2016年1月26日火曜日

西海岸の光と翳。イーグルス

バンドはエゴのぶつかり合いである。
自分でもバンドをやった経験がある人なら分かるだろう。

意気投合して初めてもだんだんくい違いが出てきてぶつかるようになる。
頭にくる。誰かが誰かの不満を言う。もうやめよう。
しかしバンドを離れればまた友だちに戻れる。我々がアマチュアだからだ。

イーグルスはそうではなかった。
彼らは単なるバンドではなく巨額の利益が絡む音楽ビジネスだったのだ。





グレン・フライは1948年デトロイト生まれ。
デトロイトでバンド活動をしていたがロサンゼルスへ移り、J.D.サウザーや
ジャクソン・ブラウンと出会う。彼らは同じアパートに住んでいた。

グレンは階下に住むジャクソン・ブラウンが弾くピアノを聴きながら、作曲と
はどうやるものなのか学んだという。



J.D.サウザーの紹介でリンダ・ロンシュタットのバック・バンドを務めること
になるが、この時一緒だったドン・ヘンリーとバンド結成を思いつく。
ジャクソン・ブラウンが契約していたアサイラム・レコードに売り込んだが、
まだ無名の二人に社長のデヴィッド・ゲフィン(1)は難色を示した。

そこでブルーグラスのマルチプレーヤーであるバーニー・レドン、ポコ出身の
ランディー・マイズナーと実績のある二人を入れやっと契約にこぎつける。



初期のイーグルスはカントリー色の強いロックで、バーニー・レドンのギター、
マンドリン、バンジョー、ペダルスチールが音作りの要になっていた。



↑写真をクリックするとPeaceful Easy Feeling(BBC Live 1973)が見れます。



3枚目の「On The Border」で彼らは不満を抱いていたグリン・ジョンズ(2)
からビル・シムジク(3)へとプロデューサーを変更。
(その経緯については以前の投稿をご参照ください)
http://b-side-medley.blogspot.jp/2015/07/blog-post_24.html

バーニーの紹介で2曲参加してもらったギタリストのドン・フェルダーを正式
メンバーとして迎える。
フェルダーのハードでソリッドなプレイはバンドの音をぐっとタイトにした。



皮肉なことにドン・フェルダーを紹介したバーニーの居場所はだんだん無くなり、
バーニーはだんだんレコーディングをすっぽかし身が入らなくなる。
グレンとヘンリーはバーニーの曲にも不満を抱いていた。

バンドを仕切っていたグレン・フライとバーニーの仲は険悪になる。
ある日スタジオでバーニーはグレンの頭にビールをぶっかけて、そのまま出て
行ってしまった。



一方ランディーは毎回アンコールで「Take It To The Limit」の高音を歌うこと
にうんざりしていた。
グレンは「お客が期待してるから」といつもランディーをなだめて歌わせた。
しかしランディーはついに拒否。



↑写真をクリックするとLyin’ Eyes(Live 1977)が見れます。



実はイーグルスはバンド名だけでなくマネージャーのアーヴィング・エイゾフ
(4)が設立した会社イーグルス・リミテッドでもある。
収益は5人に平等に分配される取り決めになっていた。

グレンとの確執からバーニーとランディーが解雇。
残った3人で3等分するはずが、いつのまにかドン・フェルダーは貢献度が低い
という理由で取り分が少なくなっていた。



「イーグルスは民主主義じゃない。俺とドン(ヘンリー)が稼いでるんだから多い
のは当然だろ。文句があるならやめりゃいい」というのがグレンの言い分だ。


後から加わったティモシー・シュミット(5)とジョー・ウォルシュはメンバーで
あるものの会社には加わっていない。雇い人という扱いである。
そのせいか二人は「グレンとドン(ヘンリー)と一緒にやらせてもらってるだけ
で光栄」というスタンスだ。



ドン・フェルダーは音楽面でも不当に扱われていると弁護士を通じ主張。
「One Of These Nights」「Hotel California」での貢献(6)を評価してもらえな
い、自分の曲はアルバムに採用されない、ボーカルを取らせてもらえない、など。
後から加入した二人より地位が低いことも彼を苛立たせた。


↑写真をクリックするとOne Of These Nights(Live 1977)が見れます。



グレン に言わせれば「曲は使えないし、歌は基準点以下、Hotel Californiaも最初
にギターのパターンだけで曲にしたのはドン(ヘンリー)と俺」だ。

ドン・フェルダーとグレン の確執はどんどん大きくなる。
ステージで二人が「終わったらぶっ殺してやる」「お前こそ逃げるなよ」と激し
く罵り合っていたのもしっかり録音が残っている。



フェルダーと親しく息のあったツイン・リードギターを弾いていたジョー・ウォ
ルシュは立場が難しかったが、グレンとドン・ヘンリーに従うことにした。

双頭独裁体制だったグレンとドン・ヘンリーの間にも軋みが出始めた。
そして1980年に解散。



「Hotel California」の最後では、ホテルのボーイ長に自分の好みの銘柄のワイン
を注文するとこんな答えを返される。

We haven't had that spirit here since nineteen sixty nine
(そのようなお酒は1969年以来こちらには置いておりません)

spirit(7)は蒸留酒の意とスピリット(魂)の意を掛けているのは有名な話。
1969年のウッドストック・フェスティバル以降ロック界が商業至上主義になり
退廃して行ったことを揶揄しているのだ。
それは自嘲でもある。イーグルス自身もまた産業ロックの真っ只中で病んでいた。



↑写真をクリックするとThe Long Run(Studio 1979 )が見れます。



グレン・フライはビジネスライクでいささか傲慢であったかもしれない。
しかし巨大化した大鷲号(イーグルス)の舵取りをしていたのは彼である。
バンドの成功のためリーダーは時には冷徹な決断も下さなければならなかった。




イーグルス解散後すぐにグレン・フライはソロ活動を開始。
1985年には映画「ビバリーヒルズ・コップ」挿入歌「The Heat Is On」
とTVドラマ「マイアミ・バイス」(8)挿入歌「You Belong To The City」を
ヒットさせた。



イーグルスは1994年にMTVのライブを機に再結成。(9)
グレンはドン・フェルダーに電話して「お前の取り分はこれだけだ。不服なら
やらなくていい。24時間以内に連絡しろ」と一方的に伝えた。

ドン・フェルダーは参加しまた素晴らしい演奏を聴かせてくれた。
が、2000年にフェルダーは「バンドに貢献していない」と突然解雇される。
彼はこれを不服として訴訟を起こした。泥沼である。





しかしどんなに争い憎み合っていても、同じバンドでいい時期を過ごした仲間
というのは特別な存在なのではないだろうか。
ドン・フェルダーのグレン・フライ追悼の声明を読んでそう思った。



ドン・フェルダーによる声明は以下の通り。(長いので一部略しました)

「グレンの死が信じられず、ショックの状態にあります。(中略)
彼はとてつもなく才能に溢れたソングライターであり、アレンジャーであり、
リーダーであり、シンガーであり、ギタリストでした。
皆そう思ってるでしょうし、彼はそれに応えることができ、即座に“マジック”
を生み出すことができる人だったのです。(中略)」

「1974年にイーグルスに加入するように誘ってくれたのがグレンでした。
彼のすぐそばで長い間、一緒に仕事をして過ごすことができたのは人生の贈り物。
グレンは愉快で、強く、寛容で、優しい人でした。
兄弟のように感じていましたし兄弟のようだからこそ食い違うこともありました。
そういう難しい時でもなんとか僕らはマジカルな楽曲を作ることができましたし、
素晴らしいレコーディングやライヴを生み出すことができたのです。(中略)」

「グレンはバンドのジェームス・ディーンでした。
方向性を探している時のリーダーでしたし、バンドで最もクールな男でした。
僕らの問題に一緒に取り組んだり話したりできないと思うと大変悲しくなります。
悲しいことにもうその機会はないのですね。
この星は偉大な人を、偉大なミュージシャンを失いました。
誰も彼の代わりなんて務められないでしょう。安らかに、グレン。(中略)」


(参考資料:ザ・ヒストリー・オブ・イーグルス、レコード・コレクターズ、
 ドン・フェルダー自伝 天国と地獄 イーグルスという人生、NME JAPAN、   
 Wikipedia、他)


2016年1月20日水曜日

テキーラサンライズをもう一杯。(G・フライに捧ぐ)

大学2年の時バイト先の先輩から「アメリカのロックは聴かないの?」と訊かれた。
クイーン、ストーンズ、ピンクフロイドが好きだと僕が言ったからだ。

「だってアメリカのってなんかダサいじゃないですか」と僕が言うと、彼は珍しく
「そんなことはない」と語気を強めイーグルスの「One Of These Nights(呪われ
た夜」を聴かせてくれた。

本当だ!初めて聴いたイーグルスはめちゃくちゃカッコよかった。
それをきっけに僕は西海岸のロックにどっぷり浸かり始める。
ターンテーブルの上ではアサイラムのブルーのレーベルが回ってることが多かった。
オールスターやケッズのスニーカーにリーバイスの646を履くようになった。


だからグレン・フライの訃報を知った時、僕が過ごしたあの時代の何かがストンと
落っこちたような、何とも言えない気持ちになった。
彼の曲について何か書いてみよう。



最初に頭に浮かんだのが「Tequila Sunrise(テキーラ・サンライズ)」だ。
昔バンドでこの曲をやったからかもしれない。
その直感に従うことににした。




↑写真をクリックするとYouTubeで曲が聴けます。


グレン・フライらしい曲だと思う。
2枚目のアルバム「Desperado(ならず者)」収録曲でアメリカではシングル
カットもされた。
ハードロック色を強める以前のメキシカン・フレーバーあふれるカントリーロック
でライブでも定番の曲だ。

1994年の再結成ツアーではこの曲を歌いながらグレン・フライは「We Still Love 
Country Rock!」と叫んでいた。



訳してみようと思ったのだが、これが意味深でけっこう難解だ。
直訳では読み解けない。
こういう設定なのだろう、という聴き手側の想像力が問われる歌詞だ。

調べてみたら海外でも解釈が難しいらしく意見が分かれている。
単純に英語力の貧しさの問題ではなさそうだ。



テキーラ・サンライズとはテキーラ、オレンジジュース、グレナデンシロップの
カクテルだ。
甘く口当たりがいいがテキーラ・ベースなので調子に乗るといきなり腰にくる。

ここではカクテルのような色合いの朝日の隠喩で使われている。
どうやら友達の女と関係を持ってしまって、また朝帰りか〜という状況らしい。
甘く口当たりがいいけど何杯もあおるとえらい目にあう。確かに(笑)




Tequila Sunrise 

<Don Henley / Glenn Frey 訳:イエロードッグ>


It's another tequila sunrise Starin' slowly 'cross the sky said goodbye
He was just a hired hand Workin' on the dreams he planned to try
The days go by 
また夜明けだ ゆっくり空を見渡す 帰らなくちゃな 
あいつは一時の雇われの身 夢を叶えるために働いている 
毎日がただ過ぎて行くだけさ 

Every night when the sun goes down Just another lonely boy in town
And she's out runnin' 'round  
毎晩日が暮れると またどこかの寂しい男が街をうろつく
で、あの娘は浮気しに出かけるってわけだ

She wasn't just another woman And I couldn't keep from comin' on
It's been so long Oh and it's a hollow feelin' 
When It comes down to dealin' friends It never ends 
他所じゃちょっとお目にかかれない女だぜ だから俺も抑えられなくてね
けっこう長いんだ やれやれ 胸にぽっかり穴があいたような気分だよ
あいつら二人のどっちか選ぶことになるなんて この気分ずっとなんだぜ

Take another shot of courage Wonder why the right words never come
You just get numb 
あと少しだけ勇気があればなあ どうしてちゃんと言えないんだろう
萎えちゃうんだよな

It's another tequila sunrise,  this old world still looks the same
Another frame, mmm
また夜明けだ また同じこととの繰り返しだな シーンが違うだけでさ



It's another tequila sunrise 
「テキーラ・サンライズをもう一杯」という直訳がほとんどのようだ。 
前述のように情事開けの朝日の色の隠喩なので「また朝日が昇る時間に
なってしまった」という意味になる。
このanotherは「またいつもと同じ~(が始まった)」という意味だ。

Starin' slowly 'cross the sky said goodbye  
さよならと言ったのは自分なのか女なのか、それとも明るくなった空なのか?
主語がないので分からないが、アラン・ジャクソンのカヴァーを聴くと「I 
said goodbye」と歌っている。だから自分が言ってるのだろう。
https://youtu.be/PZY0weqZ9e4


He was just a hired hand 
ここで女の男のことが歌われる。ただの臨時の雇われ手。
ということは歌の主人公は雇い主なのだろうか?
アルバムが開拓時代をテーマにしてることも併せて考えると、牧場主とカウ
ボーイという設定も想像できる。

Just another lonely boy in town And she's out runnin' 'round
「孤独な少年が街に繰り出し女(娼婦?)は表に出てあてもなくうろつく」
という訳が多いようだ。
しかしanother lonely boyは自分のことではないかと思う。
冒頭のanother tequila sunriseと同じく毎晩繰り返してしまうのだ。
そしてsheは初めて語られる相手の女。つまり臨時労働者の彼女だ。
run aroundは「浮気する」「好ましくない相手とつきあう」という意味。
  

It's been so long 
「久しぶりだな」「昔のことさ」という使い方もあるが、前後の文脈から察
すると情事が始まってからかなり時間がたっていることを言っている。

Oh and it's a hollow feelin'  
昔の歌詞カードではBoy it's a ….になっていた。
Boy(おやおや)でも意味は通じるけど年配の人しか使わない言い方だ。
hollow feelingという表現がいい。(ボディーが空洞のギター=hollow body)

It comes down to dealin' friends 
ここが一番の難所。海外のサイトでもどう解釈するか論じられていた。
「友達と取引することになるなんて」と訳されてるのを見かけるが、deal
withではないことに注意。それからfriendsと一人ではないことにも注意。
dealには「カードを配る」という意味がある。
「カードを切るように親しい二人(雇われ者の彼とその女)を切り離して
優先順位をつけることになる」事態を嘆いているのだ。
これまた開拓時代という設定を考えるとうまい表現だと思うのだが。


Take another shot of courage 
テキーラ・サンライズのカクテルにかけている。

Another frame 
昔の歌詞カードではAnother friendになっていた。
ヒアリングが間違ってると意味がちぐはぐになってしまう。
frameはフィルムの一コマ。
この曲ではAnotherが何度も使われている。
t's another tequila sunrise、Just another lonely boy in town、
She wasn't just another woman、Take another shot of courage、
Another frame



さて、実はこの曲には別な歌詞も存在する。
ライブでは2回目のブリッジと最後のヴァースの歌詞が違うことが多い。
その時によって少しずつ変えているようだが、1973年当時のABCコンサート
では以下のように歌っている(たぶん)。


Guess I'll go to Mexico Down to where the pace of life is slow
And there's no one there I know 
メキシコにでも行っちゃおうか どっかのんびりできる所にさ
そこなら誰も知ってる奴はいないし

It's another tequila sunrise Wondering' if I'm growing wise 
Or telling lies 
また夜明けだ もっと利口になれたらなあ じゃなきゃ嘘をつくか




Eagles - Tequila Sunrise - ABC In Concert 1973



やっぱりこの曲は好きだな。
テキーラ・サンライズでも飲みたい気分だ。

素敵な音楽をいっぱい聴かせてくれたグレン・フライに哀悼の意を込めて。


※グレン・フライについてはまた改めて書きたいと思っています。

2016年1月18日月曜日

愛なき世界にいるつもりはない。

「A World Without Love(邦題:愛なき世界)」は1964年に英国の男性デュオ、
ピーター&ゴードン(1)のデビュー・シングルとして発売された曲である。
クレジットはレノン=マッカートニーだがポールが10代の頃単独で書いた曲だ。






ピーター・アッシャーの妹、ジェーン・アッシャーは当時ポール・マッカートニー
の恋人であり、ポールはアッシャー家に一緒に住んでいた。
その深〜い関係からポールが曲を提供することになったのだ。
持つべきものは妹。妹の七光りってか?(笑)


ジョンはこの曲をビートルズでやることを拒否した。
「僕を閉じ込めて(Please lock me away)という歌詞は笑える」と言っている。
「Please lock me away, Yes, okay!」と茶化しては喜んでいたようだ。

後のインタビューでは「あれはポールが昔書いた曲だ。ピーター・アンド・ガー
ファンクルとかいうグループ(いかにも軽く見てる)にあげたんじゃないかな」
と答えている。


ポールはビリー・J.クレーマー(2)にこの曲の提供を持ちかけるが断られる。
そこでピーター・アッシャーに相談されたポールはこの曲を聴かせた。
ピーターは歌わせて欲しいと言い、ブリッジ(サビ)を加えるようポールに頼む。
この時点ではこの曲はヴァース(Aメロ)しかなかったのだ。

当時ピーター・アッシャーがポールからもらったデモ音源が2013年に発見された。
確かにまだヴァース(Aメロ)だけでブリッジ(サビ)がない。





「A World Without Love」は全英シングルチャートでビートルズの「Can’t Buy  
Me Love」を1位から蹴落としそのまま2週連続で1位。
アメリカのBillboard Hot 100でも1位を獲得するという大ヒットになった。

ビートルズ以外の英国勢アーティスト(3)がシングルで全米1位を獲得したのも
これが初めてであった。
断ったビリー・J.クレーマーはさぞ悔しがったことであろう。


たとえジョンが嫌っていてもこの曲が極上のポップソングであるのは事実だ。
メロディの美しさもさることながらコード進行もこの曲の魅力である。

ではご一緒に♫


E                     G#            C#m
Please lock me away And don't allow the day
        E                    Am               E
Here inside, where I hide with my loneliness 
          F#m                                 B7                                 E       C  B7
I don't care what they say, I won't stay In a world without love

E                       G#           C#m
Birds sing out of tune And rain clouds hide the moon
      E              Am              E
I'm OK, here I stay with my loneliness 
          F#m                                  B7                                E       E7
I don't care what they say, I won't stay In a world without love

Am                                 E
So I wait, and in a while I will see my true love smile
Am                                  
She may come, I know not when 
F#                        C            B7           E
When she does, I'll lose So baby until then

             G#            C#m
Lock me away And don't allow the day
          E                   Am              E
Here inside, where I hide with my loneliness 
           F#m                                B7                                 E       C#7
I don't care what they say, I won't stay In a world without love
           F#m                                B7                                 E       C#7
I don't care what they say, I won't stay In a world without love

F#m            B7            E

                                        (World Without Love  Lennon-McCartney)



ヴァースの2小節目、awayでEからG# に入る所。
6小節目のhideのAm、ヴァースの終わりのE→C→B7が美しい。
care what they say, I won'tが2拍3連なのも効いている。

そしてブリッジ(サビ)のWhen she does, I'll loseのF#→C→B7→Eでヴァー
スに戻る所、エンディングのC#7も心憎い。


※検索するとコード譜がいくつか出てくるけどどれも間違ってます。
これが正しいですよ〜(きっぱり) (^_^)

2016年1月12日火曜日

星月夜。

「Vincent」は1972年に発表されたドン・マクリーンの曲である。
フィンセント・ファン・ゴッホの伝記に感銘を受けて書かれたという。
「Starry Starry Night」という歌詞はゴッホの代表作の一つ「星月夜(The Starry
Night)」に由来している。









この絵はゴッホがプロヴァンスのサン=レミの修道院の精神病院で療養中に描かれた。

ゴッホは「夜空の星をみているといつも夢見心地になる。なぜ夜空に輝く点に近づく
ことができないのか不思議に思う。僕らは死によって星へと到達するのだ」と言った。


手を伸ばせばつかめそうな星の光をゴッホは「高貴な光」と呼んだ。
「夜は昼よりずっと色彩豊かだ」とも語っている。
青と黄色。月も星も雲もぐるぐる渦巻く。

狂気とも言われたゴッホの目には夜の世界がこんなふうに美しく映っていたのだろう。







「Vincent」でマクリーンはこう歌いかける。

Now I understand, what you tried to say to me
And how you suffered for your sanity
And how you tried to set them free they would not listen
They did not know how, perhaps they'll listen now
今なら僕にもわかる あなたが何を伝えたかったか どんなに狂気で苦しんだか 
どれだけ人々を解き放とうと努力してたか 
みんな聞く耳を持たなかった 分からなかったんだ きっと今なら聞いてくれるさ


そして終盤にはこうも歌われる。

This world was never meant for one  as beautiful as you 
この世界はあなたのような美しい心の人には向いていなかった

ブライアン・ウィルソンが「I Just Wasn't Made for These Times」と歌った(1)
ことを思い出しちょっと悲しくなってしまう。



僕はドン・マクリーンの歌をリアルタイムで聴いていたわけではない。
この美しい曲を知ったきっかけは敬愛するチェット・アトキンスがカバーしていた
からである。
チェットの演奏の中でも僕にとっては「Vincent」は特別な一曲である。

チェット自身この曲はお気に入りのようで何回か録音し直している。(2)
ライブでも度々演奏している。

チェットはドロップDチューニング(キーはG)で開放弦の響きを活かしている。
終盤のハーモニクス奏法も美しい。







最後に作曲者のドン・マクリーンについて少しだけ説明しておこう。
日本ではあまり馴染みがないかもしれないが「アメリカン・パイ」は聴いたこと
がある人も多いのではないだろうか。

「アメリカン・パイ(American Pie)」は1971年に発表された彼の代表作だ。
ビルボード誌で4週間1位のヒットを記録した。


「So bye-bye, Miss American Pie」と繰返される親しみやすいメロディーと
「Miss American Pie」とか「Drove my Chevy to the levee」(シボレーを
運転して土手へ)というフレーズから脳天気な歌を想像してしまいそうだが、
歌詞の内容は複雑で意味深である。

この曲はバディ・ホリーが犠牲になった飛行機事故(3)を題材にしている。
曲中で繰り返される「音楽が死んだ日(The Day the Music Died)」は事故の
当日をさしている。
新聞配達のアルバイトをしていたマクリーンは記事でこの惨劇を知る。


飛行機の名前が「American Pie」だったという説があるがそれは違うようだ。
豊かではあるが退廃的でぼろぼろ崩れ始めたアメリカを指しているのだろうか。

歌詞は散文的で他の意味が重ねられた言葉がいっぱいある。
アメリカの当時の事情を知らないと読み解くのは難しいと思う。
'50~'60年代のヒット曲やアーティストを暗喩したフレーズも色々出てくる。(4)


8分36秒に及ぶ大作でシングル片面に収め切れずA面とB面に分けて収録された。
にもかかわらず全米のラジオ局のDJたちは両面すべてオンエアーした。
それは彼らがこの歌を「アメリカに聴いてもらいたかった」からだろう。

2016年1月8日金曜日

また一人ぼっち。やっぱりね。

「アリー my Love」(1)のシーズン1、22話「また独りぼっち(Alone 
Again)」は、結婚式の当日に教会で待ってたのに花婿が現れず深く傷
ついたという女性のエピソードだった。
その晩アリーが働く法律事務所の下にある行きつけのレストラン・バーで
はヴォンダ・シェパード(2)がこの曲を歌っていた。





Alone Again (Naturally)

 (Words and music: Gilbert O'Sullivan 対訳:イエロードッグ)


In a little while from now If I'm not feeling any less sour 
And climbing to the top Will throw myself off
In an effort to make it clear to whoever  
What it's like when you're shattered(3) 
あと少ししてこの辛い気持ちが消えなかっら どうするか決めたんだ
近くのビルの屋上まで上って身を投げてやるって
粉々になっちゃうってどんなことかみんなに分からせるためにね

Left standing in the lurch at a church Where people are saying, 
My God, that's tough She stood him up 
No point in us remaining We may as well go home
As I did on my own Alone again, naturally 
教会に置き去りにされて みんながこう言う
「ああ、大変」「花嫁にすっぽかされた」「残ってても意味ないな」 
「帰った方がよさそうだね」
まるで僕のせいみたい また一人ぼっち やっぱりね


To think that only yesterday I was cheerful, bright and gay 
Looking forward to who wouldn't do The role I was about to play
But as if to knock me down Reality came around 
And without so much as a mere touch Cut me into little pieces
思えばほんの昨日まで 僕は元気で明るく陽気にやってた
僕が演じようとしてる役割が奪い取られるなんて思いもしなかったよ
でもまるで僕を叩きのめすように 現実がやってきて
何の前触れもなく 僕をズタズタに切り裂いたのさ

Leaving me to doubt Talk about, God in His mercy
Oh, if he really does exist 
Why did he desert me In my hour of need
I truly am indeed Alone again, naturally
神とその慈悲について語る意味があるのか考えさせられるよ
ああ、神が本当にいるなら なぜ必要なときに僕を見捨てたの?
僕は本当に本当に また一人ぼっち やっぱりね


It seems to me that there are more hearts broken in the world 
that can't be mended Left unattended
What do we do What do we do
Alone again, naturally 
世界中にはもっと傷ついている人たちがいるんだろうね
癒されることもなく お置いてけぼりにされたまま
僕たちはどうしたらいいのかな どうしたらいいんだろう
また一人ぼっち やっぱりね



「Alone Again (Naturally) 」はアイルランド出身のシンガー・ソング
ライター、ギルバート・オサリバンの曲である。
1972年にリリースされアメリカ、英国、そして日本でもヒットした。
当時ラジオから流れる淡く切ないメロディーに心打たれた方も多いだろう。






実は歌詞の内容は、結婚式の当日に花嫁に逃げられてしまう青年が生まれ
つきの孤独を嘆き投身自殺を心に決める、という悲劇的な展開である。
歌詞の後半では孤独に苛まれて生きてきた青年の過去がが語られるが、
自伝的なストーリーではないとオサリバンは言っている。

「naturally」は「当然のことだ」と訳されてることが多い。
しかしこの「naturally」は「生まれた時から」という意味、つまり「どう
幸せになんてなれっこないんだ」というフィッツジェラルド的な人生への
悲観が込められているように思える。
なので「やっぱりね」と訳した。


何年か前に某生保会社のCMでこの曲が使われていた。
「当社は自殺にも対応します」というブラックジョークなのか?まさか!

こういうふうに歌詞の意味も知ろうとせずに耳当たりのいい曲を使いたがる
CMディレクター、タイアップでタダで曲をかけてもらうことしか考えてない
レコード会社のAOR(宣伝担当)がほとんどである。
また1986年に映画化された「めぞん一刻」の主題歌にもなっているが、
これも「何で?」と思ってしまう。


僕は考えすぎるのかな? また一人ぼっち やっぱりね。

2016年1月1日金曜日

ロックのミューズに捧げられた歌。

ロック界のミューズといえばパティ・ボイドである。

なにしろジョージ・ハリスンの妻で、彼の親友でもあるエリック・クラプトン
もまた彼女に恋焦がれ略奪婚までし、ジョン・レノンやミック・ジャガーも
惹かれていたというのだからかなり魅力的な女性だったようだ。
モデル出身で着こなしがうまくスゥインギング・ロンドンのアイコンのような
パティは同性からの人気も高かった。




パティ・ボイドほど名曲が生まれるきっかけになった女性はいないだろう。
ジョージの最高傑作と評される「Something」のインスピレーションをパティ
から得たこと(1)、クラプトンが彼女への思いを名曲「Layla」(2)に託したこと、
また結婚後に「Wonderful Tonight」を書いたことはあまりにも有名な話。

それだけではない。
ジョージのビートルズ時代の「For You Blue」、解散後の「Isn't It A Pity」も
パティのことを書いた曲らしい。
「Bell Bottom Blues」はクラプトンがパティにお揃いのベルボトム・ジーンズ
をプレゼントした直後に書いた曲(3)だとか。
1997年の「Old Love」も別れたパティへのひどい仕打ちを悔やんだ曲らしい。

東洋神秘学に関心があったパティは、ビートルズをマハリシ・ヨギと会わせ
るきっかけを作った。(4)
ホワイトアルバムの多くの曲がインド滞在中に書かれていることを考えると、
間接的ではあるがジョンとポールの曲作りにもパティは影響を与えている。






パティ・ボイド(Patricia Anne Boyd)はロンドンで美容院の見習していたが、
ファッション雑誌にスカウトされモデル業界に入った。
当初は「ウサギのような前歯はモデルにふさわしくない」とカメラマンたちに
受け入れられなかったが徐々に人気が出始めロンドン、ニューヨーク、パリで
活躍するようになり、1964年にはヴォーグ誌の表紙も飾っている。
2年後にモデルを始めたツイッギーはパティを参考にしたと発言している。

パティは1963年にスミスズ・クリスプスのポテトチップスのCMに抜擢される。
このCMの監督リチャード・レスターが翌年ビートルズの初主演映画「A Hard 
Day's Night」でメガホンを取ることになり、彼女に女学生役のエキストラが
回ってきた。この時パティは19歳。
ジョージが最初に彼女に言ったことばは「結婚しないか?」だったそうだ。



1968年クリーム解散前のクラプトンとジョージは親交を深め、互いのレコー
ディングにも参加するようになる。(5)
ジョージの自宅とクラプトンの自宅は同じサリー州で30分程度の距離にあり、
二人はよく互いの家を訪問し合う仲だった。

クラプトンはパティを「これまでに見た最高の美人であり完璧な女性」と、
また「欲しいものすべてを手にいれたジョージの妻だから欲しかった」とも
思ったそうだ。



1970年ビートルズが解散した頃クラプトンはパティに手紙攻勢をかける。
その夏ロバート・スティグウッド(6)自宅のパーティーで一人だったパティを
口説いてるところに迎えに来たジョージと遭遇。
クラプトンはジョージに白状。ジョージはパティを車に押し込み憤然と帰宅。

ジョージが3枚組の大作「All Things Must Pass」の制作(7)にかかりっきりで、
クラプトンはデレク&ドミノスを結成した直後だった。
この時期にジョージが書いたのがパティとの仲を示唆する荘厳で美しい曲
「Isn't It A Pity」であったこと、クラプトンがパティへの愛の苦悩を綴った
「Bell Bottom Blues」と「Layla」を書いたことは興味深い。




            George Harrison - Isn't It A Pity


         Derek And The Dominos - Bell Bottom Blues 




1973年頃にはジョージとパティの仲に亀裂が生じ始める。
当時のフライヤーパーク(自宅)にはハレ・クリシュナの一行始め絶えず他人
が住み着いていたそうだ。(8)
ジョージの宗教への加熱と性格の変貌が二人を遠ざけたと彼女は語っている。
またジョージはパティの目を盗んで様々な女性と情事を繰り返していた。(9)
決定的だったのは彼がリンゴの妻モーリンと関係をもったことだった。

薬物中毒を克服したクラプトンがマイアミ・ビーチで「461 Ocean Boulevard」
のレコーディングを終え米国ツアーをしていた時期にパティは彼の元へ。


この直後にリリースしたアルバム「Dark Horse」でジョージはエヴァリー・
ブラザーズの「Bye Bye Love」をカヴァー。
歌詞は「I hope she's happy and "old 'Clapper' too”」と変えられ、パティへの
未練とクラプトンへの皮肉が込められている。



            George Harrison - Bye Bye Love




再婚後のパティはクラプトンの女癖の悪さとアルコール中毒に振り回される。
彼女に度々暴力をふるっていたこともクラプトンは告白している。
クラプトンがイタリア女優ロリ・デル・サントを妊娠させ初の息子コナー(10)
の誕生を喜んだことが、子供ができないパティにとっては致命傷になった。

1987年クラプトンは彼を拒むパティを追い出す。彼女の誕生日だった。
2年後に離婚成立。



同年の12月、ジョージ・ハリスン日本公演。
クラプトンは自分のバンドとともにジョージのサポートに徹する。
ジョージをライブに出てみないかと誘ったのも、観客の質がいいから日本で
やろうと提案したのはクラプトンだ。
一人息子のコナーがNYの高層マンションから転落死し落ち込んでいたクラプ
トンをジョージが気遣ってのこととも言われている。

日本公演ではパティ由縁の「Something」「Isn't It A pity」が演奏された。
またジョージ追悼コンサートではこの2曲をクラプトンが歌った。



          Eric Clapton & Billy Preston - Isn't It A pity
   (後ろにいるのはジョージの息子ダニー。若かりし日のジョージそっくり!)