステーションを手がけヒットさせた。

ドラムのトニー・トンプソンは黒人でありながら縦ノリのヘヴィーな8ビ

ートも叩けるため、多数のロックのアーティストのバックを務めた。




<1979年-サーファーディスコ、音楽はブラコン中心になる>




ハマトラ流行 原宿歩行者天国に竹の子族出現、サーファー・ブームの中、
六本木にサーファー・ディスコ、キサナドゥが開店。


(キサナドゥは1年半で改装しナバーナになるが閉店。1980年、跡地に
ントン・クイーンが開店。男性客だけの入店不可、服装チェックあり。
マドンナなど海外アーティストが来日の際、立ち寄る店として有名だった)






老舗のメビウスもサーファー・ディスコ、レオパード・キャットとなる。
同じく老舗のビブロスはその名を残して営業していたが、客層は一変。
サーファーでごった返し状態でガラが悪くなる。ステータスもなくなる。

他の店もサーファー・ディスコ化。ヤンキーやマッチョもサーファー・
ファッションを真似するようになり紛らわしくなる。


(1979年にディスコでかかった曲)
●マイケル・ジャクソン「Don't Stop 'Til You Get Enough」
 「Rock With You」「Off The Wall」
●アース・ウインド&ファイアー「Boogie Wonderland」
●ヴィレッジ・ピープル「Y.M.C.A.、In The Navy」
※「Y.M.C.A.」は西城秀樹、「In The Navy」はピンクレディーがカヴァー。

●ABBA「Summer Night City、Gimme! Gimme! Gimme!、Voulez-Vous」
●エレクトリック・ライト・オーケストラ「Last Train to London」
●クルセーダーズ「Street Life」※歌はランディー・クロフォード。
●ドゥービー・ブラザーズ「What A Fool Believes」
●KISS「I Was Made For Lovin' You」


マイケルの3曲はクインシー・ジョーンズのプロデュースによる大ヒット・
アルバム「Off The Wall」から。(次作「Thriller」への布石となる)



↑マイケルの「Don't Stop 'Til You Get Enough」が視聴できます。



アース・ウインド&ファイアーの「Boogie Wonderland」はフィリー・
ソウルをにコンテンポラリーな演奏を加えたような感じだ。

この年の新しい風はゲイを売りにしたヴィレッジ・ピープルだろうか。
AOR化したドゥービーズやKISSもディスコと親和性が高い。
ジャズ系のクルセーダーズは1曲ゲスト・ボーカルを入れて成功した。
この他テクノを取り入れたグループの癇に障る曲もあった。





<補足:1980年以降-ディスコの隆盛と衰退>

1980年、六本木スクエアビルにギゼ開店。お立ち台と寿司バーを設置。



ブラザーズ・ジョンゾンの「Stomp」、マイケルの「Rock With You」、
ジョージ・ベンソンの「Give Me The Night」とクインシー・ジョーンズ
がプロデュースした曲が立て続けにヒットしディスコでも人気。

レイ・パーカーJr.&レイディオの「It's Time To Party Now」など、ブラ
コンがメジャーでヒットしディスコでもヘビロテだった。


1982年、原宿に日本初のクラブ、ピテカントロプス・エレクトスが開店。
アートギャラリーを併設。キース・ヘリング、バスキア、デペッシュ・モード
、UB40、ブライアン・フェリーとデヴィッド・バーンも来店した。




1983年カフェバー・ブームでディスコ冬の時代。
六本木の喧騒に嫌気がさした遊び人たちは、西麻布や飯倉、原宿と渋谷の間
など一般人が行かない隠れ家的なカフェバーに集うようになる。

そうした店ではファンカ・ラティーナやレゲエ、1960年代のアートロック
やプログレなどをかけていて、AORやブラコンに辟易した耳に新鮮だった。
ダンスフロアを設けてる店もあったが、風俗営業ではないため摘発されては
しばし営業停止を繰り返していた。


 
        ↑西麻布のレッドシューズ


一般ディスコでもブラック・ミュージック離れ現象がが起きていた。
ポリスの「Every Breath You Take」、カジャグーグーの「Too Shy」、
カルチャークラブ「Karma Chameleon(カーマは気まぐれ」、ポリス
の「Every Breath You Take」、デヴィド・ボウイの「Let's Dance」、
デュラン・デュランの「The Reflex」、ワム!の「Club Tropicana」
などイギリス勢が主流になる。R&B、ソウルはいずこへ?

メリサ・マンチェスターの「You Should Hear How She Talks About 
You」、ラヴァーボーイ「Working for the Weekend」、アイリーン・
キャラの「What a Feeling(フラッシュダンス)、マドンナの「Lucky
 Star」「Like A Virgin」などもよくかかった。


1985年頃から小部屋のクラブができ始める。

1986年、日比谷ラジオシティ。ついに銀座にもディスコができたと話題に。
店内は宮殿をイメージし、ライオンや古代エジプト風の彫刻が配置された。
巨大ミラーボール、数々のライトが大理石を敷き詰めたダンスフロアを照らす。
会社帰りのサラリーマンとOLで大盛況。ネクタイ着用が求められた。





同年、青山キング&クイーン開店。マハラジャ出店ラッシュ。

1987年、六本木にトゥーリアがオープン。山本コテツ氏がプロデュース。
近未来惑星に不時着した宇宙船をイメージ。
翌年、照明落下事故で3名の死者を出し閉店。
事故により照明は売りだったバリライトではなく国産であることが発覚。

また、六本木ディスコ族の実態が明るみに出た。
死亡した3人、居合わせた客のほとんどが地方から来ていた。




同年、エムザ有明開店。伝説のムゲンとビブロスが閉店。

1989年、芝浦の倉庫街にゴールドがオープン。
1991年、同じく芝浦にメガディスコのジュリアナ東京がオープン。
お立ち台で踊る女性たちの姿はバブル経済の象徴となった。




1992年、神楽坂にツインスターが開店。ハイテクとレトロが同居した空間。

1994、六本木ヴェルファーレ開店。

1995年、渋谷・円山町を中心に小箱のクラブ、DJバーが出現。
ヒップホップ、ハウス、テクノを好む若者が集う。ディスコは時代遅れになる。



↑円山町は花街(芸者屋・遊女屋)からラブホテル街、平成以降はクラブ、
DJバーが集まる街へと姿を変えて行った。




次回は「ディスコ・ミュージックが日本の歌謡曲に及ぼした影響」です。


<参考資料:History  of Disco、ディスコの歴史、The list of DISCO、
1970年代のディスコフィーバー、Wikipedia、Youtube、他>

※個人のブログやSNSに掲載された写真も使わせていただいてます。
問題がある場合はすぐに削除しますのでご一報ください。

2022年9月2日金曜日

1970年代の日本(東京)におけるディスコの系譜(前編)

ロックを聴いてた僕はディスコ・ミュージックをどこか下に見ていた気がする。
いい曲がいっぱいあったい一方で、実際にマヌケな曲も多々あった。

新宿のディスコでダンスフロアを占領し全員が同じ振り付けで踊る人たちとは
あまり友だちになりたいと思わなかった。


それはともかく、僕がそういう踊れる店に初めて行ったのは中学2年の夏休み。
バンドの練習の後、別な高校のドラムの上手いやつが出演しているから見に行こ
う、という話になった。だから踊りに行ったわけではない。

当時は生バンドの演奏に合わせて踊るゴーゴークラブ。(昼間も営業している)
店に入った時バンドはサンタナの「ブラックマジック・ウーマン」を演奏してた。




↑写真は横浜・石川町の「アストロ」。
当時のゴーゴー・クラブはライヴハウス的な面もあった。




<ディスコの発祥〜アメリカ大都市での急拡大>

ゴーゴークラブとディスコはどこが違うのか?


ディスコ発祥の地はフランス。1967年頃にできたというのが定説らしい。

バンドの生演奏の代わりにDJが選んだレコードで踊るナイトクラブのことを、
コード盤の「Disc」とフランス語でライブラリーを意味する「Bibliothèque」
をかけ合わせてディスコティック(Discothèque)と呼んだのが始まりだ。

アメリカでは1960年代末〜1970年代初頭にかけ、ニューヨークやロサンゼルス
でゲイや黒人、ヒスパニック系など労働条件の悪い若者が、せめて週末くらい楽
もうとディスコに集い踊り明かすようになる。

マイノリティーのサブカルとして始まったディスコは、やがて都会で働く独身女
が安心して遊べる場として裾野が広がって行く。




1971年にはディスコ・ミュージック専門のラジオ局や「ソウル・トレイン」など
のテレビ番組が始まり、メジャーなカルチャー、マーケットとなる。

音楽とダンスの性質でいうと、ゴーゴーが縦ノリで手足、腰を振って踊るのに対し
ディスコでのダンスは横揺れ、スイング感、大きな動きが特徴的だ。

黒人ならではのリズム感、グルーヴ感、全身を使っての表現力が「らしさ」になる。
白人やアジア系はなんとかそれを真似するがサマになる人は少ない。




<1971年-日本(東京)で最初のディスコ、ビブロスが開店>

日本で最初のディスコは1971年に赤坂に開店したビブロスと言われる。




ビブロスは隣接していたムゲン(1968年開店)と同じ経営で、VIP客は地下フロア
の奥からムゲンとビブロスを自由に行き来できた。
ムゲンはサイケデリックな店内とアメリカのR&Bバンドも出演していたクラブで、
文化人、芸能人、業界人、遊び人たちの社交場であった。(ディスコではない)



↑ MUGEN(ムゲン)店内。黒人R&Bバンドの生演奏で踊っている。


後からできたビブロスは洞窟のような内装で、フロアが上下に別れていた。
DJがかける音楽はR&Bでなくロックが中心。
会員制で女性または女性同伴のみ入店可。黒服による服装チェックがあった。
(=ダサい格好をしてると断られる)




ビブロスも芸能人、業界人に人気で、海外のミュージシャンたちの間でも有名。
東京でコンサートをやった後は必ず来るという話だった。


同じく1971年に開店した六本木メビウスが日本初のディスコという説もある。
黒く統一されたフロアに宇宙船のようなDJブースでレコードをかけたらしい。
日本初のDJのみで客に踊ってもらうスタイルだった、と言われている。

(ディスコの定義によって他にも諸説あるが、DJのかけるレコードで踊る箱、と
いう形態でいうと、ビブロスかメビウスだったのだろう。)




<1972年-米軍基地とディスコ、R&Bからフィリー・ソウルへ>

米軍立川基地が1973年に返還されるまでは、米兵たちの溜まり場となるバーや
ディスコが多く、都心よりも先に新しいレコードとステップが見聞きできると
言われ、足繁く通うファンもいたようだ。

同じく本牧に開店したリンディー(1972〜1973年?)も米兵とその家族、PX
関係者向けディスコ。
ビブロスと同じく男性のみの客は断られ、入店時の服装チェックがあった。
PXのコネで入れるハマっ子のみならず、東京の音楽・芸能関係者や遊び人も
訪れたという。



      ↑本牧リンディー


1972年頃のアメリカは、エルヴィスの 「Burning Love」、ポール・サイモン
のソロ初シングル「Mother and Child Reunion」、ドン・マクリーンの
「American Pie」、シカゴの「Saturday In The Park」、イーグルスの
「Take It Easy」などがヒットしていた。

ツェッペリンの「Black Dog」、ディープパープルの「Highway Star」など
英国ハードロックも全米でヒット。グラム・ロック旋風も吹き始めていた。

音楽業界の多くの人間にとって、ディスコ・ミュージックは一部の人が聴くマイ
ナーなサブカルで、そこから全米ヒットが生まれるとは夢にも思わなかった



       ↑ゲロッパ!でお馴染みのジェームズ・ブラウン。


ディスコでDJたちがかける音楽も、ジェームズ・ブラウンの「Sex Machine」
、アイザック・ヘイズの「Shaft(黒いジャガーのテーマ)」、マーヴィン・ゲイ
の「What's Going On」、レアアースモータウンの白人R&Bバンド)の『Get 
Ready」など、1960年代から続くソウルやR&Bが中心
ディスコ・ミュージックと呼ばれるようなスタイルが確立していなかった


そんな中、フィラデルフィア・インターナショナル・レコードが設立。

オージェイズ、ハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツ、ルー・ロウルズ、
スリー・ディグリーズ、ビリー・ポールなど、今までとは質感が違うフィリー
(フィラデルフィア)ソウルと呼ばれる新しいダンス・ミュージックが人気
を博すようになる。






<1973年-ディスコの普及とソウル・ミュージックの浸透>

オイルショックの1973年、新宿と六本木にカンタベリーハウスがオープン。
新宿のカンタベリーハウスは大型店で、ギリシャ館、ペルシャ館など多店舗展開。
敷居が低い大衆ディスコで、立地的に埼玉や千葉から来てる客も多かった。

歌舞伎町の東亜会館はディスコ・ビルと化し、周辺にもプレイハウス、クレイジー
・ホースなどディスコが乱立する。

ディスコという名称が一般に浸透。地方都市まで拡がる。


(1973年にディスコでかかった曲)
●スリー・ディグリーズ「Dirty Ol' Man(荒野のならず者 )」
●スティーヴィー・ワンダー「Superstition(迷信)」※発売は1972年
●クール & ザ・ギャング「Jungle Boogie」
●ヒューズ・コーポレーション「Rock The Port(愛の航海)」
●ラヴ・アンリミテッド・オーケストラ「Love's Theme」
●オージェイズ「Love Train、Black Stabbers(裏切り者のテーマ)」

●マーヴィン・ゲイ&ダイアナ・ロス「You Are Everything」
●スタイリスティックス「 You Make Me Feel Good New(誓い)」
●ビリー・ポール「Me and Mrs. Jones」
多くのディスコではチークタイムがあり、これら3曲は定番だった。




↑スリー・ディグリーズの「Dirty Ol'  Man」が視聴できます。



※原題の「Dirty Old Man」は直訳すると「汚い老人」だが、スラングで「いや
らしい中年男」「スケベなオッサン」を表す。これでは売れないと思ったのか。
けど「荒野のならず者」って何(笑)映画「荒野の7人」に便乗した?

歌詞もスラングが多く容赦ない。イギリスでは放送禁止になったとか。
幸い日本人には意味が分からないので問題なくヒット。


発売時の謳い文句は「フィラデルフィア・ソウルのセクシー・ダイナマイト」
(日本の配給元であるCBSソニーがどういう売り方をしたかったかが分る)
スリー・ディグリーズはポッと出の新人ではなく、キャリアが長くメンバーも
何回か入れ替わってる。実力派なのだ。






<1974年-ソウル・トレイン放送開始、大衆ディスコvs.高級ディスコ>

1974年アメリカのソウル系ダンス音楽番組「ソウル・トレイン」がテレビ東京
(東京12チャンネル)の深夜枠で放送開始。司会はドン・コーネリアス。




※ちなみに番組はアパレル・メーカー、JUNの1社提供。
リチャード・アヴェドンが監督したイメージCMが放送されていた。



ソウル・トレインのテーマ」はフィリーソウルのMFSBが演奏した「TSOP」
に歌詞をつけスリー・ディグリーズが歌い、アメリカではビルボード1位を獲得。



↑「ソウル・トレイン」のオープニングが視聴できます。



「ソウル・トレイン」では毎回、豪華アーティストが出演。
ライブ演奏に合わせて黒人ダンサーたちがファンキーなダンスを披露する。



ソウル・トレイン・ギャングと呼ばれるダンサーたちの動きは必見!



当時の日本の若者はそんなふうに大胆に体を動かせない。黒人のノリも出ない。
そこで簡単に踊れる方法として生まれたのが、集団で繰り返し決まったステップ
を踏むラインダンスである。
(ソウルチャチャ、フリーャチャ、ハマチャチャなど)


新宿の大衆ディスコでは常連たちが集い、一斉に同じステップで達成感と連帯感
に酔っていた。(一糸乱れぬマスゲームは側で見ていると異様にも思える)
その姿に憧れる若者たちが続々と詰め掛けこぞってステップを覚える、という
独特のカルチャーが生まれ、ステップは各地のディスコに広まって行った。



このステップは曲によってもバリエーションが生まれ、地域や店によって(=常
連客となるグループ)によって異なる、など細分化して行く。


これに対し、六本木は赤坂のディスコでは(客層が違うためか)こうした全員で
同じステップという光景は見られない。各自が好きなように踊っていた。




この年「ソウル・トレイン」でも見られたバンプ(体をぶつけ合う踊り方)が
流行するが、これは日本人でも真似しやすかった。



大衆ディスコが増える中、1974年六本木で2つの象徴的なディスコがオープン。
1つはハーレムにありそうなディスコをイメージしたアフロレイク

黒人のバンド演奏とDJによるレコードの混合型で、音楽はソウルやファンク。
従業員は黒人、メニューもアフリカ系、という徹底ぶり。
客の半分は横須賀や厚木キャンプから通う黒人のGI、彼ら目当ての日本人女性。
常連の日本人客の多くもアフロ・ヘアだったという。




(後に六本木にオープンしたエンバシーも同じコンセプトだった)



もう1つは、完成したての六本木スクエア・ビルの地階に(パリの本店の姉妹店
として)オープンした高級会員制ディスコ、キャステル

黒大理石を用いたゴージャスな内装で、来店の際は正装が条件。
会員の多くは外国人や一流企業の役員クラス、資産家の御曹司、芸能人。
キャステルの会員権を持っていることは遊び人の大きなステータスとなった。





(1974年にディスコでかかった曲)
●オージェイズ「Back Stabbers(裏切り者のテーマ)」※発売は1972年
●コモドアーズの「The Bump」→バンプ
●ジョージ・マックレー「Rock Your Baby」→ソウル・チャチャ 
●スリー・ディグリーズ「When Will I See Your Again(天使のささやき)」
●ジャクソン・ファイブ「Dancing Machine」→ロボットダン
●スピナーズ「Mighty Love」
●ヒューズ・コーポレーション「Rock The Port(愛の航海)」
●ラベル「Lady Marmalade」
●ヴァン・マッコイ&ソウル・シティ・シンフォニー「Love Is The Answer」
●KC&ザ・サンシャイン・バンド「Get Down Tonight」




↑ジャクソン5、マイケルのロボットダンスが観れます。


ジョージ・マックレー「Rock Your Baby」が全米1位、ジャクソン・ファイブ
の「Dancing Machine」が全米2位、スリー・ディグリーズ「When Will I 
See Your Again」がビルボードで2位、キャッシュボックスで1位を獲得。

ソウル・ミュージックがR&Bチャートではなくポップチャートでも上位を獲る
(=メジャーになる)ようになった。


<次回は1975〜1979年のディスコ・シーンと音楽の変化について>


<参考資料:History  od Disco、ディスコの歴史、The list of DISCO、
1970年代のディスコフィーバー、洋楽を対訳する大役、我が青春のポップス、
Wikipedia、Youtube、他>

※個人のブログやSNSに掲載された写真も使わせていただいてます。
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