2020年12月19日土曜日

ジョニ・ミッチェルのフォーク時代(3)使用楽器、演奏法。



<ジョニ・ミッチェルといえばマーティンD-28>

ジョニ・ミッチェルのトレードマークともいえるのがマーティンD-28だ。
1969年頃から使用しているD-28は何年製だろうか?


このD-28は黒ピックガード(1966年以降)、グローヴァー製チューナー
であることから1966〜1968年製と思われるが、ロングサドル(1965年に
ショートサドルに変更になったはず)なのである。(1)

レンジの広い音を得るため、あえてロングサドルに変えた?(2)
そこまでこだわるだろうか?
1960年代前半のD-28の鼈甲柄ピックガードを黒に変えた可能性もある。


私見だが、1965年か1966年の過渡期でロングサドルのままで黒ピック
ガードのモデルも一部製造されていたのではないだろうか。
いずれにしても1969年以前でサイド&バックがハカランダ材の上物だ。



↑左側の写真は1956年製D-28のようだ。
鼈甲柄ピックアップ、ロングサドル、スクエアでなく少し角の丸いヘッド、
チューナーはクルーソンのオープンバックではなくデラックス。



ジョニは初期4枚のアルバムでこの1956年製D-28を弾いたと言っている。


ジョニは1967年1月ノースカロライナ州のフォートブラッグ基地でベトナム
帰還兵の慰問コンサートに出演した際、艦長からこの1956年製D-28を格安
で譲り受けたそうだ。

ヴィンテージのD-28は飛行機での移動時にトップにクラックが入ってしまい、
リペアしたが音はもう元に戻らなかった( It just died)と彼女は言っている。
この特別なD-28は1974年にマウイ島の空港で盗まれてしまったらしい。




↑写真でジョニが抱えているのは1956年製のD-28
スタンドに立てかけてあるのがメイン器の1965〜1966年製のD-28


2本ともサウンドホールにコードをガムテープで固定しているのが見える。
1970年代前半でバーカスベリーのコンタクト型ピエゾ・ピックアップを
トップまたはブリッジの裏に貼り付けてあるのではないかと思われる。




<変則チューニング>

ジョニの変則チューニングはスティーヴン・スティルスとデヴィッド・
クロスビーの影響だろうと思っていたが、そうではなかった。

デトロイトでジョニ&チャック・ミッチェル名義で音楽活動をしていた
ジョニはフォーク・シンガー&ソングライターのエリック・アンダーセン
(3)から変則チューニングを教わった。
様々な変則チューニングを用い、独自の弾き語りや作曲を始めたという。


ジョニが変則チューニングを用いるようになった理由は2つある。

9歳の時に患ったポリオ(急性灰白髄炎)の影響で左手が弱っていたため、
通常のコードフォームを押さえるのが難しかったのだ。

オープンチューニングは開放弦を活かし少ない押弦で豊かな響きを出せる
彼女はキーの調整、押弦のしやすさのためカポタストも利用した。




今回ジョニ・ミッチェルのオフィシャル・サイトを参考にさせてもらった
が、非常によくできた充実したサイトである。
ファンの誰かが投稿していくTAB譜も閲覧できるようになっている。
(PDFではなくテキストなので読みにくいが、参考にはなる)

それによると、何種類かの変則チューニングを使用しているようだ。
Both Sides NowとCircle Gameは両方ともオープンD(D-A-D-F#-A-D)
で、4フレットにカポをして弾いている。(実際のキーはF#になる)

ストラミング(コードストローク)の時はフラットピック、アルペジオの
時はサムピックを使用している。


ジョニが変則チューニングを好んだもう一つの理由は彼女の楽器遍歴に
も由来してると思う。
民族音楽的な共鳴弦の響きが好きだったのだろう。

母方の祖先がスコットランド人とアイルランド人、父親がノルウェー先住
民族の血統であることも、少なからず関係してるかもしれない。



<ジョニ・ミッチェルの楽器遍歴>

ジョニは少女期にクラシックピアノの初歩を学んだ。




高校生の頃、彼女はギターを弾きたくなる。
母親がギター(=カントリー・ミュージック)の田舎くささに偏見があり、
ジョニは最初ギターではなくウクレレから入る。


ジョニが手に入れたのはハーモニーのバリトンウクレレであった。
ウクレレの中では最も大きいサイズでスケールは19インチ(48cm)。
ギターの高音側4弦と同様に D-G-B-E にチューニングされる。

つまりギターの5〜6弦を取っ払った4弦のミニギターとして使えるのだ。
あるいはテナーギター(4弦ギター)の代用ともなる。
テナーギターが23インチでスチール弦なのに対して、バリトンウクレレ
は19インチでナイロン弦なのでより弾きやすく温かみのある音が得られる。




ハーモニー社は1892年創業のアメリカのギター・メーカー。
カタログ販売のシアーズ・ロバック社にOEM供給していたメーカーの一つ。
良質で安価だったため初心者に人気があった。
(あのジミー・ペイジもハーモニー社のギターを愛用していた)



1963年頃からジョニはマーティンのティプルT-18(4)を使い始める。
ティプルとは戦前のアメリカの民族音楽で使われた楽器である。
17インチ・スケールのテナーウクレレサイズで4コース10弦の複弦楽器。




ストラミング(コードストローク)で鈴鳴りのような効果が得られる。
スチール弦でオープンチューニングかテナーウクレレと同じ調弦がされる。
1980年代までマーティン社のカタログに載っていたが現在は入手困難。

この複弦の響きも後の変則チューニング志向に影響してるかもしれない。




同1963年秋ジョニは初めてのギター、エスパナのSL-11を購入する。
エスパナ社はスウェーデンのメーカーで製品はカナダの百貨店で販売してた。

SL-11は1961年に発売されたモデルで、トップにスプルース、サイド&バック
はメイプル、ネックはマホガニーとフラメンコギター仕様(スケール630cm)
で、初心者向けのフォーク・ナイロン弦ギターという位置付けだったようだ。

ジョニは2年間このエスパナのSL-11を使用している。
カナダのテレビ番組Let's Sing Outにもこのギターを持って出演している。



↑Let's Sing OutでエスパナSL-11を弾き歌っているジョニが観れます。


ジョニはピート・シーガーの歌集からギターを独学で学習したそうだ。
エディット・ピアフなどシャンソンからマイルスのようなジャズを好んで
聴いていたことも、後の音楽性の幅広さにつながっているだろう。

またジョニはアートに情熱を注いでいた。
抽象表現主義に傾倒していたことも、彼女の音楽に反映されてるはずだ。



1966年にジョニは初めて本格的なギター、マーティン00-21を購入する。
カナダからデトロイトに移りジョニ&チャック・ミッチェル名義で音楽活動
していた時期〜離婚後ソロで活動し1967年に前述のD-28を手に入れるまで、
この00-21を使用していた。

マーティンのほとんどのモデルが14フレット・ジョイントになっていたが、
0-16NYとこの00-21は12フレット・ジョイント、47mmのやや幅広ネック、
スロッテッド・ヘッド、と伝統的なデザインを守り続けて来た。 (5)

小ぶりなボディーと幅広ネックはローコード中心のフィンガーピッカーには
最適で、マーティンでもフォークギターという位置付けであった。
ただし激しいストラミング(コードストローク)には不向きだ。
ドリー・パートンが愛用していたことでも知られる。





ジョニの00-21は鼈甲柄ピックガード、ロングサドルなので、1965年以前に
製造されたものである。
ジョニはこの00-21で既に変則チューニングで演奏している。
カナダのテレビ番組Let's Sing Outでも00-21を弾きながら歌っている。



<ダルシマー>

ジョニは4枚目のアルバムBlue(1971年)ダルシマーを弾いている
また前年の英国BBCコンサートでもダルシマーを弾くジョニが見れる。


彼女が使用していたのはアパラチアン・ダルシマーであり、打弦楽器のハン
マー・ダルシマーとは別の楽器である。

アパラチアン・ダルシマーは19世紀初頭にアパラチア山脈のスコッチ・アイ
ルランド系移民のコミニュティで使われていた。
スウェーデン、ノルウェーなど北欧の類似した楽器が起源という説もある。


ジョニの母方の祖先がスコットランド人とアイルランド人で、父親は祖先が
ノルウェー人だという背景も彼女がこの楽器に惹かれた一因だろうか。
ティプル、ギターの変則チューニングの響きを好むから、ダルシマーにも
入りやすかったのかもしれない。





アパラチアン・ダルシマーは3本または4本の弦を持つフレット付きの弦楽器。
膝の上やテーブルの上に寝かせて演奏することが多い。

標準的な調弦はないが、1960年代以降の一般的なチューニングはD3-A3-A3、
D3-A3-D4、D3-G3-D4が多い。


ジョニがどのように調弦していたか定かではないが、左手の人差指と中指、
または親指一本を寝かせるようセーハ(バレー)して和音を出していること
から、D3-A3-D4かD3-G3-D4にしていたのではないかと思う。

開放弦では前者ならD、後者ならGになる。
1度と5度だけの音構成で3度がない。
そのためメジャーコードとしてもマイナーコードとしても通用する中性的な
響きが得られる。CS&Nが好んで使ったD-A-D-D-A-Dと同じ効果がある。

セーハ(バレー)の位置変更だけでコードチェンジができるメリットもある。
ジョニはサムピックかフラットピックを用い、手前からすくい上げるように
アップ、ダウンのストラミング(ストローク)で弾いている。


アパラチアン・ダルシマーには形状、材料などバリエーションがある。(6)
ジョニトップとサイド&バックが違う木材のダルシマーを愛用していた。



↑ジョニのダルシマー奏法を解説している動画が観れます。




<ジャズへの傾倒とエレクトリック・ギター>

1980年代にはジョニはD-28にサンライズ社のサウンドホール・マグネット
・ピックアップを装着するようになる。
バンド・サウンドが多くなったため、ライブで他の楽器に埋もれないように
バランスを取るためだろう。

J-45やギブソンJ-200でもサンライズを使用している。(7)






ジャコ・パストリアスやパット・メセニーと供にジャズ志向になったジョニ
は、アイバネズ( Ibanez)GB10を愛用するようになる。


GB10は1977年に日本のアイバネズ( Ibanez)がジョージ・ベンソンの
シグネチャー・モデルとして開発したフルアコのエレクトリックギターだ。




ギブゾンのジョニー・スミス・モデルを愛用していたベンソンはアイバネズ
に小柄な自分向きの小ぶりなフルアコ、ツアーに耐えうる頑丈な造りを要求。
ベンソンはプロトタイプを床に落として壊れないのを確認したという。

彼の要望でピックアップはボディーからフロートして設置されている。
トップ材の共振を拾わない工夫らしい。
ベンンソンのように早いパッセージを弾くのに適してるのだろう。

ベンソン本人のGB10を彼のエンジニアに頼んで弾かせてもらったが、全然
鳴らなかった(笑)アタックの強い弾き方じゃないとダメみたい。




ジョニはGB10をローランドのジャズコーラスで鳴らしていた
サステインがない分コントロールしやすく適度なエア感も得られるGB10を
選び、ジャズコーラスで音作りをするとはセンスがいい。
ナチュラルとサンバーストの2色持っていたようだ。


2000年代にはソリッド・ギターも使用している。
写真のユニークなギターはParker Fly Mojoというモデルだそうだ。




<脚注>

2020年12月3日木曜日

ジョニ・ミッチェルのフォーク時代(2)JTとの出会い、名盤Blue。



 <ジェイムス・テイラーとの蜜月時代>

1970年4月にLadies of the Canyonを発表後、ジョニはジェイムス・テイラー
と恋仲になる。
同年10月にジョニはツアーとプロモーションのために渡英するが、ジェイムス
もくっついて行ってしまい、期せずしてロンドンでは二人の共演が実現した。



↑ロンドンの空港に到着した二人。ジェイムスはこの服装でBBCに出演。


BBCテレビではジョニ、ジェイムスそれぞれのスタジオ・ライブを収録
Joni Mitchell In Concert、James Taylor In Concertとして放送された。
いずれも二人の共演部分はない。

(収録しなかったのか、収録したが権利などの問題でカットされたのか不明)
※後に紹介するジョニのCalifornia、For Freeの映像はこの時のものである。





10月28日にロイヤルアルバート・ホールで行われたジョニのコンサートに
ジェイムスがゲストとして出演。
翌29日はパレスシアターでの二人の共演がBBCにより収録された。

この音源はBBCラジオが約1時間の番組として放送した。
このBBCコンサートは後にFM東京でも放送された。海賊盤も出回っている。

(10月28日にロイヤルアルバート・ホールでのコンサートと表記しているもの
もあるが誤りで、29日のパレスシアターでのBBCライブである)




↑10/28アルバートホールまたは10/29パレスシアターでの公演の様子。
左でコーラスをつけてる3人は誰だろう?



二人の仲睦まじい会話、和気藹々のデュエットが聴ける。
演奏はジェイムスのギブソンJ-50、ジョニのマーティンD-28、ダルシマー、
ピアノによるアコースティック・ライブ。素晴らしい内容だ。



↑ジョニ&JTのThe Circle Gameが聴けます。(1970年BBCコンサート)
写真は前日のアルバートホールか29日のパレスシアターか不明。



1992年にイタリアのLiving Legendレーベルから高音質でCD化された。
2008年にWoodstock Tapesレーベルから公式盤CDが発売されている。
Joni Mitchell & James Taylor - The Circle Game





同年10月17日にバンクーバーのパシフィック・コロシアムでも二人は共演。
アラスカのアムチトカ島での地下核実験・反対集会コンサートの模様である。
2009年にCD化された。(Amchitka - The 1970 Concert




二人のデュエットでMr. Tambourine Manが聴けるが、The Circle Game
がなぜか途中でフェードアウトしてしまうのが残念。



<名盤Blue>

4枚目のアルバムBlueはこの後に録音され翌1971年6月に発売された。
スティーヴン・スティルス、ジェイムス・テイラー、ラス・カンケル、
フライングブリトー・ブラザーズのメンバーが参加している。





ジョニ自身のギターとピアノが伴奏という点は前3枚と変わらないが、
All I WantCaliforniaCareyA Case of Youの4曲で前年のライブ
から使い始めたダルシマーを取り入れている点が斬新だ。



↑ダルシマーを弾きながらCaliforniaを歌うジョニが観れます。
(1970年BBCコンサート)


何曲かジェイムスがギターで参加している。(歌ってはいない)
All I want、California、A Case of YouではBBCライブと同じくジョニの
ダルシマーとジェイムス・テイラーのギターの二重奏。




↑ジョニとジェイムスのレコーディング風景。
Blueでジェイムスは歌っていない。
ジェイムスのLong Ago And Faraway録音時(1971年1-2月)と思われる。



Careyは変則チューニングのギターにスティーヴン・スティルスのベース、
パーカッションが加わり、CS&Nを彷彿させる曲に仕上がっている。



↑写真をクリックするとBlue収録のCareyが聴けます。


名曲と評されるピアノの弾き語りBlueRiverは個人的にはイマイチだ。


ざっくり印象を言うと、3枚のフォーク・アルバムの路線を踏襲しつつも
さらに高度な独自の世界観に昇華させた作品という感じ。

それはダルシマーのやパーカッションの導入で無国籍の民族音楽的な要素
が加わった成果でもあるし、ジェイムス・テイラーの影響もあるだろう。



↑1970年BBCコンサートでFor Freeを歌うジョニが観られます。


当時ジェイムスはヘロイン中毒で精神的にも問題を抱えていたが、ジョニ
は伴侶となれる相手を見つけたと感じていた。

皮肉なことにBlueが発売される3ヶ月前にYou've Got a Friendのヒット
でジェイムスの名声は高まり、ジョニとの間に摩擦が生じ破局を迎える。

ジェイムスはキャロル・キングと急接近し、半年後には1年後に結婚する
ことになるカーリー・サイモンとくっついていた。(ったくもう〜)
ジェイムスとの別れはジョニにはかなりの痛手だったようだ。




以降ジョニは崇高でやや難解な作風に変化し、ジャズに傾倒して行く。




<ジョニ・ミッチェルの1968-1979年をまとめて聴ける決定盤>

今まで断片的にしか聴いていなかったジョニの初期フォーク時代の3枚を
聴きたくて調べてたら、1968-1979年の10枚がパッケージで超お得価格
で出ていることが分かった。

Joni Mitchell the Studio Albums 1968-1979



欲しい3枚それぞれ安く買うより、このセットの方が安い。安すぎる。
これでいいのか?と思うくらいだ。

よくある5 Classic Albumsシリーズとは一線を画す内容と断言できる。

まずリマスターの音がいい
見開き紙ジャケ仕様の装丁の出来も緻密で素晴らしい

ジョニ・ミッチェルのアルバムは自ら描いた絵を使用するなど、アート
ワークが美しいのだが、それを忠実に再現しミニチュア化してある。
ピクチャーディスクも4枚目まではリプリーズ、5枚目以降はアサイラム
のディスクレーベルを再現してあり、徹底してこだわっている。


さすが信頼のRHINOレーベル!
買おうと思っていた3枚以下の価格で、 Blueもそれ以降の6作品もまとめ
て聴け、それ以降のジョニの音楽の変遷が楽しめてしまう。

ジョニ・ミッチェル入門者にもお薦めだし、マニアも納得のお得感満載
の充実のボックスセットだ。

5〜10枚目のアルバムを簡単に紹介しておく。○△Xは個人的好みです。


For the Roses(1972年)
5枚目のアルバムで、アサイラム移籍後初のリリース。
過渡期の作品でやや散漫な印象はある。

従来のパーソネル+ウィルトン・フェルダー、トム・スコットとジャズ
系の人、かと思えばジェームズ・バートンも参加している。
ヒットしたYou Turn Me On, I'm a Radio(恋するラジオ)収録。


Court and Spark(1974年)
クルセイダーズのラリー・カールトン、ウィルトン・フェルダー、ジョー
・サンプル、トム・スコット率いるL. A. エクスプレスなどが参加。
ジャズ色が強いジョニの新境地の作品で評価も高い



↑ジョニ(Gibson J-200)とジャコ・パストリアス(Fender Jazz Bss)。


The Hissing of Summer Lawns(1975年)
ジョニの声がファルセットのメゾソプラノからアルトへ変化。
前作のミュージシャンに加え、ロベン・フォード、ジェフ・バクスター、
ヴィクター・フェルドマンが参加。
フォークロック色は消えジャズをさらに前衛的にした作品。


Hejira(1976年)
ジャコ・パストリアスの参加で彼の才能、ベースラインが色濃く出た。
ウェザー・リポートから流れでジョニを聴いた人も多かっただろう。
聴きやすい作品ではある。

ジョニはギターをIbanezに変えRoland Jazz Chorusで鳴らしている。
ジャケットの写真はノーマン・シーフが撮影。




Don Juan's Reckless Daughter(1977年)X
当時2枚組で発売されたジャズ・フュージョン寄りのアルバム。
良く言えば多彩だけど捉えどころがない。アフリカン・ビートも苦手。
もう鬼才に付いていけない。ジャコ・パストリアスのベースはいいけど。


Mingus(1979年)X
チャールス・ミンガスと共演の予定が路線変更でトリビュート作品へ。
ジャズ・フュージョン界オールスター的顔ぶれで制作し直された。
ジャコ・パストリアス色が強い。聴いてていいとは思わない。
最後のGoodbye Pork Pie Hat(ミンガス作)だけは好き。




<ジョニの1963-1967年の記録、アーカイヴ・シリーズ>

ジョニのレコード・デビュー前のアーカイヴ・シリーズのリリースが決定。
その第1弾が10月30日に発売された。

Joni Mitchell Archives Vol. 1 : The Early Years(1963-1967)



 
5枚組CDボックスセットには1963-1967年に収録した6時間に及ぶ自宅録音、
ライヴ音源、ラジオ・レコーディングが年代順に収められている

提供曲でジョニ本人のヴォーカルでは未発表の29曲が含まれている。
若き日のジョニを深掘りしたい方には興味深いセットだろう。


<続く> 次回はジョニ・ミッチェルの楽器遍歴とユニークな奏法について。


<参考資料:jonimitchell.com、BBC、Wikipedia、MUSIC LIFE CLUB、
amass.jp、Amazon、YouTube、他>

2020年11月22日日曜日

ジョニ・ミッチェルのフォーク時代(1)ヴィレッジからLAへ。



<フォーク歌手に提供した名曲ができるまで>

1970年の大阪万博公演で来日したメリー・ホプキン(1)が「一番好きな曲は?」
と訊かれて「Both Sides Now(青春の光と影)」(2)と答えていた。

1968年にジュディ・コリンズがヒットさせたヴァージョンが有名だ。
デビュー前に作曲家として活動していたジョニ・ミッチェルの提供曲である。



ジュディ・コリンズ(左)とジョニ・ミッチェル(右)


ジョニ本人も1969年、2枚目のアルバムClouds でカヴァーしている。



↑ジョニが歌うBoth Sides Nowが観れます。(1969年ママ・キャス・ショー)
Martin D-28は1966-1968年製と思われる。



メリー・ホプキンはジョーン・バエズのようなフォーク歌手になりたいと
言っていたが、ジョニの作品も好んで取り上げていた。
高音部の美しいファルセット、小刻みなヴィブラートもジョニの影響か。
万博公演ではBoth Sides Nowともう1曲、Night In The Cityを歌っている。


Night In The Cityはシャッフルの明るく軽快な曲だ。
(万博公演でメリーは彼女のB面曲を手がけたギャラガー&ライル(3)をコー
ラスに従え歌っていたので、この曲もこのコンビの作品かと勘違いしてた)

これはジョニのデビュー・アルバムSong to a Seagullに収録された。
スティーヴン・スティルスがベースを弾いている。



↑Night in the Cityを歌うジョニが観れます。この頃はMartin 00-21を使用。
(1966年カナダのTVショーLet's Sing Out出演時の映像)



The Circle Gameもジョニの代表作の一つで人気が高い。
ジョニはカナダのフォーククラブに出演していた1965年頃、ロックバンドを
辞めフォークに転向したニール・ヤングと出会う。(二人ともカナダ人)

ニールのSugar Mountainという曲(21歳を越えたら10代の子が騒ぐような
クラブには戻れない、と失われた青春に対する嘆きが込められた曲)への
アンサーソングとして、ジョニはニールと自分に希望を持たらすように
The Circle Game(サークルゲーム)(4)を書いた。



↑ジョニとニール・ヤング(1975年の映画「LAST WALTZ」の頃だと思う)



この曲は1967年カナダのフォークデュオ、イアン&シルヴィアが初録音。
同年7月バフィー・セントメリーがカヴァーしたヴァージョンが、1970年
公開の映画「いちご白書」(5)の主題歌として使用されヒットした。


ジョニのセルフカヴァーは3枚目のアルバムLadies of the Canyonに収録。
アコースティック・ギターに乗せてジョニー本人が歌うThe Circle Game
はバフィー・セントメリーのソフトロックよりスローテンポで、やさしく
ナチュラルな味わいがある。

デヴィッド・クロスビー、スティーヴン・スティルス、グラハム・ナッシュ
の3人がコーラスで参加している点も見逃せない。



↑写真をクリックすうとジョニのThe Circle Gameが聴けます。



<カナダからニューヨーク、グリニッチ・ヴィレッジへ>

カナダ西部の小さなナイトクラブやトロントの路上で歌っていたジョニは、
1965年にチャック・ミッチェルというフォークシンガーと出会い結婚。

デトロイトに移りジョニ&チャック・ミッチェル名義で音楽活動を続ける。
が、二人は1967年初めに離婚。





彼女が移り住んだのはニューヨーク市マンハッタンのチェルシーだった。
フォーク歌手が集うグリニッチ・ヴィレッジから徒歩10分の場所にある。

Chelsea Morning(チェルシーの朝)はこの頃に書かれた曲だ。
若き日のディランも憧れたというデイヴ・ヴァン・ロンクがこの曲を
気に入り、自身のアルバムに収録。

翌1968年フェアポート・コンヴェンションやジェニファー・ウォーンズ
デビュー・アルバムにも収録された。
1969年4月ジュディ・コリンズがシングルとして発表しヒット。(6)
ジョニ本人も2枚目のアルバムClouds でカヴァーしている。



↑1969年ディック・キャベット・ショーでのChelsea Morningが聴けます。
ジョニはマネージャーの意向でTV出演を優先し、ウッドストック・フェ
ティバルに参加できなかった。(後述)


Urge For Goingは1966年に既にジョニによって歌われている。
1968年にフォーク歌手のトム・ラッシュが録音した。
クロスビー&ナッシュも1971年に録音したが発表には至らなかった。

ジョニ本人の録音も未発表だったが、レア・トラックを集めたアルバム
Songs of a Prairie Girl(2005年)で初めて発表された。



<CS&Nとの関係、ウッドストック、3枚のフォーク・アルバム>

フォーク・シーンでのジョニの作曲力と歌唱力は広く知られ、リプリーズ
レコードとの契約、1968年のデビュー・アルバム発表に結びついた。




ジョニのメジャー・デビューにはデヴィッド・クロスビーが関わっている。
マイアミのクラブで歌っていたジョニを見たクロスビーは、彼女の才能に
魅せられ、LAに連れ帰り友人たちに紹介したのだ。

1968年7月ハリウッド・ヒルズ近郊のローレル・キャニオンにあるジョニ
の家で元バッファロー・スプリングフィールドのスティーヴン・スティルス
と元バーズのデヴィッド・クロスビーは一緒に歌っていた。

そこへホリーズ脱退間近だったグラハム・ナッシュがハーモニーで加わり、
歌い終わったときにCS&N結成の構想が生まれたという。



↑ジョニ、スティルス、クロスビー、ナッシュの共演が観られます。
1969年のライブ。左にジョン・セバスチャンの姿も。




CS&Nは1968年8月に開催されたウッドストック・フェスティバルに参加。
この模様を記録したドキュメンタリー映画「ウッドストック」(1970年)
のテーマ曲、CSN&YのWoodstockもジョニの提供作品だ。

この時点ではニール・ヤングを加えたCSN&Yの編成で、ロック色の強いア
レンジが施されている。Woodstockはヒットし時代を代表する曲となった。


ジョニのオリジナルはもっとテンポが遅く哀愁を帯びた曲調である。
その時々でアレンジを変わるが、3枚目のアルバムLadies of the Canyon
ではピアノの弾き語りが収録されている。




↑ジョニが歌うWoodstockが観られます。(1970年BBCコンサート)


ジョニは同棲していたグラハム・ナッシュ(7)からウッドストック・フェス
ティバルについて聞いた話をもとにこの歌を作った。
彼女自身は参加できなかったという喪失感から作曲したらしい。(8)


Ladies of the Canyonには環境問題を歌ったBig Yellow Taxも収録。
この曲もWoodstockと同じく時代の空気を捉え人気を博した。



↑ジョニが歌うBig Yellow Taxiが観られます。(1970年BBCコンサート)


ジョニ・ミッチェルが1968〜1970年に発表した3枚のアルバムはクロスビー、
スティルス、ナッシュの3人が全面的にバックアップしている。

といっても、3枚ともジョニのギターまたはピアノの弾き語りというミニマム
な編成がほとんどで、静謐な中に凛とした空気が感じられる。


溢れ出すように豊かなジョニの才能が伝わる楽曲の数々。
鈴鳴りのファルセットが繊細で美しい
メゾソプラノからアルトまで広い声域を活かした情感たっぷりの歌が聴ける。




その魅力は過剰なアレンジやバンド編成より、ジョニが奏でる美しいピアノ、
または変則チューニングのギターだけの方が伝わる。


巷では1971年に発表した4枚目のアルバムBlueが名盤として評価が高い。
しかし、僕はBlue以前の3枚の方が好きだ。

捨て曲一切なしの初期3枚はフォーク時代のジョニの名盤だと思う。
ジャケットはいずれもジョニ自身が描いた絵で味わいがある。







ジョニ・ミッチェルはとても個性的な(クセのある)歌手だと思う。
狼の遠吠えのような高音のファルセットは人によって好き嫌いが分かれる。
顔が岸田今日子に似ててちょっと、という人もいるかもしれない(笑)

僕も昔はそれほど好きなわけではなかったけど、この歳になって、コロナ渦
の今、ジョニの初期3枚のフォーク・アルバムは心に響く。
  
                         
<続く> ※次回はジェイムス・テイラーとの蜜月、名盤ブルーについて。
ジョニの1968-1979年をまとめて聴ける決定盤10枚組CDセットの紹介も。

<脚注>

2020年9月28日月曜日

フェンスの向こうはアメリカ。本牧とゴールデンカップス(3)



本牧ゴールデンカップ専属バンド、平尾時宗とグループ・アンド・アイ
横浜で評判になる。

すごいバンドがいるという噂は東京にまで広まった
多くの音楽業界関係者が見に来て、彼らの虜になった。




同じ横浜出身のジョー山中はカップスを見て衝撃を受けたそうだ。
スパイダーズのメンバーたちと一緒に見に来たかまやつひろしは、
カップスの演奏を見て「俺たちは終わった」とつぶやいたという。


ミュージックライフの水上はるこ編集長はカップスの取材に力を入れる。
彼らがポール・バターフィールド・ブルースバンドのWalkin' Blues
(ロバート・ジョンソンの曲)をカヴァーしているのに驚いたそうだ。

まだ輸入盤しか入手できず、日本では知るひとぞ知るバンドだった。
水上氏は「カップスは日本で洋楽ロックを広めてくれた」と語る。


バターフィールド・ブルースバンドではマイク・ブルームフィールド
というブルース・ギターの一人者(1)が弾いている。
エディ藩はブルームフィールドのブルースギターを研究したはずだ。

実はカップスにポール・バターフィールド・ブルースバンドを教えたの
は前ミュージックライフ編集長の星加ルミ子氏だったそうだ。
彼女もまたカップスのファンで親交を深めていた。





活動開始から1週間後、メジャー・デビューにつながる出来事があった。
ゴールデンカップに来店していたカミナリ族(当時の暴走族)ナポレオン
を取材していたTBS撮影スタッフはカップスの演奏に惹きつけられる。

ナポレオン党はマリンタワー下のハンバーガーショップ、ワトソン(店名
Dog House)に夕刻集結し、外車を乗り回しながら山下のグレープハウス、
中華街、本牧ゴールデンカップ、イタリアンガーデンを遊び場としてた。
比較的、裕福な不良が多かったと思われる。服装もオシャレだ。
鎌倉の朝比奈峠、第三京浜のタイムトライアルを楽しんでいたらしい。

↑雑誌BRUTUSに掲載されたナポレオン党の記事。


彼らと親しいクレオパトラ党(2)という女性の遊び人グループもあった。
キャシー中島(記事の写真に映っている)、山口小夜子も在籍していた。
彼女たちもまた本牧ゴールデンカップやリンディで踊り明かしていた。


↑こういうマブイ(死語)おネエさんたちが踊ってたわけです。



TBS撮影スタッフの目に止まったのがきっかけで「ヤング720」に初出演
その反響は大きかった。
黛ジュンが東芝音楽工業の関係者を連れて(鈴木邦彦を伴ってという説も
ある)ゴールデンカップを訪れた。
黛ジュンは彼らの演奏を気に入り、東芝音楽工業に契約を薦めた

スパイダーズの田邊昭知もスカウトしたが、既に黛ジュンと東芝が動い
ていることを知り断念した。


デビューに際して、平尾時宗とグループ・アンド・アイというバンド名
が分かりにくい、とゴールデンカップスに改められた
また東芝音楽工業が「全員ハーフ」というふれ込みで売るため、メンバー
のニックネームもこの時つけられた






こうして1967年6月「いとしのジザベル」でレコードデビューを果たす。
作詞はなかにし礼、作曲は鈴木邦彦。
英語でしか歌ってこなかったデイヴ平尾は日本語での歌い方がわからず、
坂本九の歌唱法を参考にしたという。


東芝音楽工業は3rd.シングル(1968年4月)で売れ筋を狙う。
「長い髪の少女」はさらに哀愁ある歌謡曲に仕上がった。

作曲の鈴木邦彦はマモル・マヌーの甘い声の方が曲に向いていると判断
デイヴ平尾は「どうぞ」の部分だけ歌うことになった。




この曲のヒットでカップスは全国区のGSとして名が売れるようになる。
「長い髪の少女」はゴールデンカップスの代表曲となった。
新宿ACBにも出演し、全国でコンサートを行うようになる。

しかし歌謡曲路線も、GSと見られることも彼らは望んでなかった
地元のファンもヒットを祝う一方で、こんなのカップスじゃないよね、
と思ってたようだ。


メンバーたちはライブでは作家から提供された曲はほとんど演奏せず、
自分たちのやりたい洋楽のカヴァーを中心に演奏した。




↑1968年テレビ出演で演奏した「I'm So Glad」(3)が視聴できます。
スポンサーの「大学ミオピン目薬
」のテロップが時代を感じる
ゴーゴーガールたちはクレオパトラ党と比べるとイモだなあ。
ズームで画面を揺らす演出、当時はこれがナウ(死語)だったのか?




小学生だった矢野顕子はカップスの追っかけで新宿ACBに見に行った。
態度の悪さが好きだったという。
子供心に「長い髪の少女」を聴いた時はなんか違う〜と思ったそうだ。


チャーは豊島園など遊園地で行われるカップスのショーを見に行った。
当時は小学生で親の同伴がないとジャズ喫茶やクラブには入れない。
後にチャーはカップスがクリームのI'm So Gladやツェッペリンの
Communication Breakdownをカヴァーしてるのに驚いたそうだ。

チャーはカップスをヤバイ先輩たちと評し、カップスのメンバーも彼を
チャー坊と可愛がった。

カップス解散後、渡米していたルイズルイス加部をチャーは熱心に口説き、
ジョニールイス&チャー(後にピンク・クラウドに改名)を結成。(4)



16歳でカップスのボーヤ(ローディー)に志願した土屋昌巳は、レコード
で聴くツェッペリンのCommunication Breakdownよりカップスが目の
前で演奏する同曲の方がリアリティーがあった、と言ってる。




クリックするとカップスのCommunication Break Downが聴けます。
(1969年10月 東京渋谷公会堂でのライブ)



故・忌野清志郎も日本一好きなバンドと評していた。

同じGS界の人気グループ、テンプターズ(5)で活躍していた故・萩原健一
は自由奔放に活動しているカップスをうらやましく思っていたそうだ。



ゴールデンカップスは奔放で自由。不良のままだった。
芸能界の決まり事とか制約なんて、俺たちの知ったことか!と。




それゆえ、ありえないような武勇伝や素っ頓狂なエピソードも多い。



ステージでの態度が悪い。ふてぶてしい。笑顔も愛想もない。
歌謡曲の世界では当然のファン・サービスへの反骨心を見せていた。
これはハマっ子気質もあるのだろう。東京に媚びるのは嫌という。

ルイズルイス加部にいたってはアンプに腰掛けて弾いたり、アンプに
もたれかかって、かったるそうに弾いてた。




◆当時GSはミリタリールック(6)、王子様キャラのフリフリ袖の制服、
もしくはスーツがお約束だった。
カップスはステージはもちろん、テレビ出演時も揃いの衣装ではなく、
めいめいが好きな服を着ていた。



◆とにかく集まらない。ちゃんと来ない。
誰かメンバーが欠けたまま、演奏するのは日常茶飯事だった。


◆ボーカルのデイヴ平尾とドラムスのマモル・マヌーしか集まらず、
2人だけでステージに上がったこともあった。
さすがにバカバカしくなったデイヴが帰ろうとすると、ステージの袖
でマネージャーが泣きそうな顔で両手を合わせてお願いしてる。
人のいいデイヴは仕方なくステージに戻りまた歌い出す。




◆時間になってもメンバー全員が会場に現れないこともあった。
「ゴールデンカップスのみなさんはXXXXにお集まりください」と
アナウンスを流すと、女性ファンがキャーとそこに押し寄せ大混乱。


◆当時、月刊明星の正月号では若手歌手の集合写真のグラビアが
恒例になっていた。女性は振袖、GSは揃いの制服。

下の写真を見て欲しい。
カップスだけが全員、普段服で寝起きみたいな顔をしている。
マネージャーがメンバー全員の家を回って叩き起こして車に乗せ、
やっと撮影に間に合いました、というのがバレバレだ。





GS界の異端児、反逆児であったカップスだが、そもそもGSという
カテゴリーで捉えるべきではないかもしれない。

僕もカップスの代表曲といえば「長い髪の少女」を思い浮かべる。
でも好きじゃない。「本牧ブルース」の方がましかな。
この人たちが他のGSのような歌謡曲を歌ってもあまり面白くない。


カップスはGSではなく日本初のロック・バンドだったと思う。
日本人がまだ知らない洋楽ロック、白人ブルースを聴かせてくれる
本格的なライヴ・バンドだった。
それは本牧が最もアメリカに近かったことが影響しているだろう。




ゴールデンカップスを聴いてみようかな?と思う方へ。

ベスト盤はやめた方がいい。
聴くなら、ライヴ盤を聴くべし!

なぜなら、
1)カップスのパワフルな演奏はライヴでしか味わえない。
2)ライヴでは彼らの本領である洋楽ロックが聴ける。
3)カップス全盛期のステージの熱気が伝わるから。



カップスは3枚のライヴ盤を残している。
いずれも廃盤なので中古を探すか、MP3ダウンロードするしかない。

個人的には最初に挙げるスーパー・ライヴ・セッションがお薦め。
オリジナル・メンバーによるカヴァー曲が堪能できる。



スーパー・ライヴ・セッション(1969年4月 横浜ゼンでの実況盤)
最後のZen Bluesはケネス伊東がボーカルをとるオリジナル曲。
この曲だけ陳信輝がギター、柳ジョージがベースで参加。
それ以外はオリジナル・メンバーによる洋楽のカヴァー。
クリーム、バターフィールドBBなど、白人ブルースの選曲中心。
ミッキー吉野のハモンド・オルガンも聴きどころの一つ。



クリックすると収録曲のBorn Under The Bad Sign(8)が聴けます。
ちなみにジャケットのサイケなイラストはルイズルイス加部が描いた



ゴールデン・カップス・リサイタル (1969年10月 東京渋谷公会堂)
A面はシングルの歌謡曲中心。ダン池田&ニューブリードが入っている。
B面はクリーム、ツェッペリン、ザ・バンド、ベックなどのカヴァー。
エディ藩とケネス伊東が脱退。ルイズルイス加部がギターに転向。
林恵文がベースで参加している。
藩のブルース色が薄れ、加部好みのブリティッシュ・ロック寄り。
一方でザ・バンドのThe Weight(9)もカヴァーしている。



↑クリックすると収録曲のThe Weightが聴けます。



ライヴ!! ザ・ゴールデン・カップス(1971年10月発売)
カップス最後のメンバー構成によるラストアルバム。
ミッキー吉野脱退後、ジョン山崎がエレクトリック・ピアノで参加。
エディ藩が復活。マモル・マヌーの後任でアイ高野がドラムス。
ルイズルイス加部が脱退。柳ジョージがベースで参加。
R&B色は払拭され、アメリカン・ロック中心のカヴァーが多い。
かと思うとナンタケット・スレイライドなんてやってるし。
内容はいまいちかな。オリジナル・メンバーじゃない時点で残念。





今回の記事を書くために「ザ・ゴールデン・カップス ワンモアタイム」
という2004年の映画をざっと見直してみた。既に16年も経っている。
この映画ではデイヴ平尾、マモル・マヌー、ルイズルイス加部、後から
参加した柳ジョージ、アイ高野もまだ健在である。

インタビューを受けているショーケン、裕也さん、かまやつさん、
井上堯之、清志郎も既に故人となっている。





米軍ハウスはなくなり、本牧はアメリカに近い街ではなくなった
バブル期にできたマイカル本牧(10)も今では廃墟と化している。



2005年に久しぶりで元町と中華街に行ってみた。
行きつけの寿園で牛バラ蕎麦とピータンに舌鼓を打ったのだが、
その翌年に鴻昌が閉店したとことは知らなかった。
若者向け新業態の店が増え、老舗は苦戦を強いられてたらしい。




エディ藩は自ら肉切り包丁を握り、レジも自分でやり、暇な時は店内
で新聞を読んでいたそうである。
カップスのメンバーが集まりOB会をやることもあったようだ。

店を畳んだエディ藩は、残りの人生を音楽にと活動を再開。
昨年秋に予定していたライヴは心臓疾患で入院のため中止したらしい。



オリジナルメンバーで残ってるのはエディ藩、一人だけになってしまった。
そして後から加入したミッキー吉野。
しかし伝説のバンドは語り継がれて行くだろう。




<脚注>