2016年2月26日金曜日

ハートブレイクなんてへっちゃら。

「ハートブレイクなんてへっちゃら」というラジオ番組を作りたいと思っていた。
片岡義男氏の短編のタイトルが気に入っていたからである。(1)

リスナーから寄せられた失恋のエピソードを紹介しながら曲をかける。
ティーンエイジャーのケア用品やチョコレートのクライアント向きだと思う。


片岡義男さんに別な仕事でお会いした時にその話をしたら、彼はおだやかに笑み
を浮かべながら「そうですか」と言っていた。

いつかと暖めていたアイディアだが、残念ながらその機会は訪れなかった。




ビージーズの「How Can You Mend A Broken Heart」は1971年8月に発売され、
彼ら初の全米No.1ヒットとなった曲である。


邦題は「傷心の日々」。歌詞の内容からすればうまく日本語に収めたと思う。
しかし。演歌っぽいノリというかジメジメした私小説っぽいイメージがする。

バラードとはいえロックでしょ、この曲は。
ハートが壊れちゃった、みたいな感覚でもいいんじゃないかと思うけど。





↑壊れたハートをクリックすると曲が聴けます。




How Can You Mend A Broken Heart

(Robin Hugh Gibb - Barry Alan Gibb  対訳:イエロードッグ)


I can think of younger days when living for my life 
Was everything a man could want to do. 
I could never see tomorrow, but I was never told about the sorrow 
若かった頃を思い出すよ やりたいことが何でもやれた満ち足りた日々
明日のことは分からなくても 悲しみがどういうものか知らずに済んだ

And how can you mend a broken heart?  
How can you stop the rain from falling down?  
How can you stop the sun from shining?  
What makes the world go round? (2) 
壊れちゃったハートはどうすれば癒せるのかな?
降りしきる雨をどうやって止ませよう?
まぶしぎる太陽をどうやって隠そう?
なぜ地球は周り続けることができるんだろうね? 

How can you mend a this broken man?  
How can a loser ever win?  
Please help me mend my broken heart and let me live again 
心が折れちゃった僕はどうしたら立ち直れるんだろう?
負け犬は這い上がることはできないのかな?
誰か助けてくれないか ずたずたに壊れた僕のハートを癒してくれ
もう一度自分を取り戻したいんだ

I can still feel the breeze that rustles through the trees 
And misty memories of days gone by 
We could never see tomorrow, no one said a word about the sorrow 
木々をかさかさ言わせるそよ風を今でも肌で感じるよ
そして過ぎ去った日々のぼんやりした思い出たちもね
僕らは若く明日を考える必要がなく みんな悲しみとは無縁だった

And how can you mend a broken heart?  
How can you stop the rain from falling down?  
How can you stop the sun from shining?  
What makes the world go round?  
壊れちゃったハートはどうすれば癒せるのかな?
降りしきる雨をどうやって止ませよう?
まぶしぎる太陽をどうやって隠そう?
なぜ地球は周り続けることができるんだろうね?



最初のヴァースはロビン、コーラスのHow can you〜からバリーが歌う。
二人は声質が似ているがロビンの繊細でどこか折れてしまいそうな声に対して、
バリーは包容力のある温かい声だ。

三兄弟で最もハンサム(3)なバリーがAnd(Hah〜とため息のように)歌い出す
女の子たちがキャーと歓声をあげるのがお約束だった。






↑ビージーズ初来日のパンフレット。
クリックすると1972年武道館での演奏(これは貴重!)が観られます。
片耳を手で覆いながら歌うロビンに鶴田浩二か!とツッコミ入れたっけ(笑)




実はこの曲がアメリカでヒットしてる頃、日本ではぜんぜん違うビージーズの
曲が売れていた。
その曲というのは「Melody Fair(邦題:メロディ・フェア)」である。

この曲は彼らの4作目のアルバム「Odessay」(1969年発表)に収録されてい
たが、シングルカットはされていない。



日本で「メロディ・フェア」がシングルリリースされたのは2年後の1971年6月
10日で、映画「小さな恋のメロディ(Melody)」(4)の公開(6月26日)に合わ
せての発売であった。

映画「小さな恋のメロディ」はイギリス、アメリカではさんざんな結果に終わっ
たものの、日本では大ヒットした。
そして「メロディ・フェア」もオリコン・チャート3位の大ヒットとなった。








1971年夏の日米ヒットチャートを比べてみよう。
当時の空気を思い出す方も多いのではないだろうか。


◆ビルボード週間 TOP10 (1971年8月28日付)
1. How Can You Mend A Broken Heart  -  Bee Gees 
2. Take Me Home, Country Roads - John Denver 
3. Signs - Five Man Electrical Band 
4. Mercy Mercy Me - Marvin Gaye 
5. Mr. Big Stuff - Jean Knight 
6. Sweet Hitch-Hiker - Creedence Clearwater Revival 
7. Liar - Three Dog Night 
8. Smiling Faces Sometimes  - Undisputed Truth 
9. Spanish Harlem - Aretha Franklin 
10. Go Away Little Girl - Donny Osmond 

◆オリコン週間シングル・チャート(1971年8月30日付
1.わたしの城下町 /小柳ルミ子
(7月26日〜10月11日まで12週連続一位を記録する大ヒットだった)
2. 17才/南沙織  
3. 小さな恋のメロディ/ビージーズ
4. さらば恋人/ 堺正章 
5. さよならをもう一度 /尾崎紀世彦  
6. サマー・クリエイション/ジョーン・シェパード 
7. 昨日・今日・明日/井上順之
8. よこはま・たそがれ/五木ひろし 
9. 男/ 鶴田浩二 
10. バタフライ/ダニエル・ジェラール 



ビージーズが1972年3月に初来日した際、「メロディ・フェア」を歌うよう
主催者側が頼むとバリー・ギブは最初難色を示したそうである。
日本だけの局地的ヒットでライブでの演奏曲リストにはなかったようだ。

しかしビージーズはちゃんと「メロディ・フェア」をやってくれた。
バリー・ギブがオープンDチューニングで弾いてるのもテレビ放映でしっかり
確認でき、あの響きはそういうことだったのかと納得した憶えがある。



「メロディ・フェア」のB面は「First of May(邦題:若葉のころ)」だった。
2年前に「Odessay」からシングルA面としてイギリスと日本で既に発売され
ている(5)のだが、「メロディ・フェア」と同じく映画「小さな恋のメロディ」
挿入歌だったため、日本ではカップリング曲に選ばれたのだろう。

この曲も日本では根強い人気だ。何回かリバイバル・ヒットしている。(6)
ちなみに原題「First of May」はバリー・ギブの愛犬バーナビーの誕生日が
5月1日だったからだとか。




↑バリーと愛犬バーナビーの写真をクリックすると「若葉のころ」が聴けます。


2016年2月20日土曜日

スマイル・フォー・ミーの謎。

ビージーズがデビューした1967年。
日本ではグループ・サウンズ(1)が大流行していた。
そのほとんどがレコード会社と所属事務所の意向で王子さまキャラに仕立てられて、
乙女チックな歌謡ポップスを歌っていた。

しかしライブでは自分たちのヒット曲だけでなく洋楽もカバーすることが多かった。
ストーンズ、ヴァニラファッジ、ウォーカーブラザーズ、アニマルズなど。
持ち歌がまだ少ないせいもあるだろうし、ステージでは自分たちが好きな曲をやって
もいいという自由裁量の部分もあったと思う。


中でもビージーズのナンバーを得意としていたのがタイガースである。
「ニューヨーク炭鉱の悲劇」「ホリデイ」「ジョーク」など。(2)
加橋かつみのレパートリーで彼の繊細な高音はビージーズの曲との相性がよかった。


そんな背景からか、また同じポリドール・レコード所属という縁もあってか、集英
社の音楽雑誌ヤング・ミュージック1968年4月号の企画でビージーズとタイガース
のメンバー同士による電話対談が行われた。

これをきっかけにバリー・ギブ/モーリス・ギブによる書き下ろし曲をタイガース
がレコーディングする、というプロジェクトに発展する。



1969年5月29日ロンドンのポリドール・スタジオで「スマイル・フォー・ミー」と
「淋しい雨(Rain Falls On The Lonely)」(3)の2曲がレコーディングされた。
(すでに録音されたバッキング・トラックにヴォーカルとコーラスを入れるだけ)




↑写真をクリックするとタイガースの「スマイル・フォー・ミー」が聴けます。


「スマイル・フォー・ミー」は最後のヴァースで半音上がって転調するのだが、
リフレインされる「For Me」が沢田研二にはキーが高すぎた。
この時点でオケを録り直すわけにもいかない。

沢田研二より音域が高い加橋かつみはすでに脱退していた。
思わぬトラブルにスタッフもタイガースも途方にくれる。

たまたま渡辺美佐副社長と一緒にヨーロッパ旅行の途中ロンドンに立ち寄り、スタ
ジオに見学に来ていた中尾ミエに最後のリフレインだけ一緒に歌ってもらう、とい
う方法でなんとか処理した。(4)


そもそもなぜ歌い手の声域より高いキーで作曲してオケまで作ってしまったのか?


この曲は本当はビージーズを得意とする加橋かつみが歌うことになっていて、バリ
ー・ギブは加橋のキーに合わせて作曲したのではないだろうか?
そしてアレンジャーは加橋のキーに合わせて転調を施したのではないだろうか?


タイガースの録音とバリー・ギブが歌ったデモ・テープはキーが同じである。
バリー・ギブ版ではキーの転調もないし、最後の「For Me」の歌い回しも違う。
しかし、デモを聴くとますます加橋かつみのイメージに近いように思える。(5)

↑譜面をクリックするとバリー・ギブの「スマイル・フォー・ミー」が聴けます。
 (最初の方は音が悪くて聴きづらいです)



加橋かつみ失踪が1969年3月5日。(3日後には除名が発表された)(6)
ヤング・ミュージックの電話対談の時はまだ加橋かつみも在籍して、作曲について
かなり突っ込んだ質問している。

ギブ兄弟に曲の提供を依頼した段階で彼はまだいたはずだ。
ビージーズを得意とする自分が歌いたいと主張もしていたとしてもおかしくない。

さらに深読みすると、一年前から脱退を口にしていた加橋への懐柔策(7)の一つと
して「スマイル・フォー・ミー」を彼に歌わせようと用意していたとも思える。



タイガース通算10作目のシングル「スマイル・フォー・ミー」は1969年7月25日に
発売され、ビージーズからプレゼントされた曲でロンドン録音という話題性もあり、
オリコン3位を記録するヒットになった。

その直前の1969年7月12日にタイガース主演映画3作目「ハーイ!ロンドン」(東宝)
が公開された。
5月29日からのロンドン滞在は「スマイル・フォー・ミー」のレコーディングとこの
映画のロケを兼ねてのものだった。





前宣伝では「タイガースとビージーズが共演」ということだった。
となると映画では両者が一緒に演奏しているシーンが見られるかもしれない、レコ
ーディングにバリー・ギブが立ち会うなんていうシーンもあるかもしれない。
期待は高まる。

しかし実際は沢田研二がバリー・ギブを訪ねて行き握手する、という5秒くらいの
カットが入っているだけであった。
おまけに映画はつまらなかった(と僕は思った)
同時上映の「ニュージーランドの若大将」(8)の方がまだましだった。



タイガースは1971年1月に日本武道館のコンサートをもって解散した。
ビージーズは1972年3月に初来日。渋谷公会堂、日本武道館でコンサートを行う。(9)

ロビン・ギブが電話対談で沢田研二に約束した「もし日本に行けたら一緒の舞台で
共演しよう」は実現しなかった。


加橋かつみがタイガース在籍時にレパートリーにしていた「ホリデイ」「ジョーク」
は代わりに入った岸辺シローが歌っていた。
沢田研二はタイガース解散後に結成したPYGのライブで初めてビージーズのカバー
「トゥ・ラヴ・サムバディ」を歌う(10)ことになる。

2016年2月15日月曜日

ミスター・ジョーンズを探して。

空気を節約するためにカンテラが吹き消され、あたりは漆黒の闇に覆われた。
抗夫たちは闇の中で身を寄せあい、耳を澄ませ、ただひとつの音が聞こえて
くるのを待っていた。つるはしの音だ。

         「ニューヨーク炭鉱の悲劇」村上春樹著(1981年)より



村上春樹氏はビージーズの楽曲「New York Mining Disaster 1941」(邦題:
ニューヨーク炭鉱の悲劇)の歌詞にひかれて同名の短編を書いたそうだ。(1)
エピグラフに歌詞の一節が引用されている。


ビージーズは長兄のバリー・ギブ、二卵性双生児のロビンとモーリスの三兄
弟を中心としたイギリス出身のグループである。(2)
移住先のオーストラリアで人気が出るが、これに着目したのがビートルズの
マネージャー、ブライアン・エプスタインである。
エプスタインは自分が経営するNEMSエンタープライズのロバート・スティグ
ウッド(3)をオーストラリアへ赴かせビージーズと契約。


ポリドール・レコードからのデビュー曲(1967年)が「New York Mining 
Disaster 1941」(邦題:ニューヨーク炭鉱の悲劇)だ。

落盤事故で坑内に閉じ込められた炭鉱夫が救出を待ちながら地上の音に聞き耳
を立てている様子、そして絶望的な思いを美しいメロディで歌っている。



バリーとロビンはポリドールのスタジオの暗がりで曲作りに悩んでいた。
その前年イギリスのウェールズ地方で実際に起きた炭鉱の土砂崩れによる大惨
(4)を思い出し、自分たちも炭鉱の中に閉じ込められていることを想像しなが
ら書き上げたそうだ。

実際にはニューヨークに炭鉱はない。
タイトル最後の1941はちょうど世界的に炭鉱ブームだった年代である。




1966年10月22日イギリスの炭鉱町 アバーファンで起きた土砂崩れ事故
写真をクリックするとYouTubeで曲が聴けます。



New York Mining Disaster 1941(ニューヨーク炭鉱の悲劇)

         Barry Gibb - Robin Gibb (対訳:イエロードッグ)

In the event of something happening to me,  
there is something I would like you all to see.  
It's just a photograph of someone that I knew.  
私に身に万一のことがあった時のために 
あんたに見ておいてもらいたいものがあるんです
いやね、身内の写真なんですよ

Have you seen my wife, Mr. Jones?  
Do you know what it's like on the outside?  
Don't go talking too loud, you'll cause a landslide, Mr. Jones.  
ジョーンズさん、あんた私の妻をご存知でしたっけ?
外はどんな様子なんですかね?
あまり大声を出さないようにしなきゃ 
土砂崩れが起きますからね ジョーンズさん

I keep straining my ears to hear a sound.  
Maybe someone is digging underground,  
or have they given up and all gone home to bed,   
thinking those who once existed must be dead?   
何か聞こえないか耳を澄ましているんですよ 
誰か地下まで掘り進んでるかもしれないぞってね
それとも みんなあきらめて家に帰って寝ちまったのかな
生き埋めになった連中はどうせ死んじまってるだろうって




歌詞の中で気になったことがある。

ミスター・ジョーンズというのは誰のことなのだろう?



調べたところ「一緒に生き埋めになった同僚」という解釈がほとんどである。
しかし炭鉱夫が同僚をミスター・ジョーンズなどと呼ぶだろうか?

ミスター・ジョーンズは雇用側なのではないか。
この炭鉱夫は近くにいる同僚に語りかけているのではなく、その場にいない
会社のマネジメントの立場にある人に絶望的な思いをぶつけているのでは?


僕はそういう解釈で訳してみた。
Have you seen my wife?は同僚に妻を見かけなかったか尋ねてるのではなく、
ジョーンズ氏に「私にも大切な妻がいるんですよ」と言いたいのだと思う。



この曲の2年前(1965年)ボブ・ディランの「Ballad Of A Thin Man」(邦題
:やせっぽちのバラッド)(5)でもミスター・ジョーンズと歌われている。


Because something is happening here 
But you don't know what it is Do you, Mister Jones?
だってここじゃ何かが起こってるんだぜ
けど、あんたはそれが何だかわかっていないときた だろ?ジョーンズさん


このミスター・ジョーンズは「本質が分かっていない、見ようとしない体制
側にいる人間、あるいは体制そのもの」の代名詞だと言われている。(6)




1968年ビートルズのホワイト・アルバムに収録された「Yer Blues」(7)では
ジョン・レノンがこう歌っている。


I feel so suicidal just like Dylan's Mr.Jones 
自殺してしまいたい気分だよ ディランのミスター・ジョーンズみたいにね



ビージーズが「ニューヨーク炭鉱の悲劇」を歌った1967年は、アメリカを発端
に反体制を掲げた一大ムーヴメントが起こった時期である。(8)
そしてボブ・ディラン、PP&M、ジョン・セバスチャン、ジョーン・バエズ、
ピート・シーガーらのプロテストソングが大衆の心を捉えていた。


ビージーズのデビュー・シングルを美しいメロディーとハーモニーだけでなく、
社会的メッセージを込めた内容の歌にしたのは、こうした時代性を鑑みてのこと
ではないだろうか。

またイギリス、アメリカという市場を見据えた時、労働者階級にフレンドリーな
イメージ(9)の方が大衆に受け入れられる、というNEMSとポリドールの戦略だっ
た。。。。というのは考えすぎだろうか。


※タイトルは「ミスター・グッドバーを探して」(10)のもじりです。
次回もビージーズについて。

2016年2月10日水曜日

ギター女子。<海外編>

シェリル・クロウのギターへのこだわりはすごい。
特にテレキャスターはお気に入りのようで何本も所有している。
キャンディーアップル・レッドの他、ブラック、クリーム、スカイブルー、
トリコロール、サンバーストにホワイト・バインディングの1959年カスタム。



アコースティック・ギターはギブソンのドレッドノート派。
Sheryl Crow Signature Country Westernは彼女が所有する1962年製 Country 
Westernをベースに作られたリイシュー・モデル。
発売時はPUがFishmanだったが近年はL.R. Baggsに変更されている。



Sheryl Crow Southern Jumbo Special Editionはトップに希少材のアディロン
ダック・レッド・スプルースを仕様、ワイド・ブレイシングを採用するなど、
ダイナミックな鳴りを実現している。
最新のコンタクト型PU、Trance Audio Amulet Pickup Systemを搭載。
音にこだわるシェリル・クロウならではの設計だ。



シェリル・クロウはベースを弾きながら歌うことも多くこれがまたカッコイイ。
‘70年代のギルド M-85 II、1965年製エピフォン Embassy Deluxe Bass、
1954年製 Kay Pro Bass Model K162、ミュージックマン Stingray Bass。
アメリカ人女性としては小柄なのに大きなベースを抱えても違和感ない。
↑写真をクリックするとシェリル・クロウがベースを弾きながら歌っている
「The First Cut Is The Deepest」が見られます。




次はテイラー・スウィフト。
赤いバンダナ柄にペイントされたレスポールがよく似合う。
マイクまでコーディネイトしてます(笑)




名前のせいかアコースティックはもっぱらテイラー。
木目の美しいコアウッドに他、サンバースト、レッド、スパンコールと何本か
愛用している。エンドースメント契約をしているのだろう。










ノラ・ジョーンズもギター・コレクターのようだ。
よく見かけるのがフェンダー・マスタングのレッド。
ロゴから察するに1965年頃ではないかと思う。



1960年代後半?のジャズマスターも使用している。


ギブソンのSG。これも1960年代後半でPUが1つだけのタイプ。



これはギブソンのES-125 3/4というショートスケールのフルアコ。
ドッグイヤーのP-90を1つ搭載している。1950年代のモデルでレア。
ナチュラル・フィニッシュは初めて見た。
(ES-125 3/4もリイシューが出たら欲しいギターです)




アコースティックはギブソンの1960年代のJ-50。
この写真ではFishmanのレアアースをサウンドホールに付けているが、他に
L.R.Baggs M80を付けている写真もあった。
この他J-45のリシュー、ヴィンテージのハミングバードも愛用している。






4人目、スザンヌ・ヴェガ。テイラーの愛器は514ce。
トップがシダー、バック&サイドがマホガニーで温かく明るい音でよく鳴る。




これはサンタ・クルーズ。OMサイズに見えるがモデル名は不明。
この他マーティンの000-42(たぶんリイシュー)を弾いてる写真もあった。






最後はジャニス・イアン。ずいぶん時が経ったんだなあ、としみじみ思う。
1990年代にサンタ・クルーズから発売されたJanis Ianシグネチャー・モデル。
パーラー・サイズで当初はブラックのみだったが後からナチュラルも出た。
この写真ではブラックを弾きナチュラルの方をサブ・ギターとしている。




Love Is Blindの頃使用していた1900年代のマーティン0-28(左)
ジャニスが弾いてるのは1998年にマーティンが彼女のために作った5サイズ
(3/4サイズ)のプロトタイプ。
右に見えるのがアメリカを代表するギター・ルシアー、ケヴィン・ライアン
がジャニス・イアンのために作ったパーラー・ギター。
お値段は約200万円だそうです(汗)




この他、エミルー・ハリスのGibson J-200、ドリーパートンのMartin 00-21、
ボニー・レイットのGibson ES-175、ジョーン・バエズのMartin 000-42、
ジョニ・ミッチェルのMartin D-28と挙げ出すとキリがないのでこの辺で(笑)

2016年2月6日土曜日

ギター女子。<国内篇>

ギターが似合う女子ってとてもステキだと思う。



まず、さや姉(山本彩)のギターがカッコよすぎる件。

PRS(ポール・リード・スミス)のスカーレット・レッドの美しいギター。
オリエンティモデルではなくてPUが白黒のSE Custom。
8万円くらいの廉価版。2012年4月に購入したとのこと。
こういうギターを選んじゃうセンス、ただものじゃないです。


2015年10月にギブソンのショールームを訪れて入手した(買ったのかもらった
か不明)という虎目のレスポール・スタンダード。これまたキマッてます。
トグルスイッチをテープで固定しているのに注目。リアPUしか使わないのかな?
アンプは鉄板のマーシャル。



アコースティックはVGのKTR-45E(Gibson J-45のコピー)、ヤイリのWY-1 N
とこれまた10万円クラスの堅実なモデルを愛用している。




レスポールと一緒にギブソン訪問で入手したという新しいドレッドノートJ-29。
ギブソンにしては珍しいサイド&バックがローズウッドのラウンドショルダー。
ってことは重いはずだけどだいじょうぶ?
昨年の紅白で使用したらしい(見てないけど)。
ギブソンのPUはFishmanが標準だったがこれはL.R. Baggs ELEMENTを搭載。





次は木村カエラ。
デビューした頃のキャンディーアップル・レッドのテレキャスターが似合ってた。
フェンダー・ジャパン製だろう。
テレキャスやストラトって身長175〜185cmのガタイのいい人が持つこと前提に
設計されてるんだよね。
でも小柄な彼女が抱えてもすごくサマになっている。



こちらはタバコ・サンバースト+メイプルネックのテレ。
脚線美で写真を選んだわけじゃありません(笑)



フェンダー・スクワイア製サイクロンもイエローとブルーを持ってるらしい。




三番目は山本潤子さん。なぜか?さん付けになっちゃいます(笑)

ソロに転向する際、ギターを抱えて歌う自分をイメージしたとか。
そんな彼女が選んだのは’50年代のギブソンのCF-100。
サウンドホールにマグネットPU(L.R.Baggs M80)を付けている。
僕は2016年にこのギターを弾きながら歌う潤子さんを前から2列目で見た。
(余談だけど僕はP-90搭載のCF-100Eが欲しい)



マーティンの0-15(オール・マホガニー)。これも1950年代のものか。


これもマーティン。000-42のカスタムオーダーかな?



次回は海外編です。

2016年2月1日月曜日

40高中。

僕が最初に勤めた会社の本社ビル1Fにはレコーディング・スタジオがあった。
仕事にかこつけては入り浸ってエンジニアと雑談したり遊んでいたものだ。


一度スタジオの前のベンチでスタンバってた高中正義に「ストラトとヤマハの
SG(1)はどう使い分けてるんですか?」と質問したことがある。

彼は間をおいてから頭の後で両手を組み、足元の大きなジュラルミン・ケース
を顎で指しながら「これくらいかますと何使っても同じだよね」と言いながら、
へへへと笑った。


ジュラルミン製トランクの中にはMXRのダイナコンプ(2)、ディストーション、
フェーザー、オートワウ、フランジャー、BOSSのコーラスアンサンブルCE-1
(3)、Goodrichのボリュームペダルなどエフェクターがぎっしり配されていた。

高中はリー・リトナーのエフェクター・ボックスを真似して作ったそうだ。
少し前にリー・リトナーのコンサートに行ったが、確かに同じようなジュラ
ルミン製トランクが足元にあって足先でオンオフしていた。

今ならそれだけの機能すべてにアンプ・シミュレーターまで付いたものが手の
ひらにすっぽり収まる大きさになる、あるいは PCのDTM(4)ソフトに付い
いる。しかし時は1979年。まだアナログの時代だ。







会社の先輩によると、高中本人は「ラリー・カールトンを師と仰いでいる」
と言ってたそうだ。
プレイヤーだったかギター・マガジンだかには「今の演奏スタイルはカルロス
・サンタナに触発されて」という 高中正義のインタビュー記事が載っていた。

要するにいろいろ影響を受けてるわけね。(^_^)



高中正義はフライドエッグ、サディスティック・ミカ・バンド、サディステ
ィックスを経て1976年からソロ活動を始める。
ちょうどブームになりつつあったフュージョン(5)、トロピカル・ブーム、
ディスコを取り入れギター・インストゥルメンタルで支持層を広げた。(6)

1979年の「BLUE LAGOON」のヒット。
1981年コンセプトアルバム「虹伝説 THE RAINBOW GOBLINS」とそれを
モチーフにした日本武道館コンサートで高中人気は頂点を迎える。



個人的には高中正義のペンタトニック(7)を一気に駆け上がるような几帳面な
フレーズはあまり好きではない。
しかし彼の楽曲やアレンジのセンスの良さは抜群だと思う。

高中はギタリストであるがアイディア・マンでもあったようだ。
「マンボNo.5」のディスコ・アレンジ、「スターウォーズ」のサンバ・アレ
ンジも、真っ赤なスーツにオールバックのジャケット写真も彼のアイディア。
ブルーのヤマハSG-2000も高中の特注で彼のトレードマークになった。


「虹伝説」はたまたま彼が見つけたイタリアの画家ウル・デ・リコの絵本「虹
伝説」からインスピレーションを得たそうである。
武道館の虹伝説コンサートではステージ全体がゴブリンたちが住む大きな岩場
に見立てて作られ、バンドは色とりどりのマントを羽織って演奏していた。

虹色に染めた髪をオールバックにした高中正義は上田馬之助のようだった(笑)
僕は関係者としてステージの後から見ていたのだが、この日のバンド(8)のパフ
ォーマンスはすばらしく武道館の盛り上がり方は半端じゃなかった。




↑左:高中正義、右:上田馬之助



僕にとっての高中正義の最高傑作はその人気絶頂期の4年前。
1977年にリリースした彼の3rd.アルバム「In Satiable High」である。

このアルバムは日本のフュージョン史に残る名盤4枚の一つだと思っている。
(あとの3枚は、カリフォルニア・シャワー/渡辺貞夫、セイリング・ワンダー
/増尾好秋、ザ・ウィンド・ウィスパーズ/松岡直也&ウィシング)



「In Satiable High」はLAのララビー・スタジオで録音された。
まず参加メンバーがすごいのなんのって。

Guitar : Lee Ritenor 
Drums : Harvey Mason 、Ed Green、村上“ポンタ”秀一
Bass : Aberaham Laboriel、Chuck Rainey
Keyboards : Patrice Rushen、深町純
Percussion : Steve Forman、Paulinho Da Costa、浜口茂外
Horns : Tower Of Power Horns


アメリカと日本のフュージョン界の強者が結集しているのだ。
リー・リトナー、ハービー・メイスン、パトリース・ラッシェン、エイブラハム
・ラボリエルはジャントル・ソウツの第2期メンバー(9)が総揃い。
チャック・レイニー、ポリーニョ・ダ・コスタ、タワー・オブ・パワー、村上
“ポンタ”秀一(10)も参加している。




 ↑ジャケット写真をクリックするとAmazonで試聴できます。


リー・リトナーの小気味いいコード・カッティングをバックに高中はのびのびと
ソロを取っている。
これを聴くとリーのバッキングの上手さにはつくづく感心させられる。
高中はリーとの共演をきっかけにエフェクター・ボックスを作ったのだろう。


1曲目の「Sexy Dance」はバラエティー番組のBGMでも使われるノリのいい曲。

次の「Malibu」はこのアルバムの中でも出色の出来。
エイブラハム・ラボリエル(11)のゴリゴリしたベースとリー・リトナーお得意の
ワウを使ったワカチョ〜ンで始まり、続いて入るパトリース・ラッシェン(12)
奏でるフェンダー・ローズの美しさは最大の聴きどころ。

タイトル曲「In Satiable High」は疾走感が心地よい。
リーvs.高中のギター・バトルも堪能できる。
高中のストラトのシングルコイルならではの抜けのいい音と、リーのES-335の
セミアコ+ハムバッカー特有のウォームでファットな音が対照的でいい。


エイブラハム・ラボリエルのブンブンうなるベースに続いてコーラスを効かせた
(たぶんリーの)ギターのリフが入り、タワー・オブ・パワーのホーンが絡む
「E.S.P.」も人気曲だ。



「ジャケットがいいアルバムは中身もいい」が僕の持論だ。逆もまた然り。
このアルバムもジャケットがいい。

どこまでもまっすぐの道路を走る高中選手。
昔よく見かけた「40高中」の道路標示(13)。「高中」にかけてるわけだ。
パースペクティブが効いた構図が気持ちいい。

でもこんな場所、日本にあるのか? それに右側通行じゃないの!
とジャケットの裏を見ると「40高中」は道路に布を貼り付けたものというシャレ。






ジャケットは有りポジ(14)使って社内のデザイン部でちゃちゃっと済まして極力
お金をかけないのが日本のレコード会社の常。
それがレコーディングのついでとはいえ海外ロケでちゃんとしたフォトグラファー
とデザイナーを起用するなんて、このアルバムにかけるキティー・レコードの
意気込みは大きかったのではないかと思う。

<脚注>